沖宮は正直言ってイマイチだったかなぁという感想を抱きつつ、正式にはこちらが表参道だったと思われる石段を下りて園内道路へとたどり着くと、おやまあ、すんげえ立派な碑群があるではないか。
 これもまたノーマークでしたが、それは「船越義珍顕彰碑」。前日嘉手納で見た「チャンミーグヮーの碑」に続く空手系の碑の連続めぐり遭いはちょっとうれしいサプライズです。

 船越義珍については「義珍の拳」(今野敏著、集英社文庫、2009)を読んでおり、若かりし頃は来る日も来る日もナイファンチという基本の型を練り続け、後に「近代空手の父」と呼ばれるようになった経緯を知っていたので、思わずじっくりと見入ったところです。

 正面には「空手道松涛館流祖船越義珍先生の諭 空手に先手なし 沙門崇源 書」と刻された主碑がどどーんと。カッコいいなあ。そしてそのすぐ右隣りには次のように書かれた副碑が建っていました。

 空手道松涛館流祖、船越義珍先生は、明治元年10月10日沖縄県那覇市首里に生まれ、雅号を松涛と称した。唐手を安里安恒・糸洲安恒両師に学び、30有余年教壇に立ちながら沖縄唐手有志と広く交わり、沖縄尚武会を開き、沖縄唐手研究会に参じ、首里城で昭和天皇御前演武を指揮するなど、唐手の普及と統一に力を尽くした。
 大正11年体育展覧会で本土に初めて唐手を紹介、以来本土にあって請われて師範となり指導を行う傍ら教書を著し、唐手を空手に、後に空手道と改める。空は般若心経に依り、道は修業を意とする。
 昭和32年4月26日、88歳にして終わるまで、誘掖して倦まず。後に人びとは先生を「近代空手道の父」と称した。これは空手道を世界に布衍せしめたことのみをいうのではない。先生の道に対する人となりに依るのである。
 先生の50回忌にあたって国内外から有志が集まり、先生の遺徳を偲び功を彰かにして、ここに「船越義珍顕彰碑」を建立する。
  平成19年4月20日  沖縄船越義珍顕彰会

 おお、そうかそうか、2007年の建立ですか。こんなに立派な碑をつくった後進に、先生はきっと感謝していることでしょう。ということは、今年2017年は60回忌の年に当たるのですね。また、師は1868年生まれだから、来年は生誕150年ですか。

 主碑・副碑のうしろには、まるで摩文仁にある「平和の礎」のような沢山の名前が刻された4枚の石板が。これらには、碑の建立に賛同した空手道関係者などの名前が刻されていました。

 そして碑群のいちばん左側にもうひとつ、「松涛二十訓」が記されていたので、これも移記。空手の道の極意がここに凝縮されているということのよう。空手はかなりメンタルな武道だということがわかります。

 一 空手は礼に始まり礼に終わることを忘るな
 二 空手に先手なし
 三 空手は義のたすけ
 四 先づ自己を知れ 面して他を知れ
 五 技術より心術
 六 心は放たんことを要す
 七 禍は懈怠に生ず
 八 道場のみを空手と思うな
 九 空手の修行は一生である
 十 凡ゆるものを空手化せよ そこに妙味あり
十一 空手は湯の如し 絶えず熱を与えざれば元の水に還る
十二 勝つ考えは持つな 負けぬ考えは必要
十三 敵に因って転化せよ
十四 戦いは虚実の操縦如何にあり
十五 人の手足を剣と思え
十六 男子門を出づれば百万の敵あり
十七 構えは初心者に あとは自然体
十八 形は正しく 実戦は別もの
十九 力の強弱 身体の伸縮 技の緩急を忘るな
二十 常に思念工夫せよ
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 沖宮から公園内を、クルマを停めているゆいレール奥武山公園駅方向に歩いてきたところ、「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と刻された碑を発見。ほほう、兵庫?と思って近寄ってよく見ると、それには「島田叡氏を縁とする深い絆」とも記されていました。

 そうか、終戦時に沖縄県知事だった島田叡ね。島田知事は、前任者の泉守紀知事が沖縄が戦地になることを予想して本土へ長期出張ばかりするなどまったくの逃げ腰だったのとは違い、沖縄県民のために決然として指揮に当たり、摩文仁の土となった人物で、今でも県民の絶大な人気を保っています。その島田は兵庫県の出身なので、このような形となって結実したということなのでしょう。
 碑の礎石には次のような説明書きがありました。

 沖縄がまさに激戦地になること必至の状況下の1945年1月、沖縄県最後の官選知事として、島田叡(あきら)は死を覚悟で決然と沖縄に赴いた。戦禍の中において県民を守るため、死を賭して尽力し、「沖縄の島守」として慕われる。最後は県民と運命をともにする。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 その島田叡知事の縁によりもたらされた至誠と信頼。そして尊敬を礎とする兵庫・沖縄の交流の歴史は、1972年「復帰の年」に締結された「兵庫・沖縄友愛提携」を機に一層深まり、数々の交流事業が展開された。
 かつてこの地には、兵庫県民から贈られた「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」があり、多くの若者・県民がスポーツやレクレーションを楽しんだ。
 このグラウンドは、スポーツをこよなく愛した島田叡知事が青少年の嬉戯する姿を思い描き、将来にわたって、なお一層の両県の「絆」が発展することを祈念して「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼称するとともに、両県の「友愛の証」とする。
  2015年6月吉日  島田叡氏事跡顕彰期成会

 島田を縁として、沖縄の本土復帰の年に「兵庫・沖縄友愛提携」がなされ、この地に兵庫県民から「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」が贈られた経緯があり、その側にあった多目的広場を「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と改名した――ということのようです。碑の後ろにあるグラウンドがそれですね。
 1年半ほど前につくられた碑で、まだ新品です。

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 また、近くには「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター跡地」の碑がありました。文章のほかに、在りし日の建物の写真とレリーフが添えられていました。その記載内容は次のとおり。

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、日本復帰後の昭和50年(1975年)6月、兵庫県民から「友愛の証」として沖縄県に贈られた。
 そして、スポーツやレクリエーション活動の拠点として、沖縄県のスポーツの振興に寄与するとともに、兵庫県との友愛の象徴として中心的な役割を果たした。
 沖縄・兵庫両県の友愛の絆が、より深く恒常的なものとなることを祈念し、ここに記念碑を建立する。
  平成21年3月  沖縄県教育委員会

 沖縄・兵庫友愛スポーツセンターは、建設から32年が経過して施設の老朽化が著しいことから、利用者の安全面を考慮して平成19年に閉鎖、21年2月に解体が終了しました。


 あわせて、この碑が建てられたことを報じる2015年6月28日付けの琉球新報の記事を、以下に付記しておきます。

奥武山公園に「友愛」の広場 島田氏顕彰事業
 沖縄戦当時に県知事を務めた島田叡氏の出身地である兵庫県との「友愛の証し」として、奥武山公園の多目的広場が「兵庫・沖縄友愛グラウンド」に改名された。広場横には記念碑が立ち、バックネットに看板が設置されている。改名は島田氏の顕彰事業の一環。
 改名を記念し、県還暦軟式野球協議会は27日、同グラウンドで70歳以上の選手ら45人による「古希野球大会」を初開催。3チームが参加しリーグ戦を行った。協議会の嘉納勝会長は「島田さんも喜ぶと思う。野球を通して恩返しをしたい。将来は80歳の米寿野球大会を開きたい」と話した。



 島田叡に関するもっとすごい碑が、「兵庫・沖縄友愛グラウンドの碑」の近くにありました。ははあ、こっちがメインでしょうね。
 「第27代沖縄縣知事 島田叡氏顕彰碑」の標柱が建っていて、トップにステンレスの球体を冠したモニュメントがどんと建てられ、その四方に説明板が配されているといった、立派なものです。
 正面にある説明板には、島田の顔写真入りで次のように記されていました。

《建立の詞》
 1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代縣知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。
 以来、5か月に及ぶ苦難な戦下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。
 最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁の「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)
 また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園への夢を育み、大きな励みになりました。
 1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。
 この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。
 ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事跡を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。
  2015年6月吉日  島田叡氏事跡顕彰期成会  会長 嘉数昇明
《碑の構想》
 祈り(合掌)、命(命どぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)


 これの建立も2015年6月。
 島田の顕彰碑がここに建っているのは、島田が愛した「野球」つながりで、沖縄県の野球の聖地である奥武山公園だからだということです。
 また、モニュメントのコンセプトもしっかり記されているのはたいしたもの。
 なお、碑を建立した「事跡顕彰期成会」は、県高野連、県野球連盟などの野球関係者が多く含まれているようで、会長の嘉数昇明氏は、母は沖縄女子短期大学の創設者、那覇青年会議所理事長や県議会議員を経て、稲嶺県政時代の副知事だった人のようです。

 ほか、3方にある碑の内容は、順不同で次のとおり。

《至誠の人・島田叡の素顔》
「座右の銘・愛蔵書」
○「断而敢行鬼神避之」(「史記」李斯列伝より)
 “断じて行えば鬼神もこれを避く”
○「西郷南洲翁遺訓」「葉隠」(沖縄赴任に携行した愛蔵書)
「敢然と沖縄に赴任」
○「沖縄も日本の一県である。誰かが行かなければならない。断るわけにはいかんのや。誰か行って死んでくれとは言えない。」
○官尊民卑の時代、同胞意識を持つ知事
 米軍に制海空権を握られ、県外逃避や戦列離脱者が相次ぐ困難の状況下での赴任。
 「沖縄の人も同胞じゃないか、同じ人間じゃないか・・・という気持ちがあった。そう考えていなければ、激戦地となること必至のあの時期に沖縄にはこない」(元県庁職員の証言)
「極限の沖縄戦のなかで「生きろ!」」
○玉粋・自決という言葉が飛び交う戦場で、「最後は手を上げて(壕を)出るんだぞ・・・。生きのびて、沖縄再建のために尽くしなさい。」と戒める。
「花も実もある親心」
○「(戦争で)共に死ぬ運命共同体の意識の中で、県民を不憫に思い統制の酒、たばこの増配や村芝居を復活させた。それが島田叡知事の親心です。」(元県庁職員の証言)

詩碑《追憶の詩》
北へ(須磨・兵庫県)
  ふるさとの いや果てみんと 摩文仁岳の
  巌に立ちし 島守のかみ   (詠人 仲宗根政善)
南へ(摩文仁・沖縄県)
  このグラウンド このユーカリプタス
  みな目の底に 心の中に収めて
  島田叡は沖縄に赴いた
  1945年6月下浣
  摩文仁岳近くで かれもこれも砕け散った   (詠人 竹中郁)

《野球人・島田叡の球魂》
「スポーツ・敢闘精神」
○「劣勢としりつつも、なんとかならないかと知恵をしぼり、あくまで全力を傾けベストを尽くす。これがスポーツ精神だ。叡さんは生涯、それを実行した」(三高野球部球友の回想)
「俊足、強肩、巧打の花形選手」
○旧制第二神戸中学(現・県立兵庫高校)、第三高等学校(現・京都大学教養部)、東京帝国大学(現・東京大学)で野球部レギュラー/主将としてチームを牽引。東大3年時には三高の監督も務めた。精神的野球ではなく、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁生還をめざした。
○野球殿堂博物館(東京ドーム)には、戦没野球人の一人としてその名が刻まれている。
「沖縄県高野連に贈られた島田杯」
○「島田さんとスポーツ精神とは生涯を通じて一貫したものである。この機会に・・・島田杯を沖縄の高校野球連盟に贈呈する」(昭和39年兵庫県「島田叡氏事跡顕彰会」)
 さらに島田氏のご縁で、千葉県からも島田杯が贈られている。それらの優勝杯は、沖縄県高校野球の隆盛に寄与している。
「球場に島田知事の名前を」
○旧制三高時代の1年後輩で、野球部で2年間一緒だった東大教授/英文学者・中野好夫氏(沖縄資料センター設立者)は生前、沖縄戦で戦死した先輩を偲んでこう要望した。
 「将来、沖縄に野球場が出来るのなら、戦時中に住民のために奔走した故島田叡さんの名を記念につけてもらえないだろうか」



 奥武山運動公園内で思いのほかいろいろな碑を見ることができ、つい多めに時間を費やしてしまいました。
 次は、糸満方面へと進んで、行政区としては豊見城市になる瀬長島へと渡り(とは言っても道路がつながっているので車で行けるのだけど)、2015年8月オープンした「瀬長島ウミカジテラス」を見に行きました。

 那覇空港からすぐそばの瀬長島にあるリゾート型商業エリアで、ゆるやかな西斜面に並ぶ白壁の建物群はエーゲ海の島々の佇まいに通じるようなエキゾチックな雰囲気があります。夕陽が沈む時間帯はさぞかし美しいのだろうな。

 「瀬長島ウミカジテラス」については、開発会社の代表取締役の近藤康生が著した「25億の借金をしても沖縄・瀬長島につくりたかったもの」(ダイヤモンド社、2015)を読んでいたので、ここも完成した姿は見届けておきたいと思ったので、寄ったところ。

 多少雲が多かったので、地中海のような眩しさは残念ながらありませんでしたが、夏に来たならさぞかし華やかなのでしょう。沖縄ならではの飲食店や沖縄県産のジュエリーショップなど約30の建物がずらりと並んでいるのですが、真冬のこの時期では賑わいが出るまでにはいっていないようで、若干の空き店舗があるのが気になりました。

 ここまで来たのだからと、その上にある「瀬長島ホテル」にも入ってみることにして、長い上り坂を歩いて行きます。いやあ、風が強いなあ、煽られるぜっ。おおっ、那覇空港に着陸しようとするでっかい旅客機が真上を通過! ちょっとした迫力ですよ、これは。

 たどり着いたホテルのエントランスはあまり広いとは言えず、チェックアウトの人たちなのかどうか、そこに多くの人が滞留しています。さりげなく様子を窺うと、これらの人の大部分がアジア系を中心とした外国人のようです。うーむ、これまた及びでないかと退散。

 エントランスの近くに「瀬長島龍宮社」というのが祀られていました。その説明書きを移記しておきます。

瀬長島龍宮社
 瀬長島は古来より神の島と呼ばれ、龍神をはじめ神々が宿る聖地として尊崇されてきました。
 瀬長島ホテル開設にあたり、沖縄の平和と繁栄を祈念して、阿含宗開祖桐山靖雄大僧正猊下より大龍神を勧請賜り、ゆかりの神々とともに、ここ瀬長島龍宮社に奉安させていただきました。
  平成24年12月19日  WBFリゾート沖縄株式会社

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 それにしても瀬長島は変わりました。もともとは神の島だったのが米軍の占領するところとなって島民が移転を強いられ、近年はウチナーンチュのデートスポットとして知られ、浜で釣り糸を垂れるオジサンや飛行機を見に来た家族連れなどで賑わい、捨て猫が多くいたりしたものですが、今ではそれがリゾート地になっちゃったのかぁと、ちょっとオドロキです。


 旧糸満街道にある「海洋食堂」。ここには糸満バイパスができる前からお世話になっていて、何年ぶりになるのだろうな、久々の訪問となりました。

 狙うのは「豆腐ンブサー」750円。
 海洋食堂の前進は豆腐屋さんなので、こういう珍しいメニューだってフツーにあるわけで。
 「ンブサー」とは、沖縄料理でいう味噌煮、味噌炒め煮のこと。さあどういうものが出てくるのかと楽しみにしていると・・・。
 じゃーん! 来ました、ンブサー。
 あっさりした味噌味で、ニラが散らしてあります。トッピングは豚の三枚肉。これでコクを出しているということでしょうか。

 オドロキというか笑ってしまうのは、この豆腐の多さ。スーパーで売っているパック豆腐の2つ分近くはあるんじゃないの。
 まあ、豆腐は好きだし、おいしいのでなんとか腹に収めましたが、どう考えても多いですよ、これ。
 加えてどんぶりめしにおからにそばスープですからねえ。

 はあ~、満腹だぁ。この小上がり座敷にそのまま横になりたい。
 この店のホール担当は、赤いポロシャツを着た小柄で元気なおばあ。面と向かっては訊けませんが、75ぐらいですか? 「はい、にいさん、ンブサーね」と声は元気だけど、座敷の奥に座っている自分のような客は、おばさんの声に応じて上がり框のほうまでごちそうの載ったお盆をもらいに行かなければなりません。はい、それもまた楽し、です。


 次は、西原町へ。「サワフジの碑」があるという西原町立図書館を目指します。
 図書館に着いてまず目に入ったのは別の碑でした。ん?
 それは「比嘉春潮顕彰碑」でした。おお、比嘉春潮。

 比嘉春潮(1883~1977)は、沖縄郷土史家であり歴史学者。沖縄県庁職員を経て、1923年に上京、改造社の編集部に勤めながら、沖縄学の第一人者だった伊波普猷の影響を受けて沖縄研究を始め、また、柳田國男らをメンバーとする南島談話会に加わって民俗研究に取り組んだ人です。
 比嘉についてはかつて「比嘉春潮 ~沖縄の歳月 自伝的回想から」(比嘉春潮著、日本図書センター、1997)を読んでいるので、ある程度は知っているつもりです。
 また、伊波普猷関連の書物を読むと、この人が頻繁に登場します。東京大空襲後、自宅を焼け出された伊波が、比嘉の自宅に身を寄せて生活していた時期があったからです。

 その彼の顕彰碑がここにあるとは知りませんでした。
 きれいに刈り込まれた植栽が配された中に、半円形の形をした白っぽい色の石に「ふるさとを愛した篤学・反骨の研究者 比嘉春潮顕彰碑」と彫り込まれ、その下部に黒石の説明板が嵌め込まれ、日本語と英語の文章が刻まれていました。
 まず、管理がとてもよさそうです。
 そして、これまでいろいろな碑を見てきましたが、柔らかめの石に直接彫り込むのならば、風化によって字が読めなくならないよう大きな字を刻するべきだし、また、多くの文字を記したいのであれば、堅い石を埋め込んでそれに記したほうがいいと思ってきたところで、そういう意味では、この碑のつくりはとてもいいと思います。

 下部の説明文(日本語部分)は、次のとおり。

比嘉春潮顕彰碑
 比嘉春潮は、沖縄の歴史や民俗の研究に大きな足跡をのこした偉大な研究者です。
 1883年、西原間切(現西原町)翁長で生まれました。沖縄県師範学校を出て小学校長、県庁の役人、新聞記者をしたあと41歳のとき、上京。その間、伊波普猷と出会って沖縄歴史への関心を深め、東京では柳田国男のもとで民俗研究に励んで「翁長旧事談」をはじめ郷里西原関係の研究も数多く発表しました。
 敗戦後は、在京の伊波普猷、仲原善忠らと共に沖縄人連盟の設立、沖縄文化協会の創設にかかわり、郷土沖縄の復興支援と沖縄研究の基礎づくりに尽力するとともに、自らも農村経済史や文献研究で優れた業績をのこしました。
 温厚篤実な人柄と謙虚な研究姿勢は多くの人から深く敬愛される一方で、権力におもねることのない硬骨の研究者としても知られ、主著「沖縄の歴史」は、庶民の側から書かれた初めての歴史書として高く評価されています。1977年逝去、享年94歳。
 ここにふるさとを愛した篤学・反骨の研究者・比嘉春潮の遺徳を称え、功績を後世に伝えるためにこの碑を建立します。
  2006年3月31日  比嘉春潮顕彰碑建立期成会

 碑の裏面の記載により、期成会が起工し町に寄贈されたこと、2014年2月10日に改造・移設されたことがわかります。移設とは、どこから移設したのだろうな。
 なお、揮毫者の豊平峰雲は、1942年石垣市新川生まれ、93年沖縄タイムス芸術選賞の大賞受賞、2007年には沖縄県文化功労賞を受賞した人。


 で、「サワフジの詩」歌碑。
 「比嘉春潮顕彰碑」が図書館の建物の左手(西側)にあるのに対し、こちらのほうはそれの南側、道路に近い敷地の南西角地に建っていました。

 こういう碑があると知ったのは、沖縄タイムスの次のような記事でした。

西原町でお披露目(沖縄タイムス 2015年7月25日)
 内間御殿にある樹齢約400年のサワフジに命や平和の尊さを託して歌った「サワフジの詩(うた)」の歌碑が、このほど西原町立図書館に完成し、17日に除幕式があった。
 昨年9月に歌碑建立期成会(波平常則会長)を立ち上げ、同年11月のチャリティーコンサートなどで計180万円を集めた。
 「サワフジの詩」は1997年、町嘉手苅出身で元沖教組委員長として復帰運動にも取り組んだ故平敷静男さんが作詞し、石川静枝さんが曲を付けた。
 平敷さんの長男の好宏さんは「家族として誇らしく、うれしいです。オヤジは何て幸せなんだろう」と頭を下げた。
 「サワフジの詩」は、若柳喜之介日舞教室の新川愛子さんが日舞にしたほか、手話ダンスサークル「月桃」で大城洋子さんが振り付けを教えている。

 ――ということで、「サワフジの詩」は知らなかったのですが、1997年につくられた比較的新しいものなのですね。
 林美伶という台湾出身の歌手が歌いCD化されているとのことです。

 碑のほうは、先の比嘉春潮顕彰碑と同じような白っぽい石にそのまま詩が刻されています。
 その内容は次のとおり。

サワフジの詩   作詞 平敷静男  作曲 石川静枝
  夜露に咲いたサワフジが  内間御殿の夕まぐれ
  香りほんのりかぐわしく  寄っておいでと呼んでいる
    戦もしのぎよみがえる  命の尊さかみしめて
    平和をねがうサワフジの  姿うないの心意気
  夜のしじまのその中で  清らにさけるサワフジの
  明日に夢見るあですがた  うないの姿を写しみる
    けだかく白きサワフジは  文教の町西原の
    永久(とわ)の栄えを招く花  実(げに)もろびとの愛の花

 七五調で、用語もヤマト風。ウチナーグチっぽいのは「うない」(女性の兄弟、姉・妹の意)ぐらいでしょうか。
 碑の裏には、「この歌碑は、故平敷静男氏の「サワフジの詩」に込められた平和の心を顕彰するために建立する」との記載があり、2015年7月吉日の建立です。
 揮毫者の新川善一郎は、西原町文化協会会長。

 ところで「サワフジ」って何かわかります? これ、「サガリバナ」のことなのです。おれは知らなかった。
 サガリバナは、日本では奄美大島以南に自生する常緑高木で、マングローブの後背地や川沿いの湿地に生育します。総状花序が垂れ下がり、花は横向きにつく。開花時期は6月後半から真夏まで。たった一夜だけ咲き、芳香を放って、夜明けとともに散ってしまうので、「幻の花」といわれる。花弁は白または淡紅色で4枚あり、おしべは多数。――とのことです。

 「サワフジの詩」が「内間御殿にある樹齢約400年のサワフジ」を歌ったものと知れば、内間御殿にも行ってみたくなるのが人情というもので。
 町立図書館からはすぐ近くだし、寄ってみることにしましょう。
 内間御殿に来るのは2回目。1回目のときは単に御殿を見に来ただけだったので、サワフジの木などは眼中にありませんでした。旅なんて、そんなものですよ。知れは知るほど見たくなるものです。
 で、今回も敷地を囲む石垣に沿って駐車させてもらい、前回同様、子どもたちの遊ぶ声を聞きながら御殿へ。あいにく石垣調査中で、敷地内にフェンスが立てられ手前と奥が分断されています。
 入り口に写真や絵地図の入った「内間御殿の概要」と「内間御殿整備の歴史」のふたつのコンクリづくりの案内板があったので、日本語テキスト部分を以下に移記しておきます。



内間御殿の概要
 内間御殿(うちまウドゥン)は、琉球王朝第二尚氏の始祖、金丸(のちの尚円王)の旧宅跡地に創建された神殿(東殿)を中心とする祭祀施設です。
 1454(景秦5)年 、尚泰久が王位に即位すると、金丸は内間の領主となりますが、それから王位につくまでの15年間この地に住んでいたと考えられています。尚円王は即位から7年後の1476(成化12)年に亡くなりますが、その後約190年経った1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられました。これが内間御殿の整備の始まりとなります。その後は、幾度かの改修工事を経て琉球王国の国家的聖地として整備されました。
 内間御殿は、国家的祭祀だけでなく、地域や村落の祭祀を執り行う場所としても利用されてきたことから、幾つもの信仰に支えられた神殿であったことが窺えます。
 このように内間御殿は、沖縄における祭祀信仰の実態を知る上で極めて重要な遺跡として、2011(平成23)年2月に国の史跡に指定されました。

内間御殿整備の歴史
 内間御殿の整備は、尚円王没後約190年を経た1666(康煕5)年頃に国相・向象賢(羽地朝秀)の進言によって、旧宅に茅葺の建物、東殿(東江御殿)が建てられたことから始まります。
 1679(康煕18)年東殿の周囲を竹牆(ちくしょう、竹垣)としましたが、1689(康煕28)年に東殿が破損したため樫木で改修し、瓦屋根に葺き替え、村人を看守につけました。
 続いて1706(康煕45)年には、西原間切に住む人々が資金を出し合い、東殿の北側に茅葺の西殿(西江御殿)を建てたところ、王府はこれを関連施設として追認し、看守(御殿守)を配しました。
 ところが1735(雍生13)年、東殿に賊が入り、宝枕が盗難に遭ったのをきっかけとして、管理の強化が図られることとなります。1737(乾隆2)年には、西殿が瓦葺に改められ、周囲に竹牆が備えられました。1738(乾隆3)年には東殿の屋敷囲いを竹牆から石牆へと改造し、本門と脇門を設けました。また、改修の経緯を刻んだ先王旧宅碑記を中庭に建て、本門の軒には尚敬王の自筆の扁額を掲げました。この改修により最も重厚な姿となりました。
 両御殿は、その後の沖縄戦で焼失しましたが、石牆や先王旧宅碑記の台座などは残っています。戦後の1951(昭和26)年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東殿跡にトタン葺に改築。1974(昭和49)年には、東殿が大屋の当主中山正雄氏によって、トタン葺の神屋から、現在のブロック造りの神屋(2間×2間半)に改修されました。
 今後の整備については、戦前に撮影された写真を中心とする資料や、発掘調査の成果を基に復原・整備を行っていきます。

 1666年に東殿、1706年に西殿がつくられ、フェンスははじめはなかったのが、その後竹、石へと変わっていったことがわかります。戦後の御殿はトタン葺だったというのも逸話の一つでしょう。

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 そして、肝心のサワフジの木がこれ。
 木のそばには平成26年3月に西原町教育委員会が建てた「町指定天然記念物 内間御殿のサワフジ(サガリバナ)」の説明書きがあり、「地元では、その花の形状が“鳩目銭をぶら下げているのに似ている”ことから、“銭掛け木(ジンカキーギー)”とも呼ばれています。2012(平成24)年5月8日に、西原町の天然記念物に指定されました。」との記載がありました。
 ん? でも、樹齢400年とは書かれていなかったな。

 これにて西原町は終わり。次は沖縄市の泡瀬方面へ。沖縄市で歌碑を2つ見ます。


 沖縄市比屋根(ひやごん)にある社会福祉法人緑樹会の「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の敷地内に「てぃんさぐぬ花歌碑」があるというので見に行きました。
 事前情報では、施設敷地の角地に碑があり、2014年3月に除幕式が行われたとのこと。

 住所をナビに設定して行ってみるとその場所は、R329の比屋根交差点から県道85号を泡瀬方面へ進み、道路の右手、「居酒屋味自慢」の黄色い看板(これは目立つ!)があるあたり。
 その施設は3階建ての大きなもので、敷地の北西角地に碑がありました。

  てんしやごの花や 爪先に染めて 親の寄せ言や 肝に染めれ

 ――と、見事な草書体で刻されています。
 しかし、町の中にあるケアハウスの前で碑の写真を撮っている人間というのは、全体の風景の中でかなり異質な印象。おれは介護施設と居酒屋との狭間で何をやっているのだろうという自己嫌悪を感じます。まあ、でも続行するからこそ自分なワケで。

 碑の左脇にあった説明書きには、次のとおり。

 この歌碑の琉歌は、読人知らずで琉歌特有の表記を施されている。詠み、謡うなど音声を施す場合は、「てぃんさぐぬはなや ちみさちにすみてぃ うやぬゆしぐとぅや ちむにすみり」となる。
 てんしやごとは、鳳仙花のことで、本来の花の色は赤だが、現在は白、ピンク、紫のものがあり、また、赤や紫と白の絞り咲きもある。爪に染めるので爪くれないという名もある。
 果実は、熟すと果皮の内外の細胞の膨圧の差によって弾性の力を蓄積し、弾けて種を遠くに飛ばす性質がある。
 歌の意味は「鳳仙花の花は爪先に染めて、親の教えは心に染めれ」である。
 沖縄の民でこの歌を知らない人はいない。
 親の教えとは、人の道である。
 人の道とは、弱い人を助けて、自立して歩む道である。
 民は「孝順父母」のこころを「てぃんさぐぬ花」として結実させ、礼楽の極みとした。
 そのたおたおとした旋律は、すべての人の唇に乗り、歌い継がれ、血肉化し、はたして国土の悠久の魂に昇華したのである。
 社会福祉法人緑樹会は、「ケアハウスてぃんさぐぬ花」の落成を記念し、この琉歌を茲に刻する。


 「人の道とは、弱い人を助けて、自立して歩む道」あたりが福祉的でいいですね。
 この碑はケアハウスの落成記念につくられたものでした。
 見事な草書体は、川上秀苑という書家によるものです。

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 福祉施設にある碑をもうひとつ。それは、沖縄市胡屋の沖縄長寿センター「緑樹苑」の敷地内にあるという「山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑」です。
 先に今帰仁村謝名で「平良新助翁の像」と「ヒヤミカチ節歌碑」を見てきましたが、沖縄県民にとってこの歌は大切なものなのだろうなと、改めて思ったところ。
 事前情報によれば、「緑樹苑」は山内盛彬が1979年に入所した老人ホームで、碑は山内氏の生誕120年を記念して、2011年3月27日に除幕されたものだとのこと。

 沖縄市胡屋7丁目にあるという「緑樹苑」にたどり着くまではちょっぴり苦労。ナビがなければおそらく到達できなかったと思います。狭い道を行きつ戻りつして、ああここかと。苑の手前にあった来客駐車場にクルマを停めて歩いて行きます。
 苑内は広く、様々な福祉施設が並んでいます。おそらくこれらすべては緑樹苑の経営でしょう。
 緑樹苑? あれ、ここ、さっきの比屋根のケアハウスと同系列ってことか。ナルホドなあ。

 歌碑は、広い敷地の真ん中、樹木や植栽、いくつかの鉢植え、果ては石敢當まで配備されて、手入れが行き届いた形で建っていました。
 表面には「ひやみかち節」の歌詞のほか、その五線譜、山内盛彬の詠んだ琉歌で構成。
 五線譜の楽譜付きというのがユニークで、テンポ60のAnimato(元気よく、生き生きと)でうたうことまで付記されています。
 そして歌詞。

ひやみかち節
   作詞  1番 平良新助  2番3番 山内盛彬
   作曲  山内盛彬
 1 七轉び轉で ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ
 2 花や咲き美さ 音楽や鳴り美さ 聴かさなや世界に 音楽の手並
 3 我身や虎だいもの 羽つけて給ぶれ 波路パシフィック 渡て見やべら

 さらに氏の琉歌。
  「滅びいく文化 忍で忍ばれめ もちと命かきて 譜文に遺くさ」
   (山内盛彬翁80才詠・自筆)
 歌意は、「滅んで無くなる文化は忍ぶだけでは忍ぎきれない。自分の持てるものすべてと命を賭けて譜面として残したい」というところでしょうか。

 碑の裏面には、次のような説明が記されており、建立に至った経緯や山内盛彬の人となりについて理解をしたところです。

 コザ市名誉市民の山内盛彬翁は齢90にして妻ツルとともに昭和54年に開設した緑樹苑に1番目に入居された。1年8カ月間の苑生活を過ごされるなかで、行事の折々には王府おもろ等の古謡を謡い、利用者和睦につとめられた。
 また、過酷な歴史に翻弄された郷土を琉球禮楽によって復興するという崇高な使命感に駆られ、その旺盛な琉球音楽研究伝承活動は多くの人々に希望と勇気を与えた。
 時あたかも本年は、翁の生誕120年の寅年にあたり、奇しくも翁の作りし「ひやみかち節」響む甲子園で春夏連覇が成し遂げられた。まさに紫紺と深紅の優勝旗が波路パシフィックを渡ったのである。
 よって翁の遺徳を偲ぶ歌碑を建立する。
  山内盛彬歌碑建立実行委員会  委員長 安仁屋眞昭
  社会福祉法人緑樹会  理事長 金城和昌


 甲子園の春夏連覇とひやみかち節を関係づけたあたりがこの碑の真骨頂でしょう。

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 これまでアルコールといえばビール、焼酎、日本酒、バーボン、ジンなどを愛飲してきたのですが、「今どきワインが安くておいしいのです」と、人が言う。たしかに、飲んでみるとこれで数百円!? と瞠目せざるを得ないシロモノが出回っているようなのですね。

 で、いろいろとワインに目を向けてみると、スーパーなどではもちろん、コンビニなどでも安いワインが売られていることに気がつきました。ワインなんて、これまでノーマークだったもので。(笑)
 そして今回、某ドラッグストアに赴いたところ、そーゆーところでもワインは売られているのですな。

 ワインねぇ。ま、ようやく春もやって来たことだし、アパートでは酒類が尽きてきているし、それでは1本買って飲んでみっか。
 ということで買ってきたのが、チリ・ワイン。サンタ・ヘレナ社の「アルパカ・カベルネ・メルロー」というもの。「一個人」という雑誌(?)の「1,500円以下の赤・白 極旨ワイングランプリ」という企画で第3位に入ったものなのだそう。
 いろいろあっての入賞なのでしょうが、自分にとってはアルパカのシルエットが入ったシンプルなボトルデザインが気に入ったというか、アイキャッチがわかりやすいというか。
 750mlのこれが税込みで516円。ビールなんかより安く酔えるんじゃないか?

 よしよしそれではと、日頃買い慣れないスモークチーズやクラッカーなんかも買い込んで、休日の風呂上がりに飲んでみました。
 うまいんだな、これが。どううまいなんて、門外漢の自分には語れないけれども、飲み続けてきたものたちとはまた違った味と雰囲気と酔い。
 これはなかなか極上ですよ。
 金をたくさん出せば幸せになれるかもしれないけど、ちょっぴり出しただけでも幸せになれることもある。そういう幸せこそが、求めるべき幸せであろうと思うのですよ。


 次に向かったのは、沖縄市のコザ十字路近くにある「銀天街」。
 かつて栄えたアーケードの付いた商店街で、沖縄訪問時には頻繁に利用するサンサン通り(国道330号)を走っていていつもアーケードの入口が目にとまるのですが、まだ歩いたことはなかったので、今回寄ってみたところ。

 R330を挟んで向かいにある沖縄海邦銀行の開放駐車場に停めさせてもらい、コザ十字路の信号を渡ります。
 コザ十字路はすっかり開発が進んで、かつての猥雑感はほぼ失われています。初めてここを訪れてから17~8年ぐらいしか経っていないのに、こんなに変わってしまうものなのかな。
 神谷幸市が主宰し、玉城一美もホームグラウンドとしている「民謡スナック花ぬ島」がまだ存在し、営業を続けていることが一筋の光明といえるでしょうか。

 で、銀天街。
 先に読んだ「沖縄 オトナの社会見学 R18」(仲村清司・藤井誠二・普久原朝充、亜紀書房、2016)によれば、
 「コザは、米軍基地によって人工的につくられた街で、この十字路に市が建ち並び、それが銀天街に統合されていったという経緯があり、それはそれは賑わっていた。1960年代には映画館も何軒もあり、華やかな街だったそうです。
 ・・・銀天街は、1951年4月、軍道24号線(現:国道330号線)と軍道13号線(現:国道329号線)の交差点にバラック小屋を建てて商売をはじめたことから市場に発展したそうです。その後、コザ十字路市場組合と隣にできた本町通り会が1976年に合併して銀天街と名付けていますね。しかし、例によっていまは寂れきっています。県道の拡幅工事もあり、銀天街自体も縮小されてしまった。」――とのこと。

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 コザ十字路から銀天街の入口までの数十メートルほどは、通りに面した古い建物が今風のアートなイラストでデコレートされており、巨大壁画のよう。これも活性化のための取り組みでしょう。
 テーマは琉球絵巻だそうで、琉球王朝時代から沖縄戦、アメリカ統治時代から復帰後の暮らしまで、時代を象徴するモチーフが明るいタッチで描かれています。

 その下の歩道が広くなったところに、イラストとともに次のような記載を含む説明板があったので、以下に引用しておきましょう。

1960年~70年代 コザの庶民文化の発展~そして未来へ~
地元に愛されるコザの台所
 黒人街だった照屋の地域は、同時にこの地域に住む庶民の台所としても、大きく発展していきます。銀天街商店街の前身である、十字路市場(1977年創立)と本町通り(1980年創立)が合併し、1978年にアーケードが整備されると、銀天街は最盛期を迎え、当時125軒の商店が軒を連ねていました。
 黒人街を近隣に据える銀天街は、外国人向けの飲食店や衣料品店が多く立ち並び、ペイデイ(給料日)ともなると、外国人の買い物客で夜中まで賑わっていたそうです。
 また、地元の台所としても発展していったこの街は、食材や日用品を買いに地元住民も多く往来し、特に旧暦のシチビ(節目・旧暦行事の日)にもなると、松風~まちかじ~、カタハランブーなどのご馳走を買い求めて全島から人が集まり、今でもその名残りがあります。

 昭和55年前後が最盛期だったのですね。
 今も「コザ十字路通り会」が機能しているようで、秋には「コザ十字路まつり」が開かれているということです。

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 で、そのアーケードの下を歩いてみると、ご覧のとおり。自分はこれを見て、ネーネーズのCD「明けもどろ~うない」(1997)のジャケットを思い出してしまう。(そちらのアーケードはここのものではありませんが)
  アーケードはあれども、商店がないのだな。空き店舗はNPOの事務所になっていたりしています。これってある意味、見事というしかありません。
 むしろ人が寄ってきそうなのは、この通りからさらに路地を入っていった迷路のようなところ。そこにある飲食店に何人かの人がいて、飲んだり話したりしている様子が伺えました。

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 銀天街の南側のアーケードが切れるところはこんな感じでした。

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 銀天街を抜けた先は、アーケードこそなくなるものの、街路樹が植えられた商店街風の道が蛇行しながらなだらかな上りになって続いています。どうやらここが、かつて「照屋黒人街」といわれたところのよう。

 ベトナム戦争時、米軍の白人たちは胡屋のBCストリートやそこから近い(「コリンザ」から北へ数分)八重島などを根城にしていたのに対し、黒人たちはこの照屋地区で毎夜出征の憂さを晴らしていたのだそうです。
 持参した地図を付しておきますが、太線部分が銀天街で、その先、線で囲った部分あたりが旧黒人街です。そのような地名があるわけでもないので、なかなか場所が特定できなかったものですから、ご参考にどうぞ。



 「沖縄 オトナの社会見学 R18」(前出)によれば、照屋黒人街は、
 「付近の路地を分け入っていくと、以前バーだった建物や、米兵向けに性風俗業をやっていた建物が残っています。当時の照屋について書かれた本を読むと、照屋にまぎれこんできた白人が黒人兵士にリンチされているシーンが必ず出てきます。馳星周氏の小説「弥勒世」(註:角川文庫。これも読んだな)も、照屋の乱闘シーンからはじまります。
 もともとは白人もいたのですが、当時の人種差別が原因で対立が激化して、白人が城前や八重島のほうへ移動していくかっこうになります。これが自然発生的にそうなったのか、問題発生を避けたい軍の「政策」によってのものなのかについてはUSCAR(琉球列島米国政府)の文書資料を調べている研究者の間でも議論があるようです。」――とのこと。

 なお、「城前」とは、R330を挟んで反対側、車を停めた銀行のあるあたりをいうようです。

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 街並みは、一言で言って「古色蒼然」。くたびれたコンクリートが、皺を幾重にもたたえた古老の皮膚のように思えます。それらの一部はご覧のとおり。
 中には「OREGON」などと書かれていた跡も。かつてはこの建物の中でドル札が舞い、黒人の大声とハーニーたちの嬌声が夜な夜な聞こえていたのでしょうか。

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 チリ・ワインの次はスペイン・ワイン。
 イオンに買い物に行ったら、総菜売り場の前にディスプレイされていたので、思わずゲット。だって税込み429円なんだぜ。

 「CAREO TINTO」。舌触り滑らかでフルーティなワイン。トマトベースのパスタや普段使いの家庭料理によく合います――とのこと。
 ラベルには闘牛と思われる牛のシルエットが描かれています。

 さっそくクラッカーとチーズで部屋飲みしました。
 ワインはうまいな。ちょっと贅沢な気分に浸れるし。
 単身赴任のアパート暮らしということもあって、ワイングラスがないのが残念なのね。