次に向かったのは、沖縄市のコザ十字路近くにある「銀天街」。
 かつて栄えたアーケードの付いた商店街で、沖縄訪問時には頻繁に利用するサンサン通り(国道330号)を走っていていつもアーケードの入口が目にとまるのですが、まだ歩いたことはなかったので、今回寄ってみたところ。

 R330を挟んで向かいにある沖縄海邦銀行の開放駐車場に停めさせてもらい、コザ十字路の信号を渡ります。
 コザ十字路はすっかり開発が進んで、かつての猥雑感はほぼ失われています。初めてここを訪れてから17~8年ぐらいしか経っていないのに、こんなに変わってしまうものなのかな。
 神谷幸市が主宰し、玉城一美もホームグラウンドとしている「民謡スナック花ぬ島」がまだ存在し、営業を続けていることが一筋の光明といえるでしょうか。

 で、銀天街。
 先に読んだ「沖縄 オトナの社会見学 R18」(仲村清司・藤井誠二・普久原朝充、亜紀書房、2016)によれば、
 「コザは、米軍基地によって人工的につくられた街で、この十字路に市が建ち並び、それが銀天街に統合されていったという経緯があり、それはそれは賑わっていた。1960年代には映画館も何軒もあり、華やかな街だったそうです。
 ・・・銀天街は、1951年4月、軍道24号線(現:国道330号線)と軍道13号線(現:国道329号線)の交差点にバラック小屋を建てて商売をはじめたことから市場に発展したそうです。その後、コザ十字路市場組合と隣にできた本町通り会が1976年に合併して銀天街と名付けていますね。しかし、例によっていまは寂れきっています。県道の拡幅工事もあり、銀天街自体も縮小されてしまった。」――とのこと。

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 コザ十字路から銀天街の入口までの数十メートルほどは、通りに面した古い建物が今風のアートなイラストでデコレートされており、巨大壁画のよう。これも活性化のための取り組みでしょう。
 テーマは琉球絵巻だそうで、琉球王朝時代から沖縄戦、アメリカ統治時代から復帰後の暮らしまで、時代を象徴するモチーフが明るいタッチで描かれています。

 その下の歩道が広くなったところに、イラストとともに次のような記載を含む説明板があったので、以下に引用しておきましょう。

1960年~70年代 コザの庶民文化の発展~そして未来へ~
地元に愛されるコザの台所
 黒人街だった照屋の地域は、同時にこの地域に住む庶民の台所としても、大きく発展していきます。銀天街商店街の前身である、十字路市場(1977年創立)と本町通り(1980年創立)が合併し、1978年にアーケードが整備されると、銀天街は最盛期を迎え、当時125軒の商店が軒を連ねていました。
 黒人街を近隣に据える銀天街は、外国人向けの飲食店や衣料品店が多く立ち並び、ペイデイ(給料日)ともなると、外国人の買い物客で夜中まで賑わっていたそうです。
 また、地元の台所としても発展していったこの街は、食材や日用品を買いに地元住民も多く往来し、特に旧暦のシチビ(節目・旧暦行事の日)にもなると、松風~まちかじ~、カタハランブーなどのご馳走を買い求めて全島から人が集まり、今でもその名残りがあります。

 昭和55年前後が最盛期だったのですね。
 今も「コザ十字路通り会」が機能しているようで、秋には「コザ十字路まつり」が開かれているということです。

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 で、そのアーケードの下を歩いてみると、ご覧のとおり。自分はこれを見て、ネーネーズのCD「明けもどろ~うない」(1997)のジャケットを思い出してしまう。(そちらのアーケードはここのものではありませんが)
  アーケードはあれども、商店がないのだな。空き店舗はNPOの事務所になっていたりしています。これってある意味、見事というしかありません。
 むしろ人が寄ってきそうなのは、この通りからさらに路地を入っていった迷路のようなところ。そこにある飲食店に何人かの人がいて、飲んだり話したりしている様子が伺えました。

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 銀天街の南側のアーケードが切れるところはこんな感じでした。

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 福祉施設にある碑をもうひとつ。それは、沖縄市胡屋の沖縄長寿センター「緑樹苑」の敷地内にあるという「山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑」です。
 先に今帰仁村謝名で「平良新助翁の像」と「ヒヤミカチ節歌碑」を見てきましたが、沖縄県民にとってこの歌は大切なものなのだろうなと、改めて思ったところ。
 事前情報によれば、「緑樹苑」は山内盛彬が1979年に入所した老人ホームで、碑は山内氏の生誕120年を記念して、2011年3月27日に除幕されたものだとのこと。

 沖縄市胡屋7丁目にあるという「緑樹苑」にたどり着くまではちょっぴり苦労。ナビがなければおそらく到達できなかったと思います。狭い道を行きつ戻りつして、ああここかと。苑の手前にあった来客駐車場にクルマを停めて歩いて行きます。
 苑内は広く、様々な福祉施設が並んでいます。おそらくこれらすべては緑樹苑の経営でしょう。
 緑樹苑? あれ、ここ、さっきの比屋根のケアハウスと同系列ってことか。ナルホドなあ。

 歌碑は、広い敷地の真ん中、樹木や植栽、いくつかの鉢植え、果ては石敢當まで配備されて、手入れが行き届いた形で建っていました。
 表面には「ひやみかち節」の歌詞のほか、その五線譜、山内盛彬の詠んだ琉歌で構成。
 五線譜の楽譜付きというのがユニークで、テンポ60のAnimato(元気よく、生き生きと)でうたうことまで付記されています。
 そして歌詞。

ひやみかち節
   作詞  1番 平良新助  2番3番 山内盛彬
   作曲  山内盛彬
 1 七轉び轉で ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ
 2 花や咲き美さ 音楽や鳴り美さ 聴かさなや世界に 音楽の手並
 3 我身や虎だいもの 羽つけて給ぶれ 波路パシフィック 渡て見やべら

 さらに氏の琉歌。
  「滅びいく文化 忍で忍ばれめ もちと命かきて 譜文に遺くさ」
   (山内盛彬翁80才詠・自筆)
 歌意は、「滅んで無くなる文化は忍ぶだけでは忍ぎきれない。自分の持てるものすべてと命を賭けて譜面として残したい」というところでしょうか。

 碑の裏面には、次のような説明が記されており、建立に至った経緯や山内盛彬の人となりについて理解をしたところです。

 コザ市名誉市民の山内盛彬翁は齢90にして妻ツルとともに昭和54年に開設した緑樹苑に1番目に入居された。1年8カ月間の苑生活を過ごされるなかで、行事の折々には王府おもろ等の古謡を謡い、利用者和睦につとめられた。
 また、過酷な歴史に翻弄された郷土を琉球禮楽によって復興するという崇高な使命感に駆られ、その旺盛な琉球音楽研究伝承活動は多くの人々に希望と勇気を与えた。
 時あたかも本年は、翁の生誕120年の寅年にあたり、奇しくも翁の作りし「ひやみかち節」響む甲子園で春夏連覇が成し遂げられた。まさに紫紺と深紅の優勝旗が波路パシフィックを渡ったのである。
 よって翁の遺徳を偲ぶ歌碑を建立する。
  山内盛彬歌碑建立実行委員会  委員長 安仁屋眞昭
  社会福祉法人緑樹会  理事長 金城和昌


 甲子園の春夏連覇とひやみかち節を関係づけたあたりがこの碑の真骨頂でしょう。

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 沖縄市比屋根(ひやごん)にある社会福祉法人緑樹会の「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の敷地内に「てぃんさぐぬ花歌碑」があるというので見に行きました。
 事前情報では、施設敷地の角地に碑があり、2014年3月に除幕式が行われたとのこと。

 住所をナビに設定して行ってみるとその場所は、R329の比屋根交差点から県道85号を泡瀬方面へ進み、道路の右手、「居酒屋味自慢」の黄色い看板(これは目立つ!)があるあたり。
 その施設は3階建ての大きなもので、敷地の北西角地に碑がありました。

  てんしやごの花や 爪先に染めて 親の寄せ言や 肝に染めれ

 ――と、見事な草書体で刻されています。
 しかし、町の中にあるケアハウスの前で碑の写真を撮っている人間というのは、全体の風景の中でかなり異質な印象。おれは介護施設と居酒屋との狭間で何をやっているのだろうという自己嫌悪を感じます。まあ、でも続行するからこそ自分なワケで。

 碑の左脇にあった説明書きには、次のとおり。

 この歌碑の琉歌は、読人知らずで琉歌特有の表記を施されている。詠み、謡うなど音声を施す場合は、「てぃんさぐぬはなや ちみさちにすみてぃ うやぬゆしぐとぅや ちむにすみり」となる。
 てんしやごとは、鳳仙花のことで、本来の花の色は赤だが、現在は白、ピンク、紫のものがあり、また、赤や紫と白の絞り咲きもある。爪に染めるので爪くれないという名もある。
 果実は、熟すと果皮の内外の細胞の膨圧の差によって弾性の力を蓄積し、弾けて種を遠くに飛ばす性質がある。
 歌の意味は「鳳仙花の花は爪先に染めて、親の教えは心に染めれ」である。
 沖縄の民でこの歌を知らない人はいない。
 親の教えとは、人の道である。
 人の道とは、弱い人を助けて、自立して歩む道である。
 民は「孝順父母」のこころを「てぃんさぐぬ花」として結実させ、礼楽の極みとした。
 そのたおたおとした旋律は、すべての人の唇に乗り、歌い継がれ、血肉化し、はたして国土の悠久の魂に昇華したのである。
 社会福祉法人緑樹会は、「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の落成を記念し、この琉歌を茲に刻する。


 「人の道とは、弱い人を助けて、自立して歩む道」あたりが福祉的でいいですね。
 この碑はケアハウスの落成記念につくられたものでした。
 見事な草書体は、川上秀苑という書家によるものです。

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 内間御殿に来るのは2回目。1回目のときは単に御殿を見に来ただけだったので、サワフジの木などは眼中にありませんでした。旅なんて、そんなものですよ。知れは知るほど見たくなるものです。
 で、今回も敷地を囲む石垣に沿って駐車させてもらい、前回同様、子どもたちの遊ぶ声を聞きながら御殿へ。あいにく石垣調査中で、敷地内にフェンスが立てられ手前と奥が分断されています。
 入り口に写真や絵地図の入った「内間御殿の概要」と「内間御殿整備の歴史」のふたつのコンクリづくりの案内板があったので、日本語テキスト部分を以下に移記しておきます。



内間御殿の概要
 内間御殿(うちまウドゥン)は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金丸(のちの尚円王)の旧宅跡地に創建された神殿(東殿)を中心とする祭祀施設です。
 1454(景秦5)年 、尚泰久が王位に即位すると、金丸は内間の領主となりますが、それから王位につくまでの15年間この地に住んでいたと考えられています。尚円王は即位から7年後の1476(成化12)年に亡くなりますが、その後約190年経った1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられました。これが内間御殿の整備の始まりとなります。その後は、幾度かの改修工事を経て琉球王国の国家的聖地として整備されました。
 内間御殿は、国家的祭祀だけでなく、地域や村落の祭祀を執り行う場所としても利用されてきたことから、幾つもの信仰に支えられた神殿であったことが窺えます。
 このように内間御殿は、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡として、2011(平成23)年2月に国の史跡に指定されました。

内間御殿整備の歴史
 内間御殿の整備は、尚円王没後約190年を経た1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられたことから始まります。
 1679(康煕18)年東殿の周囲を竹牆(ちくしょう、竹垣)としましたが、1689(康煕28)年に東殿が破損したため樫木で改修し、瓦屋根に葺き替え、村人を看守につけました。
 続いて1706(康煕45)年には、西原間切に住む人々が資金を出し合い、東殿の北側に茅葺の西殿(西江御殿)を建てたところ、王府はこれを関連施設として追認し、看守(御殿守)を配しました。
 ところが1735(雍生13)年、東殿に賊が入り、宝枕が盗難に遭ったのをきっかけとして、管理の強化が図られることとなります。1737(乾隆2)年には、西殿が瓦葺に改められ、周囲に竹牆が備えられました。1738(乾隆3)年には東殿の屋敷囲いを竹牆から石牆へと改造し、本門と脇門を設けました。また、改修の経緯を刻んだ先王旧宅碑記を中庭に建て、本門の軒には尚敬王の自筆の扁額を掲げました。この改修により最も重厚な姿となりました。
 両御殿は、その後の沖縄戦で焼失しましたが、石牆や先王旧宅碑記の台座などは残っています。戦後の1951(昭和26)年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東殿跡にトタン葺に改築。1974(昭和49)年には、東殿が大屋の当主中山正雄氏によって、トタン葺の神屋から、現在のブロック造りの神屋(2間×2間半)に改修されました。
 今後の整備については、戦前に撮影された写真を中心とする資料や、発掘調査の成果を基に復原・整備を行っていきます。

 1666年に東殿、1706年に西殿がつくられ、フェンスははじめはなかったのが、その後竹、石へと変わっていったことがわかります。戦後の御殿はトタン葺だったというのも逸話の一つでしょう。

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 そして、肝心のサワフジの木がこれ。
 木のそばには平成26年3月に西原町教育委員会が建てた「町指定天然記念物 内間御殿のサワフジ(サガリバナ)」の説明書きがあり、「地元では、その花の形状が“鳩目銭をぶら下げているのに似ている”ことから、“銭掛け木(ジンカキーギー)”とも呼ばれています。2012(平成24)年5月8日に、西原町の天然記念物に指定されました。」との記載がありました。
 ん? でも、樹齢400年とは書かれていなかったな。

 これにて西原町は終わり。次は沖縄市の泡瀬方面へ。沖縄市で歌碑を2つ見ます。


 で、「サワフジの詩」歌碑。
 「比嘉春潮顕彰碑」が図書館の建物の左手(西側)にあるのに対し、こちらのほうはそれの南側、道路に近い敷地の南西角地に建っていました。

 こういう碑があると知ったのは、沖縄タイムスの次のような記事でした。

西原町でお披露目(沖縄タイムス 2015年7月25日)
 内間御殿にある樹齢約400年のサワフジに命や平和の尊さを託して歌った「サワフジの詩(うた)」の歌碑が、このほど西原町立図書館に完成し、17日に除幕式があった。
 昨年9月に歌碑建立期成会(波平常則会長)を立ち上げ、同年11月のチャリティーコンサートなどで計180万円を集めた。
 「サワフジの詩」は1997年、町嘉手苅出身で元沖教組委員長として復帰運動にも取り組んだ故平敷静男さんが作詞し、石川静枝さんが曲を付けた。
 平敷さんの長男の好宏さんは「家族として誇らしく、うれしいです。オヤジは何て幸せなんだろう」と頭を下げた。
 「サワフジの詩」は、若柳喜之介日舞教室の新川愛子さんが日舞にしたほか、手話ダンスサークル「月桃」で大城洋子さんが振り付けを教えている。

 ――ということで、「サワフジの詩」は知らなかったのですが、1997年につくられた比較的新しいものなのですね。
 林美伶という台湾出身の歌手が歌いCD化されているとのことです。

 碑のほうは、先の比嘉春潮顕彰碑と同じような白っぽい石にそのまま詩が刻されています。
 その内容は次のとおり。

サワフジの詩   作詞 平敷静男  作曲 石川静枝
  夜露に咲いたサワフジが  内間御殿の夕まぐれ
  香りほんのりかぐわしく  寄っておいでと呼んでいる
    戦もしのぎよみがえる  命の尊さかみしめて
    平和をねがうサワフジの  姿うないの心意気
  夜のしじまのその中で  清らにさけるサワフジの
  明日に夢見るあですがた  うないの姿を写しみる
    けだかく白きサワフジは  文教の町西原の
    永久(とわ)の栄えを招く花  実(げに)もろびとの愛の花

 七五調で、用語もヤマト風。ウチナーグチっぽいのは「うない」(女性の兄弟、姉・妹の意)ぐらいでしょうか。
 碑の裏には、「この歌碑は、故平敷静男氏の「サワフジの詩」に込められた平和の心を顕彰するために建立する」との記載があり、2015年7月吉日の建立です。
 揮毫者の新川善一郎は、西原町文化協会会長。

 ところで「サワフジ」って何かわかります? これ、「サガリバナ」のことなのです。おれは知らなかった。
 サガリバナは、日本では奄美大島以南に自生する常緑高木で、マングローブの後背地や川沿いの湿地に生育します。総状花序が垂れ下がり、花は横向きにつく。開花時期は6月後半から真夏まで。たった一夜だけ咲き、芳香を放って、夜明けとともに散ってしまうので、「幻の花」といわれる。花弁は白または淡紅色で4枚あり、おしべは多数。――とのことです。

 「サワフジの詩」が「内間御殿にある樹齢約400年のサワフジ」を歌ったものと知れば、内間御殿にも行ってみたくなるのが人情というもので。
 町立図書館からはすぐ近くだし、寄ってみることにしましょう。


 次は、西原町へ。「サワフジの碑」があるという西原町立図書館を目指します。
 図書館に着いてまず目に入ったのは別の碑でした。ん?
 それは「比嘉春潮顕彰碑」でした。おお、比嘉春潮。

 比嘉春潮(1883~1977)は、沖縄郷土史家であり歴史学者。沖縄県庁職員を経て、1923年に上京、改造社の編集部に勤めながら、沖縄学の第一人者だった伊波普猷の影響を受けて沖縄研究を始め、また、柳田國男らをメンバーとする南島談話会に加わって民俗研究に取り組んだ人です。
 比嘉についてはかつて「比嘉春潮 ~沖縄の歳月 自伝的回想から」(比嘉春潮著、日本図書センター、1997)を読んでいるので、ある程度は知っているつもりです。
 また、伊波普猷関連の書物を読むと、この人が頻繁に登場します。東京大空襲後、自宅を焼け出された伊波が、比嘉の自宅に身を寄せて生活していた時期があったからです。

 その彼の顕彰碑がここにあるとは知りませんでした。
 きれいに刈り込まれた植栽が配された中に、半円形の形をした白っぽい色の石に「ふるさとを愛した篤学・反骨の研究者 比嘉春潮顕彰碑」と彫り込まれ、その下部に黒石の説明板が嵌め込まれ、日本語と英語の文章が刻まれていました。
 まず、管理がとてもよさそうです。
 そして、これまでいろいろな碑を見てきましたが、柔らかめの石に直接彫り込むのならば、風化によって字が読めなくならないよう大きな字を刻するべきだし、また、多くの文字を記したいのであれば、堅い石を埋め込んでそれに記したほうがいいと思ってきたところで、そういう意味では、この碑のつくりはとてもいいと思います。

 下部の説明文(日本語部分)は、次のとおり。

比嘉春潮顕彰碑
 比嘉春潮は、沖縄の歴史や民俗の研究に大きな足跡をのこした偉大な研究者です。
 1883年、西原間切(現西原町)翁長で生まれました。沖縄県師範学校を出て小学校長、県庁の役人、新聞記者をしたあと41歳のとき、上京。その間、伊波普猷と出会って沖縄歴史への関心を深め、東京では柳田国男のもとで民俗研究に励んで「翁長旧事談」をはじめ郷里西原関係の研究も数多く発表しました。
 敗戦後は、在京の伊波普猷、仲原善忠らと共に沖縄人連盟の設立、沖縄文化協会の創設にかかわり、郷土沖縄の復興支援と沖縄研究の基礎づくりに尽力するとともに、自らも農村経済史や文献研究で優れた業績をのこしました。
 温厚篤実な人柄と謙虚な研究姿勢は多くの人から深く敬愛される一方で、権力におもねることのない硬骨の研究者としても知られ、主著「沖縄の歴史」は、庶民の側から書かれた初めての歴史書として高く評価されています。1977年逝去、享年94歳。
 ここにふるさとを愛した篤学・反骨の研究者・比嘉春潮の遺徳を称え、功績を後世に伝えるためにこの碑を建立します。
  2006年3月31日  比嘉春潮顕彰碑建立期成会

 碑の裏面の記載により、期成会が起工し町に寄贈されたこと、2014年2月10日に改造・移設されたことがわかります。移設とは、どこから移設したのだろうな。
 なお、揮毫者の豊平峰雲は、1942年石垣市新川生まれ、93年沖縄タイムス芸術選賞の大賞受賞、2007年には沖縄県文化功労賞を受賞した人。