旅の最終日の2月11日。午後2時25分発のフライトまで時間がある。
 この日は朝から雨の心配がないようだ。よーしよーし。では、時間まで目いっぱい歩くか。

 まずは、浦添の、沖縄戦における最大の激戦地の一つである「前田高地」を攻めたい。
 現在では沖縄学の第一人者と言っていい外間守善という人がいる。この人が、若い頃、不幸にもこの高地をめぐる血で血を洗う争奪戦に参加し、最近そのことについて“戦後60年目の証言”として回顧録を出版した。これを読んで、その地が今どうなってオルのか――ということについて、ぜひ自分の目で確かめてみたくなったのだ。

 ゆいレールで終点の首里まで行き、首里汀良(てぃら)町から石嶺入口へと続く北に伸びる一本道を歩き、石嶺入口からさらに宜野湾南風原線(県道241号)を西へと進む。旧名でいうと宜野湾街道。その名称が、件の回顧録に何回も登場していた。この長い道程を、街の風情や地形などを眺めながらタラタラと歩く。これまた楽し、である。こんなこと、歩くことが嫌いなウチナーンチュは絶対にやらないのだろうな。

 山がちだった道をしばらく歩くと、前方の視界が開けてきた。西原入口の十字路だ。そのまましばらく行った所で、前田入口のバス停付近から北西方向、浦添市の当山方面へと進み、鏡が丘養護学校の南面あたりに達すると、おお、前田高地の象徴である為朝岩が見えてきた!
 この岩、当時の米軍の戦略地図では「Needle Rock」と記載されている。奇岩なので一目でわかる。

 しかし、その近くに達するべく歩を進めていくと・・・。
 かつて米軍精鋭がよじ登っては撃退された為朝岩北側の急斜面一帯は、ディベロッパーが大規模な開発を行い、岩のすぐ近くまでほぼ全面が巨大な霊園と化していたのだった。墓の多くがまだ新しいことから察するに、造成されたのはつい最近のことなのではないか。



 正直言って、なんじゃこりゃである。灰色一色となってしまった斜面を見て、しばしボーゼン。
 激戦地だからという理由でその場を保全しておこうというようなデリカシーは、今の世には存在しないのだろう。若しくは、暗い過去など早く忘れたほうがいいということか。
 戦後60年。世の中は着実に変わっていくのだなあ・・・。

 折しも上空では、低高度でたくさんの米軍輸送機がひっきりなしに普天間飛行場へと着陸していく。全部で何十機あっただろうか。
 あの重低音の唸りのような爆音は、戦争を経験した人ならトラウマになっている音だろう。これを連日、何十回も聴かされれば、さぞ精神衛生上よくないのだろうな。

 前田高地を死守しようとした日本側大隊は、山形県、沖縄県、北海道の出身者で構成され、600人の戦死者を出したという。
 この近くのどこかに彼らを祀った「前田高地平和の碑」があるはずなのだが、これについては、今回は発見できずに終わった。いつか訪れて、手を合わせたい場所である。
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