『沖縄の終戦は、1945年8月の、天皇の玉音放送よりも早い。3月、米軍の沖縄上陸と各地への進攻とともに、本土に先んじて沖縄での日本軍は敗北する。それを目の当たりにした沖縄の住民は、もはや玉音放送を待たずして、言葉なくしてその結末を悟っていた。
 上陸後の米軍は、その沖縄で、住民を隔離・保護するために、収容地点を構築したのだった。それが、日本軍の捕虜とは別の、「民間人収容所」と呼ばれるものだった。沖縄では期間の長短はあれ、終戦前後の一時期、ほぼすべての住民が我が家、我が村を離れ、この鉄条網で隔離された場所で暮らした。沖縄北部の名護市、羽地・田井等地区は、米軍上陸後、もっとも早い段階でその収容所が設置された場所として伝えられていた。
 その地区の小学校の校長をして「収容所のことを覚えている者がいない」と言わしめる不可解さは、のちに私自身が身を持って体験することになる。それもむべなるかな、本土からきた「やまとんちゅ」と呼ばれるよそ者でなかろうとも、近くて遠い話になりつつあったのは間違いなかったのだから。』 ――「プロローグ」から。

 戦後の沖縄は収容所から始まったわけですが、そう言われてみるとたしかに、当時の収容所の様子をつまびらかにした書物は少ないような気がします。
 そのあたりを著者は、さまざまな人たちからの聞き書きや、時にはアメリカの図書館等の資料の物色までして、ジグソーパズルを組み立てるようにして、当時の片鱗を見出そうとしています。

 収容所というと沖縄本島のそればかりを連想していましたが、遠くはサイパン、テニアン、現在のフィリピン領の島々まで収容所の痕跡を探しに行ったりしていて、その行動力に感服されられました。

 全5章で、「太平洋の収容所」、「カンパンの村」、「もうひとつの特殊部隊」、「それぞれのバックナー日記」、「涙の道」。

 『「収容所」をまたぎ、人々が何を見、何を得、そして何を感じたのか。意外にもその現実の記憶は、そのほとんどが我が子我が孫にさえ語られざるまま、果てしない時間の彼方に霧消し続けている。』
 ――と著者は「エピローグ」で嘆いています。

 そして最後の「謝辞」では、我が子に対して語る部分が意味深。
 『残念ですが、父さんはもう駄目です。どうやら、すべてが限界のようです。・・・父さんはこれを以って新しい人生を歩みます。』と。
 このようにすばらしいルポルタージュをものするまだ30代の気鋭に、いったい何があったというのでしょうか。・・・心配です。
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