続いて、同じ北中城村仲順にある「仲順大主の墓」。
 これも2度目。初めての時は、民家の間の私道みたいなところを通っていくすごいところにあるなぁと思ったことを覚えています。
 それよりも、このあたりはかつて米軍幹部が住んでいたところのようで、家々には立派なガレージと芝生がふさふさの前庭が付いていて、家自体がとても大きい。南北を見渡せる高台の尾根というロケーションで、こんなところに住んでみたいと思わせる場所です。

 さて、仲順大主の墓。
 山の斜面の北側にひっそりと位置しています。まわりがすっかり開発されて、ここだけが異境を形成している感じ。墓に覆いかぶさってきつつある木の根がすごいですが、むしろこの根が墓の崩壊を食い止めているような印象も。

 仲順大主は仲順村の創建者といわれています。1259年に英祖に王位を譲り、放浪していた義本王を匿ったとの伝承があることから、13世紀中葉の頃の人物だと考えられます。エイサー曲で有名な「仲順流り」は仲順大主にまつわる伝承が念仏歌になっています。

 ここで仲順大主にまつわる逸話をご紹介。

 仲順大主には3人の息子がいた。大主は親孝行の子に財産を譲ろうと、息子達を呼んだ。
 大主は、「私は年老いて食が細くなり、人の乳しか飲めなくなった。願わくばお前達の子を捨て、私に乳を飲ませてはくれまいか」と言った。
 長男と次男は怒り、「子を捨ててまで生かしてほしいとは、とても父の言葉とは思えない」と席を立つ。しかし三男だけは涙を流し、「子は望めばまた産まれてくるが、親はこの世に一人しかいない。私の子を捨てましょう」と言った。
 すると大主は、「では早速、あの大きな松の木の下に穴を掘り、その穴に子を埋めよ」と言った。
 三男が泣きながら松の下を掘ると、何かに当たった。不思議に思って掘り起こしてみると、そこから黄金の詰まった甕が出てきた。大主は驚く三男に、「これまでの話はお前達の私に対する愛情を知るための作り話だ。私の財産は全てお前にやろう」と言った。

 これは仲順大主を題材にした劇で、実際の仲順大主には子供はいなかったようです。
 「仲順流り」は親孝行の話として後世に伝わっていきます。

 那覇市松山公園内の桂林寺跡があります。桂林寺は1603年に袋中上人が琉球に漂着して建てた寺。
 袋中は3年間の滞在中に、故郷の福島に伝わる「じゃんがら念仏踊り」を伝えて帰郷しました。仏教を歌と踊りで広めたほうが早かったからだと考えられています。
 その念仏踊りの囃子の「エイサー エイサー ヒヤルガエイサー」は後に仲順流りの親孝行の内容と合わさって一つの曲になりました。
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 続いては、仲順大主の墓のすぐ近くにある「ナスの御嶽」を初訪問。
 ナスの御嶽は、仲順集落から屋宜原へ向かう主要道路の脇にあるのでよく目にするのですが、クルマを停める場所がないのでいつもよく見ずに通過していました。しかし今回は、ちょっぴり遠いところにある空き地に駐車して、歩いて行ってみたところ。

 ナスの御嶽は、「琉球国由来記」(1713年編集)によると、「ナスツカサ御イベ」を祀るもので、安谷屋ノロが祭祀を掌っていた。
 御嶽の中にある琉球石灰岩の大岩が御嶽の本体(イベ)だと考えられる。
 この岩の上には、舜天・舜馬順熈・義本の三王を葬ったとされる墓がある。
 仲順の集落はかつてこの御嶽一帯にあり、御嶽を「腰当て」として南側に発展していったといわれる。
 平成7年6月に村の史跡に指定された。 (北中城村のホームページから。)

 ――という瞬天王統3代に所縁のある場所なので、御嶽の前に立って脱帽の上深々と一礼。「お邪魔します、神様の居場所を攪乱するようなことは致しませんから」と念じて、おずおずとながら写真を数枚撮影。
 上記に沿うならば、この高台から見渡す南側にはかつて小さな集落があったのでしょう。


 次は、仲順の隣りの集落・喜舎場へと向かい、喜舎場公民館の向かいの児童公園内にある「喜舎場おもろの碑」を見に行きました。
 喜舎場公民館の住所をカーナビに入力すれば、狭い集落の中でもわけなく行けるのが素晴らしい。

 たしかに公民館の向かいに公園があり、小さな少年3人が野球をしていました。その傍をカメラを持った不審な男性が一人ウロウロするさまはあまり見栄えのするものではありません。

 その歌碑はご覧のとおり、幼児用の遊具やバスケットボールのネットなどと共に公園の一角に据えられていました。
 大きな碑には、

 一 きしゃは つくりきよ きしゃは おなりしや ゑけ はひ
 又 よへ みちやるいめの まよなかのいめの
 又 いめや あとなもの いめや うせなもの
 又 おなり たちへともて つくり たちへともて

と、草書体で刻まれており、その向かって右脇の石には次のとおり歌意と解説が刻まれていました。

 一 喜舎場つくり子は 喜舎場おなり子は あれ まあ
 又 昨夜見た夢の 真夜中の夢の
 又 夢は跡なく消えるもの 夢は失せてなくなるもの
 又 おなりを抱いたと思ったのに つくりを抱いたと思ったのに
  (「おもろさうし」巻12)

 歌意は、喜舎場の美しいツクリ(人名)を抱いたと思ったものの、それは昨夜見た夢であったよ、夢はたよりないものよ――である。
 このおもろは、高笑いを意図した狂言的な歌である。古琉球の人々は健康な笑いこそは共同体に世果報をもたらす力の根源だと考えたのである。


 へえ・・・。色っぽいお伽話のような歌だなと思ったのですが、狂言的でしたか。
 1999年10月に建立されたようです。

 その後、屋宜原を通って瑞慶覧へと進み、瑞慶覧区民会館付近にあると思しき「瑞慶覧の琉歌碑」を見ようとしたのですが、公民館は見つけたものの碑のほうは探せず、これまた次回以降にキャリーオーバーとなりました。
 「瑞慶覧の島や 島やれば島ゑ 黄金按司かなし 御掛け親島」というもののはずで、どこかの広場の一角にあるはずなのですが、ネット情報だけではその場所が特定できないのですな。


 さて、時間は11時を回った。朝メシを食べていないので、そろそろ昼メシにしよう。
 ではと向かったのは、北中城村島袋の「サンドイッチシャープ」だ。何店かリストアップしていた店の中ではここがいちばん今いる場所から近い。沖縄市大里の「コザドライブインレストラン」や池原の「オークレストラン」などの老舗、海邦の「味処まるなが」も切り難いが、それらはまたいずれ行くことにして。

 ライカム交差点付近で新しくできたイオン・ライカム店の渋滞に巻き込まれながらも、昼前に到着したこの店は、「Sandwich Shop」の口語読みの名前から想像するどっぷり沖縄チックの店というよりも、わりとジャパナイズされたこぎれいな店で、本土標準に近い印象。
 結果から先に書けば内容も少量かつ上品。これは沖縄フードとしては、ということなのだけれども。
 また、外税というのも沖縄らしくありません。

 でも、氷をゴロゴロと入れたアイスティーが飲み放題というのは沖縄風。
 頼んだのは、豚しょうが焼定食756円。
 キャベツとモヤシを下に敷いた豚肉の生姜焼きがやさしめの味を湛えて登場。ほかにはサザンドレッシングの新鮮サラダとひじき煮。沖縄なので、漬物は付かないんですね。
 毎日たくさん食べて毎晩飲んでいる今の自分には、このぐらいが適量なのかもしれないなあ。


 島袋で昼メシを食べたのは、この後に同じ集落にある「赤木名節の碑」を見に行こうと考えていたため。
 赤木名節の碑は前回の訪沖時にも探しに来たのですが、すんなり見つけられず、雨も降ってきたので諦めたのでした。
 沖縄から戻ってから再度リサーチしたところ、ゼッタイ島袋公民館の敷地内にあるはずと自信を深め、このたびの再訪することにしました。

 公民館の周辺道路の前回と同じ場所に駐車して、改めて探すと、はいはい、ありました。一段低くなったちょっと見えづらいところに。これではぱっと見では見つからないわけだ。くくっ、とうとう発見したぜ。

 島袋には琉球王朝時代から伝わる伝統芸能「赤木名節」があり、戦後途絶えていましたが、1978年に復活。2002年には村の無形文化財に指定され、国立劇場や首里城祭へも出演し、その後若い継承者も増えてきているとのこと。
 石碑は2003年に公民館敷地内に建立されました。
 赤木名節の勇壮な踊りは島袋の誇りとして祭事には欠かせないものとなってきており毎年10月に行われるしまぶく祭りなどで見ることができるようです。

 碑に刻まれた歌詞は次のとおり。

赤木名節
  赤木名よ 鳥小が  はやてばよ 歌てどう  イースリ サースリ
  はやて歌えばどう 我無蔵とう  いちからいちまで  イースリ サースリ

  枕や加羅とぼす 御座敷に出ちて  イースリ サースリ
  踊る我が袖の 匂いしゅらしゃ  イースリ サースリ


 赤木名節は琉属時代、奄美大島の笠利町赤木名で生まれたと伝えられている恋歌。のどかな春に野原で遊ぶ内容ですが、発祥地では歌詞の一部を残して消失しており、現在、三線歌は伊江島に、ウスデーク歌は国頭村楚洲に、素歌は沖永良部島に伝承しているのだそうです。
 島袋の赤木名節は、空手の型が入った勇ましい二才踊りとなっていることが特徴だということです。

 石碑に向かって左側にある石には次のような説明が刻まれていました。

赤木名節
 赤木名節は、昔から島袋で歌われ演じ続けられてきた芸能である。
 舞は、男性的な二才踊りで気品のある軽快な踊り、衣装は、黒紋付に帯を前結びにし、白黒の縦綾の脚絆、頭には白い手巾を前結びにむすぶ。


 さあ、そろそろ今日の宿を取ってある名護方面へと進みたい。
 というわけで、島袋から高原方面へと進み、沖縄環状線を使ってジャスコ具志川店に寄り、そこでかりゆしウェアを1着買って、県道33号を川田を通り与勝半島の屋慶名方面へと向かいました。


 これもまた、前回の訪沖時に見つけられなかったもの。
 前回は、うるま市役所与那城庁舎の敷地内にあるというネット情報をもとに、与那城庁舎にいた守衛の方をも巻き込んで敷地内を隈なく探したのですが、見つけられなかったのでした。
 家に戻って改めて調べてみると、与那城庁舎というのはガセネタで、うるま市社会福祉協議会与那城支所の敷地の一角にあることがわかりました。
 で、今回満を持して再訪したところ。

 これがその歌碑。ユニークな形で、意外と小さい。
 碑には次のように刻まれていました。

与那城村木
 クヮーディーサー 昭和62年7月1日制定
   屋慶名クヮーディーサーや 枝持ちぬ美らさ
   屋慶名美童ぬ 身持ち美らさ

 ははあ、これは村の木として指定した時の記念碑なのでしょうね。
 碑の裏には、「与那城村長 赤嶺正雄  昭和六十二年十一月二十八日 建立」とありました。

 沖縄民謡の「屋慶名クヮーディーサー」は毛遊び唄で、早弾きの曲調は実にファンキー。
 クファディサ、クヮーディーサーとは「コバテイシ」という沖縄によく見られる樹木のことで、水平方向に広く枝を伸ばし、葉が広いので、人が集まる広場などに木陰を提供するものとしてよく植えられるのだそう。
 うたわれている屋慶名のクファディサは、与那城町の平安座小中学校校庭にあり、現在あるクファディサは3代目で、樹齢は約300年といわれているとのこと。これは見ていないので、また見に行かなきゃ。

 「屋慶名クヮーディーサー」の歌詞を書いておきましょう。

  屋慶名クワディサーや 枝持ちの美らさぬ
  うりが下居とて 遊び出来らさなや
       屋慶名前の浜に ティンマ舟浮けて
       屋慶名美童ゆ 乗せて遊ばさなや
  手取ら取ら見ゆる 浜と比嘉平安座
  黒潮うち寄せて 我自由またならぬ
       屋慶名クファディサや 美御殿とたんか
       我んね思無蔵と 毎夜またたんか

 もうこれは、色狂いと言ってもいいぐらいの、若い男の歌ですな。


 ここまで来たならば、時間もあるし、前回見つけられなかった「浜千鳥の歌碑」を再度探したい。
 「浜千鳥の歌碑」は、うるま市の具志川、金武湾入口の交差点から東方面に降りて行った海岸端にあるはずのもの。前回以降新しい情報はないものの、海岸にあるとわかっているのに見つからないはずはないと、テッテー捜査です。

 前回かなり時間をかけてウロついているので土地勘はある。海沿いを見つめながら慎重に進んでいくと、浜遊びをしている人のいる具志川ビーチから北に遠く離れた製紙工場のヤードのようなところについに発見! かーっ、こんな場所だったなんて。ありえねーよ、フツー。
 こんなはずれの場所になぜつくったのかという疑問はかなりありますが、発見した達成感のほうが大きかったでしょうか。そしてその後すぐにわが身をおそったのは、どうしておれはこの碑を見るために、沖縄まで来て多大な時間と労力を割いているのだろうかという徒労感のようなもの。

 碑にはこう書かれていました。

  旅や 浜宿り
  草の葉ど枕
  寝ても忘ららぬ
  我親のおそば

 沖縄民謡「浜千鳥(チジュヤー)節」の歌詞です。
 旅は浜に宿って草の葉を枕に寝るが、寝ても、わが親のそばが忘れられない――との意。

 碑を前にして、この民謡独特の笛と三線のウタムチが脳裏に響きます。
 そして
  ♪ チジュヤー ハマウティ チュイチュイナ ・・・
という囃子も。

 2番以降の歌詞は次のとおり。

  旅宿の寝覚め 枕すばだてて 思出(うびじゃ)すさ昔 夜半の辛さ
  渡海(とぅけ)や 隔(ふぃ)じゃみても 照る月(ちち)や 一(ふぃとぅ)つ
    あまん眺みゆら 今日の空や
  柴木植えておかば しばしばと いもれ 真竹植えておかば 又んいもれ

 うーむ、いずれの歌詞にもウチナーンチュの精神性がよく出ていますね。
 柴木は「しばしば」、真竹は「また来て」の意味なのですね。
 「浜千鳥節」は舞踊曲として頻繁に使われ、よく耳にしますよね。

 1997年3月に、当時の具志川市が建立したものでした。


 この日はこれまで。
 16時には名護のホテルにチェックインし、白銀橋交差点東角にあった「がちまやぁ」という居酒屋にて、生ビールと豆腐チャンプルーでできあがり~♪。


 5月5日。
 この日もホテルのサービス朝食を回避し、8時過ぎにホテルをチェックアウトして、名護バスターミナル内にある「お食事処がじまる」で朝の腹ごしらえをすることにしました。ココは沖縄ツーリストの端くれとしてぜひ一度は寄っておきたい場所だったし、朝7時から営業しているということだったので。

 8時過ぎの店内の雰囲気は、まだまだ仕入れや仕込み準備中といった感じで、ほかに客はいませんでした。
 「フ~ちゃんぷるぅ」あたりがいいかなと思いましたが、朝やっているのはそばだけだそうなので、「沖縄そば(小)」400円をチョイス。

 トッピングがなかなかにきれい。残念ながら三枚肉やソーキなどは入っていず、ポークが代用されています。なんだかポークたまごみたい。(笑)
 こっくりとした濃厚スープが特徴的。豚ガラで取ったダシは白濁していて、小さなガラの浮きが少々。
 朝の食べ物としてはちょっぴりコクがありすぎかもしれませんが、つくりはこういうところにありがちな粗末なものではけっしてなく、とてもおいしくいただくことができました。「小」でも立派な量だったしな。


 さて、この日は伊平屋島に渡る日。
 運天港を11時に出る村営のフネで向かうので、それまでまだたっぷり時間があるのだが、朝飯を食べてしまえばあとは名護界隈にいてもしょうがない。というわけで、たらたらとクルマを北に向けて走らせます。

 運天港には9時半過ぎには到着。港近くの有料駐車場に1泊500円でクルマを預け、ターミナルの窓口で伊平屋までの往復チケットを4,640円で購入。窓口はのんびりしたもので、ゴールデンウィークの真っただ中であっても那覇港から慶良間方面に向かうときのような長蛇の列はなく、また事前の予約も不要です。
 2000年の末にここから伊是名島へと向かい、21世紀を島のホテルで迎えたことがありましたが、そのときのターミナルはもう使われていず、新しいものに変わっていました。

 乗り込んだ「フェリーいへやⅢ」も昨2014年4月に就航したばかりの新造船のようで、船体もまだ真っ白。300人が乗れるのだそうです。なかなか快適です。

 2階の椅子席客室で静かに過ごし、ほぼ定刻の12時20分過ぎに伊平屋島前泊港に到着。
 「ようこそ伊平屋島へ」、「伊平屋かかし祭り」と書かれた横断幕が掲げられたターミナルはいかにも沖縄・南国風でいい感じのつくりですね。

 まずは港のすぐそばで営業している「レンタル伊平屋」で、バイクを1泊2日、2,500円でゲット。少し離れたところにあるホテルまで、キャリーバッグを両足で挟んで運転します。昨年の夏、ケラマの阿嘉島でレンタバイクに乗って雨に見舞われましたが、今回はその心配はなさそうです。

 今夜泊まる「ホテル松金」に荷物を置いて、再びバイクを駆る。・・・も、なんだ、このタイヤ。
 コーナーを曲がるときに車体を傾けると、後輪がズリッといくではないか。ははあ、これはパンクか何かで空気がちゃんと入っていないんだね。
 というわけで、港のバイク屋に戻って別のバイクに替えてもらうことにします。店のオジサンは借りた後にそうなったのかと疑ってきましたが、たった今借りたばかりで、ホテルまでは1キロほどしかないんですよ。そんなわけないじゃんか。オジサン、あなたが実際に乗ってみればわかることですよ。

 おーし、取り替えたバイクは今後こそ快調。さーて、島を楽しむぞ、っと。


 とはいえ、まずは昼メシですな。
 離島では食堂が少なく、あっても昼のわずかの時間帯しか営業していないことが多いのです。そういうことは、離島めぐり中に何度か失敗を経験して身についているところ。

 数少ない候補のうちから伊平屋ターミナルの2階にある「お食事処みなと」を選んで入ると、乗ってきたフネが出て行って賑わいは去ってしまったのか、客は自分だけ。そうだよな、時計は13時を回ったし、島の食堂ってこういうものかもな。
 でもまあ、混んでいないということはゆっくりできて好都合と言えないこともない。

 サカナフライ700円。
 タルタルソースが施された普通サイズの白身の魚フライが4つ、それにキャベツの千切り添えというものがメインで、もずく酢と大根煮の小鉢が付き、それにごはんと味噌汁。沖縄ですからやはり漬物はありません。
 東北のものとは比較にならないご飯ははっきり言って二流。でもそれも、島名産のもずく酢が旨いのでチャラでしょう。

 さーて、腹も満たされたし、島めぐりに出発しようか。


 まずはターミナルの真ん前、伊平屋村の歴史民俗資料館を過ぎた信号のある交差点でストップ。
 ここは前泊集落の中心部と思しき場所で、伊平屋中学校、平野村役場などがあるところ。ここから眺める虎頭岩はデカくてすぐ近く。

 この岩、フェリーが前泊港に入ったときからずっと見えていて壮観。久々に島に戻った人などはきっとこれを見て「ああ、帰ってきたなぁ」と思うのでしょう。
 虎を伏したような形をしているので虎頭岩といわれていて、風水上も重要なものとして島人たちに親しまれているのだそうです。

 写真は、伊平屋中学校の門前から見えた虎頭岩。グラウンドのフィールドが一面芝生になっているところがなかなかいいです。
 写ってはいませんが、校門を入った右手はいくつかの石積みがあり、その一つには「豊かな心」と大書きされ、もう一つには次のような校歌が刻まれていました。

 一 朝日に映ゆる虎頭岩  広き海原前にして
     がっちり仲よく手をつなぎ  あゝ友愛の学び舎は
       これぞ我等が伊平屋中
 二 天の岩戸は日の本の  国のはじめのゆかし島
     久遠の光今もなお  あゝ夢もゆる歌声は
       これぞ我等が伊平屋中
 三 文化輝く沖縄を  になう我等は進みゆく
     理想をめざしてまっしぐら  あゝ栄光の学び舎は
       これぞ我等が伊平屋中

 ・・・少々気負いが勝っていますが、中学の校歌らしくていいかもしれません。

 また、交差点前には、

 一 自然を愛し、美しい村をつくりましょう
 一 時間を守り、住みよい村をつくりましょう
 一 教養を高め、文化の村をつくりましょう
 一 誰にも親切にし、心豊かな村をつくりましょう
 一 スポーツに親しみ、明るい村をつくりましょう

という「伊平屋村民憲章」の大きな石塔もありました。


 伊平屋中学校の道路を挟んだ向かいは、伊平屋村役場です。
 その正門の右手の特等席に「名誉村民 山中貞則先生胸像」がありました。
 山中貞則は沖縄開発に力を注いだ政治家で、沖縄では恩人として祭り上げられており、これもそのひとつです。
 以下、胸像の礎石にあった顕彰碑文を引用します。

 伊平屋村名誉村民(昭和54年6月19日推挙)山中先生は、大正10年7月9日鹿児島県にお生まれになり、昭和28年衆議院議員に初当選以来今日まで国政の重要なポストを歴任され我が国の平和と繁栄に大きな貢献をなされました。
 とりわけ沖縄県については、総理府総務長官としてまた初代沖縄開発庁長官として、卓越した政治手腕と指導力をもって沖縄の日本復帰の実現、復帰問題の処理解決、振興開発の推進等まさに歴史に残る数々の偉業を成し遂げられました。
 就中、我が伊平屋村に対しては、格別な御厚情をもって離島、伊平屋村、野甫区民の悲願であった野甫大橋架橋の実現、さらに村道アッチャビシ線、アグチャー線、我喜屋西線、島尻西線等の新設等本村の発展に多大なご尽力を賜りました。
 伊平屋村民は、本村発展の大恩人山中貞則先生に報恩の誠を捧げ末永く後世にその功績を顕彰するため、ここに先生の胸像を建立するのであります。
 平成16年5月13日
  山中貞則先生胸像建設期成会
   会長    新垣芳一
   伊平屋村長 西銘真助


 野甫大橋はもちろん、アッチャビシ線は島の西海岸を縦貫する道だし、アグチャー線も東海岸の主要道路であることを思えば、確かに今の伊平屋島の道のかたちは当時に形成されたとみるべきでしょう。
 しかし、行政は一人の大臣によって執行されているわけではない、というのもひとつの考え方であり、無知な第三者としてはここまでべったり一人を誉めていいのかなという気もしたのでした。


 島の主要交差点から山手のほうへ少し進んで「虎頭ふれあいの森公園」というところに行ってみましたが、山道を上り下りしなければならないようなので踏査を取りやめ、公園内の虎頭岩を見上げる場所にある「いへやの塔」を見るにとどめました。

 いへやの塔は、日露戦争から第二次世界大戦までに戦没した村の英霊192柱が祀られているところ。
 塔の右脇にあった説明書きには次のように記されていました。

いへやの塔
 われわれ伊平屋村民は第二次世界大戦終戦25年忌にあたり祖国郷土の繁栄と世界平和を祈って各方面戦野において戦没した伊平屋村出身将兵の英霊に謹んでこの塔を捧げます。
  1969年6月
    伊平屋村長 前田徳盛


 ところでここは、伊平屋七景の一つに数えられているそうで、前泊港の船の出入りや沖縄本島の北部、国頭の山々、遠くは沖永良部島、鹿児島県の与論島まで一望できる絶景のロケーションなのだそう。すでに記憶が薄くなりつつありますが、そんなに眺めがよかったかなあ。
 このほかの七景とは、このあとで回っていきますが、念頭平松、クヤマ洞窟、伊平屋灯台、屋蔵墓、無蔵水、久葉山なのだそうです。


 伊平屋島では、4月29日から5月31日までの間、NPO法人げんき村という団体が中心になってかかし祭りが開催されていました。今年はその第4回だそう。
 祭りと言っても、島の集落内の田んぼ中や辻々に飾られているかかしを自由に見学できるというもので、格別賑々しいものではありません。
 前泊の集落を離れ、反時計回りにバイクを走らせて田名(だな)という集落の手前まで行くと、道路の両脇にかかしの集団が見られるようになりました。
 そいつらは古着をまとい、顔の部分は漁業で使う「浮き」をペイントしたものやマネキンの頭部などが使われていて、テキトーというか何でもありというか。
 女性の胸の部分が異常に大きかったり、着物が妙に派手だったりして、ひとつひとつを見ているとそれなりに面白いものがありました。
 ま、話のついでに、ということで。


 田名集落の入り口には青々とした芝生の立派な公園があって、そこに大きな石碑があったので立ち寄ってみました。
 それには「大田名の大地」と大書きされており、その基礎石には、

  大田名ぬ大地 見事平地(となみ)やい 平成ぬ光 世々に残ち

とのサンパチロクの琉歌が記されていました。
 その隣に立つ剥げかかった看板を読むと、どうやらこれは、昭和61年から平成10年にかけて行われた国営畑地帯総合整備事業の完成を称えるもののよう。


 お、そして、すぐそばの公民館のような建物の近くにも別の石碑が。
 こちらのほうは前面に次のように彫り込まれています。

  だんじゅとよまりる 大田名の島や 後岳やくさて め森 前なち

 これは「田名村ぬウスデーク」、別名「大田名節」の一節で、石碑の後面にはその歌詞が5番まで、小ぶりの字で刻まれていました。

 一、だんじゅとよまりる 大田名の島や 後岳やくさて め森前なち
 ニ、田名屋のんどぬち 黄金燈籠さぎて あまぬ明がりば みるくゆがふ
 三、念頭平松ぬ 枝持ちぬ美さ 田名ぬ乙女の 身持ち美さ
 四、大田名ぬくしに んざ水のあゆん 夫ふゆる女 ありにあみし
 五、夫んふやびらん しとんふやびらん なまわらびやてど ちゅいやふたる

 そしてそのクレジットは、「田名公民館建設記念事業期成会 平成13年11月24日建立」と記されていました。
 フムフム、前半は琉歌の定番的な歌詞がご当地風にアレンジされて並んでいるという印象。

 戻ってから某ウェブページを参照してわかったことは、
1 田名集落は伊平屋島で最初に人が住んだと言われる集落であること
2 「大田名節」は田名独特のもので難しく、集落内にはもう数名程度しか歌える人がいなくなっていること
3 歌詞に登場する「め森」は土地改良でなくなり、2番の「祝女殿内」は旧公民館にあったが戦後山の上に移転したこと
4 田名のウシデークでは「チャンクラ節」、「天川節」、「揚恩納節」、「大田名節」、「ションガネ節」の5曲が歌い踊られること
5 「大田名節」の歌詞は10番あり、ウシデークではその中から5つを選んで歌うこと
 そして、
6 上記歌詞の4番、5番は、この後に巡る「無蔵水(んぞみじ)」にまつわるもので、
   田名の後ろのほうには無蔵水があるが、夫を捨てるような女にはその水を浴びせて見習わせよ
   私は夫も他の人も振っていません、今は子どもだから一人わが身を振ったのです
  といったような意味だということ  など。

 その「無蔵水」の由来などは、その項で詳しく書くことにします。
 いやあ、歴史があるのだなあ、伊平屋の田名。んだっだなぁ。(山形方言で「そのとおりだよ」の意)と、「だな」の3連発。



 運天港で入手した伊平屋島の観光地図を見ると、田名集落の後ろ、沖縄でいう後(くし)に位置するところに田名神社の鳥居マークが記されていたので、ここにも寄ってみました。

 そこは集落の北側にある高地で、田名はきわめて風水上の理にかなった場所につくられたものだと感心。
 その頂点に位置するところにやたらと横に広い鳥居が立っており、さらにその奥に琉球赤瓦風の屋根をもつ建物がありました。
 これが田名神社の「田名屋」といわれるもので、このもとで神行事のウンジャミが行われる神聖な場所なのだそうです。
 2003年7月に建てなおしたことを記すプレートが付いていました。

 なお、田名のウンジャミ(海神祭)は、海の神々をお迎えして島の繁栄と平和を祈願するもので、現在も旧暦7月17日行われているとのことです。

 神社の左手奥にはさらに山を登っていく階段がついており、「田名城跡」というプレートがありました。
 案内板を見ると、「田名集落北側の後岳にある田名グスクには、石積みや池の跡など遺跡が残っています」とのこと。
 さらに登るのがかったるかったので、登り口の案内板を読むにとどめましたが、今になって思えば登っておくべきだったと後悔。だって、もう一度行くのってかなり大変だもの。

 さあさ、次は念頭平松を見に行こう。
  okinawakessen.gif  tsushimamaru.gif

 3月下旬以降6月中旬までに買った沖縄本は、次の11冊です。

 1 「沖縄の不都合な真実」 大久保潤、篠原章  新潮新書 799
 2 「時空超えた沖縄」 又吉栄喜  燦葉出版社 1944
 3 「フォトストーリー 沖縄の70年」 石川文洋  岩波新書 1101
 4 「対馬丸」 大城立裕  講談社文庫 788
 5 「風のマジム」 原田マハ  講談社文庫 637
 6 「義珍の拳」 今野 敏  集英社文庫 741
 7 「アイスバー・ガール」 赤星十三四  沖縄タイムス社 756
 8 「沖縄戦いまだ終わらず」 佐野真一  集英社文庫 777
 9 「沖縄決戦 高級参謀の手記」 八原博通  中公文庫 1566
10 「沖縄の殿様 最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記」 高橋義夫 中公新書 950
11 「Deeeji!オキナワ爆笑伝説」 沖縄テレビ放送株式会社 ボーダーインク 1620

 買ったのはいいけれども、いずれも自宅のほうに置きっぱなしになっており、勤務地のアパートでは読めない状態になっています。
 というよりも、これより前に入手してアパートに持ってきている本がほとんど読み進まず、それを読み減らすのに汲々としているというのが本当のところ。

 単身赴任してから家事とか買い物とかやることが増えており、また、電気こたつを卓袱台代わりにして座っての生活のため、読書をするための楽な姿勢がなかなか取れないということがあるように思う。
 でもって、夜になって飲み始めると、睡魔が読書欲を軽々と凌駕してしまうのだな。
 この5~6月、読書戦線が停滞しトロ沼化してしまったため、今後ペースをかなり上げない限り年内50冊読破の目標は達成できないかもしれません。


 バイクをプルル・・・と走らせて、この島を観光する上でのメインスポットと言っていい念頭平松(ねんとうひらまつ)公園にやってきました。
 さすが、気合いが入っているというか、広々とした立派な公園になっていて、手入れも行き届いています。
 松の木もすごい枝ぶりだし、大きい。

 公園内にあった碑文を引用します。

県指定天然記念物 念頭平松  昭和33年1月17日指定
 念頭平松は、あたかも唐傘を広げたような形をしており、高さ7.8m、枝張り約14.5m、胸高直径約1.2mの大きさをしています。
 このようなみごとな枝張りは、リュウキュウマツの代表的な形態を示すものとして貴重です。
 伝説によると、今から約500年前に植えられた兄念頭松といわれる美しい松がありましたが、山太筑之(ちくどん)という人が盗伐し、そのたたりで死んでしまいました。そこで、兄の霊を供養するために、その弟たちがこの念頭平松を植えたといわれています。
 念頭平松の優美さは、昔から多くの人々に絶賛されてきました。この松と田名の乙女を讃えた次の琉歌があります。
  「念頭平松の 枝持ちのちゅらさ 田名のみやらびの 身持ちちゅらさ」
 なお、この地域において許可無く現状を変更することは県条例で禁じられております。
  平成5年10月5日
    沖縄県教育委員会
    伊平屋村教育委員会

 推定樹齢は200年~300年以上と言われており、久米島の「五枝の松」(国指定天然記念物)と並んで沖縄県の二大名松とされています。五枝の松はすでに見ているので、これで沖縄の二大名松制覇~♪
 1958年には琉球政府指定天然記念物(現・沖縄県指定天然記念物)。1990年には「新日本名木100選」にも選定されているそうです。

 なお、周辺一帯が「念頭平松公園」として整備されたのは1994年だったそうです。


 次は、クマヤー線と呼ばれる道をさらに北へと走ってクマヤ洞窟へ。
 海岸沿いの道をタラタラ走っていくと、その左手に絶壁形状の巨大岩が見えてきました。どうやらそこがクマヤ洞窟らしい。

 天照大神(アマテラスオオミカミ)が隠れたとされる伝説の岩戸はここだ!と唱えた学者センセイがいたのだそう。それでクマヤ洞窟は一躍脚光を浴びたというのですな。

 その人とは徳川時代の国学者・藤井貞幹という御仁で、同時代の高名な学者・本居宣長とは大論争をしています。「神武天皇は琉球の恵平屋島(ゑへやしま)に生誕あそばされたり」という藤井説の根拠がこのクマヤで、現在もたびたび国学関連の大学の研究機関、沖縄史跡研究者が調査に訪れているのだそうです。
 「天の岩戸」伝説は全国に数多ありますが、ここはその最南端地というわけですね。

 絶壁の下からは、見上げるような高さのところまで長い石段が設えてあり、そこをビーサン履きでヒーコラ登っていくと、岩の割れ目のようなところがありました。それは一目見たところ、子どもでも入れなさそうなほどのものだったので、ダメダコリャと諦めてそれ以上進みませんでした。

 どうやらその中には高さ5m、広さ200坪ほどの洞窟があり、奥には祠が設えてあったらしいです。そして穴の奥は、なんと対岸の西海岸まで伸びていて、西側の入口は西クマヤ穴と呼ばれているのだそう。
 クマヤの呼び名の由来は、天の岩戸伝説で大昔に神々の争いをみかねた天照大神が洞穴に籠ってしまうエピソードからのもの。神が穴に籠っていた=籠穴(クマヤ)と呼ぶようになったのだとか。

 案内の石版の内容を引用しておきましょう。

指定天然記念物 くまや洞窟   昭和33年1月17日指定
 侵食によってできた珪岩質の洞窟です。この地域一帯は、伊平屋層と呼ばれる緑や紫を帯びた硬い珪岩(チャート)の古い地層から成り立っています。
 洞窟は、地層がしゅう曲したところにあり、その弱い部分が水や風、あるいは砂などの力によって侵食され、空洞になったと考えられています。
 入口を下ると広さ約600㎡、高さ約10mの洞内に入ることができます。
 この洞窟は江戸時代の学者藤井貞幹の説から、別名「天の岩屋」ともいわれています。このような侵食によってできた珪岩質の洞窟は、琉球列島でも特異な存在であり、学術的に貴重なものです。
 なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。
  平成14年3月11日 
    沖縄県教育委員会
    伊平屋村教育委員会

 画像は、石段の高みから海岸沿いの道路を見下ろしたもの。洞窟自体を見ることができず、海が美しいなあ・・・といった感慨がよぎった程度だったかなぁ。


 クヤマ洞窟の北東側が島の最北端になっており、この地を久葉山というのだそう。山地の形状が緑の木々でこんもりとしていて、このあたりの景観は、「白い砂浜・青い空・透き通る海に、目にしみる緑のクバ林」という贅沢な自然のコントラストが楽しめるポイントになっています。
 沖縄県内でも今では珍しくなった見事なクバ美林は、県の天然記念物に指定されています。
 琉球舞踊に用いられるクバ笠。舞踊者の一流どころは、この久葉山で採れる良質のクバの葉を用いて伊平屋の名人が編んだものを特注するのだそうです。

 久葉山の入り口に建っていた石板には次のように記されていました。

県指定天然記念物 田名のクバ山
 本村の最北端、この田名岬一帯は通称ミサチのウガンジュ(岬の御願所)と呼ばれ、全山がクバ(和名ビロウ)の自生する丘陵地である。
 ビロウは台湾から高知県まで分布するヤシ科の一種で、県内の特に風の強い地域や御嶽などに広く生育している。ここでは海岸から頂上まで自然のビロウ林が広がり、その規模は県内でも最大規模で、岬の灯台とマッチしてその景観は雄大である。
 本地域の標高は最高94mで、遠くから見ると丘全体がビロウの純木のように見えるが、ビロウの他にタブノキ、トーラ、ホルトノキ、カクレミノなどの植物が生育し、メジロやキジバトなどの野鳥の他、ヤシガニや天然記念物のオカヤドカリ類なども数多く生息している。
 ここでは毎年旧暦9月の大安の日にワラ縄で山を取り囲む「ヤマナジ」という神事などがとり行われ、昔から神の山としてあがめられ、聖域として村民から大切にされてきた。
 なお、この地域で許可なく現状を変更し、もしくは保存に影響を及ぼす行為を行うことは法律で禁止されています。
  指定年月日 昭和33年1月17日
  所 在 地 伊平屋村字田名
                  沖縄県教育委員会  伊平屋村教育委員会


 舗装された狭い上り坂を久葉山の高みまで進むと、伊平屋灯台が青空を背負って聳え立っていました。ここから眺める広角の景色は、先に述べた「伊平屋七景」の中でも最も見晴らしのいい場所だったでしょうか。
 周辺海域は、昔から沖縄で「渡りがたい恋路」に例えられる名高い荒海・伊平屋渡(いひゃど)。灯台の雄姿は、その波を越えて行きかう船の航海安全を見守る白い女神のようです。