島の端っこの実久を制して、そろそろフェリーの港へと戻ることにしましょう。県道614号を一路南東方面に向かい、生間港を目指します。生間発の最終便は15時55分発。それまで1時間半ほどしか残っていません。大丈夫かな?

 既に見た薩川、瀬武を過ぎて、木慈(きじ、6世帯10人)、武名(たけな、8世帯9人)、三浦(みうら、11世帯16人)を素通りし、斜め右方向に細く伸びる旧道に入り込んで、俵(ひょう)の集落を訪れました。
 ここは比較的平たん部が広く、スルーしてきた3集落よりも大きくて、41世帯、59人が暮らしています。

 旧道に面した一角に広場がありました。その奥には2階建ての建物。加計呂麻島で唯一の2階建て公民館なのだそうで、1階は俵公民館、2階は民具資料室になっています。
 めずらしく集落内を歩いている人が二人ほどいて、久々に近くで人を見たのでびっくりです。(笑)

 その広場には、地図が薄くなりかけた「瀬戸内町観光案内図」とともに、大きなデイゴの木が立っていました。
 いい枝ぶり。ほんの少しだけど赤い花が咲きかけています。

 デイゴ(梯梧)は、マメ科の落葉高木で、インドやマレー半島が原産。日本では沖縄県が北限とされていますが、先に諸鈍でも見てきたとおり、加計呂麻島でも立派に育っています。
 春から初夏にかけて赤い花が咲きますが、毎年満開となる保証はないそうです。
 沖縄では、デイゴが見事に咲くと、その年は台風の当たり年で、干ばつに見舞われるという言い伝えがあります。

 振り返ってみると、デイゴの花がたくさん咲いているところをまだ見たことがありません。琉球弧方面には50回近く、正確には今回で48回訪れていますが、ゴールデンウィークや夏休み期間には訪れることはあっても、その間の5月中旬から7月中旬までの間は一度も訪問経験がないのでした。
 真っ赤に咲き誇るデイゴを見ることができるのは、仕事をリタイアした後になりそうですが、そんなところをぜひとも見てみたいものです。
スポンサーサイト


 俵から5分もかからずに、瀬相(せそう)に到着。ここにはフェリーかけろまの発着する港があり、島のターミナル機能を担っているところ。集落の規模も島の中では中型で、29世帯55人が住んでいます。

 フェリーターミナルの駐車場に車を停めて少しだけ散策。
 港の入口には写真のようなモニュメントがあり、その奥には小さな乗船券販売所がありました。
 県道614号を挟んで山側のほうには、徳洲会の加計呂麻診療所。これは15年前にはすでにあったな。
 でも、その前の「加計呂麻島のいっちゃむん市場」というのはなかったぞ。加計呂麻島のお土産や野菜、果物、刺身などを置いている島のスーパー的な店のようでした。

 15年前には、加計呂麻島にはフェリーで生間から入り、ここ瀬相から大島へと戻ったのでした。
 その時に撮った写真を見ると、瀬相の港の真ん前には「ゆっくり走ろう加計呂麻路 交通死亡事故ゼロ 5000日達成記念」と書かれた看板や、「みんなの力で加計呂麻へ橋を架けよう!!」という期成同盟会の看板などがあったものでしたが、今回はどうだったのだろう。よく見てこなかったので、残念ながらわかりません。


 フネに乗るまで残された時間が少ないので、瀬相から、呑之浦(のみのうら、4世帯5人)、押角(おしかく、25世帯41人)、勝能(かちゆき、66世帯81人)を通過して、諸数(しょかず)へ。もうここまで来れば生間はすぐそこです。

 諸数は、100年に一人のウタシャと言われた武下和平(たけしたかずひら)の出身地なので、ぜひ立ち寄りたかったところでした。
 自分にとっては武下和平こそが、奄美のシマウタの凄さを知らしめてくれた人物で、コブシの効いた唱法と三線の小刻みなバチさばきが特徴とされる東(ひぎゃ)唄の正統派を継承する者とされています。
 武下和平を初めて聴いたのは、2001年。今思えばすごい番組があったものだと感心しますが、NHK・BSテレビで「琉球の魂を唄う」という番組に、沖縄の登川誠仁、宮古の国吉源次、八重山の山里勇吉とともに琉球弧の4大巨匠として武下が登場していたのでした。
 そのときの武下は、裏声を駆使し、メリハリをつけて情感たっぷりにうたっており、ひたすら感動しながら聴いたものでした。
 CD「立神」(ビクター、1995)は何度も聴き、今でも時々聴いています。

 諸数の集落の中心となっている広場は、これまでに見てきた各集落のその部分をまるでコピーでもしたかのように同じつくりになっていて、公民館的な建物として「諸数集会所」があり、その前には土俵。道路側の一角に大きくて枝ぶりのよいガジュマルの木があり、その下には木製や石製のベンチがあり、加計呂麻バスのバス停標識が立っています。ここの石造りのベンチは、テーブルまで付いていて立派です。

 ガジュマルの木の下に小さな碑が建っていました。これは何?

   東(あがれ)から上(あが)る 月(てぃき)や変れども
   何時(いてぃ)む変らぬ 諸数人(ちゅ)ぬ心
    詞・書 渡 哲一   平成15年9月吉日

   新造船10周年
   贈 貨物フェリー「天長丸」 (有)山畑運送

 おそらくは諸数出身の会社社長が自費で建てたと思われるものです。
 (有)山畑運送とは、古仁屋を本拠とする運送業者で、貨物フェリー天長丸を所有。フェリーかけろまがドック入りした時などにはこの天長丸が代わって自動車を運ぶのだそうです。1993年5月竣工の171トンの船です。
 また、渡哲也と一字違いの「渡哲一」サンは、1934年、瀬戸内町蘇刈(そかる。ヤドリ浜やホノホシ海岸のあるあたりですね)生まれの唄者で、1979年の第1回「奄美民謡新人大会」(現在の「奄美民謡大賞」)で最高賞の新人賞を受賞。1981年から2004年まで瀬戸内町中央公民館の「シマ唄講座」講師。――という方なのだそうです。


 フェリーの発時間の30分前までには無事生間の港に到着。30分前には来てねとの事前情報だけど、窓口は開いていないし、他の客もほぼ誰も来ていません。まあ、南国とはそういうところと知っているので何とも思いませんが。

 約7時間にわたって細い道をアップダウンし続け、ほぼ加計呂麻島を一周した形になります。
 手元にある資料には加計呂麻島には現時点で人の住んでいる集落は全部で30あるとの記載がありますが、このうち今回車から降りて歩いて見た集落は21、車から見るにとどめて通過した集落が7。まったく寄らなかったのは安脚場(あんきゃば)と知之浦(ちのうら)の2集落のみでした。
 安脚場は15年前にじっくり見ているので、未踏の集落は小さな半島のどんづまりにある知之浦のみとなりました。わが酔狂さに自分自身ホレボレします。(笑)
 静かに暮らしている島の集落の皆さん、どうもお騒がせしました。いい経験をさせていただきました。

 フェリーは20分ほどで古仁屋に着き、これから名瀬まで戻ります。
 加計呂麻島から戻った古仁屋は、港が大きく商店街もあって、すごい大都会のように思えます。一晩泊まって愛着も湧いてきた街なので、少しの間車で流して街の記憶を心に植え付けます。
 古仁屋郵便局前の交差点は、何度も通ったし、郵便局の建物はこの街のランドマークなので、写真を撮っておきましょう。
 ガソリンが尽きてきたので、古仁屋郵便局の南にあるGSで満タン給油。時計は16時35分。ここが鹿児島県側の起点となっているゴッパチを北方面に取って返すことにします。
 加計呂麻の天気は雲が多くてイマイチだったけど、雨には降られずに済んだので、まあよしとしようではないか。
 旅の4日目の夜はまたもや名瀬泊。いったんホテルにチェックインして一息入れて夜をどうするか考える。居酒屋もいいけれど、今夜は久々に麺類を食べたくなったな。
 そう思い、スマホで付近のラーメン店を調べ、18時半頃に名瀬入舟町のホテルから小雨が降りだした中をてくてくと、県道79号を名瀬塩浜町方面へと少し北上して、「麺屋くろべえ」に行ってみました。

 

 座敷の席について、まずは瓶ビールと餃子550+350円を頼んで一服。
 この店のオネーサンは若くてなかなかの美人なのだけど、餃子が焼けないうちはビールを持ってきてくれないのでちょっぴり困った。
 で、餃子とビールが同時にサーヴされた段階で、ようやくぼくの寛ぎタイムが始まりました。

 500mlの中瓶など餃子とともにあっという間にやっつけてしまい、次は麺だ。
 とんこつの「くろべえ」「しろべえ」「あかべえ」、「くろ海鮮麺」などのメニューの中からこの店の最高額商品の一つである「くろ坦々麺」850円をチョイス。

0840.jpg


 おおっ、これって坦々麺なのか?!
 スープは、豆板醤などは使わずラー油中心。したがって坦々麺特有のとろみはありません。また、黒白の胡麻は擂らずにそのままパラパラと入っています。
 挽肉は使われず、チャーシューを賽の目状に小さく切ったものがたっぷり。なのですが、これが食べるうちに底のほうに沈んでしまい、最後にレンゲで掬って食べることになってしまいます。
 ネギは、長ネギの根っこの硬いところをザク切りにしてラー油で炒めてある模様。

 麺は、西日本特有と思われる短めのものですが、太さがしっかりしていて細麺の範疇には入れられないもの。
 意図的な創作なのか、こういうラーメン麺って初めてめぐり会いました。
 それなりにおいしいですが、これを坦々麺と名乗っていいものかどうか。
 でもまあ、奄美のラーメン、初めて食べたけど、それなりに楽しかったな。

 雨のそぼ降る中をホテル近くまで戻り、ちょっくらコンビニに寄ったところその間にどしゃ降りに。
 しばらくコンビニでビバーク(?)して、20分後ぐらいに走ってホテルへ。
 ああ、濡れた濡れた。あとは部屋で少し飲んで、今夜は終わりだな。



 5月7日、旅の5日目であり、最終日です。
 雷の音で、7時に覚醒。あれれ。カーテンを開けて外を見れば、大雨じゃんか。テレビのニュースでは大雨警報が出ていると言っている。うーむ、コマッタ。
 しょうがないのでしばらく部屋でぐずぐずと過ごし、9時から開くという「奄美市立奄美博物館」に行くことにしました。
 9時にホテルを出る頃には雨の激しさもかなり収まってきたのはラッキー。

 奄美博物館は15年前にも訪問しています。
 当時の覚え書きを見ると、「隣接する奄美文化センターでは市民文化祭の開会式が執り行われていた。小学生の演奏を座り込んで眺めている作業服姿のオジイと目が合い、あいさつ。何とはなしにいっしょに見ていたけど、いざ博物館に入ろうとするとこの人は博物館の職員の方(もしかすると館長?)だった。山形から来たと伝えると、「ほぉ~、それはまたずいぶんと遠くから…」と驚いていた。」、また、「展示物は、奇をてらったようなものはなく、陳腐さも感じられず、質実剛健でたいへんgood。特に、遺跡にみるあこや貝を中心とした企画展示は見応えがあり、つい時間がかかってしまった。」と記していました。

 1階は、島尾敏雄、海、ヤコウガイがテーマ。したがって上記の「あこや貝」は明らかに誤りです。伝統的小型船の実物を中央に、名瀬で20年暮らした島尾敏雄と家族の足跡、小湊フワガネク遺跡群のヤコウガイの世界など。入口の窓口にいた館長さん(?)から、奄美にしかいないというイシカワガエルが水槽にいるのでこれを見よと熱心に勧められました。
 2階は、暮らしと歴史がテーマ。琉球王国統治時代のノロ祭祀の関係資料や、奄美群島の祖国復帰運動関係の資料などが多数展示されていました。
 3階は、東洋のガラパゴスと言われる奄美大島の自然に生息する動植物の標本多数。これらは15年前とほぼ同じようで、古さを感じずにはいられなかったかな。

 2階に上がって、「写真を撮ってもかまいませんよ~」ということだったので、吹き抜けに展示されている舟の様子をパチリ。
 舟はクバヤといい、イタツケ舟を大きくしたもので、大舟(ウフブネ)、八尋舟(ヤヒロブネ)とも呼ばれ、20人以上が乗れるので、遠洋航海や物資の運搬に役立ったそうです。

0850.jpg

 また、シマウタに関して、カサン系の代表歌が「行きゅんにゃ加那」「長雲節」「よいすら節」「朝花節」などで、一方のヒギャ系は「いそ加那節」「嘉徳なべ加那節」「むちゃ加那節」などがある、ということが図示されていました。
 それから、1609年の琉球王国の征服から1871年の廃藩置県に至るまで、薩摩藩は仮屋(代官所)を笠利⇒大熊⇒赤木名⇒大熊⇒赤木名⇒名瀬伊津部へと移していたことを知りました。

 階段の踊り場などに収蔵物らしきものが無造作に積んだままになっているのでいったいどうしたのだろうと思ったら、これらは2010年10月に発生した「奄美豪雨」の際に冠水した住用公民館の収蔵資料が一時的に保管されていたものなのでした。
 ははあ、そういうことなのか。あれから5年以上経っても修復しきれていないのですね。役所のカウンターの下まで泥水が上がって、職員が呆然としている写真を見た記憶がありますが、すごいインパクトがあったものでした。

 その写真がコレ。
 保管していた画像の中にたまたま残っていました。

amamigouu2 201010



 展示物を1時間弱眺めて外に出ると、おお、ほとんど雨が上がっている! よっしゃあ!ってな感じです。
 館長さん(?)から「外の奄美の民家も見ていってください」と言われたので、奄美文化センター前の一角にあるそれを眺めてみます。加計呂麻の管鈍(くだどん。行きましたね)の民家を移設したものなのだそう。
 見ていると、その奥、センターの建物寄りに銅像が立っています。今の自分はそちらのほうに好奇心が向いているので、早々にそちらを見に行ったところ。

 それは「大津鐡治氏之像」というものでした。
 礎石の側面にある銅板の刻された文章を移しておきます。

 大津鐡治氏(1914~1989)は、父・大津定吉、母・モトチヨの長男として名瀬市に生まれ、大島中学校、第七高等学校を経て、昭和15年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年旧満州国に奉職、昭和19年3月兵役。
 戦後はシベリアでの抑留生活の後、昭和25年6月復員。同年7月末、米軍政下の臨時北部南西諸島政庁に勤務され、奄美群島政府副知事をはじめとする数々の要職を勤め、奄美の祖国復帰にも尽力された。
 特に、昭和33年に43歳の若さで名瀬市長に当選、爾来7期28年間にわたり復帰後の荒廃した郷土名瀬市はもとより、奄美群島にも不朽の足跡を残された。
 これらの功績により、昭和62年4月勲三等旭日中授章(地方自治功労)の栄誉に叙されたのをはじめ、数々の表彰を受けられ、名瀬市においては平成2年3月、名誉市民に推戴された。
 ここに全国有志相はかり、大津鐡治氏の誠実、重厚な人格と深い郷土愛に基づく偉大なる業績をたたえ、氏が市長在任中心血を注いで建設された奄美文化センターの構内に銅像を建立する。
  平成4年5月14日
  大津鐡治氏銅像建立委員会
    会長 名瀬市長 成田廣男
    題字 山下為吉 書

 名瀬市長を7期もやった名誉市民なのですね。奄美の偉人はいずれも祖国復帰運動に尽力しています。
 ちなみに、奄美文化センターは、昭和62年(1987)3月竣工。上記の記述からすれば大津氏の市長在任期間は1958~1986年ですから、退任直後に完成したということになります。


 奄美文化センターのエントランスの手前に、大きな石を2つ使った比較的新しい石碑が建っていたので、それも見てみます。
 奄美群島日本復帰50周年記念式典の際に、天皇皇后両陛下が詠まれた短歌を記した碑でした。
 次のように刻されていました。

  御製      復帰より 50年経るを 祝いたる 式典に響く 島唄の声
  皇后陛下御歌  紫の 横雲なびき 群島に 新しき朝 今し明けゆく

 その右下にある石には、次のように記されていました。

 天皇皇后両陛下におかれましては、平成15年11月15日から17日の間、奄美群島日本復帰50周年記念式典(同年11月16日奄美振興会館にて開催)御臨席及び地方事情御視察のため、奄美大島を御訪問になられました。
 本御製及び御歌は、その際にお詠みになられたもので、この感動を末永く後世に伝えるため、記念碑を建立します。
  平成16年3月
   奄美群島日本復帰50周年記念事業実行委員会委員長
    鹿児島県知事 須賀龍郎

 文中、奄美振興会館とは、ここ奄美文化センターのいわば「本名」のようです。
 自分がここを初めて訪れたのは2001年(平成13年)ですから、その時は2004年に建てられたこの碑はまだなかったということになります。

 天皇陛下が地方をご視察されるときには歌を詠まれるのが一般的のようです。今年全国豊かな海づくり大会が山形県で開かれますが、その際に詠まれた歌についても記念碑として残すことになるのでしょう。


 10時を過ぎるまで奄美博物館と奄美文化センター付近に滞留していましたが、ぼちぼち名瀬を離れて奄美空港を目指すべき時間になりました。
 名瀬の中心部から和光バイパスの新しいトンネルを抜けて、田中一村の家があった名瀬有屋を通過し、浦上という地名のところから本茶バイパスを離れて旧58号へと入っていきました。目的地は「本茶(ふんちゃ)峠の碑」です。

 くねくねとした登り道を進んでいきます。本茶トンネルが開通する1986年までは現役の国道だったようですが、きっとここはかなりの難所だったのだろうな。
 その道を峠のてっぺんまで進んで少し龍郷側に下がったあたり、道路脇の小高いところに、小学校の黒板のような深緑色をした看板に白墨で書いたような字の「ご案内」がありました。

ご案内
 この碑は戦後奄美が生んだ名曲「本茶峠」が永遠に人々に愛唱されあわせてこの唄の
  作詞者 重原源隆先生と
  作曲者 村田實夫先生の
功績がいつまでも記憶されんことを願って昭和52年10月9日に建立されました。
 特に村田實夫先生は「本茶峠」をはじめ「夜明け舟」「農村小唄」など数々の名曲を作曲され、戦後間もない私たちの心にどれほど明るい勇気そして希望を与えてくれたか知れません。
  昭和61年3月21日
   奄美新民謡同好会代表  豊 基

 「奄美新民謡同好会」がつくった「ご案内」だというのが、島唄ファンを泣かせます。
 豊基さんについてはよくわかりませんでしたが、氏の作品には「新宇検音頭」、「パナウル音頭」などがあるということです。

 愛読しているセントラル楽器の指宿良彦のブログ「ふっちゅねせ」にも、本茶峠の碑についての記事があり、それには次のようなことが記されていましたので、引用しておきます。

 昭和23年に作られたこの曲は、米軍支配下の奄美にあっても、心だけは自由に空想の世界を飛びまわれるのだという開放感を私たちに与えてくれました。
 作詞の重原源隆(しげはらげんりゅう)先生も、作曲の村田実夫(じつお)兄もすでに、故人となっていましたが、前年(注:1976年)、豊基(ゆたかもとい)さん(当時名瀬市役所に勤務)を中心とした名瀬音楽協会の有志で村田実夫追悼コンサートを行った後、彼らの功績を讃える「本茶峠の碑」を建立しようと決定しました。そして、みんなで集めた40万円を頼りにスコップ、ツルハシ、鎌などを使って整地作業を始めました。用地は、龍郷町が無償提供してくれました――。

 いい話ですねえ。碑はこうしてつくられたのですね。
 でもって、碑の本体はご覧のとおり堂々としたものです。
 碑の礎石部分には「ふんちゃ峠」の歌詞が4番まで記されていました。

ふんちゃ峠
 重原源隆 作詞   村田實夫 作曲
 一 ふんちゃ峠を 東に越えりゃ   描かれたような 喜界が島が
     波路遙かに 彼方に浮ぶ   夢の国かや 喜界が島は
 二 昔、昔の その大昔   桃太郎さんが 犬、猿、雉子を
     ともに従え 鬼征伐と   渡った島に よく似たような
 三 又、一つには 僧俊寛が   迎えの船に とり残されて
     都の空を 恋いこがれたる   哀れ語りの 鬼界が島
 四 歴史は変り 幾世はめぐり   ジャガタラ舟も 異人も来るに
     女護が島とは 誰が言い初めた   今ぢゃその名も 喜びの島

 「本茶峠」が歌詞に出てくるのは1番だけで、もっぱら喜界島のことがうたわれているのですね。
 このうたの曲調は、ズバリ「昭和のムード歌謡」でしょうか。昭和23年だもんなあ。

 碑の後ろ側には「本茶峠」の五線譜が彫り込まれていました。指宿良彦サンが書いているとおり、こちらには「名瀬音楽協会建立」のクレジットが刻まれていました。五線譜です。奄美の民謡関係者がやることは凝っていますね。(笑)

 ここから峠を龍郷方面に降りていくと、約400本と言われる緋寒桜の並木がずっと続きます。1~2月の桜の花が咲く時期にはさぞかし見事なことでしょう。所々にベンチが設えられていて、鑑賞する環境も整っているようでした。


 旅の最終日の昼は、奄美の最後の思い出としてやはり鶏飯で締めようと思う。
 空港に向かう途中のちょうどいいところに、「みなとや」と双璧をなす名店「ひさ倉」があるので、そこで食べることにしました。

 R58を走り、龍郷町役場前を過ぎて1kmちょっと先に行った左手やや奥まったところに店があります。ここも15年前と違って店が新しくなっています。席数130超の無休の店。
 開店時刻の11時過ぎに入店して、けいはん1,000円を。

 先に行った「みなとや」は家族経営っぽい仕事ぶりでしたが、こちらはそれよりもずっとオペレーションが洗練されていて、たいした待ち時間もなくスムーズに配膳されました。

 具は、細裂きの鶏肉、錦糸卵、刻みネギに分葱、刻み漬物、刻み海苔、味付けシイタケ、柑橘類乾燥粉末、紅ショウガ。具の種類及び量は「みなとや」を凌いでいるかもしれません。
 よろしければご飯と鶏スープはお代わりができますとの嬉しいサービスだけど、そんなには食べられない。

 鶏スープはたっぷりあり、多めにかければきりりと熱く、食べ進めるうちに額に汗が滲んできます。それが鶏飯を食べる楽しみなのでしょう。非常においしく、「みなとや」と比較してスープの甲乙はつけられません。どちらも大満足です。これで安んじて奄美大島を離れることができそうです。(笑)

 またもやおいしく4膳。ここのシマウタも女性ボーカル。おおらかな声出しをするカサン(笠利)系だったでしょうか。


 おいしい鶏飯を食べ終わって11時半。空港近くの節田(せった)集落まで来て正午になりましたが、14時半のフライトまでまだ間があるので、15年ぶりに「奄美パーク」に入ってみることにしました。

 ここは奄美大島に来たならば一度は訪れたいテーマパークで、奄美の自然、歴史、文化を映像や展示などで楽しく学べる「奄美の郷」と、奄美の自然に魅了された不遇の天才画家・田中一村の数々の傑作を展示する「田中一村記念美術館」が二枚看板となります。

 ちなみに、15年前に訪れたときに書いておいた奄美パークのインプレは、次のとおりです。

 旧空港跡地に建設されたばかりの奄美パークは、堂々とした出で立ち。
 「奄美の郷」は見応え十分。入るとすぐのところに広いステージがあって、正面のマルチビジョンでは奄美の若き唄者、中村瑞希が大写しになって島唄を披露しています。その周辺には奄美諸島の5つの島(喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島)を個別に紹介するブースがあるので、これを見れば各島の個性を垣間見ることができます。
 総合展示ホール(有料)は圧巻で、壁一面の昔の写真パネル、加計呂麻の諸鈍シバヤをはじめとした民俗行事のジオラマ、島唄をゆっくり聴くことができる装置、かつての住居の軒先の様子を再現したセットなどがありました。もう、一つ一つ見ていたら時間がいくらあっても足りません。
 「田中一村…」のほうは、展示室が3つに分かれた立派な美術館。もともと寡作の芸術家なので展示数は多くないけれど、鳥肌が立つような作品があります。日本のゴーギャンともいわれる彼の人生についてもよく知ることができます。出口の売店で伝記の文庫本をゲット。
 ここはお勧め。奄美が初めての人なら、空港に降り立ったらここで奄美ってどういうところなのかをまず感じてみるってのがいいんじゃないかな。

 入場料620円を払って入った館内の状況は、15年経った現在もほぼそのまま。中村瑞希の映像が替えられていたのはちょっぴり残念ですが、15年間そのまま使うなんてことはないので、やむをえません。
 館内のコンパニオンの仕草やホスピタリティもほぼ変わりなく安心感がありますが、その一方で、代替わりがしてもずっと同じことをやっているんだなーと感心したりもします。(笑)
 展示品もほぼ変わっていませんが、そもそも気合いの入ったものばかりなので、再度見ても退屈するようなことは全くありません。むしろ、懐かしさがこみ上げてくるような印象です。

0900.jpg

 美術館は、作品の入れ替えを年4回行いながら80数点ずつ常設展示しているとのこと。
 ですが、圧巻なのはやはり「初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)」と「アダンの海辺」。田中一村のような筆致はともすると原色系の色に負けて平板に見えてしまうことがあるのですが、これらの作品にはなにか鬼気迫るような迫力を感じます。
 企画展示室では「琉球弧の祈り~前畑省三「神女誕生」シリーズから~」という展示も行われており、平瀬マンカイやパーントゥなどをテーマにした力作が並んでいました。どろどろとしたアバンギャルドな作品に見とれていると、作者の関係者と思しき女性に話しかけられ、時間に余裕があるのをいいことについ長話をしてしまいました。

 あとはレンタカーに2度目の給油をし、営業所に車を返却して、送迎車で空港へ。
 往路と異なり、復路は定刻どおり奄美空港を離陸して、順調な帰路となりました。
 奄美大島よサヨウナラ。3度目があるといいのだけどな。


 奄美大島から飛行機を乗り継いで、18時半には羽田まで戻ってきました。庄内空港着は21時を過ぎるので、ここで夕食をとりましょう。空港内のレストランは高いわりに内容が伴わず、店員の客あしらいもよくないので極力避けているのだけど、こういう状況ではやむを得ません。

 何でもある東京で食べるのだから、できれば地元では食べられないエスニック系がよろしかろうと考え、「UPPER DECK TOKYO」っていうの? 第2旅客ターミナル3階に行ってみたところ。
 しかしそこにあるベトナム料理やトルコ料理の店を覗いてみたものの、コスパと内容からどうも食指がそそられず、結局そのいちばん奥にあった韓国料理店「Miss Korea」に落ち着きました。

 声をかけているのにこちらを見ようともしない男性店員がいたのには驚かされましたが(商売人とは思えないこういう輩は都会だからこそ通用する。)、若い女性店員はコンフォータプルだったので、入ってやったぞコノヤロ。

 ビビンバ、定食、チゲなどの鍋類、粥類などのメニューから、比較的オーソドックスなプルコギ定食1,200円をチョイス。だから高いってば。前金制というのもなんだかなぁ、デアル。
 店の奥の2~3人掛けられるカウンター席が空いていたのでそこに客席して、運ばれてくるのを待ちました。

 しかしなんだな、癪だが旨い。熱々の鉄板で運ばれてきた肉の量もしっかりしているではないか。タマネギやキャベツとカルビ肉の相性、バランスもいい。
 キムチたっぷりだし、わかめスープもうまい。
 あぁ、マシソヨー。いいぞいいぞとご飯とともにパクつきます。バーガーショップのように調味料が置かれているコーナーからコチュジャンを持ってきて焼肉にどばりとかけて食べればなお旨し。

 味も量も納得。オープンスペースだというのが少々気になるところではあるけれど、ひょっとしてこの店、羽田空港内としては当たりのほうなんじゃないか。これなら東京の普通の店で食べたって1,000円はするでしょう。

 というわけで、男性店員以外はマルだった、ということにしましょう。


 鹿児島空港では、JAL系からANA系に乗り換え。いったん到着ロビーに出て荷物を預け、時間があったので、お土産屋を物色してみました。
 まっすぐ単身赴任先のアパートに帰るので、たいそうなお土産はいりません。なにか記念になるちょっとしたものをと考え、さつま揚げの小詰め合わせを買うことにしました。

 さつま揚げ売り場が至る所にあった中で、たまたま試食に捕まった「日高水産加工」(いちき串木野市)の小さな詰め合わせを648円で買いました。
 試食してみて、これって黒砂糖がたっぷりと入っているんじゃないの?と感じるぐらい甘い、インパクトのある味のものでした。

 中身は3種。さっぱりとした甘さが自慢のさつま揚げの原型「とうふ入りさつま揚げ」、手造りつけ揚げと同じ白身の魚を使ったさっぱりしたおいしさの「棒天」、カルシウムたっぷりで栄養価の高い「いわしのさつま揚げ」。

 入っていたしおりには、「串木野港沖合、東シナ海に浮かぶ甑島列島近海は、豊かな海の幸の宝庫。そこから獲りたての魚肉(エソ、イワシ、アジ、サバ)を材料に手造りで生まれた「さつま揚げ」の味は天下一品。ぜひご賞味ください。」と書かれていました。

 帰宅して、さっそくチューハイのお供につまんだのは、言うまでもありません。自分への小さなお土産だったけど、酒のアテ、ご飯のおかずと3回楽しむことができました。
 15年ぶりに訪れた奄美・加計呂麻は、道路はよくなり、ヤンゴは変わり、島民人口はさらに減りと、それなりに変貌してはいたものの、浦々の佇まいや静かな内海の波のたゆたいなどは変わらないまま健在でした。
 いいところだなあ、奄美。

 しかし今回は天候に恵まれず、喜界島への初めての渡島は阻まれ、晴れた日は5月4日の1日だけで、あとは曇天や雨だったのが残念。そのわりに気温が高く、湿度に至ってはかなりきつい状況でした。
 でもまあ、ヒカゲヘゴが旺盛に茂っているところなどを見れば、奄美の気候ってこんなものなのかもしれませんが。

 前回と今回で奄美・加計呂麻の集落はかなり回ったつもり。一方で、奄美諸島で見残しているところは、喜界島、請島、与路島の有人離島3島がまだとなっています。これらを巡る機会は今後やってくることがあるのだろうか。
 15年前にも再訪することなどあるのだろうかと密かに思っていたわけで、きっと行きたい行きたいと念じていれば、その機会はやってくるものだと信じたい。

 奄美諸島は空路的にはJAL系列がカバーしていて、ANA愛好者はなかなか近づけないうらみがあります。今回もフライト代が高くつき、ANAの株主優待で沖縄に飛ぶよりも軽く倍以上のコストがかかりました。このことさえクリアできれば、「オカダーっ!! いいか、奄美も、喜界島も、遠いぞっ!」(by棚橋弘至)ということはなくなるのでしょうけどねぇ。

 2016年のGW、積み残しはありましたが、とてもいい旅をしてきました。
 これにて旅の記録「奄美・加計呂麻へ、再び」を終了します。読んでいただきありがとうございました。


(画像は、加計呂麻島西阿室集落の周辺マップです。加計呂麻島の各集落の中心部にはこのような看板があったので、とても重宝しました。)


 2015年3月、古書市場から369円+送料で入手した、1998年に角川書店から発行されたものです。

 1960年代、米軍統治下の沖縄。黒人兵にレイプされ子供を身ごもり、心に傷を負いながらも、その子を育て強く生きようと決意するホステス・ミチ。その現実と向かい合えず惰性の日々を送りながら、灯火管制訓練で自作の照明弾を打ち上げ、支配からの憂さを晴らす青年タケシ。かつて恋人同士だった二人は、対照的な生き方を選んだ。ベトナム戦争が激化し沖縄にも戦場の狂気が波及するなか、再び悲しい事件が二人を襲う…。
 沖縄の歴史とともに生活を続ける芥川賞作家が、琉球の土着文化と彩り鮮やかな自然を背景に綴った、アメリカだったころの沖縄の現実。待望の書き下ろし処女長編小説。

 読み終えたのが2016年1月で、これを書いているのが16年8月になってしまっているので、今となっては明確な読後感というものはなくなってしまっているというのが本当のところなのだけど、米国占領下の沖縄のどろどろとした部分が表現されていた記憶があります。
 幸いこの本は単行本としては珍しく、著者の「あとがき」がありましたので、その中からこの本のポイントと思われる部分を以下に抜粋して、感想に代えることにします。

 1960年代の沖縄は現代の最先端と前近代が混ぜ合わせになっていた。Aサインバーの立ち並ぶ大通りを一歩路地に入ると方々の民家に飼われている家畜が餌を求め、鳴き騒いでいた。Aサインバーの中ではニューヨークや東京の銀座に劣らないファッショナブルな装いの沖縄の女性たちが、世界最強の力を誇示する米兵を相手に嬌声をあげていた。
 私の家の近くには米軍の広大な補給基地があり、ベトナム戦争の頃には血糊のついたジープや、ボディーや窓ガラスに弾の痕のあるトラックが並べられていた。戦車にはベトナムの泥がくっついていた。
 基地からは米兵が鳥籠からいっせいに鳥が解き放たれたように私たちの集落に出てきた。酔っ払った米兵が真っ昼間、電信柱にしがみつき、「帰りたくない」と泣き叫び、同僚になだめられていた。米兵の青い目が何を見ているのか、言葉は何を言っているのか、よくわからなかったが、私はあの頃、タケシやミチのような人物と何度も出会ったような気がする。――


 仲程昌徳という人は、目の付け所がおもしろい。1943年テニアン島の生まれ、琉球大学文理学部国語国文学科を卒業し、同大学で勤めてきたという、どちらかというと学者肌の人なのだろうけれど、この本の場合、戦前及び戦中期に発刊された沖縄の雑誌に着眼し、その執筆者の想いや表現、内容などを詳細に読み込んでいき、その当時の社会的背景に迫るという作業を地道に行っているのです。
 ほかにも、小説や雑誌など過去の様々な書物類の記述からその時代を明らかにしていくという手法をもとにものした著作がいくつかあり、きっとかなりこだわるタイプの人なのだろうと推測します。

 取り上げているのは、雑誌「南洋情報」と「月刊文化沖縄」、そして「アララギ」や「心の花」などの各種短歌雑誌。
 「南洋情報」や「月刊文化沖縄」が発刊された昭和15年には、戦中の国策により新しい刊行が一切不許可になり、これらの雑誌の発刊は「滑り込みセーフ的な事態」だったのだそうです。
 創刊号の表紙を飾った金城安太郎の美人画(この本の表紙にも使われています)も、本の内容とともにそれ以降は変わっていくこととなり、雑誌を通して当時の時代性と文学活動の様子が見えてくるような内容になっています。
 また、1926~45年の約20年間に発行された本土の短歌雑誌に登場した沖縄の歌人と歌を丹念に見て行くことで、沖縄の昭和歌壇史が見えてくるようになっています。

 どちらかというとマニアックで、好きでなければ読み進められないといった部類の本かもしれませんが、自分はそれなりに楽しめました。


 西村京太郎の沖縄関係作品を読むのは、「十津川警部 海の挽歌」、「沖縄から愛をこめて」に続いて3作目。

 東京巣鴨の安宿で、男の死体が発見された。遺された文字「ヒガサ…」は何を意味するのか?
 その答えが沖縄にあると見た十津川たちは、那覇へ飛んだ。
 一方、沖縄で旅行会社に勤めるみどりは、姉の行方を捜していた。
 日本の警察権の及ばぬアメリカ軍基地。その周辺に広がる闇を十津川が撃つ!

 ――という、迫力の社会派トラベル・ミステリー。
 さーっと読んでしまったのが2016年2月。で、書いている今は8月。こういうシリーズもののミステリーって、読んでいるときはそれなりに面白くていい時間つぶしになるのだけど、半年も経ってしまうと、その内容がどうだったかなんてすっかり忘れてしまっているものです。覚えているのは、西村京太郎の筆致は相変わらず読点が多いなあと思って読んだことぐらい。

 なので、書くに当たって本を改めてパラパラとめくってみたところです。
 那覇空港や国際通り、首里城、竹富島、川平湾、宮古島のドイツ文化村、名護やコザの民謡酒場、ゆいレール、万座ビーチホテル、糸満など、沖縄の各地が登場。そしてこれらに米軍基地や米兵が絡んで物語が進んでいくという、沖縄お定まりのストーリーになっていました。


 カベルナリア吉田の著作はかなり読んできたけど、いったい何冊目になるのかなと思って数えてみると、これが16冊目。
 これまで読んだのは、読んだ順に、「沖縄の島へ全部行ってみたサー」、「オキナワ宿の夜はふけて」、「沖縄自転車!」、「沖縄へこみ旅」、「旅の雑学ノート 沖縄24時間 ウチナーンチュの世界を訪ねて」、「ひたすら歩いた沖縄みちばた紀行」、「沖縄ディープインパクト食堂」、「沖縄バカ一代」、「オキナワ マヨナカ」、「絶海の孤島」、「さすらいの沖縄伝承男」、「さらにひたすら歩いた沖縄みちばた紀行」、「沖縄・奄美の小さな島々」、「沖縄バカ一代2」、「石垣宮古ぐだぐだ散歩」。
 精力的に歩いて旅して沖縄の文物のあれこれに驚いていた初期の頃から、沖縄の変なところを見つけてそれらを面白おかしく書いていた中だるみ(?)の時期を経て、「さすらいの沖縄伝承男」で沖縄文化の実践に体当たり、そして今作は沖縄戦と向き合うという、著者にしてはぐっとシリアス路線に舵を切ったものになっています。

 「沖縄を歩き続ける著者が、沖縄戦を整理する旅に出た。出来事が起きた場所を起きた順に、時間軸に沿って歩く旅。何気ない言葉に耳を傾け、土地が持つ記憶をたどり、時にはカフェや居酒屋にも寄りながら旅は進む。
 観光地化されていない慰霊碑。そこに戦跡があるはずなのに、たどり着けない焦燥……。悲惨な歴史とのどかな空気が交錯し、開発と観光の大波が押し寄せる「沖縄のいま」――その風景は何を意味するのか。
 1944年7月7日「サイパン陥落」から、1946年1月3日「護郷隊長投降」までの546日間を、自分の足でひたすら歩いた「旅する沖縄戦」。その実踏紀行をまとめた1冊。」
 ――というふうに紹介されています。

 全10章で、「サイパン望洋―具志川、金武」、「首都壊滅―対馬丸撃沈そして10・10空襲」、「ケラマ」、「中部戦線」、「混沌の北部戦線」、「伊江島」、「南部戦線Ⅰ 南進、そして敗走」、「南部戦線Ⅱ 女子学徒の足跡、そして摩文仁へ」、「まだ終わらない 久米島 スパイ容疑虐殺事件」、「マラリア」。
 沖縄に深く興味を抱き、沖縄各地を自分の足でくまなく歩いてきた著者だからこそ書くことのできた1冊。市町村が編纂発行する公式史料をしっかり読み込んで書いているようです。
 表現も平易で愛嬌もあり、一人の日本人としての想い入れもたっぷりで、単なるオキナワ・ラブではないんだかんなという気概も伝わってきます。

 カルチャー、食、ナイトライフ、芸能、戦争・・・と、彼の沖縄旅が自分の沖縄へのアプローチとシンクロする部分があちこちに見られ、なんだか嬉しくなりながら読み進めたところです。

 「僕らは自分が住む街とは別の場所が戦場になると思っているが、それは違う。ある日突然、頭上に戦闘機が現れ、自分が住む街に砲弾の雨が降り注ぐ。那覇の人々は(1944年)10月9日まで、自分たちの街が消えてなくなるとは夢にも思っていなかった。でもその翌日、街は燃えてなくなった。戦争とは、そういうものである。」(あとがき「「怒らない」ことから始めよう」から。)


 「ダートゥーダー」をご存知でしょうか。
 自分もまだ実際に見たことはないのですが、ダートゥーダーとは、八重山諸島の小浜島に伝わるひときわ変わったお面の民俗芸能です。高い鼻の黒い面に、金太郎のような前掛けを着けた4人のダートゥーダーが、「フッ」という声で飛んだり、組み体操のようなコミカルな動きをしたりして見る人を引きつけます。その歌や動きの意味は謎の部分が多いのだそうです。
 小浜島の結願祭で演じられていたダートゥーダーは、しばらく途絶えていたものの、2001年の結願祭で75年ぶりに復活したということです。その頃自分は、沖縄、八重山の民俗芸能に惹かれてあちこち見に行ったりしていたので、当時は小浜島のトピックとしてなにかと話題になったのを覚えています。

 そのダートゥーダーについて長年にわたって研究してきたのが、著者の黒島精耕さん。1937年、小浜島の出身で、教職に就き石垣中学校長を最後に定年退職し、竹富町の教育長、同町古謡編集委員や石垣市文化協会事務局長を歴任したという人物で、いわば地に足のついた郷土史家です。

 氏は、この著書を顕著な功績のひとつとして、八重山毎日新聞社が主催する2014年の八重山毎日文化賞を受賞しています。その際の八重山毎日新聞の記事を以下に引用しておきます。
 『著書「小浜島の歴史と文化」「ダートゥーダー探訪の旅−小浜島民俗歌舞の源流をたどる−」をはじめ、小浜島に関する論考を発表。竹富町史の編集にも尽力してきた。「ダートゥーダーに関する記録はほとんどなく、自分の生まれ島の文化のことを知りたいという気持ちで調べ始めた」と振り返る。
 「ダートゥーダー」は、来年の豊穣を祈願する小浜島の結願祭で披露される民俗歌舞。黒島さんの若いころは文献などはほとんどなく、島独特の歌舞にどのような意味があるのか知ろうと、25歳から調べ始めた。以来50年以上にわたって研究を続けてきた。
 今回の受賞に「50年かけて調べてきたことが評価されて感激している。ダートゥーダーはとても奥深いもの。いろんな解釈がある。私の執筆した論文が後輩たちが研究する際の一助になってくれれば」と喜ぶ。』

 50年の研究成果だ、ということです。
 して、その結論は。
 ダートゥーダーは、「南ヌ島(フェーヌシマ)」系統の舞踊ではないかと言われてきたが、フェーヌシマ踊りの棒術的なものではなく、宗教的、呪術的な動作であり、そのルーツは本土にある。
 ダートゥーダーとは「ダダ」「ダッダ」「建陀(ダッタン)」に由来し、山の神「カラス天狗」が、魔除けや厄病払いのための呪術的な足使いである「反閉(へんぱい)」によって、魂鎮めの所作を表現した独特の歌舞芸である――と。

 小浜島で豊年祭をやっているときに島に渡ったことがありますが、小浜の豊年祭は秘儀となっていて、小浜集落の嘉保根御嶽周辺はよそ者にとっては近づくことのできない異様な雰囲気があったのを覚えています。
 しかしこのダートゥーダーが行われる10月の結願祭はオープンのようで、同じ嘉保根御嶽で行われるとのこと。いつか見てみたいものです。


 又吉栄喜が「豚の報い」で芥川賞を受賞したのが1996年。受賞直後に「文藝春秋」を買ってそれを読んだときには、沖縄の街場にあるスナックに豚が闖入するなんて、これまた妙な場面設定だなあと思ったものです。
 その芥川賞作品が書かれる前、すでにその著者が豚をモチーフにした「木登り豚」を書いていたと知り、どうしても読んでみたくなったので、古書店から購入してみました。

 正子は父と二人で豚を飼い、豚料理の食堂をやって生計をたてています。そこに絡んでくるのが、80歳を過ぎて一人暮らしをしているカマドおばあ。彼らの間に様々な事件が起き、ガジュマル信仰や御嶽信仰など沖縄独特の文化の中で、物語は進行していきます。
 その中の記述を一部抜粋すると、たとえばこんな感じ。
 「ガジュマルを抱きかかえるようにひれふしている十数頭の豚がいる。ガジュマルの上に栗鼠のように巧みに登っていく豚がいる。姿は豚なのだが、人間のように立っている豚が増えだした。」
 「体はまちがいなく豚なのだが、蝉の羽根のような半透明な服を着ている。背広を着た区長がいる。ワンピースを着た雑貨店のおばさんもいる。ステテコを着た素潜り漁のおじいもいる。豚の顔が笑う。大きな、つぶれた鼻の下に、小奇麗に並んだ小さい白い歯がうきでる。何十もの豚が笑っている。だが、目は正子を睨んでいる。」

 さて、「木登り豚」を読み終えてから半年ほどたってしまうと、読後感というほどのものはすっかり頭の中から欠落しており、覚えているのはこの本のつくりが変わっていたことぐらいです。
 文学としての単行本ではなく、出版界の「沖縄発全国行き」を目指す「カルチュア」という季刊誌の別冊としてつくられたものです。内容としては、作品「木登り豚」のほか、又吉栄喜インタビュー、又吉栄喜秘蔵アルバムのほかに、作品とはおよそ関連のない「沖縄霊験万物コピー曼荼羅」とか、「豚さんを探して」というフォトエッセイなどが掲載されています。

 そのうちのインタビューで又吉は、「木登り豚」について次のように述べています。
 『「木登り豚」には、何かが成長していく芽生えみたいな、種子のような、爆発寸前の塊があります。塊がはじけて、あの作品を書き上げました。自然描写や人物のやりとり、会話、発想の原点のすべてがこの作品に込められている。種子のほうが花や木よりも栄養価値が高いとも言えますね。
 つまり「木登り豚」の「豚の報い」を触発した作品、根底になっている重要な作品なんです。』