イザイホーで有名な宗教の島・久高島で生まれた朝子は、本島中城の青年英男のもとへと嫁ぎます。
 嫁ぎ先は誇り高い神女殿内で、母はその神女。また、接収された軍用地からは莫大な使用料が入る家でもあり、英男は働くことをせずウシオーラセー(闘牛)に心血を注ぎます。
 英男のアイデアで、御嶽の隣に連れ込みホテルを建設し、朝子はその管理人として働くことになります。
 一見幸福を約束されたかに思えた結婚でしたが、その後、家の資産を狙うヤクザ者が夫に近づき、朝子の心は次第に“濁った闇”に包まれていきます。

 戦争は、終わったように見えて実は、慢性的な占領体制という形で影を引きずります。そしてその体制は、人間を変え、文化を変えてしまう――ということが、家庭での出来事や日々の生活を通して滲み出てくるようです。

 「日の果てから」、「かがやける荒野」に続き、沖縄を代表する作家が、激しく揺れ動く現在の島を舞台に“沖縄の魂”の変貌を描き切った一作となっており、これらは著者をして「戦争と文化」の三部作と言わしめています。
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 戦後間もなくから始まってつい先ごろと言っていい最近まで、沖縄ヤクザたちが延々と血で血を洗う戦いを繰り広げてきたことはご存知の方も多いことでしょう。
 数々の事件に見られるように、彼らの歴史には一度たりとも平和な時代はなく、組員はもちろんのこと、多くの民間人、警察官を巻き込んで、多数の死傷者も出してきました。

 このように長年の抗争が激しく、かつ複雑な因縁が絡み合っているため、これらを一気に解消することは不可能と思われていました。
 しかし、沖縄ヤクザは実に半世紀以上の時を経て、2011年11月、ある人物のもとに一つにまとまります。
 まとめあげた中心人物の名は、富永清。久米島出身で、柔道に打ち込みK士舘大学中退、山原派の先輩を頼ってコザに流れ、着実に実力を付けていきます。その後は・・・。

 という具合に、誰も成し得なかった「統一」をやり遂げた男の人生を描く、実録任侠小説。
 なかなか興味深く読ませてもらいました。

 2011年11月27日の琉球新報には、「両旭琉会が組織一本化 構成員は750人に」という見出しの記事が掲載されているのを発見。その内容は次のとおりです。

 『県内の指定暴力団沖縄旭琉会(富永清会長)と四代目旭琉会(花城松一会長)の組織一本化がこのほど正式に決定し、26日夜から27日未明にかけ、両組織の幹部らが北谷町内で盃を交わす会合を開いた。
 会合には関係者約50人が参加した。捜査関係者らによると、新組織は富永氏が会長、花城氏が理事長などナンバー2を務める体制とみられる。
 1990年の分裂で敵対してきた両組織が21年ぶりの再合流となる今回の一本化によって、構成員数約750人の一大勢力となるため、県警は資金源拡大など今後の動向を警戒している。
 県警は26日午後9時、古波蔵正刑事部長以下約140人体制の対策本部を設置。会場となった沖縄旭琉会幹部事務所へと次々集結する暴力団関係者らの動向を警戒した。
 捜査関係者などによると、今回の一本化は富永会長と複数の四代目旭琉会幹部が盃を交わすことから、事実上の“吸収合併”。新組織の名称は「旭琉會」で、県公安委員会は今後、暴力団対策法に基づく暴力団指定作業を急ぐことになる見込みだ。
 両組織は70年に発足した「沖縄連合旭琉会」(後の旭琉会)という単一組織だったが、三代目会長時代の90年に内部抗争が発生。高校生や2警察官が巻き添えで射殺されるなど社会問題化した。同年には富永氏が沖縄旭琉会を設立して分裂したが、抗争終結後は目立った対立もなく、2010年の花城氏の四代目就任時には富永氏が後見人となるなど、一本化に向けた流れを加速させていた。
 県警暴力団対策課によると、11年10月末現在の両組織の構成員数は、沖縄旭琉会が446人(準構成員142人)、四代目旭琉会が297人(同95人)。県警は10月1日施行の県暴力団排除条例などによる取り締まりの強化が一本化の背景にあると分析している。』

 なお、著者の山平重樹は、山形県出身のフリーライター。法政大学文学部卒業で、学生時代は右派学生組織・日本学生同盟の運動家だったという。アウトローものを得意とし、ルポ、小説、ノンフィクション、漫画原作など多数の著書があるのだそうです。


 1972年5月、沖縄は日本に復帰し、あれから40年を過ぎて、沖縄県民はどういう体験をしてきたのでしょうか。
 アメリカ統治下の1963年に生まれ、復帰を小学生で迎えた著者にとって、〈復帰後〉という時間軸は、「戦後」という響きとはまた違った感慨を呼び起こすそうです。過去のことでもあり、現在のことでもある〈復帰後〉の沖縄。

 復帰40年の節目に合わせて、沖縄タイムスの文化面に2011年1月から4月まで、26回にわたって連載された「沖縄復帰後史 我らが時代のフォークロア」をまとめたもので、復帰してからの多様な社会的な出来事を、著者個人の体験、視点で綴った随想録といったつくりになっています。
 その内容は、「1972年 ドルから円への通貨交換」、「75年 「ダイナハ」オープン」、「76年 「海洋博」開幕」、「78年 ナナサンマル「7・30」」、「81年 具志堅用高敗れる!」、「83年 七カ月のバススト」、「85年 西銘順治「沖縄の心」発言」、「89年 「慰霊の日」休日廃止問題」、「90年 大田昌秀革新県政誕生」、「91年 喜納昌吉、紅白出場」、「95年 10・21県民総決起大会」、「99年 映画「ナビィの恋」大ヒット」、「2001年 ドラマ「ちゅらさん」ブーム」、「04年 沖国大に米軍ヘリ墜落」などなど。

 思い出はモノクロームで蘇る。
 あの時、あなたはどう感じていましたか。また若い世代は復帰後の記憶を読んで、どう感じましたか。
 著者はわれわれに、記憶の中の沖縄と今の沖縄とを比較して、どう変わったか、また、変わっていないかを鋭く問い掛けているように思います。


 「あの戦争が何だったのか、ということを知るために、沖縄の、そして日本の歴史を学んできました。生り島沖縄と日本の歴史を学んでいた、そして次の世代と共に考えていこうとしていた、私の大切な人の存在を片時も忘れたくなかったからかもしれません。
 そして今私は85才を超えています。沖縄戦から早や70年近くが過ぎ、先の大戦など忘れられています。いまだここ沖縄には米軍が駐留し、数々の悲しい事件を起こしています。その都度、私達は心の傷を増やし続けています。経済大国日本などと言ってはみても、所詮アメリカの属国に過ぎないと思うのです。果して日本は独立国と言えるのでしょうか。自国も守れない国が独立国と言えるのでしょうか。――」(「エピローグ」より)

 沖縄決戦から70年・・・私は忘れない。あの夏の日を。1945年夏、太平洋戦争最大の悲劇となった沖縄決戦。「死」を運命づけられた男女の残酷でありながら、神々しいまでの輝きを遺した不滅のラブ・ストーリー。
 著者にとっての第1作であり、2014年夏に映画化される、という予告付きの本なのですが、同年8月現在、ネットで調べてみてもそういう情報は得られません。はて。不思議だなあ。

 物語は、85歳を超えた金城シズのモノローグから始まります。
 彼女は沖縄戦最中に、幼馴染みで少女の頃から結婚を誓い合っていた大城朝盛と、周囲からの祝福を受けて祝言を挙げます。そしてその直後から始まる過酷な戦況の中で・・・。
 といった、太平洋戦争末期の沖縄を舞台に展開する、究極の愛の物語。
 民間人、軍人を問わず、平和を願いつつ死んでゆかねばならなかった人々への鎮魂と、真の平和への思いが綴られた作品なのだといいます。

 しかしなのだなあ。いかにも戦後、体系的に整理されて以降に語られるような、勧善懲悪というか、強すぎる反戦色がありありで、読んでいてそれは今だから言えることだろうと思うところがしばしば。
 「国の一部の人間が始めた勝手な戦争」とか、「悪い事をしていない国民がなぜ巻込まれるのか」などのことが何度もはっきりとした表現で登場しますが、戦争経験者は当時はそうばかりとは思っていなかったはず。もっと混沌とした中で、人々は必死に生きていたのだと思うのだけどな。

 そもそも成覇公貴って、作家であり脚本家だというプロフィールがあるだけなのですが、どういった背景があって戦中世代とも思えない彼がこれを書いているのか、はっきりしません。
 大きな活字、強い反戦色、単純なストーリー、登場人物のまっすぐすぎる性格、などなどから判断して、右翼サイドから発せられた中高生向けの宣伝書ではないか?!などと勘ぐってしまいましたが、いかがでしょう。


 森口豁の文献によく登場する沖縄イデオローグの一人なので、1冊ぐらいは読んでみないとなと思い、元値の3分の2ほどの値段で中古市場から入手したもの。
 いやあ、なかなかにハードな読み物でした。

 沖縄の戦後意識の原像をあぶりだす〈反復帰〉の精神譜、といった位置づけのもので、森口豁、笠原和夫、大島渚、東陽一、今村昌平、高嶺剛の映像やテキスト等を俎上に上げたうえで、それらを媒介として、沖縄の戦後的な抵抗のありようを描出し、沖縄戦後世代の経験の位相と1972年の「復帰」を再考する――というのがこの本のテーマになっています。
 いわば、総論から各論へという一般的な論述形式をとらず、各論の断片を並べてみてそこから全体を俯瞰しようという試みなので、仲里を読み慣れていない読者がこの本から入るのはややしんどかったなという印象です。

 あぶりだしの材料は、森敦の「死者の眼」、森口豁の「激突死」、桐山襲の「聖なる夜 聖なる穴」、新川明の「非国民の思想と論理――沖縄における思想の自立について」、川満信一の「ミクロ言語帯からの発想」、島尾敏雄の「ヤポネシア論」、中島貞夫の「沖縄やくざ戦争」、笠原和夫の「沖縄進撃作戦」、岡本恵徳の「水平軸の発想――沖縄の共同体意識」、東陽一の「沖縄列島」、NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)の「モトシンカカランヌー」、高嶺剛の「オキナワン ドリーム ショー」や「オキナワンチルダイ」などの論考や映画、「汗水節」、「南洋小唄」、「PW無情」などの沖縄民謡など、実にさまざま。

 「今、私たちが目にしている光景は、日本への一体化幻想をグラフト(接木)化した、アメリカナイゼーションの日本的変態によって沖縄の時間と空間が侵食されていく姿である。それは軍事的事象に限定されるものではなく、国家と資本のエレベーションに位置づけられた観光的視線によって沖縄の風景を書き割り、沖縄イメージを大量に消費していく現象の内にあらわれているものである。だが、そうした国家と資本の統合のエレベーションに抗う、「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」(復帰の喰い残し)たちがいる。この群島状に散種された〈間・主体〉は、復帰運動を内側から踏み越えていく〈反復帰の思想〉のなかで配電され、その後「琉球共和社会憲法」や「琉球共和国憲法試案」を中継しつつ、沖縄をアジアに向かって開く文体のなかに生きられている。」(「あとがき」より)
 ――どうだ、わかるか?


 この本の「はじめに 本書を利用されるみなさんへ」には、次のように書かれています。
 「本ガイドブックは、沖縄を訪れる皆さんが、なぜ沖縄で戦争が起こったのか、沖縄県民や県外の人はどのような気持ちであの戦争を戦ったのかを考えていただくきっかけとなるよう編纂しました。県内各地に建立されている代表的な慰霊塔や塔にゆかりのある人物をわかりやすく紹介していますので、修学旅行や調べ学習等にもぜひご活用いただけたらと思います。」

 ということで、南部戦跡を中心に、中部、北部の慰霊碑を合わせて全80塔が紹介されています。

 このごろ沖縄の歌碑や慰霊碑を好んで見ている自分としては、今後の沖縄訪問時に見ておくべき慰霊碑を確認するために、この本を入手しました。
 この本に掲載されている慰霊碑のうち、すでに現場に立っているのは、読む前はまだ10数箇所に過ぎませんでした。
 そしてこの夏、摩文仁の丘に足を踏み入れ各県の塔を参拝してきたので、その数は激増。とりわけ見たかったのは、島田叡知事をはじめ沖縄県職員を慰霊する「島守の塔」で、この本で場所を確認してじっくりと見てきたところ。
 そのほか今回の旅では、糸満市の真栄里地区にある「山形の塔」、「バックナー中将碑」、「白梅之塔」も巡ってきました。

 このようにたいへん有用なものとして使わせてもらいましたが、まだ30歳になったかならないかという年代の女性著者の略歴がよくわかりません。
 平成19年に長崎大学を卒業後、全日本学生文化会議で「大学の使命」編集長を務め、平成25年より日本青年協議会「祖国と青年」編集部――と奥付にあるのですが、ナニコレ??
 主な著書は「脅かされる国境の島・与那国 ―尖閣だけが危機ではない!」、「天皇陛下がわが町に」。・・・ひょっとして右翼系なのかな。


 「1879年の琉球国滅亡後、多くの人々がハワイへ移住したことはあまり知られていない。沖縄ハワイ移民一世が語った差別・労働・戦争など、等身大の歴史から、「国」のあり方は「人」の生き方にどう関わるのかを考える。」――というコンセプトの、論考書であり移民一人ひとりのライフストーリー。

 著者は1979年から数年間、アメリカやハワイに渡った沖縄出身移民からの聞き取りを行っており、それをベースに本書を著しています。彼らは明治の中頃生まれの人が多く、その父母の代が琉球国から沖縄県への移行の時期を体験した人たちだったそうです。
 彼らはまた、太平洋戦争開戦のきっかけとなった日本軍のパールハーバーの奇襲と、その後の排日体験など、ハワイ固有の問題も経験しています。
 これらを背景として、琉球国という国家からはじき出された沖縄人=移民が、今度はアメリカという国家の政治体制に露骨に直面し、その中でどのように生きてきたのか。そこのところをきっちりと述べ、次世代に記録として残すことが、著者の意図となっているようです。

 「人生をかえりみて移民はよかったことなのか」の章では、ハワイ移民3人に人生を振り返って語ってもらったことの内容が掲載されています。
 「私の家は貧乏でね、私は10歳になってから学校に行き始めた」、「〈妻の発言〉私は16のときにハワイに来たから、泣いて仕事をしました」、「あの時代は女でも子どもでも、一生懸命に働いたもんですよ」・・・など、一言一言が重いと感じる逸話が載っています。

 人間の人生とは、一生とは・・・と考えさせられる良書でした。


 カベルナリア吉田の沖縄本を読むのはこれで何冊目になるのだろうか。またもやたくさんの不思議な写真とテーゲーな文章で構成されたおもちゃ箱の中身みたいなものなのかな。・・・お? でも今回は石垣と宮古じゃん。まあ、読んでみっか。――的に買った本。このごろこういうの多いよ、カベさん。

 「沖縄をブラブラ散歩して紹介する本は実はもう何冊か書いているのですが、いっつも那覇から歩き始めて本島をぐるっと周ったら、周辺の島も歩いて、それでやっと宮古・石垣にたどりつくわけです。そーなると、なんか宮古と石垣がオマケみたいになっちゃうんで、今回は本島方面をぜんぶ外して、宮古と石垣、八重山だけみっちり歩いてみました。」――ということです。

 で、その記述形式。写真切り貼りのページと文章のページが交互に出てきてほぼ半々のボリューム。
 写真は風景と、おかしな写真と、夜の店が中心。文章のページにはところどころに手書きの地図が入り、文章は、いちおう文章らしくなっています。あ、いや、最近読んだ「沖縄バカ一代」と同題の2冊目の文章と言ったらなかったもので、今回はそういう類の記述ではなかったことにホッとしている、という意味です、あしからず。

 でもなあ、こういう手口の本って、正直言って少し飽きてきたぞ。見たもの体験したものをアラカルト的に切り貼りしてはいドウゾというやり方はもうそろそろやめて、かつてやってきたように、しっかり旅をして、地に足のついた旅のドキュメントをさあ読んでくれ!と提示してほしいのだが、カベさん、どうでしょうか。


 北海道から沖縄まで、その土地に行くとなぜか自然に足が向いてしまう店・・・共通するのは、店全体と集う人々が醸し出す居心地のよさだった。地元の歴史や風土、気質まで映すその佇まいに誘われるように、季節を変え時間を変え、通い詰めた特選百軒。いつもの席から眺めて綴る、百店百様の至福のとき――。20余年にわたり居酒屋探求を続けてきた著者渾身の集大成。
 ――という、居酒屋紹介物の1冊で、著者太田和彦を吉田類の一枚上を行く居酒屋ナビゲーターとして崇めている自分としては、実に楽しく読ませてもらった本です。

 その中で、琉球弧関連で紹介されている店が4軒あったので、こちらにも載せてみました。
 それらは、奄美大島名瀬の「一村」、那覇の「おでん東大」、平良の「ぽうちゃたつや」、石垣の「森の賢者」。
 「一村」では「龍宮」「長雲」などの黒糖焼酎で赤ウルメの塩焼きや、鰻の蒲焼と味付ご飯を混ぜ合わせサネン(月桃)の葉で包んで蒸した「さねん蒸し」を食し、「おでん東大」で名物焼きテビチを肴に飲み、「ぽうちゃたつや」でオリオンビール片手に「コブシメ煮」と「うぷす豆腐」、「森の賢者」で「請福」の甕保存泡盛クースを飲みながらニガナの白和えのお通しをつつきます。
 どうです、タマランでしょ。


 いいものをテーマに選んで書きましたねえ、ナイス!です。
 沖縄の食文化、なかでも伝統的な沖縄の「シマ豆腐」に焦点を当て、本土と異なる形成に至った歴史的背景に迫ります。「シマ豆腐」はどこからもたらされ、どのように根づいたのか。身近な食べ物から紐解く、庶民の琉球文化史です。

 序章にある文章を少し引用しましょう。
 「さて私がこれから書こうとするのは、沖縄の豆腐の話である。伝統的な沖縄の豆腐を、地元では愛着をこめて島豆腐という。言うまでもなく豆腐とは、大豆からつくったあの白くて柔らかい食べ物である。確かに、どこで食べても豆腐に違いなんてなさそうだが、沖縄の豆腐は本土のものとはやはり違う。いや、アジアのみならず、いまや世界に広がりつつある豆腐のなかでも、島豆腐はかなり特別な存在だと考えられる。」
 「沖縄通いを続けながら、私のどこかにいつもある余韻が残りつづけた。沖縄を訪ねるたびに食べる、あのシマ豆腐のことである。一般に沖縄の豆腐は固くて大きいと表現されるが、私にはなんだかそれ以上の存在に思えてならなかった。」
 「シマ豆腐を食べて感動しながら、その特徴をうまく言葉にできず、なんともいえぬもどかしさを、いつも感じるようになっていた。」

 ということで著者は、豆腐の生産現場を訪ねつつ、中国、日本、アジアの中継地琉球の食文化を辿っていきます。
 序章、終章を含め全11章。「琉球弧への船出」「久米島の潮水」「熱い豆腐」「遥かなる記憶」「ヤマトで暮らす沖縄人」「日本帝国の予兆」「糸満トーフマチ」「シマ豆腐とマチヤグヮー」「豆腐の起源」「東南アジアからの視点」「大交易時代」。
 糸満にある玉城とうふ店の豆腐作りを取材した「糸満トーフマチ」では、その製作過程の困難さや豆腐を買いに集ってくる人たちとのかかわりなどについて、非常に興味深く読ませてもらいました。

 豆腐というありふれた食べ物に秘められた豊かな歴史が説得力をもって語られ、人と人との出会いが食文化を伝播させてきた事実が、沖縄やアジアの各地で生きる人々の姿から見えてくる佳作。
 2013年、第1回「潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」受賞作です。そうでしょうそうでしょう。
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 このひと月ちょっとの間に、11冊も買ってしまったのですねぇ、沖縄本。
 それらは次のとおりです。

1 沖縄のジュゴン 民族考古学からの視座  盛本勲     榕樹書林          972
2 月や、あらん                   崎山多美    なんよう文庫       1646
3 壺屋焼入門                    倉成多郎    ボーダー新書      1080
4 コザから吹く風 中根章の奔流の軌跡   徳田友子    ボーダーインク      1944
5 島唄を歩く1                   小浜 司     琉球新報社        1620
6 ダートゥーダー探訪の旅            黒島清耕    沖縄自分史センター   1728
7 教養講座 琉球・沖縄史            新城俊昭    東洋企画         2160
8 わが引揚港からニライカナイへ       五木寛之     ちくま文庫         842
9 週末沖縄でちょっとゆるり           下川裕治    朝日文庫          734
10 10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡
                BSテレビ報道局「生きろ」取材班  ポプラ新書         842
11 チャンミーグヮー                今野敏      集英社           1728

 このうち2から7までは、沖映通りの那覇ジュンク堂書店で買ったもので、地元以外では入手が難しいと思われたものをチョイスしてきたところ。
 事実、2や6、7などは本土にいてはネットを駆使しても買えないでしょう、きっと。
 うれしいのはずっと探していた2で、ビニールをかぶった昔で言う「ビニ本」になって棚に残っていたのを即ゲット。また、7は琉球・沖縄史を通史的に詳述する旺文社の「研究世界史」みたいな本。こういうのが欲しかったんだよなあ。
 小浜司の島唄解説ものの5もグッド。「1」というからにはその後も続くのだろうと大きく期待しているところ。

 今回もなかなかいいラインナップだなあと、書名たちを眺めて一人ほくそ笑んでいます。


 著者は、1966年大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科を卒業し、ドストエフスキーや森鴎外の作品世界の「理不尽な何か」に惹かれ、創作活動を始めたといいます。当作品で第21回「日本ファンタジーノベル大賞」の大賞を受賞しています。
 家で夕食の唐揚げを揚げていて受賞連絡を受け、頭が真っ白になったという逸話を持つ、18年の専業主婦生活から一転、作家デビューした方です。
 沖縄・琉球関連作品で日本ファンタジーノベル大賞を受賞したのは、1994年、「バガージマヌパナス」の池上永一以来でしょうか。

 奄美大島を舞台とした悲恋物語。薩摩藩支配下の奄美大島でヤンチュ(農奴)として過酷な境遇に身を置いた少年フィエクサが、囲碁で名を上げて、妹として契りを結んだサネンを救おうとする、というストーリー。それを現代の事象と重ね合わせる手法で進行させていきます。
 時は現代、カヌーで遭難し、死ぬのだろう、死んでもいいと考えながら海原を漂っている茉莉香に、虚空を彷徨う大鷲が舞い降り、カヌーの舳先で羽を休めます。その鷲は、200年ほども前に奄美で辛酸をなめて生活していたフィエクサの化身だったのです。
 鷲は茉莉香に語ります。ヤンチュの身であるフィエクサとサネンが、兄妹として強い絆で結ばれながら助け合い、やがて愛することを知ってしまったことを。そしてフィエクサは、運命に抗うことを決意したことを。

 著者の夫のルーツは奄美だったようで、このことから島の歴史に興味を持ち、過去と現代を結ぶ悲恋を紡ぎだしました。
 選考会では、選考委員の椎名誠に「これだけ緻密に奄美を描いた小説は初めてだ」と評されたそうです。そのとおり、奄美の悲しい歴史を知る者にとって、なかなか読みごたえが感じられた1冊でした。


 50年以上前の1959年に三一書房から刊行されたものが、1971年に新日本出版社から新書として再刊され、2013年に新装されて出回ったものがコレ。
 2013年5月、新装再発とほぼ同時に入手していましたが、この夏、昨年3月に那覇市内に開設された瀬長亀次郎の「不屈館」を訪れたときにこの本が山積みされていたのを見て、思わず買ってしまいそうに。ん、待てよ、これはもう買ってあったかどうか・・・と一人黙考したところ。
 このような一風変わった来館者の一見悩んでいるかのような姿を憐れんでかどうか、事務室の女性はレモンケーキとお茶を出してもてなしてくれたのでした。「不屈館」、いいところです。

 さて、1971年の再刊当時は、佐藤栄作首相が米国との沖縄返還協定に調印はしたものの、「核ぬき・本土なみ」については沖縄県民の切なる要望にはほど遠く、腹の底から首相に唱和して万歳を叫ぶ者は一人もいなかった状況でした。
 再刊に当たって瀬長の書いた「まえがき」にはそのような状況が当時そのままにびっしりと書かれており、再刊の理由を次のように書いて締めくくっています。
 「本書再刊の理由は、この統一闘争と統一戦線を発展・前進させるために、アメリカの軍事的植民地的支配に抗してたたかいぬいた県民の島ぐるみの土地闘争、自由と人権、民主主義をかちとる苦難にみちた統一のたたかいをふりかえり、これに学んで、たたかいへの新たな自信とエネルギーを汲みとることができるのではないかと信じたからです。」――と。

 「基地権力者の意志は法なり」、「講和条約第3条のからくり」、「スキャップ指令と占領政策」、「ふきすさぶ反共政策」、「略奪はこうしてやる」、「島ぐるみのたたかい」、「「赤い市長」の出現」、「新しい情勢」の8章。
 鋭い舌鋒でありながらも、その奥にあるまっすぐな信念と人々への博愛精神がしっかりと見える、熱い政治の実践書です。


 那覇の花街・辻に伝えられる民俗芸能ジュリ馬行列に関心を持っており、かつてホームページでそのことを調べていると、「浅香れい~風流者たちの精神史」というページで当書の著者の論考に接することができ、当方と同じように調べていたり、その上実践までしている人がいるのだなと、その名前を認識はしていました。
 その人が、女性の視点から辻とそこに住む女たちの生活の実相と社会的背景を描いた本を出したというので、すぐさま入手したものです。

 著者は、群馬県伊勢崎市出身。玉川大学卒業後、日本大学大学院芸術学研究科で博士後期課程芸術専攻修了。春駒じゅり馬民俗芸能研究会、アリラン民俗芸能研究会・主宰。

 琉球の花街として知られる辻は、女たちによる自治制度が確立されており、本土のものとは異なる成り立ちと性格を持っています。
 辻に通う客との関係等々を歴史と伝承を踏まえて解明しながら、著者の活動のひとつである本土の門付け芸能としての「春駒」の継承、その伝播の南限としての琉球の「じゅり馬」との比較研究を通して、「辻」とは何かを明らかにしようという試みの書となっています。

 「はじめに-辻の名芸妓の死」に続き、第1章の「琉球の花街」では辻地域のこと、旧廿日正月とじゅり馬、辻の戦後、現在のじゅり馬の風景を紹介し、続く第2章は女性たちの組織、もてなしと料理、盆切りと歳切りなどについて述べた「辻村女の里の暮らし」となっており、その後、「ジュリをとりまく社会的背景」、「辻村の形成とその背景を考える」、「辻とジュリがつむいだ琉球芸能」、「徐葆光が愛でた琉球の女性」と続き、「おわりに ― 本土の春駒から沖縄のじゅり馬へ」で締められています。

 戦前期の辻村の詳細な略図が妓楼名入りで掲載されており、貴重。ほかに「那覇及久米村全図」や昭和初期のじゅり馬のカラー絵葉書などもあって、とても興味深く読むことができました。
 全盛期の辻やそこで生活するジュリ、当時の那覇社会の様子などを知る上で、大事な資料となりました。
 2014年8月12日から17日まで、久々に沖縄を堪能してきました。
 前年の夏以来、46回目の沖縄方面ツアー。今回は、慶良間諸島の未訪の3島、阿嘉島・慶留間島・外地島を周り、本島各地の歌碑と慰霊碑を見て、最後はコザで全島エイサーまつりの一部を見るという日程にしてみました。

 いつものとおり仙台便で那覇入り。真っ直ぐに行けるのはいいのですが、この便で行くと那覇到着が16時ごろとなり、いつも中途半端になるのが玉に疵。
 なので、ではまあ、天気も雨がちだし、まずは美栄橋にあるホテルにチェックインして荷物を置いて身軽になり、街をウロウロしたらただちに飲もう!

 最初にジュンク堂書店那覇店に寄り、沖縄本をチェック。眺めているうちに、これは本土でネット等を駆使してもなかなか手に入らないだろうというものをいくつか見つけてしまい、矢も盾もたまらず6冊を1万円ほどで買ってしまう。小さなリュックは本でいっぱいになりずっしり。せっかく身軽になったはずだったのにね。(笑)
 1万円以上買ったので、同フロアにあるイタリアントマトのドリンク券がもらえた。そういえば喉が渇いていたことを思い出し、無料のアイスコーヒーで一休み。



 その後、国際通り、ニューパラダイス通り、十貫瀬付近、かつての長虹堤のあとにできた通りなどを歩いて、まだ明るい6時前にはホテル近くの「一郎屋 美栄橋駅前店」という海人居酒屋に潜入して生ビールを飲む。
 店内の様子は、なんだか昭和の商店街を模したようなつくりになっていてユニーク。
 うちなーむんメニューから「てびち煮付け」と「島豆腐のピリ辛ねぎソース」をチョイスして肴とし、興が乗ってきたところで泡盛「咲元」の2合瓶を所望してコクコクと飲む。人生のしがらみはすべて山形に置いてきて、おれのことなんかを知る人は一人もいないこの居酒屋で孤独に、カッコよくいえば孤高を保って飲むなんて、たまりませんな。
 店内には沖縄民謡。酔うにしたがって、また店の喧騒が広がっていくにしたがって、だんだんフェードアウトしていく程度の音量だったけど、それがまたいいではないか。

 あがり2,800円ほど。咲元は飲みきれずに持ち帰りとなった。
 そんなふうにして今回の沖縄一人旅は始まったのでした。

 それでは、2014年夏の沖縄旅のドキュメントを、これから何十回に及ぶかわかりませんが、順次掲載していきますのでよろしくお願いします。


 那覇の初日はまだ終わりません。さんざ飲み食いをした後ではあるけれど、軽くラーメンでも食べて戻ろう。
 で、雨も降っているので、ホテルの近場のラーメン屋として事前チェックしていた久茂地の「登竜門」に入ってみた。

 クリーム色基調の、ラーメン店としてはシックなつくりの内装。
 ここのウリは坦々麺で、極太麺に濃厚スープが絡み、花山椒・ラー油の風味が香り、絶品なのだという。
 ならばそれをと、濃厚担担麺880円を注文。

 いかにも自家製といった太麺。そしてホントに濃厚。
 大盛りも同料金だというのでつい大盛りをたのんでしまったけど、飲んだ後なので、これは無謀だった。辛いけどおいしい、おいしいけど腹がいっぱい、満腹だけど辛い・・・というスパイラルに陥ってしまい、若干残してしまうことに。

 でも、旨かったですよ。こういうラーメンがあるなら、ラーメンなしではおそらく生きてはいけないであろう自分でも沖縄に住めようというもの。
 ただ、飲んだ後にはちょっと濃厚すぎるかもしれないなあ。

 ということで、20時30分には投宿。第1日目はこれにて終了だな。


 8月13日。この日はフェリーざまみで阿嘉島へと渡り、慶留間島、外地島と合わせて3島をバイクで駆け巡る日だ。
 当初は阿嘉島で1泊しようという計画だったが、ハイシーズンのためお目当ての宿が確保できず、残念ながら日帰りになってしまった。まあ、やむをえまい。

 フネは10時発。発船前は混み合うので早めにチェックインしたほうがいいですよとの座間味村船舶課職員の意見を踏まえて、朝は宿泊している東横イン美栄橋で7時からやっているサービス朝食をとる。
 限られた食事の機会を給食のようなもので埋められるのは一種の機会損失でありもったいないと考えており、ふだんならばこういうところではあまり食べません。なので、珍しがって写真を撮ってみたところ。
 食べものの記事ばかりが続くねぇ、早く本題に入ろうよ。(苦笑)

 ごはんやパンは省略し、多めの野菜サラダ、肉じゃが、おから風の練り物、厚焼き玉子、パイナップルいっぱい、それに味噌汁。
 朝食時、周囲で交わされている会話を聞くにつけ、近時このホテルは中国など東洋系の外国人の利用が多くなっているのだなと感じます。

 さあ、出発。前夜の雨は上がっていい天気。泊埠頭旅客ターミナルまで歩いて向かいます。


 8時にホテルを出発。フネは前もって電話予約していたので早々にチェックインが終わり、あとは泊高橋の袂にある高橋節の琉歌碑を見て来ようとそちらのほうに向かって歩いて行きます。とると、お、埠頭緑地の一角になにやら新しめの碑を発見!

 それは、「琉球音楽 聲樂譜附工工四發祥の地」の碑。おお、この場所は工工四(くんくんしー)の発祥に何らかのかかわりがある場所なのか?!
 まずは写真を撮り、碑文を読んでみよう。

 『聲樂譜創設 体現者 伊差川世瑞、採譜者 世禮國男』とあり、下部には、
 『昭和8年頃、県立二中教諭らが「泊三絃同好会」を結成し、指導者として伊差川世瑞師が招かれた。場所は泊高橋の近くの豊平楽器店の2階であった。世禮國男師は聲樂譜を考案し、野村安趙師、桑江良眞師を経て、伊差川世瑞師に体現された歌を工工四に記すことに成功した。
 昭和10年8月28日に上巻が発刊されている。世禮國男師はその自序のなかで、城間恒有師、宮城嗣長師をはじめ野村流の脈・智恵・記憶を保持する先達に感謝の意を述べている。
 琉球音楽の飛翔を期し、聲楽譜ゆかりのこの地に顕彰の碑を建立する。
  平成23年8月28日
  「琉球音楽聲樂譜附工工四發祥の地」の碑建立期成会
    野村流音楽協会
    野村流古典音楽保存会
    野村流伝統音楽協会
    琉球古典音楽野村流松村統絃会
    琉球古典音楽湛水流保存会
    湛水流伝統保存会
    琉球箏曲興陽会
    琉球箏曲保存会
    琉球伝統箏曲琉絃会 』

 ナルホド、「泊三絃同好会」が結成されたのは泊高橋の近くの豊平楽器店の2階でのことであり、そこで出会った伊差川世瑞らと世禮國男の協力によって「聲楽譜附工工四」がつくられたと、そういうことなのですな。

 2011年8月29日の琉球新報の記事を引用しておきましょう。

・正しく永く後世に 聲楽譜附工工四、発祥の地に碑
 琉球古典音楽や琉球箏曲の9団体は28日までに、歌唱法の正確な記録や継承に大きな効果を与えた「聲楽譜附工工四」が1935年に初めて発刊された発祥地の那覇市泊の泊ふ頭泊緑地内に「琉球音樂聲楽譜附工工四発祥の地」の碑を建立した。9団体の会長を共同代表とする同碑建立期成会が同日、除幕式と祝賀交流会を開いた。
 式は「聲楽譜附工工四」が35年8月28日に発刊されたのと同じ日付に合わせて実施。共同代表や来賓ら関係者が除幕し、出席者から拍手が送られた。同碑建立期成会の筆頭共同代表の照屋勝義・野村流音楽協会会長は、ゆかりの地への建立を喜び、「「聲楽譜附工工四」が広く、正しく、永く継承され、飛翔することを祈念する」などと式辞を述べた。
 「聲楽譜附工工四」は、「泊三絃同好会」で出会った伊差川世瑞氏、世禮國男氏の共著。演奏法に加え、歌唱法も盛り込んだ工工四で、今も古典音楽に欠かせない楽譜として活用されている。

 なお、碑の裏側には
 「世禮の叡智」と題された、勝連繁雄の文章が彫り込まれていました。

 「伊差川の 歌を譜に採り 絃声の 道を示しし 世禮の叡智
 叡智の本を訪ねれば 世禮國男に天与の詩才あり
 見よ 若き日の詩集「阿旦のかげ」を なんという美しい火の詩魂!
 この詩魂こそが 神代より今に至る 琉楽人の精神の泉を感受する
 また 彼に洋楽の深い素養あり
 見よ 「琉球音楽楽典」の知恵を 洋楽の楽理が琉楽に溶け入るを見る
   ああ “神の美作”の琉球三絃楽の有り難さよ 我等が魂の揺り駕籠よ
   人生の歓びよ 想いの音色よ
   我等はここに眠り ここに目覚め ここに暮らし ここに生きる
   これを思想となし 知恵となし 普遍の価値創造に参加する
 世禮國男は知っていた
 それゆえにこそ 絃楽譜ののみだった工工四に
 聲楽譜を附けて完成させた「聲樂譜附工工四」は
 今や琉球三絃楽を学ぶ者 とりわけ野村流者にとっての
 最善の教本となり得たのである
   忘れまい
   教本は口伝を補い 口伝は教本を補い 相補ってこその琉楽である
   これ 世禮國男の真の心である 不朽の名著の思想である」

 いやはや勝連さん、気合と思い入れがたっぷりですね。


 さて、泊高橋の琉歌碑。
 繁華なところにあるのでいつでも見られるかと思っていたけれどさにあらず。地味に存在しているのでかえって見つけづらいということもあったりするのですね。

 泊埠頭からゴッバチに沿って北に100mほど進み、安里川に架かる小さな橋「泊高橋」の袂にひっそりと碑は建っていました。
 明治末期に芝居役者の我如古弥栄が創作した歌劇「泊阿嘉」は、この泊高橋を舞台としていますが、今やその面影はまったくありません。

 「泊阿嘉」は、「奥山の牡丹」、「伊江島ハンドー小」と並ぶ沖縄の三大悲歌劇のひとつとして著名であり、沖縄版「ロミオとジュリエット」とも言われています。
 那覇久茂地村の阿嘉の嫡子樽金(たるがに)が泊村伊佐殿内の思鶴(うみちる)に一目惚れ。樽金は、泊高橋に99日間通い続け、その思いは通じるのですが、息子の将来を心配する父の命によって伊平屋島へと旅立ってしまうことに。その間に思鶴は病に伏してしまい・・・。
 1910年に沖縄座で初演され、112日間連続上演、驚異的な大ヒットになったという記録が残っています。

 「泊高橋に なんじゃじふぁ落とち いちか夜ぬ明きて とめてさすら」

 泊高橋から大切な銀のかんざしを落としてしまった。いつか夜が明けて探し出し、再びカラジに差すことができるものだろうか――といったような意味。

 かつて泊高橋は月見の名所だったそうで、そこで恋人と語り合っていた娘があやまって銀の簪を落としてしまったのを、連れの恋人が慰めるために詠んだ――というのが通説のようですが、平敷屋朝敏が蔡温の施政を批判して安謝の浜で処刑され、その子供が宮古島に流刑された際に、朝敏の妻が詠んだという説もあるのだそうです。

 ちなみに、寄贈者として名前が刻印されている吉濱照訓氏は、警察官を経て県内初のパチンコ業を営んだ人。永く那覇爬龍船振興会会長に就き、1928年以降中断していた那覇ハーリーを復活させた立役者なのだそうです。1907年生まれで2010年1月31日に死去。ということは102歳まで生きたということ?


 さて、いよいよ阿嘉島へ。
 まずは、泊緑地の石製のスツールに座って、阿嘉島の「レンタルショップしょう」へ電話を入れます。
 阿嘉島には朝いちばんの高速船で行くつもりだったのですが、それが満席だったため、自分が乗るのはそれよりも1時間半ほど遅く着くフェリー。
 旅立つ前に山形からそのバイク屋に予約の電話を入れたところ、予約の受け付けは行っていず、また、高速船が先に阿嘉港に入港した段階で確実にレンタバイクが売り切れ状態になると聞かされていました。
 なので改めて当日の朝に電話したというわけなのですが、極めて不安でしたが、当日の予約はオッケーとのこと。いやあ、助かったなあ。3島をめぐり、阿嘉島の裏側まで行くとなると、自転車はちょっときつそうだからね。

 気持ちに余裕ができ、港内を歩いていて見つけたのは、渡嘉敷航路の「フェリーとかしき」に掲げられた「祝 慶良間諸島国立公園 平成26年3月5日指定」の横断幕。ああ、そうだったな。だから混む、ということもあるのかなと思い至る。

 乗り込むのは「フェリーざまみ」。船内は満席状態で、そこここに座り込んだり立ちっぱなしだったりの乗客が大勢。うまく座れたのは早めのチェックインと乗船が功を奏したようだ。

 窓の外はどんよりとした曇り空。景色がよくないので、波高が低いことも考慮して、持ち込んだ文庫本を読みながら阿嘉島に向かいました。