佐渡金山から、よせばいいのにさらに山手のほうへと進み、「大佐渡スカイライン」を走ることにしました。
 大佐渡スカイラインは全長30km。眺望は感動的。高台からは眼下遠くに真野湾や国仲平野、小佐渡山脈を一望でき、佐渡の美しさを堪能することができました。

 しかし、2日間でこの大きな島を回ろうというときに、ここに時間をかけるのは得策とは言えないようです。細い道をずっと登り、ヒルトップからものすごく急な下り坂をエンジンブレーキをブリブリ利かせて旧金井町の里まで降りてくるまで40~50分ぐらいはかかったのかな。

 途中、日本最大の浮島があるという「乙和池」や地獄谷などのスポットは足早に通過。またヒルトップにある大佐渡高原の施設は駐車場が超満員。そうか、正午を回ったところなので混んでいるのだろうな。
スポンサーサイト


 大佐渡スカイラインから降りてきた金井地区では、佐渡市役所を眺めて、ささ、昼メシ。
 この日の昼メシは島の寿司を食べようと考えていたのですが、人気店の「すしや まるいし」(泉)も「廻転寿司弁慶」(東大通)も、お盆期間ということもあって超々満員。食べ始めるまでに1時間ぐらいは軽くかかりそうな勢いだったのであっさり断念しました。
 で、3番手にチョイスしたのは「島の食堂ふく福」。佐和田地区になるのでしょうか、島のメインストリートR350沿いにある定食屋です。うろうろしていたので時間が押してしまい、13時過ぎの入店となりました。

 こちらはすんなり着座できたものの、やはり混雑。
 できるまで少し待ってねと言われつつ「から揚げユーリンチー定食」900円をオーダーしましたが、思いのほかすんなりと配膳されました。

 メインディッシュは、たくさんの野菜類の上に油淋鶏がドン! 油淋鶏は表面がからりと揚げられ、甘じょっばくて香り高いタレがかけられています。
 その脇に添えられた手づくりのタルタルソースがすご~くたっぷり。こういうところが大衆食堂としての評価をぐーんと上げるポイントなのだよなあ。レモンだって、これ4分の1? ちっともケチっていない様子が伺えます。
 野菜類は、白菜、パプリカ、ブロッコリーなどをたっぷり使っていて、これも敬意を表するアプローズ。本音を言うとブロッコリーは苦手なのだけど、こういう形での提供なら喜んでいただけます。

 ほかには、タコとキュウリの和え物、ワカメとテングサと三つ葉のスープ、漬物。
 ご飯が少なめだったけど、旅館で朝食をしっかり食べているのでおかわりは不要。おかわりは自由なのかな?

 個人的評価は特A。島の食堂のレベルをはるかに超え、全国区でも十分通用するグレード感がありました。
rucksack 201609

 これまで20年以上にわたって旅のお供としてつこち連れまわし続けてきた臙脂色のリュックサックが、永年の酷使に耐え切れず、とうとう悲鳴を上げました。
 泊付きの出張に持って行ったところ昨日、上部に付いている持ち紐の部分が繊維疲労(?)のためむちりとちぎれてしまったのです。ここ、すっかり日焼けして変色していたものなぁ。
 あまり大きくなく、ホームセンターあたりで売っていそうな簡素なつくりのものでしたが、思いのほか丈夫で、簡単に洗えて、必要十分。旅の際にはこれに何でもかんでも突っ込んで、荷物ひとつで出かけたのでした。

 そういう自分史があるのでとても愛着のあるものでしたが、こうなればやむを得ず、近くのイオンで新しいリュックを買ってきたところです。
 それがこれ。これまでのものよりもさらに一回り小さい、ウォッシュアウトの黒系のデニム地風合いを持つ、EDWIN製(ポリエステルのベトナム製だけど)。購入価格は5,270円でした(高いけど)。
 背負うときに使う肩掛けの部分が1本しかありません。自分は常々片方の肩にリュックをかけて歩くので、これも気に入った点の一つです。

 収容機能としてはわずかに向上した程度で、たいしたことはありません。容量はこれまでの6割ぐらいでしょうか。
 でも、ほどほど軽いし、何よりもガイドブックやカメラなどの小物を入れて街歩きをするのにちょうどよさそうだし、そのまま食堂や居酒屋に入っても邪魔にならないサイズです。

 小さいので、これ一つで長旅に出るのは難しいかもしれません。
 でも、自分もいい歳になったのですから、そんな時は多くを背負わずに、飛行機の手荷物サイズのキャリーバッグを使うことにしましょう。
 なに、必要ならば、大きめのリュックをもうひとつ買ってもいいでしょう。

 いずれにしても、このたび手に入れた小リュックが旅の主力アイテムになることは間違いありません。


 腹ごしらえもしたし、午後は寺社めぐりと洒落こみましょうか。
 というわけで、まずは新穂(にいぼ)という地区にある根本寺(こんぽんじ)を目指します。
 その途中、新穂大野という集落の中心と思しきところ、信号のついた比較的大きな三叉路に面して立派な神社があったので、予定にないけどそこにも寄ってみたところ。

 ここは郷社「日吉神社」。敷地が大きく、前庭が極めて広いです。ユニークな彫り方の狛犬、大きくて赤い鳥居、しっかり手入れされた杉の社内林、平成元年につくられた「縁起750年記念」のモニュメント、土台のしっかりした石灯籠などがあり、その奥には木造のデカい社殿がドーンと。
 この社殿、モノトーンで箱型の素っ気ないもので、これまで自分が見てきたものの中で印象が被るものを述べよと言われれば、ちょっと比較対象としてふさわしくないとは思うけれども、沖縄・首里城の、派手な「正殿」ではなく地味~ぃな「北殿」の見た目に似ています。

 少しウェブで調べてみると、この地区の日吉神社の例祭は800年の歴史があり、山王祭と呼ばれているとのこと。例祭は3日間におよぶ大規模なもので、初日の井内地区をはじめ、舟下・大野・新穂それぞれの地区の日吉神社の鬼太鼓が繰り出す。山王7社、7基の神輿が新穂日吉神社拝殿にそろう姿は壮観。最終日には新穂日吉神社境内で、少年射手による流鏑馬、鬼太鼓、下り羽などが奉納される。素朴に唄い踊る春駒も登場する。――とのことです。

 この地区を巡っていて「日吉神社」をいくつか見かけましたが、上記の情報によれば、「それぞれの地区」に日吉神社があるようです。
 流鏑馬や、名だたる佐渡の鬼太鼓も興味深いですが、「春駒も登場」に反応。沖縄の二十日正月の馬舞行事「ジュリ馬」に惹かれて関連文献を渉猟していた時期があり、ジュリ馬と春駒の関係性についても興味があるのです。

 また、ウィキペディアによれば日吉神社とは、滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社(ひえたいしゃ、現在は「ひよしたいしゃ」)を勧請して日本各地に建立された神社。
 日吉大社より生じた神道の信仰のことを「山王信仰(さんのうしんこう)」という。
 日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)、山王神社などという社名の神社はいずれも山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、日本全国に約3,800社ある。
 ――とのことです。

 なお、境内の一角には佐渡市教育委員会の立てた説明板があり、この地が遺跡でもあることを記していました。
 「新穂玉作(にいぼたまつくり)遺跡」といい、弥生時代に玉類が製作されていた場所とみられ、赤玉・碧玉の原石や細形管玉・角玉・勾玉などの原石・未完成品・完成品などが出土したほか、石鋸・砥石。石針などの工具類も出土しているのだそうです。


 新穂大野の日吉神社の東隣は新穂小学校。なので、神社の門前には「新穂小学校前」のバス停とバス待合所がありました。
 そしてその脇に、写真のような石碑がありました。
 石には2人の人物のレリーフが嵌め込まれており、「土田杏村像」、「土田麥僊像」とあります。誰、それ。きっと地元が輩出した偉人なのでしょう。

 石の後ろに回ると、次のような説明書きも嵌め込まれていました。漢語とカタカナで書かれていたのを平易に書き直してみましたが、撮ってきた写真を見ても判別できない文字がいくつかありました。

 まず土田杏村について
 『謙虚は天地の心である。人間は何を措いても先ず自らを謙虚にする修練を積まなければならぬ。絶対の無は即ち絶対の充実である事を知るものはただ謙虚の人だけだ。謙虚の人にして始めて敢然たる勇気を発する。
 杏村著 草煙心境より 夫人千代子抜萃  旧友 横川寅松 謹書』

 次に、土田麥僊。
 『麥僊君の画業は当時の画壇に絶えず新風を送って問題を提起した。叡知によって東西古今の美術を咀嚼しながら之を自家薬籠中のものとし、其の出品作毎に全力を傾倒して名作を成した。其の根幹をなしたものは君の写実に対する執念であった。之を深く追究することによって客観的外象を超克し、主観的新古典的美を想像した。○作品内容は常に清澄にして新鮮である。おそらくは永遠に新しいであろう。
  昭和38年秋 竹喬○』

 土田杏村(つちだきょうそん、1891~1934年)は、新潟県佐渡の生まれで、京都帝国大学を卒業し、西田幾多郎のもとで哲学を学んだ人物だそうです。
 また土田麥僊(つちだばくせん、1887~1936年)は、佐渡新穂の出身。農家の三男として生まれ、杏村は弟。京都市立芸術大学卒業の日本画家で、舞妓を描くことを得意とした画家だったそう。

 なお、土田麥僊のことを書いた「竹喬」とは、小野竹喬(おのちっきょう、1889~1979、岡山県出身)のことで、麥僊とともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)、そして後に国画創作協会を結成するなどした人物です。

 鄙に名士あり。ある時代、兄弟が異なる分野で日本を舞台に活躍していたのですね。新穂小学校の児童たちの意気は上がり、励みになることでしょう。


 寄り道ばかりして時間がなくなっていきますが、ようやく目指す根本寺(こんぽんじ)にやってきました。先の日吉神社とはそう離れていず、すぐに到着です。

 佐渡市新穂大野にある「根本寺」は、日蓮宗の霊跡。鎌倉時代の1271年に佐渡に流された日蓮上人は、およそ2年半の流人生活を送ります。当時死人の捨て場とされていた塚原の三昧堂に入れられ、ここで他宗の僧と塚原問答を戦わせて、日蓮宗の根本教典である「開目抄」を著したのだそうです。
 その後、1607年に金山の山師、備前遊白が祖師堂を建立したことに始まり、山師、味方但馬が大寄進してできた寺といわれます。

 当時は雪が身の丈ほどに深く積もり、あたり一面は屍(しかばね)の林で鬼火が飛び交うような場所だったというこの場所も、今では舗装された道路が走っています。
 寺の門構えは立派で、門前は広い駐車場になっています。日蓮宗関係者が大型バスで巡行したりするかもなあ。

 門からまっすぐに伸びた参道を見るにつけ、かなり奥行きのある大きな敷地。中に何があるのか楽しみだったのだけど、あいにく保存護持料300円なんて取るんだよなあ。
 関係者にとってはこれっぽっちの護持料でいいの?ということなのだろうけれど、門外漢にとっては入るだけでカネがかかるなんて観光主義的拝金主義的なにおいがしてどうも・・・。
 というわけで、敷地内には入らず、門に向かって右側にある敷地に沿った小道を散策がてら歩いて、塚原とやらのいにしえに思いを馳せてみたところです。

 小道からは生け垣を挟んで敷地内の一部が見え、中では管理者の女将さんらしき人が一人で黙々と庭の手入れをしていました。以上。


 2000年3月に「新潮」に掲載され、同年6月に単行化された、又吉単行本としては第8作目となる作品。約200ページ、表題作1本の長編の収録です。

 沖縄本島北部のひなびた漁村に、ある時“火葬場建設”という名目で海岸埋め立て計画が持ち込まれました。
 小さな集落は賛成・反対に分かれてさまざまな軋轢が発生し、その解決のためついには住民投票で計画の是非が問われることになります。
 主人公は30歳の独身男性の「自治会長」。本人は、集落にとって経済効果があるとの立場で賛成派。しかし彼の父親は強い反対派で、家屋を反対派の選挙事務所として貸す構えを見せるなど、かなり入れ上げています。
 “基地の島”沖縄のリアリティを、痛みと哀しみ、そして独特のユーモア感覚に包み込んで描いている人間喜劇。
 ――とのふれこみです。

 沖縄のあれやこれやが端々から感じられて楽しく読むことができました。しかし、又吉栄喜の作品は、会話の部分が多いにもかかわらず、それらが平易な標準語での会話になっていて、ウチナーグチが出てきません。
 日本人にとって理解するのが難しい真正のウチナーグチは無理だとしても、せめてウチナーヤマトグチにするか、もしくは間投詞などのとっさに発せられる言葉ぐらいはウチナーグチでいくかしてもらえれば、もっと沖縄らしさが不自然なく出せるのになと思いながら読みました。

 ここまでで、2000年までの又吉単行本はあらかた読み終えた形。それ以降の作品はすべて買いそろえてあり、それらのうち「巡査の首」、「夏休みの狩り」、「呼び寄せる島」、そして2015年刊の「時空超えた沖縄」が未読となっています。
 もうしばらくの間は又吉作品で楽しむことができそうです。
 次に行ったのは「清水寺(せいすいじ)」。
 事前情報としては、京都の清水寺を模して作られたとされ、仁王門、山門、観音堂、本堂、庫裡があり桜もきれいで四季折々の美しさがある。20代桓武天皇によりこの遠い佐渡の地にもお寺をと考えて作られたもの。本堂にある「佐渡七福神 (寿老人)大画像」は必見の価値あり――と。

0180_201609021930525b0.jpg

 根本寺近くを走る県道65号線から小道に入り、おやここにもと、先ほどとは別の「日吉神社」の前を通って山手のほうに入っていきます。すると、ここから先は山だけといった感じのところに古い寺がありました。立派な山寺です。
 仁王門に「清水寺」の掲額と「佐渡七福神「善哉壽老人」奉納所」の看板。そこから本堂までは石積みが崩れかけ苔がむした石段が杉木立の中に伸びています。この枯れ具合がスバラシイ!
 石段を登り切り中門をくぐったところはちょっとした広場(前庭)になっていて、左手に鐘楼、大講堂、庫裡、長屋門などが見られます。
 その入口となる内門の脇に解説版があったので、以下に引用します。

本堂・鐘楼・中門・仁王門
 清水寺は、新穂大野の大野川扇状地の扇頂に立地し、境内には15棟の堂宇があります。
 亨保15年(1730)建立の本堂は、当寺が属する真言宗豊山派の総本山である奈良の長谷寺本堂を模して建てられたとされ、屋根正面を入母屋とし、前面の礼堂に舞台を付けた懸造(かけづくり)としています。
 鐘楼は本堂前庭に面した中門の左手に配され、中門と仁王門を参道石段の起点と終点に設けて軸線の効果を高めています。
 本堂、鐘楼、中門、仁王門は、いずれも完成度と保存度が高い建造物であり、長く直線的な参道や伽藍配置と組み合わさり雄大な空間を構成しています。また、歴史的価値を明らかにする棟札3枚や境内俯瞰図「佐州清水図(さしゅうせいすいず)」も残されており、明確な史料を伴った仏堂として貴重です。



 でもって、前庭の正面には、おお、これって京都の清水の舞台みたいじゃん!
 オドロキですが、佐渡のこんな山の中で清水寺(きよみずでら)を模した舞台付きの本堂を見るとは思いませんでした。
 舞台に通じる石段を登ってその場に立ってみれば、夏の風が爽やかでいい気持ち。見下ろす景色は山ですが、まあいい眺めでした。
 ここまで来てみてヨカッタなあ。・・・あ、佐渡七福神(寿老人)大画像を見るのを忘れた!


 次は、長谷寺(ちょうこくじ)。清水寺からいったん里のほうに下り、麓の道をぐるりと回り込んで小倉ダム方面へ。その途中、山間の長谷集落の中心にドンと長谷寺はありました。
 ここは見る予定には入っていませんでしたが、「小倉千枚田」に向かう途中にあったので寄ったというのが正直なところ。なので、事前情報なしです。

 走っていた県道181号から見えてきたところを小道に入ると、手前に寺へと続く階段。「義僧 憲盛法印霊跡」と刻された石碑がありますが、上で犬が激しく吠えているのでそこからは入らず、小道の奥にある仁王門から入ることにします。

 その仁王門が上の写真。門の中には新潟県指定文化財の「長谷の仁王像」が安置されています。
 門に御触書を書く高札のような形の説明板が打ち付けられており、次のように記されていました。

仁王門(国登録有形文化財)
 仁王門は享保年間(1716~1735年、江戸中期)に建立された。
仁王像(県指定文化財)
 阿形・吽形の2体の金剛力士像の製作年代は、平安後期の彫像製作にしばしば用いられた一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)の技法に通じる点などから、平安後期に遡ると考えられる。
 金剛力士像は、鎌倉時代以降の遺品が圧倒的に多く、平安時代に遡るものは京都醍醐寺の像など、極めて少ないことから甚だ貴重なものである。

 平安後期の仁王像なんですね。貴重なんですね。

 仁王門を潜って長い石段を登っていくと、右手に潜り戸のようなところがあり、そこを入ると「迎照院」の額が掲げられた大きなお堂のある広場がありました。これは「迎照坊」。
 その前には、先ほど石碑で見た「義僧 憲盛法印」って?の疑問に答える看板も。

義僧 憲盛法印
 当山先師憲盛法印は、名を智専と云い、真野に生まれる。
17才の時修業の為京都に上り勉学に励み、学成り、当寺の住職となる。
 明和3年、佐渡では農作物の大凶作に見舞われ、重税に苦しむ国仲53ヶ村の農民は年貢米の軽減を時の代官所へ願い出るも聴きいれられず、此の時智専は途方に暮れる農民の窮状見るに忍びず、此の請願を一身に引受け、奉行所へ直訴の決心をしたのであるが、その頃早くも役人の知るところとなり、一部同志と共に捕縛の身となる。
 獄中3年拷問を受け乍ら、常に釈迦の救世捨身を信条として、一切の責は愚僧にありと、同志農民を庇い通し、遂に明和7年3月21日斬首の刑を受けたのであるが、刑場にあっても智専は泰然自若として般若心経を朗誦したと伝えられ、この大慈悲心によって悪政漸く改まり、同志農民も延納も、共に許されたのである。
 智専没後、憲盛法印と贈名され、佐渡国仲53ヶ村の村毎に石碑を打ち建て永くその仏徳を讃え、今なお、信仰が絶えません。
  平成3年4月  無量山遍照院

 ナルホド、庶民の味方、佐渡の恩人・偉人がこの寺の住職だったと。

 先ほどの石段に戻ってさらに登れば、またもや右側に「真言宗豊山派長谷寺本坊」の看板の付いた門。そこを入っていくと、大きな入母屋の屋根をもつ本坊が建っていました。
 石段はまだまだ山の上まで続いていて、この先鐘楼、観音堂、五智堂、深海和上墓などなど見どころは豊富なようですが、時間も押してきているしこの程度にとどめて次に行くことにしましょう。
 石段がどこまで続くのかわからないのが不安だった、ということなのだけど、長谷寺のホームページを覗いてみると、観光するのに「お急ぎの方」でも30分、上まで行けば1時間ぐらいかかるということなので、この判断は自分にとって正解だったかもしれません。

 なお、石段の途中に「長谷寺の歴史」を示す看板があったので、引用しておきます。

長谷寺の歴史
 当山は今から1200年前の大同2年に弘法大師創肇なりと、「古伝縁起」に記されております。
 本尊十一面観音立像3躯は、大師の御作と伝えられ、明治39年4月、国宝に指定されました。
 また本尊は古来から秘伝のまま常に御厨子の中に収められ、33年毎に1回の御開扉法会を慣例として行ってきました。
 当山の寺号は、一説によれば承久年間(1220年)順徳上皇御還幸の際、地形が大和の長谷に似ているところから「里を長谷と称し、山号を豊山、寺号を自性院長谷寺と称せり」と、佐渡誌に見えております。
 大悲殿(観音堂)は正長年間に第8世智円和上が再建し、現在の建物は元禄4年(1691年)に改修されたものです。
 天正17年(1589年)、上杉謙信の嗣子景勝が佐渡国攻略の際、家老直江山城守兼続は当山の再興に尽くし、文禄4年、当国支配役鳥羽備前守に令を下し寺領を兵火の災難から保護するために努められました。
 永享年間(1431年)佐渡に配流させられた観世元清はその「道の記」に、「山路を下れば長谷と申して観音の霊地に渡らせ給い、故郷にも聞こえし名仏なれば懇に礼拝し」と記しております。


 長谷の集落だってかなり山間に位置するのに、そこからさらに山の中へと進みます。この先には小倉という集落や小倉川ダムがあり、そのもっと奥には小倉ダムというまた別のダムがあって、その近くに「小倉千枚田」といういい眺めのところがあるというのです。

 事前情報では、
『松ヶ崎(佐渡島の東南海岸で、距離的に本州から最も近接する場所)が佐渡の国津だった頃、小倉峠を越えて人々は国仲へ入ってきていたそう。その峠道の途中、山に張り付くように作られた千枚田を見ることができる。
 小さな田が段状に並ぶ風景は季節によって様々な表情を見せてくれる。まさに日本の原風景を見ることができる場所として人気。ゆったりした時間を自然の中で過ごしたいという時に訪れたい場所。』
 ――ということだったので、少々、いや、かなり無理をしてやって来たわけですよ。

 知らない場所なのに加えてだんだん細くなっていくような道を、心細くなり、ときどき進路を間違いながら進んでいきましたが、ありました、小倉千枚田。
 うーむ、これは、すごいのかどうか。
 景観としては確かにすごいです。えらく急峻な山間地一面に何段もの棚田ができている姿はスバラシイ。ここはバリ島か?!
 でも、これってあまりに効率が悪すぎない? 反収、農業経営などという発想や概念を持ち込むこと自体、まったく不適切な感じです。まあ、集落からも遠いこの地によくぞこれだけの遺産を残してこれたものだと静かに感動します。

 棚田は、中腹の道路を挟んで上下に展開されていますが、その道から写真を撮ろうとすると、上を撮れば田の面が見えずに高い畔しか写らず、下を撮れば稲穂ばかりが写って畦が見えず、という具合に、まことに不都合な状況です。
 何枚か撮影したけれど、コレハというものが得られなかったのが残念。つまりは、自分で現地に行って、見てくるしかないということなのでしょう。

 道端に「小倉千枚田の概要」を記した説明板がありましたので、以下に引用。

 小倉千枚田の地名は、佐渡市小倉大ひらきである。ここは海抜350~400mの位地にあり、急峻で典型的な棚田である。
 この地が耕地として開発されたのは、1650年頃(慶安3年)相川鉱山町の人口急増に伴い、米不足を解消するためであった。
 その後開田は継続され、約5haとなり約300年間耕作され続けてきた。
 しかし、昭和50年代になり、減反政策や農業従事者の高齢化に伴い、耕作放棄が漸増した。
 そこで、佐渡市は平成18年度に、佐渡百選に選定されている千枚田の復活を地元に提案された。地元では協議を重ねた結果、平成19年度に「小倉千枚田復活事業支援協議会」を立ち上げ、諸準備を整えた。
 翌年、平成20年度から、オーナー制度とボランティア活動を取り入れ、稲作栽培をスタートした。年次計画で復活面積を増やし、平成22年度には1.5ha(63区画)を管理することになった。同年、立ち上げから3箇年が経過したことで、「千枚田管理組合」が単独で事業推進に当たることとした。
 管理組合としては、オーナーやボランティアの方々が、農作業や交流イベントを通して「魅力や満足感」を感じて頂けるようにしたい。
 そのことを通して、「棚田の景観維持と地域の活性化を目指したい」と念願し努力している。


 この棚田を温存するには並々ならぬ努力があった、と。
 NHKの「ブラタモリ」を見て知ったのですが、先に見てきた金山町の相川は今は普通の静かな集落ですが、往時はあの山間地に人が押し合うようにして暮らしていたということです。その人たち向けに米の増産が必要だったのですね。


 徳川政権の巨大な圧力を背景にして殺到してくる薩摩軍。その薩摩に吸収されながらも、琉球は中国・明に対しては独立王国としての体面を見せなければなりません。苦悩する琉球。しかし、老いも若きも、男も女も、心に秘めた琉球の誇りをしっかりと握りしめていました。国の再興へ、南海王国の建設へ、人々の胎動が始まります。

 やっとこさ、大ロマンの完結編、第3巻を読み終えました。
 表現が物静かというか、盛り上がりに欠ける淡々としたものなので、読む側も最後まで盛り上がらずに終わってしまった感じです。

 自分には歴史小説はあまり合わないのかもしれません。北方謙三のハードボイルド小説が好きで、文庫化されたものはすべて読んできていますが、彼が歴史小説を書き始めてからはとんと読まなくなりました。おそらく彼らしい迫力のある筆致は変わらないのでしょうが、中国の三国時代や日本のちょんまげ時代が舞台となると、まったく読もうという気にならなかったのです。

 つまりは、自分の気持ちを現実離れした世界に遊離させることができない、それだけの想像力を持ち合わせていない、ということなのでしょう。個人の能力の問題。
 とは言っても、藤沢周平の時代小説のような、人間の内面をベースに描かれた作品はぐいぐいと読めるのだけどな。

 あ、そうだ。そういう意味では、もう一人のハードボイルド小説の旗手だと認識していた志水辰夫も時代物に走りましたが、彼の時代ものはすごく興味を持って読める。彼の作品も内面的なものが深くモチーフに関わっている。
 ということは、この「琉球の風」は、小説が成立するための重要なファクターとなる登場人物の心理や人としての感情的な部分がやや足りなかった――ということになるのかもしれません。文字間に潜む内面感情の機微を読み取れなかったことも、こちら側の能力の問題ではあるのですけれど。
 大佐渡スカイラインといい、小倉千枚田といい、島の北と南の山岳地帯を走ってきたけれど、もうそろそろ山はいいや、平場へ行こう。
 ということで、20分ほど走って、旧真野町阿佛坊にある「妙宣寺」にやってきました。

 日蓮聖人の弟子が開いた寺で、日蓮宗佐渡三本山の一つ。新潟で唯一の国の重要文化財の五重塔があり、日光東照宮の五重塔を模して作られたものとのこと。日蓮聖人の資料や日野資朝の品が祭られている。サクラの時期や紅葉、雪の時期の五重塔との景色は絶景なのだそう。
 ちなみに、「日蓮宗佐渡三本山」とは、ここ妙宣寺と先に見た根本寺、それと旧佐和田町にある妙照寺のことを言うらしい。残念ながら妙照寺は見逃してしまったな。



 まずは山門前の案内板の記載を引用。

妙宣寺
 古くから北陸道7ヶ国法華の棟梁で、寛文年中(1661~1672)、身延・池上・中山3ヶ寺の輪番所となり、明治11年独立本山と定められた名刹である。
 もと順徳上皇に供奉した北面の武士遠藤為盛(阿仏房日得上人)の開基と伝え、始め金井新保にあったが嘉暦元年(1326)、雑太城主本間泰昌の居城付近に移り、後に今の地に移ったものである。
 文永8年(1271)、日蓮聖人佐渡配流の時、日得は妻千日尼と共に深夜ひそかに食物を運びその厄難を救った話は有名である。
 日蓮真筆の曼陀羅・消息文、日野資朝の写経等を蔵するほか、境内にある文政8年(1825)建立の五重の塔は、県内唯一のものである。
  佐渡市教育委員会

 「金井新保」とはどこなのだろう。そこから移されたということなのですね。

 近寄った段階でもう五重塔が見え、茅葺とは言えなかなか立派な仁王門をくぐって境内に入ると、不思議と気持ちが和みます。16時半近くの斜めからの陽がやさしく、それがこの寺の落ち着いた佇まいに馴染んでいたからそう感じたのかもしれません。
 五重塔が立派。このところ出羽三山の五重塔、鶴岡善宝寺の五重塔に接する機会があり、どうも五重塔づいています。それらよりも小ぶりで、彫刻も少なめで素朴な感じがします。
 その五重塔については、次のような説明板がありました。

妙宣寺五重塔 1基
   新潟県佐渡市阿仏坊  指定 昭和61年12月20日
 妙宣寺は、文永8年(1271)佐渡に配流された日蓮聖人に帰依した阿仏坊日得上人を開基とする。
 この五重塔は、文政10年(1827)に佐渡相川の棟梁茂三右衛門父子によって建立されたもので、高さ24.1メートル、初重の総間3.49メートルの小型の塔で、塔身部が長い。
 この塔は、現在残る江戸時代に建てられた数少ない五重塔の一つで、比較的保存がよく、全体の比率や五重軒の扇垂木などに時代の特色があらわれており、組物に和様と禅宗様の肘木を混用し、心柱は杉の一本造りで、心柱と四天柱を各層で緊結するなど、独自の手法もみられる。
  平成21年11月
    文部科学省
    本山 阿仏房妙宣寺

0220_20160906064143ca8.jpg

 中ほどにある山門は、瓦ではなくスレート葺の屋根。
 その左手には番神堂、宝蔵、祖師堂などが並び、正面には大きな本堂があり、その右には庫裡。
 全体としての落ち着きは、佐渡随一だったでしょうか。各建物を解説する立て札なども整っており、寺社仏閣のめぐり歩きにふさわしいところでした。


 ネクストは「佐渡国分寺」。妙宣寺からほど近いところにあります。
 741年に聖武天皇の詔で建立されたという佐渡最古の寺です。佐渡島はこの時代から朝廷の視野にしっかりと入っていたのですね。
 雷火、火災で焼失してしまい、現在のものは1674年に再建されたものなのだそう。
 また、国仲平野を見おろすこの地には国分寺跡があります。礎石の一部が残っており、金堂や塔等の配置が把握できるそうですが、まだ発掘調査が行われていないため、創建年代や寺域等は明らかではありません。佐渡国分寺は743~775年の間に建てられたと考えられています。

 急な石段を登ったところにある仁王門は、ここもまた茅葺。そこからまっすぐに伸びた道は西日が逆光になって目に眩しい。
 その道の右側は石積みになっており、その向こう側が現在の国分寺の建っているところでした。
 手前のほうが、白壁の新しい国分寺本堂、その奥にはまたもや茅葺の背の高い建物がありました。

 西にまっすぐの道に戻った突き当たりには、瑠璃堂。茅葺の、これはずいぶん古い建物です。
 その近くのシイ林が佐渡市指定の文化財になっています。
 入り口近くにあった自然歩道の案内板の記載事項を以下に書き留めておきます。

中部北陸自然歩道 佐渡国分寺
 天平13年(741)、聖武天皇の詔により諸国に1か寺ずつ建立された国分寺のうちの1か寺。建立完成年代は詳らかでないが、天平宝字8年(764)、国から佐渡国分寺に最勝王経・法華経各1巻が施入された年あたりの完成かとする説が強い。
 寺伝によると七重塔は正安3年(1301)の雷火で焼失、亨禄2年(1529)の火災で宝物旧祀を失ったという。旧境内は現国分寺境内の西側松林に東大寺式伽藍配置の礎石群が残る。文字瓦・絵瓦などを含む遺物も多く出土しており、昭和4年、国の史跡に指定。
 旧本尊の平安仏(木造薬師如来-収蔵庫に安置)は明治39年国宝(現在重要文化財)。現国分寺の建立年代は不明であるが、江戸初期かと思われる。旧本尊の安置されていた萱葺きの瑠璃堂は寛文6年(1666)の建立。
  環境庁・新潟県


 次は、大膳神社能舞台。妙宣寺、佐渡国分寺からほど近いところにあります。
 行ってみると、一面に芝が張られた神社の境内の中に、想像以上に立派な能舞台が。この佇まい、なかなかきれいです。

 ここは看板が充実していたので、まずはそれらを引用しておきます。
 そのひとつめは、能舞台の解説。

県指定文化財(有形民俗文化財) 佐渡大膳(だいぜん)神社能舞台
 素朴で美しい佐渡能舞台の代表的な遺例で、弘化3年(1846)に再建されました。
 舞台は、寄棟造茅葺で、本舞台と後座(あとざ)からなり、鏡板には日輪と松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。常設の地謡座は近年の増築によるもので、鏡の間はないものの、複式の橋掛りに裏通路が付属し、舞台裏の楽屋へと通じています。
 演能は現在も盛んで、4月18日の祭礼には奉納能、6月には能と鷺流狂言(さぎりゅうきょうげん、県指定無形文化財)が薪能として上演されています。
  平成25年2月  佐渡市教育委員会


 そのふたつめは、神社の縁起。

大膳神社縁起
   左殿 日野資朝卿   正殿 御食津大神   右殿 大膳坊賢榮
 正殿、御食津大神は農業食饌の祖神、豊穣の守護神で、古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている。その勧請創始については諸説があり、一説には式内社当国9社の一つとも言われているが、なお詳らかではない。
 正中の変の折、日野資朝卿当国に配流され、一子阿新丸は父子対面を求めて遥々都から下向したにも拘らず、遂に許されぬ儘父刑死の無念をはらすべく城主本間山城守の館に潜入し、その弟三郎を斬って本懐を果たした。
 この間大膳坊賢榮は、真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したが、その孝心の已み難きに感動してこれを扶け、更に迫り来る討手窮追の危機の中に阿新丸を守護し、無事虎口を脱して帰京せしめた。
 山城守は激怒し、大膳坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて、日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。
  昭和51年4月
   宮司 日野典二 撰文
   本間守拙 揮毫
   寄進 土屋増右衛門


 そして3つめは、神社の説明。

大膳神社
 大膳神社は、御食津神を正殿に、日野資朝を左殿に、大膳坊を右殿に祀る。
 延喜式内社「御食神社」は、この社ではないかとする説もある。
 正中2年、日野中納言資朝、佐渡流罪、元徳2年、資朝の子阿新丸が渡島する。
 地頭本間山城守は対面を許さず、資朝を処刑、阿新丸は山城守の太刀取り、本間三郎を討ち帰京する。
 阿新丸の逃亡を助けた山伏大膳坊は処刑される。
 城主が大膳坊の怨霊を鎮めるために勧進した社と伝える。
 境内に能舞台を有する。
  佐渡市教育委員会


 ところで、佐渡島には能舞台が異常に多く残っています。かつては200以上もあったと言われており、現在でも30余りの能舞台が残っています。日本国内にある能舞台の1/3が佐渡島に集中しているのだそうで、これってオドロキですよね。
 能の大成者である世阿弥が佐渡島に流され、また、能楽師出身の奉行が初代佐渡奉行を務めたという歴史があり、その後も能が庶民の手によって村々の鎮守の祭りの場として広がっていった、ということなのでしょう。佐渡は日本では他に類を見ないほど、能が盛んな土地柄なのです。

 現存する佐渡の能舞台の中では、県指定有形民俗文化財が8つ、市指定有形文化財5つあり、毎年6月の薪能月間には大勢のファンが訪れるのだそうです。
 この大膳神社能舞台は県指定のもの。かつては宝生流の太夫家から選ばれた国仲4所の御能場の一つで、格式の高い舞台として能以外には使わせなかったと言われています。
 残る記録から、最古の演能記録は1863年以前であることがわかっています。

 自分は能について格別の思いは持ち合わせていませんが、佐渡島の能に関する蓄積とその積み重ねの歴史そのものに強い興味を抱きました。この日から翌日にかけて、何カ所かの能舞台を見て歩くことになりそうです。


 さて、17時を回った。本日の佐渡めぐりもそろそろ締めくくりに入らなければならない。
 この日の宿泊は旧真野町にある宿なので、陽が暮れるまでに旧相川町にある「夫婦岩」を見て、それで終わりにしよう。
 で、夫婦岩に向かう途中にもうひとつぐらい寺を見ていこうかと考えて寄り道したのが、「実相寺(じっそうじ)」でした。ここは事前情報なしの寺。
 数ある寺院の中からなぜ実相寺を選んだのか、今となってはよく思い出せないのですが、おそらくは県道350号を走っていて何らかの標識を見つけてここらあたりと判断したものと思われます。

 でもその判断は悪くなかった模様。「御松山」と掲額された茅葺の大きな仁王門があり、そこから本堂へと伸びる緩やかな登り傾斜の参道は緑の苔が生して美しい。
 仁王門付近にあった手書きの案内板には次のように記されていました。

御松山実相寺の縁起
 文永9年4月7日、一の谷に謹居の身となった日蓮聖人は毎日朝この丘に登り、老松の根元より数歩の沢辺に湧き出る清水を見つけて喜ばれ、老松に袈裟を掛け、清水で手を清め、口を漱ぎ、昇天する朝日に向けて妙法を唱え、天下泰平四海帰妙の祈りを捧げ、遠く郷土安房の父母を追慕し、親思の深きを感謝され、生きて再び帰洛することを旭日に祈念なされた。
 「袈裟掛けの松」「御手清水」が残っている。また、樹齢千余年の「三光の杉」が町の文化財に指定されており、昭和56年には日蓮聖人思親銅像が建立されました。袈裟掛けの松に因みこの寺を通称「お松」といいます。合掌。
  昭和63年8月 建之

 おお、当然のようにここも日蓮関連の寺なのですね。
 で、苔むす参道を登り、山門を潜ったすぐ右手には堂々の「三光の杉」が。

千年杉(天然記念物)
 文永10年7月、日蓮聖人この大杉と袈裟掛け松の間に停ち、梵天、帝釈、日月、四天に帰倉(鎌倉へ帰る)を念誦されるや、白頭のカラス飛来す。
 燕の丹太子(えんのたんたいし)の「山からす 頭も白く なりにけり 我帰るべき 時や来ぬらん」の古事にも等しく、翌文永11年3月8日御赦免状佐渡国に到達、同14日御出船され、4ヶ年ぶりに御帰倉なされ給う。

0260_20160911173456269.jpg

 そして右手奥の奥のほうには、「日蓮聖人袈裟掛之松 狩野胖幽斎之筆 胖幽斎生誕350年記念」の文字とともに描かれた絵の石碑とともに、「袈裟掛けの松」があり、そこには次のような説明書きがありました。

実相寺と狩野胖幽
 流人絵師狩野胖幽は、配流中に二人の先輩流人の肖像を描いた。一つは小倉大納言実起。相川の観音寺で宝蔵する。実起卿の生存中の束帯姿の礼装を描写している。
 この日蓮画像は、当御松山実相寺の袈裟懸の松の縁起による。松に袈裟をかけ、朝日を拝む聖人像で、同寺の山号もこれに由来する。畑野町猿八の大森新左衛門家の所蔵だったが、昭和21年に歴史学者橘法老氏のすすめで実相寺に山納したことが、裏書によって知られる。
 四男牧野一角が奉納した、胖幽自筆の観音経普門品(法華経第八)の繊細な註画9巻も、当寺に残っている。


 とまあ、いろいろと仕掛けのある寺でしたが、山寺らしい佇まいはなかなか幽玄でした。


 実相寺から海岸沿いの道を30分以上相川方面に走ってようやくたどり着いた七浦海岸の夫婦岩。
 そこまでして見るべきものなのかどうかはわかりませんが、夕日スポットとして有名な場所だということなので、晴れの日のこの時間帯に訪れるのは正解だろうと判断しての訪問でした。

 すぐそばのドライブインに車を停めて、眺めて見るのですが・・・。
 うーむ、眩しい。
 西日がきつくて、サングラス越しでも辛いぐらいの眩しさです。時刻は18時少し前。この季節のこの時間では、残念ながらまだ夕日には早かったようです。

 「古事記」の国生み神話に由来するとされる大きな2つの岩。向かって右が夫の岩で高さ22.6m、左側が妻の岩で高さが23.1m。七浦海岸の波を受けて寄り添うように立ち、縁結びのご利益も期待されるのだそう。
 右が夫で左が妻だというのは、形状的に素直にうなずけますね。(笑)

 しかし、面白い話があります。
 新潟大学の調査チームが雄岩の突起部分と雌岩の割れ目部分の地質を詳しく調べたのだそうです。
 その結果、突起部分に、くり抜いた後に貼り付けた跡があるのを確認。更に、岩の出自を調べる鑑定を行ったところ、突起部分は雌岩からくり抜かれた物である事がわかりました。
 岩の貼り付け状態から、細工が施されたのは約100年前と見られ、突起部分の岩の根元にレントゲンを当てたところ、「吉岡石造」の名が読み取れました。
 つまりは、真野の石工たちが船でこの岩を訪れ、岩のくり抜きと貼り付け作業を行ったと見られています。この一連の作業により、雄岩を雌岩に変え、雌岩を雄岩に変えたため、夫婦岩は「性転換岩」と考えられる(!)とのことなのです。

 当時の石工も、調べた大学も、それぞれそこまでやるかという感じがしないでもありませんね。(笑)

 さて、本日の佐渡めぐりはここまで。
 これから真野地区に戻って、「ご縁の宿伊藤屋」に投宿となります。


 毎週土曜夜6時というものすごくいい時間帯に、沖縄テレビで絶賛放送されている「ひーぷー☆ホップ」というローカル番組があるそうで(自分はまだ見たことがない)、その看板コーナーである「オキナワ☆爆笑伝説」に寄せられたネタの中から選りすぐられた作品を書籍化したものです。
 「オキナワ☆爆笑伝説」の本はこれが2冊目の発行。でーじ笑える、でーじローカルなネタが、でーじボリュームアップして登場です! ――とのこと。

 ちなみに、ひーぷーとはメインMCの真栄平仁のことで、彼は1969年うるま市生まれ、沖縄県立前原高校、琉球大学短期大学部を経て沖縄国際大学卒。劇団O.Z.E代表、沖縄の芸能事務所オリジン所属、沖縄現代演劇協会事務局長を務めるお笑いタレントです。

 「ひーぷー☆ホップ」は、2008年7月にスタートし、この本が発行された2015年5月段階で7年間、そしてこれを書いている2016年9月現在もなお続いている人気番組。
 「ラジオみたいなテレビ番組」がコンセプトで、本番中に何百通というメールが届くのを紹介し、観ている人が幸せになるようなテレビをみんなで創っていこうと努めています。隣の兄ちゃん、姉ちゃんたちとゆんたくしているような、身近で愛される番組のようです。

 本に登場するエピソードはそれなりに面白いですが、自分の場合、その中に出てくるウチナーヤマトグチの会話や沖縄らしいモノや人の様子にヨロコビを見出しています。
 でもまあ、こういう本って字が大きいし、行間たっぷりだし、あっさり読み終えてしまうので、なかなか値段相応の満足度を得るのはタイヘンかもしれません。
 いずれにしても、テレビ番組を実際に見てみないことにはこの本の神髄をつかめないのでしょう。沖縄に行ったときにチェックすることにしましょう。
 佐渡の2泊目は、真野地区にある「ご縁の宿伊藤屋」。ホームページを見て電話で直接予約した宿で、「板長おすすめ!旬の海鮮会席プラン」コース1万円。昨晩よりも期待できそう、ぐらいのノリで泊まったところ、食事も部屋も好評価でした。



 まずは夕食。
 これは着座段階でのビジュアル。どうですか、すごいでしょ。
 左手前から時計回りに、4種類の先付け、漬物、佐渡牛の豆乳しゃぶしゃぶ味噌ダレ、茶わん蒸し、ホウレン草?と油揚げの和え物かつお節添え、煮魚、そしてカニ。
 これで驚いていてはいけません。さらに刺身の3点盛りとイカソーメンが運ばれてきました。
 これで飲んじゃったら全部食べられるのか?という不安。
 でも、あちこち巡って喉が渇いていたのでビールは欠かせず、まずは瓶ビールを1本。

 先付けを突きつつカニを攻めてみましたが、これはスゴイ、昨晩のカニよりも数段身の入りがいいじゃあーりませんか。もうこれでかなり満足している自分。
 煮魚も美味。魚料理の神髄は煮魚なのかもしれないな。
 しゃぶしゃぶも、肉をだいぶ後になってから入れたのでおいしく仕上がったようでした。
 ほかのものもどれもおいしく、レベルの高さを感じました。
 その後、昨晩やれなかった日本酒のカニ甲羅酒をじっくりと堪能。満腹になったのでごはんはパス。
 フィニッシュはメロンのデザートと澄まし汁。

 夏休みで繁盛するこの時期、一人部屋で泊まって、これほどの料理がいただけて、朝食まで付いて1万円というのは、すごいことかもしれません。

0290_20160916065843514.jpg

 翌朝の朝食は、こんな感じ。
 朝からのイカソーメンはうれしい。青菜の胡麻和え、焼き魚、磯風味のするところてんなど素朴な構成ですが、朝食はこれでいい、これでも多すぎると感じた次第です。


 8月12日。この日は宿泊地の真野を発って、島の南西部にあたる羽茂、小木、赤泊方面を見て、その後東海岸を北上して両津へと達し、両津市内の見残しスポットを洗って、夕刻にはフェリーで新潟港へ向かう――というおおまかなスケジュールです。

 8時前には宿を出て、まずは海辺の様子を見てみようと、真野にある海水浴場で朝日を浴びながら散策。天候もバッチリで、気持ちがいいんだな、これが。
 ここは新町海水浴場っていうのかな、駐車場も完備されており、そこにはテントや音響施設が持ち込まれ、この日も何らかのイベントが始まるようです。昨日は浴衣姿の町民を大勢見かけたし、宿では夕刻から浜で花火大会がある旨の報せがあったし、この地域が今、夏の最高潮を迎えていることを感じさせます。

 真野湾のきれいな彎曲が見渡せ、空は真っ青に澄み渡り、綿菓子のようなうっすらとした雲が数片。人影は数人の家族連れがチラホラ見えるだけです。
 こういうのって、ひとつの極楽浄土を感じる一瞬です。
 いいところだなあ、佐渡って。


 「薩摩の黒船」がもたらしたものとは――。ペリー来航の9年前、フランス艦隊は和好・通商・布教の目的を掲げて琉球に乗り入れた。薩摩支配の露見に怯える琉球、フランスに表だって退去を迫れない薩摩と、三者の思惑が交錯する激動の幕末を追う!(コシマキより)

 著者の生田澄江は、法政大学大学院人文科学研究科日本史専攻修士課程修了で、明治維新史学会、洋学史学会会員デアルとのこと。
 本書は、著者が大学院生だった1992年に書いた修士論文を、平易なドキュメント風に書き換えて20数年ぶりに世に問うたというものです。

 この著作のポイントは3点。
 ひとつは、外国船の来航の事態を単に「外圧」として捉えるのではなく、フランス艦隊の来琉前後のフランス側の背景に即して再検討すること。
 2つめは、フランス艦隊がフランス人宣教師ほか1名を残していったことから、琉球王国が日清両属という国際的位置を隠蔽することに全力を尽くさなければならなくなっていった過程を明らかにすること。
 3点目は、フランス側の通商要求に応じて琉仏貿易を開始した場合、薩摩と琉球の関係が表面化することとなり、琉球王国が実質的に日本の属国であることを明確にすることを模索し始めるが、その過程を明らかにすること。

 はたして140ページの論考で、著者はその目的を達成することができたのでしょうか。
 それは読んでのお楽しみということにしておきましょう。