gochurenjo 201509

 三川町内の羽州浜街道を車で走っていて、前から気になっていた石碑がありました。
 押切バス停のすぐそば、無人精米所があるところです。

 ある日晴れた日に、車を停めてチェック。それには「明治天皇御駐輦所」と大書されていて、「穆英石禅謹書」と揮毫者が記されています。
 裏に回ると、「大正三年十二月建設」とあり、けっこう古いものであることがわかりました。

 調べてみると、明治14年(1881)に、明治天皇が県内を巡幸された折にここでご休息をとられたのだそうです。
 また、穆英石禅とは、新井石禅(あらいせきぜん、1865~1927)のことで、穆英は号なのだそう。曹洞宗の僧侶で總持寺の第11代管長をしたという偉大な人物のようです。

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ishizue 201509

 「明治天皇御駐輦所」の南隣にはぐっとモダンなモニュメントも建っています。これは何かな?と近寄ってみました。
 小さな解説版がありましたので、引用。

モニュメント設置ご案内
  製作者 東北芸術工科大学美術科助教授 前田耕成 氏
  作品名 礎(いしずえ)
  素材  本小松石
 三川町は、平成7年1月1日に合併40周年を迎えました。
 本町では、各種の記念事業を展開してきました。モニュメント設置事業も合併40周年記念事業の一環として行った事業であります。
 この前田先生の作品は、まさにメインテーマの「交流・文化・おもいやり」が象徴された作品であります。
 石の丸みは温もりと優しさ、おもいやりの心が伝わり、また、大小の石を5段に重ねたデザインは、広がる交流の輪を印象づけ、作品全体の風貌には文化の薫りが漂い、空に向かって真っすぐに昇っていく姿は、三川町の飛躍を表現したもので、□□発展の期待が込められた作品であります。
  平成8年4月22日 竣工
  三川町

 一部字が読めなくなっている部分があるのが残念です。


 沖縄はしばしば中国寄りと言われ、時には「沖縄は中国の手先だ」と批判される。そんな人々に問いたい。「あなたは沖縄を、本当に日本だと思っていますか?」
 本土と沖縄の対立をもたらしたのは、中国でもアメリカでもなく日本人自身なのだ。
 今、本土と沖縄の距離を縮めるために、私たちに何ができるのか。
 保守政治家として唯一人「普天間基地の県外移設」を訴え続ける著者の、渾身の提言だ!
 ――とは、古賀誠センセイがこの本の発刊に寄せた推薦文です。

 一方、代議士である著者は「はじめに」で、次のように書いています。
 沖縄の尊厳と日本の国益の狭間で悩み苦しみ、挫折と失敗ばかりの私自身の半生をさらすことにより、沖縄と本土の相互理解に資することにならないか。そんな使命めいたものを感じながら、本書を書きました。

 うむ、カッコイイよなあ。「使命」などと感じて自分に酔っている、政治家らしい言葉だよなと思ったり。

 著者は、自由民主党の衆院議員。父方の大叔父は元衆議院議員の國場幸昌、祖父は國場組創業者の國場幸太郎、義父は元沖縄県議会議員の西田健次郎というサラブレッドです。ちなみに國場組といえば、沖縄では知らない人はいない県下最大のゼネコンで、父はその「國場組」の元代表取締役社長です。
 高卒後1浪して日大文理学部哲学科に入学するも、古代ギリシャ語で挫折し中退。その後、早大雄弁会に憧れ、夜間の社会科学部に入学。比較政治学を専攻し、雄弁会では幹事長を務める。
 卒業後は米コロンビア大に語学留学し、帰国後、沖縄県知事稲嶺惠一の秘書。2000年には沖縄県議選に那覇市選挙区から出馬しトップ当選。20代での同議会議員誕生は史上初。当選後、自民党に入党。
 03年、県議を辞して衆院選挙に出馬するも落選。04年の県議選では自民党の公認を受けられず、無所属での出馬となったが、再びトップ当選。
 その後紆余曲折を経て、12年の衆院選に再出馬し、「沖縄復帰日の5月15日を主権回復記念日にする」「日米地位協定の改定」「米軍普天間基地の県外移設」等を公約に掲げ、国民新党の下地幹郎を破り当選。
 15年には、戦後70年の日本の歩みを検証する勉強会「過去を学び“分厚い保守政治”を目指す若手議員の会」の立ち上げに参加し、共同代表世話人の一人となる。

 当書では、「普天間基地を県外へ」、「沖縄で、保守であること」、「「復帰っ子」として生まれて」、「強大化する中国にどう立ち向かうか」、「李登輝総統の教え」、「沖縄と本土の距離を縮めるために」など、著者の政治的スタンスや基本思考を明らかにする内容の章立てが続き、最期にインタビュー形式の「「慰霊の日」に沖縄を問い直す」のインタビューが付録的についています。

 政治家の記す本というのはいつもその後ろに集票的な背景がちらつき、ノンポリティークな者にとっては多少胡散臭くて、読んでいて少々辛くなることがあるものです。
 この本もそういう一面がないとは言えませんが、高邁なことを書こうとせず、また、国会議員の中ではまだ一兵卒だという低姿勢が感じられるので、途中で打ち捨てることなく最後まで読めた次第です。

 こんな感想しか持てなくて相済みませんが、自分は沖縄のブルジョアを代表する國場組の御曹司がこれからどう生きていくのかを見ていく上で、彼のよって立つところを今のうちに押さえておいたほうがいいのかなあという考えでこの本を手にしたところですので、悪しからず。
ohkeyaki 201509

 「明治天皇御駐輦所」のあったところから羽州浜街道をさらに酒田方面に進んでいくと、左手に大きな木が見えてきます。
 これも未チェックだったので、某青果会社の生産者交流センターの広場に車を停めて見てきました。

 ここは「山の神神社」というところで、大きな木はケヤキ。
 町指定の文化財で、ケヤキは「町の木」になっていたのですね。
 説明板の記載内容を引用しておきます。


三川町指定文化財(昭和49年3月31日 指定第9号)
天然記念物「山の神のケヤキ」 所有者 山の神神社

 ケヤキは風に強い庄内地方の防風林として古くから利用され、親しまれてきた。
 この「山の神のケヤキ」は樹齢350年から400年といわれ、西風の強い三川町では、防風林の代表として、風土と植物の関連を示す貴重な存在である。
 三川町では、逞しくすくすくと伸びるケヤキの木を堅実な町民性と町の発展を表徴するものとして、昭和53年に「町の木」として制定した。
 山の神神社のケヤキは「町の木ケヤキ」の代表として町民から親しまれている。
  規模 根周り 7.05メートル   樹齢 350~400年
     目通り幹囲 6.40メートル
     樹の高さ 25.00メートル
     枝張り東 21.00メートル
        西  9.60メートル
        南 18.00メートル
        北 23.70メートル

山の神神社の由来
 山の神信仰は九州から東北地方に存在する田の神との去来民間信仰であり、信仰の目的は多岐にわたり、安産・豊穣・狩猟・漁労・家内安全の神として、祀られている。
 当神社の祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)であり、いつ頃からこの地に祀られていたかは不詳であるが、向拝柱(こうはいはしら)の斗組(ますぐみ)に嘉永3年再建と墨書銘があり、相当古くから祀られていたとおもわれる。
 社殿は木造流れ造り様式であり、鳥居は御影石の神明鳥居様式である。農家においては、五穀豊穣の神として崇められ、特に大工関係に携わる人たちの信仰は厚く、また浜衆の信仰も見られ、以前は魚の「オコゼ」なども供えられていた。
 祭神は大山祇命であるが御神体は石造の地蔵尊であり、神仏混淆の名残を留めている。神社境内は昔は赤川の川岸であり、船をつないだ所といわれたが、度重なる洪水により川は次第に西へ移行し、現在の地形となっている。
 祭日は3月12日(現在3月16日)、8月6日、12月12日の年3回である。
  平成元年10月  三川町教育委員会


 へえー、このあたりがかつては船停め場だったのですね。


 沖縄県の地理や地名、地図に隠された、意外な歴史のエピソードを紹介する――という、沖縄県民も驚くような雑学ネタが満載の本です。

 監修者の安里進は、首里生まれの琉大法文学部史学科卒、専攻は考古学・琉球史といった人物で、浦添市文化部長、沖縄県立芸術大学教授などを経て、おもろまちにある沖縄県立博物館・美術館長をしている人。
 なので、大衆向けの装丁で雑学を標榜していますが、バックグラウンドは確かで案外堅実な中身になっています。

 5つの章立てになっており、それらは「王国を支えた中心都市 首里城と首里の街」、「今も昔も移住者にやさしい活気ある街 那覇今昔物語」、「石器時代から現代まで続く知られざる沖縄本島」、「最西端から最南端まで 個性あふれる島々」、「なぜここまで違うのか? 地名の由来」。
 それらの具体的な内容(一部)は次のとおりです。

 聖なる道なのに歪んで作られている首里城正殿前の「浮道」の謎、平城京・平安京などは南向きなのになぜ首里城正殿は西向きなのか、龍潭に隠された治水技術、首里城へと続くメインストリート綾門大道、かつて首里には泡盛特区が存在していた?!、沖縄に仏教寺院が意外に多いワケ、王国時代の那覇港と泊港の使い分け、上之屋にあったスケートリンクのこと、御成橋と沖縄県庁の関係、世界初の工法で造られた那覇うみそらトンネル、「オキナワ」はいつから沖縄になったのか?、県内各地で見つかった謎の刻字石が高度な測量技術を裏付けた、沖縄に1,500m級の山がありスギが生えていた、沖縄本島と宮古・八重山には1時間の時差があった、沖縄の島名に「間」がつくのはなぜか、保栄茂の読みが「びん」になるのはなぜか、変わった地名の横綱はオーシッタイとガンガラー・・・などなどです。

 沖縄県民愛がぐーんと深まる知的ガイドブック。専門知識不要。誰にでも読みやすいようにつくられたものですので、この本あたりから徐々に沖縄の深みにはまっていくのもまたよしでしょう。


 洒落た表題。この本に関してはだいぶ前から読みたいと思い、ネットで探しても沖縄の書店で探しても見つからずに困っていたのでした。
 そして去年(2014年)の8月、那覇市沖映通りのジュンク堂でビニールに入って売られているのを見つけ、ヨロコビ勇んで即買いしたものです。

 崎山多美は1954年西表島生まれ。「崎山」姓は西表のものなので当然本名かと思ったら、違うのですね。本名は平良邦子です。
 琉球大学法文学部卒で、1979年「街の日に」で新沖縄文学賞佳作、88年「水上往還」で九州芸術祭文学賞受賞、89年「水上往還」で芥川賞候補、90年も「シマ籠る」で同賞候補に。この頃がいちばん勢いのあった頃だったでしょうか。

 書き下ろしの「月や、あらん」と、2001年「群像」で発表された「水上揺籃」の2作が収録されています。

 「月や、あらん」は、伝説の出版社のカリスマ編集者・高見沢了子が、突然に行方をくらましてしまいます。そんな女友達(イナグドゥシ)の残した仕事を引き継いだ「わたし」が、さ迷いの果てに出会ったマブイたちの、風の中に渦巻く声とは―― といった内容。

 筆致は独特で軽快。適度にウチナーグチが紛れ込んでいて、描かれる雰囲気はカンペキに「沖縄」です。それは次のようなもの。こういう自然体の文章って、好きだな。

 ひどい乾きに襲われ、ぐらっと立ち上がった。
 そこここに、ケ散らされヤマ散らかされた物々を、爪先で蹴りあげ踏みつけ、潰し、台所へ移動した。流し台横手の冷蔵庫を大開きにし、チブルごと突っ込んだ。
 つめてー。冷蔵庫なんだからそれはあたりまえ。目玉の動きだけで中を見渡す。千切られた明太子のパック、ゆでスパ麺の残り、卵2個しか食糧らしきものは見当たらない二段仕切りに、それだけ豪勢に買い置きされたオリオンビールの缶が10本、ぎゅぎゅっと押し込まれ、ひえひえの空洞を充たしている。3缶掴み取った。その場で開け、一気飲み。ぐびぐびぐびび……ふっふへぇー。息をつくや目の中がカァーッと火の海になる。酔いが急回転するもよう。アルコールの吸収が早すぎ。そういえば今日は朝からロクなものを口にしていない。よせばいいのに、いきなりのぼせあがったチブルをやみくもに振りかぶった。ますます、くららららぁー。その状態のまま、ほんの5、6歩あゆめば辿り着くヤマ散らかし放題の六畳の間に戻った。―――

 「水上揺籃」は、かつて演劇の場に身を置いた女性が、そのときの恋人に呼び寄せられ、あるシマへと赴く物語です。

 崎山多美の作品をもっと読みたくなって、ほかの作品を古書市場で探すのですが、発行部数が少ないのか、人気がありすぎるのか、どの作品も品薄で高価なので、なかなか手にすることができないでいます。


 沖縄に何度か足を運んだことがある人でも、「なんで食堂のカレーは黄色いの?」、「そもそも御嶽って何?」、「フリムンってなんですか?」などの疑問を持ったことがあるでしょう。これら日常の些細なことから根源的なことまで、知れば知るほどに「ハ・テ・ナ」が増えていくところが沖縄の面白いところです。
 このような文化・社会・日常生活などへの疑問や不思議に的確に答えながら、沖縄の「今」を伝えるべく、ウチナーンチュと沖縄移住者によって結成された「沖縄ナンデモ調査隊」が果敢に挑みます。

 双葉文庫のこのシリーズはこれまで、「沖縄のナ・ン・ダ!?」(2001)、「沖縄美味のナ・ン・ダ!?」(2002)、「沖縄・離島のナ・ン・ダ!?」(2006)がありますね。

 ところで「沖縄ナンデモ調査隊」ですが、そのメンバーは、仲村清司、長嶺哲成、嘉手川学、真喜屋力、伊藤麻由子、平良竜次、長嶺陽子、たまきすずこといった、沖縄のフシギを解明するのに欠かせない精鋭たちです。思えば彼らの綴る沖縄おもしろ紹介本を、自分は何冊読んでいるのだろうか。

 中身の一端を紹介しましょうね。
 「オバァ」と呼ぶのはOKなのか?、「~しましょうね」の連用形、肝で感じる「チムグリサ」の心、フリムンとアホとバカはどう違うのか、那覇はどうしてナハと呼ぶのか、日本一難読な地名をひもとく、沖縄食堂は絶滅危惧種に指定されるか、沖縄食堂進化論、コーグヮーシの今後の展望を考える、那覇に「夜市」が出現している!?、生ける伝説「平良とみ」メガ進化論、「首里劇場」から見る沖縄映画興行史、ウチナーンチュはなぜ柔軟剤ダウニーを好むのか?、沖縄タクシー事情、ウチナータイムの現在、那覇「てんぷら坂」今昔、コザはどこまでがコザなのか?、ジャーマンケーキってどんなケーキ?、お墓や仏壇セールの時期「ユンヂチ」って何?、ゆいレールは「県民の足」になったのか――などなど。
 ナンセンスがあれば、なかなかに学術的なものもあって、玉石混交。しかし、なんだかおもしろい。

 2015年のゴールデンウィーク、沖縄旅に連れて行った本で、伊平屋島の松金ホテルにて読了しました。


 2013年の夏に、大城立裕の本を古書市場からまとめ買いしたもののひとつ。2000年に発行されたもので、それを2015年の5月に読み、9月になった今、その読後インプレを書いています。

 沖縄の宮古島を舞台に、乳ガンに侵されたカンカカリヤの素質を持つ女性カメラマン「千寿」と、海洋学者でトライアスリートの夫「鳴海」をめぐる、濃密な生と死のエネルギーと流転を描ききる書き下ろし長篇小説です。
 巨大珊瑚礁、トライアスロン、競い合う巫女たち…などが登場して宮古島の風情、風景等が描かれていますが、それは観光名所紹介といった感じもないではありません。

 〈私といっしょに消えて……〉
 ついに思う。あなたは十分に走り、生ききったのだから、もう私といっしょに消えてもいいのではない? それから、生きなおそう。私はもう、それに賭けるほかはない。あなたも一緒……。海だっていま干潮に向かっているのよ。あらためて満潮を迎えるために……。
 八重干瀬では確実に干潮に近づきつつあって、珊瑚礁が大潮にふさわしく広大に浮き上がってくる。それを千寿は、自分と夫の命として見はるかし、あのなかへ二人で溶けこんでいけばよい、と願った。(本文より)

 うむ。こうしてコシマキあたりに書かれているキャッチを引用しているのはほかでもありません。数カ月前に読んだ内容をうっすらとは思い出せても、もはやポイントを押さえて記述することができなくなっているのですな。
 とりわけ単行本の小説ってのは「まえがき」や「あとがき」、「解説」といったものがないことが多いので、過去の記憶を手繰り寄せる端緒となるものが足りないのです。
 というわけで、こんな感想でゴメンナサイ。
kichijoji32 201510

 旧櫛引町の鶴岡市板井川にある「太白山吉祥寺」に赴きました。三十三観音めぐりの17カ所めになります。
 西荒屋集落の西側に位置するなだらかな山手にありました。

 わりと新しい門柱が建っている寺の入り口から本堂のあるところまではけっこう距離があり、その間は梵鐘や様々な石碑や墓群があって、かつては繁栄したところなのだろうと思わせるに十分です。
 しかし一方で、墓地には空きスペースが目立ち、大木を伐った伐り株の残りがたくさんあり、見通しがよくなってしまった庭内も静かなもので、過疎化の波がここにも押し寄せているのだなとも感じたところ。

 格別なものはありませんが、本堂前の庭はなかなか立派でした。
 本堂の入り口右側に次のように記された看板がありましたので、引用しておきます。

別格地 太白山吉祥寺
 開創 正平元年「六百三十余年トナル」
 本尊 釈迦牟尼仏守護文殊菩薩ヲ祭ル
 開山 徹山□廓大和尚「明峰派」 (□は「上」の下に「日」)
 本寺 金沢市大乗寺
 開基 大泉庄大梵寺城主 出羽大守 武藤持氏公
 中興開基 前羽州大守 最上義光公
 武藤家墨印 吉祥寺堂宇建立 寺領三百石 山林一理四方ノ寄進ヲ受ク
 最上家墨印 寺領六石
 末山 十二ケ寺
 霊場 庄内札所 第三十二番観音霊場   庄内百観音 第二十五番観音霊場

 なお、正平元年は、西暦で1346年です。


 沖縄でアイス売りのアルバイトを始めたばかりの浪人生の美咲が主人公。
 都会に憧れ、都会に進学しようと考えている美咲には、彼女のおじさんの学生時代の先輩でホームレスをしている元さんという一風変わった友人がいます。
 美咲はその元さんから、幻の飛行機で「誰も行ったことのない、この島とは別の世界」へ行こうと誘われます。
 「何よそれ。TVの観すぎなんじゃない?」と答えてはみたものの、深夜の空港に幻の飛行機がやってくることには興味津々の美咲。
 いろいろとあって、やってきた飛行機は!?

 表題の「アイスバー・ガール」は、沖縄タイムス社が主催する第30回(2004年度)新沖縄文学賞受賞作です。
 何よりも軽妙な筆致がユニーク。それに巧みな構成が加わって、選考委員からはその力量を絶賛されたそうで、その時著者は30歳でした。
 若い世代が台頭してきた2000年代の沖縄文学界を象徴した作品デアルということです。

 表題作のほか、これも20代のときに書いたという「テレビシンドローム」も収録されています。

 1975年から行われている新沖縄文学賞。応募資格は沖縄県内在住者または県出身者に限られ、これまでの受賞者の中には、又吉栄喜(佳作1975年)、勝連繁男(佳作1975年)、崎山多美(佳作1979年)、目取真俊(佳作1985年、入賞1986年)、照井裕(入賞1987年)、水無月慧子(佳作1988年)、松田良孝(受賞2014年)などの顔ぶれも。

 著者の赤星十四三は1974年沖縄市生まれ。当然ペンネームでしょうが、その後の著作活動や人となりなどについては、ウェブで調べてみるけどよくわかりまへん。
3sekibutsu 201510

 吉祥寺を出て道路を西側に少しだけ進んで行くと、看板発見。ナンダナンダと停車して見に行ってみました。
 それは「三石仏像供養塔」の案内板でした。次のように書かれていました。

 櫛引町西地区の発祥に結びつくと言われる吉祥寺をとりまく文化地帯は、古い歴史と象徴的な物件を持っている地域である。
 1600年代の仏像は、庄内でも数少ない時代にあって、延宝4年建立された三石仏像供養塔は、建立年月日やその経緯などの伝承がしっかりしており、貴重なものとされている。
 この三石仏像は、薬師如来・観音菩薩・千住菩薩の仏像を祭り、鶴岡市の相良奥右エ門寄贈によるものとされている。
 三石仏像は観音山の観音堂側に造立のものを、昭和45年ら本堂西側築庭へ移転されたものである。

 上記供養塔を櫛引町指定有形文化財に指定する。
  平成12年6月13日
  櫛引町教育委員会
  この奥20M

 ほほう。草が生え、蜘蛛の巣がはっているようなところだけど、当然見に行く。
 いくつかの石碑とともにそこにあったのは、写真のようなものでした。ここだけ屋根が設えられています。
 山から平場のこちらのほうに移してきたのですね。
dainichibo9 201510

 旧朝日村大網地内にある「湯殿山大日坊」に行きました。

 弘法大師が湯殿山を開いた際に、湯殿山付近の道が険しくて参詣に困難と考え、この地に湯殿山大日御滝の不動を勧請して開創されたのだそうです。
 当山の本尊である胎蔵界大日如来は、弘法大師の作といわれ、開帳を禁じられています。
 また、本尊の前立になっている大日如来は、徳川三代将軍の春日局の寄進と伝えられています。

 大日坊は即身仏があることで有名ですが、本堂に祀られている即身仏は、当村越中山の進藤仁左衛門のものだといわれています。
 かつて、そうなあ、30年も前に一度ここまで来たことがあるはずなのですが、同じ場所に立ってみても思い出されるものは何もなく、初めて見たのと変わりません。

 高年者のグループやバイク旅の男性など、参拝者を多く見かけました。


 沖縄に感心を抱くフリーカメラマン木村敦は、沖縄の公共事業に貢献し藍綬褒章を受章した故・緒方秀郎の記事を見つけ、「陸軍中野学校」出身であることに興味を持ちます。
 緒方と縁のある慶良間諸島のM島に向かった木村は、緒方について取材しますが、住民の口は一様に重く、思うように真相にたどり着くことができません。
 しかし、その後木村は、アイヌの血を引く仙波千恵と出会ったことでヒントを得て、調べていくうちに、沖縄戦の前に陸軍中野学校の卒業生42名が沖縄に入っていたことを知ります。
 卒業生たちの緒方との関わりは? 時を経て明かされる沖縄戦への大本営の巧妙な意図とは?

 ――といった、十津川警部シリーズとは一味違った推理小説で、表題からは想像できないような中身になっていますね。
 しかしそれにしても、木村が考えついた、沖縄戦に陸軍中野学校の卒業生が派遣された理由については、かなり突飛で、史実を踏まえればそんなのあり得るわけないじゃんとしか言いようのないもの。それをさもありそうなことであったかのように読まされるのは少々辛いものがありました。

 どれぐらい突飛なのかは、読んで確認してみてください。
 緒方秀郎は、山形市内にある緒方建設という会社の経営者とい設定で、山形のグランドホテルで受章祝賀会をやる、なんていうシーンも登場するので、山形在住者にとっては興味深いものがあります。
dainichi-hokyoin 201510

 これまでも何カ所かで宝筺印塔を見てきましたが、大日坊の宝筺印塔はデカい!
 ――というので、思わず写真を撮ってしまいました。

 下の看板には次のように書かれていました。

朝日村指定有形文化財 宝筺印塔
 高さ8メートル、重さ30トン、台座4メートル4面
 建設年月日 寛永5年6月
 再建年月日 天明3年5月
 移転年月日 昭和9年8月15日
 同     昭和46年8月25日


 再建されてから2度移転しているのですね。
 寛永5年は西暦で1628年、天明3年1783年です。
2015.10.15 大日坊仁王門
dainichi-niomon 201510

 大日坊には上の駐車場まで車で行ってしまいましたが、その少し手前に「仁王門」がありました。大日坊を後にするにあたって、ここもチェックです。
 看板を引用。

大日坊「仁王門」
 仁王門が建てられた年代はよく分らないが、構造や様式などから、中世室町以降の古い建築と考えられている。県内では最も古い三間一戸の八脚門で、わが国寺院建築史の上で重要な建築物である。
 屋根は茅ぶき様式としては絵様彫刻や粽(ちまき、上・下を丸く細くした柱)のある円柱など、禅宗様式(唐様)だが、和様の曲線や大仏様式の特色も混じった中世建築の見本のような建物である。
 平成7年12月8日県有形文化財に指定されました。
  朝日村教育委員会


 門の中には阿吽の仁王2体と風神・雷神が安置されていました。
churenji 201510

 次は、大日坊からそう離れていない、同じ大網の七五三掛(しめかけ)地区にある「湯殿山注連寺」に行きました。
 注連寺は修復中。しかしその中からは何人かが集まって話している声が聞こえます。本堂前には関東地方ナンバーの車などが複数台停まっていたので、法事でも行われていたのではないかと思量します。
 ということは、墓地は見当たらないけど、今も檀家がいる寺である、ということなのかもしれません。

 注連寺は、天長十年というから西暦833年、弘法大師が湯殿山開創のみぎりに当部落に立寄り、時の楯元であった渡部修理太夫の援助を得て清浄の地に一宇を建立し、湯殿山の本地仏、大日如来の御尊像を刻んでここに安置したのが始めだとされています。
 湯殿山関係の寺院としては最も古く、最も弘法大師に因縁の深い寺という位置づけになります。
 かつてこの寺は、湯殿山、表口、根本執行、七五三掛坊、護国院、注連密寺と称し、一般女性の登山はここをもって最後とされていたそうです。

 寺の左手には、旧朝日村が指定した天然記念物「七五三掛桜」があり、その先は鶴岡市が指定した「森の散歩道20選」のひとつの「六十里越街道・十王峠コース」の入り口になっていました。
gassan-hi 201510

 注連寺の正面から右手のほうに歩を進めると、大きな碑がありました。

 月山
 すべての吹きの 寄するところ
 これ月山なり

 森 敦
 昭和56年8月 建立


と刻まれています。
 また、碑の後ろには小さい字で以下のように記念碑建立の経緯が刻まれていました。

ながく庄内平野を転々としながらも、わたしは……
 この書き出しではじまる森敦先生の小説「月山」は、昭和48年第70回芥川賞を受賞されました。
 小説「月山」は森敦先生が庄内平野放浪の途次、昭和26年晩夏から翌年春にかけて、月山の山ふところなるここ注連寺に滞在し、厳しい雪の山村にひと冬を過ごされた経験を、清冽な筆をもって活写されたものであります。
 私達は森敦先生がこの地で歳月を送られてから30年になんなんとするを機とし、各界の絶大な御賛同を得て、森敦先生文学記念碑の建立、並びに記念文集の刊行をみるに至りましたことを心から喜びとするものです。
  昭和56年8月28日
   森敦先生文学記念碑建立並びに記念文集刊行実行委員会


 それから、建物の軒下の壁面に、この碑や森敦にまつわる顛末がわかる説明書きがありましたので、引用しておきます。

小説「月山」と森敦  「森敦文庫」ここにありき
 作家・森敦は、昭和26年晩夏から翌年初夏にかけてここ注連寺に滞在し、厳しい雪の山村にひと冬を過ごした経験をもとに、小説「月山」を著しました。
 昭和49年、「月山」の芥川賞受賞を機に、作品世界に魅かれ、舞台となる当地の自然、風土に浸りたいという想いから、多くの人々が注連寺を訪ねるようになりました。
 昭和9年の処女作「酩酊船」発表から40年、「月山」で沈黙を破り文壇に再登場した森敦が構築する森文学は、独自の世界観、死生観と清冽な文体によって多くの読者を魅了し続けています。
 いずれの著作の中にも登場し、あらゆる角度からその意味が問われている作品こそ「月山」であり、注連寺とその周辺の稀有な精神的宗教的風土であります。まさに、森文学の根源はここにあると言っても過言ではありません。
 これらを永く記憶にとどめるために、森文学を愛する人々によって、昭和56年に建立された「月山」文学記念碑は、月山の如く雄渾な姿をたたえ注連寺境内に端然と聳えております。昭和61年には、多くの人々の熱意と御芳志により同地に森敦文庫も開設されました。
 これらに並行し、注連寺境内を主会場に昭和56年から月山祭が開催されております。月山祭は、森文学の顕彰と探求をねらいに森敦を敬慕する全国の人々、多くの作家や文化人、地元の人々等が森敦を囲んで語り合い、交流する催しであります。
 平成元年に森敦は亡くなりましたが、亡くなった後も月山祭は継続して開催され、平成9年以降は祭りの趣旨を踏まえながらも地元中学生の感性を育む事業へと変貌を遂げました。平成16年に幕を閉じるまで実に24年間にわたりこの地域に文化的な刺激と話題を与え続けていただきました。
 その後森敦文庫は、建物の老朽化が進んできたことなどの理由から廃止、解体されることとなり、平成24年、境内からその姿を消しております。加えて、平成21年に発生した大規模な地すべりにより、全ての世帯が移転して七五三掛集落が消滅するなど、大きく環境も変わりました。
 平成24年9月、注連寺で森敦生誕百年祭を開催したところ多くの人々が集い、さながら「月山祭の復活」の如く在りし日の森敦をシノビアウ盛大な催しとなりました。
 今後とも、当地を訪れる人々の心に森敦と注連寺、文学記念碑、森敦文庫、当地の自然、風土が佳き思い出として残るならば私たちの喜びとするところであります。
  平成24年10月
    森敦生誕百年祭実行委員会
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 庄内三十三観音第7番札所の「寺尾山法光院」を見に、旧櫛引町黒川の宮の下に赴きました。
 しかし、法光院は県社春日神社の陰に隠れて影の薄い存在になっていました。
 その春日大社は、赤くて立派な鳥居の先に山手へと進むまっすぐの石段があり、それを登っていくとたどり着くようになっています。威風堂々。こりゃあ歴史があるぞ、きっと。

 鳥居付近の左側には「清和政右衛門翁之碑」とか、「清和斧松先生之碑」などなどが建っていましたが、彼らって何者?
 調べてみたところ、清和政右衛門(せいわまさえもん)は黒川能の地謡、清和斧松も謡曲の師匠だということです。

 また、鳥居の右手には「春日神社由緒」の看板がありましたので、引用しておきます。

春日神社由緒
 祭神 健御賀豆智命(タケミカヅチノミコト) 伊波比主命(イワイヌシノカミ)
    天津児屋根命(アマツコヤネノミコト) 比売命(ヒメノミコト)
 平安期の初期大同2年(807)の創建と伝えられる。
 古くは新山明神と称し享保年間の頃には四所明神とも申されたが寛政年間には春日四所明神と崇められていた。
 13~16世紀に庄内地方を領有した武藤氏(藤原一門)が篤く崇敬し、神殿造営神儀明定等を行い、社領祭具能面等を寄進、特に当社に古くから伝わる神事能を保護したことが、古記録や遺物によって明らかである。
 慶長7年(1602)、最上氏の時代に同17年、黒印状で56石余の地が寄進され、元和元年(1615)酒井氏入部後は社領全免を承認、殊に神事能を重んじて元禄3年(1690)正月、鶴岡城中で藩主上覧があり、かつ黒川能を藩楽とした以後も度々の上覧があり、明治維新後も酒井氏援助のもとに黒川能は神社と共に大いに発展、明治以後は度々天皇、皇族方の御上覧を仰いでいる。
 この神事能は能楽の古風を保っているものとして注目を浴びているが、都からこの地に下られた尊い御身分の御方によって伝えられたものと云われている。
 当社では氏子即能役者であり、少なく見ても去る五百年の昔から春日神社への信仰を支えとして、当社最大の祭りである王祇祭をはじめ主要祭祀にはすべてこの農民である能役者によって黒川能を奉仕し神威の顕彰に努めている。
 昭和51年、国の重要無形民俗文化財に指定される
  平成5年8月吉日

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 石段を登っていった先に見えた社殿は、ご覧のとおり。
 風格を感じる建物で、もっとも社殿に近いところにある石像は、狛犬ではなく、これは鹿?

 春日神社の周辺には、黒川能伝承館や王祇会館など、黒川能にちなんだ建物がありました。



 サトウキビが島の風景をつくり、毒蛇ハブが人々を脅かす沖縄・奄美の島々に、もう一歩深く踏み込めば、いつしか島の空気に体が溶け出し、島に酔う快感を覚えることができるのではないか。
 そんな思いをもって、中年おじさんが常夏の島を旅する様子が描かれています。

 1999年発行の本で、発刊当時に何度か買おうとして食指が動いたのですが、2,800円もする本なので、名も知らぬ作者の旅行記にそこまで出すものかと自問自答してずっと思いとどまっていた本なのでした。
 それが古書市場で53円(!)で出ていたので、2015年1月にゲットしたものです。

 内容は、第1章「中年オジさん二人組 旅に行く」では、「沖縄本島団体ツアー客ウォッチング旅」と「奄美大島サタヤめぐりフムフム旅」。
 第2章「南の島の風土を語る黒糖とハブ」では、「砂糖がつくる南の島の風景」と、「ハブが語る南の島の風土」。
 第3章「私の旅は人との出逢い旅」では、「旅のはじめに―事前調査で楽しむ南の島の旅」と「旅と酒―酒は人間修行の場である」と「私の旅の記録」。

 ていねいなつくりなのだけど、第1章あたりはまったくフツーのツアー旅について書いており、パックツアーの選び方から始まって観光メッカを歩くという具合で、これって個人のホームページに載っている旅行記?と思わせるようなもの。
 そうかと思うと第2章は、著者は糖業、黒糖、製糖などについてかなり詳しく書かれていたりして、ギャップが大きかったり。
 第3章はまた戻って、自分の旅の仕方についていろいろ書いており、これも個人のウェブページレベルでしょうか。
 そんなことで、期待が大きかっただけに、残念。原価で買わなかったのは正解だったかな。

 ところで、著者の鹿子狂之介(かのこきょうのすけ)という人物については、たぶんペンネームなのだろうけど、謎。「はじめに」には「日頃仕事がら、取材原稿書きとか商品の広告宣伝文書きがもっぱら」とあり、どうやら編集者のようです。また、著作はこの1冊のみのようです。
 それから、「えあ社」という出版社はウェブ上には見当たらず、おそらく鹿子さんが個人的にやっているもののようだし、表題には「南へ①」とあるのに②はまだ出ていないのかも。


 「こんな日本人がいた! 命がけで人を守り、戦いぬいた男。
 島田叡という人物をご存知だろうか――? 1945年1月太平洋戦争の最中、米軍が迫る沖縄に戦中最後の知事として赴任。5カ月の間だが、県民保護の立場を貫き通し、沖縄県民と最後まで行動をともにした。玉砕が叫ばれる中で「生きろ」と言い続けた島田の生き方を通して、沖縄戦とはどのようなものだったかを伝え、命の重みを問う。」 ――という新書。
 島田叡の足跡をまとめた名著として、「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(田村洋三著、中央公論新社、2003)がありますが、それ以来のしっかりとした島田モノでしょうか。

 TBSテレビ報道局の30代から50代の記者やディレクター6人で構成する取材チームによるもので、彼らは岩城浩幸、藤原康延、黒岩亜純、佐古忠彦、片山薫、岩波孝祥。
 全6章。赴任直後から決戦が迫ってきた沖縄での島田の行動をまとめた第1章「赴任直後に県政を再生」、首里から島尻へと進んだ逃避行の様子がわかる第2章「移動を続ける県庁を指揮」、野球選手として活躍した学生時代の島田を追った第3章「島田という人間をつくったもの」、中央勤務経験のない異色の官僚時代を記した第4章「名選手から異色の官僚へ」、最期の秋を迎えた第5章「今をもって県庁を解散する」、戦後に島田の歩いた道をたどる第6章「島田叡の目指した道」。

 この取材班の成果は、「報道ドラマ「生きろ」~戦場に残した伝言~10万人の命を救った沖縄県知事・島田叡」という2時間超の特番として、2013年8月7日に地上波TBS系で放映されました。
 自分は、2015年の終戦記念の日の8月15日にBS-TBSで再放送されたものを録画保存しています。