ryutakuji15 201604

 庄内地方にも春が来て暖かくなったので、庄内三十三観音札所めぐりを再開。
 今回訪問したのは、酒田市(旧松山町)茗ヶ沢にある第15番札所の「本居山龍澤寺」。2015年度に33+首番+番外で35カ所ある札所のうち22カ所に行っているので、ここで通算23カ所めとなります。

 入口の山門から見たところは、寺というよりも大きい農家の庭先という感じ。その庭先風の場所に車を停めると、目の前に「延命地蔵菩薩」の安置された小さな社がありました。

 「此のお地蔵さまは昭和38年、現在の当寺の本堂とともに酒田市広野・奥井新田の民家より移転されました。
 地蔵菩薩は「代受苦(だいじゅく)」の仏さまと言われ、信ずる人々の苦しみを代わりに受けて下さる慈悲深い菩薩さまです。
 元々豊かな実りをもたらす大地をあらわす仏さまであったため、農耕社会だった日本では広く信仰されました。大地はすべての生命を育むことから特に子どもたちを守る仏さまとしても親しまれています。
 当地のお地蔵さまは「延命地蔵」とよばれ、長寿と息災を叶えて下さると言われます。
 左手には願いを叶える宝珠(ほうじゅ)、右手には慈悲の心を表す錫杖(しゃくじょう)を持っています。いつも静かに微笑んで私たちを見守って下さるのです。」――との説明書きがありました。

 その奥に、山の上へと続く急な石段がありました。左手に立派な庚申塔と竹林がある石段を登っていくと、「聖観世音菩薩御堂」があり、観音様はその中に安置されているようです。
 御堂には鍵がかかっていず、中は電気をつけて自由にご覧下さいということになっていました。はいはいと、中を見学。

 WEB上のあるページによればこの寺は、松嶺にある総光寺の末寺に当たり、文正元年(1466)に、総光寺七世通庵春察(つうあんしゅんさい)大和尚が茗ヶ沢の沢入りに開山したと伝えられ、その後火災にあって約250年前に現在の沢尻に移転したといわれているのだそう。

 通庵春察について、境内にある歴代のこの寺の大和尚を祀る墓の「墓誌」に彫り込まれているところでは、確かに「文正元年」。
 しかし、その「墓誌」によれば、次の「二世」(天岩全幡大和尚)は享保年間というから1700年代前半の人のようであり、つまりはこの二世が沢尻に移転したときの大和尚なのでしょう。
 う~む・・・ならばその間の250年ほどはこの寺はどうなっていたというのだろうな。
スポンサーサイト
reiganji24 201604

 旧立川町の主邑狩川にある「萬歳山冷岩寺」へ。
 文禄年間(1593~1596年)の創建とされ、当初は霊厳寺と称する天台宗の寺院で、領主の北楯利長の祈願所として寺運も隆盛していたということです。
 寛永年間(1624~1645年)に、3世の玉叟察和尚が玄翁心昭禅師(南北朝時代の曹洞宗の高僧で、栃木県那須温泉にある九尾の狐が姿を変えた殺生石を鎮めた事で知られる。)に感化されて曹洞宗に改宗。その際、総穏寺(鶴岡市)の3世の頼山和尚を中興開山として仰ぎ、自らは2世となり寺号を萬歳山冷岩寺に改めているのだそう。
 ちなみに、寺宝とされる玄翁和尚像は、1982年に庄内町指定有形文化財(彫刻)に指定されているとのこと。

 それよりも興味をそそられたのは、門前に設えられていた「二代目出羽海瀧右エ門碑」。
 かつて玉川寺の庭園内で「初代出羽海之碑」を見ましたが、初代は現鶴岡市羽黒町玉川の出身。そして二代目出羽ノ海も庄内出身。
 碑の下に説明が書かれた碑文がありましたが、読みづらいので読んできませんでした。したがって、詳しいことはわからず。

 寺門の前には堰が流れており、そこに立派な石橋が架けられています。しかしその上流はコンクリートの護岸工事中。一方、庫裡の屋根と本堂も工事中。
 工事が終わってきれいになってから見たほうがよかったかもね。


 2006年発行のもので、題名は24hours、365days Okinawaの意。これを9年後の2015年に読みました。
 というか、これは「見た」なのだろうな。グラフィカルだし、活字は大小さまざま取り揃え、フォントもいろいろ工夫して読者にインパクトを与えようとしている感じです。また、モノクロの画像にブルーの色を重ねて、一種ゲージツ的なオリジナリティを創り出しています。
 が、正直言ってけっして見やすいものではなかったような気がします。もっとフツーに表現しろよと言いたくなりました。

 のっけから「与那国ホンダ」の写真。ここではレンタバイクを借りたことがあるので、思わずおぉ!となり、次のページはこの本のテーゼと思われる次のような文章が。
 「沖縄最高! 自然・文化・暮らし。世界中でここにしかないものが満ち溢れています。日本のまちの多くがなくしてしまったものも、たくさん生き続けています。時間はゆっくりゆっくり流れています。
 人々が、脈々とつなげ、守り、育ててきた心があります。数字には表れない、目に見えるものでは語れない豊かな暮らしの質があります。
 しかし、今。その多くは消え去ろうとしています。過熱する沖縄ブームの一方で、かけがえのない自然が犠牲となっています。東京と同質のものが増殖し、方言がわからない世代も多くなってきています。
 沖縄の未来を守りたい。次の時代を生きる子どもたちが誇りと希望を持つことのできる沖縄であってほしい。沖縄は沖縄らしく、生き生きと輝き続けていてほしい。世界中の人が憧れる沖縄であり続けたい。
 そのためには、まず客観的な視点で沖縄を見て、考えることが必要です。
 優れていること。
 残すべきこと。
 欠けていること。
 直すべきこと。
 止めるべきこと。
 私たち24365沖縄研究会が考える沖縄の未来。
 大好きな沖縄のための提案です。」
 ――うーむ、気合いが入っていますね。

 その「24365沖縄研究会」については、奥付で次のように紹介されていましたので、記しておきます。
 「株式会社サイバーファームと北山創造研究所により2004年にスタート。沖縄のさまざまな可能性を掘り起こし、沖縄の未来のためのアイデアや夢を模索している。昨今の沖縄ブームとは一線を画した視点で、沖縄を見つめ、沖縄の美しい青い海と青い空が永遠に残ることを願っている。客観的視点に立って見た沖縄のすばらしさ、地元の人々があたりまえと思って気がつかない財産の数々を認識しながら、今後も、沖縄のまちづくり、暮らしづくり、商品開発、情報サービスなどについての研究、提案活動をすすめる予定。」

 なお、沖縄のITベンチャー企業だったサイバーファームは2009年に倒産。北山創造研究所は東京で都市コンサルタント、商品デザインを手掛ける安藤忠雄の双子の弟が主宰するもので、こちらは健在のようです。

 それにしても、今の沖縄はこの9年間だけでも、著者たちがそうなってほしくないと考えていた方向に大きく進んでしまっているように思えますが、いかがでしょうか。


 仲村清司の本はかなりの数を読んできていて、仲村氏はその間、沖縄に移住し、夫婦の凸凹ぶりでおちゃらけてみせ、沖縄のポップカルチャーを発信し、うつ病で悩み、スージグヮーの猫を愛でるなど、様々な変遷を経て、今彼は沖縄大学の客員教授をしています。
 そんなわけで、沖縄問題を取り上げたこの本も即買いして楽しみにしていました。しかし・・・。

 「社会の空洞化が押し進み、“恨み”と“不安”のマッチポンプにより民主主義が空転し続ける本土。沖縄は本土がたどった悪しき道を追いかけるのか? それともあり得べき共同体自治へと歩み出すのか?
 フラットな「本土並み化」の追求でも、構造的差別の固定化でもない、“希望”にみちた島づくりのための鮮烈な提言の書。」
 ――というのがこの本の紹介文です。なんとなくこれだけで、全体的に漂う著者側の自己陶酔というか利己的というか、読者に対して内容をわかりやすく伝えようという姿勢がほとんど感じられない本だということがわかってしまいます。

 事実読んでみて、その印象をさらに強く持ったところ。本音を言うと、ナニコレ的で、読んでいて疲れました。

 藤井誠二というノンフィクション作家が企画・司会を担当し、終始、仲村清司と宮台真司が対論形式で話を進めていくという構成。
 そもそも書いた文章ではなく、それぞれが時には噛み合わない形で好き勝手に話しているのをそのまままとめたものなので、論旨を読み取るのが容易ではありませんでした。はい、読者の能力の問題だと言われればそれまでなのですけどね。
 でも、この本を読んで、その内容がすっきりと理解できたという人がいたなら手を挙げてほしい。主張が強くて、小難しい用語を使い、脈絡がはっきりしない文章って、ホント、読むのが辛いものですよ。

 その原因となっているのが、はっきり言いましょう、宮台真司というヒトの論理展開です。対談しているのに、話の多くが彼の発言部分になってしまっていて、話は飛ぶし、たとえ話している内容が飛躍的だし、仲村にももっとしゃべらせろよという感じ。
 こういう人っているでしょう、酒の席などで空気が読めなくて一人でしゃべっている人とか。同席者が欠伸をしたってお構いなし、みたいな。
 1959年生まれ、東大大学院出の社会学者だそうですが、ボクは仲村清司のファンなのです。どうかそのレベルに合わせて話してください。世の中の人間の多くというかほとんどは、アナタのように頭がよくないのですから。

 というわけで、買って損したと思わせられた本。
 わからないながら、放り投げもせずに330ページもよく我慢して読んだものだと、自分を褒めてあげたい。
 スマン、久々にコキオロシてしまったな。


 著者は、1944年東京生まれで、日本大学芸術学部写真学科を卒業後、ドキュメンタリー写真に携わり、ベトナム戦争、カンボジアの虐殺、スーダンのダルフールの難民、原爆の広島の人々などを取材して、平和と人間の尊厳を見つめる著書を残した人。

 この本は1997年の発刊で、それを古書店から購入して2015年に読みました。
 コシマキのキャッチには、「アジアの臍の沖縄にて。復帰以来25年、撮り続けてきた沖縄。豊かな風土に寄り添いながら生きる沖縄人への熱い想いを綴った最新フォト・エッセイ」とあります。

 写真家による書籍なので、ページを彩る写真は沖縄の風景に加えてウチナーンチュの内面まで浮かび上がらせる陰影の深いスナップなども織り込まれており、秀逸。
 しかしこの本の優れているのはその文章で、女性的な感受性で切り取った沖縄らしい断片が随所できらきらと輝いている感じがします。
 書かれた時代がまだ沖縄が輝きを放っていたからだとも言えるかもしれませんが、やはりこれは、書いた人が優れているからなのでしょう。

 読んでいて最も気に入った部分を以下に抜き出しておきます。

  他人(ちゅ)に殺(くる)さってん寝(に)んだりーしが
  他人殺(ちゅくる)ちぇ寝(に)んだらん

 これは、他人に痛めつけられても眠ることができるが、他人を痛めつけたら眠れない、という意味の言葉だ。
 たしかに、相手を一方的になじっている言葉を沖縄では聞いたことがない。私たちヤマトンチューだったら怒鳴るだろうにというときでも、だ。
 その度に、考え込んでしまう。
 ウチナーンチュの優しさや懐の深さには敵わない。それにしても、このことわざのような優しさを、人びとはどのようにして、慌ただしく騒然とした現代にまで持ち続けてこられたのだろう。もっとも、狭い島の中でいちいち怒ったり喧嘩をしていたのでは、息苦しくなってお互いに暮らしてはいけない。そうした理由も一方にはあるかもしれない。
 でもこの深い優しさは、何よりも海を介して付き合ってきた他民族との、平和な共存を願う思想に他ならないのではないだろうか。「平和な島」とは、先祖代々の「往(い)にし方(え)」から脈々と体の中で繋がってきた祈りのような言葉だ。
 「平和な島」であり続けるには、相手もまた、平和でなければならない。ごく当たり前の個人の気持ちが広がって、大勢の願いになり、沖縄の歴史として培われてきたように思う。

 これを書いていて、上原知子(りんけんバンド)のうたう「にんだらん」(作詞・照屋林助、作曲・照屋林賢)が、わが脳内を流れました。このうたの歌詞も併せて記しておきましょう。

  旅宿に浜千鳥ぬ 泣ち声聞きばよ 生まり島まさてぃ 眠んだらん
  チュイチュイナ チュイチュイナ
  旅や浜宿い 草ぬ葉どぅ枕 寝てぃん忘ららぬ 我やぬ御側

  旅宿に照月ぬ 涙に曇てぃよ 思び出すさ島ぬ同志辺 肝情
  チュイチュイナ チュイチュイナ
  渡海や隔みてぃん 照る月や一つぃ ありん眺みゆら 今日ぬ空や

  旅宿や窓る見ば 夢のしじさよ 浮かび見る海とぅ山ぬ 懐かさよ
  チュイチュイナ チュイチュイナ
  旅宿ぬ寝覚み 枕すば立てぃてぃ 思び出すさ昔 夜半ぬ辛さ

 うーむ・・・、琉歌はいいですねぇ。りんけんの奏でる三線の音色がビシビシ聴こえてきますねぇ。


 2014年6月発刊の1冊目に続き、同年9月に発行された「島唄を歩く」の2冊目。
 沖縄音楽に精通した小浜司の手によるものなので、読んでしまうのが惜しいような気がしてしばらくの間読まずに温めてしまいました。

 で、読んでみて、やはり至福感は極めて高い。
 沖縄の音楽シーンを彩るさまざまな人間の人となりやエピソードが小浜のインタビューに答える形でまとめられているだけなのですが、マニアにとってはそこから垣間見えてくる唄者たちの人間性が非常に興味深いわけなのです。
 したがって、沖縄音楽にあまり興味のない人にとっては、よく知らない古い人たちが出てきて、本業とはあまり関係のないよしなしごとを脈絡もなくしゃべっているように見えてしまうかもしれません。
 でもですよ。神々は細部に宿るのです。真髄は、本筋ではない些細なところにポロリと出てくることがあるのです。沖縄音楽に関する真髄を読み解くのに、こういう切り口から入ってみるというのも、大きな意味があるのだと自分は考えています。

 さて、この第2巻。第1巻が主に民謡黄金期を築いた第一世代にスポットが当たっていましたが、こちらはさらに第二世代まで歩を進めた内容になっています。
 第二世代のウタサー達は、戦前の「毛遊び」で浮名を流した先輩達の遊び唄を子守歌代わりに育ち、かつての悠長な社会が遠ざかっていく時代にありながら、それにも関わらず三線を捨てなかった者たちです。
 今巻の収録者は、前川守賢、大工哲弘、大田永太郎(元祖・三線総合卸問屋)、照屋政雄、でいご娘、我如古より子、田場盛信、佐渡山豊、徳原清文、神谷幸一、湧川明、松田弘一、幸地亀千代、北島角子、饒辺勝子、築地俊造、坪山豊、里国隆、喜納昌吉、上原正吉、古謝美佐子、普久原恒勇の22人(組)。
 なじみ深い唄者ばかり。これで第1巻の24人と合わせて46人になりました。

 筆者は「あとがき」で、「私の島唄を歩くたびはまだまだ続く」と締めくくっているので、今後の執筆活動に大いに期待したいと思います。


 第1巻をすんなりと読み進めることができなかったためになかなか第2巻に手が伸びずにいましたが、4か月ぶりにようやく読み始めました。

 第2巻は「疾風の巻」。
 薩摩の侵攻に膝を屈するのか、それとも独立を賭して抵抗するのか。薩摩軍の圧倒的な武力の前に、琉球王国は苦悩します。
 王国にとっての宗主国である明の援軍は期待できるのか、できないのか? 主戦論、非戦論と国論は二分され、沖縄の老若男女は歴史の動乱のはざまで苦悩します。しかし、誰しもが祖国の誇りを守るために熱い血潮をたぎらせていました。

 やはり陳舜臣の筆致は、歴史を物語として読むにはやや難解。かれこれ20数年前になってしまったけれど、これを原作にして制作されたNHKの大河ドラマ「琉球の風」は見ておくべきだったと今さらながらに思います。でもこの番組も、大河ドラマとしては視聴率が伸びなかったという記憶がありますが。

 話がそれますが、この大河ドラマのテーマソングって、りんけんバンドの「ちゅらぢゅら」だったのですよねぇ。記憶するところでは、自分がりんけんバンドの音楽に初めて触れたのはこの曲だったはず。それで上原知子の歌声に聴き惚れて、その後はほぼすべてのアルバムを入手して聴きまくることになりました。
 ですがこの曲、数多くあるりんけんバンドのアルバムには入っていません。たぶん著作権の問題などがあって、りんけんバンド側が取り上げるのを潔しとしていないのではないかと思っているのですが、どうなのでしょう。

 「ちゅらぢゅら」の歌詞(琉歌)も見事なので、以下に掲載しておきます。

 読でぃん読まるらぬ 天ぬ群り星に 御万人(うまんちゅ)ぬ望み かきてぃうかな
 節々とぅ共に 巡る天道ぬ またん元ぬ座に 戻る嬉しゃ

 夜走らす船に 北極星(にぬふぁぶし)目当てぃ 我身産(な)ちぇる親や 我身どぅ目当てぃ
 ちゅらやちゅら ちゅらぢゅらとぅ
 天ぬみわざ あやさ清らさ


 又吉栄喜の作品を古書店から買い集め、できるだけ年代順に読んでいこうとしているところです。
 この作品は、「ギンネム屋敷」(1981)、「パラシュ-ト兵のプレゼント 短篇小説集」(1988)、「豚の報い」(1996)、「木登り豚」(1996)に次いで1998年に世に出されたものです。
 コシマキには、「南風(ふぇーぬかじ)に吹かれて忘れていたことを思い出す」という文字とともに、「芥川賞作家が描く、沖縄の元気2篇」とも記されています。
 「木登り豚」は、芥川賞受賞作の「豚の報い」の2年前に書かれたものとされているので、この「果報は海から」が受賞後に書かれたはじめのものになるのではないかと思います。

 収録作品は、「果報は海から」と「士族の集落」。
 「果報は海から」は、離島のT島が舞台。漁師の家に入婿した男は、妻と姑にかまわれない退屈な日常を送っています。しかし男はそれ打破すべく、山羊を盗み、サバニに乗って対岸の本部半島で店を出しているホステスに会いに行くという冒険を試みます。前作は豚で、今作は山羊。大芥川賞受賞作家がこういうモチーフ専門でいいのかという疑問もありますが、どうなのでしょう。

 併録されている「士族の集落」は、那覇に住む青年が祖母に会いに山原(ヤンバル)の奥地に行き、そこで昔ながらの琉球士族の暮らしを体験します。
koukokuji20 201604

 春うららかなある休日、酒田市内日吉町の第20番札所、春王山光国寺に行ってみました。
 ナビを頼りに、この先に寺なんてあるのかと思うような集落内の、車1台通るのがやっとというような狭い道に入り込んで行くと、参道も山門も通らずにいきなり寺の真ん前に到着。ありゃりゃ、って感じです。
 普通の住宅と言われればそう思えてしまいそうな本堂の軒の下に車を停めると、ああナルホドね、自分は脇道から入ってきたようで、本堂正面の先にはささやかな参道がありました。
 でもここ、墓地もないし、前後左右からは宅地の波が迫ってきているし、由緒正しい寺なのだろうけれども、ちょっぴり寂しい感じですね。

 かつてこの地は花街だった時期があり、その頃は本堂や釈迦堂、馬頭観音堂、仁王門などの伽藍も壮麗なもので隆盛を極めたのだそうです。しかしこれらの壮麗な伽藍は享保時代に焼失し、その後大正時代に堂宇を再建したとのこと。
 今となっては見るべきほどのものもなし。とりあえずはやって来たということで、帰りましょう。
jichiin10 201604

 前項の第20番札所春王山光国寺のほど近いところに、第10番札所の良茂山持地院があります。
 こちらはひっそりとしていた光国寺とは逆に、広い敷地にたくさんの墓が並び、幼稚園まで経営している大きな宗教法人のようです。
 訪問した時には寺院の前にホテルリッチ&ガーデンの送迎バスが停まっていて、法事を営む喪服をまとった人々が多数。墓地の具合から判断して檀家数は数百は軽くあると思われました。

 当寺の創立は応永2年(1395)で、岩手県永徳寺の二世湖海理元(こかいりげん)和尚という人の草創だといわれているそうです。
2016.04.16 酒田大仏
sakatadaibutsu 201604

 良茂山持地院での見どころは、酒田大仏です。幼稚園の園庭内にある巨大な立像。
 「放光園」と掲額された門は閉ざされていましたが、大仏参詣の方は自由に入っていいようなので、入ってみます。

 側まで寄って見上げれば、いやはやデカい。こうもデカいと何とはなしにありがたく、そういう意味では大きいことはいいことなのかもしれません。
 大仏様の足元にこの大仏についての説明板があったので、以下に移記しておきます。

 日清戦争中の明治27年10月22日午後5時37分、突如として庄内地方に大地震が発生した。酒田町内だけでも全焼家屋1,747戸、倒壊家屋1,558戸、死者223名という大惨事となった。
 この時に持寺院本堂、庫裡も倒壊し、住職大滝宗渕和尚の母堂も圧死するという悲劇にあった。宗渕和尚は日清戦争による戦病死者と酒田大地震の霊を弔うために釈迦牟尼仏尊像の建立を発願し、一代で財を成し肝胆相照らす仲の檀徒佐藤善兵衛翁に相談の結果、多額の資金協力を受ける見通しがついた。
 宗渕和尚自身も托鉢を続け銅銭や古鏡などの銅製品と志納金勧募のため檀徒はもちろん、国内から朝鮮、中国まで足を伸ばした。しかし復興して間もない本堂が中国募金中の明治32年に焼失し、本堂再建に奔走の結果、明治35年に竣工することができた。そのうちに日露戦争が勃発して大仏建立も一頓挫をきたした。
 明治44年に大仏に日露戦争の戦病没者の霊も弔うことにし、寝食を忘れて熱心に募金活動に励んだ。その苦労がみのり建立発願してから20年目にあたる大正3年6月1日に13メートル余、立像としては日本一の金銅鐸釈迦牟尼仏(酒田大仏)を造立し、大本山永平寺貫主森田悟由禅師を大導師としてお迎えし、盛大なる開眼大法要を厳修された。以来、天下泰平、家内安全、所願成就を願う多くの信者が全国各地から集まり、大仏尊前の香煙の消える日は無かった。
 しかし、太平洋戦争末期に国の金属回収令により、大仏と大仏尊前の大香炉、ならびに大仏建立を記念して鋳造された大梵鐘の供出を命じられた。38世住職宗雄和尚は、戦没者の霊を祭る信仰の対象である大仏だけは除外するように関係機関に懇願したが、ついに昭和18年強制的に解体された。
 宗雄和尚は、先師が発願してから20年の歳月をかけ、たび重なる苦労の末に完成した大仏を、自分の代に失ったことに苦しみ、再建を畢生の悲願とされた。昭和59年から再建のための檀徒会議を開いたり本格的に取り組み始め、大仏原型の作製を現代における仏像彫刻家として著名な鏡恒夫氏に依頼されたが、その完成を見ないまま病床に臥し昭和60年2月に他界された。
 前住職の遺業を受けついだ39世住職宗光和尚は再建に熱意を傾けられ、一方檀信徒間にも信仰仏である酒田大仏再建を願う支援の声が高まり、有縁無縁の僧俗より浄財が寄せられるようになり、ここに再建実行委員会が設置され、会長に佐藤久吉氏、事務局長に斎藤八惣八氏を選出し、度重なる実行委員会、小委員会、事務局会を開いて、解体後約50年ぶりに酒田大仏がよみがえった。平成4年(1992年)6月7日の吉日大本山永平寺貫主丹羽廉芳禅師のご親修により開眼大法要を迎えることになった。
 無限の慈悲を象徴している酒田大仏は、慈眼のまなざしで左手は与願(人々の願いを聞く)、右手は施無畏(人々の不安を取り除く)の手の形を示し、人びとの苦痛を除去し安楽を与えるため、いわば衆生済度する姿ということで立像となっている。仏頭2メートル50センチ、胴体10メートル50センチで像高13メートル、蓮台と基礎をいれると17メートルで、青銅釈迦牟尼仏の立像としては日本一の高さである。
 この大尊像の設計監理は東京都の翆雲堂、鋳造が奈良県の金井工芸鋳造所、基礎ならびに境内環境整備の設計は山崎建築設計事務所、その工事は加藤組が担当し完成したものである。
  池田宗機
kannonji-bangai 201604

 酒田市亀ヶ崎にある「番外」の慶光山観音寺へ。「首番」と「番外」を含めて35ある札所めぐりもこれで27寺目となりました。

 写真の建物が、ここに鎮座する十一面観世音菩薩を安置する建物です。
 「亀ヶ崎十一面観音堂由緒書」の木製看板には次のようなことが書かれていました。

 当所に鎮座する十一面観世音菩薩尊像は、曹洞宗開山の道元の作と伝えられ、亀ヶ崎城主・志村伊豆守光安公の祈願仏である。
 道元が中国・宋の時代に留学から戻る際に大暴風雨に遭遇した時、中国での師から賜った一寸八分の観音に海路の無事を一心に念じ続けたところ、その霊験か、海面に一葉の蓮華に乗った観音大士が現れるや、一転して波静かになり恙なく肥後国(熊本)に着いたという。
 道元はその霊験に感激の余り、大士の尊像を彫刻して肌身離さず、また菩提得道の守護仏として、一寸八分の金仏を像の胎内に秘蔵したと伝えられている。
 昔、豊臣秀吉がこの尊像に帰依すること篤く、これを大阪城内に奉安していたが、後事を託する意味を含めてこれを最上義光公に贈り、義光公はその功臣である志村伊豆守に贈ったと伝えられている。
 またこの地は、当国三十三観音札所としても一般の信仰対象として崇敬を集めていたが、巡礼にまぎれて諸国の隠密が入るのを防ぐため、この札所を閉鎖して、光国寺(酒田市日吉町)に移したといわれる。(昭和33年、庄内三十三観音札所番外霊場として公認復活された)
 その後、最上家、志村家相前後して一族の不遇に見舞われその系統は中絶し、堂宇も荒廃してきたが、志村家などの旧家臣等が相集って観音堂を建立し、像は遷座してきた。
 なお、御尊像は秘仏のため、60年毎の己巳の年にご開帳が行われ現在に至っている。

 ――へえ、そういうことで「番外」なのですね。

 ところで、このあたりは旧地名で「鵜渡川原」といわれるところのよう。鵜渡川原って、伝統野菜の鵜渡川原きゅうりや、土人形の鵜渡川原人形などでその地名をよく耳にすることがあります。由緒ある場所なのかもな。
 寺のすぐ近くには「亀ヶ崎公園」があり、その中にはちょっとした高台があって、志村公の時代には立派な城があったことを思わせる城壁が復元されていました。
2016.04.18 土門拳記念館
domonken 201604

 春のある休日、土門拳記念館で「土門拳 日本リアリズムの巨匠」展が開かれていると聞いたので、行ってみたところ。

 土門拳(1909~1990)は、戦後日本を代表する写真家。リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院・仏像などの伝統文化財を撮影。激動の昭和にあって、そのレンズは真実の底まで暴くように、時代の瞬間を切り取ってきました。
 土門拳記念館は、一人の作家をテーマにした世界でも珍しい写真専門の美術館として1983年10月、土門の郷里である酒田市に開館。土門の全作品約7万点を収蔵。土門のライフワークであった「古寺巡礼」をはじめ、「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」「風貌」などの作品を、その保存を図りながら順次公開しています。

 来月から4カ月にわたってローマのアラパチス博物館で土門拳の写真展が開催されることが決まっており、庄内では今ちょっとしたブームになっています。

 戦前の那覇の青空市場で反物やイマイユ(鮮魚)を売る女性の表情が印象的。
 また、戦後すぐの子どもたちを追った「江東のこども」のシリーズ写真には、「アンヤタサ!」と膝を打ちたくなるような心境に。ボロは着てても心は錦。みんな生き生きと暮らしており、その目はきらきらと輝いていました。周辺の風景も懐かしさがいっぱいでした。


 日本陸軍大佐・八原博通。1902年、鳥取県米子市生まれ。アメリカへの留学経験に基づきアメリカの軍事状況を熟知し、第32軍の高級参謀として沖縄戦での戦略持久作戦を指揮。巧みな作戦指導によって圧倒的に優勢な米軍に多大な犠牲を与え、米軍からは「優れた戦術家としての名声を欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評されています。
 しかしその一方で、持久戦を展開したことが沖縄県民に悲惨な犠牲を強いることになり、後世その戦術に強い批判が集中することにもなりました。

 その八原が自ら筆を執って書き記したのがこの「沖縄決戦 高級参謀の手記」で、戦後27年を経た1972年に読売新聞社から発刊されました。
 そして、それからさらに43年を過ぎた2015年に中央公論から文庫本で復刊されたので、待ってましたとばかりにすぐに買ったものです。

 著者はその「序」で、「作戦参謀として、この戦いの企画指導に直接携わった私は、自らの立場に省み、また敗者兵を語らずの精神に従い、正面切って多くを語るのを今日まで拒んできた。だが作戦こそわが命と思っていた私には、作戦の巧拙善悪はいざ知らず、そうではない、実はこうであったのだと、叫びたいものがある。
 戦後もすでに27年、沖縄も本土復帰した今日である。私の記憶も薄らいでいるが、幸い戦時中ならびに戦争直後にかけて書き留めておいた記録がある。これを根拠とし、現在まで多く世に出た沖縄戦の史書で問題になった諸点も考慮し、敢えて沖縄戦の実相をここに訴えんとするものである」――と記しています。

 1945年6月23日、牛島満司令官と長勇参謀長が自決して第32軍は組織的な抵抗を終了しますが、八原はその直後に戦訓伝達のため民間人になりすまして脱出を図り、米軍の捕虜となります。
 軍の先陣に立って指揮にあたった高級参謀のこの行動が、陸軍内部での八原の評価を最悪なものとしてしまい、戦後は陸士同期会にも呼ばれることもなかったそうです。
 その後は生活に困窮し、故郷で夫婦で洋服生地の行商をしていたといいます。1981年没。

 戦場での領袖間の戦術面での対立はなかなかリアル。著者が自身の立場を美化する傾向があることは否めませんが、自信を持って己が思い描いている戦術を、様々な横槍や対立などに阻害されて縦横に展開できなかった悔しさはひしひしと伝わってるものがありました。

 520ページ余りの厚手のものですが、それにしても文庫本で1,450円+税というのは、ちょっぴりエクスペンシヴでないかい?