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 一方の「赤木名観音堂の碑」。
 赤木名観音堂については、マリカミズキ(吉原まりか&中村瑞希)が ♪赤木名観音堂~ とうたうのをオムニバスCDの「アマミシマウタ」(2002)で聴いて、どんなところなのだろうと興味がありました。きっと立派な観音堂があるのだろうなと。
 しかし、観音堂らしきものはないですね。

 碑文自体は非常に古いために読み取れませんが、手前に石製の解説文があったのでそれを引用。

赤木名観音堂
 赤木名観音堂は延宝3年(1675年)に建立され、文政2年(1819年)伊津部に移転するまでおおよそ144年間、この地に士民教化の殿堂としてその偉容を誇っていた。
 この碑は観音堂開山時の住職の墓碑である。和尚は開山のとき来島その労にしたがい、元禄3年(1690年)まで15年間、そのすぐれた禅学の道で士民の教化にはげみ、この地で天寿を終えたのである。
 開山300年を記念し墓碑を再建、はるか南海の孤島の士民の信教に殉じた遺徳を顕彰する。
  昭和51年10月吉日  笠利町長 朝山玄蔵

 ふーん、この碑は観音堂の初代住職の墓なのですね。その名前は何ていうヒトなのだろうな。
 この碑文によれば、観音堂は今から200年ほど前に名瀬の伊津部に移転とされています。

 「大奄美史」によれば、大島では旧藩時代には笠利間切赤木名に補陀山観音寺があり、そのことは民謡「赤木名観音堂」で広く知られる。鹿児島県福昌寺の末寺で、開基年暦や開山僧の名は伝わっていない。はじめ名瀬間切大熊村にあったが、二度も火災に遭ったため、後に赤木名に移り、さらに文化の頃(1804~1818)に名瀬村伊津部に移ったと伝えられる。とのこと――。

 碑によれば、当時仏教は広く島民に普及していたわけではなく、「士民」の教化の殿堂だったのでしょう。
 では現在、観音堂は名瀬の伊津部にあるのではないかと調べてみましたが、薩摩藩における明治初期の廃仏稀釈は他藩より徹底して行われ、観音寺は破壊されたとのことです。
 つまりは、民謡「赤木名観音堂」だけが残ったという不思議。奄美のシマウタは奥が深いよなぁ。
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