島田叡に関するもっとすごい碑が、「兵庫・沖縄友愛グラウンドの碑」の近くにありました。ははあ、こっちがメインでしょうね。
 「第27代沖縄縣知事 島田叡氏顕彰碑」の標柱が建っていて、トップにステンレスの球体を冠したモニュメントがどんと建てられ、その四方に説明板が配されているといった、立派なものです。
 正面にある説明板には、島田の顔写真入りで次のように記されていました。

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代縣知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、5か月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日  島田叡氏事跡顕彰期成会  会長 嘉数昇明
《碑の構想》
 祈り(合掌)、命(命どぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)


 これの建立も2015年6月。
 島田の顕彰碑がここに建っているのは、島田が愛した「野球」つながりで、沖縄県の野球の聖地である奥武山公園だからだということです。
 また、モニュメントのコンセプトもしっかり記されているのはたいしたもの。
 なお、碑を建立した「事跡顕彰期成会」は、県高野連、県野球連盟などの野球関係者が多く含まれているようで、会長の嘉数昇明氏は、母は沖縄女子短期大学の創設者、那覇青年会議所理事長や県議会議員を経て、稲嶺県政時代の副知事だった人のようです。

 ほか、3方にある碑の内容は、順不同で次のとおり。

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(「史記」李斯列伝より)
 “断じて行えば鬼神もこれを避く”
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」(沖縄赴任に携行した愛蔵書)
「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや。誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
 「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか・・・という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地となること必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)
「極限の沖縄戦のなかで「生きろ!」」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ・・・。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。
「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
  ふるさとの いや果てみんと 摩文仁岳の
  巌に立ちし 島守のかみ   (詠人 仲宗根政善)
南へ(摩文仁・沖縄県)
  このグラウンド このユーカリプタス
  みな目の底に 心の中に収めて
  島田叡は沖縄に赴いた
  1945年6月下浣
  摩文仁岳近くで かれもこれも砕け散った   (詠人 竹中郁)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまで全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは生涯、それを実行した」(三高野球部球友の回想)
「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部)、東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大3年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還をめざした。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。
「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に・・・島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和39年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。
「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の1年後輩で、野球部で2年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を記念につけてもらえないだろうか」

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