嘉渡から少し先の秋名トンネルを抜けるとそこは秋名の集落。やっと来ることができたぞ、平瀬マンカイとショチョガマの地へ。

 リサーチは十分。まずは海沿いにある平瀬マンカイが行われる場所に行ってみましょう。
 郵便局の先にある船溜まり付近から防波堤を超えて少し進むと、石板発見。ひとつは半欠け状態ですがもうひとつ同じような石板があって、それには次のように刻されていました。

国指定重要無形民俗文化財
 秋名のアラセツ行事
 秋名平瀬マンカイ保存会
 昭和61年1月12日指定
 旧暦8月上旬アラセツの夕方潮の満ち始める頃、神平瀬に女5人がのり、めらべ平瀬に男女合せて7人がのって、マンカイ祭りを行う。
 ショチョガマ祭りとこの2つの祭りを合せて平瀬マンカイと呼んでいる。
 内容は稲の豊作を願い、また豊作に対する感謝の念をこめた祭りである。
 起源は、琉球王の支配下にあった時、ノロを中心に始められたものとされている。

 ああそうなのか。「秋名のアラセツ行事=平瀬マンカイ+ショチョガマ」だと思っていたのですがこの説明によればそうではなく、「マンカイ祭り+ショチョガマ=平瀬マンカイ」なのですね。

0270.jpg

 で、海岸のほうを見ると、実際に祭事が行われているときの映像に写っていた岩が2つありますねぇ。
 画像に写っている手前左の岩のほうが神平瀬で、右奥の岩がめらべ平瀬でしょう。
 ここで執り行われるマンカイ祭り、白装束に身を固めたノロたちが海に向かって手をひらひらさせながら神歌をうたうシーンは原初的な厳かさがあり、一度見たら忘れられないナニモノかがあります。

0280.jpg

 ちなみに、近寄って見た神平瀬はこんな感じ。手前が階段状になっていて、岩の上は平ら。そうとう人の手が入ってこの形状になっているようでした。
スポンサーサイト


 ショチョガマの祭場については、たどりつくまでかなり手こずりました。
 事前情報はなく、かつて見たショチョガマの映像の記憶だけが頼りです。その時の地形と早朝の光が射していた方向などを思い出しながら、車を走らせます。
 一度は秋名の集落を出て芦花部(あしけぶ)方面の山中にまで進んでしまいましたが、こうではなかったと思い直し、再び集落の中へ。そして、とうとう見つけましたよ。執念でしょ、これは。
 簡単に言うと、秋名郵便局から南南西方向に伸びる集落内の道を200mほど進んだところになります。

 西側の山手のほうに入っていける階段の手前に、次のように書かれた看板があります。

国指定重要無形民俗文化財
 昭和60年4月20日指定
ショチョガマ祭場地
 旧暦8月最初の丙(ひのえ)の日、アラセツ行事を行う。
 この日の早朝、潮が満ち始める頃「ショチョガマ」祭りを行い、夕方の潮が満ち始める頃海岸の平瀬で「マンカイ」祭りを行う。
 この2つの祭りを合わせて「平瀬マンカイ」と呼んでいる。
 内容は、稲の豊作を願い、また豊作に対する感謝の念をこめた祭りである。
 起源は琉球王支配下にあった時、ノロを中心に始められたものとされている。

 こちらの祭りは男性中心の勇壮なもので、アラセツの日早朝に、集落南西部の田袋が見下ろせる山の中腹に築いた片屋根の藁葺小屋の上で行われます。
 屋根の上で宮司が豊作祈願の祝詞を唱え、若者たちが豊年歌を歌い、歌い終わる毎に「ヨラ、メラ」の掛け声と共に激しく小屋を揺らします。それを何度か繰り返して、太陽が東の山上に昇る直前に、完全に小屋を揺り倒す――というもの。
 その後倒れた小屋の上で、アラシャゲ踊りと今の踊りを踊り、解散となるのだそうです。

 階段を登っていった先には、祭場となる中腹の小さな平坦地(左側)。そこからは秋名の集落が一望できる仕掛けになっていました。
 うーむ、ここか。場所を見てしまうと、いつかは祭事自体を見てみたくなるもので・・・。

0300.jpg


 秋名をあとにして次に向かったのは、県道81号を名瀬方面に向かう途中にある芦花部(あしけぶ)集落。ここは奄美大島としては珍しく海に面していない山あいの集落です。
 ここには「芦花部一番バア加那の碑」があるのです。バア加那は、奄美民謡「芦花部一番」に歌われる伝説の人物で、生まれついての美貌と集落を流れる川の清らかな水に磨かれた気高さは島中に知れ渡っていたとのこと。
 ささ、17時を過ぎた時間となったので、少しスピードアップしないと。

 県道沿いに看板があるというのでそれを探しながら走ると、集落を通り過ぎてしまいました。あれぇ、大きい看板と聞いていたのだけどな。
 で、集落中心部付近まで戻ってみると、「芦花部一番バア加那の碑」と書いたものであろう案内板を発見。半分壊れているので見落としてしまったようです。

 看板に従って小道に分け入ると、「→ようこそ 芦花部一番の碑 民謡のふるさと」と手書きされた赤い案内標識がいくつかあり、それに従って進んでいくと、Uターンできないどんづまりに入ってしまいました。ありゃりゃ。でも、そのすぐ先が碑の場所でした。

 碑には、中央に「芦花部一番伝説の碑」と記され、その左右に芦花部一番の歌詞が刻まれています。

  あしきぶいちばんやウントノチノバアカナ  コバヤいちばんや さねくコバヤ
  ウントノチバアカナや しろご水ごころ  さりくちゅぬかずに しのばれて

 芦花部で一番の美人は御殿地のばあ加那だ。小早船で一番早いのは実久(さねく。加計呂麻島)の小早船。
 御殿地のばあ加那は白川の水のような清い心を持ち、往来する人々に偲ばれる。――の意。

 碑の裏にはなにやらたくさんの文字で碑文が刻まれています。あまりに細やかなのでこれをその場で読み解くのを断念したのですが、ウェブ上に書き写したものが出ていたので、それを以下に引用しておきます。

 伝説の主人公バアカナは今から凡そ300年前、この下のウントノチという屋敷に住んでいた。
 生れついた彼女の美貌は由緒あるこのしろご水によって愈々磨かれて、美人ウントノチバアカナの名は島中に知れわたっていた。
 その頃島中の村々は上納の品を代官仮屋の所在地赤木名へ運び届けるのであったが、或る日この上納を済ませて帰路についた瀬戸内の村々のコバヤ(大板付舟)は一斉に赤木名の浜を乗り出した。一緒に乗り出した舟は自然競漕となり、それまで一番になっていた実久のコバヤは芦花部の沖合にさしかかると、誰いうともなくこの機会に音に聞くウントノチバアカナを一目見て帰ろうということになり、芦花部に上陸して望みをかなえた。
 然し途中このようなみちくさを食いなからも、実久のコバヤは瀬戸内の海に入るときには再び一番になったという。
 また当時ウントノチは龍郷方面への道端で、通りかかりの旅の若衆はバアカナ見たさに水を欲しいとの口実で彼女の家に立ちより旅情を慰めていたという。
 これらのことが表面の歌詞となり、民謡「芦花部一番」としてうたい継がれているものである。
  昭和48年1月  芦花部老人クラブ しろご会

 なるほどなあ。
 碑の脇にある小さな沢の流れが「白川」なのでしょう。また、上納のために加計呂麻からやってくる舟々の当時の様子がイメージされます。
 このシマウタもまた、沖縄本島チックな女性を愛でる唄。奄美のこのあたりの人々も実はずいぶん明るいのですな。

 碑の右後ろの小さい碑には短歌。
  そてつ粥 食べし代は古り 豊の秋   ゆうこ
 これがなぜここにあるかなどの来歴はよくわかりません。

 狭いところをゆっくりバックして戻ります。軽自動車でよかったなー、普通車なら無理だったかもな。
 集落内にはばあ加那の住居跡があったようですが、急いでいたのがよくなかったのか見落としてしまいまったのは残念です。


 名瀬の有屋地区にある「田中一村終焉の地」を見て、この日の見学ツアーを締めることにします。
 ナビを「奄美市名瀬有屋町38-3」にセットして、山がちな県道をさらに名瀬方面へと進みました。
 「日本のゴーギャン」の代名詞で語られる画家・田中一村が生涯を終えた古い家が保存されているところです。
 田中一村の終焉の地については、「日本のゴーギャン 田中一村伝」(南日本新聞社編、小学館文庫、1999)や「田中一村 豊饒の奄美」(大矢鞆音著、日本放送出版会、2004)などを読んで、文章的には知っていますが、現地を訪れるのは初めてです。

 「田中一村終焉の家」と書かれた道案内板を左折し、緩い坂を少し登った住宅地のはずれの山の麓に、その場所はありました。今でもどんづまりの地なのですから、彼が生きている頃であればむしろ「山奥」と言っていいような場所だったのではないかと思量します。

 建物自体も掘立小屋に毛が生えたようなつくりのもの。よく今まで保存できたなと驚くようなシロモノです。この縁側に、ランニングシャツ1枚の一村が座っていたのでしょう。大島紬の工場であえて季節労務に携わり、仕事をしない時期をつくって絵に打ち込みながら、とても質素に暮らしていたと聞いています。

 入り口側にある「田中一村の生涯」の石碑には、次のように記されていました。

 本名、田中孝。明治41年7月23日、栃木県下都賀郡に生まれる。幼い頃から画才を現し、7歳のとき児童画展で文部大臣賞を授賞する。
 大正15年東京美術学校(現東京芸大)に入学し、日本画科を専攻、同期に日本画壇の主流を歩んだ東山科魁夷らがいた。しかし入学後間もなく諸々の事情が重なり、わずか3ヶ月で中退した。
 昭和13年、東京から千葉に移住、その間、襖絵や天井画の作品を描く。
 昭和22年、第19回青龍展に「白い花」を初出品し入選したが、以後画壇との接触を断ち、絵筆一本の放浪の旅に出る。
 昭和33年の暮れ、奄美を訪ねた一村は、ここを終生の地と定め、大島紬の染色工として働きながら、亜熱帯の野性的な植物、原色調の魚類、動物等を20年にわたる創作活動のモチーフとして約30点の作品を残し、昭和52年9月11日、69歳で孤高の生涯を閉じた。
 昭和59年12月9日、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の作家田中一村」と題して、一村の画業が全国に紹介され大きな反響を呼び、翌年1月、同番組としては異例の再放送となった。亜熱帯の植物群を画面いっぱいに、しかも細密に描かれたその作品は独特な幽玄さを秘め、今も多くの人々を魅了してやまない。
  名瀬市紬観光課
   贈 国際ロータリー 第2730地区
     名瀬中央ロータリークラブ創立20周年記念事業  平成11年4月24日

 およそ20年で作品30点とは寡作かなとは思いますが、作品に注ぐ意欲は強いものがあったようです。
 この旅の最終日に「奄美パーク」で15年ぶりに一村作品の集大成を見ましたが、「初夏の海に赤翡翠」と「アダンの海辺」には鬼気迫るものを感じました。


 奄美大島名瀬の2晩目は、ヤンゴの本通りから通り1本半ほど離れたところにある郷土料理店「味のより道 誇羅司屋(ほこらしや)」にしてみました。
 洒落た店のつくり。昨晩訪問した「脇田丸」よりも一回り上をいく、つまりは高級感のやや高い感じの店でしょうか。

 入ると元気のよい若者が応対してくれて、さっとカウンター席に案内してくれます。ナルホド、一枚上ですねえ。
 まずは煮込み、それに昨晩ありつけなかった赤ウルメの唐揚げを所望。あります!とのこと。ほーら、やっぱり一枚上だ。(しつこいって、笑)

 生ビールでお通しと煮込みを味わっているうちに赤ウルメが登場。カリリと揚げられていて、頭のごく一部以外はあらかた食べつくすことができそうです。こうなるとアルコールも進み、黒糖焼酎「れんと」の水割りも頼んでくいくいっと。

 黒糖焼酎での締めはやはり刺身でしょ。盛り合わせで度数高めの「長雲」をもう一杯だ。
 嬉しい悲鳴は刺身盛り合わせが質・量ともにゴージャスなこと! 思わず「これで一人前!?」と驚いてしまいました。
 昨晩と同様、ソデイカ、シマダコ、シビ、ハマチ、それにサーモンが加わって、見た目もぐっとグレード感あり。ツマも新鮮でおいしくいただけました。1,200円。

 いやぁ、納得。昨晩よりも少々値が張って4,160円でしたが、満足度は値段相応もしくはそれ以上でした。
 もっとここで寛いでいたいけど、腹も張ったし、ぼちぼち引き上げるとしようか。
 滞留時間1時間半余。20時半前にはホテルへ。お利口さんな夜だ。


 旅の3日目となる5月5日は、朝7時に起床。その朝、ホテルの部屋から見たヤンゴ通りです。
 通りに架かるピンク色のアーチの先がいちばんの繁華街で、それより北東に位置するこの辺りはホテルが多く立ち並ぶところになっています。

 泊まったのはホテルニュー奄美。
 眼下に見える2階建ての建物は「たつや旅館」。もっと古い建物だったように記憶しており、15年前はここに出入りする一人旅風の人々が多く見られたものですが、今はどうなのだろうな。


 旅の3日目は、大島を南下して瀬戸内町古仁屋へと向かう間に所要のスポットを見て回るという計画。
 まずは、名瀬市内で見落としていた島尾敏雄の文学碑と旧居を押さえておこうか。

 これらは名瀬を南方面に向かう際に通るR58の古田町交差点近くにあり、その交差点から左に折れて川に架かる橋を渡ってすぐだというふうに聞いていたのだけど、なかなか見つけられません。
 何度か行きつ戻りつして、なぁんだ、ここかぁというようなところにそれはありました。どうしてこれが目に入らなかったのだろうな。

 道路の向かいにある「小俣町集会所」に車を停めさせてもらって、まずは文学碑。
 道路からポケットパーク状のスペースに入る手前に案内板があり、その先に「島尾敏雄文学碑」と刻まれた石碑と、「病める葦も 折らず けぶる燈心も 消さない  島尾敏雄」と刻まれた石碑がありました。文学碑というのは後者のほうで、島尾が書き残した色紙の句なのだそうです。

 案内板を移記しておきます。

島尾敏雄文学碑案内
 作家島尾敏雄氏は、昭和30年3月、東京からミホ夫人の故郷奄美大島に移住してきた。
 昭和33年4月、鹿児島県立図書館奄美分館設置に伴い、分館長に任命され、分館敷地内の官舎に、昭和50年3月、退職まで××年間住んでいた。そして、「名瀬だより」をはじめ、「日の移ろい」(谷崎潤一郎賞受賞)、戦後の名作といわれる「死の棘」(日本文学大賞、芸術選奨受賞)、随筆「離島の幸福、離島の不幸」、その他多くの作品を執筆、出版したのである。
 また、歴史家として、「奄美郷土研究会」発足させて育て、さらに南島の視点から日本の通史を見直した。「ヤポネシア」の概念に基づき、「ヤポネシア序説」等を出版し、琉球弧の存在価値の認識を広めた。
 昭和56年に日本芸術院会員に推挙された。
 昭和61年11月12日、鹿児島市の自宅で病に倒れ、鹿児島市立病院でご逝去された。享年69歳。
 ここに島尾敏雄氏の奄美在住20年における、奄美と名瀬市に対する文学や史論文化論のご功績を讃え、島尾氏が書き残した色紙の句(「旧約聖書」第2イザヤ書の類句)を文学碑にしるして記念とする。
  平成5年11月12日
  島尾敏雄文学碑建立実行委員会

 建立は、島尾の満7年、8回忌の日。
 「××年間」と数字が消されているのは、分館長任命の昭和33年からではなく、昭和40年からの10年間を過ごした官舎だったからのようです。
 島尾は昭和31年に名瀬聖心教会で洗礼を受けています。

 なお、現在の「鹿児島県立奄美図書館」は、R58古田町交差点の名瀬市街寄り、奄美高校の並びに建っています。平成21年に移転したようです。
 また、この文学碑はもともと名瀬市井根町(現奄美市名瀬井根町)、つまりは奄美市役所や大島支庁があるあたりにあった旧図書館の敷地内に建っていたものをこちらに移設したようです。


 島尾敏雄文学碑のある場所の並びに、島尾敏雄の旧居がありました。
 こちらは田中一村の終焉の住まいとは異なり、まだ使えそうなぐらい立派です。平屋の白壁、平屋根は沖縄の外人住宅を思わせます。

 こちらにも別の説明板がありましたので、以下に移記しておきます。

島尾敏雄旧居・文学碑案内
 この建物は、作家・島尾敏雄さんが昭和40年から昭和50年4月に指宿市に転居するまでの10年間をすごされた、鹿児島県立図書館奄美分館長官舎です。
 奄美分館の機能が奄美高校敷地内に新設された鹿児島県立奄美図書館に移ったことや、すぐ横の道路の新設にともなって、当初はこの官舎はとりこわされる予定でしたが、奄美市の英断によって保存されることになりました。
 その維持管理を奄美市から委託されることになったNPO法人島尾敏雄顕彰会は、この由緒ある建物をできるだけ当時のままに再現し、ご一家の生活の息吹きを感じられる施設にすべく努力しています。
 隣接する文学碑は、島尾敏雄さんの奄美在住20年における、文学・史論・文化論等のご功績を讃え、島尾敏雄文学碑建立実行委員会によって建立されたもので、8回忌にあたる平成5年11月12日に除幕式がおこなわれました。
 碑文は、島尾敏雄さんの自筆の色紙の一文「病める葦も折らず、けぶる燈心も消さない」(「旧約聖書」第2イザヤ書の句)を写したものです。
  島尾敏雄文学碑建立実行委員会

 考えてみると、公務員が住んでいた官舎そのものが観光地になるなんて、ほかではなかなかないのではないかな。自分の家でもないわけで。
 これにて名瀬を離れ、南の古仁屋に向けてクルマを進めます。
 名瀬からのR58はずっと山道で、途中住用町に入ってからいくつかの小集落はありますが基本スルーで、車の流れも大型トラックなどの低速車と遭遇しなければ快適に走ることができます。

 瀬戸内町の行政域に入ってすぐに、ナビには網の子バイパス及び長い長い網の子トンネルという15年前にはなかった新道が現れましたが、その手前から旧道に折れ、「嘉徳」の集落を目指します。

 嘉徳は、奄美シマウタ「嘉徳なべ加那節」の発祥の地であり、そこには唄の舞台になった静かで美しい海岸があるとのこと。
 また、嘉徳は奄美の唄者元ちとせの故郷でもあります。元ちとせは高校生のときに「嘉徳なべ加那節」を唄って奄美民謡大賞を受賞しています。
 15年前にも行こうかと考えたのですが、なにせ悪路をかなり先まで行かなければならない陸の孤島のようなところのため、ついでに寄るなどということはできず、断念したのでした。

 しかし今回は満を持しての訪問。R58から分け入った細道は「林道嘉徳青戸線」。舗装されてこそいますが、幅の狭い、アップダウンのきつい道です。これをずんずん進んで、集落に到着です。ここまで名瀬から約1時間。思いのほか早く着いたという印象です。

 ここで、「嘉徳なべ加那節」を紹介しましょう。

  ♪ 嘉徳なべ加那や 如何(いきゃ)しゃる生まれしちが
        親に水汲まち いちゅて浴めろ
    嘉徳なべ加那が 死じゃる声聞けば
        三日(みきゃ)や白酒(みき)造て 七日遊ぼ
    嘉徳浜先に はえる美麗(いちゅ)かずら
        はえ先やねらん もとにかえろ

 一読すると、「嘉徳なべ加那という女は何と親不孝な生まれをしたのだろう、大切な親に水を汲ませて平気で浴びるとは。親不孝者のなべ加那が死んだという声を聞いたら、三日のあいだは白酒を作ってお祝いをして、一週間のあいだ歌三味線で喜んでやろう。嘉徳の浜に、這っている磯かずらはあたり一面にはびこって、もう這い先もなく、もとに帰るよりほかはない。」――というように解釈でき、なべ加那はとんでもない親不孝娘のように感じられます。
 しかし近時は、「なべ加那は天女にも比するほど気高く美しいノロとして神格化され崇拝されていたので、両親も神に仕えるように水を汲み、人の目をはばかって水浴させた。「如何しゃる生まれ」は「どのようにしてあのように神高く美しく生まれることができただろうか」という羨望と賞賛の意が込められている。なべ加那の黒髪は長くて始末に困るほどで、高倉に横たえた竹竿に髪をのせて梳き、結いあげなければならなかった。」――というまったく逆の捉え方もされているようです。

 たどり着いたのは、マイクロバスが方向転換できるかどうかの小さな広場。そこには「嘉徳」と記されたバス停があり、海岸に出られる小道が一本。まわりは3方が山、東側だけが浜です。
 自分は静かな集落に突然訪れた闖入者デアルという感じがしないでもないですが、無体なことは何もいたしませんから、どうぞ拝見させてくださいね。



 車をその広場とも言えないようなところに停めさせてもらい、嘉徳海岸へ。
 護岸のための人口構造物はほとんどない、湾曲した海岸線が美しい。砂の色は、沖縄と違ってややグレーです。
 これだけ広い海岸線に自分以外の人間は誰もいないという、一種すごい贅沢さ。反面、表現するのが難しいような孤独感と得体の知れない喪失感のようなものがないまぜになります。
 かつてはここにもたくさんの住民がいて、浜には漁労をする人々がいて、歌垣があり、元ちとせなんかもこの浜で遊んでいたのだろうと思うと、「限界集落」という言葉が脳裏をよぎります。
 すばらしくいいところなのに、そこからは人がいなくなっていくという現実。人がいなくなれば、そのあとには旺盛な自然の繁殖力がはびこってくるのでしょう。


 集落の中央部、海岸寄りにある墓地内に「嘉徳鍋加那の墓」があるというので、探してみました。
 中央というからにはこの広場の近くだろうから、この付近に墓地はないかとキョロキョロ。海岸寄りだとすれば、ここの石段を登ったところあたりかなと見当をつけて行ってみると、おれっていいカンしてる、発見!

 それがコレ。この墓地の中でもかなり古いほうでしょう。
 墓碑は「三月」、「玄」などの字が読み取れるほかは風化が進んでよくわからず。
 周囲にある新しめの墓は、「徳」「栄」「新」など1字姓のものがほとんどで、奄美大島らしさが感じ取れました。

 実はこのあと、奄美随一の悲劇のヒロインである「むちゃ加那」が流れ着いたという、奄美市住用町青久集落の浜にある「伝説むちゃかな之碑」を目指しました。
 これがとんでもない道で、道路の狭隘、路肩欠損、路上落下物、通行止めの標識、ブラインドコーナー、急なアップダウンなど、悪路の条件がすべてそろうと言ってもいいようなすんげえ林道。
 しかし、かなり進んでいよいよここから青戸集落へ下っていくというヘアピンカーブから先はさらに道幅が狭くなり、とうとう舗装も尽きてしまいました。
 いくら軽自動車といってもこりゃダメだあと、到達を断念し、ぐるりと住用町の市集落を経由してR58に戻ってきたところでした。
 全部で1時間半ほどは走ったでしょうか。距離にしたって相当あるはずだけど、振り返ればこの間、1台ともすれ違うことはなかったよなあ。てことは、もし途中で何かあったら・・・。
 過ぎ越しこととはいえ悪寒が走ったのでした。

 あとで知ったのだけど、青戸集落は現在1世帯2人のみが生活しているとのこと。
 せっかくなので、事前に仕入れていた「伝説むちゃかな之碑」の情報を、以下に概括しておきます。

 玉石垣の前の浜を渡り、小さな川沿い、こんもりとした丘の少し高くなったところに「むちゃかな之碑」と書かれた石碑が建つ。台座の碑文は次のとおり。

 今から約200年前、江戸時代末期、瀬戸内町生間から、役人の欲望を拒否したばかりに島流しにされ漂着した喜界島でつかの間の幸せを絶世の美人「うらとみ」の子として生まれた「むちゃかな」は、母にもまさる美人として男たちの評判を一人じめにした。
 そんな「むちゃかな」に嫉妬した島の娘たちは、青海苔摘みに誘い海中に突き落としたと語りつがれている。
 旧9月期は潮の流れが喜界島から青久の方へ流れるため、ここに遺体が流れ着いて青久の人々によって手厚く葬られた。
 それ以来青久では9月9日には墓地に詣で悲劇の娘「むちゃかな」の霊を慰めてきている。
  住用村教育委員会、住用村文化財審議委員会

 加計呂麻島生間で生まれ育ったウラトミが喜界島に流され、そこで生まれたムチャガナが島の娘たちによって殺害され、その亡骸がこの地青久に流れ着いた――という悲話の最終章となる場所がここだというわけです。

 今回行けなかったですが、喜界島でも小野津の「ムチャカナ公園」には寄る予定でした。
 また、明日は加計呂麻島に渡りますが、その際には生間にある「ムチャカナ公園」に行くつもりです。


 嘉徳青久林道でずいぶん余計な時間を使ってしまったので、少しスピードを上げて再びR58を南下。こんどは網野子バイパスの長いトンネルを通って伊須湾へ。しかしホント、R58は良くなったなあ。

 伊須湾に面した「阿木名(あぎな)」というところでホノホシ海岸に向かうべくR58から湾沿いの道を選択してしばらく進むと、集落の途中でなにやら標識を発見。車から降りて見てみることにします。

 単なる草の生えた広場というか、住宅を取り壊したような空地になっている場所があり、そこに「重野安繹先生流謫の地」と記された標識と看板があるだけ。
 でも、それだけしかないここは、重野安繹(しげのやすつぐ)という薩摩藩武士の流謫の地だったというのですな。そしてこの地に私塾を開き、それ以来阿木名集落は「学者村」として有名になった、ということのようです。
 阿木名集落会が没後100周年を記念して2010年に整備したもののようです。

 看板の記載事項は次のとおり。

重野安繹(しげのやすつぐ)
 1827(文政10)年、鹿児島郡阪本町に生まれました。
 若いころから学問に秀で、藩費を受けて江戸に出て学問を修めるほどでしたが、帰藩してまもなく、同僚の金の使い込みによって罪を得て、31歳のときに遠島となります。
 重野が乗った船は久慈に着き、上陸後、勝浦を経て阿木名に移り住みます。重野は阿木名の有志たちに要請されて、青少年に学問を教えるための私塾をこの海沿いの地に開きました。漢籍を講じるなどその教化は近隣の村々にも及び、阿木名は学者村として優秀な人材を輩出する集落として名をはせました。門弟として泰山英俊、鼎宮祥喜、森賢省、泉長旭、南喜美隣らが学んだそうです。
 当時、重野は龍郷に流謫中であった西郷隆盛とも旧交を暖め、相互に訪問しあっていました。また、土地の娘ウミを妻にし、一女の娘ウヤスをもうけます。安繹は天下に名を知られる文学者となってから島を訪れて引き取っています。
 6年あまりの阿木名での生活の後、許されて帰藩した重野は、西郷隆盛の後任の御庭役となり、生麦事件を発端とする薩英戦争の終結にむけて、イギリスと談判して決着へと導きました。その後、歴史家、漢学者として考証史学を推進して学問を深め、近代史学の礎を築きました。
 日本ではじめての文学博士。東京帝国大学名誉教授。
 没年1910(明治43)年、行年84。

 ウィキペディアによれば、重野さんはなかなか几帳面な人だったようです。
 小柄だが、身だしなみにうるさく、頭髪や髭も白髪混じりを良しとせず、しばらく染めていた。
 弁がたち、訛りの多い薩摩弁を避けていたが、訛りは抜けなかった。
 演説する場合は、人名、地名、年代、数字などを記したものを講演後に必ず速記者に渡した。
 隠居を嫌い、100歳まで生きるつもりで日々衛生に心がけていた。
 24歳より冷水養生法を毎朝実行し、老人になってからも健康で目も耳もよく、眼鏡なしでも7号の活字が読めた。
 冷水養生法の前に4kmの散歩も日課としていた。
 ――などが紹介されていました。


 ホノホシ海岸に行く前に、ヤドリ浜にも寄っていきましょう。
 15年ぶりのヤドリ浜は、あの時と同じで、静かな波のたゆたいが美しい。
 ビーチに必要な施設がそろっているし、リゾート施設もあるので、家族連れなどにはいいのかもしれません。この日も浜には幾人かが訪れ、それぞれゆったりと寛いでいる様子です。これだけの立派なビーチにこのぐらいの人しかいないのだから、さぞかしゆっくりできるだろうな。

 「ヤドリ」とは?という疑問が湧きますが、この地名は、かつて「宿り・屋取り」つまり「一時的な仮小屋」があったことに由来するようです。
 平地が少ない奄美大島一帯では、主産物のサトウキビやイモなどを植えるために、村から離れたわずかな平地や山中の平地も利用していたのでしょう。場所によっては、村との行き来がたいへんであったため、しばらく滞在できるように小屋を作り、収穫や製糖の時期にそこに籠って仕事をしていたそうです。

 キャンプ場から先に広がる海岸線は見事。また、そこに群生するアダンの見事。
 写真を撮って来たので載せておきましょう。

0400.jpg


 次は、瀬戸内湾に面したヤドリ浜から5分程度の場所にある、太平洋側のホノホシ海岸です。
 ホノホシ海岸は、前回の奄美旅では極めて印象の深かった場所のひとつです。こちらは太平洋に面しており、波の程度はヤドリ浜とは違い、波に洗われた石がすっかり角が取れて丸くなり、それらが波の寄せ返しに合わせて一斉に轟音を上げるのです。そのさまにすっかり驚いた記憶があります。

 前回の記憶どおり、海岸のずっと手前にある駐車場に車を停め、公園として整備された海岸までの道を歩いて向かいます。
 しかし、あの轟きが聴こえてきません。ん?どうした??
 どうも、気候が穏やかな上に引き潮の時間帯だったようで、豪快な波が押し寄せていない様子。ははあ、ナルホド。そういう条件のときはこうなってしまうものなのか。

 海岸は、中央に「クラディ」と呼ばれる大きな岩を境にして浜が2つあり、右手の浜先を「ウフチブリ」、左側の方を「ウラノコシ」というのだそう。どちらかというと「ウフチブリ」のほうが石の並びがきれいで音が大きい気がしましたが、どうでしょう。

 今回はパッとしなかったけど、裏を返せば、前回はいいときに来たということになるのだろうな。
 ――と、前向きに考えることにして、引き上げることにしましょう。

 15年前にこの海岸の思い出として、丸い小石を1個だけもらってきました。その石は今でも自室の本棚に置いているのですが、今回も1個だけもらい、それと並べておくことにします。
 同じような小さい石だけど、この2つの間には15年という時間の流れに大きな違いがあるわけで、それらが遠く離れた地で仲よく並んでいるというのもミステリアスで悪くないではないか。

 後の話になるけど、旅から戻るときの空港の荷物チェックでコイツが疑われたようで、キャリーバッグが3回、エックス線検査を通されることになりました。

 ところで、「ホノホシ」って?
 舟で行き来することが多かった頃、天気の悪いときなど、外洋の岬を周回する危険を冒すよりは多少難儀ではあってもここから舟を担いで陸上を横断していたといいます。この「舟越し」が、「ホノホシ」という言葉の語源だとのこと。
 はいはい。石垣島にも陸が狭隘になっているところに「舟越」という地名がありますね。


 ささ、そろそろ南部のターミナル的な性格を持つ瀬戸内町の古仁屋に向かって、そこで昼メシとしましょう。
 正午過ぎの時間帯に古仁屋に到着。観光客風情が食事をする場所といえば、古仁屋ではここがいちばんというか、人によってはここしかないとまで言う「せとうち海の駅」の2階にあるシーフードレストランで食べることにしました。

 海鮮系メインの「島のお母さん定食」1,000円を狙っていたのですが、入口のディスプレイを見て、それよりもボリューム満点の「気まぐれ日替り定食」800円に変更。旅を始めてから魚介系は毎晩食べているので、海鮮系でなくてもいいかと。

 「うどんかそばが選べます」というので、うどんにしてみたものがコレ。
 鶏の唐揚がメインです。脂の少ない部位のものが5個ごろごろと。添えられたたっぷりの野菜は胡麻ドレッシングをまとってキャベツ、レタス、タマネギ、パプリカ、トマト。厚みのあるレモンは唐揚げに絞りかけ、サイドのマヨネーズをちょい付けしながら食べましょう。

 ワカメ、分葱、揚げ玉の入ったうどんは、レベルの高い冷凍モノ。これができてからは、どこでもうどんを美味しく食べられるのだな。
 ほかにはモズクの酢の物、揚げシューマイ2個、鯖とソデイカのカルパッチョ。

 すごいなあ。これで800円は安いよな。


 腹もくちくなって、さあて、南部をもうひと巡りです。古仁屋から針路を北西方向にとって、県道79号線をひたすら進みます。
 目的地は、白浜(しらはま)海岸のガジュマル並木。手安(てあん)、久根津(くねつ)、油井(ゆい)、阿鉄(あてつ)、小名瀬(こなせ)を通過して、阿室釜(あむろがま)の手前で来た方向に大きく回り込む形で篠川湾に面した海岸に向かう小道に入ります。
 白浜って、小さい地図で見ると古仁屋からすぐに見えるけど、そのずっと先まで行ってヘアピン的に戻るのですね。先に行った青久もそうだったけど、ここまでくる観光客ってかなり酔狂の部類に入るのではないか。

 そのガジュマル並木は、諸鈍のデイゴ並木に匹敵するとまではいかないにしても、かなり見事。
 海岸沿いの湾曲した防波堤とその手前の一本道、そして古いガジュマル並木、で、並木の奥にはいくつかの住宅と、人が住んでいないと思われる朽ちた建物と、かつて人が住んでいたと思われる土地の区画が並んでいました。

 並木の手前に車を停めて、並木が尽きるまでの300メートルぐらいの道を歩いてみました。
 誰もいないのかと思ったら、ダイビングが終わってシャワーを浴びたばかりといった格好の男女がいて、コンニチハとごあいさつ。ここは海水浴場になっているんだもんな。お互い、ここで人と会うとは思わなかったという表情になってしまうのがちょっぴり可笑しい。

 ここまでよくぞ来たものだと自分を褒めたい気になりますが、さて、今後再びこの地に来ることはあるのだろうか。
 ないだろうと思う反面、今回訪れている奄美の各地だって、初めて来たときはもう来ることはないと思ったものだ。
 いずれにしても、今見ている景色をしっかりと心に、いや、おれって記憶力がいいほうではないので、しっかりとカメラに収めておこう、と思った次第です。


 次のターゲットは、「かんつめ節の碑」。これは今回、碑めぐりとして是非とも押さえておきたかった場所です。
 阿室釜、篠川(しのかわ)、古志(こし)、久慈(くじ)などを通って、宇検村(うけんそん)の名柄(ながら)へと通じる佐念山の峠へと進みました。いやはや、遠いねぇ。

 峠のピークあたりで道幅がやや広くなり林道と分岐する三叉路があって、そのすぐ近くに「かんつめの碑」と書かれた石柱があります。その側の何段かの石段を登っいくと、手前左側と奥の方に石碑があります。
 手前は、「カンツメ之碑」と書かれた古い石碑。百合の花が添えられて間もない様子が見て取れ、今もなおこんな山中に花を手向けに来る人がいるのかと、ジンときます。

 その奥には堂々とした「かんつめ節の碑」が建っていました。
 三角形状をしたその碑の下方には次のような石板が嵌め込まれています。

  運命に泣いた 乙女の恋を 永久(とわ)にこだませ かんつめの歌

  かんつめ節
    ゆべがであすだる  かんつめのあごっくゎ
    あちゃがゆねや  ぐしゅが道いじ  みそでふらそ

    かんつめや名柄  岩加那や久慈
    こいじへだてて  うむいぬくっさ

 昨夜まで一緒に遊んだかんつめ姉だったが、翌日の夜になれば、黄泉への道で袖を振っている
 かんつめは焼内の名柄(今の宇検村の集落)、岩加那は西の真久慈(今の瀬戸内町の久慈)。二人の恋路は隔てられて思いは苦しい
 ――という内容でしょうか。
 ほかにも、「女の子は余りひどくいじめるなよ、名柄のかんつめのようにむごい死に方をするから」とか、「かんつめ姉が明日死ぬという夜に、久慈の下り口にあたる佐念山で提灯のような灯があかがっていたぞ」などの歌詞もあるようです。

 そして、その碑の隣りに「碑文」の石板が嵌め込まれたもう一つの石。
 それには次のように刻字されています。

碑文
 奄美は民謡の宝庫といわれ、先人から幾千首の民謡が唄い継がれ、情緒豊かな旋律は島の津々浦々に今なお聞くことができます。
 その数多い島唄の中で、かんつめ節ほど島びとに愛唱されているものはない。
 この唄は、その昔、この地方に、主家で生涯を奴隷同様に働くヤンチュという制度があり、名柄集落のある豪農でヤンチュ娘(使用人)として仕える年のころ十九、二十歳、容姿端麗で気立てのやさしいかんつめと、久慈集落の役所に勤める歌と三味線の巧みな青年岩加那とのはかない恋物語をうたった唄で、美貌で制度の中の弱き者がゆえに周囲からねたみ、しいたげられ一人さびしく散った女心をしのび、いつしか誰とはなしに人々にうたい継がれてきた唄です。
 島唄は奄美の自然と歴史に密着し、民族文化の基盤として島びとの生活とともに生き続けてきたのです。
 このような祖先の遺産を風化させることなく未来に伝えていくことは大事なことであります。
 ここに有志の方々の心暖まる援助をいただき、名曲「かんつめ節」の碑を建立するにあたり、かんつめの魂しいに永遠の冥福を祈り、不朽の名作を記念するものであります。
  島唄愛好有志一同 宇検村  昭和59年3月30日建立

 碑文にはさらりと書かれていますが、嫉妬に狂った主人の妻が行ったかんつめに対する「いじめ」はすさまじいものがあったと聞いています。
 碑の建つこの場所は、かんつめと岩加那が逢引きしていた場所でもあるとともに、かんつめが自ら命を絶った場所でもあるのです。
 これって、沖縄の名護市源河(げんか)と東村有銘(あるめ)の間の山道にある「恥うすい坂」の逸話とよく似ています。
 現在でもヒギャ(奄美大島南部)では、かんつめの霊が出るのを恐れて、夜半にはかんつめ節は歌わないという習慣があるそうです。


 佐念山の峠から久慈へと戻り、せっかくここまで来たのだから大島の西のはずれまで行ってみようと、西古見(にしこみ)の集落を目指しました。
 久慈から花天(けてん)、管鈍(くだどん)を通って西古見へ。
 ここは夕日がきれいな場所だとのことなのだけど、夕日の時間帯にはまだかなり早い。

 西古見の中心と思しきところには、木の板に英角ポップ体で「西古見」と記された立札が立っていて、その下にはビールの瓶ケースに板を通してつくったベンチが置かれていて、なかなかいい雰囲気。
 それにしても各家の石垣がすごいぞ。サンゴを積んでつくっているようで、これがずらーっと並んでいるのは見事です。
 このようなサンゴ石垣が見られるのは奄美大島でもここだけなのだそうです。

 西古見は戦時中、大島海峡の西側入口を固めるため砲台が築かれていたそうで、現在でも弾薬庫跡などを見ることができるようです。
 このたびは戦跡関係はパスして、奄美大島カツオ漁の創始者である「朝虎松翁の碑」を探してみたのですが、下調べが足りずに発見できず。


 「朝虎松翁の碑」を探すため、西古見の集落をさらに先に進んでみたところ、左手に何やら小さな碑の建った広場を発見。ナンダナンダと興味津々で広場に車を停めて見てみると、鹿児島県議会議長の金子万寿夫が全国都道府県議会議長会の会長になったことを記念してつくられたものでした。
 帰ってから調べてみると、金子万寿夫は2014年に転身して衆議院議員となっており、ここ西古見の出身だということがわかりました。
 おれ、7年ぐらい前、全国都道府県議会議長会の会長だった頃にこの人と会っているんだよな。あの人はここの出身だったのか。

 この広場に隣接して、瀬戸内公民館の西古見分館の建物がありました。
 その庭には太平洋戦争の戦没者と漁業遭難死亡者を祀る「鎮魂之碑」がありました。
 碑に刻まれた太平洋戦争戦没者は57名。その年齢は多くが20代です。また、大正元年から昭和29年までの漁業遭難死亡者35人の名前も。記、頭、秋、勇、昇、池、福などの一字姓が多いです。

 別の石に刻まれた「碑文」には、次のように記されていました。

碑文
 私たちの祖先墳墓の地、西古見は、かつて本郡における鰹漁業発祥の地として明治大正のころ、空前の繁栄を誇っていた。
 それが陰りを見せ始め、次第に衰退の一途をたどるようになったのは、大正元年以来の数次にわたる漁船の遭難、なかんずく大正15年9月16日の台風による寶納丸と漁寶丸の遭難であった。
 この碑は、これら西古見繁栄の犠牲となり思いを懐かしいふるさとの山河と愛しい家族に馳せつつ、千尋の海原に無念の最期を遂げられた漁船員35名と、併せて民主的平和国家日本建設の礎として、太平洋戦争にその尊い生命を捧げられた西古見出身の方々57名の氏名を記し、そのみ霊を慰めるとともに後世における集落の発展をこい願い、この地に生を受けた者たちがその浄財を寄せ合って建立したものである。
  昭和60年神無月
   西古見漁業遭難者並びに戦没者鎮魂之碑建立委員会

 繁栄していたふるさとに想いを寄せる、いい碑文でした。
   akaikami.gif   chichiwa.gif

 5月のある日、沖縄関係古書をアマゾンからまとめ買いしました。
 事情があって表紙をスキャンすることができないでいたので、今頃になってのブログ掲載になります。

 その数16冊。これで当分読書が楽しめるし、何と言っても読むべき活字、書籍がしばらくの間は尽きることがないという安心感があります。
 嬉しいのはこの価格。16冊も買って、書籍代はなんと1,814円。送料を入れても5,926円なのだ。くくっ、平均1冊370円。万一つまらない内容のものが混じっていたとしても、これなら悔しくもない。
 この低廉な価格で、おれの趣味の時間はどれだけたっぷりと満たされてしまうのだろう。趣味のコストパフォーマンスという概念があるとしたら、これだけ高いレベルのものはそうそうあるものではないぞ。

 買った本は、年代順に次のとおりです。

1 いくさ世を生きて―沖縄戦の女たち  真尾悦子 ちくま文庫 1986.7 古258
2 南の島の栄養学―おいしく食べて元気に長生き  尚弘子 沖縄出版 1988.11 古258
3 父は沖縄で死んだ―沖縄海軍部隊司令官とその息子の歩いた道  大田英雄 高文研 1989.6 古546
4 おちゃめのカンヅメ―琉球放送ラジオふれ愛パレット番外編  玉城デニー 沖縄出版 1996.2 古447
5 沖縄―戦争と平和  大田昌秀 朝日文庫 1996.8 古258
6 南の島の便り―やぶれナイチャーの西表島生活誌  岩崎魚介 沖縄出版 1997.7 古537
7 沖縄八重山「星の砂」殺人  野村正樹 双葉ノベルス 2001.10 古258
8 沖縄に立ちすくむ―大学を越えて深化する知 「ちゅらさん」「ナビィの恋」「モンパチ」から読み解く〈沖縄〉の文化の政治学  岩渕功一 せりか書房 2004.3 古489
9 うちなー讃歌 沖縄の心 平和のメッセージ  外間喜明 かりゆし出版 2005 古258
10 ぼくらの秘島探険隊  宗田理 ポプラ社 2007.3 古258
11 沖縄のおもしろ看板スター―信ちゃんのTheスライド・ショー  津波信一 ボーダーインク 2009.1 古471
12 融解する境界―やわらかい南の学と思想2  琉球大学 沖縄タイムス社 2009.5 古463
13 赤い髪のミウ  末吉暁子 講談社 2010.7 古443
14 一九七五年七月沖縄旅行記  向後利昭 元就出版社 2010 古275
15 菊の御紋章と火炎ビン―「ひめゆりの塔」「伊勢神宮」で襲われた今上天皇  佐々淳行 文春文庫 2011.10 古258
16 沖縄美ら海水族館が日本一になった理由  内田詮三 光文社新書 2012.9 古449


 どおれ、時計は15時を回ったし、ぼちぼち古仁屋に戻りましょうか。
 車を来た道のほうに進め、管鈍へ。「くだどん」ねえ、面白い地名だよね。

 西古見方面から管鈍の集落に入り、その中心部を少し過ぎたあたりに「管鈍小中学校」がありました。校門にはチェーンが張られていました。児童生徒の減少により廃校になったのでしょうか。

 あとで調べてみると、2005年から休校し、2015年に廃校になったようです。
 もともとは、花天、管鈍、西古見の3集落の子どもたちの学校でしたが、学区内には学齢期の子供は一人もいず。そんなこともあり山村留学で生徒数を確保していたようで、2004年ごろには中学生が2人、小学生が5人、全員が県外からの留学生で、しかも全員が男子だったようです。
 建物は少し古いけど、立派な施設。眼前は海、背後は緑の山々が連なり、絵になるようなすばらしい環境です。

 管鈍集落の人口は30人ほどで、その大部分が60歳以上とのことです。
 かつて管鈍には400人余りが暮らしており、管鈍小中学校では120名余の児童生徒が学んでいた、との記事もありましたが、過疎化、少子化が進んでとうとうこうなってしまったのですね。