1月7日から3泊4日で那覇に行ってきますが、そのスケジュールが概ね固まりました。
 琉球弧への旅はこれが通算49回目。このところ1年に1回しか行けない状況が続いており、沖縄は2015年5月に伊平屋島などを巡って以来(2016年は奄美・加計呂麻に赴いた)と、少し間が開きました。したがって、変貌していく那覇の街を確かめることも、今回の楽しみのひとつです。

 宿泊は3泊とも那覇。中の2日はレンタカーで本島を巡ります。
 初日は、おもろまちとその周辺。
 2日目は、高速で許田まで進み、ヒヤミカチ節歌碑(今帰仁村謝名)、豊年口説歌碑(今帰仁村今泊)、具志堅小唄歌碑(本部町具志堅)、我部平松之址の碑(名護市我部)、奥間東鍛冶屋跡・国頭間切番所跡(国頭村奥間)、大兼久節歌碑(名護市大中)、赤犬子宮(読谷村楚辺)、道の駅喜名番所(読谷村喜名)、天川の池の碑・野國總管像・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)顕彰碑(嘉手納町嘉手納)、野國總管の像(米軍施設カデナマリーナ入口と道の駅嘉手納の2所)、インディアン・オーク号漂着記念モニュメント(ハンビー公園)を見て回る考え。
 3日目は、天皇皇后両陛下の歌碑(那覇市沖縄県護国神社)、瀬長島ウミカジテラス(豊見城市)、「サワフジの詩」歌碑(西原町与那城)、てぃんさぐぬ花歌碑(沖縄市比屋根)、山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑(沖縄市胡屋)、銀天街と照屋黒人街(沖縄市コザ)、真栄原新町(宜野湾市)などをレンタカーで駆け抜け、夕方は那覇のおもろまち~安里~牧志~桜坂~壺屋~農連市場~開南本通り~浮島通りあたりを歩いてみようかと。
 4日目は、いにしえの那覇に思いを馳せながら「旧那覇散策」。それらは、那覇四町といわれたあたりの薩摩藩在番奉行所跡、親見世跡、天使館跡、伊波普猷生家跡、東恩納寛惇生家跡、那覇市跡、円山号跡、仲毛芝居跡、松田橋跡など。

 食事も楽しむぞ。昼食で狙っているのは、本部きしもと食堂の沖縄そば、豊見城市海洋食堂の豆腐ンブサー、首里あやぐ食堂のたくさんのメニューからのチョイス。
 夜の飲みも、いくつかリストアップしていて、その日の気分によって決めようかと考えています。

 うーむ、日程はカンペキだ。
 心配なのは天気。寒波で飛行機が飛ばないなんてことはないよな。
 あとは仕事。旅に行けなくなるような突発事件や事故が起こらないことを祈るばかりです。

umikaji 201701
(瀬長島ウミカジテラス)
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 牛尾神社から県道65号を両津方面へと進み、道の駅にもなっているという「佐渡能楽の里」に寄ってみました。ここでは、ハイテクロボットによる演能が本格的舞台で常時上演され、人間そっくりの精巧な動きを見せてくれる――というので寄ったのですが、広い駐車場だけど車はなし。やっているのかな、ココ。
 まあいいやと諦め、むしろその向かいにある長い白壁が気になったのでそちらのほうに行くと。

 そこは、「佐渡本間家能舞台」なのでした。
 事前チェックはなし。あとで確認すると、使っていた地図のコピーが一部印刷不明瞭になっていて、ちょうどそこに字がつぶれた形で「佐渡本間家能舞台」とかろうじて記載されていたのでした。おおっ、大事な場所を見逃すところだったじゃないか。

 ふつうの民家のような佇まいで、入っていくのが「侵入」のようで気が引けます。
 入り口にあった説明板を移記。

佐渡本間家能舞台
 明治18年(1885)に再建された能舞台で、江戸時代より代々能太夫を受け継ぐ本間家が所有しています。
 舞台は寄棟造桟瓦葺(よせむねづくりさんかわらぶき)で、本舞台と後座からなり、鏡板には松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。また、舞台床下には音を反響させる甕が据えてあり、計算された舞台の配置ともあいまって音響効果を高めています。さらに地謡座、鏡の間(住居内)も常設され、橋掛りは複式で裏通路が附属しています。
 本間能太夫を家元とする佐渡宝生流が本拠としてきた本格能舞台であり、毎年7月下旬には定例能が上演されます。

 古い門の前には「賜天覧 能舞台跡」の標柱が立ち、その脇には以下のような説明書きも。

天覧能演能跡
 天皇陛下(昭和天皇)は、昭和39年佐渡行幸をされ、佐渡能楽倶楽部一門は、当所に於いて能「鶴亀」の天覧を賜った。

 ふーん、そういうことなんだ。
 で、門をくぐってすすめば、左手に「宝生流佐渡能楽倶楽部」の看板がかかる建物があり、その右奥に能舞台がドン。残念ながら舞台は閉ざされていて見えません。そしてさらにその右手前には「御能見所」の小さな建物。
 御能見所の入口には次のような説明板がありました。

新潟県指定有形民俗文化財 佐渡本間家能舞台
 本間家は戦国時代当地にあった城主の家柄とも伝えられ、戦乱の難を逃れた本間家の末裔秀信は寛永18年(1641)奈良で能楽を修めて帰着。慶安年中には佐渡奉行所より能太夫を委嘱され、爾来今日まで佐渡における宝生流能楽の中心となっている。
 能舞台は明治18年に再建されたと言われ、舞台建築には禅宗の影響を受けた唐様建築の扇垂木手法が用いられ、床下には音響効果を高めるため瀬戸産の甕が一対埋められていることなどもこの舞台の大きな特色であろう。
 明治維新により幕府の庇護を失った能楽界の余波はこの舞台の建築にも及び、鏡板などの材質が極度に落ちていることなどからも当時の能楽界のありようがうかがえる。
 昭和46年に両津市文化財、平成9年には新潟県有形民俗文化財の指定を受けた。
  新潟県教育委員会・佐渡市教育委員会

 おーし、見た見た。佐渡ではいくつの能舞台を見たのだろうか。
 にわか能楽ファンにはわからないことだらけだったけど、能楽が佐渡の地にいかに根付いているかを感じ取ることができました。


 さあ、昼メシだ。
 昼食は軽くいきたいと考えて、いったん両津を通り過ぎ、加茂湖の西側の秋津にある「手打ちうどんおけさ」でうどんを食べることにしました。

 13時入店で客は自分のほかに2人組のみ。店内はガラガラなのに、店主は一人客と見るや条件反射的にカウンター席にお願いしますと。座敷で寛ぎたいし、窓際の明るいところでいい写真を撮りたいのだけど、こうも杓子定規なのはどうかと思うぞ。

 ぶっかけ820円。
 たのんですぐにサーヴ。ということはこのうどん、茹で上げじゃないよね。
 口に運んでみれば、なにこれ、冷たくないじゃん。ああもう、揚げ玉は湿気っているし。タレも瓶詰のそばつゆの濃いのがそのままじゃん。

 佐渡島ではここまでおいしいものをたんと食べていい思いをしてきただけに、少しがっかりです。
 値段のわりに見た目のグレード感も乏しく、量もほどほど。
 佐渡旅の道中「殺したい蕎麦屋」という本を読んでいたのだけど、著者のシーナマコトは4~5箸しか分量がない蕎麦を1,200円で供し、店内にビバルディを流す蕎麦屋を殺したいと評していましたが、自分もなんか似たような気分になってシマッタ。

 こういう店は夜の居酒屋で生き残るかさもなければ淘汰されるのだろうな。少なくとも麺類王国の山形では続けてやっていけない店でしょう。
 残念でした。


 佐渡旅も最終盤。両津に戻り、両津郵便局でCD機を使って車を停めさせてもらい、町の中を歩いてみます。
 ひとつめの目的地は「村雨の松」。郵便局のすぐ隣にある佐渡海上保安署の庭に立っています。ここは史跡「夷港税関跡」になっていて、次のように記された石碑がありました。

 明治政府は、明治元年(1868)夷港(両津港)を開港し、翌明治2年、当時沿海貿易のため設けられていた番所の跡に税関業務を行う新潟運上所夷港出張所を設置しました。
 同運上所は翌明治3年から夷港税関と称するようになりました。
 その後たびたび名前が変わりましたが、昭和42年東京税関の両津監視署を最後に廃止されるまでの長い間人々から夷港税関として親しまれてきました。
  平成元年5月  東京税関

 両津番所~夷港税関~佐渡海上保安署と続く歴史的な場所だ、ということなのですね。
 で、村雨の松。これもスチール製の説明板があり、次のとおりの記載がありました。

新潟県指定天然記念物 村雨のマツ  指定年月日 昭和31年3月23日
 「村雨のマツ」はクロマツの大木で、近年の実測によると幹周りは最大部分で約6メートルあり、樹高は約19メートルにおよぶ。枝張りは東西約14メートルに広がっている。
 江戸時代、ここに御番所があったことから「御番所の松」と呼ばれていたが、明治に佐渡を訪れた尾崎紅葉が、このマツを見て「村雨の松」と命名した。
 また、「松になりたや 御番所の松に 枯れて落ちても 離れやせね」と両津甚句にも唄われている。
  新潟県教育委員会
  佐渡市教育委員会

 尾崎紅葉の命名ですか。
 立派な木で、全容がフレームに入り切れませんね。


 両津でのもうひとつは、「村雨の松」からすぐ南に架けられた橋です。
 「両津らんかん橋」。何度か架け替えられてはいますが、古くからある橋だというので見ておこうと思ったものです。
 橋を渡った南側の袂にある建物の壁に、次のように記された案内板が打ち付けられていました。

両津らんかん橋の由来
 夷、湊の両町をつなぎ、両津らんかん橋の名で親しまれてきたこの橋は、昔から境橋(さかいばし)とも呼ばれてきました。橋下には、境川と称して両町を分ち、湖水が僅かに海へ注ぐ所の川があったからです。
 島の東部に位置し、相川道や前浜方面に通ずる交通の起点として、この橋が最初に架けられるのは、町がスケト・鱈の延縄漁を生業とし、また島内の重要港として口屋(後の番所)が置かれ、港町として始まりをもつ江戸初期のことです。
 御普請橋として、佐渡奉行所によって架けられたこの橋は、江戸時代を通じ幾度も架け替えが行われていますが、その規模長さを17間、横1丈はかわることなく、昭和4年の架け替えまでは木橋(板橋)でした。
 現在の橋は、昭和56年6月竣工されたもので、長さ34.4メートル、幅13メートルあります。

  両津欄干橋や 真中から折りようと 船で通うても やめりゃせぬ
  私とお前は 御番所の松よ 枯れて落ちても 二葉連れ


 なるほどね、「両津」というのは「夷」と「湊」の集落を合わせた呼び名なのですね。
 なお、「らんかん橋」というと自分の場合、奄美のシマウタでうたわれる同名の橋を思い浮かべますが、らんかん橋といわれる橋は日本全国にあり、往時各地方の道路元標ともされていて、他町村よりは欄干橋まで何里何町と表示されていたのだそうです。


 両津での3箇所めは、市内八幡若宮神社。この一角にあるという「北一輝・北昤吉碑」を見に来ました。両津らんかん橋からさらに南の湊地区、フェリーの発着所からも至近にあります。
 事前情報としては、両津湊の人々に“若宮さん”として親しまれており、毎年5月5日には例大祭「湊まつり」が開かれますが、それは若宮通り沿道に大漁旗がはためき、勇壮な練り神輿が出る港町らしい熱気があふれる祭りなのだそうです。境内には「本殿」のほか、「天満天神社」「出雲大社」「大渡海神社」の合祀殿があります。

 立派な神社。神社の鳥居手前にある説明書き(写真右手前)には次のような記載がありました。

両津湊鎮守 八幡若宮社
 鎮座地 佐渡市両津湊213番地3
 御祭神 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、仁徳天皇)
由緒
 創建年は不詳であるが、元禄5年(1692)の記録から江戸時代初期には既に鎮座されていたと推定される。当初の社殿は時宗の円阿弥寺(円阿弥堂として現存)に隣接しており同寺とは深い関係にあった。
 江戸時代には佐渡奉行の尊崇篤く、享保16年(1731)建立の本殿棟札には佐渡奉行松平兵蔵が大檀那として記されている。
 現在の社殿は昭和57年(1982)に改築された。境内地は、湊本町通りから社殿の並ぶ加茂湖岸に及び、昭和23年(1948)から29年(1954)までの道路拡張で若宮通りが整備され参道が二分されたため、二の鳥居が建造された。
 創建以来、氏子をはじめ島民から多く末社が勧請され、3棟の社殿が境内に並んでいたが、平成12年(2000)に三社として1棟にまとめられた。
 5月5日の例祭には、漁師町の象徴としての大漁旗が神社周辺を巡幸し、鬼太鼓、下り羽、芸山車、獅子など練り歩き、町内は賑わいを見せる。祭の夜には湊木遣が奉納されるなか、若衆による勇壮な練り神輿が祭りの最後を飾る。

例祭 5月5日
 かつては5月11日に湊町漁師が主体で行われていたが、昭和52年に青年有志が「若松会」を結成し、翌53年から例祭日を5月5日に変更して全町民で祭を盛り上げている。
秋祭
 9月27日には秋祭(乙祭・善宝寺祭)として海上安全、大漁満足、商売繁盛等の祈願を行う。
末社
 渡海神社(松玉神社、琴平神社、大鰭神社、秋葉神社、善宝寺龍神社を合祀)
 出雲斜(別名 大社)
 北野神社(別名 天満宮)

平成28年1月吉日  八幡若宮社


 ははあ、これはつくったばかりの看板なのですね。こういう説明がないとワカランよね。
 区画整理で鳥居がつくり直されたこと、漁師の祭りが待ちの祭りに進化していったこと、さまざまな神様がごちゃ混ぜになって祀られていることなどがわかります。
 この地域の人々の信仰の中心になっているのでしょうね。


 で、その八幡若宮神社の境内には、佐渡出身の思想家北一輝と、その弟であり政治家でもあった北昤吉の碑がありました。

 碑は、ご覧のとおりくたびれが目立ってきた感じ。ブロンズでできた顔かたちも変わり果ててなんだか怖い感じがしないでもありません。
 碑の裏には2枚の説明板。カタカナを平仮名に、旧字体漢字を現代記載に、それぞれ変えて移記しておきます。

 北一輝先生は、明治の当地が生んだ偉大な鬼才である。由来佐渡は国家と信仰とのために戦った幾多の革命的人物流謫の地であるが、特に順徳上皇と日蓮上人の英魂が先生の心霊に深甚な化を及ぼした感が深い。
 先生に於いて順逆に門無く大道一源に通じた。その一源は天皇と法華経であり、大地震裂し無量の菩薩摩訶薩湧出する革命を期して殺身供養したと称することが出来る。
 昭和11年8月19日 時に年55
 昭和44秊(ねん)5月吉日 安岡正篤 撰書

 雄渾なる佐渡の天地は一代の哲学者北昤吉先生を産む。
 先生学博く、識高く、達文雄弁、能く一世を指導す。半生を政界に投じ、その理想とする昭和維新の実現に渾身の情熱を傾く。
 偶々大東亜戦争勃発戦とするや所信に従い敢然これを阻止せんとして成らず、遂に祖国の大敗を見る。満腹の経綸空しく一場の夢と化し蕭條としてその晩年を了れり。然れども此の偉大なる先覚の心述はまた以て不朽と謂うべし。
 予先生の門下に在って其の薫陶を受くること多年、茲に無量の感慨を以て此記を作る。
 昭和44年5月 高杉晋一 撰并書

 とまあ、なにやら難しいのだけど、つまりはこういうことらしい。
 二・二六事件の理論的指導者として有名な北一輝は、1883年、湊町で酒造業を営む北家に生まれた。父は初代の両津町長となった北慶太郎である。また、2歳下の弟吟吉は、後に衆議院議員となった。
 夷の若林朔汀に漢学を習った一輝は、佐渡中学校(現佐渡高校)で飛び進級するほどの秀才だった。しかし、眼病や読書へ熱中のため、3年後に退学。その後上京し、社会主義思想に傾倒して中国に渡る。1916年、「日本改造法案大綱」を著し、帰国後は陸軍青年将校に信奉された。1936年の二・二六事件には直接関係していなかった一輝だったが、思想的な指導者と見なされて逮捕され、翌年死刑となった。

 北一輝って佐渡島の出身だったとは知りませんでした。
 ちなみに、安岡正篤(やすおかまさひろ、1898~1983)は、陽明学者・思想家。また、高杉晋一(たかすぎしんいち、1892~1978は、三菱電機の社長・会長などを歴任した実業家です。

 ついでに書いておくと、「北一輝・北昤吉碑」の側にはひとつの「五輪の塔」が。
 NPO法人みなと昭和館が立てた説明板によれば、この五輪の塔は、荘勝人という蒋介石の片腕だった人物が日本に亡命した際、北一輝らが匿った縁で、荘が北家に贈ったもの。
 塔は時代を経て北家から丹波哲郎家へ移されていたが、佐渡へ帰したほうがよいとなって、2011年に東京から運ばれてきたものだとのことでした。


 これにて予定していた佐渡島でのチェックポイントはすべて終了。ああ、見た見た。
 でも、予定のフネの出航までまだ少し時間があるな。それでは、2日目に行って探し出せなかった「日蓮聖人佐渡銅像」をもう一度アタックしてみることにしよう。高さが26メートルもある巨大な銅像なわけだから、見つからないわけがない。手元の資料がよくないだけなのだ。

 その資料によれば「日蓮聖人佐渡銅像」は、佐渡市加茂歌代字百成にあって、両津港より県立両津高校方面へタクシー5分。
 日蓮宗750年を記念し、佐渡ヶ島が日蓮大聖人の聖地であることを広く知ってもらうため、全国の日蓮宗僧侶有志が委員会を設立し銅像を建てたと。そして、その高さ26m、重さ25tは世界一。
 日蓮大聖人50~52歳のとき、佐渡島で「南無妙法蓮華経」の袈裟文字を図顕真筆され、「開目抄」、「観心本尊抄」を著して、日蓮宗を確立したというのです。
 ヒントは、所在地名が「加茂歌代字百成」であることと、県立両津高校の近くらしいこと、の2点。

 新潟県立「両津高等学校」は「佐渡中等教育学校」に改称しており、それについてはさほど悩まず、まずはその前へ。この近くで巨大像が立つのであれば、そこよりもやや山手なのだろうなと考えてきょろきょろ。うーむ、見えない。
 では実際に、集落を離れて農地しかないようなもう少し山手方面へと進んでいくと・・・。おおっ、発見! とうとう見つけました。読みどおりだな。
 それにしてもおれ、別に日蓮宗信者でもないのだけど、発見したヨロコビは大きい。しかし、どうしてここまでして銅像を見なければならないのかとの疑問は募る。

 その金色の雄姿は、一点の曇りもない青空に映えて見事。誰もいないところで目をかっ!と開いて建っている姿はかなり漫画チックです。
 向かって右手前にあった「建立辞義」の石碑(これすらかなり立派)には設置の経過などが克明に記されていました。
 こうやって巡り合えたのも何かの縁でしょうから、以下に全文を移記しておくことにしましょう。

 この銅像は、全国3千名を超える僧侶・檀信徒のご協力によって建立されました。
 全国日蓮宗青年会が、布教事業として平成10年に佐渡伝道を挙行したおりに、当地の方々から「広宣流布のため、日蓮大聖人のために活用していただきたい」と土地寄進の申し出がありました。
 時を同じくして、勧学院長の浅井円道師が講演にて「佐渡の地は立教開宗以来培われた日蓮聖人の大いなる思いが溢れだした聖地であり、その魂魄が留まっている」と力説されたのを拝聴しました。
 それらの因果を心の支えとして、島内寺院根本寺の竹中智英師、北海道妙心寺の若松宏泉師、そして旗石に刻された23名の法友と共に、日蓮聖人銅像をここ佐渡に企画建立する運びになりました。
 勿論、これは単に無意味な巨大建築をしようとしたのではありません。建立の柱となった事柄は「一般にいう記念碑や宝塔では日蓮聖人を祖師とし頌徳することは不可能である」 「あくまでもそのお姿を聖地佐渡に顕現すべきである」という本懐があったからです。
 更に、お銅像建立という一つの目的に向かうことで全国の日蓮宗信徒が心を一つにすることを生み出し、立教開宗の意味の啓蒙と、慶讃年と位置づけた平成14年という節目が何であったかを後世に残したかったのです。
 ここに参拝された方々が、何故日蓮聖人が両津に今お立ちになられたのかを再考していただくことによって忘れることの出来ない慶讃年が蘇り、その目的の経緯を750年前まで遡って考えて頂くという要素も含め、大銅像様はお立ちになられているのです。
 また、その芯にある祖師を心から敬う姿勢を社会に示すことによって、世論として先輩や先師あるいは先祖を敬う気持ちが大切であると申し上げたかったのです。
 平成15年5月13日、当日蓮聖人大銅像は除幕致しました。大勢の檀信徒に見守られ、また佐渡島内の方々にも拝されての落慶でした。そこには宗派などを越えた大きな喜びがありました。
 そして両津市長を元とする役所の方々のご協力によって盛大さを増した式典は、御仏のご加護を体感する大法要となったのです。
 ここに厚く御礼申し上げ、銅像様への参拝案内のご挨拶とさせて頂きます。 合 掌
 平成15年6月吉日
  福岡県本佛寺第九世法燈 佐野前延

 はい、よくわかりました。
 建てられてもう10年以上が経過しているようですが、その年月が嘘のような美しさ、新しさが感じられました。
 日蓮聖人佐渡銅像を見終えて14時半過ぎ。フェリーの発時間は16時5分なので、旅はここまでだな。
 佐渡汽船のフェリー発着所へと戻り、ターミナルでソフトクリームを食べて一休み。クルマを乗船の列に停め、30分前までには車内に戻っているようにと言われて、もう一度湊地区を散策。

 それにしても、佐渡島は大きかった。粟島や飛島とは比較にならない「大陸」だった。なんといってもそれらの島々とは船の便数が違う。やはり島にとっては船便が何本あるか、定期性は確保されているか、移動時間は多くを要しないか、などが何よりも重要なことなのではないか。
 飛島なんて、平日は1日1便だし、欠航率が高くて冬などは頻繁に孤立化する。そんな悲哀に晒される島民の心情はいかばかりだろうか。
 為政者は、そういうところにしっかりと目配り、気配りをしてほしいし、するべきだと思う。島民不在の島になってもいいと考えていないのであれば。

 フェリーでの2時間半は、疲れが出てかぐっすり。新潟港に着いて船底から車を出せば、夏とはいってもあたりは暗くなっていました。
 この夜は新潟の繁華街に泊まってひとり打ち上げだ。島の静かな佇まいを思い出しながら、一方で島にはない喧噪の中に身を置きながら、似ても似つかないこのふたつの状況の狭間を行き来できる幸せをかみしめようではないか。



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 というわけで、サービス画像は新潟市古町界隈にある「笑美寿亭」の、10数種類の日替わり300円メニューからチョイスした「四川麻婆豆腐(ハーフ)」と、グリーンカレー担々麺。グリーンカレーのラーメンなんて初めてだよなあ。

 思いのほかヨカッタな、佐渡旅。
 島というのは、本州ではすでに失われてしまったものが赴くたびに再発見できる、不思議な場所です。

 2016年8月に書き始めたドキュメントでしたが、2017年1月にようやく全編を書き上げることができました。
 これにて終了で~す♪
 2017年1月7日から3泊4日で那覇に行ってきました。
 琉球弧への旅はこれが通算49回目。このところ1年に1回しか行けない状況が続いていて、沖縄は2015年5月に伊平屋島などを巡って以来(2016年は奄美大島・加計呂麻島に赴いた)と、少し間が空きました。したがって、変貌していく那覇の街を確かめることも、今回の楽しみのひとつとなりました。

 事前日程としては、宿泊は3泊とも那覇。中の2日はレンタカーで本島を巡り、主として碑や像を見て回ります。
 初日は、夕方は那覇のおもろまち~安里~牧志~桜坂~壺屋~農連市場~開南本通り~浮島通りあたりを歩いてみようかと。

 2日目は、高速で許田まで進み、ヒヤミカチ節歌碑(今帰仁村謝名)、豊年口説歌碑(今帰仁村今泊)、具志堅小唄歌碑(本部町具志堅)、我部平松之址の碑(名護市我部)、奥間東鍛冶屋跡・国頭間切番所跡(国頭村奥間)、大兼久節歌碑(名護市大中)、赤犬子宮(読谷村楚辺)、道の駅喜名番所(読谷村喜名)、天川の池の碑・野國總管像・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)顕彰碑(嘉手納町嘉手納)、野國總管の像(米軍施設カデナマリーナ入口と道の駅嘉手納の2所)、インディアン・オーク号漂着記念モニュメント(ハンビー公園)を見て回り、夜は美栄橋あたりの居酒屋で南国の酒に浸る考えです。


(今帰仁村謝名)

 3日目は、天皇皇后両陛下の歌碑(那覇市沖縄県護国神社)、瀬長島ウミカジテラス(豊見城市)、「サワフジの詩」歌碑(西原町与那城)、てぃんさぐぬ花歌碑(沖縄市比屋根)、山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑(沖縄市胡屋)、銀天街と照屋黒人街(沖縄市コザ)、真栄原新町(宜野湾市)などをレンタカーで駆け抜け、体力が続けば夜は再び沖縄のうまいもので酒を。

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(沖縄市照屋)

 4日目は、いにしえの那覇に思いを馳せながら「旧那覇散策」をしてみようか。それらは、那覇四町といわれたあたりの薩摩藩在番奉行所跡、親見世跡、天使館跡、伊波普猷生家跡、東恩納寛惇生家跡、那覇市跡、円山号跡、仲毛芝居跡、松田橋跡など。
 最後に、久々に波ノ上宮に詣でて、その後ろの公園にある各種の石碑をまとめ見するのもいいかもしれない。

 食事も楽しむぞ。昼食で狙っているのは、本部きしもと食堂の沖縄そば、豊見城市海洋食堂の豆腐ンブサー、首里あやぐ食堂のたくさんのメニューからのチョイス。
 夜の飲みも、いくつかリストアップしていて、その日の気分によって決めようかと考えています。

 どうです、かなりマニアックでしょ。これだけ何度も行っていると、巨視的だった観光目線がだんだんと地を這う蟻の日常目線に変わってくるものなのですよ。
 さて、日程はカンペキだ。

 1月7日(土)、冬の天気と、突発的な仕事が心配だったけど、それぞれ問題はなく、庄内から仙台空港まで2時間半のロングドライブをし、予定どおり那覇行きの直行便に乗り込んだのでした。
 それでは、旅の顛末についてドキュメントしていきます。
 那覇の1泊目はおもろまち。いつも利用する美栄橋駅至近のホテルが取れなかったための次善策です。
 那覇空港駅では沖縄県初の交通系ICカードとして登場した「OKICA(オキカ)」を3千円で手に入れて、ゆいレールでおもろまちへと直行し、ホテルにチェックイン。そしてただちに外出です。
 16時を過ぎているけど、さすが沖縄、真冬のこの時間でもまだまだ陽の光りは残っています。そして暖かい。もちろん外套はホテルに置いてきたけど、着ていたトレーナーは即脱ぎ。そして長袖シャツは肘上までまくりますが、それでも暑いぐらいです。那覇空港の気温は24度だと機内放送していたから、東北地方とは20度ほどの温度差があるわけです。

 まずは歩いて、那覇を体感しようという考え。
 おもろまち駅の東側に渡って、かつて「ハーフムーン」と呼ばれた戦略上の高地があったところを歩きます。丘はすっかり削られて、立派な車道ができています。那覇中環状線というらしい。その北側にはかつてハーフムーンがあったことを証する切通しがあり、その切通しに付けられた階段を上っていくと古くからの住宅地がありました。つまりは、階段の長さの分だけ掘り下げて、平らな道路を造成したことがわかります。
 ずいぶんと掘ったものだよな。でも、那覇ってこういうところがいっぱい。沖映通りの南面にあるナイクブ古墓群(というらしい)だって、いずれ削られてしまいそうな勢いだものな。


(沖縄ホテルの入口の門)

 その後は、松川の田崎病院前を通り、守礼の門のような門がある「沖縄ホテル」、坂下琉生病院、メディカルプラザ大道中央(旧大道中央病院)を過ぎて、沖縄そばの「真昼御麺」が健在であることを確認し、まだ夕方なのに飲んでいる人が大勢いる栄町市場内をうろついて、ゆいレール安里駅前からダイワロイネットホテルのある安里川親水庭園へ。
 そこから国際通りをドンキホーテ国際通り店前まで歩き、その裏に広がるスージグヮーへと迷い込みます。このあたりは初めて来たところ。「にぎわい広場」と名のつくちょっとした遊び場様のところがあったりして、そこからは「浮島通り」に出ました。

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(安里川親水公園。大開発済みの場所です。)


 那覇の通りの多くは“縦走”しているのだけど、なぜか浮島通りはまだだったので、ちんたら歩いてみることにしました。一方通行の道を車の流れとは逆方向に進みます。
 「浮島通り」は、戦後すぐから営んできた古い商店に加えて、流行に敏感な新しいショップが仲間入りして、新旧入り交じったチャンプルーな通りになっていました。
 かつての浮島通りは、ここに来ればどんな用事も済ませられるような地元民の生活を支える通りだったといいます。また、刃物店、塗料店、金物店などもあって、大工御用達の道具がそろう通りとしても有名だったのだそう。
 以前あった「浮島ホテル」が通りの名称の由来。平成になり「平成通り」に名称変更しようという機運もありましたが、馴染んだ通り名は変えられることはなかったそうです。それはよかったよねえ。

 ところで、浮島通りにはインプレッシヴな建物がいっぱい。そのうちの2つの写真を載せておきましょう。



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 その後は壺屋やちむん通りを流し、開南の旧仏壇通りが区画整理でほぼ絶滅したのを見届け、人気のなくなった農連市場をうろつき、市場本通りを通って牧志公設市場前を経由して、国際通りへ。
 あとは牧志からゆいレールに乗っておもろまちへと帰着しました。

 このぐらい歩けば、旅の初日としてはまあまあでしょう。結局のところこのまちまーいで歩いたことが靴擦れとなって後に禍根を残すことになるのだけれど。


 適度に暗くなってきて、そろそろ飲み方を開始したい。でもその前に、少し腹も減っている。飲む前に沖縄らしいものをちょっぴり食べておきたい。では、あれだね。
 ということで、タコスを食べに行こう。

 少し距離があるけれども、おもろまち駅の北方面、興南高校があるほうへと進んで、「Tacos-ya新都心店」へ。
 はじめにまっすぐ奥のカウンターへと進んで注文を入れ、支払いを済ませる仕組み。空いている席で待っていると、ほどなくして品々が運ばれてきます。

 ここはタコスを1個売りしてくれるのがいい。
 タコス2個とオリオンビール、180×2+400=760円。
 タコスは、上の1個は口が開いちゃっているけど、中身はこういうつくりになっていますということがわかる点では都合がいいです。キャベツの下にはたっぷりの肉が入っていますねぇ。
 チューブに入った卓上のチリソースをこれにぶちゅっとかけて食べれば至福。トルティーヤと具のバランスも適度で、手で持って食べても中から具が溢れてくることはありませんでした。

 オリオンビールは334ml入りの小瓶。このサイズって、初めてだな。
 ああ、おいしかった。まずはこの程度でちょうどいい。旅の立ち上がりに食べるものとしては上々ではないかな。

 そして、今夜の飲み処として考えていたのが、「吉崎食堂おもろまち店」。居酒屋なのに「食堂」を名乗るコンセプトがマイハートにぴぴっと来たところ。
 それなりに沖縄らしいものをつまみながら、多少の喧噪のなかに身を置いて、一人でゆっくりと飲みたい。そんな願望を叶えてくれそうです。

 おもろまちのメインストリートと言っていい、真ん中に散策スペースを持ち幅100mはありそうな都会の盛り場風。沖縄にもこういうところがあるのだなあ。
 その道沿いにある店を容易に発見し、ただちにトツゲキです。

 紳士淑女が集っているいい雰囲気の店。カウンター席に通されて、店のおにーさんと注文品を相談します。ハーフにもできますというので、島豆腐の厚揚げとラフテーをそれぞれハーブでお願いし、これに泡盛残波の1合を合わせてみたところ。



 揚げ物は基本時間がかかるものなので、はじめにサーヴされたのはラフテー。白髪ネギと辛子が添えられ盛り付けがおいしそう。ラフテーのつゆでつくった煮卵もこってりした味がついていて、とろりとしておいしい。カラカラには菊の露と書いてあるけど中身は残波ですとおにーさん。

 少し遅れて登場した厚揚げはご覧のとおり。薬味が豆腐の間にねじ込まれているあたりがユニーク。添えられた茶色の丸いものがおろし大根と醤油。たっぷりなのがウレシイ。
 生絞り法でつくられたと思われる、沖縄らしいしっかりした豆腐でした。
 なお、左上の小鉢は、カウンターで料理をつくっていたおにーさんがつっと出してくれたサービスの紅白タコなます。爽やかな酸味が箸休めに絶妙でした。

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 ああ満足。このぐらいで止めておくと後々楽になるだろうて。
 満足度からして会計は2,500円ぐらいかなと思ったけど、1,820円で済んでしまう。こりゃ、安いよな。

 さて、旅の第1日目はこの程度にとどめることにしようか。
 それにしても沖縄は暖かくてシアワセだ。そして、歩いている人たちは本土の地方都市よりもかなり若い。平均年齢にすれば20歳ぐらいは差があるのではないか。そうなのだ、ここは沖縄なのだよなあ。沖縄、サイコーだ。
 1月8日。今日も天気が暖かい。ホテルのサービス朝食ではコーヒーを飲むにとどめて、レンタカーカウンターの開店時間である9時前には、Tギャラリアへと歩いて向かいます。
 ここではもう10回ぐらいは借りているので誰よりも手際よくレンタカーをゲット。500円のガソリンクーポン付き、2日間で5,500円ならまあまあでしょ。
 ナビに「今帰仁村謝名」と行き先を入力して出発。西原から高速を使って軽快に進みました。

 今帰仁村謝名の「ヒヤミカチ節歌碑」が最初の目的地。
 概ね1時間半後には目的地周辺に着き、謝名売店のところから国道505号線を北側に曲がって農道を300mほど進むと、右側に発見! あたり一面畑や荒れ地となっているところにゲートボールができる程度の広い砂地の空き地があり、そこに歌碑と銅像があります。なぜこんなところに?
 農道沿いには「平良新助翁生誕地」の看板が出ていたので、ここがズバリ、生誕地なのではないかな。



 下調べによれば、歌碑と銅像は平成27年11月建立。
 「ヒヤミカチ節」は1953年、今帰仁村出身の平良新助がロスアンゼルスから帰郷した際、故里沖縄の惨状を目の当たりにし、人々に希望と誇りを取り戻そうと歌詞を書き、その志に共鳴した山内盛彬が作曲したものなのだそう。
 その平良新助なる人物は、1876~1970年。初期移民の実践者で今帰仁村謝名生まれ。一時、当山久三らと自由民権運動に参画するが挫折。1901年ハワイへ渡航。カリフォルニアで農業やホテル経営で成功したという人物です。

 平良新助にまつわるエピソードとして2つ。
 金武町では、大正13年に沖縄初の鉄筋コンクリート造の学校、金武小学校が完成した。この総工費の20%は海外同胞の基金によるものであり、平良新助が中心となって集めたものだった。
 昭和6年、当山久三銅像建立と、その裏手に立つ記念会館建設の費用となる北米からの寄付金集めに尽力したのも新助だったという。

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 まずは「ヒヤミカチ節」の碑。

 ひやみかち節
 七転びくるで ひやみかち起きて わしたこの沖縄 世界に知らさ
 作詞 平良新助
 作曲 山内盛彬

 次に、「平良新助翁之像」。小柄で愛嬌のある体つきをしています。それに丸眼鏡ですから、シルクハットをかぶって気取ってみたところでそのかわいらしさは消えません。
 台座の左側面には、琉球新報社の賞状。
「賞状 平良新助殿
 あなたははやくより沖縄の社会経済の状態から海外移民の必要性を説き、率先ハワイに移民され、先駆者として辛苦によくたえて沖縄海外移民の基盤をきづき、移民県としての郷土沖縄の名声を高められました。その功績は大なるものがあります。
 茲に文化の日にあたり琉球新報社賞を贈りその功を賞します。
 1965年11月3日 琉球新報社」
 また、左側には、叙勲状。
「日本国天皇は、平良新助を君六等に叙し、瑞宝章を授与する。
 昭和45年4月29日、皇居に置いて璽をおさせる
 (大日本国璽の印)
 昭和45年4月29日 内閣総理大臣 佐藤榮作
            総理府賞勲局長 宮﨑清文
 第1845592号」

 ヒヤミカチ節は今や沖縄を代表する民謡のひとつになりました。登川誠仁がうたうヒヤミカチ節なんかは、渋かったよなあ。
 ♪ 我んや虎でむぬ 羽根付きてぃたぼれ 波路パシヒック 渡てぃなびら
 だものなあ。
 このうたのサビのところを「ヒヤー、ヒヤー・・・」としまりなく歌ってはいけないと語っていたのは照屋林助。「ヒヤッ!ヒヤッ!」とうたうのが正しいのだそうです。
 「ひやみかす」というウチナーグチで思い出すのは、沖縄闘牛の勢子が牛にかける「ディーヒャー!!」という煽り声。あれは闘牛をがんがんヒヤみかしているのだろうな。点けていたカーラジオでは勢子の誰々さんの掛け声のモノマネというのをやっていて、これが沖縄らしくてすんごく面白かったぞ。
 ヒヤミカチ節については後にもうひとつ、沖縄市にある「ひやみかち節」歌碑を見に行くことにしていますので、乞うご期待。


 「具志堅小唄歌碑」が具志堅区事務所前にあるというので、行ってみたところ。
 具志堅は、国道505号を今帰仁村側から進んで本部町に入った最初の集落。具志堅区事務所は建物入口に「具志堅地区公民館」と記されています。
 歌碑はその前庭に、誰かの亀甲墓ででもあるかのように基礎をコンクリートで固められて鎮座していました。

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 「具志堅小唄」ってどんな唄なのか詳しく知らないのだけど、この地、具志堅を誉める唄には違いないでしょう。
 碑に刻まれた琉歌は、次のとおり。

 志堅く 具えたる村名 昔名ぬ朽たん 一致すらな

 仲里甚次郎の詠によるもので、「具志堅」を織り込んだ名歌になっています。仲里甚次郎サンの詳細は不明。
 下部の副碑文は、具志堅小唄の歌詞が刻まれていました。作詞・上間清英、作曲・亀谷朝仁とあります。

 幾世重ねてん 具志堅ぬ村やヨ 変ることねさみ 人ぬ情
  (囃子)サー村ぬ情き 思い深さヨ
 村ぬ氏神や 御城に崇みヨ 御万人の栄い 祈る嬉りさ
 肝持ちぬゆたさ 乙女色清らさヨ 水ぬ花咲ちゅる 大川でむぬ
 だんじゅ豊まりる 具志堅ぬ田圃ヨ 黄金色稲や 畔(あぶし)枕
 しんぶとに登て 我した島見りばヨ 昔偲ばすさ 住賀までん
 大島新島と 佐賀屋三部落ヨ 互に手ゆ取やい 栄て行かな

 美しい詩ですね。こんなところがあるのならば住んでみたい、と思う。
 今帰仁、本部は本当に歴史のあるところで、古くから有能な人材を輩出してきた土地柄。このあたりを掘り下げれば興味深いことがたくさん出てきそうな気がします。

 2000年5月に、具志堅之碑建設委員会によって建立されたもののようです。
 次は「豊年口説」の歌碑。
 今帰仁村今泊の今泊公民館前にあるようで、これは遭遇するのにそう難易度は高くないのではないか。
 行ってみると、今泊集落はメインストリートの国道505号に面していず、そこよりも1本北にある集落内道路が中心のようでした。
 その道、一目見てわかったけど、これはかつてマーウイ(馬追い)と呼ばれた馬場跡に違いありません。200mほどが直線になっていてそこだけ道幅がだだっぴろいのです。そしてその中ほどに、神アシャギと立派なコバテイシの木を備えた公民館が。絵に描いたような集落の中心地です。

 でもって、たまたま公民館前の広場でやっていたのが「第11回 山いもスーブ」。つまりは山芋栽培者たちがつくった大きな山芋を持ち寄って、誰のつくったものがいちばん立派かを「勝負」する大会だったようです。作業服を着た大勢の関係者で賑わっていました。



 でかい公民館だし、正面の木もでかい。その木の下に、豊年口説の歌碑がありました。

豊年口説抜粋
 今帰仁城に 上て見ちゃりば 誠昔ぬ 御ひざ元さみ
 松の枝々 栄え茂りて 何時んときわぬ 緑さしすい
 流す小枝に 鷺と烏ぬ 巣ゆ替え
 小枝を枕に 月ゆ眺むる 四方の原々 作い数々
 村んうぬじと 栄え繁昌 富貴長命 あぬ家んくぬ家ん
 乗馬立てとて 遊びかじぐと 馬場乗い立て 遊び楽しむ
 誠昔ぬ 盛なる御世の 巡り逢うたさ 芽出たや芽出たや

 これの意味はというと、大意、北山城(今帰仁城)の御ひざ元のめでたい所、そこは常盤なる松の木が緑を湛え、鷺と烏が巣を作っている。そして四方の畑には一杯作物が実っている。人も鳥も大らかに暮らしている――といったところ。
 口説なので七五調。なので、ヤマトめいたキレとリズムがあります。

 この碑、昭和48年8月18日の竣工で、少々古くなっています。

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 今泊(地元ではエードメーと言うらしい)公民館周辺の状況をもう少し。
 公民館前には案内板があって、「今泊集落の概要」が記されていましたので、以下に移記しておきます。

 今帰仁と親泊が合併し今泊となる。そのため二つの神ハサギが統合されることなくある。今帰仁グスク(国指定)を抱えた字である。親泊は立派な港に由来する名称であろう。
 今帰仁グスクは世界遺産に登録され、沖縄の歴史の北山・中山・南山が鼎立した時代の北山王の居城である。麓の今泊の集落は福木に囲まれ、落ち着きを見せている。集落のほぼ中央部を東西に走るぷみちー(大道)は馬場跡である。その中央部にコバテイシ(県指定)の大木があり、付近は豊年祭の会場となる。
 麓に今帰仁ノロ殿内があり、かつては今帰仁村・志慶間村の祭祀を掌っていた。

 コバテイシの大木は、写真のとおり。
 「天然記念物 今泊のコバテイシ 昭和31年10月19日県指定」の石製説明板があり、次のとおり記されていました。

 コバテイシは、シクンシ科に属する熱帯性の高木で、葉は半落葉性で、小枝の先につき、20~30cmで大きい。果実は3~6cmで、緑色または赤味を帯び海水に浮かんで漂流します。
 今泊のコバテイシは、樹高約18m、胸高周囲4.5mで推定樹齢は300~400年で、地元では「フパルシ」と称えています。
 本種は、幹が大きく成長し輪生している枝は水平に拡がり、樹形が美しく部落の集合場や墓地などに植えられています。特にこの地のものは、古来名木として
  親泊のくふぁでさや 枝持ちの美らしさや わやくみの妻の 身持ち美らしさや
と歌われ、以前はこの樹の下で豊年踊りや競馬が行われ、また、区民の集合の場になっていました。

 エードメーの古き良き時代が偲ばれますね。「フパルシ」とは、クワディーサ(コバテイシ(古葉手樹))の今帰仁言葉だそうで、クワディーサは人の泣き声を聞いて成長するともいわれているとのことです。

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 ちなみに、神アシャギはこんな感じ。前にある石が、「今泊集落の概要」を記した案内板です。
 しかし、神アシャギを駐輪場代わりにする不届きなヤツがいるのだな。
 山芋スーブに来ていたオジサンから声をかけられ、ひとしきり話しました。普段は今帰仁グスクでボランティアガイドをしているとのことでした。


 時間は11時20分。おっと、そろそろ昼メシだ。今日は朝メシを食べていないからな。
 朝を抜いて食べようとしたのは、「きしもと食堂」の沖縄そば! この地に来たならわざわざ遠回りしたって寄りたい店なんだもんね。

 きしもと食堂はもともと本部町の町内にあり、そこが有名でしたが、町からはなれた伊野波地区に新店をオープンさせ、こちらのほうが広いし無休なので、観光客の皆さんなどにとってはこちらがメインになっている模様です。
 町内の店で沖縄そばを食べたことがありますが、それはまさにホンモノ。そのときは、つゆを一口飲んで、相席になった見ず知らずのカップルに向かって思わず微笑んでしまったことがあります。微笑まれたほうはさぞ気持ち悪かったことでしょうが、ホントは「んまぁ~い!!」と言ってしまいそうなのを必死に堪えていたわけです。

 で、こちらの伊野波の店は今回初訪問となります。
 岸本そば小、500円。
 ダシから漂ってくるかつお風味がたまりません。小さい器ですが、量はわりとある感じ。
 このすばらしいダシにコーレーグースを入れてしまうのはいかにも惜しいので、それは使わないことにしました。
 やんばる地方のものらしい太い麺。ホンモノの沖縄そばは噛んで食べるものだとの思いを強くします。首里そばなんか、よく噛まなきゃ飲みこめないぐらいだものね。
 トッピングの沖縄かまぼこと三枚肉は、本部町内のきしもと食堂と同じもの使っていると思われ、いずれも懐かしウマイ。
 醤油味が微妙に強いかなと感じましたが、こちらの支店でも伝統の美味さは健在で、大満足でした。

 あ、じゅーしー(250円)も頼めばよかったかなー。それだってゼッタイうまいはず。
 でも、ここでたくさん食べてしまうと後が続かなくなるので、まあよしとしましょう。