izumi 201312   (泉芳朗頌徳記念像)

 今日は、1953年12月25日に奄美群島が本土復帰して60年目の節目の日。
 今日の琉球新報には、「奄美復帰60年 記念の集いなど開催へ」との見出しで次のような記事が載っている。

 鹿児島県奄美群島は25日、1953年の日本復帰から60年を迎える。この日、奄美市では復帰運動発祥の地・名瀬小学校で復帰記念の集いが行われる。奄美群島の他の自治体も関連事業を展開し、群島民一丸となって復帰の歴史を振り返る。
 徳之島の伊仙町は復帰運動をけん引した泉芳朗(いずみほうろう)の出身地で、記念式典やしまくとぅばによる劇を催す。沖永良部島の和泊町は日本復帰記念碑を建立し、除幕式を行う。
 1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効により、日本は主権を回復し国際社会に復帰したが、一方で奄美群島や沖縄、小笠原諸島は日本から切り離された。奄美では同条約の発効日を「痛恨の日」と捉え、復帰運動の原動力にした。


 奄美復帰運動の父といわれる泉芳朗の像を、わざわざ徳之島の伊仙町まで見に行ったことがあった。
 伊仙町義名山公園に建っているもので、その碑文には次のように記されている。

 昭和20年、日本の敗戦で奄美の島々はアメリカの軍政下におかれたが、郡民上げての祖国復帰運動で、8年ぶりに日本復帰が実現した。泉芳朗はその復帰運動の指導者。奄美大島日本復帰協議会議長である。
 泉は、軍政下の厳しい弾圧にもひるまず、掲揚を禁じられていた日の丸を郡民大会の壇上で打ちふり、これがわれらの祖国日本の旗ですと郡民の決起を呼びかけ、5日間に及ぶ断食祈願で祖国復帰の大悲願を世界に向かって訴えた。
 奄美を愛し、平和と自由を愛した泉は、至情あふれる多くの詩を作って郡民をふるい立たせ、外に向かってはアメリカや日本政府への陳情などに奔走した。
 泉はこの島に生まれ、教師となり、島内外の学校で教えるかたわら、詩集の刊行など中央詩壇でも活躍し、後に学校長、郡視学、名瀬市長などの要職に就いたが、戦後の激動期の中で郷土奄美大島の祖国復帰運動に身を投じた。
 復帰が実現した昭和28年12月25日、泉はその感動を詩に歌った。

  流離の日日は終わった 苦難のうず潮は去った ながい 空白の暦を閉じて
  この目にあおぐ 日の丸の空
  見よ 高らかに花火を打ち放って ぞんぶんに湧きかえる 奄美の山川草木
  うからやから われらもろもろ いまぞ 祖国に帰る

 昭和34年4月9日、泉は復帰の父と慕われながら54年の生涯を閉じた。
 この歴史に残る、奄美の郡民による祖国復帰運動の偉大な足跡と、泉芳朗の功労を顕彰し、ここに広く同胞の志を寄せて 泉芳朗の像を建立する。
  平成9年(1997年)7月吉日


 その「時」から60年が経過して時代は移ろったが、当時の奄美の人たちの心に宿った熱意や喜びは想像に難くない。我々はそのことを忘れないようにしたい。

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 興味深い1冊。
 「沖縄ではかつて世界に類を見ない競馬が行われていた。速さを競うレースではない。宮古馬などの小柄な沖縄在来馬が足並の美しさを競った。馬具に華麗な装飾を施し、直線走路で美技を競い合う独自のスタイルが、琉球王朝時代から戦前まで約300年間、連綿と受け継がれてきた。馬場の数は沖縄全体では150を超えていた。
 昭和初期には、「ヒコーキ」という不世出の名馬が琉球競馬の頂点に立ち、ウチナーンチュを熱狂させたと伝えられる。飼い主は「中頭のヨドリ与那嶺小」という人物。だが、その人馬の詳細はどこにも明かされていない・・・。
 何故、琉球の競馬は消えてしまったのだろうか?」(コシマキから)

 こういうテーマを追求する著者は、スポニチでJRA中央競馬を担当する人物で、書き手もまた素晴しい。

 謎に包まれた名馬の蹄跡を探しながら、沖縄各地の馬場跡を訪ねて紹介しており、それぞれの土地に残された競馬の記憶を遠い過去から焙り出しています。
 表紙は、昔々の仲原馬場(今帰仁村)でしょうか。
 また、ページの中に登場するかつて馬場だったところの現況写真の数々は、この本が、著者が丹念に沖縄各地を歩き回って取材したものであることを実感させられると同時に、自分もその場に立ってかつての様子を感じ取ってみたいものだとも思わせてくれます。

 読んでよかったなあというのが偽らざる、また素朴な感想です。


後記:
 著者の梅崎さんからコメントを頂戴しました。
 ブログに記事を書いていると、ときたまこのようなうれしいサプライズがあります。
 表紙は仲原馬場(今帰仁村)ではなく、宜野湾馬場(じのーん・んまうぃー)だということです。本文にも明治43年ごろの写真である旨、また、現在は普天間基地の滑走路になっていると記載されていました。
 梅崎さん、ありがとうございました。


 池宮城秀意(いけみやぐしく・しゅうい)。1907年生まれ。早稲田大学独文学科卒。「共産主義のシンパ」として3年に及ぶ刑務所生活を経験した後、1935年、「沖縄日報」で記者生活の第一歩を踏み出し、戦後請われて「ウルマ新報」(後の「琉球新報」)編集長。
 日本復帰後の1974年、「琉球新報」の経営悪化の責任を取り社長を退任。その後も「平和をつくる百人委員会」を結成するなど、沖縄の自然破壊、米軍基地問題などについて警鐘を鳴らし続け、1989年死去。

 この反骨の沖縄言論人の生涯を取り上げた著者は、「沖縄」に深く関わってきたジャーナリスト・森口豁。森口は琉球新報の記者として5年間にわたって池宮城のもとで働いていた経験があります。
 大のヤマトンチュ嫌いであるはずの池宮城は、時には父親のような眼差しで森口を見守りながら、自由に仕事をさせてくれたということです。

 池宮城は、占領下の米軍司令官や時の日本国総理大臣に対して歯に衣着せぬ物言いをし、自分の所属する新聞社の社長が新聞人として理不尽なことを言うようなことがあれば、地位に恋々とせず至極あっさりと職を投げ捨てるような人物だったそうです。
 また池宮城は、敗戦によって一切の戦前的なものと決別して民主主義の旗を掲げていながら、根っこのところでは何も変わっていない日本国家の思想と体制を心配し続けていたそうです。

 池宮城が逝去して6年後の1995年の発刊。
 「神童“三良(さんるー)”の誕生」、「思想の芽生え」、「“鉄の暴風”下に生きる」、「軍政下のジャーナリスト」、「大衆運動と言論人」、「“新ヤマト世”のなかで」の全6章。
 なかなか読み応えのあるドキュメントでした。