野本三吉(本名・加藤彰彦)という人物は、「海と島の思想 琉球弧45島フィールドノート」という旅エッセーの著者で、小学校教員やソーシャルワーカーなどを経て、沖縄大学に籍を置いている、ということは知っていましたが、2010年から沖縄大学の学長になっていたことは、この本を読んで初めて知ったところ。

 時代が資本主義社会の矛盾を露呈し始め、人間関係が断ち切られ、他社を使い捨てる社会へと変化する風潮が顕著になってきていた2002年、著者は「コミューン社会」の原型があると思えた沖縄に仕事と居を移し、それから十余年の歳月が流れます。
 そして沖縄は、著者が考えていたとおり、現代史の中で、日本やアメリカによって度重なる重圧と構造的差別を受け続けてきていながらも、暮らしの上にしっかりと足をつけ、人と自然との関係を継いでいる人々の生活が息づいていたと、著者は言います。
 そんな著者が沖縄での暮らしや想いを綴ったのがこの本。

 雑誌の評論や新聞のコラムに書いたもの、あいさつの草稿などをまとめたもののようで、全体としての文脈はあまり感じられませんが、その底流にある思想や立ち位置のようなものはなんとなく伝わってくるものがあります。
 著者は70を過ぎ、この本を上梓した2014年の3月に教員生活をリタイアしたようです。
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 著者は、1951年生まれの沖之永良島の出身者で、大阪府在住の方。プロフィールに「人生――罪人。」と書かれており、ペンネームにも自責の念のようなものが感じられますが、いったいどうしたというのでしょう。

 文芸社刊ですので、自費出版のようなもの。自叙伝ですが、沖之永良部島の様子がいろいろと書かれており、琉球の歴史・文化・言語なども盛り込まれています。
 著者曰く、「読んでいただけましたら、50年以上前のイラブ島にタイムマシンに乗って行けると思います。琉球の結び(ユイ)をヤマトゥチュウに知っていただく目的も含めて発行しました。」とのことです。

 『教職についている父を持つ「僕」は、幼い時から家と学校の区別のない世界で生き、プライバシーに縁のない暮らしをしてきた。勉学のためさまざまな制限をする父と、娘を相次いで亡くした経験から、家族が家にいないと落ち着かない母。生まれ育った島と本土を行き来する生活の中で、「僕」は自分の居場所を探し続ける。やがて自分が父になり長年のわだかまりが解け、前を向くまでの物語。』

 文芸社の本はどうしても著者の自己満足的なものが多くなることはわかっているのですが、「奄美群島の南西部に位置するイラブ島を舞台に両親との相克を描く」というので、つい買ってしまいました。表紙の写真もそそってくれますしね。
 読後感としては、他の文芸社作品よりも少しは楽しめたかな、といったところでしょうか。


 著者は、山口県在住の、「日本の文化を考える会」の代表で神社本庁の顧問をしている方。国学院大学在学中に平良リエ子の舞台を鑑賞したのがきっかけで交流が始まったとのこと。

 この本の主人公の平良リエ子は、1929年伊江島生まれ。幼少期から東京に移り住んで日本舞踊を習い、戦後「御冠船踊り」の最後の継承者といわれる渡嘉敷守良に師事し、沖縄舞踊の真髄を受け継いだ舞踊家として活躍。女優、作家などの文化人とも交流が深く、伊波普猷の告別式で「花風」を踊るなどする一方、火野葦平作の「赤道祭」のヒロインとなったという事実も。

 著者は、書きためたメモや平良本人から譲り受けたりした膨大な資料をもとに、平良と彼女を取り巻く文化人や著者との交流を描き、合わせて沖縄芸能の後継者としての足跡をも丹念にたどっています。

 1951年に初めて舞踊団の一員として沖縄に渡るも、各地で安っぽい舞踊ショーに出演させられ県人の失笑を買い大きな挫折感を味わいます。しかし、翌年日比谷公園で行われた文部省の芸術祭では大観衆の前で「むんじゅるー」を踊り名誉を挽回。その後も精力的に活動し、巣鴨の戦犯拘置所を慰問したり、八重山芸能を調査して「仲筋のヌベーマ」と「八重山物語」の舞踊劇を創作したりしています。
 1955年には新宿御苑裏に小料理店「山原(やんばる)」を開いたところ、詩人の山之口貘らが出入りして大繁盛。引退後の現在は元実業家から望まれて結婚し、大阪の高槻で幸福な生活を送っているということです。

 「人脈が豊かで華やかな、百花繚乱の人」とは、平良を評した著者の弁。それがそのまま表題となっています。


 韓国、台湾、中国、シンガポール、マレーシアなど、アジア各地に残る「日本人町」を改めて探し求める、というコンセプトのルポルタージュ旅。
 テーマパーク化が進む韓国の日本人町や、今も多くの建物が残る台湾の日本人町などの紹介に混じって、沖縄についても「那覇編 琉球王国の中につくられた日本人町」という章を設けて街歩きが記されています。

 沖縄の街歩きは、下川とさまざまな沖縄本でコラボレートしている仲村清司が同行。
 ゆいレール旭橋駅近くの薩摩藩在番奉行所跡を見て、那覇港ターミナルの2階デッキから御物城(おものぐすく)跡を遠望し、その後、天妃小学校のすぐそばにある上天妃宮跡に寄ります。
 続いて、久米三十六姓の住むメインストリートだった久米大通りを歩き、波之上宮、護国寺などを巡っています。

 沖縄に精通した下川、仲村の二人のナビゲートですから、なかなか上出来。琉球王国の歴史をしっかりと踏まえながら、現況を写真で紹介するなどしており、文章もまた特有の脱力感があってよろし。

 『日本人町には、日本人の暮らしがあった。その町を歩いていると、どこか穏やかな気分になる。風景はいまの日本にはないのびやかさに包まれている。古地図を頼りに、その世界を歩く旅は楽しかった。』(あとがきより)
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 2月以降に買った沖縄本は、次の14冊です。

1 沖縄―孤高への招待    伊高浩昭    現代書館(2002/11)    460
2 「強欲チャンプル」沖縄の真実 すべては“軍命による集団自決”から始まった
                    大高未貴    飛鳥新社          1199
3 ギンネム屋敷         又吉栄喜    集英社(1981/01)      500
4 果報は海から         又吉栄喜    文藝春秋(1998/02)      1
5 波の上のマリア        又吉栄喜    角川書店(1998/09)    369
6 陸蟹たちの行進        又吉栄喜    新潮社(2000/06)      369
7 人骨展示館          又吉栄喜    文藝春秋(2002/06)    190
8 巡査の首            又吉栄喜    講談社(2003/02)      450
9 夏休みの狩り         又吉栄喜    光文社(2007/03)       1
10 呼び寄せる島         又吉栄喜    光文社(2008/02)      268
11 漁師と歌姫          又吉栄喜    潮出版社(2009/03)     52
12 琉球の風(一)怒濤の巻   陳 舜臣    講談社文庫(1995/09)    1
13 琉球の風(二)疾風の巻   陳 舜臣    講談社文庫(1995/09)   110
14 琉球の風(三)雷雨の巻   陳 舜臣    講談社文庫(1995/09)    1

 このうち新刊本は2のみで、あとは古書です。
 又吉栄喜の本を9冊、集中買い。
 それと、前々から読んでおくべきだろうと思っていた陳舜臣の「琉球の風」の3巻。
 物語や小説って、読んでいてリラックスできるよね。
 1は、現代の沖縄をリードする何人かの人物を取材したもの。表紙のユニークさが購入動機かも。
 出版社名のあとのカッコ書きは出版年月です。


 島唄ファンならば泣いて喜ぶこと必至の本が発売されました。
 2010年4月から14年3月までの間、琉球新報紙に隔月連載されたものをまとめたものとなっています。

 まず著者。小浜司は本部町生まれで、大学卒業後東京へ。東南アジアなどを放浪し、沖縄に戻って嘉手苅林昌や大城美佐子ら、多くの民謡歌手の舞台、CDのプロデュースを手がけた人物です。彼はかつて那覇の寄宮で「いゃーぐゎー」という島唄カフェを営んでいたことがあり、そこで島唄ビデオを見せてもらい、また、彼の主催する歌碑めぐりにも参加させてもらったりしたことがありました。

 そして内容。三線の音が聞こえない世界では生きていけなかった人間たちを題材に、彼らの口ずさむ島唄を歩いた軌跡、そしてその格闘ともがきの様子を伝えています。
 登場する島唄歌手などの人物は24人。すでに他界した人、生きてはいるもののうたうことをやめた人、もちろん現役バリバリで活動している人と様々です。
 それらは、渡久地政豊、津波恒徳、山本勇、大城志津子、仲宗根幸市、國吉源次、多嘉良和枝、山里勇吉、仲本興次、山里ユキ、山内昌徳、登川誠仁、竹中労、饒辺愛子、金城実、小浜守栄、照屋寛徳、山城政幸、嘉手苅林昌、知名定男、宮良康正、金城恵子、高嶺剛、備瀬善勝。Umm・・・すんげぇ。
 このような書をものすることができるのは、今となってはもしかしたら小浜司をおいてほかにはもういないのではないかと思われます。

 そのような貴重な書。後ほどこれの第2巻も発売されています。当然買ったし。

 さて、2014年9月14日に、与那原恵が寄せたナイスな書評が琉球新報に掲載されていたので、以下に引用しておきます。

 小浜司は、島唄(三線音楽)に憑かれた人である。〈街は民謡であふれていた〉時代に多感な少年期を過ごした。まどろむ朝、「親子ラジオ」から流れてくる民謡が彼の原体験だ。
 〈三線は景色であり、空気であり、匂いである〉という小浜が、さまざまな人たちと豊かな対話を重ねた。沖縄民謡黄金期を築いた歌手たち、親子ラジオの経営者、島唄研究者、プロデューサーや映画監督など、24人の声をいきいきと伝える。
 彼らに通底するのは、民謡への深い思いだ。個性的な歌手たちの戦前戦後の軌跡、それぞれの歌の風景が見えてくる。
 昭和10年ごろ、パナマ帽子を編む読谷村の仕事場で、三線に合わせてみんなで歌った光景を語る津波恒徳。本島中部の村に暮らす登川誠仁少年は、毎晩、毛遊びを聴きながら育ち、クバの木の三線を作った。与那国島の宮良康正は、農作業の合間に力強い声で歌う「どぅなんトゥバルマ」の記憶をつむぐ。
 小浜守栄と嘉手苅林昌は幼少時からの遊び仲間だった。戦時中に南洋諸島で再会し、戦後は沖縄で軍作業などをしながらともに歌い、ほどなく照屋林助、山内昌徳らが加わる。
 戦後間もない頃、石垣島白保の山里勇吉は、馬に乗って畑へ通う2時間の道のりを歌の練習にあてていたという。白保の「ジラバ」に心を揺さぶられたのが知名定男だ。父定繁とともに、9歳で関西から「密航」して沖縄に帰り、やがて音楽シーンを変えていった。
 さらに時はさかのぼる。大正末からの伝説的歌手、多嘉良カナの養女となり、厳しく教えられた多嘉良和枝は、ひとり世界を旅して〈自らの足元〉を見つめた。また、大城志津子の伯母は、昭和初期「マルフクレコード」を創業した普久原朝喜の妻で、歌手の鉄子だ。〈伯母の魂に導かれて〉いるようだと大城はいう。
 歌は、時を越えてつながり、次世代に手渡されてゆく。
 国吉源次の〈歌はやればやるほど逃げて行くみたい。歌の深さというものは、こんなにも底深いものかと思う〉という謙虚な言葉に胸打たれる。


☆「島唄を歩く1」(琉球新報社刊)から

――奄美の歌会をプロデュースして大きな手応えを感じたということですね?
仲宗根幸市  沖縄のものでは「今帰仁ミャークニー大会」という独自のイベントを企画した。当時は教育委員会はじめ皆反対。趣旨がよく理解できなかったみたい。生きた形で歌を伝承させたいと主張しても、こんな田舎でやる意味があるのか、録音しているから必要ない、とか。それにコンサートできる会場もない。村役場ホールの2階で折りたたみ椅子を運んできてという感じ。

――孤軍奮闘ですか?
仲宗根  私等が那覇から何度も通って取り組んだら、商工会と老人クラブが協力してくれて助かった。各組織の有志たちは、自分や年寄りの伝承では心細いと思っていたところへ、私たちの企画が基礎づくりをしてくれたと、逆に彼等の方が燃えてね。とても反響があった。年長者から歌を習おうという運動が起こり、となりの本部町からも声がかかってきて、2年後には「本部ミャークニー大会」も催した。あとはお分かりの通り、琉球民謡協会などが組織的に取り組んだり、地域がその地域にある民謡の大会を催したり。行政の方が文化的なものを避けて通るわけにはいかない時代になっていく。

 1982年4月17日、今帰仁村役場ホールにて「今帰仁ミャークニー大会」は開催され、会場には約500人の老人クラブ会員、村民、愛好家が詰めかけた。『しまうた』第9号(しまうた文化研究会発行)は大会の意義について、今帰仁ミャークニーの伝承者を一堂に集めて各部落特有の歌を紹介し、伝承者の実態把握と、将来について考える足がかりにするということ、と総括している。その取り組みはささやかながら一定の方向性を示し得た。

――ミャークニーはやはり今帰仁が一番古いですか?
仲宗根  今帰仁が発祥地だという言い伝えは年寄りからずっと聞いていた。ただ発祥地といっても、各字で節回しが違うものだから、村の東と、本部の具志堅に近い今泊とか、中央部では異なっている。レコードを出せるくらいの実力のある人でも地元の節回しが分からない。また、歌遊びが消えてしまったので、本歌うたう人と囃し手と独立してうまく溶け合わない。非常に残念な状況になっている。かつてはトバラーマのような世界だったという。トバラーマなども聞き取り調査してみると、八重山のトバラーマ、宮古のトーガニー、沖縄のミャークニーなどは、歌い方が非常に近かったと聞いている。実際に年配者に今帰仁ミャークニーを歌わせたら、形式的な面でかなり近いところがある。これは今の歌い手たちにぜひ知ってほしい。

 琉球王朝時代、首里へ御殿奉公していた今帰仁の若者が、宮古の若者の歌を聴き、その哀愁と叙情あふれるメロディーに感激して持ち帰り、今帰仁風に歌い、毛遊びの場で歌い広めたという。従って宮古から出た歌として宮古根(ナークニー)と当てている。今帰仁では「ミャークニー」とか「ミャークンニー」と呼んでいる。「今帰仁ミャークニーの生命は、本来、歌掛けである。数ある南島の共通歌詞から、その場にふさわしい歌詞を選び、ある場合は即興で叙情性の高い思い入れと、人間愛の優しさが歌にならなければならない。そして男が歌えば女が囃し、女が歌えば男が囃しを入れる」(仲宗根幸市著『しまうたを追いかけて』)。

――門付け芸の類は沖縄でも根付いたのですか?
仲宗根  これは非常に冷遇された。チョンダラー(京太郎)なんかは人間の最も悲しい場面や、逆にかりゆし(めでたいこと)も引き受ける、重要な部分を担っていた。その意味でもチョンダラー芸は真剣に見直すべきだと思う。

――今の若い人はチョンダラーを道化師のことと思っている?
仲宗根  琉球王府が置かれた首里で最も劣悪な環境、卑しい身分に追いやられた芸能集団。乞食同然でニンプチヤー(念仏者)と呼ばれ、長らく封建社会のしがらみの中で蔑視されていた。廃藩置県後にヤンパル下りして、名護や宜野座の村踊りなどの芸に取り入れられ、かろうじて日の目を見ている。本来なら、すばらしい芸能として称賛されなければいけないのに。私の幼い頃、今帰仁村の湧川に七福神芸を普及させ、村踊りとして上演できるようにしたてた立役者がいたのを覚えているわけ。踊りも終盤、みんなが眠たくなってくると、パーッと花咲く芸がある。誰もが待ってましたと拍手喝采で迎える、湧川の村踊りの活力源ともなった芸の伝道者こそが“クガニヤマー”というチョンダラー芸を保持していた人物であった。チョンダラーはヤマト芸能を各地に運んだ文化の使者であった。