沖縄・那覇の花街で生まれたとされる名歌「西武門節(にしんじょうぶし)」。その元歌だったのが羽地内海に端を発した「ヨーテー節」であることを明らかにしたのが、しまうた研究者の仲宗根幸市でした。この歌、沖縄には珍しい三拍子なんだよねえ。

 そんなことを思い出しながら次に訪れたのが、名護市我部にある「我部平松之址の碑」でした。
 今帰仁からワルミ大橋を渡って屋我地島の我部へ。その集落にある我部公民館前の道路を挟んで北側、やや東手前にその碑はあるらしい。これはちょっと難易度が高いかな。
 その場所って、「平松広場」? そこには野外ステージもあるらしい。

 我部公民館の背後地にクルマを停めさせてもらい、県道110号を北側に渡って、斜め右へと続く細い道を躊躇しながら進んでいくと、民家の庭のようなところに出てしまいました。これは私道なのかもなあと思いながらさらに進むと、お、目の前にはだだっ広い広場と碑が!
 たしかに野外ステージもあったりしますが、なんだかすっかり放置されている感じです。
 でもいいんだ、碑を見なきゃ。



 かつてここには「蔡温松」と呼ばれた大きな松の名木があり、「ヨーテー節」の一節に「朝凪と夕凪 屋我地漕じ渡て 我部の平松に 思い残ち」と歌われた松だったのだそうです。
 歌意を自己流に解釈すれば、朝早くでも夕遅くでも、羽地内海の対岸から船で屋我地島に漕ぎ渡って、我部の平松の前でかわいいあの娘たちとモーアシビがしたい・・・といったところでしょうか。

 広場の南側、一段高くなったところに建っている碑には「平松之址」と大きく刻字されており、よく見るとその下に小さな文字で「朝凪と夕どり やがじ漕じ渡て 我部の平松に 想い残ち」とありました。そうそう、この歌です。
 碑のうしろ側には「昭和58年8月建立」と。

 今となってはかつての美観は失われてしまいました。これも、人々の生活スタイルが変化し、集落から人口が減ったがためのことなのでしょうが、過去を想像するよすがとして、かろうじてこの碑があると理解しましょう。
 この地の松の下に佇んで、若いエネルギーが歌垣となって燃え上がった時代があったということに、静かに想いを馳せてみたところです。

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 屋我地島から名護市真喜屋へと進む道すがら、左側に誰かの像と碑を発見。ノーチェックだったけどこれは何?と、近くの横道にクルマを停めて見に行ってみました。ここは屋我地島の屋我というところなのかな。
 それは、「山里將晃教授之像」。琉球大学名誉教授・名桜大学名誉教授(経済政策)という方です。

 礎石の上に教授が立っており、その左手には「思いやり」と書かれた副碑、正四位勲三等に叙する旨を示す碑、「夫子の道は忠恕のみ」と記された弟子一同からの碑。
 その真後ろには質素な琉球家屋が建っていますが、この像の人物と何らかの関係があるのでしょうか。

 礎石に嵌め込まれた「山里將晃先生を慕う碑文」を以下に移記。

 先生は1950年琉球大学開学と同時に入学。在学中、留学試験に合格。米国ミシガン州立大学を卒業後、同大学大学院へ進学し修士号を授与された。
 帰沖後琉球大学に赴任し、直ちに沖縄経済の自立化の研究にとりかかった。
 沖縄経済の構造的特質を「ザル経済」としてとらえ、一貫してその理論的解明と政策的処方の究明に努める一方で、研究成果を政策立案の現場に反映させていった。沖縄の施政権返還の時期には、復帰対策県民会議の委員として経済学の立場から論陣を張った。復帰後においては、第1次から3次にわたる沖縄振興開発計画の策定・推進のための国の審議会委員や県の審議会委員・審議会会長の要職を歴任した。その透徹した理論に加えて、県内産業界に多くの知己を得た人ならではの実践的かつ感性豊かな政策提言を行うことによって、復帰前後の激動の時代の沖縄経済の発展方向を示し、その礎を築くのに尽力した。
 「地域づくりは人づくりから」の信念にもとづき、後輩の指導・育成に心血を注いだ。大学にあっては、山里研究室から、地域の経済問題を共に考える仲間となる研究者や地域経済を牽引する産業界のリーダーを数多く送り出している。
 学外にあっても、沖縄の将来の姿や産業発展、企業経営のあり方について、若い人たちと大いに語り合い、彼らのなかに明日の沖縄を担う志を見出すことを何よりの楽しみとしていた。つねに人を愛し、地域の明日を憂い、使命感に燃えて闘闘する人であった。
 私たちに道標を与えてくれた先生の生きざまに尊敬と感謝の念を捧げる。
  平成12年(2000年)11月14日
   山里將晃教授銅像建設期成会代表
    山里門中(敖氏)  山里將堅  山里將則

 2002年6月逝去。この文章を読む限り、資質、能力、性格いずれをとっても天下一品という感じの人ですね。いるんですよ、世の中にはこういう人が。でも、天邪鬼の自分はこういう人とはきっとうまくやってはいけないのだろうと思う。
 もう一言申し上げれば、沖縄経済の自立化は当時からほとんど進んではいないと思われるのだけど、それって成果主義の立場から言えばどうなのか。とまあこのように、デキスギ君に対してはつい反発してしまうんですよねぇ。(笑)
 次に向かったのは、国頭村奥間。奥間カンジャー(鍛冶屋)跡があり、そこに建つ「かぎやで風節」歌碑を見ようというわけです。
 下調べの段階ではその場所をピンポイント化することができず、現地に赴いてから探そうと臨んだもので、今回の碑めぐりの最難関になるのではないかと思っていた場所でした。

 R58から奥間の集落に入り、その中心地と思しき「奥間共同売店」へ。売店が閉まっていたのでその駐車場を拝借し、そこからあてずっぽうに東側の山手のほうに歩いてみました。鍛冶屋跡というのならば、集落のムトゥヤ、つまりは発祥の地である風水のいいところだろうから、背後には山があるのだろうと考えてのことです。



 戦時に使われたと思われる燃料タンク様のものをそのまま赤く塗って鐘にしましたといった感じの構造物が際立つ小さな公園を過ぎて直登気味に東進していくと、その左手、かつては宅地だったと思われる土地がすっかり畑と化したようなところにぽつんと碑が建っているのが見えました。
 これもノーマークだったけど、あれは何? 失礼ながら入っていきます。

 それは、「大田政作誕生の地」の碑。
 天然石に、「勅任官」「大田政作誕生の地」「元琉球政府行政主席」「勲二等瑞宝章」と書かれた4つのプレートが嵌め込まれているだけの、シンプルなものです。
 名前は聞いたことがありますが、その人となりなどについてはよく知らなかったので、帰ってから調べてみました。

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 ウィキペディアによれば、大田政作(おおたせいさく、1904~1999年)は、琉球政府の政治家。元琉球政府行政主席(1959年10月~1964年11月)。
 沖縄県国頭郡国頭村出身。つまりはこの奥間の出ということかな。
 早稲田大学法学部卒。大学在学中に高等文官試験に合格し、長崎地裁や那覇地裁の判事、台北地方法院検事局検事を歴任。澎湖庁の庁長で終戦を迎える。
 戦後は熊本で弁護士をしていたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄に赴き、副主席に就任。59年に政府主席に就任すると同時に、保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると総裁に迎えられる。
 主席在任中は、実務者レベルによる日本政府との協力関係を築くことを模索し、日米琉懇話会の設置を提唱する。しかし米国民政府のキャラウェイ高等弁務官が沖縄政財界に対し積極的に介入し(キャラウェイ旋風)、沖縄自民党内の派閥抗争が激化。西銘順治ら反主流派が沖縄自民党を脱党するに至り、責任を取って辞職した。
 辞任後は東京で弁護士を開業し、65年の参院選に自由民主党公認で出馬、221,478票を得たが落選した(この参院選には安里積千代も無所属で出馬したが69,251票を得るに止まり落選している)。70年に自民党沖縄県支部連合会長に就任、復帰後の72年、最初の沖縄県知事選挙に立候補したが、現職の行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた。

 99年に95歳で逝去しましたが、当時の沖縄県知事稲嶺恵一によれば氏は、分け隔てなく誰とでも話す人情味豊かな人柄で、常に青年のような情熱を持ち、多くの県民に慕われていたといいます。

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 2017年1月に買った本は、次の13冊です。

1 奪われた物語 大兼久の戦争犠牲者たち  大城貞俊 沖縄タイムス社 201606 1620
2 武士猿(ブサーザールー)  今野敏 集英社文庫 201205 777
3 インターフォン  松田良孝 タイムス文芸叢書 201501 756
4 コトバの生まれる場所  崎山多美 砂子屋書房 200402 2160
5 南海の歌と民俗―沖縄民謡へのいざない  仲宗根幸市 ひるぎ社 199002 古888
6 ナマコもいつか月を見る  椎名誠 PHP文芸文庫 201701 734
7 十字路が見える  北方謙三 新潮文庫 201612 594
8 沖縄問題 リアリズムの視点から 高良倉吉 中公新書 201701 885
9 逆軍の旗  藤沢周平 文春文庫 201402 古411
10 喜多川歌麿女絵草紙  藤沢周平 文春文庫 201207 古335
11 闇の穴  藤沢周平 新潮文庫 198509 古258
12 闇の歯車  藤沢周平 中公文庫 199811 古258
13 長門守の陰謀  藤沢周平 文春文庫 200907 古357

 このうち沖縄関係本は1~5、8の6冊。1~5は那覇沖映通りのジュンク堂書店で買ったもので、本土で手に入れようとすると容易ならざるものも含まれています。4なんて、本土では定価よりもずっと高い値の古書しか入手できないものな。

 5も、今では入手困難なのだろうと諦めていた仲宗根幸市もの。懐かしい新書版赤装丁、ひるぎ社のおきなわ文庫の中の1冊です。
 6、7は、文庫が出たら買うようにしているシーナと北方謙三。北方はハードボイルド系のみで時代小説は省いていますが。
 9~13の5冊は藤沢周平。藤沢作品については発行年の古いものから順に読み進めていて、その1~9番目を読み終えたところ。今回の5冊は10~14番目のもので、1976~78年の作品。アマゾンの古書サイトから安く買って、少しずつ楽しく読んでいます。

 自分の場合1か月に読む本の量はせいぜい6~8冊程度。ということは、ひと月に13冊も買っていればだんだんストックが増えてしまい、このままではヤヴァイ。
 とりわけ沖縄関連については、買ってから1年ぐらい読まずに塩漬け状態になっているものもあり、全体の把握ができず、在庫管理が不能になっているようなありさまです。
 まあ、たくさんある「積ん読」品の中から気分次第、より取り見取りで読む本をチョイスできるのは、それはそれでシアワセなことなのだけど。




 「大田政作誕生の地」の碑からさらに東へ。道の左手には「金万川」と掘り込まれた古い石井戸のある芝生がうっすらと生えた空き地があり、そこからさて「かぎやで風節」の歌碑はどこだと目線を上げると、おおっ、数十メートル先に画像で見たのと同じ碑が見えるではないか。
 案ずるより生むが易し。カンタンに見つけてしまいましたよ。
 道を登りつめた正面に赤瓦の平屋が建っており、その前にどどんと碑が建つという珍しい眺め。しかも、その建物からは何人かの人たちの話し声が聞こえてきますから、まだ現役の屋敷のようです。

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 その「かぎやで風節」歌碑。
 2011年10月9日、沖縄の鍛冶屋の祖として知られる奥間鍛冶屋(オクマカンジャー)の子孫が詠んだとされる「かぎやで風節」の原歌を刻んだ歌碑の除幕式が行われました。
 碑の建立は、鍛冶屋の子孫である東嵩純さん(88)と親族の宮里繁さん(89)が、「先祖の功績を形として残したい」との思いで数年前から検討し、実現させたのだそうです。
 その碑には、次のように刻まれていました。

かぎやで風節
 あた果報のつきやす  夢やちやうも見だね
 かぎやで風のつくり  べたとつきやさ
  偲祖徳  嵩純書

 「大きな果報が得られようとは、夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろな物を作ってきたから、そのおかげで果報が身にぴったりとついた」――との歌意だというのですが、現在歌われている「かぎやで風」の歌詞とはまったく異なります。言うには、これが原歌だと。
 碑の礎石部分に説明板が埋め込まれていたので、以下に移記。

 第二尚氏の始祖尚円王・金丸は、不遇の若いときに奥間の裏山にあるインツキ屋取にかくまわれて世話になった奥間鍛冶屋の旧恩を忘れず、その後1470年に琉球王に就くと奥間鍛冶屋の次男正胤を国頭按司に取り立てた。
 その時、正胤が喜びのあまり即興で詠んだ「大きな果報が得られようとは夢にも見ない事であった。鍛冶屋でいろいろ物を作ってきたが、そのおかげで思いがけぬ果報が身にぴったりとついた(いいことをすると思いもよらぬ果報があるものだ)」という意味の歌が「かぎやで風節(鍛冶屋手風節)」の原歌といわれ、今日まで伝わっている。
 「かぎやで風節」は、国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事等祝意を表すときに歌われる事が多い。また国王の御前や高貴の座で恩納節など5節1組の初めに奏されることから「御前風」の異名もある。
 2011年8月吉日
 奥間鍛冶屋子孫:座安家(屋号 東り)
 建立奉加:宮里繁・東嵩純

 「かぎやで風節」は、沖縄ではお祝いの席で必ず演奏されるもの。祝いの場の種類によって、正月用、結婚式用、新築時用など様々な歌詞があるのだそうです。


 赤瓦の建物と「かぎやで風節」歌碑のあるところの左奥は広場になっていて、そこには「奥間鍛冶屋発祥の地」碑が建っていました。これも2011年の建立で、まだ新しいです。
 碑文は、次のとおり。

奥間鍛冶屋発祥の地
 奥間鍛冶屋は沖縄の鍛冶屋の祖として知られている。
 国頭・奥間の地で誕生した奥間大親は、後に浦添間切謝名村に居住し、長男察度(1321年~1395年 浦添按司・中山王)と次男泰期・金満按司ほかを生んだ。
 泰期・金満按司は、異母兄察度が1350年中山王に就くと、兄の使者として1372年~1382年の間5回、明に進貢に遣わされ、これが琉球と明との通交の始めとされている。明との交流はその後の琉球の政治・経済・文化の発展に多大な影響を与えている。
 泰期・金満按司は明から、当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識、技術を身につけて、後に奥間に下って鍛冶屋を始めたとされている。
 奥間は山林が間近で、水、炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父奥間大親の出生地であることが、奥間の地を選んだ理由と思われる。
 泰期・金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及し、農耕、生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられている。
 この泰期・金満按司が奥間鍛冶屋の始祖である。
  2011年8月吉日
  奥間鍛冶屋子孫 座安家(屋号 東り)

 わかりやすくていい文章です。
 なお、泰期については、読谷村では同村宇座の出身だとされていて、商売の神様のように扱われ、残波岬に銅像が建っているのだそうです。これもいずれ要チェックやな。

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 広場のさらに奥の山裾には何か祠のようなものがありました。その手前には小さな沢が形成されており、そこに架かる小橋を渡っていく道があります。
 もともとこの祠こそが始祖を祀っていたものなのでしょう。いわゆるカニマン御嶽というものか。そしてこの川が、金満(カニマン)川なのでしょうか。

 なかなか味のある佇まいをもった集落でした、奥間。旧米軍の保養地としてよく耳にする程度の地名でしたが、こういう歴史があるんだなあ。
 「奥間巡査」という池宮城積宝の小説があったよな。これは苗字。「青空文庫」で読んだっけな。


 続いては、名護の市内にとって返して、「大兼久節」の歌碑を見ます。奥間から名護までは45分ぐらいかかったかな。やんばるはけっこう遠いのだ。
 「大兼久節」の歌碑は、名護十字路から県道84号を西に200mほど進んだところにある沖縄銀行名護支店の脇に小さく鎮座しています。これまでも何度か目撃したことはあるのですが、しげしげと眺めたことはありませんでした。

 古典音楽「大兼久節」に謳われる歌詞は次のような内容で、それが碑に刻まれています。

 名護の大兼久
 馬走らちいしよしや
 舟はらちいしよしや
 わ浦泊
  大兼久馬場跡
   長さ120間 巾8間
  1963年10月建立  名護町

 「名護の大兼久は馬を走らせるのによいところだ。船を走らせて楽しいのは我らの浦泊だ」というのが歌詞の内容で、つまりはこの県道84号そのものが、大兼久の馬場だったところなのでしょう。
 先に見た今帰仁の今泊もそうでしたが、かつての沖縄の集落は馬場や神アシャギのあるところが中心になっていたので、ここも集落一の重要な場所だったのでしょう。
 幅8間と言えばだいたい15メートル。それが200メートル以上続いていたというのですから、当時としてはかなり広い場所だったはずです。
 この碑があるために、そういうことにも思いを馳せてこの場所に佇むことができるわけで、碑の効用というのかな、碑を建てる意味は深いわけなのです。



 さあ、そろそろ那覇方面へと戻ろうか。
 でもせっかく名護まで来たのだからと、変わりゆく名護十字路の様子や、こちらは変わることのない「ヒンプンガジュマル」を見ながら車を走らせました。
 東江の名護博物館まで来たところで、入口に鎮座する名護親方の像が目に留まりました。博物館の展示物については過去に2度ほど見ていますが、像まではつぶさに見ていなかったなと思い、クルマを下りて見てみたところです。
 「程順則聖人像によせて」と題する説明板から移記。

 名護親方程順則(1663年~1734年)は那覇久米村に生まれた。
 沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。近世の沖縄を代表する政治家であり、その人格と素養によって人々から「名護聖人」と称され深く尊敬された。
 彼は、また文学者、教育者としても名高く、自らすぐれた漢詩文を作り、1718年には琉球初めての学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立している。
 20代のころから中国に渡ること5回、中国から持ち帰った「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には人が人として守らなければいけない六の教え(六諭)がわかりやすくまとめられている。この本は薩摩を経て八代将軍吉宗に献上後、和訳され江戸時代中期から明治初めまで庶民教育の教科書として全国に広く普及し用いられた。
 程順則は享保13年(1728年)66歳の晩年、名護間切の総地頭に任じられ名護親方(なぐうえかた)と呼ばれるようになった。
 彼が亡くなったあと、名護番所(今の役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(みじうがん)」として、「六諭」の書を掲げ、その遺徳を偲んでいる。
 この儀式は現代にも引き継がれている。

 六諭 孝順父母 父母に孝順なれ   (父母に孝行しなさい)
    尊敬長上 長上を尊敬せよ   (目上の人を尊敬しなさい)
    和睦郷里 郷里は和睦せよ   (郷里にうちとけなさい)
    教訓子孫 子孫を教訓せよ   (子孫を教え導きなさい)
    各安生理 おのおの生理に安ぜよ(おのおの生業を安んじなさい)
    母作非為 非為をなすなかれ  (悪いことをしてはならない)
 2000年7月 名護市

 那覇久米村生まれの程順則が功なり名を遂げて、晩年には名護間切の総地頭に任じられ、名護親方となった――と。

 なお、那覇市久米1-6-14には「程順則生家跡」があるのだそう。(プレートのみ)
 また、那覇市波ノ上にある孔子廟内には「程順則名護親方寵文頌徳碑」建っているといいます。ここ、この後に行ったのだけれども、見逃しちゃったんだよなあ。これも改めて今後対応ということで。



 名護博物館のまわり、西側と南側には、立派なフクギの木が何本か立っています。ここはきっと由緒ある場所なのだろうということは、木々の立派さからある程度想像できます。
 そのフクギの木について、次のような説明板がありました。

沖縄県指定天然記念物 名護番所跡のフクギ群  昭和48年3月18日指定
 名護番所は王府時代から役所として利用されてきた所で、現在は名護博物館となっています。その敷地を囲むように生育するフクギ群は推定樹齢約300年、当時の地頭代屋部菊陰が植栽したといわれています。樹高は17~18m、胸高直径は最大で83cmが2株、以下76、67、54、42cmが各1株です。
 県内において、このように巨大なフクギ群は極めて稀なことから沖縄県指定天然記念物に指定されました。
 フクギはオトギリソウ科の常緑高木で、花は5~6月に咲き、果実は球形で8~9月に黄熟します。フィリピンと八重山群島に自生し、沖縄島では御嶽や屋敷などに植栽されています。木の成長は遅いが、防潮樹として優れており、暴風雨から家や集落を守ってきました。樹皮からは黄色の染料がとれ、染物に使われています。
 フクギの高く空を突くような樹冠と厚い光沢のある葉は、沖縄の伝統的な景観を特徴づけ、建物と集落をひきたたせています。
 市民ならびに県民の財産として大切に保護していきましょう。
  平成9年(1997)3月
  沖縄県教育委員会 名護市教育委員会

 ここはかつての番所の跡なのですね。またこの地は名護町の役場としても使われていたようで、説明板には大正9年建築で、昭和33年頃の役場の建物が写真入りで紹介されていました。その建物は赤瓦屋根の琉球民家風。西側に正面入口を持って建っていたようです。
 載せている写真でいうと、真ん中に写る木の奥、看板の立っているところあたりが旧役場の入口だったようです。

 フクギと言えば、備瀬のフクギ並木が有名です。それと比べるとこちらは本数こそ少ないですが、幹回りが太く、古くからあったことがうかがえます。
 フクギで自分にとって印象的なのは、やはり離島。1位は波照間島の集落だろうか。あと、伊是名島の伊是名集落や、渡名喜島なんかもよかったなぁ。


 国頭から那覇に戻る途中、高速を石川ICで下りて、中部地域のスポットをいくつか見て回ります。まずは読谷村喜納にある「道の駅喜納番所」に寄ってみました。
 ここに寄るのは、この番所が再建整備されたばかりの頃以来2度目になります。
 広い駐車場に車を停めて、周辺を含めて見て回ります。駐車場の西側道路は広々としていて、おそらくここもかつては馬ウィー(琉球競馬)が行われていた場所なのではないかと思料します。

 駐車場から番所までは芝が張られた公園になっていて、少し色褪せてきた「喜納番所周辺観光案内図」がありました。その文章部分(一部)を以下に引用。

喜納番所
 番所とは、間切(まぎり)と呼ばれる琉球王国 時代の地方行政区に置かれた拠点施設で、現在の役場に相当します。喜名は首里・那覇と国頭(くにがみ)地域の中間にあり、徒歩で双方の地域から朝に出発するとちょうど夕方頃に着く地理的位置であったため、旅人が宿を求める宿場町として賑わいました。その交通の要衛に喜名番所は置かれました。
 1853年には来沖したペリー提督の調査隊一行も訪れています。廃藩置県後にはその役割を引き継ぎ、1897年より間切役場、1908年より村役場として、読谷の政治・行政の中心的な役割を果たしてきました
 2005年、番所は往時の雰囲気をそのままに、観光案内所として整備されました。発掘調査の結果に基づいて、屋根にはかつてと同じく灰色瓦を使用しています。

 ははあ、番所の整備は2005年。ならば、自分の初訪問は10年以上も前だったことになりますね。
 番所の建物を正面から見たのがこの写真。初めて見たときは木肌の色がもっと白かった印象があります。
 「道の駅」と言っても、観光案内所的な利用形態になっていて、他と違って売店などはありません。

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 敷地内には「第33回 全沖縄美化コンクール 県緑化推進委員会会長賞・優秀賞 受賞記念碑」(2005年2月建立)なんてのもありました。
 それには、「なぐみ思わしゅる 喜納村ぬ番所 東太陽うがでぃ 栄てぃいかな」(詠人 照屋 健)という琉歌が刻まれていました。

 参考までに、照屋健さんとは、読谷村喜名に生まれ育った沖縄古典音楽・野村流音楽協会師範・組踊伝承者。数年前、地元への想いを込めて「喜名の番所」の歌を作詞作曲し、オリジナルのCDに収録し発売したらしいのですが、これがその歌詞なの?


 喜納番所から旧読谷飛行場跡を走るだだっ広い道を経由して、次に訪れたのは、読谷村楚辺のトリイステーション至近にある「赤犬子(あかいんこ)宮」。ここも何年ぶりだろうな、10年以上経過しての、おそらく3回目の訪問となります。
 琉球古典音楽の始祖と讃えられる「赤犬子」の終焉の場所。
 赤犬子は琉球古典音楽の始祖と称えられ、楚辺では村の守り神として崇拝されていて、毎年旧暦9月20日には赤犬子まつりが行われるのだとのこと。また、毎年秋頃に開催される読谷まつりでは、「赤犬子琉球古典音楽大演奏会」が行われるのだそうです。地元では絶大な人気があるのですね、赤犬子。

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 3台がやっとという狭い駐車スペースにクルマを頭から突っ込み、クモの巣が邪魔をする石段を上っていきます。そんなに来る人が少ないところではないと思うのだけどな。
 石段を登りつめる左手前には、「赤犬子終焉之地」の石標とともに、「歌乃道ひろく 世界に輝かち 犬子ねあがりや 末代までも」と記された野村流音楽協会読谷支部が建てた碑が。
 でもって、登りつめると祠様の建物があり、右側に「赤犬子」、左側に「アカヌクー改修碑」がありました。

赤犬子(あかぬく)
 “歌と三線の 昔始まりや 犬子ねあがりの 神のみさく”と謳われているように、「赤犬子」は琉球音楽の世界では唄・三線の始祖として信仰されています。
 「赤犬子」は今から凡そ500年前、琉球国が近隣諸国と信仰や交易を深め、琉球文化の隆盛が築かれた尚真王(1477~1526)時代に活躍した人だと言われています。1623年に編さんされた“おもろそうし”には、「赤犬子」の偉業を讃える歌が40余首も記述されており、おもろ歌・音楽に卓越した吟遊詩人であったであろうことが、歴史書からも伺い知ることができます。
 一方、楚辺区の古老伝承によれば、「赤犬子」は大家のカマーと屋嘉のチラー小との子で、長じては三線をたずさえて各地を巡り歩き、唄・三線を広めるともに、先々の事を予言したりし、さらに、唐から楚辺むらに五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ちかえった偉大なる人物と伝えられています。
 この地は晩年を迎えた「赤犬子」が生まれじま・禰覇村(現楚辺)にたどり着き、杖にしていたデーグ(ダンチク)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。楚辺区では古くからウガンジュ(拝所)として崇拝され、毎年旧暦の9月20日(昇天した日)には「五穀のンバン(御飯)」などを供えるとともに琉球古典音楽や舞踊を奉納し唄・三線の始祖・五穀豊穣の神・むらの守り神として崇めたて祀る「赤犬子ステージ」を催しています。また1981年の第7回読谷まつりからは平和の神・文化の神として「赤犬子大主前」がまつりステージにお迎えされ「赤犬子琉球古典音楽大演奏会」が盛大に開催されています。
  1996年10月吉日  読谷村楚辺区

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アカヌクー改修碑
 ここは琉球音楽の始祖「赤犬子」昇天の地である。この地は昔から楚辺区のウガンジュ(拝所)で「アカヌクー」と呼ばれている。
 赤犬子は唄・三線の神、五穀豊穣をもたらす神として崇められ、楚辺区では毎年旧暦9月20日に「赤犬子スージ」を催している。
 帰村10年目にあたる1956年、太平洋戦争により古郷を奪われた楚辺人が新たな楚辺部落の復興と平和の世を願い、アカヌクーにお堂を建立し周辺を整備した。この地を参拝する古典音楽愛好者や人々は絶えることがなく、近年、読谷まつりやサンシンの日には赤犬子を讃える祭りが華やかに催されている。
 本年、アカヌクーにお堂が建立されて40周年の記念すべき節目を迎え、更なる文化芸能の発展・平和の尊さ・歴史の重さを後世に継承することを楚辺区民の総意とし、アカヌクーの改修整備を計画し完了した。
 本事業は楚辺区の21世紀をめざしたむらづくり「きらめくユーバンタと赤犬子の里」の一環であり、読谷村の助成等もいただき行われたものである。
  1996年10月31日(旧暦9月20日)
  読谷村楚辺区民一同


 次に目指したのは、嘉手納町青少年センター。
 ここには「天川の池の碑」と「野國總管像」と「喜屋武朝徳顕彰碑」があるというので、よしっ、まとめ見だ!と勇んで向かったところ。
 比謝橋の南側の袂に位置するこの建物は、もともと嘉手納町立図書館があったところですが、その図書館が新しくできた嘉手納ロータリープラザに移転・集約されたため、今はうたた荒涼といった感じ。かつては文化ゾーンとしていろんな像や碑がここに集められたのでしょうが、すっかり人気がなく、なんだか寂しい感じがします。
 でもいいや、まとめ見するんだもん。

 しかし、駐車場にあるはずの「野國總管像」が見えません。手元の資料によれば「野國總管像」はすぐ奥に見える「天川の碑」の手前にあるはずなのだけどなあ。
 でもって、「野國總管像」があるはずのところには似ても似つかぬ別の像。それは、「幸地亀千代先生像」でした。
 う~む、これは事前に察知し得なかった展開。あまり納得いかないのだけど、じゃあまず、その亀千代ちゃんから攻めてみることにしますか。

 幸地亀千代(こうちかめちよ、1903~1969)は、琉球古典音楽野村流歌三線演奏者。北谷間切嘉手納村水釜(現嘉手納町)生まれ。
 16歳の頃、勢理客宗徳から野村流の手ほどきを受け、瑞慶覧朝蒲・伊差川世瑞・高安朝常らに師事して琉球音楽を学ぶ。1949年に師範免許を受け、野村流音楽協会の再建に尽力し副会長に就任。55年、ハワイ支部・北米支部から招聘を受け音楽指導に出向。63年、野村流音楽協会第6代会長に就任。66年、琉球古典音楽連盟が結成され副会長に就任。伊差川・世礼の「声楽譜付工工四」の扱いを実技をもって示し、後進を指導。野村流の普及発展と音楽協会の地歩を固めるのに大きく貢献した。堂々たる体躯で美声に恵まれ高音にすぐれていた。

 知らない人ではなかったけど、改めて経歴を見るとなかなか立派な人のようですね。

 和装の幸地亀千代の胸像があり、その右側に琉歌の刻された副碑。副碑の内容は次のとおり。

 幾としになても 歌の長道や 歩みわん奥の 果やしらぬ

 幸地亀千代師匠の胸像は嘉手納町水釜に建立されましたが、手狭になり拝謁及び捧奏等に大変支障をきたしておりました。
 この度、幸地家並びに嘉手納町の御厚意によりこの地に移設することが出来ました。
 移設により県内、県外はもとより国外の野村流関係者の拝謁及び顕彰が容易くなったことはまことに慶びに絶えません。
 幸地亀千代門下会を代表し衷心より感謝申し上げます。
   記
 建立 1964年11月1日
 移設 2006年9月23日
  幸地家
  幸地亀千代門下会

 亀千代ちゃんはここに2006年からいらっしゃったというわけなのですね。
 ということは、やはり自分の資料の読み間違いだったのかな。
 でもまあ、ここで亀千代ちゃんに会えたのは、終身名誉監督風に言えば、いわゆるひとつのラッキーでしたね。


 亀千代ちゃんの胸像の奥には碑がもうひとつ並んで建っており、それは空手の大家、喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)の顕彰碑です。
 チャンミーグヮーに関しては今野敏の小説「チャンミーグヮー」を読んでそのたゆまぬ鍛錬をする姿に強い共感を抱いているので、とても興味のある碑です。
 少し笑っちゃうけど、チャンミーグヮーの顕彰碑を前にして喜んでいる沖縄観光客なんて、そういるものではないよな。

 石碑の主部分は、「拳聖 喜屋武朝徳先生 通称 チャンミーグヮー」との記載。出で立ちのすらりとした、見栄えのいい碑です。
 基礎部分に「顕彰碑の説明文」のプレートが嵌め込まれていたので、以下に引用しておきます。

 喜屋武朝徳先生(明治3年~昭和20年)は、近代沖縄が生んだ傑出した空手道の名人である。通称「チャンミーグヮー」として知らぬ者なき武名を天下に轟かした。
 先生は、明治3年首里の名家に生まれ、多感な幼少時代を東京で過ごし、在京中(現二松舎学院大学)で漢学を学んだ。
 幼少の頃、父から空手道の手ほどきを受けた先生は、東京から帰郷後は、いわゆる首里手や泊手の達人たちに師事を受け、さらに修練を積み空手道の大家となった。五尺たらずの小兵ながら、先生の技は鍛え抜かれた力強さと飛鳥の如き早技であったという。
 明治43年頃からは比謝川の河畔に居を構えて、嘉手納在の県立農林学校生や青年師範学校生、警察署署員、そして近隣の青少年などに清貧に甘んじながらも無報酬で、空手道の「技」と「心」を伝授した。厳しい稽古の中にも深い学識と温かい人柄は、すべての教え子から敬慕された。文武両道に優れたまさに拳聖と呼ぶにふさわしく、我々門弟・孫弟子たちは、ここに碑を建立して、先生の遺徳を偲ぶものである。
  平成11年(1999年)7月吉日
  仲里常延(知念村) 平良一男(勝連町) 富盛正雄(与那原町)
  親川千吉(知念村) 親川仁志(西原町) 佐久川政信(佐敷町)
  石井徳男(京都府) 仲里武思(与那原町) 花城清成(知念村)

 うーむ、いい話だなあ。
 チャンミーグヮーは首里士族の出であるはずなのに、どうしてチャタンヤラ系のお膝元であるこちらと関係があるのだろうと思ったものですが、その疑問も後年「比謝川の河畔に居を構え」たという上記の説明で氷解したところです。


 そして、嘉手納町青少年センターの駐車場にあるモニュメントの3つめは、「天川の池の碑」。最も奥まったところの山裾に建っています。
 「天川」は琉球古典音楽の曲。自分にとっては「天川」は、喜納昌吉の父喜納昌永の歌う三線の早弾きによるものがあまりにも印象的。「唐船ドーイ」のウタムチにも似たところがあり、絶叫調でうたわれるそれは民謡とは思えないぐらいのグルーヴ感があります。
 その喜納昌永は2009年、88歳で死去。正調琉球民謡工工四の作成など民謡の普及と保存に尽力するとともに、嘉手苅林昌、前川朝昭、普久原恒勇らと琉球民謡協会の設立に携わり、民謡テレビ番組、民謡クラブの看板歌手として活躍した人でした。

 碑に刻された「天川」の歌詞。
 天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ

 天川の池で遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを他人は誰も知らない――。
 この琉歌は三線音楽の始祖赤犬子の作だと伝えられています。
 碑の台座に、天川についての説明があったので、以下にそれを移記。

 比謝橋を渡り、那覇へ向かってまっすぐ行くと、戦前まで石を敷き詰めた幅1間程の坂道があり、俗に天川坂(ビラ)と言った。その登り口の東側、カシタ山のふもとのンブガーの西隣に、直径2尺ぐらいの円筒形に積み上げられた井戸が天川[天井戸(アマカー)]と言われた。
 このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌雄のおしどり見て、比謝川と天川井戸を結びつけて、約450年前、赤犬子が上記の歌を詠まれたものと思われる。
 (沖縄県文化財調査報告)(嘉手納町史民俗資料編)
  平成8年8月30日 建立

 これに記載のとおり、比謝橋のたもとには「天川」と表示された、円形に石を積み上げた見事なカーがあるのだというのですが、残念ながらこれは見ずじまいになってしまいました。



 午後4時半を回って、この季節の東北地方なら薄暗くなり始める時間帯ですが、沖縄の太陽はまだ元気。もう少しこのあたりを見ていきましょう。
 次に寄ったのは、少し戻って、国体道路沿いにある「道の駅かでな」。ここには嘉手納飛行場の米軍ジェット機の離発着を見に何度か訪れたことがありますが、野國總管(のぐにそうかん)像を見るために来ることになるとは思ってもいませんでした。最近は見るものがかなりマニアックになっているので、こういうことって時々あるのですけどね。

 野國總管とは、嘉手納町野国出身で、尚寧王時代に首里王府の貿易船の總管役を務めた人。
 琉球国時代の役人の正装をして、手に芋を持っています。
 台座に嵌め込まれた銅版には次のように記されていました。

芋大主 野國總管
 野國總管(嘉手納町野國出身)は、西暦1605年に中国から初めて甘藷を琉球に持ち帰りこれを島中に広めた。
 当時の琉球は度々大飢饉に見舞われていたが、甘藷の普及により人々は飢えをしのぎ、餓死者も出さずに済んだと言われている。總管はこの功により人々から「芋大主(ウムウフスー)」と呼ばれ、尊敬された。
 甘藷は、1615年、英国人ウィリアム・アダムスによって那覇から長崎に伝わり、その後日本各地に広まるようになり、享保の大飢饉をはじめ数々の飢饉に際し、多くの人命を飢えから救う貴重な食糧となったのである。
 私達は、郷土の先達野國總管の偉業を讃え、これを町民の誇りとして後世に伝えるため、本商工会設立15周年を記念し、この顕彰碑を建立する。
  1990年1月5日
   嘉手納町商工会
   謹書 中根 聖   原型指導 喜友名朝紀

 また、その左にあった「野國總管甘藷伝来400年祭」の説明板には次のように記されていました。

 2005年、嘉手納町の先達・野國總管の手により甘藷が我が国にもたらされて400年を迎えるのを記念し、1955年甘藷伝来350周年祭に続く50年に一度の祭典として「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行された。
 2004年大晦日のカウントダウンイベントを皮切りに年間を通して数々の事業が展開された。
 その中心となったのは9月30日(金)の記念式典、10月15日(土)・16日(日)のまつりであり、特にまつり最終日には国道を大渋滞にするほど観客が会場につめかけるなど所期の目的を達成し大成功を収めることができた。
 この像は、その400年祭を記念して2005年6月22日に当地に移設されたものである。

 ふふふ、国道が大渋滞したことを誇らしく思っているようで、おかしい。50年に一度のビッグイベントですからね。
 1990年建立の像を2005年に当地に移設したとのことですが、もともとは嘉手納商工会の敷地内にあったもののようです。それを示す琉球新報の記事を紹介しておきます。

・100日前で野國總管像設置 甘藷伝来400年祭 道の駅かでな 2005年6月23日
 嘉手納町で「野國總管甘藷伝来400年祭」(9月30~10月2日)を開く同祭実行委員会が、同町屋良の道の駅「かでな」に野國總管の座像を設置し22日、除幕式を行った。座像の設置は同祭開催の100日前となったことを記念して実施。座像そばには、同祭の開催日までの残暦板が設置され「100日前」を示す数字が入った。
 座像は、嘉手納町商工会が1990年から、同町嘉手納の商工会事務所の敷地内に設置していたものを移設した。座像は高さ120センチ、野國總管の出身地とされ、現在、嘉手納基地内にある野国の方向を向いている。
 除幕式で宮城篤実実行委員長(嘉手納町長)は「400年の節目をしっかりと祝い、あらためて人々の命を救った恩人をたたえ、遺徳をしのびながら、真摯の精神を引き継いでいきたい」とあいさつし、全町民の祭りへの参加を呼び掛けた。

 そうか、彼は、米軍に接収されてしまった故郷野国を見ていたわけか。


 野國總管に関してもうひとつ、スポットがある。野國總管の像がカデナマリーナの入口にもあるそうなのだ。
 そのマリーナの入口まで行ってみたところ、信号機のある入口のところに大きな碑がひとつ。だがこれは像ではありません。
 マリーナ入口は、他の米軍施設と同様に入場者チェックのためのゲートが設えられており、この時間、衛兵こそ立っていないけれども、勝手に入ったりすると「ヘイユー、ハングアップ!」とか言われそうでコワイ。
 これ以上進めないので、そこでクルマを下りてあたりを見渡しますが、像は見つかりません。

 先の信号まで戻ると、碑の手前には「野国貝塚群」と記された緑色の標識。遺跡類にはまだ興味が持てないのでスルーして、「碑」のほうを見に行きました。
 それは次のとおり。

甘藷発祥の地 野国いも宣言
 1605年、我が町の先達・野國總管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國總管生誕の地・野国を発信基地として琉球のすべての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を飢えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。
 今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。
 甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國總管の偉業を奉祝する「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國總管を称え、甘藷を「野国いも」の愛称で呼ぶことを高々と宣言し、ここに記念碑を建立します。
  2005年10月1日
   野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会
   実行委員長 嘉手納町長 宮城篤実

 この日も400年祭のときにつくられたもののよう。
 それにしても、これは甘藷を「野国いも」と“呼び習わすこと”を宣言する碑であり、ユニークなものがあるものだと思う。

 結局のところ像は発見できず。ウェブ上で見た立ち姿の野國總管像はどこに行ってしまったのだろう? なんだかこの日の後半は、すっかり野國總管に振り回されてしまったような感じだな。
 さあ、もうひとつだけ。安良波公園にあるという「インディアン・オーク号漂着記念モニュメント」を見に行きます。
 1840年8月、英国東インド会社のインディアン・オーク号が台風のため安良波海岸に難破。その際、北谷の人々は身の危険も顧みずに乗員を救助し、島を去るまでの間手厚く保護した、という美談があります。その船をモチーフにしたものようです。



 安良波公園に来るのは初めてのこと。17時半を過ぎて少しずつ暗くなってくる時間帯。アラハビーチの北側にある駐車場に車を停めて、海岸沿いを南へと歩きます。子ども連れの家族、犬を連れて歩く人、バスケットボールに打ち興じる若者たち。みんな外で楽しんでいます。北国の人間から見ればそれは羨まし過ぎることです。
 海から吹きつける風がやや強いために少し肌寒く感じますが、それでも上着を羽織るほどではありません。夏の夕間暮れなんかに来たならさぞかし気持ちがいいのだろうな。

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 なかなか見つからないなーと思いながら歩を進めていきましたが、モニュメントは公園の南端のほうにありました。難破した船をかたどっているので砂地に斜めにめり込んだ形です。子どもたちのジャングルジム代わりになっているようです。

 逸話を伝える立派な石製の説明書きがありましたので、それを次に移記。

インディアン・オーク号座礁・漂着の記録
 1840年8月14日、英国船籍東インド会社のインディアン・オーク号は、台風の影響を受け北谷地先のリーフに座礁しました。
 当時のアジアやヨーロッパでは難破船は略奪される時代でしたが、北谷の村人は船を失った乗組員67人全員を救出し、帰国するまでの45日間衣食住を与え手厚くもてなしました。
 また、帰国に際しては約180トンのジャンク船を建造し乗組員に提供しました。
 インディアン・オーク号の遭難から帰国までの様子は、船員によって「海事誌及び海軍記」に記録され、大英博物館に所蔵されています。
 インディアン・オーク号の座礁地点は、調査の結果、白比川河口の真西約1,050メートル、さらにリーフを真南に約250メートル下った一帯であることが判明しています。
 この公園には、史実にもとづきインディアン・オーク号を模した帆船を設置いたしました。
  2000年7月21日 建立
 那覇に戻ってきたのは18時半前。今日から宿替えして、ゆいレール美栄橋駅近くのホテルにチェックインします。部屋に荷物を入れたらただちに出動して、沖縄旅2日目の夜は美栄橋周辺で飲み食いすることにします。
 まずは軽くジャブ程度にと、投宿しているホテル側から久茂地川を渡ってすぐそこにある「串かつとハイボールコマネチリバーサイド店」を冷やかします。キンキラ、ピカピカのネオンはキャパクラの入口のようでもあるけれども、気にしないで入ります。

 入店して、ハイボールでいくことにして、フィリピン系の店員さんに煮込みはないかと尋ねると、たどたどしい日本語で「ありません」とのこと。
 なんだよ、居酒屋なのに煮込みを置いていないのかと思いつつ、いきなりメインメニューの串カツ5本セット450円を注文。
 ハイボールとお通しのマグロ刺しが運ばれてきたので、マグロをつまみながらキューっと。



 おもむろにメニューをぱらぱらと眺めると、なんだよ、あるじゃん、煮込み。お、牛スジ豆腐というもののほうがいいかも。
 というわけで、別のフィリピン店員を呼んで、それを注文。
 ここのフロア担当は3人ぐらいいたと思うけど、その誰もがフィリピン系?で、日本人は料理人の店主だけなのかもしれません。
 ニッポンの居酒屋で外国人から「イラサマセー」と言われるのはどうもまだ馴染めないな。
 そういえば、昨日那覇空港から乗ったモノレールの乗客は外国人が多かった。おそらく7割ぐらいが外国人だったのではないか。沖縄もすっかり外国人旅行客に席巻されてしまった感がある。泊まっているホテルだって、かなりの割合で外国人がいるようだものな。

 先に運ばれてきた串カツは、鶏肉、イカ、レンコン、じゃがいも、あとは何だっけ? アッチッチのほくほくで、これが450円なら上等。けっこう腹に溜まるものでした。ソースの味もよく、満足です。
 牛スジ豆腐は650円。とろりとした牛スジが入っていて、卵も1個。こちらも予想したものより多かったです。

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 ハイボールをもう一杯といきたいところだけど、もう一軒行きたいし、店員と話すのが鬱陶しくもあり、ココはこれで切り上げることに。
 上がりで1,820円。その価格って奇しくも昨晩のおもろまちの「吉崎食堂」と同額だったわけだけれども、どちらのコスパが優れているかと問われれば、やはり「吉崎食堂」だったでしょうか。
 そうは言っても「コマネチ」だって悪くありません。15時からの営業のようだし、早い時間から飲みたいときなどはまた利用しようと思います。

 ちなみに「コマネチ」は県庁前と国際通りにも店があるようです。


 沖縄旅2日目の夜の2軒目は、正直言って少し悩んでしまいました。なんだか腹が満たされていて、「いったい今、おれは何が食べたいんだ」と井之頭五郎サンのように考えてもピンと来るものがないのです。かと言って飲み足りてはいないし・・・。
 だったらコンビニでテキトーに飲み物を仕入れてホテルに戻ってしまおうかとも思ったのですが、それも面白くない。
 そんなわけでしばし黙考して、だったらいつもの「いちぎん食堂」に行こう、そしてそこに入ってからどうしようか考えよう、ということにしたのでした。

 「いちぎん食堂」。一銀通りにある名店で、基本24時間営業で無休の店。メニューが豊富で、酒も飲めて、オマケにかなり安いのです。那覇に泊まればたいてい一度はここに来ています。

 久々に入ったいちぎん食堂でしたが、店の雰囲気は一変。テーブルの配置が変わっており、立派な一人客用カウンターができています。
 フロア係のど根性お姐さんは代替わりして、インド系なのかどうか、エキゾチックでアルカイックな静かな感じの外国人女性が。客あしらいが日本人のものとは異なります。
 食券機が導入されていて、一つのボタンにメニューが3つ書かれています。これは注文に悩んでしまいます。
 もう50年はここ一筋でやってます的な厨房の職人も代わってしまい、わりかし若い人がつくっています。

 食券機の前でしばし悩んで(今夜は悩んでばかり)、オリオン麦職人(ジョッキ)オールタイム200円と、焼めし530円に決めて、カウンターに初着席。インド風姐さんにビールの食券だけ渡して、ビールから。これが200円というのはシアワセだ。

 少し経ってからお願いした焼めしは、ビールがなくなる頃合いにドン!と登場。
 いちぎん食堂ってすごくいい食堂なのだけど、量も多いということをうっかり忘れていました。
 どうです、むき海老までトッピングされて見るからにおいしそうなチャーハンでしょ。
 ああ、おいしいのですよ。だからつい、スプーンが進んじゃって全部食べてしまうわけですよ。油も塩味も強めでジャンキー感たっぷりなのもいいわけなのですよ。
 玉子スープだってたまらなくおいしいのですよ。ですよですよ。

 とまあそういうことで、結果満腹になって店をあとにすることに。
 満腹にはなってしまったけど、酒の量は足りていないよなあ。
 しかし、下ろしたての靴で昨日から目いっぱい歩いているので、靴ずれがして足のあちこちが痛い。
 それではホテルに戻って自販機でもう1本350mlの缶チューハイを買って飲むことにしようか。それで上出来ですよ。ですよですよ。


 旅の3日目。
 泊まっているホテルではサービスの朝食が出るのだけど、パス。なぜかというと、中国系の宿泊客が多くて、その中には必ずあのへにゃほにゃ語を声高にしゃべる奴がいて、なんだオマエは!という気にさせられるので、それがいやでなるべく近寄らないようにしているのです。朝から五目おにぎりにカレーをぶっかけておいしそうに食べている奴などには、ハナからお近づきになりたくないのだ。

 で、この日は朝に何を食べたかというと、沖映通りを水上店舗方面に歩いて行き、「バーガーキング沖映通り店」でワッパーとウーロン茶、730円にしました。
 いやなに、たまたま読んでいたシーナ本「どーしてこんなにうまいんだあ」に、当のシーナがワッパーをうまそうに食べている、と書かれていたので、「おれ、それまだ食べたことないぞ」と思っただけのこと。
 いや、そうではないな、わが居住地にはバーガーキングの店舗展開がなく、食べたいと思っても食べられないのでした。
 そんなときに昨日、沖縄で店を発見したので、じゃあ明日、ということにしたものなのです。

 で、沖映通り店。1階と2階の100人以上入れる店。しかし朝のこの時間に利用しているのはせいぜい10人そこそこで、のんびりまったりとした雰囲気は沖縄そのものです。

 そのワッパー。普通サイズとジュニアサイズがあります。ワッパーの場合そのサイズ感が魅力なわけだから、レギュラーサイズを食べなきゃいかんだろうと、朝からついレギュラーを注文する中年男性。ああっ、もう。

 どひゃあ、でかっ! 直径20cm近くはあるんじゃない?!
 内心不安感を覚えつつ、いつもよりも口を大きく開けてかぶりつきます。
 ん? (もぐもぐ)うまいじゃん、これ。
 味がよければすべてよし、量などは軽くこなせてしまいます。

 食べていて思い出したけど、20年以上前になるけど、アメリカを旅していて食べたマックの大きさには驚いたものでした。大きさ自体が日本のものと全然違うのです。コーヒーなんてコーラみたいにそんなにごくごく飲むものではないでしょって。
 このワッパーは、そういう意味では単なるアメリカンサイズなのかもしれません。

 なお、包装紙にくるまれたワッパーは撮影したのですが、それでは絵になりませんので、今回はウェブから拾った画像を使わせていただきます。
 右がジュニア、左がスタンダードのようです。左はチーズワッパーでしょう。

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