ゴッパチを辺土名向けに進み、道の駅ゆいゆい国頭の北側200mくらい、比地川の橋を過ぎるとすぐ左に見える、やんばるで伐られた巨木を模した立派な碑。

 台座には次のように書かれた石版がありました。

・国頭さばくい
 琉球王朝時代、首里城王殿の改修の際、本島北部国頭地方の山々から建築用材を伐り出して王府へ献上した。
 与那覇岳・長尾山一帯から伐り出された材木は、比地川・奥間川を下り鏡地原の浜から海を渡り、泊の港へ陸あげされ首里へと運ばれた。途中村から村へと人びとがリレー式に材木を曳いて運んだりもしたという。その木遣りを歌ったのが「国頭さばくい」で、この木遣り歌は、大勢で掛け声をかけ合い音頭を取りながら心をひとつにして歌われた。歌詞は国王の御代万歳をたたえている。このしぐさを当奥間区に民俗芸能として保存されている。
 なお、さばくい(捌理)とは、各間切にいた幹部役人の総称で、彼等は材木の検査ならびに運搬の指揮にもあたった。
 首里城正殿の復元を記念して「国頭捌理」の碑をこの地に建立する。
   平成3年3月
   国頭村

 木遣り歌「国頭捌理(くんじゃんさばくい)」は、沖縄のいにしえを伝える名曲だと思う。

 一 (さー)首里天加那志の(よいしーよいしー)
   (さー)御材木だやびる(さー はいゆえー はーらーら)
   (さー はりが よいしー さーいそそ そーそ いーひひ ひーひ あーあはは はーは)
 二 (さー)国頭捌吏(よいしーよいしー)
   (さー)御嶽の前から(さー はいゆえー はーらーら)
   (さー はりが よいしー さーいそそ そーそ いーひひ ひーひ あーあはは はーは)
 三 (さー)名護山堅木や(よいしーよいしー)
   (さー)重さぬ引からん(さー はいゆえー はーらーら)
   (さー はりが よいしー さーいそそ そーそ いーひひ ひーひ あーあはは はーは)
 四 (さー)御万人まじりや(よいしーよいしー)
   (さー)皆々揃とて(さー はいゆえー はーらーら)
   (さー はりが よいしー さーいそそ そーそ いーひひ ひーひ あーあはは はーは)

 というもので、このハヤシがグルービーでとってもいいのだ。
 一度見に行って見落としているこの碑。今回はじっくりと見てきました。前回はどうしてこんな立派な碑を見逃したのだろうと不思議です。
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 本日のメインイベント、安田のウフシヌグが開かれる安田集落に着いたのは正午前。国頭捌理の歌碑のある奥間集落からゴッパチをさらに与那まで北上し、その後県道2号線を通って東海岸の安田に到達するまで1時間近くかかっただろうか。
 県道沿いの集落入口に車を停めてそこから集落へと降りていくと、ふだんは静かだと思われる通りにはいくぶん華やいだ様子の人たちがそこここに。
 さらに歩を進めていくと神アシャギのある公民館併設の広場があり、そこには「祝 安田シヌグ祭」の横断幕が掲げられていました。

 まずは、その広場にあった「安田のシヌグの碑」の説明書きを引用しておきます。

・安田のシヌグ
 安田のシヌグは、おおよそ400年の歴史を持ち、私達の祖先が生み出した貴重な民族文化で、安田の村づくりの根幹をなすものである。
 往時の生活は厳しかった。開拓の途上にあった安田の村落共同体形成や村落自己防衛の理念は、シヌグに滲みるとともに各行事にも顔を覗かせている。つまり、安田の村づくりの根底にある独自性は野性的で、土臭さの理念が潜在する。
 シヌグ行事のヤマヌブイ、ウシンデークは、神仏、自然への祈りをとおして、合力加護を賜り、村落の安寧、五穀豊穣、また村人の無病息災を招来する古代社会の自然信仰に繋ぐお祓いの祭祀である。
 シヌグ行事は、旧暦7月の初亥の日から2日間にわたり執り行われる。ウフシヌグ(大)、シヌグングワー(小)は、隔年交互行事で行われる。従前、ウフシヌグは3日間行われていた。ウフシヌグは、村の男達がこぞってメーバ、ヤマナス、ササの3方の山に入る。ヤマヌブイによって、男達はつる草や小枝を身につけ、頭にガンシナー(花・小枝の冠)をかぶり、山の神からセジ(霊力)を受け草装神になる。「エーヘーホーイ」「スクナーレー」を唱和し、田畑や村人のお祓いをする。
 シヌグ行事の前の旧暦6月25日の夕刻には。ウシンデークの練習を知らせる太鼓(ナイムンハジミー)の合図で村の女性たちがアサギマーに寄り集まりウシンデークの練習を始める。祭りの前夜祭とも言える。
 1975年(昭和50年)12月、安田のウシンデークが沖縄国際海洋博覧会に出演、翌年、1976年(昭和51年)7月14日、安田古文化財の保存と後継者の育成を目的に安田古文化財保存会を発足させ正式な活動が始まった。
 1978年(昭和53年)5月22日には、国の重要無形民俗文化財として、文部大臣により指定された。それを契機にシヌグの民俗的文化価値は、県内外の公的機関、民俗学者、音楽家、報道機関、写真家等から高く評価され、研究が盛んに行われるようになった。
 現在、安田のシヌグは、内容が多面的、多彩であり、多くの人が参加する。この行事は、沖縄の「祓い」の神事の古い姿をとどめ、民族文化の原型的なものを見せている。この貴重な伝統的な民族文化を保存し継承することは、互いの社会的責任であり、安田の地域興しの道に通じると確信するものである。
 安田は山の里、海の里、シヌグの里でもある。仮に、シヌグ祭りが無ければ古里に寄せる心情も変わっていたに違いない。
  平成23年7月31日
  国指定重要無形文化財 安田古文化財保存会発足35周年記念


 安田の集落維持・発展のためになんとしてもシヌグの伝統は保存・継承していきたいという強い願いが、ひしひしと伝わって来るかのような文章です。


 予習によると、午前中このアシャギの中で御願(ウガン)が行われるとのことでしたがすでに終わっており、広場には大勢の女性たちや観光客がいました。一方、男性たちは、大人も子供も藁縄と赤い実のついたミーハンチャー(「目を見開く」の意味)という枝を身につけてヤマヌブイのスタンバイ。

 正午を過ぎたところで、いよいよヤマヌブイが始まります。ヤマヌブイはメーバ(集落の西)、ササ(同北)、ヤマナス(同南)の3カ所に向けて行われます。このうち、自分はヤマナスに向かう人たちに同行しましたが、途中腰までつかる川を横断していくため濡れるのがためらわれ、その川の手前までで断念。何人かの観光客も同様にそこでリタイアです。

 しょうがなく先ほどの広場近くの川に架かるアギ橋という橋のたもとまで戻って、大勢の家族などとともに待っていると、1時間ほど経ってから、太鼓の音に合わせてエーヘーホーイと叫びつつ男たちが戻ってきました。
 ヤマナス組は橋の手前でメーバ組と合流。つる草や木の葉で頭飾りなどをして、神がかった恰好になっています。そしてアギ橋でサカインケー(坂迎え)。彼らは神人として迎えられます。
 その後男たちは、アギ橋のすぐ近くにあるトンチバル(殿内原)という休耕地の広場のようなところに移動します。ここでササ組と合流し、男(神)たちはエーヘーホーイと唱えながら大きな円陣を組んで歩き回り、近くで頭を垂れている女性たちや観客を木の枝の杖でお祓いします。あぁ、ありがたや。

 これが終わると男たちは隊列を組んで村の社がある公園へと向かいます。そこには老人たちがいて、男たちによる祓いを待ち望んでいました。ここでも男たちは円陣隊形をつくり、人々をお祓いして回ります。
 掲載した写真はそのときのもの。半裸に草木をまとって歩く世話役、太鼓を打ち鳴らす者、そして隊列には地元の人間に混じって白人なども。私はここでは白人さんにお祓いしてもらいました。
 古い習俗伝統にも新しい担い手を躊躇なく受け入れるチャンプルー沖縄らしいヒトコマでした。


 このあと男たちは、観客などを巻き込み、細い道を混然一体となって集落の東に面した浜辺へと行進します。
 浜辺に着くと、男たちはまず集落の側、つまり山に向かって横隊をつくり、敬虔に御願をします。そして今度は海へと向き直り海に向かって御願をします。
 そして御願が済むと、身につけた藁縄やミーハンチャーを脱ぎ捨て、海に浸かって身を浄めます。

 これにて男たちのヤマヌブイの一連の行事は概ね終わりのよう。またぞろぞろと集落に戻り、なんとなく三々五々といった感じで隊列がばらけていきました。

 ここまでで14時過ぎ。男たちだけは肩の力が抜けた様子でどこかへと行ってしまいます。最初の広場付近で地元のオジサンにその後の展開を問うと、「あとはしばらく休憩」とのこと。そうか、それでは自分も撤収するとするか。

 後で調べてみると、その後男たちは集落を通り抜け、ウイヌハー(上の川)という川で再び身を浄め、その後は「祈豊年」と記された旗頭を掲げてアサギの前に戻り、ここでしばし踊ることで山登りの行事は終わるのだそうです。でもまあ、確かにそれは見なくてもよかったかもしれません。
 また、19時ごろからは夜の部が開始され、ウシンデーク(臼太鼓)などの女性たちの踊りが行われるようですが、ここまでの時間安田に留まっていることはできない。ということで、オジサンのアドバイスは適切だったのではないかと思う。

 服装などは凝っていないし素朴な祭りではあったけれど、人間にとって神とは何か、自然とは何かを改めて考えさせられるような、いい体験をさせてもらったと思います。


 安田までやってきた道をとって返し、県道2号線とゴッパチの合流地点である与那の三叉路、与那トンネル北側に鎮座する「與那節の歌碑」のところでいったん停車。今回の歌碑めぐりも大詰めに近づいている。

 与那の山道の険しさを歌ったもので、碑の表面にシンプルにその琉歌が刻んでありました。

  与那の高ひらや 汗はてど登る  無蔵に思なせば 車とぅばる

 与那の急坂は、汗を流して登るとても難儀な山道であるが、愛しい人を思いながら行くと、牛が引く砂糖車が回るような平坦な道と変わらない――という意味。愛はすべてに勝る、ということでしょう。

 与那とその南隣の伊地との間には、かつては海に突き出た小山で隔てられた交通の難所があり、行き来するには険しい「与那の高坂」を越えなければなりませんでした。海岸線沿いに県道が開通したのは1933年のことで、人々はやっと「高ひら」越えから解放されました。
 1973年には与那トンネルが開通し、「与那の高坂」もすっかり忘れられ、今では古典音楽の「與那節」で往時を偲ぶのみとなっています。地元では、ウシデーク歌の中で「與那節」が歌い継がれているということです。


 次に訪れたのは、「恋し鏡地の碑」。ゴッパチから奥間ビーチ方面へと折れて西進し、鏡地橋の手前右側のところにありました。
 1996年10月、鏡地区創立70周年記念に建立されたもの。
 表には「恋し鏡地」の歌詞が4番まで刻されていました。

  恋し鏡地
    作詞作曲 儀保正輝   唄 饒辺勝子

  一 奥間森ぬ 伊集ぬ木や  花ん咲ちょさ 露かみてぃ
    ありから幾年 なとうがや  見りば想いや まさてぃ
    戻てぃ来うよう 鏡地に

  二 あぶしばれーぬ あぬ時に  袖にしちゃる あぬ情
    ぬんでぃ他人に 知らすがよ  夕びん何がやら 淋しさぬ
    鏡地浜に 座ちょうたしが

  三 確かありや 霜月ぬ  月ぬ夜ぬ あぶし路
    比地川橋をぅてぃ 別りたる  後姿ぬ 忘ららん
    戻てぃ来うよう 鏡地に

  四 此ぬ内行逢ゆら んでぃ思てぃ  今日ん友小に 沙汰さしが
    今度ぬ十五夜 までぃや  恋しあぬ橋 渡てぃ
    戻てぃ来うよう 鏡地に

 奥間森のイジュの木は 花も咲いているよ 露をのせて あれから何年になっているかねえ 見ると(あなたへの)想いが強くなります 戻ってきてね鏡地に――。
 失恋の歌でしょうか。愛しい彼と別れて離れてしまったけれど、どうかこの鏡地に戻ってきてほしいと願う乙女心が伝わって来るようです。

 今年は9月7日(土)に第9回「恋し鏡地まつり」が鏡地運動場で開かれたとのことです。
 なお、この歌といえば饒辺勝子ですが、彼女は1945年生まれ。防空壕で産声を上げたそうです。

 さて、時計は15時をまわった。ちょいと早いが、本日はこれにて日程終了としよう。
 ゴッパチに戻って、道の駅ゆいゆい国頭でジュースを飲んで一休み。
 さらに名護のイオンで今晩の部屋飲み用の食料をあれこれ調達して名護のホテルへと帰投。

 16時過ぎには部屋に入り、シャワーを浴びて早々と飲みの態勢に入る。
 夏の甲子園では日大山形が日大三高を7-1で下して初戦を突破。このあと波に乗って県勢初の夏の大会ベスト4に勝ち進むこととなる。
 今日という日は沖国大に米軍のヘリが墜落してから9年目になる日だったのを、テレビのローカルニュースを見て思い出す。


 8月14日。旅の最終日です。
 8時45分に名護のホテルを出て、高速を使わずに、カーナビに任せてまずは首里・那覇方面へ。フライトまでの時間はある。

 旅の最終メシは首里の「あやぐ食堂」でサンマ盛り合わせ定食を食べようと決めていました。しかし、到着したところ定休日。あっちゃあ。かつては旧盆と正月しか休まなかったあやぐ食堂でしたが、近時水曜日が定休日になったことをついうっかり失念していました。
 ここで市内の渋滞も手伝ってタイムロス。残念だが美栄橋のジュンク堂書店での沖縄本渉猟は断念だな。次回の沖縄訪問までペンディングだ。

 ではということで向かったのが、那覇泊にある「軽食の店ルビー」。ここは盆・正月以外はいつも早い時間からやっている。
 大量おかずのAランチがココの旗艦メニューですが、そんなにたくさん食べなくてもいいので、今回はルビー定食550円にしてみました。

 味噌汁までワンプレートに載せてしまった弁当のようなつくりで、ランチの廉価版的な印象です。骨付きフライドチキン2個に白身魚フライ、サザンドレッシングのキャベツ、揚げ豆腐のベーコン乗せ(不思議)、少量のマカロニサラダ、タクアン。味噌汁は、継ぎ足ししてますねんといった感じの赤味噌。格別ボリューミーではないけど、今の自分にはこのぐらいが適量かもな。

 さて、12時。腹も満たされたし、おもろまちでレンタカーを返却して空港に向かうとするか。
 いろいろ見て十二分に楽しかった。次はいつ来れるのだろうなぁ、沖縄。

 《沖縄旅 2013夏 完》


 表紙は1955年当時の名瀬。映画館「中央会館」の様子で、セントラル楽器の創始者である指宿良彦が提供した写真だ。

 奄美諸島の主島・大島の玄関口ともいうべき名瀬市街区の発展の様子を、文書や絵図、写真、記念碑、人々の語りなどのさまざまな資料から跡付けた内容となっています。著者たちの意図としては、単に過去を同時代と結びつけるだけではなく、その延長にある未来にまで目を向けようということを本書の課題としているようです。

 まずは、薩摩藩が名瀬を支配拠点とした19世紀初頭以降の多くの絵図・地図等を掲げ、その後に名瀬の街区が形成されていった時代にどのような力学がはたらいて景観をかたちづくるに至ったか、そして名瀬がどのような変遷をたどっていったかを論じています。
 さらには、戦後復帰から高度成長を経て現在に至るまでの名瀬を論じ、最後に、先史時代から現代までの文化遺産を踏まえて奄美の未来を見とおす試みを行っています。

 極めて興味深いテーマであり、各時代の絵地図などが豊富に盛り込まれていて、読む前からわくわくしていましたが、いかんせん自分は一度しか名瀬を訪れたことがなく、出てくる地名や地形がいまひとつピンとこないところがあり、少し残念な気がしたところ。
 またいつか再度名瀬を歩き、その後に再読すると、得られるものはきっと大きいものがあるのだろうと思う。

 なお、巻頭に、島尾敏雄の次のような一文が引用されていましたので紹介しておきます。
 「ナゼはナージの訛伝だという説もあり、「ナー」という島の方言は空っぽ、中身がない、という意味だから、つまり中身のない土地であるのかもしれない。名瀬は代表地でありながらオオヤコ依頼の旧家が根をおろしていないのも、あるいは理由のあることかも分らない。(中略)そして名瀬は、つまりは港町だから、年中行事にしてみても、ひとつの部落が墨守してきたようには伝わっては来なかっただろう。名瀬ではまた時勢に適当な島外からのものが、いち早く流行しそして早い時期に移り変わって行ったろう。」


 沖縄選出の参議院議員として、母として、平和バスガイド・国政の平和ガイドとして、沖縄のためにいま伝えたいこと、伝えなくてはならないこと=「沖縄のこころ」を沖縄の風に乗せて綴る! ――という本。
 糸数慶子は沖縄の革新勢力の中心的人物として活躍しているのはご承知のとおり。1992年から県議3期、2004年には参議院議員、06年には沖縄県知事選に立候補して残念ながら落選するも、絶大な人気で07年の参院選で復活しています。

 まずは、「写真で見る糸数慶子活動記録」。カラー60ページもあり、取り上げた写真は106点。そのすべてに慶子サンの顔写真が載っており、意気軒昂で精力的に活動している様子が窺えます。
 彼女、「読谷山若特牛」という闘牛のオーナーでもあるのですね。

 本文のほうは、第1章が「私の“目覚め”への道」。
 収容所で再会した父と母、戦後の読谷村と父の生業、母が切り盛りした「阿嘉商店」、基地の中で遊んだ幼い日、「ギブ・ミー・チョコレート」と隆子ちゃん事件、沖縄戦の真実を伝える平和バスガイドの活動など、政治家になるまでの糸数慶子の半生について書いています。
 一人の沖縄女性が歩んだ道を知る意味で、やはりこの章がいちばんおもしろかったでしょうか。

 第2章は、「<夫婦対談> 議員と新聞記者と――二人三脚の40年」。
 夫との対談というのはなかなかない趣向。原点としての喜瀬武原闘争、政界への第一歩 ―県議として、2006年県知事選の顛末、立候補を決意させた辺野古の座り込み、政治の転換点と沖縄などについて書かれています。

 第3章は、「<対談:孫崎享×糸数慶子> 沖縄の果たす役割――中国・韓国・アメリカとの関係をどう作っていくのか」。
 尖閣問題は日米関係に利用されている、オスプレイ配備と「沖縄差別」、沖縄と中国との歴史的関係と今後のあり方、「尖閣棚上げ」は両国の合意だったなど、ぐっと政治的な話になります。

 第4章は、「<座談会:若い女性と語る夢> うない(女性)の力で未来をひらく――女性・子どもが生きやすい沖縄をめざして」。
 二人の二十代の沖縄女性との対談形式で、まだある「女・子ども」意識、無関心がいちばん怖い、女性の力を発揮するネットワークづくりなどについて語り合います。

 まだ政治家として現役のうちの出版となり、多少売名行為的な意図も感じられますが、読んでいてそれなりに得られるものがありますので、まあ許しちゃおうか。
 65歳には見えない若々しさがありますので、まだまだがんばってほしいものです。


 「沖縄現代史研究のパイオニア、沖縄闘争の伴走者が、今、沖縄から安保の本質を問う!」とのキャッチコピーが挑発的。

 日本、米国、沖縄、基地などのさまざまな要素が織りなす構造において、沖縄への基地押しつけを中心とする差別的仕組みは、日米安保体制の維持のための不可欠の要素とされてきた。そしてそれは、時の経過とともに、「沖縄の米軍基地に対する存在の当然視」という思考停止をも生んだ。――と、著者は説きます。
 「構造的沖縄差別」という言葉が、沖縄の現状を規定する言葉として一定の市民権をもつようになった今、改めてその歴史的性格を整理し直し、これを克服する途を探ってみようというのが本書のねらいとなっています。

 米軍再編や、個別的な米軍部隊の移動や兵器の配備を進める際、日米両政府、特に日本政府は、構造的沖縄差別を利用してきました。
 しかし、鳩山政権の挫折から数年が経過し、地元紙の紙面には連日のように「差別」の文字が躍るようになり、差別的仕組みの中に置かれている沖縄民衆がそのことを実感し、告発する声を上げるようになってきています。
 これを要するに、構造的沖縄差別が破綻し始めているのではないか。――著者はこう説きます。

 にもかかわらず、日米両政府は、今なお破綻に瀕した構造的差別にしがみついており、彼らが自らその政策を修正することはないように見えます。
 著者は、構造的沖縄差別を突き崩す時期は、周辺諸地域の民衆の沖縄に対する共鳴・共感・連帯の度合いによって遅くもなれば早くもなろうと締めくくっています。

 「構造的沖縄差別」という言葉は沖縄本を渉猟していて最近本当によく聞くようになったという実感があります。ひとり新崎盛暉が使っているだけではないからなのでしょう、きっと。


 ネット古書店で手に入れた、2004年発行の紀行本。
 発行年は21世紀ですが、初出は1980年。書かれているのは、昭和52(1977)年に旅した奄美のことです。
 旅先でめぐり会った「人」について書いてほしいという依頼を受けて、道中で記していた日記をもとに、3年後の春に奄美を再訪して補正をしたうえでの発刊となったもののようです。

 徒歩で島を巡り、夕暮れ時を迎えればその土地の人に一宿一飯を願い出て夜を明かすという、現在ではちょっと実現することが難しい旅のスタイルをとっているのがユニーク。著者は女性で、当時は40を過ぎたあたりの年代だったようです。
 話をしているうちは泊めてあげると言っていても実際には泊めてもらえなかったり、言葉もうまく通じないヤマトからの来訪者ということで疎外感を味わったりしながら、時には腹を立てたり不満を募らせての旅だったようですが、そんな素直な表現に女性らしい本音が垣間見え、なかなかおもしろく読ませてもらいました。
 今から30数年前の奄美地方の様子がよくわかる良書だといえるでしょう。

 島ごとに章立てがなされ、種子島、屋久島、喜界島、奄美大島、徳之島について書かれています。それぞれの章に付された地図のイラストを見ると、巡り歩いたルートの距離は半端ではありません。たとえば奄美大島では、2月24日に名瀬に入り、海岸を南西に進んで宇検、湯湾、屋鈍などを経由して古仁屋に至り、加計呂麻島を縦断して、太平洋側を北上して4月8日に名瀬に戻るという行程。距離といい、要した期間といい、すごいです。

 そんな旅をしながら、むかしびとの暮らしを続けている家々のおばあさんから古い歌や、塩の炊き方、味噌の仕込み方、機織り、神まいりなどを見聞きしています。
 そこには、今と比べれば物質的な豊かさはなく、むしろあまりにも貧しいとさえ思えたりしますが、現代の我々が忘れてしまった島人の豊饒と言ってもいいような豊かな姿が見て取れます。
 人間にとって真の幸せ、豊かさとは何なのかを考えさせられます。

 著者は、山形県東村山郡山辺町出身。自分の祖父母の出身地と同じなので、親近感を覚えます。子供の遊びや民俗収集の旅をしていた人なのだそうです。


 琉球王朝を舞台にしたNHK・BSドラマ「テンペスト」で時代考証を担当した上里隆史が、全国で続々と生まれた琉球史ファンに、難解ととられがちな琉球の波乱万丈でおもしろい歴史をもっと平易に楽しんでもらおうと、若き琉球史研究家である喜納大作と共同して世に送り出した琉球史入門書。
 フィクションではない琉球史を知ろうとすれば、これまでは高価で難しい専門書を読むしかなかったのですが、そんな状況を打破るという意味ではなかなか画期的かもしれません。

 第1章「王宮・首里城の秘密」では、首里城内の各場所の役割や、女官の位置取り、「京の内」の謎などについて書かれています。
 第2章は、興味深い首里王府の仕組みを解説。王府の中枢である評定所の役割、そこで働くキャリア官僚の様子、警察署と裁判所を兼ねた「平等所」の裁判と刑罰、国王一世一代の大行事である冊封などを。
 第3章は、「国王と士族、庶民のくらし」。歴代王のトピックス、国王の一日の生活、お妃さまの決定経緯、700以上もあった姓、命よりも大切な家譜とそれを管理する系図座のことなど。
 第4章は、「琉球の神様と文化、風俗のふしぎ」。琉球独自の信仰と神女の組織、琉球の石造アーチ橋、琉球の海を走った馬艦船、客の選択は遊女側にある女性だけの村「辻」、琉球と日本の髪型比較など。

 文章はすべて「現代語」で書かれており極めて平易。琉球王国に関する基礎知識などは不要で、まったく気軽に読めます。というか、あまりに気軽に読めてしまい、読了するまであっという間でした。


 日本人が国内で体験した異様な戦争を戦後との関わり合いの中でとらえた、戦史小説5篇が収録されています。
 この本を手にしたのは、その中の「剃刀」を読みたかったため。どの本だったかは失念しましたが、この作品には沖縄防衛軍司令官の牛島満中将と同参謀長の長勇中将の最期の光景についての証言が含まれていると書いてあったからです。

 「剃刀」によれば、当時軍司令部に軍属として徴用された比嘉という理髪師が牛島らに同行していたといいます。その比嘉の証言によって事実が明らかにされていきます。
 比嘉は、6月22日の夜、軍司令官と参謀長の自決の身だしなみを整えるため散髪を命じられます。
 その後の壕内の具体的な様子は、高級副官の当番兵から以下のように比嘉に伝えられます。

 軍司令官と参謀長は下着をすべて替え、まず参謀長が割腹し、剣道に長じた坂口大尉が介錯。ついで軍司令官が腹に短刀を突き立て、再び坂口大尉が刀を振り下ろしたが、流れ弾で砕けた岩片で手を負傷していた大尉は介錯をし損じ、そのため藤田曹長が刀を取って介錯した――。
 軍司令官と参謀長の首は、吉野中尉がどこかに埋めた――。

 当時、戦跡を巡る観光バスのガイドの説明では、軍司令部の洞穴壕を出て、近くの巌頭に座り、月光の下で古式にのっとった割腹をし、部下がその首をはねた、というように、美談風に説明されていたそうです。しかし、そんな芝居のワンシーンのようにはいかない――というのが歴史の現実だったようです。

 わずか30ページの記述ですが、読み応えはありました。
 ほかに「海の柩」「手首の記憶」「烏の浜」「総員起シ」。


 1970年9月に発生した米兵による糸満主婦轢殺事件から、物語は始まります。
 同年12月、アメリカの軍事裁判によって、酒に酔って車を運転していた犯人の若い米兵は無罪となり、占領意識まる出しの一方的な裁判に対して県民は激怒します。
 その怒りも生々しい中、同年12月20日未明、コザの中の町で米兵が運転する乗用車が沖縄人をはね、事故処理にやってきたMPの対応に、集まった群衆の不満が爆発します。
 そしてMP隊の拳銃の威嚇発砲で群衆の怒りは頂点に達し、この間の米軍=米兵の支配者的横暴に対する報復の炎が、基地の街に燃え上がりました。
 群衆は黄ナンバーのアメリカ人の車を選んで次々に放火。焼き打ちは6時間に及び、80台を焼き払いました。
 米軍支配下の沖縄人の感情を象徴するいわゆるコザ暴動。新聞記者たちはそのど真ん中に飛び込んでいき・・・。

 コザ暴動に関しては、ドキュメントや報道資料、さらにはコザ暴動を背景としたエンターテインメント小説などさまざまなものを読んできましたが、これはドキュメンタリーとしての客観的記述ばかりではなく、また、小説ではありながらもかなり事実に忠実であり、なおかつストレートにコザ暴動自体を扱ったものとして、とても「読める」ものに仕上がっていると思います。
 コザ暴動の全体像が知りたい向きには、さらりと読めるし、最適なのではないでしょうか。

 与並岳生の作品はこれまでに「琉球吟遊詩人アカインコが行く」「琉球王女百十踏揚」を読んでおり、沖縄の歴史小説家なのかなと思っていましたが、こういうものも書くのですね。
 本稿は琉球新報、沖縄タイムスの報道をベースに再構成したものだが、一部フィクションを加味した――と、巻末に記載されています。


 ウェブ古書店から1円で買った、1995年発刊の講談社ノベルズの1冊。新書版なのに厚さ3.5センチほどもあり、ページ数にして750ページ余り。なおかつ2段組みで、これは読み応えがあります。
 しかし、読み応えは、楽しければ嬉しいばかりですが、そうでないと苦痛にもなるのなので要注意。で、この本の場合、自分にとっては後者だったかも。

 人間を目から発する光線で焼き殺し、口から吐く黄色い息で肌を爛れさせ窒息死させる、二つのゴリラのような顔と四本の腕を持つ<双面獣>。この醜悪なる化け物は次々と殺戮事件を引き起こし、奄美の人々を恐怖へと陥れた。
 魔獣誕生の秘密とは? 殺戮事件の全貌とは? 名探偵・二階堂蘭子の謎解きの冒険が始まる。
 だが、彼女を待ち受けていたのは、魔獣を超えた真の悪魔であった。――というもの。

 こういう非現実的な小説を好む人もいるのでしょう。自分の場合、推理小説、超常小説を読もうという意識ではなく、奄美大島が出てくるから読むのであって、かような現実離れしたハチャメチャな内容のものは、すんなりと受け入れる立ち位置にありません。
 しかも、奄美の離島、孤島が地図から抜け落ちた人目に付かない邪悪な場所のような扱いを受けており、登場する島人も迷信に満ちた未開の人間のように表現されていて、心外な気分です。

 そして、推理小説は嫌いではないのですが、登場する女探偵は生意気で小賢しく、シャーロックホームズのようなスマートさに欠けていて、嫌いなタイプ。
 現実にありえないことをこれでもかと押し付けられ、それを鼻につく推理とやらで気取られたのでは、読者としてのこちとら、たまりまへんで。
 あ、書き過ぎでしたらゴメンナサイ。でも、奄美の島々に住む人の身になって考えていただくことも、お忘れなきように。


 著者はカンボジアの専門家。その著者が、沖縄を歩いていて、沖縄とカンボジアの間に親密なつながりを感じ、カンボジアが多くのことを教えてくれたように、沖縄も何かを語りかけてくれるのではないか――と皮膚感覚で感じたようです。

 沖縄に関する勉強ノートを書き始め、沖縄に関するトピックの中から興味を感じたものを手当たり次第に拾い出しては図書館に通って本を読み、資料を漁り、ブログに書き連ねていく、という経過があって、その成果を本としてまとめた、というのがこれ。
 著者のアジア体験、とりわけカンボジアの記憶が、沖縄を見る独特の視線なりメンタリティとなって記述の中に溶け込んでおり、これまで読んだことのないような紀行文になっています。

 取り上げ方は多角的。かつては浮島という島だったいにしえの那覇を想像して逍遥する「浮島散歩」、ヒージャーまたはカーと呼ばれる井戸を巡る「聖なる井戸」など。
 ほかに、沖縄の御嶽群、沖縄戦の戦跡、ヒンプンや石畳などの石造物、国際通りなどを巡ったり、琉球史を点描してみたりして、興味の赴くまま、事象を深く掘り下げ、自分なりの考えや想いを加えて綴っています。
 最後には、鶴見のリトル沖縄と言われる場所にも足を踏み入れています。

 著者は完全に沖縄にはまっているようです。しかし、ただ漠然と沖縄が「好き」というのではなく、沖縄のことをとことん知りたい様子。それはきっと、沖縄に対する単なる「好意」にとどまらない、いわば「愛」なのだろうなぁと思う。その感覚は自分にも覚えがあるのでよくわかるのです。

 泊の沖縄船員会館に泊まり、通堂の嶺吉食堂でてびちそばを食べ、上原知子がうたう「ふなやれ」の背景に思いを致し、SPAMやルートビアを味わい、与世山澄子の店「インタリュード」に寄り・・・。
 そんな旅をしながら沖縄のことを深く思考する。こういうベタな旅を自分も続けていきたいと思います。


 国防という観点で日本を見るとき、危うさを孕んでいる地域があちこちにあることを「意識」している国民は、どれだけいるだろうか。日本が特に警戒をしなければならないのは、尖閣諸島を含む東シナ海の防衛だ。
 アジア太平洋地域の安全保障の重視を目標に掲げる米国は、中国を意識し、フィリピンや日本など、同盟国との協力関係を深めたいとするが、日本の状況はどうだろうか。
 政府は、普天間飛行場の移設問題について、移設先のみを議論の争点とし、国防の核心に迫ることはない。
 日本と日本人が試されている――。
 日本人は、日本国家は、沖縄からの問いかけに、応えなければならない。
 沖縄にいると、日本の行く末を真剣に考えるようになる。
 復帰40年を契機に、改めて沖縄を日本の国防の要としてとらえ、その沖縄を通して日本を見つめ直したいという思いでペンを執ったのが本書だ。
 ――という、産経新聞社那覇支局長のルポルタージュ。

 悲願の祖国復帰を果たした沖縄を反日基地闘争へ追い込んだのは、いったい誰か?
 復帰闘争を担った市民と教職員の闘い。
 普天間飛行場移設を受け入れた名護市長(当時)の決断。
 米軍基地と県、住民の深い繋がり。
 莫大な補助金を支払い続ける日本政府。

 匿名ながら多くのインタビューが記載されており、復帰40年を迎えた今も沖縄では様々な考え方や立場が交錯している様子が窺えます。
 沖縄問題を考えるとき、どうしても「大きい」声に耳がいってしまいますが、いわゆる「声なき声」も傾聴しなければならないことを改めて認識したところ。

 また、ある地方議員が言った次のようなことが印象に残りました。
 「今の日本政府は沖縄のことを知らなすぎる。戦争被害者と米軍基地というカードを切られると、すぐに沖縄を聖域化して何も言えなくなってしまう。沖縄はそれを見透かしているということ。」
 「沖縄自身も、そろそろ自ら被害者意識の呪縛を解き放つべきだ。真の復帰は被害者意識を取り除くことから始まる。」
 厳しい指摘。だがそれだって、言うは易しという考え方もあるわけで、そう一筋縄ではいかないところが沖縄問題たる所以なのでしょう。


 1979年に発刊されたものの1992年の第3刷を、古書店から入手しました。

 戦争中、当時日本の植民地だった朝鮮から多くの若い女性たちが「女子挺身隊」の美名のもとに駆り出され、中国・東南アジア・沖縄などで「従軍慰安婦」にさせられたと言われています。
 日本軍兵士を「慰安」した彼女たちは、過労・性病・戦火などで望郷の思いを抱いたまま、戦地で空しく朽ち果てていきました。運よく生き残った人たちも、自分の過去を他人に漏らすことなく、日本や韓国の都市や農村でひっそりと暮らし、やがて死んでいきます。

 著者は、このままでは従軍慰安婦たちが歴史の闇の中に消え去ってしまうと危惧し、記録映画「沖縄のハルモニ――証言・従軍慰安婦」を制作します。
 その際に割愛せざるを得なかった多くの証言を、追加取材とともに収録したのがこの本で、沖縄のある集落にひっそりと暮らしていた朴ハルモニのインタビューの状況をそのまま掲載しています。
 その一部を引用すると、次のよう。

 酔っぱらっているから、もう恥ずかしいかなんか、わからんさね。4名でこれ全部飲んだよ。だからもう酔っぱらってた。
 酔っぱらったその晩に、将校だったかね、私と泊まったよ。それで金はもらったさね。日曜にみんな兵隊がくるときは、兵隊が帳場に金払って、このキップをもってきて、女に渡して遊ぶさ。
 それで、このへいぜいはね、将校なんかくるときは、この金は女に払って、この金を帳場にもっていくさ。
 それで酔っぱらってね、将校だったかね、隊長だったかね、私と遊んだよ。それで金もらったのは、これはっきり覚えている。覚えているがね、朝起きてね、この金をどこにおいたかぜんぜん・・・。

 大日本帝国の軍隊が管理売春をやっていた事実を強調したいために「大日本売春史」という副題を付けたというのですが、これは少しやりすぎでしょうか。
 あくまでも一人の従軍慰安婦の生い立ちから現在(当時)までの貴重な証言という位置づけのものです。
 人間の一生が国家権力によってこのように捻じ曲げられてしまうことに、我々は深く思いを致すべきです。


 琉球王権の成立の謎に迫る、谷川健一・折口信夫の両巨匠の論評本というので、購入。

 第一尚氏王権の発祥について、折口信夫は「琉球国王の出自」という論文の中で、肥後佐敷の名和氏の残党が、沖縄本島の東南海岸の佐敷あたりに最初の根拠地を築いたとする仮説を展開しています。
 谷川健一の生まれ育った郷里である熊本県水俣市は、その折口説に縁由があります。水俣市の大字浜には為朝が琉球に向けて船出したという伝説が残っており、船津という漁業集落には為朝を祀る祠もあったそうです。
 水俣のすぐ北には佐敷がありその北が八代ですが、折口は、「おもろさうし」にみられる「やまと やしろ」という対句表現は、「やまと」は薩摩であり「やしろ」は肥後の八代ではないかと述べています。

 収録内容は、谷川健一については「「琉球王国の出自」をめぐって」として、「日琉交易と日宋貿易」(初出「日琉交易の黎明」森話社、2008)、「英祖王と高麗・南宋」(書き下ろし)、「「琉球王国の出自」をめぐって」(同「国学院雑誌」第79巻第11号、1978)、「やまと・やしろ――薩摩と肥後八代」(同「青と白の幻想」三一書房、1979)の4編。
 証明こそできませんがかなり確からしいと思える材料が提示されており、古代琉球を考える上で大いに参考になります。

 折口信夫については、谷川の論考のベースとなった「琉球王国の出自――佐敷尚氏・伊平屋尚氏の関係の推測」(初出・伊波普猷還暦記念論文集「南島論叢」沖縄日報社、1937)を新字・新文体にしたものが掲載されています。
 しかしこれが読みづらく、よく理解できませんでした。わずか70数年前の文章ではありますが、自分にとってはもはや古文のように感じられます。


 表紙は、高嶺剛が1985年に撮った「パラダイスビュー」のワンシーン。
 2007年に明治学院大学で開催された「沖縄から世界を見る」というシンポジウムで発表された原稿を改訂してまとめた論文集で、一部書き下ろしを含んでいます。

 この本の意図としては、観光的な眼差しのもとでステレオタイプな映像で紹介されている「沖縄」について、沖縄をめぐるもうひとつの、より多元的で歴史的な音と映像を提示して分析すること、だったようです。
 その意図は十分に達せられているかのような印象を受けますが、どちらかというと各論が多く、「沖縄映画論」といえるような総合的、総論的なものになっているかについてはやや疑問。

 そもそも「沖縄映画」とは何か、どこまでを「沖縄映画」として扱うのか、という点一つにしても定義的なものは見つけにくく、編者たちも悩んだようで、そのあたりについてははじめの章の「沖縄映画をいかに語るか」(四方田犬彦)に記されています。
 しかし、沖縄映画はひとつのくくりとして語る意義はあると思います。2003年、山形国際ドキュメンタリー映画祭で、沖縄に関連する80本ほどの映画、フィルム、ビデオを市内の映画館で一週間にわたって一挙に上映するという「沖縄特集」が組まれましたが、沖縄映画を語る上ではこのイベントが出色の話題だったのではないでしょうか。

 章立てとしては、上記のほか、
「「八月十五夜の茶屋」論 米軍沖縄統治とクイア・ポリティクス」(新城郁夫)、
「「ひめゆりの塔」 対立する二つの声の狭間で」(崔盛旭)、
「生きてるうちが、野良犬 森崎東と沖縄人ディアスボラ」(四方田犬彦)、
「ボーダー映画としての沖縄映画 高嶺剛作品を中心に」(越川芳明)、
「裏返すこと、表返すこと 1999年以降の沖縄の表象」(大嶺沙和)、
「アチェの友人への手紙」(四方田犬彦)、
「地政学的想像力と暴力の審級 「海燕ジョーの奇跡」をめぐる累進する〈南〉」(仲里効)、
パネルディスカッション「沖縄から世界を見る」(東琢磨、仲里効、大嶺沙和、越川芳明、新城郁夫、高嶺剛、司会・四方田犬彦)。

 巻末には1920年代以降の「沖縄関連映像作品リスト」が27ページにわたって付いています。
 全317ページですが、分厚い本でした。