内間御殿に来るのは2回目。1回目のときは単に御殿を見に来ただけだったので、サワフジの木などは眼中にありませんでした。旅なんて、そんなものですよ。知れは知るほど見たくなるものです。
 で、今回も敷地を囲む石垣に沿って駐車させてもらい、前回同様、子どもたちの遊ぶ声を聞きながら御殿へ。あいにく石垣調査中で、敷地内にフェンスが立てられ手前と奥が分断されています。
 入り口に写真や絵地図の入った「内間御殿の概要」と「内間御殿整備の歴史」のふたつのコンクリづくりの案内板があったので、日本語テキスト部分を以下に移記しておきます。



内間御殿の概要
 内間御殿(うちまウドゥン)は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金丸(のちの尚円王)の旧宅跡地に創建された神殿(東殿)を中心とする祭祀施設です。
 1454(景秦5)年 、尚泰久が王位に即位すると、金丸は内間の領主となりますが、それから王位につくまでの15年間この地に住んでいたと考えられています。尚円王は即位から7年後の1476(成化12)年に亡くなりますが、その後約190年経った1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられました。これが内間御殿の整備の始まりとなります。その後は、幾度かの改修工事を経て琉球王国の国家的聖地として整備されました。
 内間御殿は、国家的祭祀だけでなく、地域や村落の祭祀を執り行う場所としても利用されてきたことから、幾つもの信仰に支えられた神殿であったことが窺えます。
 このように内間御殿は、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡として、2011(平成23)年2月に国の史跡に指定されました。

内間御殿整備の歴史
 内間御殿の整備は、尚円王没後約190年を経た1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられたことから始まります。
 1679(康煕18)年東殿の周囲を竹牆(ちくしょう、竹垣)としましたが、1689(康煕28)年に東殿が破損したため樫木で改修し、瓦屋根に葺き替え、村人を看守につけました。
 続いて1706(康煕45)年には、西原間切に住む人々が資金を出し合い、東殿の北側に茅葺の西殿(西江御殿)を建てたところ、王府はこれを関連施設として追認し、看守(御殿守)を配しました。
 ところが1735(雍生13)年、東殿に賊が入り、宝枕が盗難に遭ったのをきっかけとして、管理の強化が図られることとなります。1737(乾隆2)年には、西殿が瓦葺に改められ、周囲に竹牆が備えられました。1738(乾隆3)年には東殿の屋敷囲いを竹牆から石牆へと改造し、本門と脇門を設けました。また、改修の経緯を刻んだ先王旧宅碑記を中庭に建て、本門の軒には尚敬王の自筆の扁額を掲げました。この改修により最も重厚な姿となりました。
 両御殿は、その後の沖縄戦で焼失しましたが、石牆や先王旧宅碑記の台座などは残っています。戦後の1951(昭和26)年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東殿跡にトタン葺に改築。1974(昭和49)年には、東殿が大屋の当主中山正雄氏によって、トタン葺の神屋から、現在のブロック造りの神屋(2間×2間半)に改修されました。
 今後の整備については、戦前に撮影された写真を中心とする資料や、発掘調査の成果を基に復原・整備を行っていきます。

 1666年に東殿、1706年に西殿がつくられ、フェンスははじめはなかったのが、その後竹、石へと変わっていったことがわかります。戦後の御殿はトタン葺だったというのも逸話の一つでしょう。

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 そして、肝心のサワフジの木がこれ。
 木のそばには平成26年3月に西原町教育委員会が建てた「町指定天然記念物 内間御殿のサワフジ(サガリバナ)」の説明書きがあり、「地元では、その花の形状が“鳩目銭をぶら下げているのに似ている”ことから、“銭掛け木(ジンカキーギー)”とも呼ばれています。2012(平成24)年5月8日に、西原町の天然記念物に指定されました。」との記載がありました。
 ん? でも、樹齢400年とは書かれていなかったな。

 これにて西原町は終わり。次は沖縄市の泡瀬方面へ。沖縄市で歌碑を2つ見ます。
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