2006年発行のもので、題名は24hours、365days Okinawaの意。これを9年後の2015年に読みました。
 というか、これは「見た」なのだろうな。グラフィカルだし、活字は大小さまざま取り揃え、フォントもいろいろ工夫して読者にインパクトを与えようとしている感じです。また、モノクロの画像にブルーの色を重ねて、一種ゲージツ的なオリジナリティを創り出しています。
 が、正直言ってけっして見やすいものではなかったような気がします。もっとフツーに表現しろよと言いたくなりました。

 のっけから「与那国ホンダ」の写真。ここではレンタバイクを借りたことがあるので、思わずおぉ!となり、次のページはこの本のテーゼと思われる次のような文章が。
 「沖縄最高! 自然・文化・暮らし。世界中でここにしかないものが満ち溢れています。日本のまちの多くがなくしてしまったものも、たくさん生き続けています。時間はゆっくりゆっくり流れています。
 人々が、脈々とつなげ、守り、育ててきた心があります。数字には表れない、目に見えるものでは語れない豊かな暮らしの質があります。
 しかし、今。その多くは消え去ろうとしています。過熱する沖縄ブームの一方で、かけがえのない自然が犠牲となっています。東京と同質のものが増殖し、方言がわからない世代も多くなってきています。
 沖縄の未来を守りたい。次の時代を生きる子どもたちが誇りと希望を持つことのできる沖縄であってほしい。沖縄は沖縄らしく、生き生きと輝き続けていてほしい。世界中の人が憧れる沖縄であり続けたい。
 そのためには、まず客観的な視点で沖縄を見て、考えることが必要です。
 優れていること。
 残すべきこと。
 欠けていること。
 直すべきこと。
 止めるべきこと。
 私たち24365沖縄研究会が考える沖縄の未来。
 大好きな沖縄のための提案です。」
 ――うーむ、気合いが入っていますね。

 その「24365沖縄研究会」については、奥付で次のように紹介されていましたので、記しておきます。
 「株式会社サイバーファームと北山創造研究所により2004年にスタート。沖縄のさまざまな可能性を掘り起こし、沖縄の未来のためのアイデアや夢を模索している。昨今の沖縄ブームとは一線を画した視点で、沖縄を見つめ、沖縄の美しい青い海と青い空が永遠に残ることを願っている。客観的視点に立って見た沖縄のすばらしさ、地元の人々があたりまえと思って気がつかない財産の数々を認識しながら、今後も、沖縄のまちづくり、暮らしづくり、商品開発、情報サービスなどについての研究、提案活動をすすめる予定。」

 なお、沖縄のITベンチャー企業だったサイバーファームは2009年に倒産。北山創造研究所は東京で都市コンサルタント、商品デザインを手掛ける安藤忠雄の双子の弟が主宰するもので、こちらは健在のようです。

 それにしても、今の沖縄はこの9年間だけでも、著者たちがそうなってほしくないと考えていた方向に大きく進んでしまっているように思えますが、いかがでしょうか。
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 仲村清司の本はかなりの数を読んできていて、仲村氏はその間、沖縄に移住し、夫婦の凸凹ぶりでおちゃらけてみせ、沖縄のポップカルチャーを発信し、うつ病で悩み、スージグヮーの猫を愛でるなど、様々な変遷を経て、今彼は沖縄大学の客員教授をしています。
 そんなわけで、沖縄問題を取り上げたこの本も即買いして楽しみにしていました。しかし・・・。

 「社会の空洞化が押し進み、“恨み”と“不安”のマッチポンプにより民主主義が空転し続ける本土。沖縄は本土がたどった悪しき道を追いかけるのか? それともあり得べき共同体自治へと歩み出すのか?
 フラットな「本土並み化」の追求でも、構造的差別の固定化でもない、“希望”にみちた島づくりのための鮮烈な提言の書。」
 ――というのがこの本の紹介文です。なんとなくこれだけで、全体的に漂う著者側の自己陶酔というか利己的というか、読者に対して内容をわかりやすく伝えようという姿勢がほとんど感じられない本だということがわかってしまいます。

 事実読んでみて、その印象をさらに強く持ったところ。本音を言うと、ナニコレ的で、読んでいて疲れました。

 藤井誠二というノンフィクション作家が企画・司会を担当し、終始、仲村清司と宮台真司が対論形式で話を進めていくという構成。
 そもそも書いた文章ではなく、それぞれが時には噛み合わない形で好き勝手に話しているのをそのまままとめたものなので、論旨を読み取るのが容易ではありませんでした。はい、読者の能力の問題だと言われればそれまでなのですけどね。
 でも、この本を読んで、その内容がすっきりと理解できたという人がいたなら手を挙げてほしい。主張が強くて、小難しい用語を使い、脈絡がはっきりしない文章って、ホント、読むのが辛いものですよ。

 その原因となっているのが、はっきり言いましょう、宮台真司というヒトの論理展開です。対談しているのに、話の多くが彼の発言部分になってしまっていて、話は飛ぶし、たとえ話している内容が飛躍的だし、仲村にももっとしゃべらせろよという感じ。
 こういう人っているでしょう、酒の席などで空気が読めなくて一人でしゃべっている人とか。同席者が欠伸をしたってお構いなし、みたいな。
 1959年生まれ、東大大学院出の社会学者だそうですが、ボクは仲村清司のファンなのです。どうかそのレベルに合わせて話してください。世の中の人間の多くというかほとんどは、アナタのように頭がよくないのですから。

 というわけで、買って損したと思わせられた本。
 わからないながら、放り投げもせずに330ページもよく我慢して読んだものだと、自分を褒めてあげたい。
 スマン、久々にコキオロシてしまったな。


 著者は、1944年東京生まれで、日本大学芸術学部写真学科を卒業後、ドキュメンタリー写真に携わり、ベトナム戦争、カンボジアの虐殺、スーダンのダルフールの難民、原爆の広島の人々などを取材して、平和と人間の尊厳を見つめる著書を残した人。

 この本は1997年の発刊で、それを古書店から購入して2015年に読みました。
 コシマキのキャッチには、「アジアの臍の沖縄にて。復帰以来25年、撮り続けてきた沖縄。豊かな風土に寄り添いながら生きる沖縄人への熱い想いを綴った最新フォト・エッセイ」とあります。

 写真家による書籍なので、ページを彩る写真は沖縄の風景に加えてウチナーンチュの内面まで浮かび上がらせる陰影の深いスナップなども織り込まれており、秀逸。
 しかしこの本の優れているのはその文章で、女性的な感受性で切り取った沖縄らしい断片が随所できらきらと輝いている感じがします。
 書かれた時代がまだ沖縄が輝きを放っていたからだとも言えるかもしれませんが、やはりこれは、書いた人が優れているからなのでしょう。

 読んでいて最も気に入った部分を以下に抜き出しておきます。

  他人(ちゅ)に殺(くる)さってん寝(に)んだりーしが
  他人殺(ちゅくる)ちぇ寝(に)んだらん

 これは、他人に痛めつけられても眠ることができるが、他人を痛めつけたら眠れない、という意味の言葉だ。
 たしかに、相手を一方的になじっている言葉を沖縄では聞いたことがない。私たちヤマトンチューだったら怒鳴るだろうにというときでも、だ。
 その度に、考え込んでしまう。
 ウチナーンチュの優しさや懐の深さには敵わない。それにしても、このことわざのような優しさを、人びとはどのようにして、慌ただしく騒然とした現代にまで持ち続けてこられたのだろう。もっとも、狭い島の中でいちいち怒ったり喧嘩をしていたのでは、息苦しくなってお互いに暮らしてはいけない。そうした理由も一方にはあるかもしれない。
 でもこの深い優しさは、何よりも海を介して付き合ってきた他民族との、平和な共存を願う思想に他ならないのではないだろうか。「平和な島」とは、先祖代々の「往(い)にし方(え)」から脈々と体の中で繋がってきた祈りのような言葉だ。
 「平和な島」であり続けるには、相手もまた、平和でなければならない。ごく当たり前の個人の気持ちが広がって、大勢の願いになり、沖縄の歴史として培われてきたように思う。

 これを書いていて、上原知子(りんけんバンド)のうたう「にんだらん」(作詞・照屋林助、作曲・照屋林賢)が、わが脳内を流れました。このうたの歌詞も併せて記しておきましょう。

  旅宿に浜千鳥ぬ 泣ち声聞きばよ 生まり島まさてぃ 眠んだらん
  チュイチュイナ チュイチュイナ
  旅や浜宿い 草ぬ葉どぅ枕 寝てぃん忘ららぬ 我やぬ御側

  旅宿に照月ぬ 涙に曇てぃよ 思び出すさ島ぬ同志辺 肝情
  チュイチュイナ チュイチュイナ
  渡海や隔みてぃん 照る月や一つぃ ありん眺みゆら 今日ぬ空や

  旅宿や窓る見ば 夢のしじさよ 浮かび見る海とぅ山ぬ 懐かさよ
  チュイチュイナ チュイチュイナ
  旅宿ぬ寝覚み 枕すば立てぃてぃ 思び出すさ昔 夜半ぬ辛さ

 うーむ・・・、琉歌はいいですねぇ。りんけんの奏でる三線の音色がビシビシ聴こえてきますねぇ。


 2014年6月発刊の1冊目に続き、同年9月に発行された「島唄を歩く」の2冊目。
 沖縄音楽に精通した小浜司の手によるものなので、読んでしまうのが惜しいような気がしてしばらくの間読まずに温めてしまいました。

 で、読んでみて、やはり至福感は極めて高い。
 沖縄の音楽シーンを彩るさまざまな人間の人となりやエピソードが小浜のインタビューに答える形でまとめられているだけなのですが、マニアにとってはそこから垣間見えてくる唄者たちの人間性が非常に興味深いわけなのです。
 したがって、沖縄音楽にあまり興味のない人にとっては、よく知らない古い人たちが出てきて、本業とはあまり関係のないよしなしごとを脈絡もなくしゃべっているように見えてしまうかもしれません。
 でもですよ。神々は細部に宿るのです。真髄は、本筋ではない些細なところにポロリと出てくることがあるのです。沖縄音楽に関する真髄を読み解くのに、こういう切り口から入ってみるというのも、大きな意味があるのだと自分は考えています。

 さて、この第2巻。第1巻が主に民謡黄金期を築いた第一世代にスポットが当たっていましたが、こちらはさらに第二世代まで歩を進めた内容になっています。
 第二世代のウタサー達は、戦前の「毛遊び」で浮名を流した先輩達の遊び唄を子守歌代わりに育ち、かつての悠長な社会が遠ざかっていく時代にありながら、それにも関わらず三線を捨てなかった者たちです。
 今巻の収録者は、前川守賢、大工哲弘、大田永太郎(元祖・三線総合卸問屋)、照屋政雄、でいご娘、我如古より子、田場盛信、佐渡山豊、徳原清文、神谷幸一、湧川明、松田弘一、幸地亀千代、北島角子、饒辺勝子、築地俊造、坪山豊、里国隆、喜納昌吉、上原正吉、古謝美佐子、普久原恒勇の22人(組)。
 なじみ深い唄者ばかり。これで第1巻の24人と合わせて46人になりました。

 筆者は「あとがき」で、「私の島唄を歩くたびはまだまだ続く」と締めくくっているので、今後の執筆活動に大いに期待したいと思います。


 第1巻をすんなりと読み進めることができなかったためになかなか第2巻に手が伸びずにいましたが、4か月ぶりにようやく読み始めました。

 第2巻は「疾風の巻」。
 薩摩の侵攻に膝を屈するのか、それとも独立を賭して抵抗するのか。薩摩軍の圧倒的な武力の前に、琉球王国は苦悩します。
 王国にとっての宗主国である明の援軍は期待できるのか、できないのか? 主戦論、非戦論と国論は二分され、沖縄の老若男女は歴史の動乱のはざまで苦悩します。しかし、誰しもが祖国の誇りを守るために熱い血潮をたぎらせていました。

 やはり陳舜臣の筆致は、歴史を物語として読むにはやや難解。かれこれ20数年前になってしまったけれど、これを原作にして制作されたNHKの大河ドラマ「琉球の風」は見ておくべきだったと今さらながらに思います。でもこの番組も、大河ドラマとしては視聴率が伸びなかったという記憶がありますが。

 話がそれますが、この大河ドラマのテーマソングって、りんけんバンドの「ちゅらぢゅら」だったのですよねぇ。記憶するところでは、自分がりんけんバンドの音楽に初めて触れたのはこの曲だったはず。それで上原知子の歌声に聴き惚れて、その後はほぼすべてのアルバムを入手して聴きまくることになりました。
 ですがこの曲、数多くあるりんけんバンドのアルバムには入っていません。たぶん著作権の問題などがあって、りんけんバンド側が取り上げるのを潔しとしていないのではないかと思っているのですが、どうなのでしょう。

 「ちゅらぢゅら」の歌詞(琉歌)も見事なので、以下に掲載しておきます。

 読でぃん読まるらぬ 天ぬ群り星に 御万人(うまんちゅ)ぬ望み かきてぃうかな
 節々とぅ共に 巡る天道ぬ またん元ぬ座に 戻る嬉しゃ

 夜走らす船に 北極星(にぬふぁぶし)目当てぃ 我身産(な)ちぇる親や 我身どぅ目当てぃ
 ちゅらやちゅら ちゅらぢゅらとぅ
 天ぬみわざ あやさ清らさ


 又吉栄喜の作品を古書店から買い集め、できるだけ年代順に読んでいこうとしているところです。
 この作品は、「ギンネム屋敷」(1981)、「パラシュ-ト兵のプレゼント 短篇小説集」(1988)、「豚の報い」(1996)、「木登り豚」(1996)に次いで1998年に世に出されたものです。
 コシマキには、「南風(ふぇーぬかじ)に吹かれて忘れていたことを思い出す」という文字とともに、「芥川賞作家が描く、沖縄の元気2篇」とも記されています。
 「木登り豚」は、芥川賞受賞作の「豚の報い」の2年前に書かれたものとされているので、この「果報は海から」が受賞後に書かれたはじめのものになるのではないかと思います。

 収録作品は、「果報は海から」と「士族の集落」。
 「果報は海から」は、離島のT島が舞台。漁師の家に入婿した男は、妻と姑にかまわれない退屈な日常を送っています。しかし男はそれ打破すべく、山羊を盗み、サバニに乗って対岸の本部半島で店を出しているホステスに会いに行くという冒険を試みます。前作は豚で、今作は山羊。大芥川賞受賞作家がこういうモチーフ専門でいいのかという疑問もありますが、どうなのでしょう。

 併録されている「士族の集落」は、那覇に住む青年が祖母に会いに山原(ヤンバル)の奥地に行き、そこで昔ながらの琉球士族の暮らしを体験します。


 日本陸軍大佐・八原博通。1902年、鳥取県米子市生まれ。アメリカへの留学経験に基づきアメリカの軍事状況を熟知し、第32軍の高級参謀として沖縄戦での戦略持久作戦を指揮。巧みな作戦指導によって圧倒的に優勢な米軍に多大な犠牲を与え、米軍からは「優れた戦術家としての名声を欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されています。
 しかしその一方で、持久戦を展開したことが沖縄県民に悲惨な犠牲を強いることになり、後世その戦術に強い批判が集中することにもなりました。

 その八原が自ら筆を執って書き記したのがこの「沖縄決戦 高級参謀の手記」で、戦後27年を経た1972年に読売新聞社から発刊されました。
 そして、それからさらに43年を過ぎた2015年に中央公論から文庫本で復刊されたので、待ってましたとばかりにすぐに買ったものです。

 著者はその「序」で、「作戦参謀として、この戦いの企画指導に直接携わった私は、自らの立場に省み、また敗者兵を語らずの精神に従い、正面切って多くを語るのを今日まで拒んできた。だが作戦こそわが命と思っていた私には、作戦の巧拙善悪はいざ知らず、そうではない、実はこうであったのだと、叫びたいものがある。
 戦後もすでに27年、沖縄も本土復帰した今日である。私の記憶も薄らいでいるが、幸い戦時中ならびに戦争直後にかけて書き留めておいた記録がある。これを根拠とし、現在まで多く世に出た沖縄戦の史書で問題になった諸点も考慮し、敢えて沖縄戦の実相をここに訴えんとするものである」――と記しています。

 1945年6月23日、牛島満司令官と長勇参謀長が自決して第32軍は組織的な抵抗を終了しますが、八原はその直後に戦訓伝達のため民間人になりすまして脱出を図り、米軍の捕虜となります。
 軍の先陣に立って指揮にあたった高級参謀のこの行動が、陸軍内部での八原の評価を最悪なものとしてしまい、戦後は陸士同期会にも呼ばれることもなかったそうです。
 その後は生活に困窮し、故郷で夫婦で洋服生地の行商をしていたといいます。1981年没。

 戦場での領袖間の戦術面での対立はなかなかリアル。著者が自身の立場を美化する傾向があることは否めませんが、自信を持って己が思い描いている戦術を、様々な横槍や対立などに阻害されて縦横に展開できなかった悔しさはひしひしと伝わってるものがありました。

 520ページ余りの厚手のものですが、それにしても文庫本で1,450円+税というのは、ちょっぴりエクスペンシヴでないかい?