本日の最後は、「国道58号線鹿児島県最南端の碑」。
 古仁屋小学校からR58へと降りてきたところ、「古仁屋小前」交差点の東南角地が三角形のポケットパーク状になっていて、碑はそこにあります。

 4つの石碑があり、真ん中の石には「世界にひらく緑と海洋のきらめくまち すべてのみちに感謝を 一般国道58号鹿児島県最南端の地 国道昇格25周年記念」と書かれています。
 そしてその左の石には「起点 鹿児島産」、右には「終点 沖縄産」と刻された石板が埋め込まれています。使われた石がそれぞれ鹿児島産と沖縄産だ、ということなのかな?

 中央の大きな石碑の手前にはもうひとつ、説明と地図が彫り込まれたものがありましたので、以下にその文章を引用。

一般国道58号について
 一般国道58号線は、鹿児島市を基点に種子島を経て、笠利町赤木名から奄美大島本島を縦断し瀬戸内町古仁屋へ至り、さらに海上を渡り沖縄本島北端の国頭村へ上陸、終点那覇市までの総延長267.4キロメートルの幹線道路であります。

 「鹿児島県最南端の地」とは言っても、古仁屋小前のこの交差点がそうなのではなく、ここから300mほど南下した古仁屋郵便局前の交差点が鹿児島最南端なのかな。
 しかし現場の道路標識によれば、その70~80m南のガソリンスタンドのある交差点に「ここから58号」を示す矢印があったので、こちらがそうなのかもしれません。
 このあたり、南国らしいテゲテゲさがあるようですね。(笑)
 いずれにしても、自分はずいぶんこのR58にはお世話になっています。

 やれやれ、これにて本日のドライブを終了。
 今日の宿は古仁屋の「サンフラワーシティホテル」。15年前もここに泊まったのだったな。古仁屋の宿って、あまり選択肢が多くないというか、ほとんどなく、自分に合ったところは古仁屋ではココということなのでしょう。街の真ん中にあって、夜にウロウロするにも便利だしね。
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 ホテルで荷を解いて、古仁屋の町を散策します。
 イメージに残っている15年前の古仁屋の町とはずいぶん変わっています。
 変わっていないのは、泊まったホテルや古仁屋郵便局のユニークな建物など。その一方で、ホテルの海側の昭和チックな古い湊町の町並みがすっかりなくなって奇麗な建物が並んでおり、港周辺も今日昼食をとったフェリーターミナルができたりして大きく様変わりしています。雑然とした活気が感じられた海上タクシーの乗り場はどこに行ったのかな。
 広くもない町なので簡単に一周できてしまいました。

 さて、まだ18時前で日が残っている時間帯だけど、夕食はどこで食べようか。
 町のメインストリートの県道79号の一本南の通りでお好み焼き屋が開いていたのをさっき見つけたけど、お好み焼きを食べたい気分でもあるし、そこで生ビールでも煽って今夜は早めに上がることにしようかな。

 というわけで、「お好み焼き一角」という店へ。
 入ったところにいたおじさんが店主なのだろうと思ってあいさつすると、どうやら彼は近所の人のよう。「おーい、お客さーん」と奥に声をかけて店を出ていってしまいました。
 で、奥から登場してきたのは60代ぐらいの苦労人のようなおばさん。
 生ビール400円とミックス焼き650円(いずれも安い!)を所望すると、観光ですか?などといろいろと話しかけてくれました。



 まずは中生とお通し。
 刺身もあるのよ、とのことなので、ではそれもと頼むと、ミックス焼きは後にして先に刺身を持ってきてくれました。
 それがコレ。ブダイとシビ。これで3晩連続のシビだ。ブダイは酢味噌で食べればしみじみ美味い。
 価格1,000円は昨晩の刺身と比較すると格段にコスパはよくないけど、おばさんとの話のタネなので、まあ気にしない。
 徐々に客がやってきますが、知り合いが多いようでなんだかとても家庭的な雰囲気が漂います。これもおばさんのキャラのなせるものなのでしょう。

0510.jpg

 で、忙しい合い間にようやく焼いてくれたお好み焼き。(笑)
 十分に火が通って、表面のこんがり感がスバラシイ。要は片面焼き過ぎということなのだけれどね。
 これを「れんと」と「里の曙」でおいしくいただきました。

 締めて2,900円。
 たっぷり1時間半をここで話をしながら過ごし、途中「エブリワン」という島でよく見かけるコンビニで飲み物などを仕入れてホテルに帰還。あれれ、小雨が降って来たぞ。明日は大丈夫かな。まだ20時前だというのに、町はもう、静かになっている。


 5月6日。6時には目が覚めてしまった。昨晩早く上がり過ぎたからなのか? いやいや、そうではなく、今日は8時10分のフェリーに乗って加計呂麻島に渡るからなのですよ。
 でも、天気悪いなあ。雲が厚い。雨が降らないといいのだけど。

 7時にはホテルを出て、まずは弁当の仕入れから。町内で早朝から何店か開いている弁当屋の中から、沖縄っぽい名前だからという理由で「喜納惣菜店」を選び、弁当を購入。やってるよ~とでも言っているようなオレンジ色の照明がそそります。加計呂麻島は店が少ないので、昼メシの早め調達は重要なのだ。

 そして港へ。自動車を航送する場合は出航の30分前には来てくれということでしたが、40分前に着いたところほぼ一等賞の状況。フネは加計呂麻側の瀬相から第1便としてやってくるので、フネもいず、静かなものでした。
 「クロマグロ養殖日本一のまち瀬戸内町」と記されたでっかいマグロのモニュメントを見たりして時間をつぶします。

 しばらくして切符売り場の窓口が開いたので、予約を告げて手続きを済ませて待っていると、フネが入港する頃になってようやく賑わいを見せ始め、出航時間の5分前ぐらいに車の誘導があって乗船。
 ちなみに料金は、軽自動車(3m以上4m未満)の航送料+乗船料で往復5,950円でした。
 前回乗船時は天気がよく、瀬戸内湾内の海の色のグラデーションにホレボレしたものですが、今回はそうはいかず、加計呂麻島のやまなみに分厚い雲がたれこめて、海もどんよりしています。

0530.jpg

 このフェリーかけろまの写真は、前日昼食時にちょうど入港してきたところを撮影したものです。
 この船は1994年就航だということなので、15年前にもこれに乗ったのでしょう。
 現行船が老朽化したので、2016年11月というから半年後には、瀬戸内町制施行60周年に合わせて新造船が就航する予定なのだそうです。


 8時半、加計呂麻島の生間港に着き、さっそく島を概ね時計回りに一周するような形で巡るべく出発です。
 今回は、前回見てよかったところを再確認し、前回まわり切れなかった集落をできるだけ多く見てくる、というコンセプトで進みます。

 まずは、むちゃ加那節の歌碑。生間の「むちゃ加那公園」内にそれはあります。
 生間(いけんま)の港から県道614号線を左(東方向)に折れ、一本道をしばらく進むと左手に赤い鳥居が見えてきますが、そこが公園への登り口です。ちょっとした駐車域があるので、そこに車を停め、階段のついた長い上り坂を上っていくことになります。赤崎と呼ばれている岬のようなところです。

 200段近い階段の先は岬の高みになっていて、芝の生えた平地。ここがむちゃ加那公園のようです。
 そこに、薩摩藩統治時代にできたという悲歌「むちゃ加那節」の歌碑がありました。その隣には古くて小さな祠のようなものが並んで建っています。

 「むちゃ加那節」を初めて聴いたのは、CD「琉球フェスティバル’91 語やびら島うた、ふたたび」。1991年9月20日のライブ録音で、この曲で日本民謡大賞を受賞した中野律紀がうたっているものでした。
 ちなみに中野律紀は、後にRIKKIという名前でも活躍した唄者で、先に見た「輸送船富山丸の供養塔」にも登場する古仁屋高等女学校の流れをくむ古仁屋高等学校の卒業生。付け加えれば、元ちとせも古仁屋高校OGです。

 その歌碑。

むちゃ加那節(うらとみ節)
  ハレイー 喜界やイ小野津ぬヨ
    ヤーレー十柱(とばや)  (はやし)スラヨイヨイ
  十柱むちゃ加那ヨイ   (はやし)スラヨイヨイ
  ハーレー 十柱むちゃ加那ヨイ  (はやし)ハーレー十柱 むちゃ加那ヨイ
  ハレイー青海苔(あおさぬり)はぎが
    ヤーレー行もろ  (はやし)スラヨイヨイ
  行もろやむちゃ加那ヨイ  (はやし)スラヨイヨイ
  ハーレー行もろや  むちゃ加那ヨイ

 この民謡は平成2年度第13回日本民謡大賞全国大会に於いて日本一にかがやいた唄であります。


 最後のくだりは中野律紀のこと。なお、日本民謡大賞とは、1978年から92年まで毎年10月に日本テレビ系列で放映された特別番組で、奄美から参加して大賞を受賞したのは中野のほかに、築地俊造が昭和54年に「まんこい節」で、また、当原ミツヨが平成元年に「やちゃ坊節」で、それぞれ獲得しています。

 その碑の裏側には「奄美民謡ムチャカナ節の由来」が、次のように記されていました。

 伝説上の美人は多いが、ウラトミ、ムチャカナ母娘ほど美人故に数奇な運命にもて遊ばれた女性はあるまい。
 当時薩摩の支配下にあった奄美では、代官の権力は絶対的なものであった。瀬戸内町生間の農家の娘として生れ、島一番の美女として名高いウラトミは、その権力から女の貞操を守りとおしたと伝えられている。しかしその代償は余りに大きく、地区民にあらゆる圧力が加えられ、ウラトミ自身の運命をもかえてしまったという。
 娘の貞操を守り世間への義理に悩んだ両親は、ウラトミを小舟に乗せいづこへともなく流してしまった。数日後小舟は喜界島の小野津へ流れ着き、その後ウラトミは土地の男と結ばれる。
 しかしウラトミの美しさは村の女たちの嫉妬をかい、やがて生まれた娘ムチャカナは母にも勝る美人だったという。ある春の日、海辺で青海苔を摘みに誘われたムチャカナは、村の娘達によって激流に突き落とされた。
 娘の悲報を知った母ウラトミは自らも娘の後を追って入水自殺を遂げたという。
 春の海に消えた美しい母娘の悲話は、ウラトミ節、ムチャカナ節として残り、その哀調を帯びた民謡は島の人々の心の中にいつまでも唄いつがれている。

 加計呂麻島の生間で生まれ、喜界島の小野津で娘を授かり、娘の亡骸が大島の青久に流れ着く――という、奄美地方の各地を巻き込む悲しい伝説です。
 こうなると、返す返すも今回喜界島に行けなかったのが残念でなりません。

 一方の祠ですが、コレハナニカ。
 あるウェブページによれば、祠にはムチャカナが祀られていて、置いてある自然石はリューゴ神という漁業の神様なのだそうです。リューゴというのは竜宮のこと?


 生間をあとにして、島の東方にある渡連(どれん)集落へと進みます。
 一本道を斜め左にそれていく小道があり、そこに「渡連入口」の矢印標識と「渡連集落案内」の案内板がありました。

渡連集落案内
 渡連集落は、琉球王府・薩摩藩時代より現代までの歴史をとどめ、村全体が貴重な文化財である。
 かつて、琉球・薩摩藩統治時代は、東間切渡連方(ひがしまぎりどれんほう)と呼ばれ、その役所がこの地に在った。
 生間からの集落入口小勝よりの墓地には、琉球軍による諸鈍征伐時の副将「磨文主(まぶんしゅう)」一族の墓が現存し、庁内では最も古い墓と記録されている。
 享保18年(1733)、渡連方与人「文仁演(ぶにえん)」が代官北郷伝太夫の汚職の一部始終を薩摩本国に差し出した越訴(直訴状)により、喜界、大島本島、徳之島など全部の島役人を巻き込む大騒動に発展した事件(文仁演くずれ)が起こり、代官の遠島、役人の獄死、島役人が免職になるなど奄美史に足跡を記した集落でもある。

その他現存する文化財
 上殿地(ウントノチ)・旧渡連方役所跡
 ゴンゲン様(相撲の神様)の還座所
 ミッテンガナシ(お産の神様)

 ここは役所があった、歴史ある集落なのですね。
 東間切渡連方という琉球スタイルの行政区名や、琉球軍の副将の墓があることから、ここは加計呂麻島における琉球王国の拠点だったと思われます。
 琉球軍の大島征伐では、琉球軍が諸鈍湾から侵攻してきたと思われますが、政治的拠点は山を越えた北側に置いたというわけなのでしょうか。
 また、ウェブ上で見た磨文主の墓はヤマトめいた形のものでしたが、基本風葬を行っていた琉球の墓制との整合性はとれているのかなあ。

 いちおう集落の中に入ってみましたが、格別古めかしいものは見当たらず。なので、先に進めることにしました。

 そうそう、手元に2014年8月現在の加計呂麻島各集落の世帯数と人口に関する資料があるので、記していくことにしましょう。
 渡連集落は、世帯数30、人口52です。
 なお、前記の生間集落は、世帯数41、人口67。いずれも加計呂麻の集落の中では中ぐらいの位置づけでしょうか。


 渡連を海岸線に沿って進んでいけば安脚場(あんきゃば)集落に突き当たりますが、ここは前回赴いて、そこにある戦跡はだいたい見ているので今回は行かず。途中から右手の林道に入り、1台もすれ違わずに山を越えて(つまりは誰も通らないような道だということ)、諸鈍(しょどん)に向かいました。レンタカーよ、大丈夫か。

 諸鈍は、前回の加計呂麻島旅で最も印象深かったところ。デイゴ並木が立派なんだよな。
 前回も注意深く見せてもらったけど、今回はそれからどう変わっているかの断片を拾い上げてみたいと思って、再訪です。

 はじめは、諸鈍集落の入口に鎮座する大屯(おおちょん)神社。
 入り口に結界となる鳥居があり、その奥の広場には加計呂麻の各集落の例に漏れず土俵が見えます。15年前は鳥居のすぐ先にぶっとい木があって見通しを悪くしていましたが、今は伐られてしまったようです。
 その先の突き当たりに社があり、左脇に次のような手書きの看板がありました。

大屯神社
鎮座地 大島郡瀬戸内町諸鈍○原252   (○は、糸へんに桑)
御祭神 応神天皇・神功皇后 三位中将小松(平)資盛卿
例祭日 旧暦9月9日
現等級 7級社
神事芸能  旧9月9日~諸鈍シバヤ(無形文化財) 文治元年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れ落ち延びた平資盛一族は、加計呂麻島の諸鈍に居を構えたと伝えられ、その時、卿を慰めるために始められたと言う「シバヤ」は「芝居」と書き、青柴(椎)の木枝で囲まれた楽屋のことで、狂言や風流踊りなどの特徴から4、500年前に諸鈍が海上交通の要衝として栄えた頃、中国や大和、琉球等から伝わったものが一つの村芝居としての祝福芸能となったと思われる。
 踊手は全員男性で、主に「カビラ」と呼ばれる手づくりの神の仮面をつけ、「サンバト」(三番叟)芝居の前口上から始まり、「兼好節」以下数演目を演じる。
由緒  創建年代は不詳であるが、境内には文政11年(1828)建立の平資盛卿の墓碑が現存しており、鎮座地の諸鈍は、卿が配下の者にここまでは追っ手も来るまいから諸公は鈍になれの「落人伝説」が色濃く残っている。
 又、当地には八月踊り歌の一つ「諸鈍長浜節」が残っており、「しょどみながはまや やまとがでとよむ しょどみみわらびや とよむ(諸鈍長浜は大和まで名高い、諸鈍の女童は島中に知れ渡る)」と歌われ、琉球舞踊の「しゅんどう」の曲目と歌詞が同じで、往昔の繋がりを窺わせる。

 うーむ、ちょっぴり拙い。「諸公は鈍になれ」で諸鈍ですか。
 鳥居まで戻ってくると、その近くに諸鈍シバヤの写真入りの案内板もあり、次のようなテキストが載っていました。

 大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合う位置にある加計呂麻島。「諸鈍シバヤ」は、諸鈍集落に残る踊り・村芝居で、平家の落人・平資盛が土地の人を招いて上演したのが始まりと言われています。
 一時中断した時期があったものの約800年も続く伝統芸能で、毎年旧暦9月9日に平資盛が祀られている大屯神社で上演されます。
 踊り手たちは諸鈍集落の住民で男性のみ、子ども達も参加して、紙のお面に陣笠風の笠をかぶり、囃子と三味線の伴奏にのって演じます。
 かつて20種余りあったという演目は、現在11演目が受け継がれています。
 演目の中には、猪を倒す勇壮なものやひょうきんな仕草で観衆を笑わせてりするものもあり、毎年多くの観客が全国から訪れます。

 この案内板は「島の宝100景」の看板で、国土交通省が設置したもののようです。

 調べてみると、現在まで受け継がれている11演目は次のとおりのようです。

ガクヤ入り  はじめに演じられるもの。出演者全員が一列に並び、柴の楽屋に踊りながら入る。
サンバト(三番叟)  白髭の翁のカビディラ(紙の面)に紙製の山高帽が口上を述べる。
クワワ節  ここは節がなまったもの。棒の先に房をつけた者が10人程度で踊る。船を漕ぐ・袖を絞る・涙を拭くなどの仕草が見られ、平敦盛の弔いを意味していると解説される。
カマ踊り  あぶし越えろ水や、さあ延びやがれば止まろ。吾きゃ二十歳頃や止めやならぬ・・・と、カマを持って元気に踊る舞。
ダットドン  座頭殿のなまりで、琵琶(ないので三弦)を背負いながら川を渡るのを面白い寸劇に仕上げている。
スクテングワ  意味不明らしいが、女性のもとに通い婚をしている男の話だとも。
シシ切り  美女が踊っているところに獅子が飛びかかってくる。そこに猟師が現れ、格闘の末獅子を切る。女性役だけは面を被らず、ほほかぶりだけ。
キンコウ節  兼好節の意で、吉田兼好と徒然草を歌ったもの。
シンジョウ節  囃子言葉ばかりのもの。道化芝居のようで3人で踊る。
タマティユ  人形劇。玉露(たまつゆ)という美女が家事もせず歌舞遊芸にふけり、親不孝ばかりで。そのため天から大蛇が襲いかかってくる。
タカキ山  最後の出し物となるもの。かつては大太鼓、造花を背中に刺した者、素手の者の3人で踊っていたが、現在は多人数で踊る。

 こうは書いてみても、実際に見てみないことにはよくわからないですよね。では、仕事をリタイアしてからでももう一度訪れてみますかね。
 ・・・と、言っているときはほとんど冗談なのだけど、今回だってもう来ることは二度と無いだろうと思っている場所にこうして立っているわけで。
 夢や願望はごくまれに実現することがあるのですよ。
ranking 201607

 「FC2ブログランキング」の“地域情報-沖縄”のカテゴリーで、「TOBIsブログ《カカテヤポ》」が1位となりました。4つのブログランキングに登録していますが、カテゴリートップとなったのは「ブログランキングドットネット」に次いで2つめです。
 2006年5月に立ち上げ、気がつけば10年を経過した当ブログ、このブログランキングで1位になったのは初めてのこと。
 ランキング1位になることを目的として書いているわけではありませんが、一瞬であっても、登録1050ブログの頂点に立てたということは自分にとって誇らしいことです。


 大屯神社の鳥居をくぐってすぐ右手のところに小さな祠と墓石のようなものがいくつか並んでいました。何だろうなとは思ったけど写真だけ撮ってほぼスルーして神社を出ました。
 そして神社を振り返ると、道路に面したところになにやら看板があったので見に行くと、次のように書かれていました。

平資盛墓碑(たいらのすけもり・ぼひ)
 史実かどうかは別として、奄美大島一帯には平家伝説が伝わっています。平有盛、平行盛、平資盛の3将が落ちのびてきたというもので、それぞれの縁地として、奄美市名瀬浦上、龍郷町戸口、加計呂麻島の諸鈍が知られています。
 この3ヶ所には共通して、藩政時代に薩摩の役人が建てた墓碑が残っています。いずれも薩摩藩による砂糖買入高が大きく増えてきた文化・文政のほぼ同じ頃に建碑されていますが、その理由についてはまだ十分に解明がなされておらず、今後の研究が待たれます。
 墓碑は、諸鈍にかぎっては大屯神社の敷地内に2基あります。ここにあるものとは別に境内のコンクリート祠内にもあり、いずれも鹿児島から持ち運ばれてきた石で、正面には「三位中将小松資盛之墓」と彫られています。
 なぜ同じものが2基あるのかというと、もう1基の方は、薩摩から諸鈍に流されてきた染川四郎左衛門という人物が、それまであった平資盛墓碑が風雨に浸食されているのを見て哀れに思い、同志と協力して再建したものだそうです。染川はのちに諸鈍から沖永良部島流謫となり、同島で医業のかたわら塾を開いたそうです。
 墓碑はどちらも文字の摩耗が激しく、新たに再建されたものがどれかはっきりしていません。


 上記の解説によれば、平資盛の墓碑は大屯神社の敷地内に2基あり、そのうち「ここにあるもの」とは、この看板の近くにあった古い墓で、「境内のコンクリート祠内にあるもの」が、写真のものです。

 ちなみにウィキペディアによれば、平資盛は、平清盛の嫡男である平重盛の次男で、位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称されました。和歌に優れ、「新勅撰和歌集」、「風雅和歌集」に名を残しています。


 諸鈍集落の入口、大屯神社の向かい側には、諸鈍長浜の歌碑と石地蔵が建っています。前回訪れたときもこの場所は印象的で、よく覚えています。
 写真の佇まいはほぼ15年前と同じです。
 碑に記された琉歌は次のとおり。

諸鈍長浜
 諸鈍(しゅど)ぬ長浜に 打上(うちゃ)ぐぃ引く波や
   諸鈍みやらぶぃ(娘)ぬ   笑い歯ぐき
 諸鈍ぬ長浜や 大和がでぃとゆむ
   諸鈍みやらぶぃや 島中とゆむ
 浦々ぬ深さ 諸鈍の浦深さ
   諸鈍みやらぶぃの うむぇ(情)ぬ深さ
 諸鈍みやらぶぃや 雪のろぬ歯ぐき
   何時(いてぃ)が夜の暮れぃて 御口吸はな

 諸鈍娘の歯は、雪のように真っ白だ。いつの日か、夜になったらその口を吸ってみたいものだ
 ――という、情熱的でありそのおおらかさに圧倒されそうな歌です。
 1番にあるような歌詞は、沖縄でも「しゅんだう節」や「謝敷節」などにも見ることができますね。

 昇曙夢(のぼりしょむ)が著した「大奄美史」には、「諸鈍長浜節」について次のように書かれているのでご参考に。
 「琉球王の第2回大島征伐(諸鈍叛徒の反乱)のときに、大島に攻め入った琉球軍の将兵が、戦争は二の次にして毎日のように遊芸に興じていた。そのうちに見物に集まった諸鈍の女童(娘)といい仲になって、諸鈍の浜で毎晩のように恋の花を咲かせた。やがて戦争が終わって凱旋したあとも諸鈍女童の面影が忘れられず、これを慕って追憶の歌を作ったのが諸鈍節であるという。」

 歌碑の右隣には、「晩学亭」との表札が埋め込まれた門柱があり、その中はかつては庵のようなつくりになっていたと思われる場所がありました。はて、15年前はこんなのあったかなあ。空地だったような気もするのですが。
 で、その脇、石地蔵の右隣には、次のように刻された石碑がありました。

  親の恩 島の恩 墓参りし 島唄んきゃ聞ちうもれ
  無料宿泊所 晩学亭 延静 喜久

 諸鈍に喜久晩学という人物がいて、平資盛の墓碑の読み下しなどもやっていたようですが、この人の屋敷跡か何かなのかなあ。ウェブ上にも名前がほとんど登場しないので、よくわかりません。


 では長浜のほうに行ってみようか。車はどこに停めようかな。
 15年前には諸鈍中学校近くの路上に乗り捨てていったような記憶がありますが、今回は大屯神社の三叉路から少し南に行ったところに「諸鈍長浜公園」というのができていて、その駐車場に停めることができました。
 あれあれ、こんな公園なかったけどなあ。
 この公園と長浜をつなぐ橋も見覚えがありませんでしたが、この橋が2002年3月完成のものだったことから察すれば、2001年の前回訪問時には公園はできていなかったのでしょう。

 で、公園内に横に長い碑が見えたので近寄ってみましたが、それは「ロケ記念地 男はつらいよ 寅次郎紅の花」の碑でした。
 映画「男はつらいよ」の第48作が1995年11月に奄美大島で撮影され、その後渥美清が96年8月に没したため、それがシリーズの最終作になったことは、我々世代にとってはある程度知れ渡っていることです。自分も最終作をビデオで2回見ています。

 でも、ちょっとオドロキ。
 なぜかと言うと、この碑の一部はかつて、諸鈍長浜に面した古い家の前に設えられていたものだったからです。
 それは「リリーの家」。実際にロケで使われた家の前に立っていたものが公園に移設されていたわけです。ということは、もうリリーの家は取り壊されてしまったのではないか?!
 その予感は、こののち長浜を歩いてみて、当たっていたことがわかりました。残念です。

 写真の碑の右側の「リリーの家」の部分がそれです。
 碑に刻まれた内容は、大きく「リリーの家」と「寅さんは、今」の2つ。

リリーの家
 寅さん(渥美清)とリリー(浅丘ルリ子)が一緒に暮らしていた家
 この家の表で満男(吉岡秀隆)と寅さんが劇的な再会をはたした

満男 「じゃ、お姉さんは一人で暮らしてるんですか?」
リリー 「ひとり居候がいるけどね。その人もあんたみたいに文無しなの。でも遠慮はいらないのよ、気楽な人だから。あ、いたいた。ねえ、寅さん 寅さん―」
 ギョッとしてリリーが声をかけた方を見る満男。
 石垣越しに寅がのんびり顔を出す。
寅 「おう、帰ったか」
リリー 「お客さん連れてきたわよ。この人」
寅 「誰だい?」
 満男たまりかねて大声を出す。
満男 「誰じゃないよ、俺だよ、おじさん―」
 寅、ハッと身を起こす。
寅 「おう、満男か―」


寅さんは、今
 1995年の秋、ぼくたちはこの地で寅さんシリーズ第48作のロケーションをおこなった。
 寅さんの数あるマドンナのなかでも最愛のひとというべきリリーさん(浅丘ルリ子)がこの島にひっそりと暮らしている。彼女を訪ねてきた寅さんは、暖かい気候と穏やかな人情がすっかり気にいって長滞在、遠く東京は葛飾区柴又の故郷に暮らす妹のさくらたちをやきもきさせるというストーリーである。
 その翌年、即ち96年8月、寅さんこと渥美清さんはこの世を去り、27年にわたったこのシリーズは日本中のファンに惜しまれつつ終りをつげることになった。
 しかし、寅さんは居なくなったのではない。我等が寅さんは、今も加計呂麻島のあの美しい海岸で、リリーさんと愛を語らいながらのんびり暮らしているのだろう―きっとそのはずだ、とぼくたちは信じている。
 1997年7月  山田洋次
bag 201607

 6月12日付で、「ビジネスバッグを新調しました」を掲載しましたが、合皮でできたそのバッグにどうしても納得することができず、1カ月もしないうちに新しいものを入手することにしました。

 1か月前に買ったものは姿かたちこそいいのだけれど、合皮じゃなあという気がずっとしていて、このままでは自分までもが合皮のようなごまかし人間になってしまいそうに思えてしまったのでした。それは考え過ぎだということは重々承知しているつもりではあるのだけれど、日常的に使う手回り品への愛着というのはそういうものですよね。

 今回購入したのは、LugardのG3のNo.5223というもので、サイズこそほぼ同じですが、何よりも牛の「本革」、鞄の青木製です。
 価格は4万円余。先月まで永年使っていた革製のものはたしか1万円で手に入れており、それを思えばこんなものにその4倍も支払うのかと、なんだか正気の沙汰ではないような気がします。しかし今のままでは我慢ができないし、まあその程度なら払ってやろうじゃないの、金で解決できるのならばそれでいいよとのブルジョワ的で傲慢な思いもないではありません。
 購入を決定づけたのは、ポイント還元13倍(つまりは5,300円ほど)と、さらに100円値引きしますという彼らの販売戦略。まんまとしてやられた感がないでもありませんが、実質3万5千円余で買えるのならそれでいいではないか、チェッ。

 販売者側の売り言葉を記録しておきましょう。

 一つとして同じ色合いの無い、貴方だけの一品。
 ブラウンのシャドーによる深い陰影。どことなく男性的なステッチワーク。遊び心を忍ばせたデザイン。気の利いたポケットやアクセサリーのあしらい方…。
 G3には、男性が手に取ってみたいという衝動に駆られる、不思議な魅力が宿っています。

 前面にはファスナーポケット、カードポケット、ペン差し、オープンポケットがあります。内側にはモバイルポケットとファスナーポケット。背面にもオープンポケットと小物ポケットがあり収納力抜群です。
 W40×H28×D6cm、Weight 1,130g。――

 新しい革のいい匂い。モバイルポケットはスマホサイズでグー。間口も合皮のものよりやや広くなって、A4サイズの書類を出し入れしやすくなりました。


 そして、懐かしの諸鈍長浜。
 おお、佇まいは一見、15年前と変わっていないように見えます。海岸線がいい形に湾曲していますね。もう少し天気がよければ海の色も明るくてよかっただろうになあ。

 浜の入り口には次のように書かれた家型、手書きの木製看板がありました。

デイゴ並木(瀬戸内町天然記念物)
 樹齢300有余年からなる85本のデイゴ並木は毎年5月~6月にかけ真紅の花を咲かせ島の情緒を呈し、昭和53年から町の文化財に指定されて、うち21本については国の巨木樹に登録されています。
 ※デイゴはインド原産のマメ科の落葉高木です。
  瀬戸内町教育委員会

 デイゴが盛りのときに見てみたいものです。赤い花が青い海と空に映えてさぞかし美しいのでしょう。

 並木道を歩いて気づいたのは、かつては土の道だったものが舗装されてしまっていること。
 そして、道沿いに設えられた手製のベンチに高齢者が集っていないこと。
 その代わりにカフェがいくつかできていること。
 さらには、「リリーの家」が取り壊されてなくなっていたこと。
 やはりここもずいぶん様変わりしてしまったなというのが偽らざる感想でしょうか。
 このあたりは戻ってから当時の写真を見て、間違っていないことを確認しました。

 なお、諸鈍は加計呂麻島内では最大の集落で、111世帯に197人が住んでおり、2位の西阿室の102人に大きく水をあけています。


 諸鈍から、加計呂麻を時計回りで見て回るのであれば、諸鈍湾沿いを野見山、秋徳方面に向かうべきなのだけど、いったん逆方向の加計呂麻島の南西の端っこにある徳浜(とくはま)に行ってみましょう。今を逃したら、一生行けないかもしれないとの思いにただただ駆られて、大きく遠回りです。

 しかし、ここもまたすごい林道。徳浜に行くにはこの道しかないはずなのだけど、自分のほかに誰も通っていません。旅から戻ってからGoogleの地図を見たところ、かろうじて「徳浜海岸海水浴場」の表示はありましたが、諸鈍から徳浜に抜ける道はいくら地図を拡大しても出てきませんでした。
 一応舗装はされているので過剰な心配はいりませんが、鹿児島県ってこういうところまで道を切り拓き、管理しなければならなくて大変だろうなと思ってしまいました。

 20分ほどで着いた徳浜は、7世帯15人が暮らす集落。
 加計呂麻島の中でも小さいほうの集落ですが、ここにも加計呂麻バスのバス停があり、それを見ればここがバス路線の行き止まりで、諸鈍までの公式停留所はひとつもないこと、1日に3回バスがやってくること――がわかります。

 バス停の近くには、浜へ抜ける小径があり、防潮堤のある広々とした砂浜に出ることができます。
 浜への下り口には木製の大きな看板。これもまた「男はつらいよ」関連の、次のようなものでした。

第48作 男はつらいよ 寅次郎紅の花 ロケ記念地 徳浜 1995年11月
 波打ち際で泉(後藤久美子)に愛を告白する満男(吉岡秀隆)
 その様子を見守る寅(渥美清)とリリー(浅丘ルリ子)
泉 「言ってよ、大きな声で訳を言ってよ!」
満男 「愛しているからだ!」
泉 「もう1回言って」
満男 「俺はお前を愛して・・・」
 そう言ったとたん、足を滑らせ、水の中にひっくり返る。
 慌てて波をかき分け、満男を助けに行く泉。
 その様子をジッと見ていた寅、思わず舌打ちする。
寅 「無様だなあ、なんとかならないのか、あの男は」
リリー 「いいじゃないか、無様で。若いんだもの。私たちとは違うんだよ」

 シナリオの一部です。
 そして、2つのモノクロ写真が添えられていました。
 アダンのそばで見守る、いつものスタイルの寅と、寅に日傘をさしかけているリリー。
 海の中でひっくり返りTシャツを濡らした満男に手を差し伸べている泉。
 映画のシーンが懐かしく思い出されます。
 映画のロケハンはここまでやってきて、撮影までしたのですね。やるものです。

 バス停のそばにあった「龍宮神社」も眺めて、次へ。


 よし、徳浜。見るべきものは見た。ルートを元に戻そう。
 やって来た道を諸鈍までとって返し、そこから方角にするなら西のほうへ。とは言っても、クルマはアップダウンのある道を右へ左へとハンドルを切って進むので、方向感覚なんてすっかり麻痺してしまっていますが。(笑)

 秋徳へ抜けるにはいったん山道をかなり高いところまで上ってまた降りていく必要がありました。そのヒルトップと思しきところから形のよい湾岸線と、わずかに開けた平地に集落が形成されている場所が見渡せました。
 これは絶景じゃん。多少靄っていて見通しがよくないけど、晴れていたならさぞかしきれいなのだろうと想像します。

 見えた集落は野見山(のみやま)。加計呂麻島には珍しいヤマト的な地名です。27世帯、37人が暮らしています。

 集落まで下りてその場に立てば、ここもまた贅沢な砂浜でした。


 野見山から10分弱で、秋徳(あきとく)に到着。41世帯、66人の、島では中規模の集落です。

 この集落で目立ったのは、「秋徳小中学校」です。校門の状況からすれば現役の学校のよう。調べてみると、秋徳、佐知克(さちゆき)、野見山を学区にしており、小・中学校とも児童生徒数は1桁なのかもしれません。

 校門を入った先には2つの碑が並んでいました。碑の後ろには山が迫っており、その木々は南国そのものの旺盛な植生を見せています。
 ひとつは、「伸びよ かしこく やさしく たくましく」と刻まれた大きなもの。3つのペン先を象った校章が埋め込まれています。
 もうひとつは「校歌」碑。それは次のようなものでした。

校歌
 秋徳川の ほとりなる  神川の杜の 麓辺に
 集う三郷の 友睦よ  仲良しわれらが 秋徳校
碑文
 本校は明治34年に秋徳尋常小学校としてこの地に開校し、実業補修学校、高等科を併設してきた。
 爾来、先達が構築した伝統を継承してきた。
 さらなる母校の発展と子ども達の夢を託し、ここに創立百周年の記念碑を建立する。
  平成13年(2001)12月2日

 この碑に刻された2001年、創立百周年でピンときました。ここ、おれ、前回来ている!
 前回奄美・加計呂麻を訪問したのは2001年11月でしたから、ちょうどその頃にこの学校は100周年を迎えていたことになります。
 そんなことを思い出して、久しぶりに15年前に旅したときの写真を繰ってみると、その時も秋徳小学校に寄っていて、この校門に「百周年」のアーチがかかっているところを撮影したものが残っていたのでした。
 ああ、やっぱり。あのときは、小さな小学校だけどこの地にあって百周年とはずいぶんとすごい歴史をもつ学校だなぁと思ったものでした。

 前回は山道を下りてきて秋徳集落の最初に現れた建物がこの学校でしたが、今回は集落を過ぎて山道を登っていく逆ルートをとったので、あやうく気づかずに過ぎてしまうところでした。
 ちょっぴり再会に感動したので、15年前に撮影した100周年のときの写真も掲載しておくことにしましょう。
 標語を書いた子も島を出て学業を積むなどして、きっと立派な大人になったのだろうな。

0625.jpg


 秋徳からはまたもや一山越えて佐知克(さちゆき)へ。Google地図にも集落名すら載らない、14世帯、19人の小さな集落です。

 したがってというか、何というか、これといって観光客が見て楽しめるものはないようです。
 集落を通り抜ける一本道のほぼ中心と思われるところに車を停めてウロウロしてみましたが、一風変わっているなと思ったのは、目の前にあった宿泊施設です。
 「素泊り・民宿 自炊施設完備 カケロマ ロマエ」。
 ぷぷっと吹き出してしまいそうな名前。建ててからそんなに年月が経っていない印象で、非常に興味が湧きましたが、いったいどのような境遇や業務を持つ人が泊まりに来るのか、ものすごく不思議です。
 温泉が出るわけではないようです。一人3,500円(素泊まり)で新しい一軒家がまるごと借りられるらしく、それってすごいです。

 ほかに記しておくとすれば、浜に抜ける小径ででっかくて青々としたオカヤドカリを見つけたことと、ここにもまた優れた砂浜があったこと、ぐらいでしょうかね。


 次に訪れた集落は、勢里(せり)。字の感じから大関稀勢の里を連想してしまいますが、おそらくまったく関係ないのでしょう。
 佐知克から車で5分ぐらいだったでしょうか。集落の中央と思われるところで道幅が広くなって、勢里のバス停や藁葺きの小屋、でっかい木の切り株、丘に上がりっぱなしの舟などがある民家の庭のようなところがありました。
 そこに車を停めて降り立ってみると、うーむ、静か。ちょこちょこっと建物がある程度で、後ろは山、前は浜、以上!といった風情です。
 資料によれば、ここまで回ってきた集落のなかで最も小規模なもので、7世帯、11人とありました。

 ウェブで調べてみると、ここのビーチもいいところだったようで、海岸の護岸には手作りのテラスがあり、そこからは請島と与路島が見えるのだそう。
 また、映画「男はつらいよ」ではここもロケ地として使ったようで、ビーチの入口にその記念碑があったのだそうだ。
 そういうことを今ごろ知っても、もはや確かめることができないのが口惜しいだけだ。
 ここまでの集落ではたいてい海方面に足を運んでいたのだけど、どうしてここは行かなかったのだろうな。
 あまり天気がよくなかったからかもしれないな。


 2002年発行の本を古書でゲット。
 日本復帰30年を経て変化する沖縄の文化を、小説家、音楽家、詩人、宗教者、市民運動家、学者ら15人のインタビューを通して鋭く見つめ描いたというつくりのものです。それは「21世紀の日本を展望するときに欠くことのできない視座でもある」と自負しています。

 インタビューの相手は、目取真俊、又吉栄喜、大城立裕、喜納昌吉、普久原恒勇、照屋林助、川満信一、高良勉、伊良波盛男、平良修、糸数慶子、安里英子、崎原盛秀、宮里政玄、我部政明。
 当時にあってこのメンバーはすごいと思う。3人の芥川賞作家、沖縄音楽のリーダーたち、沖縄イデオローグの中心人物、市民活動家、政治家、政治・社会学者など、一流どころがずらりです。

 いったい著者は何者なのでしょう。
 伊高浩昭(いだかひろあき)は1943年生まれなので出版当時59歳。ラテンアメリカ研究者でジャーナリストなのだそうです。
 ウィキペディアを引用すると、東京生まれで、早稲田大学政治経済学部新聞学科卒業。共同通信社編集委員。1967年から75年にラテンアメリカを取材。75年イベリア半島、77年から79年に沖縄、81年から84年にアフリカ南部、82年にフォークランド紛争など、世界百数十カ国・地域を取材。2005年から14年に立教大学ラテンアメリカ研究所「現代ラ米情勢」担当講師。14年同研究所学外所員。――とのことです。

 照屋林助は2005年に亡くなり、喜納昌吉は2004年に参議院議員になります。
 また、当時はまだ県議だった糸数慶子も2004年に参議院議員になりました。


 次に現れた集落は、於斉(おさい)。32世帯、48人だそう。勢里からはここまで5分ぐらいだったと思います。大島海峡側の瀬相(せそう)からも至近の集落です。

 いきなり目についたのは、集落中心に立っている大きな木。「於斉のガジュマル」として集落随一の(笑)観光スポットになっているところです。
 木の前にはここにも「男はつらいよ寅次郎紅の花 ロケ地記念碑」があり、「於斉 満男(吉岡秀隆)を乗せたリリー(浅丘ルリ子)の車がデイゴ並木を走り抜ける」と刻まれていました。

 ビューポイントに選ばれるぐらいですから、かなり大ぶりのガジュマルです。写真を撮るにもかなり引いて撮らないといけません。これならばここにケンムンが住んでいても不思議ではないかも。
 木の後ろに回って枝越しに海を見ると、あちら側の明るさとこちら側の暗さのコントラストが如実に感じられて不思議。高いところにある枝からロープがぶら下がっており、これでお約束のターザンごっこができるのでしょう。

 ガジュマルのある広場の後方は墓地。沖縄風の破風墓とヤマト風のツームストーン型墓石が並んで建っているところが、文化の交差点のようで興味深いです。

 さてさて、しばらく佇んでいたい気もするけど、出発ーっ。


 次は、6~7分ほど車を走らせて、伊子茂(いこも)へ。64世帯、77人とのことなので、大きいほうの集落です。
 きちんと整備された船着き場があり、その駐車場が広いのでそこに停めさせてもらい、集落を歩きます。

 まず目に入ったのは学校。門柱から、それが「伊子茂小中学校」だということがわかります。
 建物のコンクリートの状態から察するに昭和40年代頃につくられた校舎でしょうか、体育館のほかは平屋の教室校舎が並んでいる懐かしい感じのする学校です。

 校門と校庭の間には「青雲の志」と書かれた石碑を中心にトックリヤシモドキが数本植えられていて、南国らしい情緒を醸し出しています。ここの校庭もまた、うっすらと芝が生えて緑色です。

 2008年には創立130周年を迎え、その当時に記念植樹を行ったことを示す記念碑もありました。
 一方道路に近いところには、中央に「伊」の字をはめ込んだ校章とともに「百周年記念碑」の文字が刻された大きな碑。その礎石には、「碑文に寄せて」があり、次のように書かれていました。

 本校創立百周年に当り、同窓生、有志の御芳志により、永遠に流れてやまぬ百年の歳月の歴史と伝統を刻み、心の灯の灯を築き、幾久しく記念するものである。
 併せて亡師亡友の碑もここに建立し、その功績を讃え霊を弔う。
  昭和53年10月10日
    伊子茂小学校同窓生並びに有志、職員一同

 「亡師亡友の碑」は、その日の右後方にソテツの木とともに鎮座。

 現況はどうなのか調べてみたところ、2013年3月14日付けの奄美新聞の記事がありましたので、以下にその一部を編集して抜粋します。

伊子茂中、休校へ  在校生不在、再開のめど立たず
 瀬戸内町加計呂麻島の伊子茂中学校が2013年度から休校になることが決定した。13年度からは在校生がいないことが理由。再開のめどは立っていないという。
 伊子茂中学校は小中併設校で、先日卒業した中学3年と小学6年を除いて3人が在籍している。
 6年生が古仁屋中に進学するため、中学校の在籍がなくなる。
 森山力藏教育長は「学校というのは地域にとっての“文化センター”になる場所。休校は残念でならない。地域のみなさんも子ども達がいなくなることを残念に思い、学校には残ってほしいという願望も強いが、生徒がいないのは仕方がない」。
 森山教育長は「伊子茂小ではまだ小学生が在籍しているが、今後はどうなるか分からない。児童生徒数が少ないことに関する親や子ども達の不安はよくわかるため、1人残されるよりは転校という考えも理解できる。加計呂麻島は未就学児も少ないので、町でもふるさと親子招待留学制度などを活用し今後も行政と一体となり、集落のためにも児童生徒数を増やしていきたい」と語った。

 3年前に中学校は休校しているのですね。でも、休校ということは再開もありそう。それも生徒数の状況いかんなのでしょうけれど。
 なお、某学校教育情報サイトによれば、小学校は2~4年生の児童5人と教職員7名で現在も続いているようです。ヨカッタ。