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 沖縄戦の末期、慶良間諸島で何があったのか?! それを知る上でぜひとも読んでおかなければならない1冊だと考え、1973年初出の文献を、1992年発行の文庫版で、2017年に読みました。44年後、ですか。

 「沖縄戦史の「神話的悪人」として記録される赤松大尉。太平洋戦争末期、彼は渡嘉敷島の村民から食糧を強制的に徴発し、さらに三百数十名の住民に集団自決を命じた、とされる。果たしてそうした事実は本当に存在したのか? 極限的状況に立たされた「人間」とは一体何なのか? ――本書では、膨大な資料と現地踏査、そして真実をあくまでも理性的に追究しようとする著者の真摯な思いが、惨劇の核心を白日の下にさらしていく。迫真の長編ノンフィクション。」(裏表紙から)

 ――というのですが、この著書によって歴史の真相はどんどんわかりづらくなっていったというのが実態なのではないでしょうか。
 曽野は、渡嘉敷島で惹起した「集団自決」に「軍の命令はなかった」とする元戦隊長の赤松らを擁護しています。そしてそれは、後に生き残った島民が、軍命があったかのように証言しなければ、軍属の遺族としての年金を受給できなくなるからだと解説するくだりも出てきます。

 戦後になって、そういう風説が出てくることはあるかもしれません。しかし、軍命なくして、何百という人たちが親兄弟を殺し合って果てるという常軌を逸した行動が、本当に合理的に説明できるものでしょうか。
 そして、同様の事態が沖縄本島や他の離島で同時発生的に起こったこと、また、島尻に追い詰められた軍隊と沖縄県民の間で起こった出来事などを思えば、軍命がなかったなどとは到底考えられないのではないかと考えるのですが、いかがでしょう。

 この点については、いまだに多くの議論があり、定説ができあがっているわけではありません。
 戦後72年が経過し、事実を知る人々は少なくなってきており、近い将来には議論さえなくなっていくのでしょう。そうなれば、手榴弾で、親の振るう鉈や刃物で、首を吊って、死んでいった多くの人々が無念でなりません。
 沖縄戦とはいったい何だったのかという空しさが募ります。

 詰まるところ、特定の兵士からの命令があったかどうかが問題なのではなく、島民がそうせざるを得なくなる状況をつくったのはほかならぬ戦争であり、日本軍という異質の集団が小さな島々を席捲していたためだった、日本という国家的な指導体制そのものに責任がある、そう考えるとすっきりするのではないでしょうか。どう考えても国はその責任を免れないでしょう。

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 2016年発行の書で、由井晶子が「労働情報」に14年半にわたって連載した記事から、辺野古・高江の新基地建設問題を中心に抽出し、2冊にまとめたもののひとつです。
 1冊目は「沖縄 アリは象に挑む」で、1998年12月から2011年5月までのもの。そしてこの「希望の島・沖縄 アリは象に挑む2」は、その後の2011年6月から16年7月までの記事で構成されています。それは、仲井眞前知事が承認した辺野古埋立を翁長新知事が取り消し、政府と協議に入るまでの時期で、その間の沖縄の民意を追い続けています。
 1冊目から読むのが常道でしょうが、昔の記事を読むのもなあということで、今回は2冊目限定。

 2冊目が少し意趣を変えているのは、由井が2015年春に軽い脳挫傷を患い取材執筆に支障が出たため、その後の連載はプロのジャーナリストや辺野古の現場に立つ市民などが執筆・企画をしていること。そのため後半になってから微妙に文脈に変化が現れてくるのですが、むしろそのあたりが読んでいて面白いと思ったところです。

 「沖縄 アリは象に挑む」の出版から5年。辺野古の陸に、海に、全県から、全国から、そして全世界から新基地建設を止めるために人々が集まっています。その成果として一握りの土砂も辺野古の海に入れさせていません。また「どの故郷にも戦争に使う土砂は一粒もない」との辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会も生まれています。
 本書が「希望の島・沖縄」をたぐり寄せる一助になればと念じています。(共同編集者・真喜志好一)
 ――「プロローグ」に記されたこの一文を見れば、この本がどういう位置づけにあるものかがよくわかります。読んでみれば、極めて左翼的な政治性が強く、大真面目。これを230ページにわたってシリアスに読み続けるには一定の忍耐が必要です。

 章立ては7つで、「環境影響評価書の未明の持ち込み」、「埋立承認願書提出」、「仲井眞知事、辺野古埋立を承認」、「翁長知事誕生」、「翁長知事が埋立承認を取り消し」、「訴訟と和解」、「基地があるゆえの元海兵隊員による女性殺人」。

 ちなみに著者は、1933年那覇市生まれのフリージャーナリスト。 「沖縄タイムス」で編集局長、論説委員を歴任し、97年引退。うないフェスティバル実行委員長など在野の運動団体にかかわるほか、琉球大学非常勤講師、沖縄県・那覇市・県議会・那覇市議会の歴史編さん事業編集委員を務めています。

 また、「労働情報」とは、元総評事務局長の高野実という人物が主宰する「労働情報通信」(1960~63)、「労働周報」(1967~69)を引き継ぎ、1977年に創刊された、日本資本主義と対決する労働運動の構築をめざす雑誌デアルとのことです。



 1998年に沖縄タイムス社から発行されたものを、2017年に読みました。
 発売当時の価格は2,400円+税と、それなりの値段がした312ページものを、古書市場から1円(送料込みで258円)にてゲットです。いやはや、申し訳ない。

 「琉球政府時代は副主席として、新生沖縄県になってからは副知事として、主席・知事であった屋良朝苗氏を支え、さまざまな課題に直面しながら、「復帰」の過程を生き抜いた著者の、25年に及ぶ体験をまとめる。
 どのような困難な状況を克服して今日の沖縄があるのかを知るための、貴重な記録。若者の必読書。」(コシマキから)
 むむう、沖縄の激動期を屋良主席・知事の懐刀がどう支えたのか。これは興味深い書です。

 著者の宮里松正(みやざとまつしょう)は、1927年沖縄生まれ。日本大学法学部卒業後、弁護士。71年に琉球政府の行政副主席、72年に沖縄県の副知事を務めます。その後、86年に自民党から立候補して衆院議員を3期。96年に政界を引退し、2003年死去。

 著者は「はじめに」で、「復帰前、われわれが長年にわたって懸命に求め続けたのは、名実ともに日本人としての地位を回復することであった。それは、復帰によって明確に実現した。だから、われわれは未来永劫、子々孫々に至るまで日本国民として生きていくよりほかに道がない」と述べ、当時語られるようになってきた「琉球独立論」に釘を刺しています。
 独立論があることは、発刊から20年近く経過した現在でも大きく変わっていない風潮のようです。しかしそのようなことは、沖縄県民が一方的な事情によって唱え始めたものではなく、日本政府や本土側の人々の沖縄に対する対応や姿勢が大きく影響しているものと考えられます。ウチナーンチュの多くが、基地問題で政府・本土側にずっと失望させられ続けてきたことが、そうさせているのではないでしょうか。日本政府の右傾化が顕著になっていると見える現代では、沖縄に対する政府関係者の暴言やヤマトからの心ないヘイトスピーチが公然となされていることにも強い危惧感を持ちます。

 「そのころ沖縄は梅雨の真っ最中で、復帰の前日はどしゃ降りの集中豪雨に見舞われた。そのため東京行きの飛行機の出発が遅れ、羽田に到着したときには午前零時を過ぎていた。そこで、「もうこれは査証する必要がないだろう」といってパスポートを提示したら、入国管理官はそれを見て、「結構です。長い間ご苦労様でした」と言って、ただちに通してくれた。私は、そのときの感動を今でも忘れることができない」 ――いい話じゃないですか。

 読みどころは多彩。それらは、最大の論点であった米軍基地の取扱いをどうするか、各種の復帰特別措置(国の高率補助や振興計画)をどうするかなどの基本事項はもとより、電力・水道事業の再建、通貨対策、戦争で乱れた土地の位置境界の明確化、初代知事選挙の実施時期、県条例の制定方法、健康保険制度、県指定金融機関の指定、CTS問題、復帰記念植樹祭・若夏国体・海洋博覧会の開催などなど。
 生まれたばかりの地方自治体が短期間のうちにこれだけのことをやったことに、強い驚きを感じます。これらは能吏をたくさんそろえるだけでは達成できるものではなく、強いリーダーが、時には理屈を抜きにし、手練手管を駆使するなどして強引に進めなければならないことも多かったはずです。それをやってのけた著者にはただただ感服するばかりです。

 ところで、少し時代と政治階層の違いはありますが、2002年に沖縄タイムス社から発刊された、元那覇市長の親泊康晴が著した「心 水の如く 那覇市政十六年の回想」という書があることを知りました。「無心で那覇市づくりにあたってきた著者の、那覇市長初当選の日から退任までの4期16年の日々を語った回顧録」だそうで、これも面白そうです。近いうちに買って読むことにしようと思います。



 1997年発行の本で、副題に誘われて中古市場から購入し、その20年後の2017年に読みました。
 著者が約5年にわたる西表島での暮らしを、主に本土に住む友人・知人に宛てて送った「南の島通信(ぱいぬしまつうしん)」というミニコミ誌を下敷きにした、等身大の生活レポートです。

 著者は、1960年東京生まれで横浜育ち。専門学校卒業後、出版・編集の中小どころを転々としながら沖縄の政治・経済・自然などの問題に傾倒、83年ごろから在ヤマトの沖縄出身者らと交流、84年に念願の八重山行きを実現し、その後「八重山病」の重症患者となって、90年に西表移住を達成。諸般の事情により95年には石垣島へ「撤退」したという経歴を持つ人物です。

 著者は「はじめに」で、次のように綴っています。
 「デジャ・ビュ(既視感)という言葉があります。・・・初めて触れた西表島に感じたのが、まさにそれなのです。古い家並みのたたずまい、それを囲む石垣、熱帯植物の防風林、白砂を敷き詰めた道、リーフに打ちつける白波、眩しいほど白い砂浜、緑深く連なる山、山。それに加えて純朴な笑顔のファーナー、オジィ・オバァの真っ黒に日焼けした顔などなど。これらすべてに圧倒され、次に魅了されてしまったのでした。・・・頭の中が真っ白になるほどの衝撃でした。」
 「そんな暮らし(八重山通い)を6年あまりも続けるうち、島での暮らしと、都会であくせく働き時には愛想笑いを浮かべ、人混みに翻弄されるギャップに悩むようになったのです。・・・ああ、と嘆息してふと目を上げれば、そこには西表島の島影が陽炎のように浮かんでいたのです。当時、私には最愛のパートナーがおり、彼女(徳之島出身)とともに「西表入植隊」を結成し、春まだ浅い横浜を出立したのでした。」

 6つの章立てとなっており、「島の暮らしはエキサイティング」、「島の裏側を覗いてみれば」、「南風に吹かれながら」、「美味なヤツは喰うに限る」、「神々のすがた」、「島の歴史(体温)に触れる」。
 単に「訪れる」のと実際に「住む」ことはベツモノのようで、島で仕事をし、島ならではの様々なことに仰天し、同僚とともにビーチャー(酔っ払い)生活をして、「訪れる」だけでは得られない島や島人との絆を深めていきます。その過程が、筆者の性格や表現力が反映されて、随所に挿入されるウチナーヤマトゥグチと相俟って、とてもおもしろい読み物になっています。
 また、西表島とはどういうところか、ということについても、よーくわかりました。台風あり、仕事なしで、家族みんなが暮らしていくにはなかなか大変そうです。



 「戦争は、今も昔も、あっちでもこっちでも、ドンナイ、バンナイ、やられているじゃないかヨっ。アンタには見えないのか、聴こえないのか。ウリ、ウリっ、あの空でゆうゆうと飛びかっている幾つもの黒い影は、カンムリワシなんかじゃないっ。テキを偵察する戦闘機じゃないか。アレが見えないというなら、やっぱりアンタの目は「フシアナ」だっ。オレには、まざまざと見える、からからと聴こえる。あの黒い影の背後でぺらぺら札束を数えているやつらのほくそ笑みや高笑いだってさ……。」(コシマキから)

 沖縄タイムスと琉球新報の適切な書評がありましたので、以下にそれを引用してインプレに代えます。

・崎山多美著「うんじゅが、ナサキ」 夢幻の裏に苦しむ沖縄  沖縄タイムス(2016年12月10日)
 書き下ろし小説を含む2作を収めた「月や、あらん」の刊行から4年。本書には、その間文芸誌「すばる」に発表された6編の短編小説が収められている。6編の登場人物が一貫しているという点では、連続小説に近い。
 物語は、どこからともなく聞こえてくる声に外出を阻まれた「わたし」の家の玄関に、「坊主頭」の見知らぬ男が小包を届けに来るところから始まる。心当たりがなく戸惑う「わたし」に構わず、男は荷物を押し付けて姿を消す。箱を開けると、中にはそれぞれ「記録z」、「記録y」、「記録x」と表紙に書かれたファイルが数冊入っていた。ファイルの中に書かれた最初の文がなぜか「命令文」に聞こえた「わたし」は、その響きに動かされ、ファイルを携えて物語の道を辿り始める。
 本書の「わたし」のように、崎山多美の小説の語り手は、しばしば受け身的である。夢と現実の間でどこからともなく聞こえてくる声や音、あるいは前触れもなく現れる人やモノに意識を揺り起こされ、外の世界に誘い出されるのだ。意識の割れ目にズルズルと引きずり込まれる語り手のように、読者も崎山の物語に引きずり込まれてゆく。
 しかし、そんなおどろおどろしさと表裏一体で崎山の文体の真骨頂をなすのが、戦略としての「滑稽(ユーモア)」である。例えば、「地上で吸った汚染物」を浄化する「命の気体」で満ちた地下の世界「Qムラ」。そこに立てこもり、「秘密のクンレン」を遂行していたという「シンカヌチャー」。思わず「戦隊ヒーローか」とツッコミたくなる。また、「N語」に駆逐された「旧Qムラ語」など、沖縄的な身体感覚、歴史感覚、言語感覚をもつ読者であればクスリとせずにはいられないアイテムが満載である。
 とはいえ、こうしたユーモアの裏にあるのはやはり痛烈な毒であり、夢幻の表現の裏には、苦悶と悲嘆に満ちた沖縄の現実が共在している。本書は、積み重なる遺骨の間から、忘却の彼方から、あるいはまだ見ぬ未来から訪れる「声」を「聴くために」語ってきた崎山の語りが、「戦う語り」に変身する瞬間を示す1冊とも言えるだろう。(喜納育江・琉球大教授)

・「うんじゅが、ナサキ」 〈書く〉を揺さぶる声なき声  琉球新報(2016年12月18日)
 「両の掌を一杯に広げ岩壁に押し当ててみた。意外とあたたかい。岩肌が手の内に吸い付く。(略)硬質でなめらかな感触。所々できらめいているのは岩盤に混入した鉱物のようだ」
 崎山多美の小説について書こうとすると心のどこかに不安や抵抗を感じるのはなぜだろう。小説「うんじゅが、ナサキ」では、書く行為に内包される他者への暴力(穿鑿、代弁、ステレオタイプ化など)に抗い、書く行為そのものを揺るがし問い続ける、そんな位相の探求がなされていると感じるからなおさらか。
 その象徴が「わたし」のもとに届けられた空白だらけの記録ファイル。その文字に促されるまま、ガジマル樹の下、海岸絶壁手前の広場、地下壕などを巡り、不思議なモノたちと出逢うことになる。
 彼らとの口論と身体的な同期を繰り返し、その体験のなかで、何度も書く行為を手放しては、ファイルの空白に、書く「わたし」に、螺旋状に戻ってくる。
 ファイルを開く、と想像してみる。「わたし」の書いた文字とそうでない文字が、違いをそのままに隣り合う。異なる字体や筆圧による紙の凹凸をそっとなでる。と、なおも残る空白。それは崎山作品に通底する話の欠落や断片性を思わせる。それは体験や記憶の物語/言語化への抵抗だろうか(それとも…いや、穿鑿はよそう)。
 ただ耳を澄ます。書く書かれる、読む読まれるという関係性が生々流転するトキそのものに吹き上がる「声なき声」。
 崎山は、朗読劇「ホタラ綺譚(パナス)余滴」(名古屋9月)のトークで、作品に混入されるシマコトバについて、「日本語に対する抵抗」だと語っていた。-他者/作者の幾多の抵抗は、読者にとっては他者(抑圧された土地の記憶や死者など)への通路ともなるだろう。それらは、岩盤に混入した鉱物のきらめきではないだろうか。地下壕の、この岩壁の質感が、ファイルや作品そのものと重なる。
 そして届いたこの本の彼方此方に開かれているはずの不可視の「空白」に幻視されるのは、いつかの崎山作品か。それとも、読者による、書く行為の新しい位相、だろうか。(篠田竜太・朗読劇「ホタラ綺譚(パナス)余滴」共同企画者)

 この場合、沖縄タイムスの書評のほうがデキがいいですね。
 150ページほどの薄い本です。
 手元には、未読の崎山作品「クジャ幻視行」と「コトバの生まれる場所」があり、これを読んで以降も新しい崎山ワールドをもっと味わえることがうれしいです。

100nen mae

 おもしろい趣向の本。
 戦前の「琉球新報」投書欄には、恋愛や友情、不満や悲哀、クレームや身の上相談など、多様で自由奔放な読者からの投書が掲載されていました。
 この書ではそれらをジャンル別に紹介し、百年前の沖縄における人々の声と世相を浮かび上がらせています。
 編著者は、当時の新聞を熟読整理して提示するわけなので、自ら思索し筆を執って書くということはあまり必要なく、こういう仕事も悪くないのではないかと思ったところです。(笑)

 1912(大正元)年から1915(大正4)年までを範囲としていて、目次から内容を拾うと、恋愛・結婚、修羅場、友情、最近の若者は…、クレーム、お出かけ・旅行・異郷の地にて、質問・お願い、つぶやき、笑い話・珍事件、不満・苦悩・悲哀、わたしの主張、その他新聞記事がラインナップ。
 公器といわれる新聞が、当時はここまで載せていたのか!と驚くほどの記事たち。こんな些細な、超ローカルな、こんなレベルの…。(笑) また、個人情報保護などという感覚は当時はなかっただろうからなあ。

 百年前の沖縄は、明治維新からひたすら欧米列強に対するために国ぐるみで突き進んできた明治時代が終わり、大正は親たちが築き上げてきたものを相続し消費する時代とも言え、あえて言えば、昭和の高度経済成長の繁栄を享受し、消費している平成の時代と類似しているのかもしれません。
 当時は大正デモクラシーが沖縄にも流入し、港湾都市だった那覇が大いに栄え、電気、鉄道、道路、娯楽施設などの社会インフラが整備され始めた頃だったでしょうか。
 そのような時世を背景にした当時のリアルな人間模様を垣間見ることができ、なかなか興味深いものでした。

 東京新聞に掲載された書評がありましたので、紹介しておきましょう。

・書評:新聞投稿に見る百年前の沖縄 上里隆史著 腹蔵のない庶民の声
(東京新聞2016年4月10日)
 沖縄最初の新聞である琉球新報の投書欄「読者倶楽部」に掲載された投稿を、「恋愛・結婚」「つぶやき」「不満・苦悩・悲哀」など12の項目に分類して、百年前(大正元~4年)の沖縄庶民の声を聞き取ろうとしたのが本書である。
 ちなみにこの琉球新報は最後の琉球王尚泰の四男尚順を中心に、第1回の県費留学生として学習院や慶応義塾で学んだ高嶺朝教、太田朝敷ら旧琉球士族によって明治26年に創刊され、1県1紙制度により昭和15年に消滅した。現在発行されている琉球新報は、戦後に創刊された別の新聞である。
 さて投稿の内容だが、「辻の遊廓」街の話は喧嘩騒動、中学生の徘徊問題なども含めて多彩。ふられた腹いせか「女郎税増税案」の意見も複数ある。巫女(ユタ)撲滅の提案もある。「国民的同化」を社是としていたからではないだろうが、投稿は沖縄語(ウチナーグチ)ではなく標準語で書かれている。
 投稿男性は冷笑しているが、「男尊女卑の世をば、女尊男卑」にしたいと話す、頼もしい少女の姿もある。また、軽便鉄道の開通により「糸満婦人」の健脚や優美端正な体格が失われるとの懸念は、現在の車社会に生きる沖縄人の問題にもつながる。
 当時の写真や広告・図版も豊富で、時代状況の簡潔な説明もあり、百年前の沖縄の日常が見えてきて興味深い。(与那覇恵子=東洋英和女学院大教授・近現代日本文学)

 ちなみに評者の与那覇恵子は、NHKのドラマ「ちゅらさん」で沖縄風俗考証を務めた方でもあります。



 今となっては沖縄民謡について、もうここまで書ける人はいないだろうと思われる、仲宗根幸市によるしまうた本です。
 仲宗根幸市の本はこれまでに、いずれもボーダーインクから出されている「「しまうた」流れ」(1995)、「「しまうた」を追いかけて」(1998)、「カチャーシーどーい」(2002)、「恋するしまうた恨みのしまうた」(2009)を読んできています。
 そして今回は、それらよりも前の1985年に初版発行された、ひるぎ社おきなわ文庫のものを古書から探り当てて読んだところです。

 南島文化の中で、歌の占める位置は大きい。今や民謡界は百花繚乱の様相を呈している。だが、その割には意外とこの分野のわかりやすい文献は少ない。
 著者は沖縄本島、宮古、八重山にとどまらず、早くから斬新な視点で奄美の列島弧をも結ぶべく、琉球文化圏全体の追及を強調、その先駆的役割を果たす。本書ではその地道なフィールドワークの経験から奥深い歌の生態、南島歌謡の歴史と広がりを活き活きと活写。各章とも示唆に富む論述やエピソードに満ち、沖縄民謡の貴重な案内書として、その役目を大いに果たすことであろう。

 カバーの袖には上記のような記載がありますが、仲宗根の真骨頂は奄美に残る琉球の残影をしっかりと読み解き、それらと沖縄本島などとの関係性を意味深長に提示しているところにあるのではないかと思います。
 南島の民謡を全体的に扱うとなれば、歌のタテとヨコの広がりがあまりにも大きいために、新書版200ページほどの中ではどうしても駆け足にならざるを得ず、やや消化不良の印象も。
 それにしても、沖縄の各地から歌を生活体験として持っている古老がほとんどいなくなってしまったことを憂慮せざるを得ません。



 結婚をきっかけに沖縄に居を構えて5年となる女優・羽田美智子が自ら足を運んで見つけた、「すてき」が詰まった沖縄本。
 2年にわたる取材をまとめたもので、気になるギャラリーやカフェに足を運び、そこで気に入った器や布があればその作家を訪ね、作家おすすめのスポットを聞いては足をのばし……というように、出合いの連鎖によって綴られています。
 その一方で、海にもぐり、森を歩き、大自然の中で自分を見つめ直しています。

 羽田美智子って、独特の表情を持つ不思議な女優だなあと思っていた程度でほぼノーマークでしたが、沖縄のダイバー兼水中写真家さんと結婚して恩納村にも居を構えているのですね。
 大輪の花のような笑顔(!)が彼女の持ち味でしょうか。少し垂れた感じの大きな目の目力がすばらしく、すらりとした体型などは47歳(発売当時)とは思えない若々しさが感じられます。
 NHKの朝ドラ「ひよっこ」でも、助川時子の母親役を好演していますが、茨城県常総市(旧:水海道市)の出身で、1988年日本旅行のキャンペーンガールに選ばれてデビューしたそうです。

 つまりは写真の撮り方も上手だ、ということでしょう。
 著者は羽田美智子ということになっていますが、彼女自身が書いたと思われる(もしくはそのようにアレンジされた)部分は多くなく、かなりの部分を占める店の紹介や写真の解説部分などは別人が書いている模様です。

 全体としてとても美的に仕上がっていて、女性からはかなり好まれそう。
 「沖縄のうつわ」、「壺屋を歩く」、「会ってみたい人がいる」、「手しごとの布」、「南城市の暮らし」、「北へ向かう」、「海が教えてくれること」、「とびきりおいしい理由」の全8章。



 「ちゅらさん」「ナビィの恋」「モンパチ」から読み解く“沖縄”の文化の政治学。――との副題が付く、2004年発行の本。
 NHKの朝ドラ「ちゅらさん」の放送が2000年、映画「ナビィの恋」は1999年末の公開、「モンゴル800」の大ブレークも2000年。これらミレニアム当時の沖縄を表象するポピュラーカルチャーを取り上げ、「メディアで消費される沖縄」をテーマに、文化研究や文化シーンに興味のある人たちが集い、2003年6月以降〈カルチュラル・タイフーン〉というイベントが催されました。
 その場では、学部生・院生・教員らがともに立ちすくんだのは、「誰が沖縄を語るのか」という発話のポジションへの問いでした。
 教育/研究、研究/表現の壁を越え、制度化された〈知〉を解き放つ全く新しい試みとして、興味深いイベントだったようです。

 背表紙に記載されたコメントを引用。
 「カルチュラル・タイフーン〈沖縄セッション〉が私たちの心を揺さぶったのは、発表したICUの学生、応答した琉球大学の学生、そして討論に参加した様々な学生たち一人ひとりが、限られた時間のなかで真剣に考えをめぐらし、予め与えられてはいない言葉を紡いで必死に声を発したことである。自らの当事者性に戸惑いながらも我がこととして問題に向き合い、そして新しい声を絞り出そうとした。他者の問題と発話の位置には意識的になるべきだという自戒をどこか了解済みのこととして、自らの位置と語りを正当化する術を身に付けてしまっている研究者/教育者にとって、それは多くを教えられた瞬間であった。研究者は発話の位置に注意すべきだという安易な自戒では終わらせない力が、セッションにはみなぎっていたからだ。」

 読んでみれば、学生たちの真摯な取組み姿勢や、自らの気づきに支えられた鋭い考察、そして「自分とは何者なのかという」自己への戸惑いがそれらと交錯し、なかなかスリリングなセッションになっていました。

第1章 プロローグ なぜ“沖縄”なのか
 沖縄に立ちすくむ―本書プロジェクトの経緯と問題関心
 沖縄へ、沖縄から/沖縄へ―ポストコロニアルとメディア研究
第2章 三つの報告をめぐって―メディアと消費される“沖縄”
 「ちゅらさん」における沖縄の表象・生産・受容
 映画「ナビィの恋」における沖縄の「他者性」
 MONGOL800「MESSAGE」と“沖縄”  ほか
第3章 セッションをめぐって 誰が“沖縄”を語るのか
 方法としての沖縄―沖縄セッションについて
 消費される沖縄―セッション抄録
 日常・マイノリティ・承認―琉球大学生の応答  ほか
第4章 エピローグ “沖縄”文化研究を開くために
 枠をはみだしている他者―テクスト/方法論/学問の政治
 沖縄を語ることの政治学にむけて―沖縄をめぐる言説  ほか

 編者は3人。
 岩渕功一は国際基督教大学教養学部国際関係学科教員、多田治は琉球大学法文学部教員、田仲康博は沖縄国際大学・琉球大学教員(いずれも当時)です。



 自分にも近いうちに定年がやってくるワケで、そのときのひとつの生き方として「沖縄移住」があるのではないかと考えています。移住と言っても、今住んでいる住居を畳んでワンウェイで沖縄に行くことは考えていず、退職後、高齢となるまでの一定期間を彼の地で過ごせたら幸せだろうなというほどの感覚です。
 そんなことを考えているときに見つけたのがこの本。著者が経験したのは3カ月のショートライフではあるけれども、短ければ短いなりに参考になることがあるのではないかと、さっそく入手したところです。

 著者は、1976年千葉県生まれ。出版社勤務を経て、2002年に初海外旅行にして夫婦で世界一周を敢行し、05年には旅行作家としてデビューし、国内外を旅しながら執筆活動を行っている方。
 氏の著書は「ハノイ発夜行バス、南下してホーチミン ベトナム1800キロ縦断旅」(幻冬舎文庫、2016)も入手しており、旅モノ好きとしてはこれからちょくちょく作品を読ませてもらうことになりそうです。

 地方移住に憧れる人は少なくない。人生をかけた移住ではなく、まずは旅の延長線上としての「プチ移住」がいい。数々の海外旅行をしてきた旅行作家が、妻の育児休暇中、一家で沖縄に“住んでみた”。ゆるくて温かいウチナーンチュとのふれあい、沖縄特有のB級グルメと時節の風習、適度に便利で快適な生活……。最短1カ月からでもOK。「ちょこっと暮らし」でこんなに楽しい!(裏表紙から)

 プチ移住の準備と計画、沖縄生活の快適なところ、気軽に味わえる沖縄グルメ、暮らしたからこそわかったこと、移住先で満喫する各種行事などについて書かれており、勢い余って移住の最後に住んでみた宮古島のインプレッションも。
 マイカーかレンタカーか? 本島と離島では何が違う? 家具付きマンスリー物件の賃料は? ご近所づきあいはうまいくいく? などについての実践者としての体験談がヒントになります。

 参考になったのは、3カ月ぐらいならば断然ウィークリーマンションがお気軽だし、自家用車も荷物とともにフェリーで運んでしまえばよさそうだということ。このぐらいなら移住っ!と肩肘張らなくても楽々と体験できそうです。



 この夏、沖縄で売れに売れた本。
 「沖縄では豚は鳴き声以外すべて食べる」と言われるが、はたして本当なのか? そんな素朴な疑念からスタートした沖縄肉食グルメ取材です。
 取材・執筆&鼎談は、大阪出身でウチナンチュ2世の作家・仲村清司、那覇で半移住生活を送るノンフィクションライター・藤井誠二、生まれも育ちも那覇の若い建築家・普久原朝充の3人。この顔ぶれは、「沖縄 オトナの社会見学 R18」(亜紀書房、2016)のときと同じ顔触れですね。3人は仲良しなのだろうな。

 大衆食堂や惣菜店、ホルモンの名店、話題の絶品焼肉店などを食べ歩くうちに、3人の沖縄の肉食を巡る考察は、迷宮へと奥深く分け入っていきます。
 そもそも、沖縄の伝統料理における肉食文化はどのように発展・継承されてきたのか? 現在の沖縄の飲食店における肉ブーム最先端はどうなっているのか? 最高においしい肉グルメはどこにあるのか?――。
 そのような、半ば冗談、半ば本気の疑問を、肉を食べ尽くしながら徹底研究する沖縄肉グルメエッセイ&鼎談ガイドとなっています。

 沖縄にはテビチ(豚足)やソーキ(あばら肉)、中身汁(内臓の汁物)などの多くの豚料理がありますが、実は料理の基本は「煮る」になっていて、「焼く」文化はあまりなかったことを本は解き明かします。
 その背景には「医食同源」にあたる「シンジムン」(煎じた物)や「クスイムン」(薬になる物)という考え方があると説明。「食材が豊富にある島ではなかったので、その食材が持つ栄養素をあますことなく取ろうと考えたら「煮る」のが一番手っ取り早かった。おいしいやまずいでなく、知恵で食べていた」と分析しています。
 ぜんそくに効くとされた「アヒル汁」やコラーゲンたっぷりの「テビチ」も「クスイムン」と考えられ、豚肉や野菜を豚の血で炒めて煮た「チーイリチャー」も伝統的な滋養強壮料理ですが、現在は豚の血の出荷が衛生問題で停止されて食べることができず、3人はこの沖縄特有の味の復活を願っています。
 「ヒージャー」と呼ばれ、沖縄の中でも好みが分かれるヤギ肉をフレンチやイタリアンとして食べる新しい試みも紹介。
 一方で、「沖縄では豚は鳴き声以外は全て食べる」という定説の真偽や、戦後の米国統治下で街中にステーキ店が登場した経緯などを踏まえ、「沖縄では飲んだ後の締めはステーキ」との俗説にも迫っていきます。

 まあ、380ページにわたってぐりぐりと沖縄の肉についてこられると、中高年なら肉を一片も食べなくても胸やけがしてきそう。(笑) いわばそれだけ充実した「肉研究」になっているということなのでしょう。
 それにしても、「沖縄では豚は鳴き声以外すべて食べる」はものの譬えであって、本当かどうかは大きな問題ではなかろうと思います。そういうことをテッテー追求するというのも一興ではありますが。



 著者の父は、沖縄戦末期、地下壕から海軍次官に対して「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という異例の電文を発して自決した大田実海軍中将(沖縄方面根拠地隊司令官)。当時沖縄県知事だった島田叡とともに、沖縄県民から信頼されている数少ない戦時中のヤマトンチュです。
 その当時11歳だった長男が、父に思いを馳せながら後に高校教師となり、平和教育に打ち込み、やがて沖縄の地で「父」と再会する――といった内容のものです。

 表紙は、沖縄戦開始の2ヶ月前、沖縄赴任が決まった数日後に、10人の子と懐妊中の夫人とともに正装して撮った、家族最後の記念写真です。

 著者は、軍国少年として育ち、父の影響から防衛大学校進学を目指します。しかし1952年に父の遺骨と対面した際、ピストルの穴の空いた頭蓋骨を見て軍人になることに空しさを感じ、教師を志すようになります。
 広島大学教育学部高校教育社会学科へ進学し、卒業後は社会科教師として広島県内各地の高校に赴任。反戦活動にも熱心に取り組み、原水爆禁止呉協議会事務局長、高教組呉地区支部平和教育推進部長、呉地区高校生「平和の集い」顧問、歴史教育者協議会会員などとして平和教育に携わることとなります。
 父が戦死した地・沖縄をたびたび訪問しており、1989年に本書を出版。沖縄戦研究家の安仁屋政昭とは大学の同窓生で、友人です。

 父とは異なる道を歩むことになり、本書では大田実の息子としてではなく、むしろ自分が高校で生徒とともに歩んだ様子などを中心に記述しています。したがって、大田実の実像に迫ることを期待すると少し拍子抜けするかもしれません。偉人を父に持つ、それとは別の人間の物語として読むほうがいいかもしれません。

 大田実をめぐる親子関係についてはもう1冊、「沖縄の絆・父中将から息子へのバトン」(三根明日香 著、かや書房、2013)があります。大田実の三男に落合畯(たおさ)という海上自衛隊員があり、畯は1993年にペルシャ湾の掃海派遣部隊の指揮官として派遣されています。
 こちらの書は、二人の男の半生を、父と子という縦軸と、沖縄とペルシャ湾という横軸で織りなしながら描く物語となっており、読み応えがありましたので、付記しておきます。



 「奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島と黒糖焼酎をつくる全25蔵の話」との副題がついています。
 「この本は、日本の島には少々詳しいが、ただの呑んべえであるくじら(鯨本あつこ)の主観と、黒糖焼酎に詳しく、奄美大島に暮らしていたこともあるくっかる(石黒みどり)の解説と、島々で出会った人たちとの会話や、五感にふれた事柄を混ぜ合わせながら、奄美群島の魅力を伝えようと思い書きはじめた。できれば、黒糖焼酎をクラスに注いで、その味と香りを確かめながら、読み進めていただきたい」(「はじめに」から)――とのことです。
 なかなかいい趣向ではないですか。

 となると、著者の人となりが知りたい。
 鯨本あつこは、大分県出身。編集者、イラストレーターなどを生業としながら、2010年に日本全国の有人離島にスポットを当てる「離島経済新聞社」を設立。奄美群島の島人がつくるフリーペーパー「奄美群島時々新聞」などの事業プロデュースに関わる。沖縄美ら海大使で、趣味は人とお酒と考えごと――という人。
 石黒みどりは、奄美大島で7年島暮らしをし、奄美パーク、鹿児島県酒造組合奄美支部、奄美群島観光物産協会などに勤務して、のち帰京。酒造組合のウェブサイトに「奄美黒糖焼酎蔵巡り」を公開した人です。
 「離島経済新聞」は「リトケイ」という通称まであるそうですが、読者って、どういう人がどのくらいいるのでしょうね。
 また、「奄美群島時々新聞」というのもユニークそうです。

 くじらの語り口は女性らしい軽やかなタッチで読みやすく、奄美に関するあれこれを旺盛な好奇心を持って体験し、書いています。彼女の描くイラストもまた軽妙です。
 読んでいて思ったのが、全体のなかでの、25の蔵元に関する部分の位置取りがやや不明瞭なこと。それぞれ丁寧な解説なのですが、話を聞いた蔵元の人々の顔や各焼酎についてのビジュアルが不足気味で、それぞれをうまくイメージすることができなかったうらみがありました。

 いずれにしても、九州とも沖縄とも違う奄美群島の魅力が満載。島好き・酒好きの方は楽しく読めること請け合いです。



 人文書館から発売された、大城貞俊の上下2巻の作品集のうちの上巻。収載されるのは各4作品で、上巻はいずれも未発表のものです。
 「島が揺れている。海って、病院なんだね、きっと…。慶びと良きことの間に横たわる島々のこと。沖縄文学を先導する詩人であり、作家・大城貞俊の珠玉の中・短篇作品集」――というのが作品紹介文です。

 表題作の「慶良間や見いゆしが」は、祖父の唐突な自殺という衝撃的な出来事から語り出されます。
 「祖父はなぜ、トーカチ(米寿)を前に自殺したのか?」。国語教師として中学校に勤める孫息子の清志は、その謎を追いながら、祖父清治郎の心を支配していた戦時中の真実の悲しい闇に迫っていきます。
 「彼岸からの声」は、「あの世」と「この世」、そして「古い記憶」と「新しい記憶」という2組の対立項を鍵として、奥間キヨの彼岸からの語りと、此岸で見る夢に彼女の声を聴く主人公敬治の日々とを交錯させる物語。
 「パラオの青い空」は、人生の最末期を迎えつつある老女が、老衰と痴呆による思考の衰えを自覚しながらも、20年前に自分と子供たちを遺して自殺した夫の心の真実を探り当てようと、過去の記憶と格闘する物語。
 「ペットの葬儀屋」は、軍用地主で羽振りのよい叔父洋蔵が出資するペットの葬儀屋に勤める主人公の隆太は、洋蔵の愛人である社長の和代と、和代の片腕で離婚歴のある7歳年上の恋人とともに働いているが、そこに新採用されたカスミが加わることによって、奇妙に安定していた職場の人間関係ば崩れ始め・・・といった内容。

 巻末の萩野敦子(琉球大学教授)による解説がよく、それによれば、この4作では、沖縄戦の記憶を抱えながら、いまだに米国、そして残念ながら日本という「他者」との関係に苦しむ現在の「沖縄」が、比喩的に表現されているのだと説明しています。
 このような解釈には感服するとともに、自分にも同様の読後感があったことを付け加えておきます。

 この上巻については、古書店から格安に入手することができましたが、下巻の「樹響 でいご村から」のほうはむしろ古書市場のほうが高く、まだ入手していません。
 こうなれば、2,862円の定価で買うしかないのかな。早く買わないとそれも売切れてしまうだろうしなぁ。



 「沖縄戦に斃れた婚約者の足跡を追って訪れた沖縄の島々。その旅を通じて知った沖縄の苦難に満ちた歴史と現実、人々のまごころ。時の風化のなかで忘れがちな沖縄の心を切々と語り継ぐ、感動の記録」――という本。

 古書店から1円+送料で手に入れたのは、1992年発行の新書。この原著は1972年の「沖縄からの出発――わがこころをみつめて」ですから、書かれてから45年後に読んだことになります。
 収録は「「ヤマト世」二十年」、「二十七度線」、「土着のこころ」、「沖縄に照らされて」、「消えゆく戦の傷跡」、「沖縄人(うちなんちゅ)と共に」6篇です。

 著者は、1923年生まれの随筆家。大阪市出身で、婚約者が沖縄戦で戦死。戦後すぐに結婚するも7年後に離婚。2008年に85歳で逝去しています。

 文章としてはやや難解なほうかもしれません。しょうがないことですが、読んでいて文章表現や内容に古さを感じざるを得ないところがあります。
 「敗戦後、半年たって彼(婚約者)の母にもたらされた公報には、「陸軍少尉木村邦夫様には20年5月31日沖縄本島島尻郡津嘉山に於て戦死。」と記されていた。」
 著者は、25歳で散った婚約者がどういう土地で、どのようにして死んでいったのかを知るために、死後23年を過ぎた1968年になってから、初めて沖縄に渡ります。「二十七度線」ではそのときのことが克明に語られています。
 そしてその際に見聞きした沖縄に惹かれ、著者は何度か沖縄を訪れるようになります。

 ところで、自分が初めて八重山の竹富島を訪れたのは1998年のこと。その際に、新田観光の水牛車に揺られながら、あれが日本の女流作家のナントカという人が島に建てた家だ、という説明を受け、その建物を見た記憶があります。平屋で赤瓦屋根の小さな家でした。そのときは、なんとまあ、またずいぶん遠くに別荘を建てたものだ、酔狂な金持ちのすることは理解できんな・・・ぐらいにしか受け止めていませんでした。
 しかし、今思えばそれが、岡部伊都子が島の子どもたちにたくさんの本に触れてもらいたいとの思いでつくった「こぼし文庫」だったのかもしれません。
 調べてみると、「こぼし文庫」は今もなお新田観光の近くに存在しているようです。

 蛇足ですがこの本を、2017年10月1日に開かれる「琉球フェスティバル2017東京」を見るべく上京したホテルの部屋にて読了しました。