2015年のゴールデンウィークには暦上の5連休がありました。これは巡ってきた沖縄行の大チャンス。というわけで、その前後1日ずつを加えた5月1日から7日までの7日間、沖縄に行ってきました。

 琉球弧方面への旅は数えてこれが47回目となります。観光地はあらかた見尽くしたつもりになっていますが、沖縄の懐は深く、まだまだ未見、未踏、未知のものはたくさんあります。
 加えて、琉球弧の旅を始めて20年以上が経過しているので、激変するこの地はかつて訪問した場所であってもその様相を大きく変えていたりもしています。
 そういったものたちを自分の中できちんとつまびらかにしていきたいという思いはますます強くなってきています。

 今回の見どころは、まずは未踏の離島伊平屋島に渡ること。琉球弧の有人島制覇の目論見は少しずつですが着実に進行しています。
 ほかには、浦添市界隈を徒歩で踏査すること、前回までに訪れて発見できなかった歌碑の建つ地のいくつかを再訪して今度こそ写真に収めてくること、那覇ハーリーのステージを見ることなど。
 また、いつものとおり、沖縄のさまざまな飲食店の食の魅力を徹底的に追及する楽しみも。

 ということで、楽しんできた旅のシーンを何回かに分けてドキュメントしていこうと思います。
 このごろの記録はいつも尻切れトンボになってしまっていますが、果たして今回は最後まで書きとおすことができるでしょうか?!

 長口上は時間の妨げ(というのは劇団でいご主宰者・仲田幸子の言い草)、さっそく始めましょうね。
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 午後3時頃に那覇空港に到着。美栄橋にある行きつけのビジネスホテルで荷を解いてすぐに向かったのは、那覇市泊にある「富士家 泊本店」でした。いつものことながら飲食店の話題からのスタートです。(笑)
 R58泊交差点から崇元寺通り(又吉通り)を100mほど進み、右手にGSが見えたら左折。

 富士家は沖縄風のぜんざいを供する店として有名な老舗。国仲涼子も高校生時代にここでアルバイトしたことがあると聞いています。
 男一人で甘味の店に入るというのもどうなのかとこれまで躊躇していたのですが、入ってみると、単なる甘味処にあらずして、タコスや沖縄そば、焼きそば、果てはステーキまでお出ししますよという太っ腹の店でした。ノープロブレムであった一方で、沖縄ではこういうのもアリなのかと小首をかしげたくなったり。

 さっそく券売機で「富士家ぜんざい」320円の食券を求めて店のお姉さんに渡します。
 いやはや、たっぷりの小豆と白玉。これで320円ならジョートーだと思うなあ。

 よく冷えたいわゆるアイスワーラー。近くの席で静かに話し込む、法事のあとに寄ったと思われる黒衣装の中高年の女性たち。ぜんざいに添えられたあぶらせんべい。
 この店の雰囲気ならば、まだ陽の残る南国の遅い夕刻あたりにふらりと入って、たとえばタコスの2ピースほどをつまみにビールを呷る、なんていうのもいいかもしれません。

 この後、沖映通りの那覇ジュンク堂書店に入って、早くも沖縄関係の文庫本4冊をゲット。
 それらは、「対馬丸」(大城立裕、講談社文庫)、「風のマジム」(原田マハ、講談社文庫)、「義珍の拳」(今野 敏、集英社文庫)、「アイスバー・ガール」(赤星十三四、沖縄タイムス社)。

 そうこうするうちに18時になんなんとする時間帯になったので、ゆいレール美栄橋駅周辺で飲み始めました。
 16時前からやっている居酒屋で、一度入ったことがある「一郎屋 美栄橋駅前店」でお通しの鶏肉のマリネ、島豆腐のやっこをアテに生ビール。
 暗いライティングのカウンターに通され今回はイマイチ雰囲気が合わなかったので早々に切り上げて、もう一軒「串角 久茂地店」に入って串焼き数本をつまみにハイボール。

 適度に酔いが回りいい気持ちに。やっぱ、沖縄はサイコーだなあと満足して宿へ。
 思えば旅立つ前日までけっこう働いたし、今回は家のある山形からではなく勤務地の庄内地方からの移動だったし、多少疲労気味。ちょっぴりもったいないけど早めに寝るかと思ったすぐあとには熟睡状態となった。
 結局のところ飲んでしまうともうダメで、これにて旅の第1日目はあっさりと終了したのでした。


 翌5月2日(土)。朝めしは、ホテルのサービス朝食をパスして、行ってみたいところがありました。それは、一銀通りから少し入ったところにある久茂地の「くりすたる」。
 喫茶店と洋食屋の間のような位置づけで、月~土曜は朝8時からやっているというがんばる店。
 トルコライスやオムレツカレーなどがリーズナブルな料金で腹いっぱい食べられるという情報を得ていたものですから。

 門外漢にはちょっぴり入りづらい入り口のドアを、このごろはこういう場面で臆するということがほとんどなくなってしまったなと思いながら押し開けて入店。

 今回お願いしたのは、Bセット880円。
 セットの飲み物はアイスコーヒーをチョイスしてみました。

 この量のスパゲッティがあれば一般的には十分でしょう。それにベーコンエッグがのっかってもりもりとキャベツサラダが添えられればもう満腹。ところがこのセットはその上さらにエッグサンドが付いてくるのです。サンドの中身なんてもう、めっちゃ多いやんか。

 なんだか朝からずいぶん食べてしまったなあという印象。たいへんに満足し、腹をさすりながら地元紙を読み、アイスコーヒーで一休み。
 いったんこのような至福感を知ってしまうと、ビジネスホテルの狭いロビーで社会習慣の異なる外国人たちと入り乱れて食べるサービス朝食なんて、ばかばかしくってやってられまへん。
 この店のように、沖縄では沖縄料理以外のジャンルでもさまざまな「食」の楽しみを得ることができます。


 この日は浦添市内でまだよく見ていないところを歩いてみる計画です。
 これまで浦添市は、パイプライン通りの縦走、浦添大公園からその東の前田高地、当山の石畳道周辺までの徒歩散策などをやってきましたが、R58とパイプライン通りに挟まれた市街地は車で通る程度でじっくりと歩いて見たことはありません。今回のねらい目はそのあたりがメインです。

 まずは路線バスをR58の屋冨祖バス停で降りて、「屋冨祖通り」を「パイプライン通り」にぶつかるまで歩き、そこから「サンパーク通り」を北上してR58の城間交差点へ。
 さらにマチナトショッピングセンターに寄ったりしながらR58を名護方面に歩いて「学園通り」へと折れ、そのまま「運動公園通り」を進んで県道153号線の「旧国頭方西街道」に突き当ります。
 そこからいったん安波茶交差点まで戻ったりしながら、国頭方西街道をとってかえして「牧港通り」をすずいと北上。
 いやはやツカレタ。ということで、A&W牧港店でお替り自由のルートビアを3杯もいただいて大休憩をしたところ。

 宇地泊のバス停から路線バスに乗って国際通りに戻ると、時間はもう夕刻。当夜の宿がおもろまちへと変わるので、美栄橋のホテルで預かってもらっていた荷物を受け取り、ゆいレールで移動しました。

 浦添市散策中のトピックは以降個別にご紹介していきます。
(画像:R58屋冨祖歩道橋から那覇方面を望む。いい天気だ。)


 R58沿いのキャンプキンザーから東に入る県道38号が、昔ながらの商店が立ち並ぶ「屋富祖通り」です。
 キャンプキンザーが出来た当時は道も舗装されていないような小さな通りだったそう。当時はキンザーの正面玄関が通りの突き当たりにあり、最初は兵舎を作る建設業の人々が、そしてキャンプが出来てからは軍雇用員が通りを使うようになり、どんどん店が増えていったといいます。

 ベトナム戦争の頃は、屋富祖通りにAサインバーが5軒。浦添全体で6軒あるうちの5軒がこの大通りにあったようで、この通りがどれだけ繁華街だったかがうかがえます。
 Aサインの店以外でも、はじめは軍雇用員が遊べる娯楽街から徐々に商店ができ、最終的には食堂などの日常生活に関わる店舗が増え、また、屋富祖だけで市場が2つあったといいます。

 理髪店や食堂、飲屋やスナックなど、当時からの店が今でも営業しているところもまだたくさんあります。なかでも東京理容館は、大通りで最も古くからある店だそうです。

(画像:東京理容館は通りで最も古くからある店。)


 次はサンパーク通り。屋冨祖通りとパイプライン通りが交差する変形5叉路からほぼ北へと伸びる落ち着いた通りです。
 通りのほぼ中間点に「泉小(いずみしょう)公園」という大きな滝や滑り台のある公園がありました。そこの一角に碑を発見! ナンダナンダ??

 それは「おもろの碑」でした。
 「おもろ」とは神に捧げる歌で、神への言葉と言われています。いつ頃から謡われてきたかははっきりわかりませんが、村祭りや琉球王府の祭りなどで謡われてきています。土地のこと、領主や歴史上の人物を讃えたもの、五穀豊穣や航海安全を祈ったものなどさまざまな歌があります。
 浦添市には9つのおもろの歌碑が建てられており、これはそのひとつのようです。

 石碑の記載は、次のとおり。

  一 ぐすくまの あさいによ
    あさいによ ひろみやに
    おれなおせ
    かみたかみ
  又 またよしの あさいによ

 う~む、よくわからん。
 これを平易に書くと、

 城間のあさいによ あさいによ 広庭に 降れ直せ 神達、神 ――ということのよう。


 解説版には以下のとおり口語訳と解説がありました。

 城間の長老様 長老様の広い庭に 降り直せ 神たち 神 又吉の長老様

 このおもろは、古い沖縄の神歌を集めた歌謡集「おもろさうし」の中に登場するもので、
 城間の長老の広い庭に、神女たちがつどい、神歌をうたい、踊りつつお祭りをする状況を詠んだものです。
 当時、ムラには長老(男性)がおり、祭りをする広場がいくつもあって、神々に祈る神女たちもいました。
 城間のことを詠んだオモロは7首ほどありますが、ここに紹介したものはその中の代表的なものの一つです。又吉は城間のとなりにあったと思われる古いムラの名前です。


 なお、浦添市にあるおもろの歌碑は、次の9つだそうです。
  伊祖公園 ・・・世の中を豊かにした英祖王を讃えるおもろ
  牧港漁港 ・・・中国と進貢貿易を行った察度王を讃えるおもろ
  浦西中学校正門前 ・・・浦添グスクの王の偉大さを讃えるおもろ
  屋富祖公民館 ・・・屋富祖の役人が王に献上物を届けるさまを謡ったおもろ
  城間・泉小公園 ・・・城間の長老が神女たちと神祭りをする様を謡ったおもろ
  仲西公民館 ・・・仲西の優れた船の操り人・真人を讃えたおもろ
  沢岻・めじろ公園 ・・・国中に名高い沢岻太郎の名付け親を讃えるおもろ
  仲間・浦添中学校交番前 ・・・浦添の地が素晴らしく繁栄している様を讃えたおもろ
  運動公園メインゲート向い ・・・酒が満ち溢れた豊かな浦添を讃えたおもろ


 「学園通り」は、伊祖、港川、城間の3つの字を通り、パイプライン通りとR58の二つの道を横につないでいて、沿線には浦添市立港川中学校、港川小学校、浦添商業高校が建ち並んでいます。
 この通りができたのは今から30年ほど前で、最初は「コミュニティセンター通り」という名前でしたが、その2年後に港川小・中学校、浦添商業高校ができたのを機に「学園通り」と改名したのだそうです。
 もともとこのあたりは川だったらしく、それを市が埋め立てて、道路を通したようです。その頃は、港川中学校あたりは山。今みたいに店も整然とはしていなかったといいます。

 R58側から歩いていくと、まずは今は使われていない「ゆうふる会館」が荒れ放題になっていて、大丈夫か?との第一印象でしたが、港川幼稚園・港川小学校の正門前の花いっぱいのエントランスを見て一安心。外壁には卒業生一人ひとりの似顔絵がずらりと並び、いわゆる顔のわかる地域になっている様子でした。
 案外居酒屋が多かったり、ちょっと入ると大きな家があったりと、なかなか暮らしやすそうな印象もありました。

 学園通りをパイプライン通りまで歩くと、その先の運動公園通りはぐーんと上り坂。グラウンドで高校生がサッカーの試合をしているのを見て休んだりしながら徒歩行を続けます。

(画像:浦添市立港川幼稚園・港川小学校の正門)


 運動公園通りを歩ききって県道153号のT字路に突き当り、そこをあえて目的方向と逆に右折して安波茶交差点方面に向かったのは、その周辺の仲間集落に歴史があり、由緒ある史跡がいくつか保存されているからでした。
 集落に近づくと道路の要所にそれらの史跡を示すサインが設えてあるのでとても見学しやすくなっています。

 サインに従って、まずは「仲間火ヌ神」を見学。サインがなければたどり着けない住宅の間の細道を分け入って到着。
 以下、標識の記載事項を引用。

浦添市指定文化財 史跡 仲間火(ひ)ヌ神(かん)(仲間の拝所群)
 沖縄の火ヌ神には、各家庭で祀る火ヌ神のほかに、ムラの火ヌ神があります。
 この石の祠は、近世の仲間村の「地頭火ヌ神」といわれています。
 地頭は琉球王国時代に間切や村(今の字)を領地にした士族で、その就任や退任の時におがんだのが地頭火ヌ神です。
 また、王府の公的祭祀として、浦添ノロ(神女)がとりおこなう稲二祭(ウマチー)などでも、他の拝所とともに地頭火ヌ神がおがまれたようです。
 現在は、旧暦5月・6月の稲二祭や12月の御願解き(うがんぶとぅち)などの年中行事に、仲間自治会の代表者数人で、ムラ拝みをおこなっています。
 以前より敷地はせまくなりましたが、祠の石組みなどは戦前の姿をとどめています。
  平成14年3月1日指定
  浦添市教育委員会


 次は、仲間樋川(なかまフィージャー)。仲間火ヌ神からほど近いところにある湧水施設です。
 以下、説明板の記載事項を引用。

 仲間樋川は市内でも最も大きな井泉のひとつで、仲間集落の村ガー(共同井戸)として大切にされてきました。
 「樋川(フィージャー)」とは湧き出る水を樋で導き、水を容易に汲み取れるようにした井泉のことです。
 仲間樋川の樋は大きな琉球石灰岩を削ってつくった大変立派なものです。1731年に首里王府が編纂した「琉球国旧記」には「中間泉(中間邑に在り樋川と俗に曰う)」の記述があり、その頃にはすでに樋が掛けられていたことがわかります。
 昭和10年にはコンクリートを用いた近代的な改修が行われ、現在の姿となりました。昼夜湧き出る水は、貯水・飲水用の「水タンク」に溜められ、次に洗濯などをする「平場」を経て、最後は農具や農作物の水洗い、馬の水浴びなどをする「ウマアミシ(溜め池)」に溜まるように造られました。そして、溢れ出た水は苗代田へ注ぐようになっていました。大切な水を飲用水、洗濯用水、雑用水、灌漑用水の順に利用する工夫がみられます。

 仲間樋川は沖縄戦でも大きな被害を受けず、戦後は豊富な水量で仲間の収容所に集められた数千人の生活水をまかないました。その後、上水道が普及する昭和40年代まで水を利用するたくさんの人々で賑わいました。
 井泉の清浄な水は人の体を育て、健康を保つ特別な霊力(セヂ)をもつと信じられ、人々の信仰対象にもなりました。その証として仲間樋川の樋の傍らには香炉が置かれ、地域の大切な拝所となっています。
 現在も旧暦の5月・6月のウマチーや12月の御願解きなどの年中行事の際に、自治会で村拝みがおこなわれています。また、各家庭に水道が普及する以前は、子どもが生まれたときには産水(ウブミジ)をもらい、正月には若水(ワカミジ)を汲んで家の火の神や仏壇に供えました。
 仲間樋川は人々と水との関わりを知る上で大切な文化財です。


 また、「仲間樋川の整備について」という説明板があったので、これも引用しておきます。

仲間樋川の整備について
 仲間樋川の整備に先立ち発掘調査を実施しましたが、残存する遺構は昭和10年改修時のもでした。
 この調査結果をふまえ浦添市教育委員会および浦添市文化財調査審議会で検討した結果、今回の整備は昭和10年改修時の姿としました。
 ただし、水タンクの整備については、①過去の樋川が樋とため池で構成されていたこと、②水タンクが本来の景観を損ねていること、③地域の方々が過去のように水とのふれ合いを求めていることなどから、水タンクの上部を切り取ったかたちのため池にしました。
  平成21年12月吉日
  浦添市教育委員会


 仲間の拝所群で次に見たのは「仲間ンティラ」。
 仲間自治会館の前庭に鎮座しています。お邪魔したとは、地域の世話役のような立場のオジサン二人が竹箒で庭を丁寧に掃き清めている最中でしたが、ンティラを見たい旨を伝えると快く迎えてくれました。

 説明板の記載は、次のとおり。

浦添市指定文化財 史跡 仲間ンティラ(仲間の拝所群)
 ティラまたはンティラと呼ばれる拝所は、奄美・沖縄地方に分布し、その多くは洞穴になっています。仏をまつる寺ではなくムラの神が鎮座しているところと考えられています。仲間ンティラも、横穴の洞穴になっています。
 「琉球国由来記」(1713年)に記されている長堂之嶽(ながどうのたき)が仲間ンティラにあたると考えられます。
 旧暦正月の初拝み、5月・6月の稲二祭(ウマチー)、12月の御願解き(うがんぶとぅち)などの年中行事には、他の拝所とともに村拝みを行っています。
 戦前は、台座に蓮の葉が刻まれた石灯籠が建ち、拝みを行う祠は赤瓦葺きで、壁は石積みだったようですが、去る沖縄戦で失われました。現在は洞穴一帯を埋め立て、再建した祠の中から洞穴に入る形に変わっています。
  平成14年3月1日指定
  浦添市教育委員会


 次は、クバサーヌ御嶽。旧集落中央部からやや北側の山寄りに位置し、今では周りが農用地となっていますが、かつてはもっと深遠な場所だったのだろうと思料されます。

浦添市指定文化財 史跡 クバサーヌ御嶽(仲間の拝所群)
 クバサーヌ御嶽は、仲間集落の発祥の地と伝えられています。
 近世の仲間村の拝所の一つで、「琉球国由来記」(1713年)には「コバシタ嶽」と記されています。コバシタはクバの木の下という意味です。
 この一帯はウガングヮーヤマとも呼ばれ、戦前は大木がうっそうと茂っていました。古老によると、クバサーヌ御嶽には石で積み封じた神墓があったそうです。また、裸世(はだかゆー)の時代には、クバの木の下で子供を出産したという言い伝えもあります。
 旧暦正月の初拝み、5月・6月の稲二祭(ウマチー)、12月の御願解き(うがんぶとぅち)などの年中行事には、他の拝所とともに村拝みが行われます。
  平成14年3月1日指定
  浦添市教育委員会

 ナルホド、想像どおりではないか。


 浦添市仲間地区の文化財めぐりの最後は、「御待毛(ウマチモウ)」の跡です。
 県道153号沿い、Y型に道が分岐する三叉路があるのですが、ここが王国時代には御待毛と呼ばれていた場所なのだというのですな。
 案内標識を引用すると、次のとおり。

御待毛
 琉球王国時代には、仲間村を通る二つの大きな公道がありました。一つは首里から牧港・読谷へと続く「中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)」であり、もう一つはこの道から枝分かれして当山を通り宜野湾の普天間宮へと至る道です。
 このあたりはちょうどその二つの道の分岐点にあたり、首里と地方を往来する国王や役人を仲間村の人々が出迎える場所であったことから、御待毛と呼ばれていました。
 なお、「毛(モウ)」は沖縄の方言で「広場」や「原っぱ」という意味です。

 繰り返しになりますが、現在の県道153号がかつての中頭方西海道で、この御待毛跡から北に向かって右のほうに登っていく細い道が、当山の石畳道を経て普天間につながる街道となるわけです。
 単なる三叉路を歴史的な視点で見ると、また違った味わいがあっていいものです。

 ところで、由緒あるその三叉路に建つのは「大衆食堂 城」。おお、沖縄大衆食堂の著名店である「城」とはここにあったのか。豆腐チャンプルーがおいしいという噂はかねがね聞いているぞ。今日食べた「くりすたる」での朝食が充実の極みだったので、次回以降に訪問することとしよう。

(画像:食堂「城」。左へ進めば牧港、右へ進めば当山へ。)


 仲間地区を離れて旧国頭方西街道をずずいと北上し、牧港通りを通り、牧港水タンク跡前を通過してR58に戻ってきました。そろそろ足の裏が痛くなってきたぞ。
 しかし、帰りたいのを少し我慢してR58を北側に渡り、「牧港テラブのガマ」を探しに行きました。

 ゴッパチの北側ということだけわかっていて、それ以外は前知識、下調べなし。このあたりにガマの遺構があってもいいはず――という行き当たりばったりの探訪でしたが、ゴッパチ北側なんてそう広いわけではなく、あっさり発見。(株)琉薬ビルの東側の道路沿いにありました。

 案内板の内容は次のとおりです。

市指定史跡 牧港テラブのガマ  昭和61年3月31日指定
 牧港テラブのガマは、方言でティランガマと呼ばれる琉球石灰岩の自然洞穴である。牧港の拝所として洞穴内が御獄、洞穴の前庭が「琉球国由来記」にある牧港の殿(祭祀場)になっている。
 洞穴の広さは約30平方メートル、床には砂利が敷きつめられ天井には若干の鍾乳石がある。中央部の奥には拝壇があり、今でもときおり参拝者が訪れている。
 伝説によれば、乾道元年(1165)に今帰仁の運天港に漂着した源為朝は、大里按司の妹を妻に迎え男子をもうけた。しかし、為朝は浦添から出帆し帰郷、残された妻子はこの洞穴で為朝を待ちわびた。以来この地はマチナト(牧港)とよばれるようになったという。その子の名は尊敦といい、後の舜天王である。
  昭和63年3月30日
  浦添市教育委員会


 後段の「伝説」はあくまで伝説。でもまあ、よくできた話だとは思うのだけどな。
 いやはや、歩いた。10キロ以上は軽く歩いたと思うが、どうだろう。でも今回はビーサンではなくワークシューズだから、脚の痛さはさほどではないのが救いだ。

 というわけで、このあとはA&Wの牧港店まで行き、スーパーフライ(小)をつまみながらルートビア(小)をお代わりして3杯。うーむ、甘い。

 ゆっくり休んで、宇地泊からバスに乗って国際通りへと戻る。
 往きのバスで見かけた大きなサングラスの派手な女性が、帰りのバスにも乗っていた。降りる時に払っていた運賃から判断して、彼女は恩納から名護の間あたりまで行って帰ってきたようだ。しかも帰りは男性が同行。異国語を話していたので、どうやら中国系のようだった。
 まあそれはどうでもいいことだが、こちらはその間、ひたすら浦添を右往左往していたというわけなのだな。客観的に見れば、彼女よりも自分の行動のほうがずっと怪しいのだろう。


 国際通り~美栄橋~おもろまちと移動して、夕刻にはおもろまちのホテルへ投宿。
 飲みに行く前に、かつて登った沖縄戦の激戦地シュガーローフの丘に再度登ってみました。

 シュガーローフというのは米軍の戦略上の呼び名であって、ここは沖縄では慶良間チージと呼ばれていたところ。しかし、開発が進んだ今となっては、ダイワロイネットホテルの高層ビルが邪魔をして、慶良間諸島はまったく見えなくなってしまっています。
 前回は、頂上にある展望台からケラマを見ることができたのですが、今や展望台がそこにあることのほうが不思議なくらいの変貌ぶりです。

 そういえば、これまで馴染んできた沖映通りをはじめとして街並みは大きく変わってきています。この変化は少しずつなどという進度ではなく、むしろ着実に、と言っていいでしょう。
 沖縄各地の風景だってすっかり赤瓦は減り、コンクリートの白さばかりが目立つようになりました。

 さて、シュガーローフの丘にあった標識の記載事項を引用しておきましょうね。

慶良間チージ(シュガーローフ)
 沖縄戦の激戦地。字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍陣地の一つ。
 日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は日本軍の首里防衛の西の要衝で、米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
 とくにここ慶良間チージの攻防は、1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。
 米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
 それ以後、米軍は首里への攻防を強め、5月27日、首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は6月末まで続いた。

(画像:慶良間チージにある展望台と、慶良間諸島の遠望を阻害する高層ビル。)


 ということで5月2日はほぼ終了。このあとは「一鮮満」という居酒屋で、カウンターのウッディでがっちりした椅子に掛け、刺身をつまみながら魚を捌く寡黙な板前を前に寛ぐ。生ビールと泡盛(久米仙)一合。泡盛が効き、2千円ほどでかなり出来上がる。
 いい夜であったな。


 旅の3日目の5月3日(日)。
 この日は碑めぐりをいくつかと那覇ハーリーを見るぐらいで、わりと余裕のある日程。
 朝食をホテルのサービス朝食にしてみましたが、一言で言って「あさましいあさめし」。セルフサービスのバイキングのプレートを持ったまま、座る場所が得られなくてウロウロしている者が数人。座っている連中は東洋の異国人が多く、彼らは周りに立って困っている人がいても我関せずでのんびりしている。異国人は席の取り方も強引で、立ち尽くして困っているのは日本人ばかりだ。ああ、グチグチ。

 さて、まずはレンタカーをゲット。9時におもろまちDFSギャラリアのカウンターで手続きをして7日までの5日間のレンタル。
 そのクルマを駆ってまず訪れたのは、糸満市西崎町の株式会社比嘉酒造。その前庭にある「君知るや名酒あわもり」の碑を見に行きました。

 実は「君知るや名酒あわもり」の碑は2つあり、その一つがここにあるのです。
 そしてもうひとつは、那覇市港町の沖縄県酒造協同組合の玄関正面にあります。

 発酵学の権威東大名誉教授・坂口謹一郎博士が、1970年4月号の雑誌「世界」に掲載した論文「君知るや、銘酒泡盛」に「黒麹菌という不思議なカビを育てあげ、泡盛という名酒を造りだした沖縄県民の素質と伝統に、限りない魅力を感ずる」と記したのが発端。これを機に泡盛の良さが学術的にも認められ、泡盛を世に知らしめるきかっけとなった、という経緯があるのだそうです。
 その博士の業績を称え、論文のタイトル「君知るや名酒あわもり」という名文句が刻まれた石碑を、まず沖縄県酒造協同組合の玄関正面に建立したのだそう。
 そしてそれのコピーが、比嘉酒造内にもある、というワケ。

 比嘉酒造は創業明治16年で、この建物は、泡盛「まさひろ」の100周年を記念してつくられた工場なのだそうです。


 「君知るや名酒あわもり」の碑の2連発。
 県酒造協同組合の場所は那覇市港町地内、かんぽの宿那覇レクセンターの北側、沖縄総合事務局南部国道事務所の並びです。

 わざわざ行ったのに、組合は連休中休業のようで、敷地内には入れず。しょうがないので柵の外からカメラのズーム機能を使って撮影するにとどまりました。残念。
 でもまあ、2つの碑の揮毫が共通のもののようだということがよくわかり、続けてみるのはちょっとした醍醐味あり。
 とは言っても、わざわざ沖縄まで来てあわもりの碑を連チャンで見るような酔狂な人間は自分をおいてほかにはいないだろうな。


 さて、次は那覇ハーリー。泡盛の碑の近く、かんぽレクセンターの裏に車を路上駐車したまま、そこからてくてくと会場の那覇新港埠頭まで歩きました。これがけっこう遠かった。でもまあ、そこよりも近くには駐車できるところがあまりなかったのでやむを得かったのだけれど。

 那覇ハーリーに足を運ぶのはこれで5回目? 初めて見たのが2004年だから、あれから11年が経ったわけだ。記録をたぐると当時は2004、05、06年と3年続けてハーリーを見ていたようで、太陽風オーケストラやパーシャクラブなどの実力派ミュージシャンが登場してまつりを盛り上げていたのを見て心を躍らせていたのでした。

 今年の那覇ハーリーは第41回。5月3日から5日の間に行われました。
 今年のステージ登場者は主なところでは4日のディアマンテス、5日の風の舞創作エイサー、D-51など。それらに混じって毎年ほぼ欠かさずに登場するのが「仲田幸子お笑いショー」で、実はこれが楽しみで、その時間を選んで会場に向かったという次第なのです。

 会場到着は11時。メインステージ横の立ち見でまずは「花やからショー」から。
 「舞踊集団 花やから」は、少女達による子供舞踊集団として1997年に結成。琉球古典舞踊、琉球舞踊をベースにした民謡・童謡・歌謡の創作舞踊を中心に、歌・三味線やウチナーグチによる寸劇などを織り交ぜ、エンターテーメント性を加味した「沖縄」を表現します。
 今回は、「花やからのテーマ」、「新川大漁節」、「ハイサイおじさん」、「鳩間節」、「がんばれ節」などの歌・舞踊のほか、大笑いの寸劇も。曲の間を空けずテンポ良く連続的に展開していくステージは、子どものステージと簡単にあなどれない芸の域に達していました。14人のステージでしたが、ほぼフルメンバーだったのかも。

 そしていよいよ「仲田幸子お笑いショー」。80歳を軽く超えている年齢の仲田幸子はますます元気。独特のガラ声で前口上を述べて会場のお年寄りたちを笑わせます。高齢者だけではなく、気づけば自分の周りはどこかの女子高校のハーリーチームの大群。彼女たちも幸子サンの語りにじっと耳を傾けています。これも沖縄らしいちょっとしたおどろきです。

 「沖縄ジントヨー」、「永良部アッチャメー小」などの舞踊があり、メインの劇は「新聞少年」。登場するのは仲田幸子、仲田明美、仲田まさえ、普久原明、高宮城実人など。
 「新聞少年」は以前も見たことがあって、そのときは少年タケオ役を仲田明美がやっていたのを、今はその娘のまさえがこなしていたのには感激。明美も好きだったけど、まさえの新聞少年も悪くないですね。

 5人兄妹の末妹が病でふせっているなか、その息子タケオが新聞配達をしながら家計を支えている。
 上3人の兄妹(仲田幸子は長女役)は遊んでばかりいて、タケオが困窮を訴えても自分達が得する事だけ考え損することには一切手をかけない。
 そこへハワイで事業を失敗したうえに大怪我した末弟が帰ってくる。上の3兄妹は冷たくあしらうが、困窮しているはずの新聞少年が手を差し伸べる。
 ところが、どうしたことでしょう、大怪我したはずの末弟は・・・、という内容。

 結末がわかっていても、それぞれが演じるキャラやセリフがどうにもおかしく、何度見ても楽しませてもらえるウチナー芝居の名作でした。
 しかし、この劇団は仲田幸子がいなくなったらどうなるのだろうと心配。そうなれば、残念ではあるけれどもおそらく劇団続行はないでしょうから、今のうちによーく見ておかないとという思いも、正直なところありましたかねぇ。


 仲田幸子お笑いショーが終わったのは12時半。さて、腹が減ったな。昼メシをどこで食べようか。
 なんてことはとっくに計画に入っていて、この日の昼はこのあと長駆して与那原町まで足を延ばし、町内東浜の「いけだ食堂」で食べるのだ。

 この店、種類、味、量などがいかにも沖縄らしい店として名が通っていて、与那原界隈ではピカイチとの評判だった。なので、沖縄大衆食堂マニアとしてはぜひ押さえておかなければならない店の一つなのでした。
 かつて西原町にあったものが与那原に移転。そして2014年の2月末をもって一度閉店したようですが、今は再開してさらに賑わっている――という経緯を持った店です。
 入店すると、老若男女大勢の客がいて、大衆食堂の活気が感じられいい雰囲気。いずれの客もがっつり食べるぞと意気込むいい表情があります。相席は当たり前で、大きいテーブルと壁越しのカウンター席が中心です。

 食べログで見た「マーボー豆腐」がでっかい平皿に供されておいしそうだったのでそれを狙っていましたが、入り口のメニュー写真には見当たらず、かわりに「味噌汁かつ丼」750円をチョイスしてみました。

 対面したブツはご覧のとおり。箸よりも長い直径を持つ同じ大きさの器が2つ、ドドンという感じで鎮座しています。
 かつ丼はつゆだくで、甘さ、塩辛さのきつくない、いわゆる家庭のアンマーの味。たっぷりの玉ねぎと少量のニラ。これらとともに豚カツをかっ込めばアチチのハフハフのウマウマで至福感はいや増します。
 みそ汁は、キャベツの甘さが引き立つやさしい味。肉は鶏を使っており、豚かつ丼とかぶらないのは好感。キャベツ、鶏肉のほかにはポーク、モヤシ、タマネギ、ニラ、ニンジン、豆腐、落とし卵などが入っており、充実の一品でした。

 ああ、超満腹。卵だけでも3個は食べているな。いい食堂に出会ったなあ。メニューの名称が味噌汁を先にしているあたり、いかにも沖縄らしいしね。
 しかし、すんげぇ豊富なメニューで、目移りすること必至。訪問前にある程度ターゲットを絞っておかないと、券売機の前で後続の客を待たせて悩んでしまうことになりそうです。
 そうそう、あとで確認すると、マーボー豆腐は券売機にはちゃんとありました。次回以降の沖縄行ではぜひ再訪してコイツも食べてみることにしましょうね。

 その後は与那原から東海岸をゆっくりとドライブ。早めに連泊するホテルに入り、ホテルのランドリーで洗濯を済ませます。
 夕刻は、明るいうちから飲酒。歩くのがかったるいので、近くの「笑々」に入って生ビールにキムチ、枝豆、蛸と鮭のカルパッチョなどを合わせます。

 という具合で、5月3日もようよう暮れていくのでアッタ。


 5月4日。
 「あさましいあさめし」をパスし、8時前にはホテルを出てまず訪れたのは、松山公園。この公園内に入ったのは2004年、袋中上人が来琉して400年を記念して開かれた「エイサーフシジウォーク」以来だから、11年ぶりとなります。

 ねらいは「久米村600年記念碑」。
 600年前、中国の福建から閩人三十六姓と呼ばれる人々が渡来し、この地に居を定め久米村(唐栄)を築きます。以来久米村の人々は、外交文書の作成などを通じて王国の国際交流・交易を促進し、また中国の文化・文物を導入して、沖縄の政治・経済・文化の発展に大きく寄与しました。

 これ、公園内のどこかにあるはずだと考えあちこち探しましたが、近隣の人などに聞けばそれは、那覇商業高校の西隣、福州園前の、松山公園入口にある船の形をした碑であることが判明。なあんだ、それならすでに見たことがある。それじゃなく、別に新しい碑ができているものとばかり、勝手に勘違いしてしまっていたのだな。

 ということで、そのすぐそばにある、井戸の跡のような広場で小休止。これもかつて見ているけれど、説明板があったので確認。おお、むしろこっちのほうに興味が湧いたぞ。
 さっそくその遺構を写真に収めてみたところ。
 以下説明板の内容を移記。

ユウナヌカー跡  那覇市松山1丁目 松山公園内
 この地にあった村ガー(共同井戸)。近くにゆうなの木があったことから、「ゆうなの井戸」と呼ばれたという。
 浮島と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、多くの井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかった。そのため、那覇港南岸の「落平(ウティンダ)」の水が、那覇市中や入港する船舶に向けて販売されていた。このような中、松尾山(マーチューヤマ、現松山公園一帯)周辺の井戸の水は、飲み水として利用されたという。ユウナヌカーもその一つで、周辺住民の産湯などに使われる貴重な村ガーとなっていた。
 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、県庁所在地として人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となった。水道敷設計画は何度も持ち上がり、1933年(昭和8)に念願の水道が敷かれた。水道普及により、ユウナヌカーは使われなくなったが、その後も水への感謝として、周辺住民から拝まれた。
 ユウナヌカーは、この地にあった沖縄県立第二高等女学校の運動場の一角にあったが、現在、1986年(昭和61)に整備された松山公園の池として、憩いの場所となっている。

 ナルホド。
 また、「松尾山跡(マーチューヤマアト)」の説明板もあったので、合わせて移記しておきます。

松尾山跡(マーチューヤマアト)
 浮島呼ばれた那覇の中核をなした丘陵跡。久米村と若狭町村の間にあったことから「久米村松尾(クニンダマーチュー)」・「若狭町松尾(ワカサマチマーチュー)」とも呼ばれた。松が生い茂る山林は、総じて松尾山と呼ばれ、かつては、松尾と呼ばれる多くの場所があった。
 琉球王国時代、松尾山は久米村の所有地であったとされるが、1899年(明治32)から実施された土地整理事業(土地・租税の制度改革:~1903年)により、県有地となった。その前後から松尾山の開発が始まり、1945年(昭和20)の沖縄戦以前は、西側から中央部にかけて、那覇尋常高等小学校(1888年開校)、那覇地方裁判所(1893年移転開所)、知事官舎(1916年開設)、沖縄県立第二高等女学校(1923年移転開校)、松山尋常小学校(1902年開校)があり、小学校の南側に沖縄県立沖縄病院(1901年移転開院)が置かれた。中央部から北側にかけては、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎(1910年設置)等と、公的施設が集中した。
 一方、東側の「東郷松尾(トーゴーマーチュー)」・「仲地小の丘(ナカチグヮーヌウカ)」等と呼ばれた丘陵には、念仏者(ニンブチャー)の屋敷や長寿宮(ちょうじゅのみや)があり、一帯は、戦前まで松尾山の面影を残していたという。
 1944年(昭和19)の10・10空襲や、その後の地上戦により、松尾山一帯の施設は焼失した。終戦後、1951年(昭和26)には小学校・病院跡地に那覇商業高等学校が開校した。その他の場所は、米国マニング社管理の外人住宅地となっていたが、1977年(昭和52)からは公園整備事業が開始され、現在、松山公園・福州園が整備されている。
 なお、1603年に来琉して、浄土宗を伝えた袋中上人の事績を記した「袋中上人行化碑(ぎょうげひ)」(1924年建立)が、上人が住持した桂林寺(けいりんじ)跡とされる場所に残されている。

 うーむ、松尾山は時代とともにさまざまに変遷してきたのですね。
 「袋中上人行化碑」というものも見ておきたくなりました。松山公園の奥、那覇商業高校北側の塀に接して建っているそうなので、またいつかチャレンジしてみましょう。


 その後クルマを中城村方面へと走らせ、「吉の浦公園」というところで小休止してから向かったのは、和仁屋公民館。
 ここに「和仁屋間(わにやま)の歌碑(口説)」があるという微かな情報があったので行ってみたのですが、公民館は発見できたものの、歌碑そのものは見つけることができませんでした。
 その歌碑に書かれているのは、敵討物の組踊「忠臣身替の巻」(1797年、辺土名親雲上作)」に登場する「東表を見わたせば 浪のぬれぢの津堅島・・・」で始まる琉歌で、2004年に建立されたもの――ということまでわかっているのですが、残念ながら次回以降にキャリーオーバー。‎

 で、次なるは「和仁屋間門の琉歌碑」。こちらは前回の訪沖の際に発見できなかったものの再アタック。今回は、渡口多目的広場内にある、というところまでキャッチしての挑戦です。
 広場の駐車場にクルマを停めて歩き出せば造作なく発見。

 いやはや、でっかい石碑。
 表面には、
   勝連の嶋や  通ひぼしやあすが
   わにやまぢやうの潮の  蹴やりあぐて
      和仁屋間門の潮や  けやりあぐまはも
      勝連の嶋や  かよひぼしやの
とあります。
 上の句は、詠み人知らず。下の句は、10代目在藩奉行の諏訪奎右衛門(1645~47年在任)によるもの、とのこと。
 これは「勝連節」の一節。「伊計離節」でもこの一節がうたわれます。
 勝連の村には美しい娘たちがいるので、通って遊びたいが、和仁屋間門の潮は蹴りあぐんで渡りづらいものだ。和仁屋間門の潮はいかに蹴りあぐんで渡りづらくても、勝連の村には通いつめて遊びたいものだ。――といった内容。

 北中城村の和仁屋と渡久地の集落の境を「和仁屋間門」といい、和仁屋部落には「ワナマジョー」と呼ばれる馬場があり、地元ではそれにちなむ名であると伝えられているそうです。
 「和仁屋間門」は、首里から勝連半島に通じる道筋にあって、満潮時には渡れないが干潮時には和仁屋部落の前に広い干潟が現れました。旅人は、潮水に足を取られ、浅瀬を探しながら用心深く渡らなければならないという交通の難所だったのだそうです。

 田里親雲上朝直の作で、1997年2月にこの多目的広場に建立されました。

 リターンマッチは当方の完全勝利。よーし、いいぞいいぞ。