☆「島唄を歩く1」(琉球新報社刊)から

 戦後沖縄民謡黄金期を築いた最大の功労者・小浜守栄(1919~2002)をご存じだろうか。第一線から退くのが少し早過ぎたため、若い島唄ファンはよく知らないと思う。氏の情熱と行動力がなければ今日の島唄=民謡の興隆はなかったと言っても過言ではない。焦土と化した故郷の混乱の中で、信念を持って沖縄民謡を先導した功績はもっと認知されて良い。
 今回は2002年8月27日に83歳で亡くなった、小浜守栄の島唄の軌跡を歩いてみたい。筆者は92年4月16日と01年9月16日の2度にわたり、沖縄市内の小浜守栄宅を訪ねインタビューを行った。その時伺った話を交えながら彼の足跡をたどることにする。

――お生まれは大正8年ですか?
小浜守栄  そう、3月10日。

――三線を始めたのは?
小浜  小学校4年の時。私の親は古典音楽のたしなみがあり、三線箱には三線がいつも2丁あった。それを取り出して最初に弾いたのが「上り口説」。

――村芝居やエイサーの地謡なども?
小浜  エイサーは部落のきまりで15歳にならないとさせてもらえなかった。私より7歳上の兄もよく歌った。次男は早く亡くなって、私は三男。 

 小浜守栄、越来村(現沖縄市)諸見里出身。父・守蒲の影響を受け、常に傍らには三線があり、古典音楽を子守唄代わりに育つ。一歳年下の嘉手苅林昌とは、諸見里の桃山を抜ける通学路も同じ遊び仲間。青年時代にはエイサーの地謡をつとめ、毛遊びでも三線を弾いていた。
 19歳の頃、海軍省の募集で農業人夫として南洋群島へ出稼ぎ。22歳でポナぺ島にて現地召集され中国大陸へ渡り、北へ南へと行軍の末、タイでイギリス軍の捕虜となり半年間の強制労働、その後復員。

――南洋で徴兵ですか?
小浜  私は西軍22部隊、工兵37連隊。満州は奉天から北支、中支、南支とまるで夢でも見ているみたいに歩かされた。あっさみよー、哀りやたんどー。

――その後沖縄へ?
小浜  まずは横須賀。そこで少しの復興資金を軍から貰って、広島の呉を経由して帰ってきた。とにかく沖縄の家族親戚のことが心配で一刻も早く帰りたかった。

――帰ってきた沖縄は?
小浜  何もない。みんなテント暮らし。馬車持ちゃーしようにも馬もない。大きな山羊みたいな馬を買って塵拾いの仕事。私の場合は、瑞慶覧の米軍クラブに知り合いがいて、その紹介で何とか仕事にありついて、人間らしい暮らしができるようになった。女はみんなアメリカハニーになって、沖縄中が乱れている時代だった。

 やがて野村流古典音楽家・照屋林山の門をたたき古典音楽の研究をする傍ら、普久原朝喜のレコードを聴き込み独自に民謡修行。戦後も異民族支配が続く乱れた時代に沖縄の心を取り戻せる唯一の方法は三線音楽という信念と使命感を持って、ことあるごとにひたすら歌った。
 そんな折、幼なじみの嘉手苅林昌が帰ってきた。二人は顔を見るといつも三線の手合わせをした。小浜は地域の行事やお祝いがあると嘉手苅を誘った。近くに住む山内昌徳や喜納昌永も加わって民謡研究が始まった。古い民謡を発掘して、それをエイサーに取り入れたり、創作においても『月と涙』や『ラッパ節』など常に新しい感覚を提供した。
 研究者としてはリーダーの揺るぎない存在感を示しながら、表現者としては大いなるサポーターであった。従って彼のソロレコードというものは少なく、大抵は合唱であったり、伴唱や伴奏役であった。若い民謡研究者には小浜守栄の音源を聴き込んで、ぜひあの唱法そして奏法を勉強してもらいたいものだ。

――嘉手苅さんといろいろなところを回られた?
小浜  お祝いの時など嘉手苅小(ぐゎー)を誘って沖縄中何処までも行った。

――レコードが少ないのでは?
小浜  私はどうも年配者に見られて、いつも相談役。

――民謡ショーもされたのですか?
小浜  嘉手苅小と山内昌徳と三人で安慶名とか園田の劇場でやった。あの頃は「民謡ショー」とはいわずに「歌芝居小(ウタシバヤグヮー)」といっておった。

 67年、民謡研究25周年を記念しての「民謡の祭典・小浜守栄リサイタル」(6月22日コザ琉米親善センター、23日那覇牧志ウガン)に照屋林山は次の祝辞を寄せた。
 「彼がその美声と絶妙なるバチさばきによって、戦後の混乱した社会における文化的渇望にこたえて以来20余年、彼の果たして来た役割とその功績は誠に偉大なるものであります」。
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