私は「私」のことを書きたいといつも思う。けれど書かれた「私」はナマ身のこの私とは別モノにならざるを得ない。また、「沖縄」と「私」というようなことを書いていっても「沖縄」と「私」の間には深いミゾが横たわっている。俗にいう男と女の間のように。――という、崎山多美の第二エッセイ集。

 砂子屋書房からの発行。砂子屋書房は歌集・詩集を中心に出版・販売している東京都千代田区内神田の出版社。かつてとある短歌文学賞の事務局をしていたときに、多くの歌集の発売元としてよく耳にしたものです。

 読んでいて、著者の本業が予備校教師であること、中学の頃はコザでやんちゃしていたこと、一度コザを離れたものの著作当時にはコザ界隈に住んでいること、沖縄の芸能に造詣が深いこと、などがわかります。
 組踊に関して、著名な立方である瀬底正憲や宮城能鳳に対する批判は強烈で、慣れから驕りがきていると一刀両断にしています。

 ちょっと深呼吸、コトバの小箱、コトバ・言葉・ことば、シマ・生活・老人・子供、ブック・レビューの5章立て。
 ブック・レビューでは、既読の大城立裕「水の盛装」、目取真俊「魂込め」のほか、目取真俊の「盆帰り」その他の短編、岩森道子「石の里」、小浜清志作「後生橋」なども。

 ここで、先に読んだ「沖縄への短い帰還」(池澤夏樹著、ボーダーインク、2016)に崎山著「ゆらてぃく ゆりてぃく」の書評が載っていたので、その一部を以下に抜粋しておきます。

 小説は書かれるものと語られるものから成る。書かれるものは史ないし誌である。語られるのは話。書かれる方はどこか公式で、作者がことのすべてを知っているという前提の上に立っている。語られる方は一人の語り手を想定する。
 沖縄の作家崎山多美の「ゆらてぃく ゆりてぃく」を読むとこの二つの関係がよくわかる。一方ではこれは保多良島という架空の、しかし沖縄のどの離島でもありうる島の、島史ないし島誌となっている。作者は相当にファンタスティックな島の歴史や民俗誌をしたり顔で書き連ねる。他方には、島に住む者たちの独り語りによって主観的に提示される話がある。独り語りではあるが、合いの手を入れる聞き手はいる。
 どちらの記述も現在については薄く、過去が圧倒的に濃い。現在にはただ過去を整理し展示する場としての意味しかない。すべてはすでに終わっている。
 沖縄という土地の精神性を最も正確に小説の形で表現しようという意図が、こういう作品を生む。ヤマト(日本本土)の読者にわかりやすいようにという配慮を捨てて、沖縄の本性を歪めることなく書く。わかりやすいストーリーを望むことはできない。なぜならば、それよりもずっと大事なものがあるから。
 この小説で沖縄の言葉が多用されるのは当然で、それが読者を限定するのはしかたのないことだ。
 話は「ありんかん、くりんかい」(あちらへこちらへ)ふらふらと揺れながら進み、やがて物語ぜんたいが見えてくる。・・・
 濃厚な過去がかつてあった。今はない。この島ではしばらく前から子供が生まれず、島社会の消滅は目に見えている。この話ぜんたいが強い喪失感に包まれ、哀切の情が漂っている。そういう沖縄が小説として表現される。
 「後(ヌチ)ぬ事や、ヌーん心配(シワ)しみそーらんぐと、彼方(アマ)かいや、心安(ククルやし)やしーと行ちみそーリヨー」(後のことは何も心配しないで、あちらに心安らかに行ってくだされよ)という葬式の挨拶は、沖縄の精神性そのものに捧げられた弔辞のように思われる。

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