嘉渡から少し先の秋名トンネルを抜けるとそこは秋名の集落。やっと来ることができたぞ、平瀬マンカイとショチョガマの地へ。

 リサーチは十分。まずは海沿いにある平瀬マンカイが行われる場所に行ってみましょう。
 郵便局の先にある船溜まり付近から防波堤を超えて少し進むと、石板発見。ひとつは半欠け状態ですがもうひとつ同じような石板があって、それには次のように刻されていました。

国指定重要無形民俗文化財
 秋名のアラセツ行事
 秋名平瀬マンカイ保存会
 昭和61年1月12日指定
 旧暦8月上旬アラセツの夕方潮の満ち始める頃、神平瀬に女5人がのり、めらべ平瀬に男女合せて7人がのって、マンカイ祭りを行う。
 ショチョガマ祭りとこの2つの祭りを合せて平瀬マンカイと呼んでいる。
 内容は稲の豊作を願い、また豊作に対する感謝の念をこめた祭りである。
 起源は、琉球王の支配下にあった時、ノロを中心に始められたものとされている。

 ああそうなのか。「秋名のアラセツ行事=平瀬マンカイ+ショチョガマ」だと思っていたのですがこの説明によればそうではなく、「マンカイ祭り+ショチョガマ=平瀬マンカイ」なのですね。

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 で、海岸のほうを見ると、実際に祭事が行われているときの映像に写っていた岩が2つありますねぇ。
 画像に写っている手前左の岩のほうが神平瀬で、右奥の岩がめらべ平瀬でしょう。
 ここで執り行われるマンカイ祭り、白装束に身を固めたノロたちが海に向かって手をひらひらさせながら神歌をうたうシーンは原初的な厳かさがあり、一度見たら忘れられないナニモノかがあります。

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 ちなみに、近寄って見た神平瀬はこんな感じ。手前が階段状になっていて、岩の上は平ら。そうとう人の手が入ってこの形状になっているようでした。
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 ショチョガマの祭場については、たどりつくまでかなり手こずりました。
 事前情報はなく、かつて見たショチョガマの映像の記憶だけが頼りです。その時の地形と早朝の光が射していた方向などを思い出しながら、車を走らせます。
 一度は秋名の集落を出て芦花部(あしけぶ)方面の山中にまで進んでしまいましたが、こうではなかったと思い直し、再び集落の中へ。そして、とうとう見つけましたよ。執念でしょ、これは。
 簡単に言うと、秋名郵便局から南南西方向に伸びる集落内の道を200mほど進んだところになります。

 西側の山手のほうに入っていける階段の手前に、次のように書かれた看板があります。

国指定重要無形民俗文化財
 昭和60年4月20日指定
ショチョガマ祭場地
 旧暦8月最初の丙(ひのえ)の日、アラセツ行事を行う。
 この日の早朝、潮が満ち始める頃「ショチョガマ」祭りを行い、夕方の潮が満ち始める頃海岸の平瀬で「マンカイ」祭りを行う。
 この2つの祭りを合わせて「平瀬マンカイ」と呼んでいる。
 内容は、稲の豊作を願い、また豊作に対する感謝の念をこめた祭りである。
 起源は琉球王支配下にあった時、ノロを中心に始められたものとされている。

 こちらの祭りは男性中心の勇壮なもので、アラセツの日早朝に、集落南西部の田袋が見下ろせる山の中腹に築いた片屋根の藁葺小屋の上で行われます。
 屋根の上で宮司が豊作祈願の祝詞を唱え、若者たちが豊年歌を歌い、歌い終わる毎に「ヨラ、メラ」の掛け声と共に激しく小屋を揺らします。それを何度か繰り返して、太陽が東の山上に昇る直前に、完全に小屋を揺り倒す――というもの。
 その後倒れた小屋の上で、アラシャゲ踊りと今の踊りを踊り、解散となるのだそうです。

 階段を登っていった先には、祭場となる中腹の小さな平坦地(左側)。そこからは秋名の集落が一望できる仕掛けになっていました。
 うーむ、ここか。場所を見てしまうと、いつかは祭事自体を見てみたくなるもので・・・。

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kimbojinja 201605

 ある休日、天気がいいので金峯山(きんぼうさん)方面に行ってみました。
 鶴岡市青龍寺の集落から西の山手のほうに向かう細い門前の坂道を直登する形で上っていくと、金峯神社の一の鳥居がありました。
 その周辺に、粟島神社、六所神社、皇太神社などがありました。

 鳥居の手前の小さな太鼓橋の右脇にあった、文字が消えかかった案内板を移記。

国指定名勝 金峯山   所在地 鶴岡市大字青龍寺字金峯
 金峯山は、庄内平野の南縁にそびえる海抜458メートルの四季それぞれの風趣に秀でた名峰である。
 山麓は第3紀水成岩であるが、山腹以上は花崗岩からなり、巨樹老木に覆われ、山頂からは鳥海山、出羽三山、日本海の遠望、また樹間から見下ろす広々とした美田とその中に点在する集落などの景観はまことに壮大なものがある。
 金峯山の歴史は古く、天智天皇の時代(西暦671年頃)、役の行者が山頂に金剛蔵王権現を祀ったのが始まりといわれ、金峯神社には多くの文化財が伝えられている。
 また、山中には、ここが北限といわれている鳥「仏法僧」をはじめ、珍しい動植物、昆虫等が生息しており、金峯山博物館にはれら多数のはく製や標本が保存展示されている。
 指定年月日 昭和16年4月23日

 また、鳥居の左脇には「金峯山の由緒」が次のように記されていました。

 第38代天智天皇の10年(670)、役の小角の開基といわれ、金剛蔵王権現を祀る。
 大同年間(806~810)に山頂に本殿を創建、蓮華峯(八葉山)と称し、修験道の霊地として多くの崇敬厚く、延暦20年(801)坂上田村麻呂東征の時戦勝を祈願し、度々の奇瑞があり、勝利を得たと伝えられる。
 第72代白河天皇の承暦年間(1077~1081)に大和国宇多の城主丹波守盛宗がこの地に移り、自分の氏神であった吉野の金峯山から分霊を勧請し、金峰蔵王権現を祀り、山名を金峰山と改む。
 大国次郎秀衡の代になって、久安6年(1150)飛騨の工匠を招き、金峰山本殿を造営する。
 応永年間(1394~1428)楠正成の子、正儀の長子楠正勝、傑堂能勝と号し、当地金峰山麓(高坂)に洞春院を建立し、奉持せる後醍醐天皇の御震筆蔵王大権現の尊軸を奉安する。
 さらに慶長13年(1608)最上義光は志村伊豆守光安、下対馬守秀久に命じ本殿を大修復し、社領寄進する。
 降って歴代酒井藩主も社殿を修理し祈願所とした。
 明治9年(1876)県社に列し、昭和16年(1941)に国の名勝地に指定、昭和27年(1952)別表社となり現在に至る。

・・・ああ、難しい。

 一の鳥居の近くには、樹齢400年という県指定天然記念物の「金峰の大ふじ」の木も。
 この場所から山をさらに2キロほど登っていったところに博物館や本殿があるのですが、こちらのほうは行ってみたけど佇まいに古典的なところがなく、スルーです。

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shouryuji33 201605

 金峰山方面に行ったのは、そこに庄内三十三観音第33番札所の金峰山青龍寺があるから。
 これで35寺中29寺め。

 この寺も神仏分離の時代に金峰神社と明確に分離されたもののようで、神社の一の鳥居と道路を挟んで反対側のほうに建っていました。
 本堂の入り口の天井近くには、往時金峰山を訪れた人々の様子が描かれていたりして、修験の色彩が残っている様子。残っている墓もそうとう古いものが多いようでした。

 本尊は、慈覚大師が金峰山の中腹に中堂を建立した時に安置した如意輪観音なのだそう。
 元禄12年(1699)に真言宗に転じ、当時は数寺の末寺を有する本寺格だったとか。
 ま、これといった見るべきものはなかったですかね。


 秋名をあとにして次に向かったのは、県道81号を名瀬方面に向かう途中にある芦花部(あしけぶ)集落。ここは奄美大島としては珍しく海に面していない山あいの集落です。
 ここには「芦花部一番バア加那の碑」があるのです。バア加那は、奄美民謡「芦花部一番」に歌われる伝説の人物で、生まれついての美貌と集落を流れる川の清らかな水に磨かれた気高さは島中に知れ渡っていたとのこと。
 ささ、17時を過ぎた時間となったので、少しスピードアップしないと。

 県道沿いに看板があるというのでそれを探しながら走ると、集落を通り過ぎてしまいました。あれぇ、大きい看板と聞いていたのだけどな。
 で、集落中心部付近まで戻ってみると、「芦花部一番バア加那の碑」と書いたものであろう案内板を発見。半分壊れているので見落としてしまったようです。

 看板に従って小道に分け入ると、「→ようこそ 芦花部一番の碑 民謡のふるさと」と手書きされた赤い案内標識がいくつかあり、それに従って進んでいくと、Uターンできないどんづまりに入ってしまいました。ありゃりゃ。でも、そのすぐ先が碑の場所でした。

 碑には、中央に「芦花部一番伝説の碑」と記され、その左右に芦花部一番の歌詞が刻まれています。

  あしきぶいちばんやウントノチノバアカナ  コバヤいちばんや さねくコバヤ
  ウントノチバアカナや しろご水ごころ  さりくちゅぬかずに しのばれて

 芦花部で一番の美人は御殿地のばあ加那だ。小早船で一番早いのは実久(さねく。加計呂麻島)の小早船。
 御殿地のばあ加那は白川の水のような清い心を持ち、往来する人々に偲ばれる。――の意。

 碑の裏にはなにやらたくさんの文字で碑文が刻まれています。あまりに細やかなのでこれをその場で読み解くのを断念したのですが、ウェブ上に書き写したものが出ていたので、それを以下に引用しておきます。

 伝説の主人公バアカナは今から凡そ300年前、この下のウントノチという屋敷に住んでいた。
 生れついた彼女の美貌は由緒あるこのしろご水によって愈々磨かれて、美人ウントノチバアカナの名は島中に知れわたっていた。
 その頃島中の村々は上納の品を代官仮屋の所在地赤木名へ運び届けるのであったが、或る日この上納を済ませて帰路についた瀬戸内の村々のコバヤ(大板付舟)は一斉に赤木名の浜を乗り出した。一緒に乗り出した舟は自然競漕となり、それまで一番になっていた実久のコバヤは芦花部の沖合にさしかかると、誰いうともなくこの機会に音に聞くウントノチバアカナを一目見て帰ろうということになり、芦花部に上陸して望みをかなえた。
 然し途中このようなみちくさを食いなからも、実久のコバヤは瀬戸内の海に入るときには再び一番になったという。
 また当時ウントノチは龍郷方面への道端で、通りかかりの旅の若衆はバアカナ見たさに水を欲しいとの口実で彼女の家に立ちより旅情を慰めていたという。
 これらのことが表面の歌詞となり、民謡「芦花部一番」としてうたい継がれているものである。
  昭和48年1月  芦花部老人クラブ しろご会

 なるほどなあ。
 碑の脇にある小さな沢の流れが「白川」なのでしょう。また、上納のために加計呂麻からやってくる舟々の当時の様子がイメージされます。
 このシマウタもまた、沖縄本島チックな女性を愛でる唄。奄美のこのあたりの人々も実はずいぶん明るいのですな。

 碑の右後ろの小さい碑には短歌。
  そてつ粥 食べし代は古り 豊の秋   ゆうこ
 これがなぜここにあるかなどの来歴はよくわかりません。

 狭いところをゆっくりバックして戻ります。軽自動車でよかったなー、普通車なら無理だったかもな。
 集落内にはばあ加那の住居跡があったようですが、急いでいたのがよくなかったのか見落としてしまいまったのは残念です。


 名瀬の有屋地区にある「田中一村終焉の地」を見て、この日の見学ツアーを締めることにします。
 ナビを「奄美市名瀬有屋町38-3」にセットして、山がちな県道をさらに名瀬方面へと進みました。
 「日本のゴーギャン」の代名詞で語られる画家・田中一村が生涯を終えた古い家が保存されているところです。
 田中一村の終焉の地については、「日本のゴーギャン 田中一村伝」(南日本新聞社編、小学館文庫、1999)や「田中一村 豊饒の奄美」(大矢鞆音著、日本放送出版会、2004)などを読んで、文章的には知っていますが、現地を訪れるのは初めてです。

 「田中一村終焉の家」と書かれた道案内板を左折し、緩い坂を少し登った住宅地のはずれの山の麓に、その場所はありました。今でもどんづまりの地なのですから、彼が生きている頃であればむしろ「山奥」と言っていいような場所だったのではないかと思量します。

 建物自体も掘立小屋に毛が生えたようなつくりのもの。よく今まで保存できたなと驚くようなシロモノです。この縁側に、ランニングシャツ1枚の一村が座っていたのでしょう。大島紬の工場であえて季節労務に携わり、仕事をしない時期をつくって絵に打ち込みながら、とても質素に暮らしていたと聞いています。

 入り口側にある「田中一村の生涯」の石碑には、次のように記されていました。

 本名、田中孝。明治41年7月23日、栃木県下都賀郡に生まれる。幼い頃から画才を現し、7歳のとき児童画展で文部大臣賞を授賞する。
 大正15年東京美術学校(現東京芸大)に入学し、日本画科を専攻、同期に日本画壇の主流を歩んだ東山科魁夷らがいた。しかし入学後間もなく諸々の事情が重なり、わずか3ヶ月で中退した。
 昭和13年、東京から千葉に移住、その間、襖絵や天井画の作品を描く。
 昭和22年、第19回青龍展に「白い花」を初出品し入選したが、以後画壇との接触を断ち、絵筆一本の放浪の旅に出る。
 昭和33年の暮れ、奄美を訪ねた一村は、ここを終生の地と定め、大島紬の染色工として働きながら、亜熱帯の野性的な植物、原色調の魚類、動物等を20年にわたる創作活動のモチーフとして約30点の作品を残し、昭和52年9月11日、69歳で孤高の生涯を閉じた。
 昭和59年12月9日、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜―異端の作家田中一村」と題して、一村の画業が全国に紹介され大きな反響を呼び、翌年1月、同番組としては異例の再放送となった。亜熱帯の植物群を画面いっぱいに、しかも細密に描かれたその作品は独特な幽玄さを秘め、今も多くの人々を魅了してやまない。
  名瀬市紬観光課
   贈 国際ロータリー 第2730地区
     名瀬中央ロータリークラブ創立20周年記念事業  平成11年4月24日

 およそ20年で作品30点とは寡作かなとは思いますが、作品に注ぐ意欲は強いものがあったようです。
 この旅の最終日に「奄美パーク」で15年ぶりに一村作品の集大成を見ましたが、「初夏の海に赤翡翠」と「アダンの海辺」には鬼気迫るものを感じました。


 奄美大島名瀬の2晩目は、ヤンゴの本通りから通り1本半ほど離れたところにある郷土料理店「味のより道 誇羅司屋(ほこらしや)」にしてみました。
 洒落た店のつくり。昨晩訪問した「脇田丸」よりも一回り上をいく、つまりは高級感のやや高い感じの店でしょうか。

 入ると元気のよい若者が応対してくれて、さっとカウンター席に案内してくれます。ナルホド、一枚上ですねえ。
 まずは煮込み、それに昨晩ありつけなかった赤ウルメの唐揚げを所望。あります!とのこと。ほーら、やっぱり一枚上だ。(しつこいって、笑)

 生ビールでお通しと煮込みを味わっているうちに赤ウルメが登場。カリリと揚げられていて、頭のごく一部以外はあらかた食べつくすことができそうです。こうなるとアルコールも進み、黒糖焼酎「れんと」の水割りも頼んでくいくいっと。

 黒糖焼酎での締めはやはり刺身でしょ。盛り合わせで度数高めの「長雲」をもう一杯だ。
 嬉しい悲鳴は刺身盛り合わせが質・量ともにゴージャスなこと! 思わず「これで一人前!?」と驚いてしまいました。
 昨晩と同様、ソデイカ、シマダコ、シビ、ハマチ、それにサーモンが加わって、見た目もぐっとグレード感あり。ツマも新鮮でおいしくいただけました。1,200円。

 いやぁ、納得。昨晩よりも少々値が張って4,160円でしたが、満足度は値段相応もしくはそれ以上でした。
 もっとここで寛いでいたいけど、腹も張ったし、ぼちぼち引き上げるとしようか。
 滞留時間1時間半余。20時半前にはホテルへ。お利口さんな夜だ。


 旅の3日目となる5月5日は、朝7時に起床。その朝、ホテルの部屋から見たヤンゴ通りです。
 通りに架かるピンク色のアーチの先がいちばんの繁華街で、それより北東に位置するこの辺りはホテルが多く立ち並ぶところになっています。

 泊まったのはホテルニュー奄美。
 眼下に見える2階建ての建物は「たつや旅館」。もっと古い建物だったように記憶しており、15年前はここに出入りする一人旅風の人々が多く見られたものですが、今はどうなのだろうな。
zempoji soumon 201606

 龍澤山善寶寺に行ってきました。
 庄内地方の城下町鶴岡市北西に位置し、およそ1100年の歴史をもつ大祈祷道場です。
 海の守護・龍神様の寺として北海道、東北、北陸をはじめ全国に多くの信者を有し、特に漁業関係者から絶大な信頼を得ているそうです。
 山門、五重塔、龍王殿などの伽藍は壮大。見るものすべてがデカくて、それらが1か所にまとまってあるあたり、値打ちのある寺だなと思わせるに十分です。この価値をもっと多くの人たちに知られてもいいはずだと思うのだけど、どうなのでしょう。

 見るべきものはいろいろあるけど、まずは「総門」。
 門の右手に「藤沢周平 その作品とゆかりの地」という立て看板があり、次のように記されていました。

龍を見た男 龍沢山善宝寺
 ――何かが、いる。
 と思ったのは、おりくの後から歩き出そうとしたときである。源四郎は立ち止まった。自分の顔色が変わるのがわかった。池の、青みどろに隠れた深みの底あたりに、何かがいた。源四郎の20数年にわたる漁師としての勘が、その気配を掴んでいる。それは魚ではなかった。もっと巨大なものの気配だった。
 「あんだ、何してっどご?」
 訝し気なおりくの声に、源四郎は慌てて歩き出した。初めて心の中に懼れのようなものが生まれていた。

 この総門を潜れば、左手に五重塔、右手には五百羅漢堂、そして正面には山門が、それぞれそびえています。
 ここで、善寶寺をご紹介。

 その昔、平安時代の頃に「法華験記」や「今昔物語」にも見える妙達上人という高僧がこの地にわたり、草庵を結び、名付けて「龍華寺」としたのが善寳寺の始めです。
 そして、室町時代に曹洞宗の太年浄椿(たいねんじょうちん)禅師に至り、寺屋を建立、山号を龍澤山、寺号を善寳寺と改められました。
 その後、歴代住職は寺門の興隆に尽力し、江戸時代中期、第20世霊感応伝(れいかんおうでん)大和尚の代には本堂庫裡等の整備がなされ、今日の基礎が築かれました。
 更に第26世大雲祥嶽(だいうんしょうがく)大和尚の代に至り、北廻り航路の発展と共に善寳寺の信仰は一段と広まり、明治時代に入り、第33世月円禅山(げつえんぜんざん)大和尚の代には、漁業関係者の発願による我が国唯一の「魚鱗一切の供養」の五重塔が建立され、現在の偉容が整いました。
 現在、平成の世になりましても、善寳寺は日本有数の大祈祷道場として龍神様の霊験新たかに、いまなお多くの人々の信仰を受けています。 (善寶寺のホームページから引用)

zempoji sammon 201606

 で、山門(三門)。

 文久2年(1862)33世水野禅山方丈代に再建。
 総欅造り、銅板葺きの楼門です。
 楼上には、正面に「宝冠釈迦如来」、両脇には「十六羅漢」を安置。
 上部に高く掲げられている「龍澤山」の大扁額は、郷土の傑僧興聖老卵の麗筆です。
 又、二大尊天である「毘沙門天」を右に、「韋駄天」を左に配し、土地建物の守護と法食常転を求むる為に安置。
 この山門は地元名工の剱持嘉右エ門(藤吉)が棟梁として正面円柱の唐獅子の彫刻をてがけ、後方の唐獅子は、弟である奥山富五郎の作であり、互いに技を競った力作であります。――とのこと。

 なるほどなあ。解説付きだといろいろわかって面白い。

zempoji bishamon 201606 zempoji idaten 201606
毘沙門天像(左)と韋駄天像。

 「毘沙門天」を右に、「韋駄天」を左に・・・か。
 山門には普通なら仁王様がいるものなのだけどな。

 と思っていると、2像の前には種明かしとなる文が添えられていました。

毘沙門天
 仏教では人々を守る四天王の一神であり、中国の甲冑装束を身にまとい、左手に宝塔、右手に三叉の槍を持ち、古より軍神として武士の厚い信仰を得ている神様です。
 日本では我儘増長の心を戒める七福神の一神となっております。
 山門には通常、仁王像が安置されることが多いのですが、善寶寺の山門を守るこの毘沙門天様と韋駄天様は、もとは羽黒山におりました。
 明治元年に廃仏毀釈を逃れて善寶寺に安置され、山門の守護をしていただいております。

 ほーらなっ。明治元年。廃仏毀釈を逃れて。羽黒山からねぇ。

韋駄尊天
 禅宗ではお寺の玄関に安置されることが多く、伽藍(建物)を守護する神様です。
 昔、悪魔がお釈迦様の遺骨(仏歯)を奪い去った時、即座に走って取り返したことより、走る神、盗難除けの神とされております。足の速い人を、「韋駄天走り」とよく言うのはこのためです。
 また、韋駄天様がお釈迦様のためにあちこちを駆け廻って食物を集めたことに由来して「御馳走」という言葉の語源になったとも言われています。
 善寶寺では山門と受付前に2体の韋駄天様がおり、毎朝炊き上がったご飯を献じ、読経をしております。毎月5日が韋駄天様のご縁日です。



zempoji 5junotou 201606

 羽黒山の五重塔も幽玄で立派だけど、善寶寺の五重塔だって立派だぞ。

 「魚鱗一切」の大供養塔として明治16年(1883)、33世水野禅山方丈の発願により、建立に着手。
 10年後の明治26年(1893)34世禅法方丈代に落成。
 高さ38メートル余、総欅造り、銅板葺きの大塔です。
 内陣壇上の御仏体は、正面「釈迦如来」、東方「阿閦如来」、西方「阿弥陀如来」、南方「宝勝如来」、中央金色円柱は「大日如来」を擬して仏の五種知慧「五智」を現しています。
 外部には西遊記で知られる三蔵法師、深沙大将、又、十二神将が四方に彫り込まれています。
 この大寶塔は、善寶寺守護両大龍王尊霊場の象徴となっています。

zempoji sanzou 201606

 この五重塔、建築物としても価値あるものなのでしょうが、まわりに施されている彫刻がすごい。
 これが三蔵法師の彫り物で、実に精巧。百年以上も前に彫り込まれた「外壁」の彫刻が、よくぞ今までご無事で残されたものだと驚いてしまいます。
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 五百羅漢堂もすごかった。

 安政2年(1855)32世月巌不傳方丈代に落成。
 赤瓦葺入母屋の大屋根にて総欅造りの伽藍です。
 内陣正面には「お釈迦さま」、向かって右に「文殊菩薩さま」、左に「普賢菩薩さま」を拝し、「釈迦三尊」と称しております。
 釈迦三尊仏の前の10体のお仏像さまは、十大弟子と申し、他に6人の弟子を加えて「十六羅漢」と呼び、更に484人を加えて、古来より亡き人を偲ぶ「五百羅漢さま」と言われています。
 この五百羅漢と建物は、北海道元松前郡福山の豪商、伊達林右エ門、栖原六右エ門両家にて寄進されました。
 当時の北前船航路による交流と繁栄が偲ばれます。

zempoji 500rakan2 201606

 ひとつとして同じ顔がない――ということで、どれもこれも表情が豊か。
 これらの7割ぐらいは修復が必要だそうで、これから東北芸術工科大学の協力を得てとなりの三十三観音堂に運んで修復作業をすることになっているとのことでした。


 旅の3日目は、大島を南下して瀬戸内町古仁屋へと向かう間に所要のスポットを見て回るという計画。
 まずは、名瀬市内で見落としていた島尾敏雄の文学碑と旧居を押さえておこうか。

 これらは名瀬を南方面に向かう際に通るR58の古田町交差点近くにあり、その交差点から左に折れて川に架かる橋を渡ってすぐだというふうに聞いていたのだけど、なかなか見つけられません。
 何度か行きつ戻りつして、なぁんだ、ここかぁというようなところにそれはありました。どうしてこれが目に入らなかったのだろうな。

 道路の向かいにある「小俣町集会所」に車を停めさせてもらって、まずは文学碑。
 道路からポケットパーク状のスペースに入る手前に案内板があり、その先に「島尾敏雄文学碑」と刻まれた石碑と、「病める葦も 折らず けぶる燈心も 消さない  島尾敏雄」と刻まれた石碑がありました。文学碑というのは後者のほうで、島尾が書き残した色紙の句なのだそうです。

 案内板を移記しておきます。

島尾敏雄文学碑案内
 作家島尾敏雄氏は、昭和30年3月、東京からミホ夫人の故郷奄美大島に移住してきた。
 昭和33年4月、鹿児島県立図書館奄美分館設置に伴い、分館長に任命され、分館敷地内の官舎に、昭和50年3月、退職まで××年間住んでいた。そして、「名瀬だより」をはじめ、「日の移ろい」(谷崎潤一郎賞受賞)、戦後の名作といわれる「死の棘」(日本文学大賞、芸術選奨受賞)、随筆「離島の幸福、離島の不幸」、その他多くの作品を執筆、出版したのである。
 また、歴史家として、「奄美郷土研究会」発足させて育て、さらに南島の視点から日本の通史を見直した。「ヤポネシア」の概念に基づき、「ヤポネシア序説」等を出版し、琉球弧の存在価値の認識を広めた。
 昭和56年に日本芸術院会員に推挙された。
 昭和61年11月12日、鹿児島市の自宅で病に倒れ、鹿児島市立病院でご逝去された。享年69歳。
 ここに島尾敏雄氏の奄美在住20年における、奄美と名瀬市に対する文学や史論文化論のご功績を讃え、島尾氏が書き残した色紙の句(「旧約聖書」第2イザヤ書の類句)を文学碑にしるして記念とする。
  平成5年11月12日
  島尾敏雄文学碑建立実行委員会

 建立は、島尾の満7年、8回忌の日。
 「××年間」と数字が消されているのは、分館長任命の昭和33年からではなく、昭和40年からの10年間を過ごした官舎だったからのようです。
 島尾は昭和31年に名瀬聖心教会で洗礼を受けています。

 なお、現在の「鹿児島県立奄美図書館」は、R58古田町交差点の名瀬市街寄り、奄美高校の並びに建っています。平成21年に移転したようです。
 また、この文学碑はもともと名瀬市井根町(現奄美市名瀬井根町)、つまりは奄美市役所や大島支庁があるあたりにあった旧図書館の敷地内に建っていたものをこちらに移設したようです。
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 鶴岡市三瀬にある気比(きび)神社を見てきました。

 はじめは裏口に当たる山側からアプローチ。
 神社の社叢は国指定の天然記念物になっています。しかし近時、その山の木々が枯れ始めていて、それは何十年か前、海側から吹く強い風を遮っていた保安林を解除して伐ってしまったことが遠因だという人もいるので、現場を見に行ったわけなのです。

 過去の栄華が偲ばれる立派な伽藍配置。しかしうら寂しいので、表のほうからも見ておこうじゃないかと、いったん車に乗って山の南東側に回ってみました。
 で、写真のこちらが表側。なかなか立派な神社ですよ、これは。

 「気比神社社記」の看板があったので引用しておきます。

気比神社社記
 上代より気比台池畔に保食(うけもち)大神、鎮座あり。
 後元正天皇霊亀2年(716)、越前国敦賀の気比神社より七座を此の地に勧請。上代よりの古社を摂社とし、祭神は七座五社27神を祀っている。
 社殿の造営は天文9年(1540)、尾浦城主武藤氏の武将高坂中務(なかつかさ)時次等、領内に奉加を令して之をなし、現在の本社殿等は宝永4年(1707)、庄内藩主酒井公の寄進並に御郡中の奉加及び氏子の寄附により造営され、世の興亡変伝にかかわらず領主、氏子の尊崇厚く、廃藩置県後明治9年(1876)、縣社に列せられ、例大祭は4月12日、県内外の崇敬人多く、境内約3万坪、本社の奥100米余の処に神池あり。周囲約900米、旱雨により涸溢(こいつ)なく、深浅測るべからず。
 原生の老樹池に影を映し、幽遂神秘時に山禽来って静寂を破る。境内に松、榊、白樫等有形文化財始め百種以上の樹種あり。
 旧社殿跡に源義経公の遺跡あり。又指呼の間、葉山中腹に義経記の薬師神社跡がある。
 羽黒旧記因由の八乙女神社、籠穴は葉山のかげ海に臨むところにあり、舟で詣ずることができる。

 うーむ、文語チックな文章で、途中から句点がなくなる。なので、引用に当たっては勝手に句読点を補っておきました。

 神社前の広場にある立派で新しめの「慰霊の碑」は、戦没者の名前が並ぶものの、なぜか戦後35年経った昭和55年の建立で、時代的にマッチしないような気がするのですが、どうなのでしょう。
 なんと、当時の内閣総理大臣鈴木善幸の書。うーむ、この脈絡にどういう背景があるのか、興味深いところデス。


 島尾敏雄文学碑のある場所の並びに、島尾敏雄の旧居がありました。
 こちらは田中一村の終焉の住まいとは異なり、まだ使えそうなぐらい立派です。平屋の白壁、平屋根は沖縄の外人住宅を思わせます。

 こちらにも別の説明板がありましたので、以下に移記しておきます。

島尾敏雄旧居・文学碑案内
 この建物は、作家・島尾敏雄さんが昭和40年から昭和50年4月に指宿市に転居するまでの10年間をすごされた、鹿児島県立図書館奄美分館長官舎です。
 奄美分館の機能が奄美高校敷地内に新設された鹿児島県立奄美図書館に移ったことや、すぐ横の道路の新設にともなって、当初はこの官舎はとりこわされる予定でしたが、奄美市の英断によって保存されることになりました。
 その維持管理を奄美市から委託されることになったNPO法人島尾敏雄顕彰会は、この由緒ある建物をできるだけ当時のままに再現し、ご一家の生活の息吹きを感じられる施設にすべく努力しています。
 隣接する文学碑は、島尾敏雄さんの奄美在住20年における、文学・史論・文化論等のご功績を讃え、島尾敏雄文学碑建立実行委員会によって建立されたもので、8回忌にあたる平成5年11月12日に除幕式がおこなわれました。
 碑文は、島尾敏雄さんの自筆の色紙の一文「病める葦も折らず、けぶる燈心も消さない」(「旧約聖書」第2イザヤ書の句)を写したものです。
  島尾敏雄文学碑建立実行委員会

 考えてみると、公務員が住んでいた官舎そのものが観光地になるなんて、ほかではなかなかないのではないかな。自分の家でもないわけで。
 これにて名瀬を離れ、南の古仁屋に向けてクルマを進めます。
 名瀬からのR58はずっと山道で、途中住用町に入ってからいくつかの小集落はありますが基本スルーで、車の流れも大型トラックなどの低速車と遭遇しなければ快適に走ることができます。

 瀬戸内町の行政域に入ってすぐに、ナビには網の子バイパス及び長い長い網の子トンネルという15年前にはなかった新道が現れましたが、その手前から旧道に折れ、「嘉徳」の集落を目指します。

 嘉徳は、奄美シマウタ「嘉徳なべ加那節」の発祥の地であり、そこには唄の舞台になった静かで美しい海岸があるとのこと。
 また、嘉徳は奄美の唄者元ちとせの故郷でもあります。元ちとせは高校生のときに「嘉徳なべ加那節」を唄って奄美民謡大賞を受賞しています。
 15年前にも行こうかと考えたのですが、なにせ悪路をかなり先まで行かなければならない陸の孤島のようなところのため、ついでに寄るなどということはできず、断念したのでした。

 しかし今回は満を持しての訪問。R58から分け入った細道は「林道嘉徳青戸線」。舗装されてこそいますが、幅の狭い、アップダウンのきつい道です。これをずんずん進んで、集落に到着です。ここまで名瀬から約1時間。思いのほか早く着いたという印象です。

 ここで、「嘉徳なべ加那節」を紹介しましょう。

  ♪ 嘉徳なべ加那や 如何(いきゃ)しゃる生まれしちが
        親に水汲まち いちゅて浴めろ
    嘉徳なべ加那が 死じゃる声聞けば
        三日(みきゃ)や白酒(みき)造て 七日遊ぼ
    嘉徳浜先に はえる美麗(いちゅ)かずら
        はえ先やねらん もとにかえろ

 一読すると、「嘉徳なべ加那という女は何と親不孝な生まれをしたのだろう、大切な親に水を汲ませて平気で浴びるとは。親不孝者のなべ加那が死んだという声を聞いたら、三日のあいだは白酒を作ってお祝いをして、一週間のあいだ歌三味線で喜んでやろう。嘉徳の浜に、這っている磯かずらはあたり一面にはびこって、もう這い先もなく、もとに帰るよりほかはない。」――というように解釈でき、なべ加那はとんでもない親不孝娘のように感じられます。
 しかし近時は、「なべ加那は天女にも比するほど気高く美しいノロとして神格化され崇拝されていたので、両親も神に仕えるように水を汲み、人の目をはばかって水浴させた。「如何しゃる生まれ」は「どのようにしてあのように神高く美しく生まれることができただろうか」という羨望と賞賛の意が込められている。なべ加那の黒髪は長くて始末に困るほどで、高倉に横たえた竹竿に髪をのせて梳き、結いあげなければならなかった。」――というまったく逆の捉え方もされているようです。

 たどり着いたのは、マイクロバスが方向転換できるかどうかの小さな広場。そこには「嘉徳」と記されたバス停があり、海岸に出られる小道が一本。まわりは3方が山、東側だけが浜です。
 自分は静かな集落に突然訪れた闖入者デアルという感じがしないでもないですが、無体なことは何もいたしませんから、どうぞ拝見させてくださいね。



 車をその広場とも言えないようなところに停めさせてもらい、嘉徳海岸へ。
 護岸のための人口構造物はほとんどない、湾曲した海岸線が美しい。砂の色は、沖縄と違ってややグレーです。
 これだけ広い海岸線に自分以外の人間は誰もいないという、一種すごい贅沢さ。反面、表現するのが難しいような孤独感と得体の知れない喪失感のようなものがないまぜになります。
 かつてはここにもたくさんの住民がいて、浜には漁労をする人々がいて、歌垣があり、元ちとせなんかもこの浜で遊んでいたのだろうと思うと、「限界集落」という言葉が脳裏をよぎります。
 すばらしくいいところなのに、そこからは人がいなくなっていくという現実。人がいなくなれば、そのあとには旺盛な自然の繁殖力がはびこってくるのでしょう。
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 愛用していたビジネス用のブリーフケースがずいぶんくたびれてきていて、少し前にはとうとうカブセの留め金のバネがいかれて、フタが開いたままの状態になってしまいました。革もだいぶそじているので、新調すべきだろうと思っていたのでした。

 「買い」の条件は、革製、A4サイズ書類が収納できる、底の奥行きが薄い、手提げカバンでクラッチバッグ的な使い方もできる、軽い――など。今使っているものとスペック的には変更がない、ということなのだけど。

 実際にかばん屋に赴いて探してみると、そういう形のバッグはどこも置いていないということがわかった。
 それではとネットで探すも、やはりズバリの条件ヒットはないものなのだな。

 で、あれやこれやと悩んで決めたのがコレ。
 合皮なのだけど、それ以外はすべて条件的に適合。というか、このぐらいの妥協をしないとしっくりくるものはひとつもないのでした。

 奥行き6センチというところが購入の決め手。べつにたくさん入らなくても、何かのときに使える入れ物を持っていることが大事なのだ。日々の荷物に弁当を入れようとか、たくさんの書物や資料を入れて持ち歩きたいとかは思わないもので。

 毎日酷使することになるので、雨や油や埃などの影響を受けにくい合皮がむしろ正解なのかもしれません。
 飴色に焼けたようなビターな感じのある色合いもグー。
 メイン収納にはジッパーポケット、携帯電話ポケット、カードポケット、ペン指しがついており、外側背面にもジッパーポケットがあって、収納に便利そう。

 MARCEL ORIVIER というブランドの、日本製。これにプレゼントのペンケース(合皮)が付いて税込み9,612円。さらに楽天ポイントが10倍の960ポイントというのだから、欲しい品物に安価にて巡り合えた自分としては非常にウレシイのだった。

 で、その商品が本日手元に届いたので、さっそく包装から出して、ウレシサ余って写真を撮ったというワケなのです。(笑)
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 初夏のある日、鳥海山大物忌神社の吹浦口ノ宮に行きました。
 まずは、二の鳥居の脇にあった木製の看板に「由緒」が書かれていましたので移記。これは2011年3月に、NPO法人遊佐鳥海観光協会が復元設置したもののようです。

出羽国一之宮 鳥海山大物忌神社 由緒(略誌)
御祭神  大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神) 月山神(月読命)
由緒  社伝によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と伝えられている。鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の2ケ所に鎮座する。
 大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。
 中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年(1871)5月吹浦口ノ宮が国弊中社に列したが、同13年(1880)7月に山頂本殿を国弊中社に改め、同14年(1881)に吹浦・蕨岡の社殿を口ノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。
 昭和30年(1955)に3社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年(1997)に造営された。
 平成20年(2008)には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が国の史跡に指定された。

 ふーん。出羽国の一之宮で、歴代天皇や時代の武将などが崇敬したと。そして、中世以降の権現信仰の時代を経て、明治維新の神仏分離令以降は神社なのね。


 次は、下拝殿のある広場に遊佐町教育委員会が立てた「鳥海山大物忌神社の吹浦口ノ宮境内」の金属製看板の内容を引用。

鳥海山大物忌神社の吹浦口ノ宮境内  平成20年3月28日
 鳥海山(標高2,236m)は、その山容の秀麗さから「出羽富士」とも呼ばれる信仰の山で、古くより、人々はこの山そのものを「大物忌神(おおものいみのかみ)」として崇めてきた。
 大物忌神の文献上の初出は、「続日本後紀」の承和5年(838)5月11日条「奉授出羽国従五位勲五等大物忌神正五位下」という記述である。朝廷は大物忌神を国家に関わる重要な出来事を予言する神、そして、祭祀を疎かにすると、噴火鳴動する恐るべき神として認識していた。
 延長5年(927)に、大物忌神は吹浦で並祀される「月山神(つきやまのかみ)」とともに「名神大(みょうじんだい)」となり(「延喜式神名帳」)、その神階を「正二位」にまで高めた。

 現在、鳥海山大物忌神社が鳥海山祭祀の中心的存在となっている。この神社は、鳥海山山頂の「御本殿」、そしてふたつの里宮「蕨岡口ノ宮」・「吹浦口ノ宮」の3社で構成される。とくに吹浦口ノ宮は、古代から鳥海山の神「大物忌神」と月山の神「月山神」を主祭神としてきたことから、「両所宮」と呼ばれてきた。この「両所宮」には、中世の鳥海山信仰の様態を示す貴重なふたつの文書(いずれも国指定重要文化財)が伝わっていることで知られる。

1 鎌倉幕府奉行人連署奉書
 承久2年(1220)に鎌倉幕府執権北条義時の命に基づき、藤原氏と三善氏が連名で北目地頭新留守氏に送った書状で、庄内地方最古の文書とされる。
 この書状は承久元年(1199)に発生した将軍源実朝の暗殺事件の影響で両所宮の社殿の造営作業が遅滞したが、これを速やかに行うよう北目地頭新留守氏に催促するものである。
2 北畠顕信寄進状
 正平13年(1358)に、南朝の重臣北畠顕信が天下再興と奥州の平安を祈願するために、由利郡小石郷乙友村(現在の秋田県由利本荘市)を「出羽国一宮両所大菩薩」に寄進したことを示す文書である。「両所大菩薩」とは、大物忌神の本地仏にあたる薬師如来と、同じく月山神の阿弥陀如来のことを意味する。

 中世に入ると、修験者たちは鳥海山山麓周辺に定着して修験集落を形成し、近世期以降、これらは鳥海山参りの拠点(登拝口)として機能するようになる。近世の吹浦には25坊・3社家・1巫女家が存在し、これらの修験世帯の人々が「両所宮神宮寺講堂」(現在の吹浦口ノ宮)で鳥海山祭祀を行った。彼らが継承してきた修験道の年中行事は明治初期の神仏分離を契機に、「管粥(くだがゆ)神事」(1月5日)、「大物忌神社例大祭」(5月4、5日)、「月山神社例大祭(御浜出(おはまいで)神事・玉酒神事)」(7月14、15日)として神式で執行されるようになり、今日に至っている。

 本境内の一ノ鳥居と二ノ鳥居をくぐり、参道を進むと右手に拝殿がある。これは桁行7間(約16.8m)、梁間5間(約9.4m)の豪壮な社殿である。さらに約百段の石段を登ると「大物忌神社」と「月山神社」の両本殿が並び立っている。5月4日の例大祭宵宮には、この両社の前で「吹浦田楽」(山形県指定無形民俗文化財)の花笠舞が奉納される。宵宮においては花笠を山吹や八重桜の生花で彩るが、5日の本祭りでは鮮やかな赤い造花を装飾に用いる。このように、本境内は、古代から現代に至るまでの鳥海山信仰の歴史・文化を伝える重要な史跡となっている。


 少し長いですが、概要がよくわかります。
 「吹浦田楽」が見たくなりました。

 その隣には新しい石碑。やや場違いではないかとも思えますが、いちおう碑文を移記しておきましょう。

故郷への報恩
 酒田市楢橋に新田家第17代当主として生を受け、若い頃、日本人の食を見つめ直し、養豚業に着手、平田牧場を創設し、苦心の末、日本一の三元豚を誕生させ、食肉の生産・加工・販売のみならず6次産業の魁たらんと邁進する中、郷土を見つめ、若人の育成の為、大学の設立に奔走、さらに中国ハルビンと酒田を繋ぐ物流ルート「東方水上シルクロード」の開設や北前船寄港地フォーラムの開催等を通じ、日本海沿岸地域の観光を振興、さらに台湾との相互乗り入れによる国際チャーター便の運航を実現することにより、国際交流の促進・観光立国の実現に寄与したとの功績により、平成24年国土交通省の交通文化賞を受賞。
 傘寿を迎え、今尚、観光振興などに情熱を持ち続けていられるのは、専ら、郷土を守る産土神のお陰と深謝し、雪見灯篭を奉る。
 記
 酒田市名誉市民
 株式会社平田牧場会長
 東方水上シルクロード貿易促進協議会会長
 東北公益文科大学理事長
 庄内空港環境整備基金理事長

  平成25年3月吉日
   酒田市楢橋字大柳○○○番地  新田嘉一 冨美子

 はあ、写真に写っているどっしりとした石灯籠2基。これの説明だったのですね。
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 下拝殿の左側にある長くて急な石段を登って、上の拝殿と大物忌神社、月山神社両所の本殿があるところを目指します。
 足に来る階段。数えて登ったら137段あった、と思う。

 たいした神社で、上にあるものも立派。高い山の上にこのようなものをつくっちゃうんだねえ。大げさに言えば、当時としては巨大といえる建物をあちこちに、長い年月をかけて造り上げてきた人類の精神性の凄さを知らされます。

 上の拝殿の右奥にあった遊佐町教育委員会製看板の記載事項を移記。

国登録有形文化財 鳥海山大物忌神社
  吹浦口ノ宮本殿 摂社月山神社本殿
  平成24年3月23日 登録
 本境内の一番奥、最高所に大物忌神を祀る大物忌神社本殿(東側)、月山神を祀る摂社月山神社本殿(西側)が南面して並び立っている。前身の本殿が宝永3年(1706)正月の火災で焼失し、宝永8年(1711)に庄内藩酒井家によって、現本殿が再建されたと伝わる。本殿後ろの斜面に石段が残っており、鳥海山詣りの道者たちは、この石段を通り、山に向かったと言われている。
 両社殿は、彫刻や脇障子の絵柄を除けば、全く同型、同大の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の建築である。もとは屋根が茅葺きであったが、昭和38年(1963)の千四百年祭の際、銅板に葺き替えられた。
 昭和14年(1939)に壁板や土台を取り替え、屋根を葺き替えるなど修理され、併せて周囲の中門廻廊や玉垣が造り替えられている。続いて中門の下方には、戦時下の昭和18年(1943)に、台湾産檜材を用いて、桁行5間、梁間3間の拝殿を建て、登廊で繋がれた。これら昭和戦前期建造物の設計は、東京小石川区の小林設計事務所小林謙一が担当した。江戸中期の地方色のある両本殿と、近代の端正な設計の拝殿等が破綻なく融和しているのは、設計者が内務省神社局、宮内省内匠寮の設計者の系譜に連なり、神社建築の設計手法に通じていたことをうかがわせる。
 周囲のタブノキや杉の社叢とあいまって、かって「出羽国一宮両所宮」とも称され、明治以降「国幣中社」に格付けされた大神の社殿としての風格が感じられる。

 フムフムですが、この場合、両所の本殿に入ってみないとそれらを体感できないのが残念。
 入れないんですよ。拝殿の中に両所に通じる階段があってそこから入るのでしょうが、それはできない雰囲気。外から見ようとしても囲いの柵があるために見えず。うーーむ・・・。


 石段を下りて戻り、下の社務所あたりをうろつくと、次のような看板もありました。

平成29年7月 鳥海山大物忌神社 本殿式年遷座 ご寄付のお願い
 当鳥海山大物忌神社は、奥州の最高峰鳥海山頂上に御鎮座以来、「延喜式」では名神大社に列し、出羽国一の宮として朝野の篤い尊崇をあつめてまいりました。
 数多くの古伝承や伝統行事を現在に伝える中、最重要なる祭祀として、古来より20年に一度、山頂の御本殿を建て替え、檜の香も芳しい新宮に神様をお遷しする「式年遷座」の制度があります。
 いよいよ次回の御遷座を来たる平成29年に控え、山麓の山形県・秋田県の皆様はもとより、当社をご参詣の皆様より御浄財を賜るべく、奉賛会を組織し事業の完遂に向けて取り組んでおります。
 ここにお志を賜りましたら幸甚に存じます。

 そうか、来年は式年遷宮だそうですよ、みなさん。
 それにしてもここは看板が充実していたなあ。(笑)

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