fushigi 201607

 手持ちの記事が尽きていて、ブログの更新が進んでいません。
 夏の佐渡島旅のドキュメントが中途になっているし、沖縄本のインプレッションも何本か書かなければなりません。
 これらについては書く気になれば書くというようなゆるゆるの構えでいるところ。なんたって、ただの趣味で書いているのだから。

 というわけで、今回の記事は蛇足の戯れ言。
 ある日、ケトばすようにしてはじっこに寄せておいた布団のほうからなにやら熱い視線のようなものを感じたので、改めて振り返ってみると、布団の中に御覧のようなブキミな表情をしたナニモノかがもぐりこんでいて、今にも話しかけてきそうな様子だったのでした。

 アレマ! いやあ、お前、ずいぶんと濃い顔してるなあ。(笑) 目の上の出っ張った骨がすごいし、鼻の下がずいぶん長く、ほうれい線がきわめて深い。それでいて、きりっと結んだ唇には奥ゆかしいながらも何らかの意志が感じられます。

 とてもいい表情だと感じたので、思わず写真を撮ってしまったところです。
スポンサーサイト


 ちくま文庫の233ページもの。
 初出は1981年といいますから、今から35年前に筑摩書房から発刊され、その5年後の1986年に文庫化されたものを、このたび古書市場から入手したものとなります。

 戦後36年、基地と観光の島と化してしまった沖縄で、女であるがゆえに負わなければならなかった過去に口を固く閉ざし、沖縄戦の深い傷痕をかかえて生きてきた女たちが、ひとりひとりの命こそが宝である世の中を願って、いまその胸のうちを語る。――といった内容のもの。
 これは読まなければならないでしょう。

 著者の真尾悦子(ましおえつこ)は、1919年東京生まれ。主な著書に「たった二人の工場から」「土と女」「地底の青春」「海恋い」「沖縄祝い唄」など。夫の倍弘は詩人。90を過ぎ、眼が見えなくなって介護老人ホームに入っていたようですが、2013年に亡くなられたようです。

 『3年余のあいだ、私は沖縄戦に遭った女の人をしつこく訪ねて、つらい体験を思い出させてしまった。いっそ、狂ってしまいたかった、と述懐した人もあった。いまでも、当時の恐怖から抜けられないでいる人たちなのである。
 何という罪ぶかい所業か、と己れを責める一方で、私はどうしても聞きたいという心の昂りを抑えられなかった。人間が殺し合う、愚かな戦争を、二度としてはならぬ、と痛いほど歯を噛み合わせてあるいた。
 沖縄の人は口が重い。しかし、何べんも会っているうちに、まるで門中の一人ででもあるかのように、家庭料理を振るまい、打ちとけてくれるのであった。』(「あとがき」より引用。)

 戦争体験をした一人の女性は語ります。
 「いまごろになって、ヤマトの人に戦争の話をしてみても仕方ない、と思って、ずいぶん考えたんですけどねえ。・・・これはもう、実際に遭った者でないと無理なんです。わたしが、戦争の夢を見てよくうなされるもんですからね、主人が、キミ、いつになったら忘れられるのかって可哀そうがりますけどね。生きているかぎり、あの恐ろしさはどこへも消えません。死ぬまで、わたしにとっての戦争は終らないんだ、とそう思っています。」(本文より)

 ヤマトンチュに戦争の話をしても仕方ないと思うのは、距離が離れていて理解できないということではなく、ほかならぬ「加害者」に対して話すことになるからであり、そういう思いは沖縄戦を体験した大多数のウチナーンチュが抱いていたのではないでしょうか。
 戦争の犠牲者になるのは、いつも弱い立場にある人たちなのです。


 自民党一筋で来た男・翁長雄志(現沖縄県知事)はなぜ、ここに来て自民党政権と激しく対立するようになったのか。彼を突き動かすものは何か。
 思えば翁長ほど顔つきが変わった男もいないのではないだろうか。
 私たち本土の人間は、カチャーシーを沖縄の人々と同じように踊ることはできない。しかし両手を左右に揺らして舞う人々の姿から、目を離さないでいることはできるはずだ。 (まえがきより)

 翁長知事の父・祖父と沖縄戦の関わりを中心に、本土・沖縄・米軍それぞれの肉声に深く迫りながら、問題を浮き彫りにし、未来を探る。――という、翁長一族と沖縄の物語です。
 祖父は息子の眼前で戦死。苛烈な沖縄戦を生き抜いた父は、遺骨収集に奔走し、米軍政府と対峙しました。翁長知事を突き動かす苛立ちの根はどこにあるのか。一方で、米兵たちはいまの沖縄をどう見ているのか。
 このあたりが論点となります。

 著者は、1960年生まれ。84年にTBSに入社し、2014年「フェンス~分断される島・沖縄」で第40回放送文化基金賞テレビドキュメンタリー番組優秀賞している方です。15年から「週刊報道LIFE」のメインキャスターを務めているとのこと。

 沖縄タイムスの書評(一部)を以下に引用。

 沖縄で起きている問題の本質を「本土」に伝えるのは容易ではない。在京メディアの一線で長年、悪戦苦闘してきた著者であればなおさら、そのハードルの高さを身に浸してきたはずだ。
 「本土」の空気も、大手メディアの組織の論理も熟知している著者は、「定型化している沖縄報道を何とかできないものか」という、「自分も含めた本土メディアへの強烈な不満」を抱いていた。
 翁長雄志知事が本書の主人公だ。
 「辺野古」を巡って政府と対峙する翁長知事は、著者にも容赦ない言葉を浴びせる。「あなたたち本土の人間は」。インタビューの折に触れて翁長からこう言われ、その都度、著者はたじろぐ。
 「翁長と話していると、自分が本土の人間であることを否応なく思い知らされる」。著者は内面を率直に吐露しながら、翁長の言葉の裏や内奥に何があるのか自問自答を繰り返す。そして、こんな心域に達する。
 「私を含め、本土の人間に、沖縄県民の心の襞がわかるとは思われない。しかしわかろうとすることなしに、どうして基地問題を解決することができるだろうか」

 本書は、翁長知事を生んだ翁長家三代の軌跡を追いつつ、沖縄の戦後を浮き彫りにしていく。筆圧の強さを感じるのは沖縄戦に関する記述だ。現在に連なる基地問題と沖縄の人々の精神性を考える上で、「沖縄戦」は避けて通れない。そう確信した著者はこう記す。
 「翁長家三代の歩みは、まさに沖縄の戦後そのものと言ってもいいだろう。そしてその戦後はまだ終わってはいない」

 強く印象に残った一文がある。
 「本土の人間はいつまで沈黙を続けるのか」
 本土の人間でありながら本土の人間の「醜さ」「狡(ずる)さ」に辟易する。評者が沖縄にいた17年間、そして東京で暮らす今も感じ続けている、己と周囲へのいら立ちを、本書の著者とならば共有できそうな気がしている。
(渡辺豪・元沖縄タイムス記者)

 これを読んで、翁長知事の過激とも映る様々な行動に秘められた核心部分がようやくつかめたような気がしました。


 榕樹書林がじゅまるブックスの1冊。がじゅまるブックスはこれまでに10冊発行されており、このうち自分が読んだものは、「歴史のはざまを読む―薩摩と琉球」、「琉球王権の源流」、「琉球の花街 辻とジュリの物語」、「沖縄のジュゴン―民族考古学からの視座」で、これが5冊目になります。

 宜野湾市は戦後、中央に普天間基地が整備され、その基地を取り囲むようにドーナツ状に形成された都市。かつて基地内にあった集落は外に押し出され、基地によって国道58号線沿いと330号線沿いに街が分断されてしまいました。
 そのような中で、戦後の地域の再生の一環として青年達によるエイサーが自主的に組織され、地域づくりの大きな力になってきたといいます。
 本書には、宜野湾市内の各エイサーが、どのような経緯でつくられ演じられるようになったのかが各区ごとに詳細に記録され、昔の様子から現代に至るまでの多数の写真とともに、エイサーにかけた青年達の想いが綴られています。

 2007年時、宜野湾市では18の行政区でエイサーが行われていましたが、2015年現在では20の行政区のうち15区でエイサーが行われているとのこと。それらのほか、すでに消滅、合体などによって今はないものも含め29のエイサーが、この本では紹介されています。
 それらは、野嵩、野嵩一区、野嵩三区、普天間一区、普天間二区、普天間三区、新城区、安仁屋、喜友名区、伊佐区(伊佐)、伊佐浜、大山区、宇地泊区(宇地泊)、大謝名区、大謝名団地、嘉数区、佐真下、真栄原、真栄原区、我如古区(我如古)、長田区、宜野湾区(宜野湾)、愛知、神山、愛知区、赤道、中原、上原、中原区。

 過去を振り返ると、沖縄市のエイサーを詳細にまとめた「エイサー360度」(沖縄市企画部平和文化振興課編、那覇出版社、1998)という、エイサーを語る上では欠かせない秀逸な書籍がありましたが、本書はこの体裁に近いものがあります。いわば、本場沖縄市の「エイサー360度」の宜野湾市版と言っていいと思います。
 こういうものをたとえばうるま市や北谷町などもつくって、エイサーの全貌が明らかになれば楽しいのではないでしょうか。

 読んでいて感じたのは、2000年の初頭頃に燃え盛ったエイサー熱は、今も健在とは言いながらも、地域靭帯の希薄化や、沖縄とはいえ少子化も進んだことにより、勢いとしては少し下がり気味なのではないかと感じたこと。そのあたり多少心配なのですが、実際はどうなのでしょうか。
 少なくとも本土側から見て言えることは、エイサーほどカッコいい民俗芸能はそうあるものではありません。大太鼓の低音や締め太鼓の躍動感、ネーネーたちのたおやかな手踊り、旗ムチャーの力強さ、チョンダラーのひょうきんさなど、どれをとっても若者感がびしびしと伝わってきます。それに、練習もハンパではないのでしょう、内地のそんじょそこらの伝統芸能のレベルとは熟練度がてんで比較になりませんからね。

 というわけで、読んでいて面白いし、未来へとつなぐ記録書としても価値のあるものになっていると思います。

 ところで、沖縄の旧盆には久しくお邪魔をしていませんが、エイサーの道ジュネーやオーラセー、ガーエーを見たくなったなぁ。与勝半島方面のエイサーの遊び庭での演舞や、まとめ見ができる沖縄全島エイサーまつりもいいんだよなあ。
 よーしぃよーしぃ、今は我慢だが、リタイアしたら沖縄に長逗留するなどして、必ず見に行くことにしよう。


 9月下旬まで書き続けていた夏の佐渡旅のドキュメントがしばらくの間滞っていました。旅から4か月が経った12月、続きを書き始めます。かなり記憶が薄れてきていますが、書き上げるまでがんばります。

 宿根木から小木方面に戻る途中、幹線道路から標識に従って右手の海岸方面に折れ、小木海岸の名勝、矢島・経島を見に行きました。
 道を下っていくと海沿いの小さな集落に入り、車同士がすれ違うのがやっとというような狭い道になります。これ以上進んでいいものかと思い始めた頃にようやく小さな入り江に到着。駐車スペースもそう広くない、矢島体験交流館という施設があり、たらい舟に興じている観光客が何組か。

 まずは小木海岸について。
 小木地区の城山から同地区の白木まで、約7kmにわたる小木半島南縁の海岸線一帯の総称で、国の天然記念物及び名勝にも指定されている景勝地です。
 地盤の隆起と沈降によって形成された段丘や溺れ谷を主体とした断層海岸特有の景観が見られ、大小数十の海食洞や波食痕、風食痕のほか、屏風岩、鉾岩などの奇岩があり、各所に枕状溶岩が存在するなど、景観美に加えて学術上も貴重なのだとか。
 その景観美の代表的なスポットのひとつが、元小木にあるこの矢島・経島なのだということです。

 幸いにも駐車スペースが数台分空いていたのでそこに車を停めれば、眼前には矢島・経島の景観が。ほほう、なかなかいい眺めではないか。ではさっそく両島を歩いてみることにします。

 岩の間に造られた石畳を進み、たらい船の遊覧者を見ながら太鼓橋を渡って、まずは経島へ。
 文永11年(1274)、日蓮上人の赦免状を持って佐渡に渡ろうとした弟子の日朗が途中で嵐に遭い、ここに漂着し、読経をして一夜を明かしたことからこの名前がつけられたのだそう。
 太鼓橋の手前には「お光の碑」。これは何? これは別項目を起こしてまとめることにしましょう。
 島の岩の頂上にはその日朗の石像が安置され、碑が建っているということですが、これは確認しないで来てしまいました。

 続いて矢島。体験交流館の前にあった「小木半島ジオサイト」の案内板によれば、経島と矢島は陸続きのように描かれていますが、どうなのでしょう。
 矢島は良質の矢竹を生み出したところで、島の山頂部には節の長さ、太さも同じ珍しい双生竹が自生していたそう。源頼政が紫震殿の怪物「ぬえ」を退治した時の矢は、ここの竹製だったと伝えられています。

 ぬえ退治の逸話そのものを知らなかったので調べてみました。それは「平家物語」にあります。
 近衛天皇の御世(1151~54)、天皇が毎晩何かに怯えるようになった。
 そのため、武士を警護につけることになり、源氏一門で武勇の誉れ高い頼政が選ばれた。
 ある深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、北東の方角より黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇の「鵺(ぬえ)」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留める。
 その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流したという。
 この鵺退治の功により朝廷より頼政に、名刀「獅子王」が下賜された。

 矢島の入口には木製で枯れた感じのする門があり、その先には庵のような建物がありましたが、あれは何だったのだろう。

 矢島からは対岸に「めがね橋」が架けられていて、それを渡って散策道を歩けば、見てきた経島・矢島とその内海が形づくる箱庭のような風景を眺めることができました。
 写真を見るにつけ、旅はやはり天候のいいことが何よりですね。

0455.jpg


 さて、経島にあった「お光の碑」ですが、これは小木の伝説の「佐渡情話」にゆかりのあるもののようです。
 伝説の内容は、概略次のとおり。

 小木の漁師の娘であるお光は、佐渡に来ていた柏崎の船大工・吾作に恋をする。
 しかし、吾作は佐渡での仕事が終わり、帰ってしまう。
 お光は考えた末、毎夜たらい舟に乗って柏崎まで通う。
 はじめは楽しかった吾作だったが、実は妻子持ちだった。そこで、毎夜来るお光が恐ろしく感じるようになった。
 ある日五作は、お光が来る時間帯に、目印の常夜灯(灯台)を消す。
 目印を失ったお光は、やがて海にのまれ、死んでしまった。
 朝になって、お光の亡骸を見つけ、後悔する吾作。後を追い、吾作も海に身を投げ、死んでしまう。

 ――うーむ、情話ですねぇ。沖縄の「伊江島ハンドー小」や「恥うすい坂」の筋書きとも相通じるものがあります。
 同じ内容のものが、寿々木米若の浪曲「佐渡情話」で全国に紹介され、「お弁と藤吉の物語」と、登場人物の名を変えて語り継がれています。
 柏崎の番神岬、諏訪神社の境内には「お光・吾作の碑」があり、その隣りには与謝野晶子の「たらい舟 荒波もこゆうたがはず 番神堂の灯かげ頼めば」の歌碑があるとのことです。


 小木の集落に戻ってきました。わりと大きな集落なので、少し街歩きをしてみることにしました。
 よく整備された広々とした港の一角に車を停めて、まずは佐渡汽船の乗り場や力屋観光汽船の発着所付近をチェック。よく晴れているけれども港周辺は風があります。発着所近くの湾内にも7~8漕のたらい舟が出ています。コンクリート岸壁近くで乗るのはどうなのだろうな、楽しいのかな。

 そこから国道350号線を経て宿根木へと続く県道45号線に入るとそこは、古い「街道」を彷彿とさせる、両脇にずらりと個人商店や家屋などが軒を連ねたいい道になっています。本音を言うと、ここを歩きたくて車を下りたようなものです。
 お休み処、手打ち生蕎麦屋、時計店、電気店、洋品店、バイク屋、理容店、惣菜屋、事務機器販売、竹細工屋、旅籠、お茶屋、履物屋、呉服屋、花屋・・・。くたびれた建物が多いけれども、ここに来れば一通りそろいますといったいい佇まいです。古い中にも何か、風格のようなものが感じ取れます。自分が育った町でも、昭和中期の商店街ってたしかこういう感じだったよなあ。

 小木は、佐渡金山の積み出し港として、またその後には北前船の寄港地として栄えた港町で、江戸初期から明治にかけては佐渡の「表玄関」として賑わった土地柄です。
 廻船問屋を中心に多くの商家が建ち並ぶ商売の地として、また、船乗りたちの遊興の地として栄え、町人文化を形成してきたといいます。
 そういうものがどこかに滲み出てくるものなのかもしれません。

 街道を歩きながらあちこちにカメラをかざしていると、とある店から出てきたおばあちゃんが「アレマ!」という顔をして、「何か面白いものでもあったかね」と話しかけてきました。「ここの雰囲気、とてもいいものですから」とか何とか返答したところ、なーにが珍しいのという表情のままではあるけれども、それとは何の脈絡もなくおばあちゃんが今思っていることを話し始めました。(笑)
 そうなあ、5分ぐらいは聴いていたかな。どうせこちらも先を急ぐ旅でもないし、人間の「想い」というものは人それぞれが持っていて、それらはどれをとっても重くて意味深いものだと思っているので、歩みを止めてじっくりと聴かせてもらったところです。


 ところで、「たらい舟」というのは、そもそも漁に使うものだったのを観光体験できるようにしたもの。
 もともとは、狭く入り組んだ岩礁が多い小木海岸でワカメやアワビ、サザエなどを獲るために、小廻りがきき自由に操作できるように考案されたものが「たらい舟」だったようです。

 信じられないような話だけれど、なんと洗濯桶を改良して、現在のようなたらい舟になったのだそうです。洗濯桶を漁に使おうなんて、最初は誰が考えたのだろう。見ているといかにも危なげで、あれに乗ろうなんて思えないものですが、意外と安定感がいいのだそうですよ、これが。

 頭に佐渡おけさでおなじみの「すげ笠」をかぶり、かすりの上着を着た女船頭が漕いでくれる――というのがウリのようですが、私が見た経島・矢島の船頭さんは齢60ぐらいとお見受けしました。実際のところどうなのでしょう。

 写真は、小さくてよく見えないかもしれませんが、小木港の南埠頭でやっていた観光たらい舟体験の様子。
 力屋観光汽船の場合、湾内を軽く1周する5分ほどの乗船で500円? 貴重な体験になるとは思うけど、自分の場合乗ってみようとまでは・・・。


 続いては、佐渡一周道路(県道45号)の南岸沿いをの~んびりとドライブして、ここもまた歴史的に隆盛を極めていたことのある赤泊(あかどまり)集落を訪ねました。
 ここもまた、港近くに車を停めて街歩き。幹線のすぐ西側を走る旧道に足を踏み入れて歩いてみます。非常に狭い道の両側は、小木同様に風情のある建物が並んでいますが、小木よりもずっと静かで住宅が中心。そこをよそ者が堂々と歩くことに違和感すら覚えます。
 ではまあ、この集落のメインの交差点に戻ろう。

 信号すらない交差点だけど、そのコーナーには復元された「赤泊御番所」を擁する「みなと史跡公園」があり、ここを曲がれば佐渡汽船の乗り場につながるという間違いなく集落いちばんの場所。
 そこにあった「赤泊観光センター」という名前のわりにはフツーの商店でコーラを買って飲み、ひと心地。
 では史跡公園を一巡りしようか。


 「みなと史跡公園」は、説明書きによれば次のとおり。
 江戸時代のはじめ、佐渡金山の隆盛につれて諸国から物や人の流入が盛んになると、越佐間の最短距離にある赤泊港は、佐渡奉行の上陸港とされたり、出入りの船を改める御番所が設けられるなど、大いに賑わいました。
 また小木港とともに、北海道や日本海沿岸各地との交易をする北前船の寄港地として栄えた由緒ある港町です。
 平成元年に運輸省が全国8港に指定した「歴史的港湾」に選ばれこの公園が造られました。
 いにしえの港に思いをはせながら、ゆっくりとおくつろぎください。
  事業名  歴史的港湾環境創造事業
  実施年度 平成元年度~平成3年度
  公園面積 2,000㎡
  平成4年3月

 で、その復元された「赤泊御番所」が写真。白壁のこんな立派な御番所なんてありえねーと思ってしまいましたが、まあ、復元なので。
 写真に写っている時代劇でよく見かけるような御触書様の看板(左手)には、次のように書かれていました。

赤泊御番所
 江戸時代の初め、相川金山の隆昌につれて諸国から人や物資の流入が盛んになると、佐渡奉行は相川、小木、赤泊などの港に番所を置いて船の出入りを改めさせた。
 積み下ろす貨物に税を課し、旅人を監視するなどが主な役目で、番所役人のほか地元の問屋衆五人問屋が交代でこの補佐にあたった。
 今の税関のようなもので、土地の人々はこれを御番所と呼んだ。
 当時の御番所は、ここから50メートル、現在の外内商店のあたりにあったといわれている。

 ほほう。外内商店って、コーラを買って飲んだところ?
 あとで調べてみるとそうではなく、道路を挟んでその西向かいにあるかなり古い木造の建物のことでした。
 これが外内商店。(googleから 2012年9月現在) これって現役の商店なのだろうか?

0500_20161223123012d0d.jpg

 復元された番所の手前には「田辺九郎平と港の改修」についての説明板があったので、それも以下に移記しておきます。

田辺九郎平と港の改修
 天保2年(1831)赤泊の小農の家に生まれた田辺九郎平は、19歳のとき北海道江差の商家に奉公し、永年の刻苦勉励の末、ニシン漁への投資などで巨額の富を築いた。
 50歳のとき帰郷し、北海道や対岸地域との交易交流のため、港湾の改修こそ郷土発展の根幹との信念から、私財を投じて赤泊港の修築を行うことを決断した。
 明治20年6月に着工した長さ100mの石積の防波堤は、3年後の23年に完成した。
 この経費6千円(平成4年現在の約5千万円)はすべて翁の私費で賄われたが、これにより船舶の出入りも増し、村民は多くの恩恵をうけた。
 現在の赤泊港の発展の基礎は実に田辺翁の力によって築かれたのである。

 スバラシイ!


 もうひとつ、赤泊でのご紹介。
 話が前後するのですが、赤泊で駐車をしたのは、先のメイン交差点からフネの発着所のほうに少し行ったところにある「佐渡市赤泊行政サービスセンター」の前。そこには大きな帆掛船がありました。
 車に戻ってきて、まずはセンターの公衆トイレで用を足して、改めてそのモニュメントを見てみたところです。ちょっとハリボテっぽいつくりですけどね。(笑)
 礎石には「佐渡奉行渡海の御座船」とあり、右脇の説明板には次のように記されていました。

 佐渡金山隆盛時の正徳4年(1714)、幕府の天領であった佐渡の奉行が二人制となり、渡海の出港地も出雲崎から寺泊に変わった。
 以後幕末まで奉行が佐渡へ赴任する時は、寺泊から赤泊に渡るコースがとられた。
 奉行の乗った船には4畳の仕切があり、葵の御紋がついた帆を張って、朝五ツ(午前8時)頃寺泊港を出港し、七ツ(午後4時)頃赤泊港へ着いた。
 我先にと引船役をかって出迎える漁師衆や歓迎の村人らで港は賑わった。
 その晩奉行は、赤泊に泊まり、翌朝相川へ向かったという。

 ふーん。寺泊~赤泊コースなのですね。8時間かかったってか!
 赤泊って重要な港だったのだろうな。
 ちなみに、右下に写っているのはわが愛車です。

 時計は11時半を回った。さてと。赤泊地区や佐渡島内に伝承されてきた情緒あふれる素朴な芸能が紹介されているという「赤泊郷土資料館」にも寄りたかったけど、やむなく省略だな。島の東南海岸沿いに40数キロをドライブして、両津方面へと向かうことにしようか。


 2016年に読んだ沖縄関連本の49冊目。

 『那覇市街。観光客で賑わう繁華街の裏路地に、あやしいおっさんの影が三つ。これを「路地裏の三バカ男」と呼ぶ。三バカたちは観光地化した沖縄の風景に飽き足らず、よりディープな沖縄の姿を求めて今日も街を彷徨い歩いていた。観光客でごった返す大通りを尻目に、三人が見つめるのは、路地裏に広がる戦後の風景だった。
 いつも見慣れた景色も、知っているはずの街角も、少し視点をずらしてみれば、あっというまに姿を変える。沖縄の古層と戦後の歩みが幾重にも折り重なった、ディープ沖縄ツーリズムにようこそ。』

 『沖縄の本当の歩き方、教えます。
 文化遺産からB級穴場スポットまで。基地問題から歓楽街まで。沖縄そばの隠れた名店から美味しい地元食材の市場まで……。沖縄本島を味わい尽くすにはこの一冊!
 決定版ディープ沖縄エッセイ&ガイドブック!
 巻末に社会見学マップと紹介スポットのリストを収録!』

 ――などと紹介されている本です。
 かつての沖縄は、本土から見るとエキゾチックな面があると思ってよく観察すると、どうもそれは日本の原風景のような感じがし始めて、不思議な土地柄だったものです。しかしこのごろは日本としての社会的画一化が進み、沖縄らしいところがどんどん失われています。
 そんな世情を憂い、沖縄らしいところを根掘り葉掘り探し始めたのが、実は彼らなのではないか。そして、そうでもしなければ沖縄の神髄は見えなくなってしまったということなのではないか。

 それにしても、好きこそナントカと言うけれども、よくそこまで入り込んで調べたもの。
 那覇の路地裏、ディープスポットを彷徨って幻想の古都を追いかけ、ほかにも普天間、コザ、金武・辺野古、首里をめぐります。
 彼らの興味は、旧特飲街、沖縄そばやチーイリチーなどの飲食店や古びたスナック、スージクヮーと呼ばれる細い路地、かつてあちこちにあった映画館、古の街並み、ディープな沖縄を紹介した書物など各般に及びます。それらは、自分が探求したいと思っている沖縄像と重なる部分が多く、すごく参考になります。

 2017年1月に久々に沖縄本島を旅することになりますが、この本からインスパイアされて訪問することにした場所もいくつかあり、それらをめぐることで一層興味深い旅となりそうです。
   unjuga.gif   okiokataru1.gif

 2016年12月に買った本は、次の11冊です。

1 My Bloom 第5弾  プランニングゆうむ 2016.11 1000
2 あの人と、「酒都」放浪―日本一ぜいたくな酒場めぐり  小坂剛 中公新書 2013.9 古262
3 サラリーマン居酒屋放浪記  藤枝暁生 朝日新書 2016.2 古307
4 酒場詩人の流儀  吉田類 中公新書 2014.10 古347
5 娼婦たちから見た日本 黄金町、渡鹿野島、沖縄、秋葉原、タイ、チリ  八木澤高明 角川文庫 2016.5 古512
6 花もひらかぬ一八のまま 沖縄戦で散った少年飛行兵の日誌  平野治和 合同フォレスト 2016.7 古775
7 うんじゅが、ナサキ  崎山多美 花書院 2016.11 1296
8 可愛いあの娘は島育ち  太田和彦 集英社文庫 2016.11 648
9 沖縄を語る(1)  沖縄タイムス社 沖縄タイムス社 2016.9 1728
10 太田和彦の居酒屋歳時記 上  太田和彦 小学館文庫 2016.11 680
11 太田和彦の居酒屋歳時記 下  太田和彦 小学館文庫 2016.11 680

 うーむ、年末年始を迎えてか、居酒屋関係が多すぎる。
 2、3、4は、送料を除けば5~90円でAmazonの古書店から、また、8、10、11の太田和彦モノはいずれも新刊で、それぞれゲットしたもので、11冊中実に6冊が居酒屋関連だと。
 こんなことでいいのか、おれ。

 沖縄関連は、5、6、7、9。
 5は、沖縄というよりも、娼婦の視点から日本を見るというユニークさに惹かれての古書。
 7は、芥川賞候補になったこともある西表島出身の女性作家の新作で、彼女の作品はマニアが多いのか発行部数が少ないのかいつもすぐに売り切れるし、古書になるとド高い。なので、見つけ次第即買いしたもの。ヨカッタヨカッタ。
 9は、これまた本土ではすぐに買えなくなる沖縄タイムス社発行の新刊。タイムスの本はすでに何冊か、欲しいのに買えないものが出ています。

 1は、地元の書店で図書カードを使って買ったランチパスポート的なもので、さっそく活用中。

 さて、買うだけではなく、きちんと読まなきゃね。未読のストック本は60冊ほどになっているからねぇ。
 ・・・むっ。
 自分が1年間に読む本の量はせいぜい70~80冊がいいところだろうか。ということは、60冊というのは約1年分?! そうか、そんなにあるのか、ストックは。
 じゃあ、ぐいぐいと読まなきゃなぁ。



 赤泊から1時間近くドライブして次に寄ったのは、牛尾神社。
 事前勉強で得たものは次のとおり。

 792年に出雲大社より勧請創建した神社で、元は八王子大明神と言い、牛頭天王を併せ祀っていた。
 地元では天王さんと呼ばれ親しまれている。
 三方唐破風造という高度な建築様式で、くり彫り梁は現在では再現できない見事なものである。
 牛尾神社の名は近江日古神社21社のうち、八王子社の鎮まる山を牛尾山と称しているところから来たものと思われ、日吉神社との開係がうかがえる。
 牛尾神社に伝わる大般若経には松雲寺の名がある。聖徳太子像や十二神将を伴った薬像などが宝物として保管してある。
 静かな境内には樹齢400年の安産杉がそびえ立っており、子授けや安産に霊験あらたかで、今も民間信仰を集めている。
 県指定文化財でもある能舞台は、島内の独立能舞台のなかでも本格的なもので、毎年6月12日に薪能が奉納される。

0525.jpg

 自分がアプローチしたのは裏参道だったようで、拝殿正面から入る正式ルートはその反対側にあったようです。
 進んでいくと、神社の境内は広く、芝が施されていて美しいし、社殿が大きい。正面向かって左手にある能舞台もすごく立派です。
 まず圧倒されるのは、拝殿の彫刻です。そのすごさは正式ルート側の大鳥居からも様子がわかるほどです。鯉、竜、その他動植物、物語等が刻まれているとのこと。
 現地にあった佐渡市教育委員会が建てた説明板によれば、次のとおり。

拝殿の彫刻  佐渡市指定文化財
 社殿は、明治34年(1901)に再建されたもので、拝殿正面、側面、後面に施されている彫刻群は、明治35年から5年間かけて彫られたものである。
 くり彫りによる立体的で、芸術性に富み豪華な彫刻群である。

 能舞台もとても立派。佐渡には独立の能舞台が30棟ほどあるということですが、牛尾神社の能舞台はその中でも本格的能舞台といわれる3棟のうち内の1つで、また、能楽の中心となった国仲四ヶ所御能場の1つでもあるのだそうです。
 同説明板によれば、次のとおり。

能舞台  新潟県指定文化財
 能舞台は、明治34年(1901)に再建されたもので、屋根は瓦葺正面入母屋造り、柱8寸、かぶら懸魚の妻飾り、背面は寄棟造り、二タ軒本繁垂木(ふたのきほんしげたるき)の工法をとっている。毎年6月12日に例祭宵宮薪能が演じられている。

0530_20161228065748eaa.jpg

 うーん、ここはいい。寄った甲斐あり。
 牛尾神社にはこのほかにも、参拝をすると子宝に恵まれ安産がかなえられるという樹齢約1千年の御神木「安産杉」(佐渡市指定文化財)があったし、見てはこなかったけれども一名「春日の面」「雨乞いの面」といわれる能面翁2面(新潟県指定文化財)もあるという。
 小高い山ひとつが全部神社の敷地のようになっていました。
nenga2017 201612

 毎年、年賀状のデザインをこのブログに載せてきていますが、2017年用のデザインは、こんな感じのソフトなものにしてみました。鳥インフルエンザ、年末年始は大丈夫かなあ。

 まだ印刷が終わっていず、賀状の作成・発送は明日30日の午後になってしまう見込みです。
 少し早いですが、今年もいろいろとお世話になりありがとうございました。新年も引き続きご贔屓のほど、よろしくお願いいたします。

bobson 201612

 今履いているウォーキングシューズがわずかだけど内側に水が浸みてくるようになり、足場が悪くなる冬を迎えて、新しいものを用意しなければならないなと思っていました。かれこれ6~7年ぐらいは履き続けてきたので、そろそろではないかなと。
 そういうわけで靴屋、と言っても単身赴任先で近隣にあるのは靴流通センターのようなジャンクショップだけなのだけど、いろいろ物色したけれどもしっくりくるものがなく、困っていたのでした。

 こだわっていたのは、まずは丈夫なこと、そしてせめて外側部分ぐらいは本革製であること、見た目ゴツイ印象のもの、さらには、ここがいちばん難しかったのだけど、普通の革靴のように真横から見ると靴底のかかと部分が独立しているというか、土踏まず部分の底面が平たい形になっていないものであること。

 そういうものをネットで探してみると、これはイケルと思ったのが一つだけありました。一つだけなのか。ではまあ、これを通販で買ってしまおう。

 BOBSONのウォーキングシューズの26.5cm。色はダークブラウンで、価格も送料込み8,064円と極めてリーズナブル。こき使って履き倒しても惜しくないレベルです。

 届いた日の夜に飲み会があったので、さっそく履いてみたところ、まあまあの履き心地。使い始めの日にしてこの程度ならば上等でしょう。
 1月初旬に敢行予定の沖縄本島の旅も、これで足元の憂いはなくなりました。