gorintou 201507

 光明山極楽寺にあった五輪塔と宝筺印塔がこれ。
 大事なものらしく、他の石碑等と区別され、石瓦屋根のついたお堂に納められていました。

 ブリキ版に筆書きしただけの案内板には、消えかかった文字で次のように記されていました。

山形県指定有形文化財
   五輪塔(ごりんとう)2基(高さ0.76m)
   宝筺印塔(ほうきょういんとう)3基(高さ1.12m)
 五輪塔と宝筺印塔はともに平安時代末期、鎌倉時代初期に現れた石塔である。
 五輪塔は、仏教の世界観として知られる地、水、火、風、空の宇宙構成の五大原素をそれぞれ四角、円形、三角、半月、団形で表現し、これらを塔形に積みあげたものであり、宝筺印塔は蓋の四隅に馬耳状の飾りの立っているのが特色で、これが垂直に近く立つほど時代の古さを示すものとされている。
 この五輪塔と宝筺印塔は、石質がともに花崗岩であり、その形から鎌倉時代中後期のものと推定され、昭和28年2月13日山形県の有形文化財に指定されたものである。
 昭和58年1月14日
 所有者 極楽寺

 ウェブで調べてみました。

・五輪塔は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種で、五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。
 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。

・宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに、石造の遺品が多い。
 中国の呉越王銭弘俶が延命を願って諸国に立てた「金塗塔」が原型だとされている。
 石造宝篋印塔は銭弘俶塔を模して中国において初めて作られ、日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。
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jizoin08 201507

 鶴岡市大山の馬町地内にある第8番札所「椙尾山地蔵院」にも寄ってみました。

 開基は、「犬祭り」で名高い大山町の椙尾神社の創立と同じ。椙尾神社が神仏合体して祀り、繁栄を極めていた時代には、坊が六坊あったといわれ、地蔵院の前身は六坊の一つで、主坊格であったようです。
 明治維新の神仏分離によって、六坊あった坊は地蔵院を除いて全部廃止となり、ここだけが独立したもの。

 その当時の住職・晃順和尚が、明治20年7月に本堂再建を志し、椙尾神社氏子2町48村を信徒とし、毎年守護札を配分して十万信徒の浄財を仰ぎ、氏子有志とともに越後の国から五葉松材を購入して建立した――という歴史があります。このため観音堂は五葉松殿ともいわれるのだそう。
 本尊は四国三十三所のうち、山城の国清水寺の本尊千手観音の分霊を勧請したという霊験あらたかな観音像。

 ――というのですが、墓はなく、現在は檀家はいない模様でした。
 前庭の一角には「延命子安地蔵」が立っていましたが、それ以外は何もないと言っていいぐらい殺風景。境内のあちこちに幟を刺すための塩ビパイプが地面上に設えられており、これに蹴つまずくこと2回。足元がこれでは、高齢者は信心深くてもなかなか近づけないと思うのですけどね。

 それと、三十三観音と銘打って観光客を呼ぶのであれば、これではあまりにも不親切ではないか。もっと解説する看板とか、誰にでも判読できるガイドブックとかが必要だと思うのだけどな。
shoudenji23 201507

 庄内三十三観音めぐりの8か所目は、鶴岡市播磨にある「光国山勝伝寺」。
 結論から言うと、これは普通のお寺。少ないけれど檀家はあって、数十ほどの墓が左奥にありました。北側は鶴岡市立栄小学校。

 入り口から山門までは数十メートルのアプローチがあり、その途中には新しめの石灯籠があり、両側の植え込みはきれいに丸みを持たせて刈り込んであります。
 また、山門の手前には、上杉最上古戦場云々と掲額され、黒く塗られた門がありました。
 その黒門をくぐった左手には「聖観世音菩薩」の新しい石造があり、山門には仁王像はなく、仁王がいるはずの場所には農機具が置かれていました。

 開山は越後国村上の耕雲寺の第七世審厳正察(しんごんしょうさつ)禅師。師は仙台市輪王寺より村上に転任したが、その間八十余年、末寺建立に努め、延徳三年(1491)に当寺において示寂されたといわれる。
 庄内札所御詠歌の当寺の歌詞に、
  播磨なる 飾磨(しかま)に遠き 果てまでも 法を思えば 徒歩(かち)よりぞ行く
と唱われるが、天正年間(1573~93)、播磨国飾磨の城主赤松則村が足利氏と争ったものの惨めな敗戦となり、赤松の家臣たちが羽黒を頼って奥羽に亡命して来た。
 その後羽黒から天台宗宝蔵院と共々に現在の播磨に居を構えることになり、この地を開墾してようやく生活も安定することができたという。
 本尊は聖観世音菩薩で、一名身ごもり観音ともいわれており、鎌倉時代のものと思われる優美な霊仏なのだそうです。


 ははあ、だからこの地が「播磨」なのですね。
 また、仙台北山の輪王寺は自分にとって思い出深い場所。その入口すぐ左側の平田という姓の下宿屋で、18歳時代の1年間を暮らしたことがあったのだ。道路拡張か何かで、今はもうその下宿屋はなくなっただろうが、そこで暮らした濃密な日々の思い出は今でもしっかり脳裏に焼き付いている。
suwa-aotsuka 201507

 遊佐町のR7を北上していると、「旧青山本邸」の標識が目についたので、遊佐町比子字青塚の集落に入ったところ、本邸の手前に「村社 諏訪神社」があったので、寄ってみました。

 「山形県の町並みと歴史建築」というホームページによると、この神社の概要は次のとおり。

 弘治元年(1555)の創建。
 青塚集落の浜辺で舟が難破漂着し、その舟の中にあった神像を祀ったのが始まりと伝えられている。
 その後、青塚集落の鎮守として信仰され、諏訪大社(長野県諏訪市・下諏訪町)の分霊を勧請した。
 特に青塚集落出身で、ニシン漁で財を成した青山家が庇護し、明治19年(1886)には青山喜左右衛門が境内に出羽三山碑を寄進している。
 拝殿は入母屋、桟瓦葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、板張素地、向拝木鼻には獅子、桁には荒波、左右の蝦虹梁にはそれぞれ力士像(向って右側が阿像、左側が吽像)の彫刻が施されている。
 本殿は覆われているため詳細は不詳だが、一間社流造、桟瓦葺と思われる。
 明治時代以降の社格は村社。祭神は建御名方命。
 神像が海から出現した事から、特に漁民から信仰の対象となり、数多くの船絵馬が奉納され、そのうち54枚が平成15年(2003)に遊佐町指定文化財に指定されている。


 鳥居の手前には国旗掲揚塔が配され、境内には古い狛犬と新しめの石灯籠。そして、「昭和参年十月廿四日 参拝 第八師団長陸軍中将眞﨑甚三郎閣下」という、昭和10年10月に記念碑がありました。

 今回は中には入りませんでしたが、旧青山本邸は、明治20年(1887)から明治23年(1908)の3ケ年かけて造られた、漁業王・青山留吉の本宅。
 留吉は、天保7年(1836)に嘉左衛門の第6子として生まれたが、当時の青山家は小規模に行っている父親の漁業と母親の行商により生計を立てていた。
 留吉は18歳の時一養子に出され、24歳になると、単身北海道に渡り雇漁夫として働く。
 翌年には小さな魚場を持つことができ、その後徐々に魚場を開拓し、遂に魚場は15箇所を数え漁船は130隻、従業員は300人余りになったと言われている。
 遊佐町にある本邸も新築することになり、地元の棟梁である土門市郎左エ門を中心に工事を進め、近郷には比類のない豪華な宅邸が造られた。
 間口12間、奥行7間の切妻、瓦葺きの母屋を中心に、明治29年(1896)に竣工した離れ(間口4.5間、奥行3間)や土蔵や倉庫など次々に建てられ、通称「ニシン御殿」と称される程になった。
 内部の意匠も凝ったものが多く、造作材などは春慶塗で施され、細かな細工や彫刻、金物に至るまでよく吟味されたものを使用している。
 留吉が73歳の時、遊佐町に戻り、ここで81歳まで隠居生活を営んだ。
 現在の旧青山本邸は内部も一般公開し、平成12年(2000)に「旧青山家住宅」として国重要文化財に指定されている。――とのことです。
shouyoiji21 201507

 遊佐町吹浦字丸岡にある第21番札所、鳥海山松葉寺を訪問。女鹿地区の山手のほうにある寺で、細い道を挟んだ向かいには「女鹿自治会」の建物。鳥居の脇には1台だけ停められる駐車スペースがあって、その目の前には大きめの庚申塔が立っています。

 両脇に「鳥海山大権現安置霊所」「荘内札所第廿一番 女鹿 松葉寺」と書かれた石塔を従えた石段を登ると見えてくる山門や社殿は、なぜか組み上げられた鉄パイプで覆われており、社殿自体も集会場的に使われている模様で、あまり手がかけられているようには見えません。
 しかし、立派な仁王像が山門に安置されているのには拍手。
 前庭には「弘法大師一千百五十年遠忌勤修碑」などというものもありました。

 どうやらここも檀家なしの寺のよう。寺の裏手は、いくつかの自動遊具も備えた「女鹿農村公園」になっていました。

 調べたところは、次のとおり。

 約一千年前の万寿年中の開山で、乃善和尚なる人物が三崎峠に建立し、第一世となる。
 鳥海山神宮寺の学頭であったが、明治初年の神仏分離により鳥海山大権現並びに末社の雷風神社本尊千手観音をこの寺に安置し、庄内札所第廿一番となった。
 戦後、如意輪観音を安置して荘内平和観音第七番をも併置し、また、三崎神社本尊慈覚大師の尊像も安置することになった。

 なお、次のような昔話があります。
 嵯峨天皇の御代(809~823)、三崎峠に手長脚長(あしなが)という山賊が出没して往来の人を悩ませた。道行く人も減り、村人は酉の刻(18時)に至れば門戸を閉じ、夜には火を焚いて寝ていた。
 しかし、仏様のご加護なのか、どこからともなく三本足の烏が現われ、山賊が出た時は「有耶」と鳴き、出ない時は「無耶」と鳴いたという。
 諸人はその鳴き声を聞いてその難をまぬがれたという。

 これが三崎峠付近にあっとされる「有耶無耶の関」の云われになっています。
kaizenji16 201507

 札所めぐりの10か所目は、遊佐町吹浦字横町の松河山海禅寺。
 ここは、集落内の普通のお寺という感じ。エリア内に足を踏み入れるとお香の香りが漂い、建物の後ろ側の山に回ればたくさんの墓が並んでいました。
 逆の見方をすれば、札所としての風情はあまりないと言っていいのですけどね。

 慶長17年(1612)、落伏していた永泉寺第17世の海禅和尚が 、鳥海山大物忌神社信仰に対して庶民の信仰を布教・教化しようとして開基したとの言い伝えがあります。
 当寺の千手面観世音は、現住職悲願の観音で、“ひめ小松”一本造りの高さ1丈6尺(4.8m)もある庄内一の大きな観音像だそうで、その胎内には酒田市加藤安太郎氏寄贈の、石原莞爾将軍が信仰した文殊菩薩が納められている霊仏なのだそうです。

 これといった説明書きもなく、三十三観音を巡る者としてはいささか面白味のない寺だったかも。
 寺の近くを走る羽越線を、列車が走る音。
 寺の入口には町が設置した「この付近の高さは海抜約19m」の看板があり、寺の境内が津波避難場所に指定されていました。
ohmonoimi-warabioka 201507

 庄内三十三観音第19番札所の鳥海山龍頭寺に向かったところ、それと並んで「鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮」がありました。おお、こっちのほうがずっとでかいぞ。
 ということで、まずは大物忌神社のほうから見ることにします。

 神社なので仁王像のない山門があり、その手前には鳥海山大物忌神社の由緒を示す案内板がありました。こういう案内って、多くの人を呼び込むつもりならば絶対に必要だよなとつくづく思う。こういうのがないと、ありがた味がわからないし、以降の記憶にも残らないもんな。

出羽国一之宮 鳥海山大物忌神社 由緒(略誌)
御祭神 大物忌神(倉稲魂命・豊受姫神と同神)
由緒 社伝によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564)の御代と伝えられている。
 鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。
 本殿は山頂に鎮座し、麓に「口ノ宮」と呼ばれる里宮が蕨岡と吹浦の2ケ所に鎮座する。
 大物忌神社は貞観4年(862)11月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。
 後に出羽国一之宮となり、朝野の崇敬を集めた。
 特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。

  中世、神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治3年(1870)神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治4年5月吹浦口ノ宮が国幣中社に列したが、同13年(1880)7月に山頂本殿を国幣中社に改め、同14年(1881)に蕨岡・吹浦の社殿を口ノ宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。
 昭和30年(1955)に三社を総称して現社号となる。山頂の御本殿は、伊勢の神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている。現在の御本殿は平成9年(1997)に造営された。

 平成19年(2007)当神社の社殿及び随神門・神楽殿が国の登録有形文化財に指定され、平成20年(2008)には、山頂本殿から口ノ宮にいたる広範な境内が、国の史跡に指定された。

 主な祭日(蕨岡口ノ宮)
  1月7日   御種蒔神事
  5月3日   例大祭 蕨岡延年舞奉納
  6月25日  五穀豊穣祈願祭・稲荷神社祭
  10月2日  荘照居成神社祭
  11月12日 新嘗祭

  平成23年3月吉日復元
  NPO法人 遊佐鳥海観光協会


 うむ、いい仕事してるよね、遊佐鳥海観光協会。

 また、境内の概要についても、絵入りで次のように解説する説明板がありましたので、引用しておきます。

鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮境内  平成20年3月28日 指定
 鳥海山は、その雄姿と度重なる火山活動から、不安定な治安と相まって古代から神階奉授が繰返され、大物忌神(おおものいみのかみ)として崇敬されてきた信仰の山である。
 中世には修験道の霊場としてその地位を確たるものとした。
 近世になって、鳥海山を取巻く各地には、修験衆徒がそれぞれ活動拠点を設け、霊峰への登拝口とした。なかでも蕨岡の衆徒は、龍頭寺を学頭として、鳥海山表口、順峯・蕨岡三十三坊と称して、登拝口の中でも最も強大な勢力を誇った。
 本境内は、「大泉坊長屋門」(国登録有形文化財)など、宿坊集落の面影を残す上蕨岡(かみわらびおか)地区(通称「上寺」(うわでら))のほぼ中央に位置する。
 庄内藩主酒井忠器(たたかた)公の寄進による「出羽一之宮」の扁額のかかる随神門(かつての仁王門)を潜ると、右手に朱塗りの神楽殿が見えてくる。
 神楽殿では、5月3日の例大祭(「大御幣祭(だいおんべいまつり)」)にあたり、山伏の修行・通過儀礼と一体を成す芸能である「蕨岡延年」(山形県指定無形民俗文化財)が奉納されている。
 さらに、参道を進むと、三の鳥居を経て、広い前庭をおいて、本殿が南面して建っている。かつての蕨岡口の隆盛のありさまが偲ばれる豪壮な社殿である。
 この他、境内には、酒田の豪商本間光丘(みつおか)寄進の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(遊佐町指定有形文化財)や、天保年間の三方領地替騒動に関わる矢部駿河守定謙(さだのり)を祀る末社荘照居成神社(遊佐町指定有形文化財)があるほか、約400段ある石階を上った、松岳山(しょうがくさん)中腹には、峯中修行の記念碑である「峯中碑伝」や、海抜150m程の低地に奇跡的に残されたブナ自然林(遊佐町指定天然記念物)がある。
 本史跡は、鳥海山の信仰、文化遺産を代表するものである。

 ナルホド、厚みがありますね。
mitsuoka-houtou 201507

 随神門をくぐってすぐ左手にある、酒田の豪商本間光丘が寄進したという宝篋印塔を見ます。加茂の光明山極楽寺にもありましたね、宝筺印塔。

 解説版がありましたので、引用します。


遊佐町指定有形文化財 宝篋印塔
   「寛政十二(1800)申年閏四月日」建立 平成18年3月30日指定
 本塔は、酒田の豪商本間家第3代、中興の祖ともいわれた本間四郎三郎光丘寄進による逆修の宝篋印塔である。
 「逆修」とは、生前に石塔等を建てる事により、死後の極楽往生を願うもので、建立は光丘69歳、亡くなる1年前のことであった。
 「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」を納める供養塔を「宝篋印塔」といい、石造の塔は、鎌倉中期から造立された。形態的には基壇上に、基礎・塔身・笠・相輪を積上げ、笠部には段型と馬耳突起(隅飾突起)とを備えている。塔身の四面に梵字を彫る。
 本塔は、中央に真言密教の中心仏「大日如来」の種子「バン」を配した「金剛界五仏(五智如来)」が彫込まれている。
 本塔は、総高5m12cmにもなる、威風堂々たるもので、本間家の財力と、鳥海信仰の篤さが推し量れる。
warabioka honden 201507

 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮の本殿です。
 この山の中にあって、けっこうでかっ! 「蕨岡口の隆盛のありさまが偲ばれる豪壮な社殿」というのは確かです。

 説明板の記載事項を移記しておきましょう。

国登録有形文化財 鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮本殿  平成19年10月2日 登録
 本殿は、桁行3間、梁間6間。切妻造銅板葺屋根で、正面に1間向拝を付ける。桁行総長は13.8m、梁間の実長も16.9mにも及び、床高も2.3mあまりと高く、非常に規模の大きい建物である。
 内部は外陣と内陣に分かれ、背面側の中央間に宮殿を造る。絵様や装飾的な要素は少ないが、木割が大きく、直線的な意匠でまとめた、豪壮な社殿である。
 様式的には、伊勢神宮正殿を根源とする神明造の系譜に連なる。
 本殿は、明治29年(1896)に造営されたもので、高さ3.7m、幅55cm、厚さ8.5cmもの巨大な棟札が残されている。
 棟梁は、地元上寺の宮大工小野重吉である。棟札には当時の宮司名のほか、大旦那であった旧庄内藩の酒井家当主や酒田の豪商本間光輝の名前などが見える。
 戦後の昭和28年(1953)に、参拝の利便性向上のために、東の山手から現在地に移築されている。


 へえ。もっと山の中にあったものを移したのですか。

 このほか境内には、本間光丘君功績碑、鳥海時雨郎君彰功碑、遊佐町指定有形文化財の摂社風神社末社荘照居成神社など、さまざまなものがありました。

 なお、鳥海時雨郎とは、蕨岡出身で、伊藤雄次郎、森藤右衛門とともに酒田で両羽新報を創刊。庄内地方の自由民権運動に活躍し、1890年の第1回衆議院議員総選挙で当選している人物です。
ryutouji19 201507

 大物忌神社蕨岡口ノ宮の右隣りにあったのが、第19番札所の鳥海山龍頭寺です。例によって、神仏分離の際に神社から分かれて創建された寺なのでしょう。

 入り口の掲示板に由来を示す紙が貼られており、かなりしっかりとまとめられていたので、それを移記します。

鳥海山龍頭寺略史
 真言宗智山派の龍頭寺は、その正しい草創年代等については不明だが、寺伝では平安時代前期の大同2年(807)に慈照上人の開創にして、往古は十一面観音が本尊の松岳山観音寺光岩院と称し、出羽国鳥海山大物忌神社の表口塔中(松岳山観音堂衆徒)三十三坊の本寺で、大物忌神社をはじめ一山を統括する長官職の別当学頭を務めたが、江戸時代初期の明暦元年(1655)以降は、鳥海山の本地仏である薬師如来を本尊として鳥海山龍頭寺と改称した。
 この龍頭寺という寺名に関して、羽黒山年代記に「龍の形をした飽海嶽に仙翁と龍翁という鬼が住んでおり、平安時代の貞観2年(860)に円仁(慈覚大師)が山に登りこの青と赤2匹の鬼を封じ、その山の頭にあたる場所に権現堂を建てたことから寺号を龍頭寺、また権現様の御手洗池を意味するため山号を鳥海山とした」とある。
 また仏教を受け入れた我が国は、固有の神の信仰と仏教との融合を考え、平安時代頃より本地垂迹の思想を説き、神は本地である仏が衆生救済のため仮の姿としてこの世に現れたとの事から、汚れを祓う斎主神の鳥海山大物忌神は、その本地は薬師如来で鳥海山大権現とした。
 そのうえで鳥海山の宗徒は、南北朝時代前後の14世紀頃より修験道と関わりを持ち、なかでも蕨岡衆徒は17世紀の江戸時代初頭までは羽黒修験に属していたが、慶長18年(1613)に幕府が修験法度を出し、真言宗三宝院当山派と天台宗聖護院本山とに修験の支配権を与えると、蕨岡衆徒は明暦元年(1655)以降は真言系となり、さらに中央との関係を保持するため貞亨元年(1684)の醍醐三宝院の直末として鳥海山修験を組織、鳥海山大物忌神社は龍頭寺を筆頭とする蕨岡衆徒の努力により元文元年(1736)に正一位に昇格した。
 これら蕨岡・吹浦・小滝・院内・滝ノ沢・矢島の鳥海山修験集落のうち、山上の支配権を有し神領188石6斗5升6合の蕨岡三十三坊は、出羽国主の最上義光より慶長17年(1612)に寺領89余石が寄進され、さらに龍頭寺は領主の酒井家から祈願寺として禄270余石を賜り、寺紋に酒井家の家紋「丸に片喰」を許されるなど、その信仰を厚く受け徐々に大きな勢力を持った。
 また、蕨岡の修験衆徒たちは、他の鳥海山登山口の修験集落との間で信者獲得や峰争いを度々起こし、特に江戸中期の元禄11年(1701)に権現堂修復に端を発す矢島衆徒との山上権争い、さらに宝永年中には大物忌神社を擁した吹浦衆徒と一山別当の本家争いが起こり、蕨岡は改めて別当に補任され所属寺院子弟の講論法談の研学道場の中でも最も有力な寺院となり、宝永3年(1706)に庄内5ケ所の常法談林である鶴岡龍覚寺・金峰青龍寺・田川長福寺・酒田龍厳寺・蕨岡龍頭寺のうち随一の寺格に列せられた。
 しかし慶応4年(1868)に明治新政府が、祭政一致をスローガンとする神道国教化政策の神仏分離令を出したことから、神仏習合は終局を迎え吹浦神宮寺仏教衆徒は一山全てが神道に改宗し、蕨岡修験衆徒も明治3年(1870)に龍頭寺のみを残して他は還俗したため、蕨岡と吹浦の間で本社と勧請社および山上権の争いが起き、明治13年(1880)に蕨岡と吹浦をそれぞれ口宮(里宮)とし、山上社を本社とする三社連帯社となり現在に至っている。
 なお当山は、古くは現在の大物忌神社蕨岡口ノ宮が境内だったが、度重なる大火にあい江戸初期に学頭坊敷地の現在地に堂宇が建立され、さらに天保5年(1834)に大同社が焼失したため同15年(1844)に現本堂を再建したが、神仏分離および明治5年(1872)の修験道廃止令により、寺運は俄に衰退し寺宝や古記録などの多くを失い、同6年(1873)には旧仁王門から仁王尊像を寺の正面玄関に移し、同8年(1875)に観音堂を移築すると諸堂は次第に整備された。


 ・・・ということなのですが、悪文ですねえ、これ。
 もっとわかりやすく書けないのかねぇと思っていたら、ありました、わかりやすい説明書きが。

鳥海山龍頭寺の略史
 真言宗智山派の鳥海山龍頭寺は、平安時代の大同2年(807)に慈照上人が開基し、古くは松岳山観音寺光岩院と称し、十一面観音を本尊とした古刹である。
 その後鳥海山大物忌神社を統轄し、江戸時代の明暦元年(1655)に鳥海山龍頭寺と改称し、鳥海山本地仏薬師如来を本尊として、真言宗三宝院当山派直末の常法談林学頭寺に列せられた。
 また蕨岡三十三坊の鳥海山修験衆徒は、出羽国の最上公さらに庄内藩主の酒井公より、祈願寺としてその信仰を厚く受け徐々に大きな勢力を持ったが、明治新政府の神仏分離令および修験道廃止令により、寺運は俄に衰退し、寺宝や古記録などの多くを失い現在にいたる。


 本殿入口の軒下には、大物忌神社の山門から持ってきたと思われる仁王像がいわば丸裸で据えられていました。これって「うたた荒涼」を思わせませんか。
 さきほどの難解な文章に「1873年には旧仁王門から仁王尊像を寺の正面玄関に移し云々」とあるのを信じれば、もう150年近くこんな形で仁王像を管理してきたのでしょうか。もしそうだとしたなら、仁王がかわいそうだ。
entsuji11 201508

 旧八幡町麓字楯の腰にある「見龍山円通寺」を訪れました。

 曹洞宗の寺で、天和3年(1683)に越前滝沢村から大叟禅乗(たいそうぜんじょう)という大和尚が巡錫にきて山根(それはどこだ?)に開山したといわれています。
 その後寛保2年(1742)に火災で焼け、翌3年に現在の麓に移轉再建されました。
 御本尊の聖観音は、作者は不明で、衣紋模様や彫刻の深い容相から受ける感じはとても神々しいもので、室町時代の作といわれています。
 裏手の山一帯は、観音寺城跡の館跡、池跡などが残されており、今でもこの付近から土器などが出ていることから、その昔はかなり繁栄したものとみられているようです。

 その山手には檀家の墓群になっており、それらの多くは信夫、菅原、小松、土井、丸藤など、この地の苗字が彫り込まれたものとなっていました。

 境内を歩いていると、建物の中から女性が「お参りでしたら右の引き戸からどうぞ」と声ををかけてくれましたが、信心深くはないほうなので遠慮することにしました。


 その寺の右隣にも寺院風の建物がありました。そこも円通寺の続きのように見えなくもなかったので行ってみたところ、そこは「洞龍山種雲院」という名の別の寺院でした。なんだか寺同士が混然一体となっている感じです。
shuun-in 201508

 その洞龍山種雲院は、庄内地蔵菩薩第十七番霊場なのだそうで、大小の地蔵様がそこここにありました。
 そしてその一角には、これは観音様なのか、まだ新しい、大きな仏像がありました。

 目を引いたのは、その左下にある「摩尼車(まにぐるま)」。
 そもそも仏教についてほとんど知ることがないので、こういうのに逐一興味が湧くのです。
 なにやら経文のような文字がたくさん書き込まれており、水車のような形をしています。

 自分のように無知な衆生に慈悲深く教え諭すかのように、次のような説明が付されていました。

摩尼車
 これは摩尼車というものです。
 「摩尼」とは摩尼宝珠とも、如意宝珠とも言われ、意のままに宝を出すと言われる珠のことです。
 仏さまの徳にたとえたり、お経の功徳にたとえたりします。
 これを1回まわせば、お経を1巻読んだのと同じ功徳が得られると言われています。
 摩尼車にかるく手をあてて、手前に回してください。その時、左の経文を唱えて下さい。
 「羯締羯締波羅羯締波羅僧羯締菩提薩婆訶(ギャーティギャーティハーラーギャーティハーラーソーギャーティボージーソワカ)」


 意のままに宝を出せるのならと、宝くじが大当たりするのを空想しながら、くるりと1回まわして、「ぎゃーてぇぎゃーてぇはーらーぎゃあてぇ・・・」と。
 こんなに簡単にお経を1巻読めるのなら、苦はないよな。

 こちらのお寺は「堀」家の墓石が多ござんしたな。
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 旧八幡町の中心部を走っていてよく見かけるのが、R344とR345の交差点にあるお宮のような建物と広場。
 せっかくここを通ったので、この謎を明らかにしようと、車を停めてみたところ。

 住居表示で言うと、酒田市の市条字水上というところのよう。
 このすぐ南に八幡神社があるので、つまりはその付属施設というか、そういうものなのかなあ。
 木製の鳥居とそのお宮。結局これは不明のまま。

 そしてその右奥にあったのは「忠魂義魄」の碑。コレハナンダ?!
 8段ほどの階段が付いた、けっこう古い碑です。
 碑の左奥には、多くの名前が刻印された新しめの石碑があり、右奥には次のような説明が彫られた石碑がありました。

英霊御芳名刻字について
 国のため一身を顧みず戦場に趣き(※赴きの誤り)、凡ゆる悪条件を克服しつゝ善戦の途中において敵弾に斃れ、或は病魔のために、更には自ら敵に体当たりして護国の華と散り果てられた英霊は、靖国神社に神として祀られることを誇りとしていたのであります。
 各都道府県にある護国神社、各市町村に鎮座する忠魂碑は靖国神社の分神であります。
 然るに、世の変遷により靖国神社の国家護持、公式参拝もかなわないことは誠に遺憾の極みであります。
 私どもはこの英霊の奉賛については片時も忘れてならないのであり、又先輩の忠魂碑建立の精神、ご労苦に酬ゆるために遺族会、傷痍軍人会、軍恩欠格者の会の方々と相図り、忠魂碑に英霊の御芳名を刻字することに致した次第であります。
 冀ば将来永く子孫も之を継承し、奉賛の実を挙げられることを期待するものであります。
  平成4(1992)年8月吉日
  阿部喜代太 謹書
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 酒田市市条にある神社で、旧称一条八幡宮。これにちなみ一条八幡神社とも呼ばれています。
 今では酒田市の行政区域となっているこの地区は、平成の合併前は飽海郡八幡(やわた)町という自治体でした。そしてその名称はこの神社に由来するのだそうです。

 「縣社 八幡神社」の大きな石柱、赤い鳥居をくぐって境内へと進みます。
 格式を感じる境内の広さ、そして社殿の配置と豪壮さ。これはかつてはけっこう栄えた場所なのだろうな。

 だいぶかすれかかっていましたが、この神社の由緒を示す次のような案内板がありました。

八幡神社御由緒記
    飽海郡八幡町市条字水上壱番地
御祭神 應神天皇 仲哀天皇 神功皇后
御創建
 平安時代前期元慶元年丁酉(877)、第57代陽成天皇の時代に、大和朝廷の命により出羽国の国司藤原朝臣興世は、陸奥国の夷俘民族の反乱に際して、山城国(京都府八幡市)に鎮座する国家皇城鎮護の神、石清水八幡宮(旧官幣大社)の御神霊を、朝廷軍制覇の祈願の為に御荘河北荒瀬郡一条大泉郷に勧請された。
 翌年の元慶2年(878)3月15日、出羽国の夷俘民族が大乱(元慶の大乱)を起こして、当時の国府の秋田城を始め多数の民家を襲って焼失せしめる。
 この大乱を治める為に、同年4月に朝廷は 陸奥、上野、下野より援軍を出羽国へ送り、この時鎮守府将軍であった小野朝臣春風は当神社で秋田下向にあたり、この反乱勝利鎮定を祈願されて、翌年にこの大乱が終ったとされています。
 又出羽国風土記によれば、出羽郡司小野良實が、この大乱を平定の為に石清水八幡宮の御神霊を勧請したと伝えられ、古来より荒瀬郷大鎮守一条八幡宮と称され、広大無辺なる守護神として北荘内一帯の人々から敬仰されている。
 明治9年2月24日県社に列格。

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2015.08.12 生石の板碑群
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 酒田市の生石(おいし)地区にある、庄内三十三観音第18番札所の「生石山延命寺」を目指します。
 しかし、ナビの案内で進んでいくと、とんでもない山の中に連れていかれて、寺院のようなものは発見できません。
 おっかしいなあ。でもまあ、そのあたりをウロウロすれば寺社仏閣の類は目立つからおのずと見つかるだろうて。

 ということで、いったん山を下りて生石の集落を流していると、「村社 生石神社」の標柱を発見。
 「神社のそばに寺あり」は、寺社めぐりを始めてからすっかり定着しているので、近くの空き地に車を停めて、その標柱付近に行ってみました。

 すると、そこには神社はなく、まっすぐ山へと続く参道の入り口にすぎませんと言わんばかりの鳥居があり、そのスロープにはなにやらたくさんの石碑のようなものがありました。なんなんだろうな、これは。

 それは、「板碑」というものらしく、それを説明する看板がありました。

山形県指定文化財(考古資料)
生石板碑群 昭和28年2月13日指定
 板碑というのは、石製塔婆の一種で、平板石を用い、頂を三角形に作ったものが多い。上部に種子や仏像などの銘文が刻まれているものもある。
 鎌倉時代から室町時代に、死者追善・生前安楽を祈るために建立されたものといわれている。
 この地(酒田市東平田地区)には、この板碑が多く残されている。特に、生石山延命寺とその周辺に40基ほどの板碑がある。その中で、山形県の指定文化財となっているのが23基である。
 田川郡藤島城に敗れた南朝軍が、最上川を越えて飽海郡に逃れ、生石に潜入したのであろうとする説をなす人もいる。しかし、碑の年号が南北両朝のものがあることから、俄かにこの説を認めることはできない。
 この辺一帯は安山岩が多く、それによって生石という地名もできたといわれるが、単に石が多いから板碑が多いということにもならない。
 ともあれ、真言宗生石山延命寺の当時隆盛であったことは大きな理由の一つであったろうとみられる。
  昭和56年6月
   山形県教育委員会
   酒田市教育委員会


 写真に写る鳥居の傍には「東平田周辺の板碑分布」の地図が掲げられていました。
 その地図の示すところによって、現在地からしばらく一本道を上っていけば延命寺と生石神社があることがわかりました。

 なお、上った先の延命寺のエリア内にも、板碑について次のような看板がありましたので付記しておきます。

山形県指定有形文化財
生石板碑群(おいしいたびぐん)
   指定年月日 昭和28年2月13日  昭和60年8月16日 追加指定
 酒田市東部には、約80基の板碑がある。
 このうち、東平田地区には、約40基の板碑が集まっている。
 年代の明らかな板碑のうち最古のものは、正和3年(1314)、最も新しいものは、応安5年(1372)である。
 生石板碑群として34基が指定されている。
 板碑群の種子(しゅじ)は阿弥陀系が大半を占め、釈迦・大日が次いで多い。
 建立の動機は、追善、自己の逆修(亡くなった人や自分への供養のため)などと考えられている。
  山形県教育委員会
  酒田市教育委員会
  平成3年設置 平成19年3月改修
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 生石神社の鳥居があったところからの一本道は、すんげえ上り坂。寺の入口となる山門までの、そう、だいたい300メートルぐらいでしょうか、車なら2WDでは少々辛そうな、階段に造り替えてもいいと思えるぐらいのものです。
 道の両脇には板碑や庚申塔、地蔵などがたくさんあって、ちょっと不思議な雰囲気を醸し出しています。ここっておそらく、かつてはすごく栄えた寺社だったのでしょう。

 で、山門を潜ると、山に三方を山に囲まれた広場に出て、その左手に寺が見えてきました。まっすぐ、さらに山のほうに向かえば生石神社のようです。

 真言宗のこの寺は、今を去る1100年前に弘法大師が開基したと言い伝えられています。
 南北朝時代の同族相い争うという変則時代の修験大道場の遺跡として知られ、その時代は羽黒山以上の隆盛を極めていたところだったともいわれています。ナルホド、やはりそうであったか。
 往古は18の末寺を擁し、またこの奧にある鷹尾山には三千坊の僧坊があり、付近には身洗池や常香塚などがあって、南朝の忠臣北畠顕信郷、守永親王を奉じて潜匿したという伝説も伝えられているのだそうです。

 寺自体は、神仏分離以降にとってつけられたようなところが感じられ、本堂前に立つ仁王の石像や弘法大師の像などはわりと新しく、神社の風格からすればまだまだの感があります。
 本堂の軒下に仁王像を置いている――という状況はどうもよろしくありませんな。
2015.08.16 生石神社
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 延命寺まで上ってくるだけでけっこう疲れるし大汗をかいたのに、生石神社はさらに写真のような階段を上っていくことになります。パスしたくもなりましたが、せっかくここまできたのだから行ってみない手はないだろうと、もうひとがんばり。

 上った先は、一面苔の生した、深遠で閑静な、本当に神がそこに宿っているような雰囲気のところでした。
 誰もいないのに、手水舎の水はきちんと流れていて、参道の右側には「稲荷大神の神狐塚」(後述)。
 拝殿の屋根は改修されており、拝殿に向かって左手には「拝殿屋根改修 竣工記念碑 平成8年9月吉日」の石碑があります。
 また、その際に取り替えたのであろう、以前の屋根の鬼瓦が拝殿の左右に設えられていました。昭和25年の屋根改修時に造られたもののようでした。

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 生石神社の一角に、「稲荷大神の神狐塚」がありました。それは何?
 ミニチュアのような小さな設置物なので、看板がなければおそらくスルーしてしまうでしょう。看板の存在意義はこういうところで遺憾なく発揮されるわけですな。

 その解説版の内容は、次のとおり。

稲荷大神の神狐塚(しんこづか)
 昭和25年、生石神社社殿屋根改装工事が執り行われた際、4体の動物らしき頭骨が発見されました。
 以来その正体は不明のまま今日まで至りましたが、昭和57年7月、山形県県立博物館にその鑑定を依頼した結果、約2~300年経過したかなり大柄な狐の頭骨と言うことが判明致しました。
 古くから狐は神のお使いと信ぜられ、現在も「稲荷さま」と非常に民衆にとけこんだ親しみある神です。
 稲荷神社は全国で最も多く祀られ現在約3万社位あり、その主祭神は宇迦之魂(うかのみたま)神稲倉魂神とも書き、別名豊宇気比売(とようけひめ)神、保食(うけもち)神などと申し、もともと農業の神でありますが、米一粒が何倍にも殖えるようにと広く殖産の神として又、商売繁盛の福の神はもとより諸産業の守護神として信仰されています。
 それ故に、生石神社から発見された狐の頭骨は、稲荷大神の先達として祀り、酒田市生石近在の繁栄を祈り、こゝに稲荷大神の神狐塚を建立するものであります。
  昭和59年9月吉日
  生石神社
2015.08.17 玉川寺庭園
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 近時、旧羽黒町玉川付近に行くことが何回かあり、その際に玉川寺の庭園が立派なのだという話を聞かされていたので、行ってみました。国指定の名勝庭園。入館料400円を払っての見学です。

 赤い欄干の小橋を渡って山門を潜ると、右手に料金所と「玉川遺跡展示場」。さらに進むと左手に「初代出羽海之碑」。正面に本堂がドンと建ち、その右手の建物を通っていくと、本堂の向こう側にある庭園が現れるという配置です。

 料金所でもらったパンフレットには、「玉川寺の由来」について次のように書かれていました。

 出羽三山の麓にある玉川寺は、およそ700有余年前の鎌倉時代(1251年)に曹洞宗の開祖道元禅師の高弟だった了然法明禅師によって開山されたと伝えられています。
 了然法明禅師は朝鮮高麗の生まれで、中国の径山寺で修行され、日本に渡来し、羽黒山に参詣しての帰途、観音堂を拡めて禅刹の基礎を築かれました。
 その後、室町期に至る約200年間の歴史は審かではありませんが、享徳2年(1453年)新潟県村上にある耕雲寺の南英謙宗禅師が、庄内の領主・藤原氏の懇請により玉川寺を再興し、現在に至っているという古刹です。
 御本尊はに霊験あらたかな聖観世音菩薩を祀り、近郷に多くの末寺をもつ曹洞宗寺院では日本でも古い旧蹟であります。
 荘内平和観音三十三霊第17番礼所にもなっています。


 また、参道にあったスチール製の説明板「国見山玉川寺(こっけんざん ぎょくせんじ)」には、概ね上記と同じようなことが書かれていますが、「庭園」について次のような記述がありました。

 玉川寺庭園は1450年代に作庭され、1650年代の改修を経て今に伝えられています。
 自然の山から流れ落ちる滝を配し、大きな池を中心とした池泉廻遊式蓬莱庭園は石組みも鋭く、地方稀に見る名園であります。
 1987年に国の文化財名勝に指定されました。


 さらに、書院から庭に出るところの左側には次のような解説版もありました。

国指定名勝 玉川寺庭園
  作庭年代  室町より江戸時代
  指定年月日 昭和62年8月1日
  指定面積  3,002.31㎡(908.20坪)
説明
 玉川寺庭園は、羽黒山の西南麓の扇状地に立地する曹洞宗の禅院、国見山玉川寺の庭園であり、室町時代康正元年(1455)、当寺中興開山南英謙宗禅師が作庭したことに始まり、江戸時代正保2年(1645) 羽黒山の天宥別当が改修したことなど幾度かの変遷、改修を経て、江戸時代後期にほぼ現状の庭景が完成された。
 園池は本堂庫裡の東側に位置し、東山裾までの間約30米、南北約60米の広さを有する。
 中島・立石池中配石など随所に工夫が見られ、植栽もイチイ(おっこ)を中心として地方色豊かでまとまった庭景を成し優れたものである。
 庭園文化の伝播を知る上でも貴重なものである。
  文部省


 池には大きな鯉が泳いでおり、時々バッシャン!と飛沫をあげて飛び上がります。
 水はけがあまりよくないのか、この乾燥した気候にありながら、飛び石がない地面部分はややぬるりとした状況。
 池を挟んだ対岸には旧開山堂や地蔵堂があり、その間から流れてくるはずの滝はほぼ干上がっていました。

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 玉川寺の境内に立派な石碑を発見。これは何?とよく見ると、それは「初代出羽海之碑」というものでした。

初代出羽海之碑
 日本相撲史の一頁を飾った出羽海は当地玉川の出身で、現在の出羽海部屋の創始者である。
 荘内藩主酒井候より賜った出羽海を名乗り、1786年に28才で入幕して、前頭筆頭まで昇進し、1801年43才で引退し、出羽海部屋を創始した。
 この記念碑は、生誕200年の昭和34年に建立された。
 記念碑のうしろには、出羽海の詳しい記述が彫り印されている。


 ただちに碑の後ろに回ってみましたが、文字が小さく、しかも風化が進んでよく読めなかったのは誠に残念。
 しかし、初代出羽海は羽黒の出身だったのですね。荘内日報社のHP「郷土の先人・先覚」にその出羽海運右衛門のことが載っていましたので、掲げておきます。

部屋運営に尽力 郷土出身力士を育てる 出羽海運右衛門
 出羽ノ海部屋といえば歴史も古く、かつては大勢の幕内力士を擁して相撲界に君臨した名門である。その初代が出羽ノ海運右衛門で、2代目が出羽ノ海滝右衛門で、いずれも庄内出身であるが、ここでは初代出羽ノ海に焦点を当てて述べてみる。
 宝暦7(1757)年田川郡国見村玉川(現・鶴岡市羽黒町玉川地区)の農家に生まれ、名を叶野金蔵という。17歳で江戸に出て、同じ庄内出身の艫綱(ともづな)良助の門人となり玉川を名乗っており、天明6(1787)年3月、30歳で入幕、西前頭3枚目に位置して出羽ノ海金蔵と改名、寛政元(1789)年には備前岡山藩主池田家に抱えられ、運右衛門と名乗ったのが同3(1791)年3月、西前頭5枚目のときである。
 やがて同6(1794)年、庄内藩主酒井家に二人扶持を賜りお抱え力士となっている。ちょうどこのころが今に残る4代目横綱谷風梶之助、同じく5代目小野川喜三郎、それに強豪といたわれた雷電為右衛門らが大活躍した、いわゆる寛政期相撲の黄金時代であった。
 こうした恵まれた良き時代に土俵を務めながら、残念なことに同4年3月、東前頭筆頭が出羽ノ海の最高位であった。記録によると上位には多く勝星がなかったが、下位に敗れることが少なかったといわれており、幕内通算の勝率4割5分6厘は幕内中位程度の力とされている。引退したのが寛政11(1799)年、41歳のときである。

 現役時代はそう目立った力士ではなかったが、温厚な人柄で人望があり、佐野山や大関市野上らの郷土出身力士を育てた。また、着眼点を部屋運営にかけた彼の洞察力は、後年名門出羽ノ海部屋として見事に花を咲かせている。
 出羽ノ海部屋の初代、2代はともに庄内出身であると前述したが、その後幕末まで空席続きで、文久元年初代常陸山が3代目となり、明治に入って4代目(3代常陸山虎吉)の弟子から、不正出の強豪横綱常陸山谷右衛門が出て5代目を継ぎ、相撲界随一の大部屋に発展させた。
 その後、6代目(両国)、7代目(常の花)、8代目(武蔵川)、9代目(佐田の山)となり、中でも初代と5代目が名門の要であったようである。
 亡くなったのが文化6(1809)年、享年53歳であった。


 入幕や引退の年次が微妙に異なりますが、参考になりました。