仲泊遺跡の標柱の至近に恩納村博物館があるので、ちょいと寄ってみました。入館料100円だしね。
 2階にある受付に顔を出すと、若い男性職員が言うには、ご覧になっていただくのはうれしいのですがあいにく冷房が故障していまして・・・と。うぅ、なんとっ! 山道を上り下りした後なのでなかば涼みに来たようなものなのに。
 でも、じゃあ結構というわけにもいかず、あちこちに扇風機を設置してある展示室をうろうろと。

 という具合なので、何を見ても身につかず。
 海と山に囲まれた恩納村の人々の暮らしを紹介しており、「恩納のくらし」をテーマにした民俗展示室、「恩納のみち」をテーマにした歴史展示室、「神々が護る村(シマ)」をテーマにした祭りや行事の展示室などがありましたが、事実上スルーしただけでしたかねぇ。
 また今度、雨の日にでもじっくりと見ることにしましょうね。
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 では、その隣にある「おんなの駅」なら多少涼しいのではと考え、そこにも寄ってみました。
 「なかゆくい市場 おんなの駅」は、2004年にオープンした恩納村の農水産物販売センター。
 数百名の登録生産農家が新鮮な地物をここで販売しているといい、年間入客数が60万人超という産直施設の成功例。この日も大勢の客でにぎわっていました。

 産直のほかにもいろいろな食べ物の店があり、人々は施設内のテーブルに陣取ってあれやこれやを食べていました。
 でもちょっと・・・、涼むどころではないかなぁ。大勢の人がいるというだけで暑苦しい。うむ、場違いであった。
 というわけで、早々に退散。

 しかし、「おんなの駅」とはいいネーミングではないか。こことは別の店ですが、ゴッバチの旧道を走ると「おんな売店」なんていう看板もあり、一瞬なにを売っているのだろうか?などと虚を突かれたりします。(笑)


 さて、そろそろ闘牛場のある石川に向かおう。今日の午後はうるま市石川の多目的ドームで夏の全島闘牛大会を見ることにしているのだ。
 で、それはいったん見始めると15時を過ぎてしまう。なので、少し早いが、石川でメシを食べてしまおう。

 ということで、石川での昼食どころとしてチョイスしたのは、「石川漁業婦人直売店」。
 漁港施設の一角にある平屋の古い建物で海鮮料理を提供している店で、味とボリュームがいいと以前からその名は聞いていたので。

 当初は千円超の、魚汁やかに汁、イカ汁などとにぎり寿司のセットものでもと考えていましたが、この日はめずらしく朝食をとっているのでそこまでは身体が欲していない。カウンターの席についてそれではどうしようかと周辺を眺めると、「おすすめ!!メニュー」として魚バター焼き・ゆし豆腐セット、まぐろみそあえ、カニソバ・にぎり寿しなどに混じってフライ定食850円がある。値段からすればこれが比較的量が少ないのだろうと判断して、これにしてみました。

 だが、ここは沖縄。そうは問屋が卸してはくれず・・・。
 登場したものを見て仰天。またもやカメーカメーの嵐。
 フライは白身魚、鯵、海老2、牡蠣2。それにポテサラとサザンドレッシングのキャベツ、ゆし豆腐の味噌汁。これは海の幸の沖縄Aランチだな。
 美味いので全部平らげたけど、このあたりから今回の旅は食べ過ぎ傾向になってきたのだった。
 とりわけゆし豆腐の味噌汁はおいしく、胃の腑に沁みたな。

 食事中、テレビでは高校野球の沖縄尚学と京都福知山成美の一戦を放送しており、店で食事をしていた地元のおっちゃんたちが盛り上がっていました。福知山成美の投手は仲村渠(なかんだかり)といい、この選手もおそらくは沖縄関係者。結果は、8-7で沖縄尚学が勝ったらしい。


 目一杯腹がくちくなって、石川多目的ドームへと向かいます。闘牛を見るのって久しぶりだが、今回が何回目なのかな。2ケタまではいかないにしても、6~7回目ぐらいにはなろうか。
 闘牛場はグスク内や集落のはずれに擂鉢型の広場に柵をつけただけのような形で存在するのが一般的ですが、ここはすごい。屋根付きだし、観客席も広い。
 ここに来るのは2回目なので場の状況などはわかっているつもり。だが、忘れていたことが一つあった。駐車場が少ないのだ。そこはすでに満杯。だいぶ離れた農道に車を停めて、会場入りしたころには10番の取り組みのうち3番が終わっていました。

 今回の大会は、中量級と軽量級の全島一優勝旗争奪戦の2枚看板なので、観客も多く盛り上がっていました。
 かつては30分を超える長い闘いがずらりと続いた気がするのですが、今回は長くても20分程度。闘牛もスピード化が進行しているのかもしれません。

 詳しくは、後援の沖縄タイムス、共催の琉球新報の報道を引用しておきましょう。以下、引用。

・ハヤテは3度目の防衛成る 夏の全島闘牛、迫力場面連発 (沖縄タイムス)
 平成25年夏の全島闘牛大会(主催:県闘牛組合連合会、後援・沖縄タイムス社)が11日午後1時からうるま市石川多目的ドームで行われた。
 中量級(970kg以下)と軽量級(850kg以下)のダブルタイトルマッチが行われるビッグイベントとあって、県内各地からの闘牛ファンや観光客など約2,000人がつめかけた。主催者、来賓のあいさつなど恒例のセレモニーの後に対戦の火ぶたが切られた。次々に10組の熱戦が繰り広げられ、迫力場面続出となった。その都度場内は大歓声に包まれ、観客は延々2時間にわたって闘牛のだいご味をたっぷりと堪能した。
 注目のタイトルマッチ(中量級、軽量級全島一優勝旗争奪戦)の結果は、中量級チャンピオンの闘将ハヤテが3度目の防衛を果たしたが、軽量級は挑戦牛の琉仁謝名親方がチャンピオン嘉良来亥背白を激戦の末に下し、新チャンピオンとなった。

 軽量級は大方の予想を覆す決着。下馬評で優位に立っていた背白が親方のガン角(水平に湾曲し、攻め、守り両方で威力を持つ)に前進を阻まれる展開となり、戦いは終始親方のペースで進んだ。背白の額、顔面に親方の鋭いガン角がピタリと吸い付くように当たり、押して出るのはほとんど親方。背白は防戦一方となり、次第にスタミナを失くしていった。
 対戦開始15分過ぎからは場内のあちこちでざわめきが起き始めたが、背白の粘りに期待する観客の声援も出て、両牛まさに死闘の様相となった。18分過ぎ、最後の力を振り絞るように親方が押して出ると、背白が組み合っていた頭を一瞬放し、一呼吸置くや否や脱兎のごとく敗走。これを猛追した親方が柵際で豪快な腹取り一発を炸裂させ、勝負を決めた。前場所黒星だった親方が大劣勢を覆す形で見事な王座奪取となった。

 中量級はハヤテの圧勝劇。破竹の7戦全勝の勢いからタイトル防衛が有力視されていたが、予想を上回る大勝だった。対戦開始早々から自信満々で力強く前進を始めたハヤテの気迫に押され、挑戦牛の古堅モータース喜神はたじたじ。対戦開始2分過ぎ、ハヤテが左から角を打ち込むように強烈なカケ押しに出ると喜神はあっという間に柵際に押し込まれた。間髪を入れず、ハヤテが爆発的な腹取りを叩き込むと、喜神は高々と担ぎ上げられ、一瞬にして勝負に幕が降りた。ハヤテのすさまじい電撃速攻に観客は度肝を抜かれたように唖然。大きなどよめきが起き、ハヤテの強さに感嘆の声しきりだった。

 今大会もっとも人気を集めた7番戦は、だだ吉優輝が泰貴笑軍に粘る展開を許さず、文句なしの腹取りを決め9分余で完勝した。

夏の全島闘牛大会
 中量級全島一:闘将ハヤテ
 軽量級全島一:琉仁謝名親方
 殊勲賞:あみひろ号
 敢闘賞:川風三銃士
 技能賞:だだ吉優輝

対戦結果 (左側が勝牛)
  牛 名      対戦時間     牛 名
 闘将ハヤテ      2分25秒   古堅モータース喜神
 琉仁謝名親方   19分11秒   嘉良来亥背白
 けんたろう      2分54秒   一心力
 あみひろ号      4分19秒   隆羽白鵬
 梨夢神        3分11秒   独眼竜正宗
 川風三銃士    11分47秒   大福武武
 だだ吉優輝      9分03秒   泰貴笑軍
 徳田若力       1分38秒   風神帝王
 不動心       12分54秒   れもん壱瑠
 雷神勇志パンダ   8分46秒   琉球朱雀


・力と技激突 夏の全島闘牛大会 (琉球新報)
 沖縄闘牛界の中量級(970キロ以下)と軽量級(850キロ以下)の最強牛を決める夏の全島闘牛大会(県闘牛組合連合会主催、琉球新報社共催)が11日、うるま市石川多目的ドームで開かれた。
 軽量級で新王者・琉仁謝名親方が誕生し、北部闘牛組合に初めて優勝旗が渡った。中量級は闘将ハヤテが3度目の防衛に成功した。
 会場には家族連れなど多くの闘牛ファンが駆け付け、県内全域から集まった人気花形牛20頭が繰り広げる一進一退の攻防に熱い視線を注いだ。
 今大会最長の19分に及んだ軽量級優勝旗争奪戦は、挑戦牛の琉仁謝名親方が角を掛ける技を駆使し、嘉良来亥背白(からくりせじろ)を追い詰めた。最後は隙を突いた猛攻で敗走させた。
 中量級優勝旗争奪戦は、交角2分すぎ、王者・闘将ハヤテが横開きの鋭い角で挑戦牛・古堅モータース喜神の横腹を突き上げ、柵に押し付けて決着した。


 本日のメインイベントの一つを見終えて、次に向かったのは金武。夕刻からの金武町青年エイサーまつりを見るためです。

 その途中、石川にある宮森小学校に寄って、1959年に発生した米軍機墜落事故の犠牲となった児童らを慰霊する「仲良し地蔵」を見ようとしましたが、校門が閉じられていて断念。
 それから金武へ。
 金武に着いてからはウィーヌモー公園へと赴き、まずはその入り口にある「金武節の碑」を見ました。

 ウィーヌモー公園に来たのも2度目。前回は金武をうろうろしていて偶然この公園を見つけて立ち寄り、南方移民の立役者の銅像を見た記憶がありますが、入り口の碑はなんかあったなぁぐらいの記憶。それを見にわざわざまた来ることになるのだから、旅とは不思議なものだ。

 さてその金武節、碑の前面は次のとおり。

  こばや金武こばに  竹や安富祖竹  やねや瀬良垣に  張りや恩納

 その下の礎石には、その意味と解説が次のようになされていました。

・金武節
 くばは金武で取り 竹は安富祖で取り 瀬良垣では竹を細く削り 恩納でくば笠を仕上げた

 読み人知らずの金武節は、琉歌に関する古い文献から推察すると、18世紀後半より古い時代に生まれたと考えられる。
 金武を出発し安富祖、瀬良垣、恩納までの道程をくば笠作りになぞらえて歌ったものである。
 2000年建立

 また金武節は、ある伝説には、ある城が落ちた際の主従の問答に「くまや金武のくま 岳や安富祖岳、ありや瀬良垣に 走りば恩納」という道行きに起因するとも言われているのだそう。
 金武節は全部で25種あり、沖縄芝居では道行きやさびしい情景でよくうたわれています。


 前にウィーヌモー公園に来た時にはこの像を見た記憶があります。しかし、勘違いしていたようで、移民の父といわれる当山久三(1868~1910)の像だとばかり思い込んでいました。当山は金武間切並里の出身なので、当然そうなのかと。
 ところがこの像は当山久三ではなく、フィリピン移民の父・大城孝蔵の像だったことを知り、スマヌスマヌと写真撮影。

 礎石には次のように書かれています。

 沖縄のフィリピン移民は、1904(明治37)年、首都マニラと避暑地バギオを結ぶベンケット道路の過酷な工事についたのが始まりとされている。
 翌年、同工事を終えた沖縄移民たちは、大城孝蔵に引率されミンダナオ島ダバオに転航し、マニラ麻の栽培に従事する。このダバオでのマニラ麻栽培がフィリピン移民発展の契機となり、フィリピンはハワイに次ぐ第二の移民地となった。
 1938(昭和13)年4月、ダバオ沖縄県人会ではダバオ開拓の大恩人で在留同胞の先覚者たる故大城孝蔵の功績を永遠に讃える為、当時海外移民事業の拠点であった那覇市若狭の開洋会館前庭に大城孝蔵の胸像を建立した。一方、郷里の金武村では、ダバオ在日本人移民からの寄付金と村内外からの浄財をもとに大城孝蔵の銅像制作がすすめられ、1938(昭和13)年8月、石膏像による原型が完成し、金武区のウィーヌモーで除幕式を挙行している。しかしながらこの二つの像は大戦の渦の中で姿を消してしまう。
 2003(平成15)年4月17日、大城孝蔵の像再建という関係者の熱い思いを受けて、フィリピン移民関係者及び町内の関係機関によって、大城孝蔵銅像建立期成会が発足し銅像建立の準備がすすめられる。
 2004(平成16)年4月10日、沖縄移民がベンケット道路建設に出発して百年、本期成会は、大城孝蔵の偉業を顕彰し、かつて我々の同胞がフィリピンで生きた証として、過去に除幕式が行われたこの地に大城孝蔵之銅像を建立する。

 人に歴史あり。
 大城孝蔵は金武間切金武村の出身で、当山久三の教え子。なお、当山久三の像は金武町役場隣りにあるのだそうです。


 ウィーヌモーのすぐ近くに金武観音寺があるので、ついでに寄ってみたところ。ここもすでに訪れたことがあります。しかし、泡盛が貯蔵されている洞窟には入ったことなし。地下の閉鎖空間は苦手なのだ。

 当観音寺は、16世紀に日秀上人によって創建されたが、現存する観音寺は、昭和17年に再建されたものであり、建築手法は近世社寺の手法が取り入れられている。
 沖縄県下の社寺建築の多くは今次大戦で焼失したが、幸い当観音寺は戦災を免れて今日に至っており、古い建築様式をとどめた貴重な木造建築である。
 当観音寺は、昭和59年6月1日、有形文化財(建造物)に指定された。
   金武町教育委員会

 日秀上人は、16世紀前期、紀伊の国より唐を目指しましたが、遭難して琉球王国金武のフナヤ(富花港)に流れ着き、その後、金武の鍾乳洞を拠点として布教活動を行い、観音寺を創建したと伝えられる人物です。その時に拠点とした鍾乳洞が、現在は泡盛の酒蔵として利用されているというわけなのですね。
 なお、沖縄にエイサーを伝えたのは袋中上人です。
 金武町青年エイサーまつり いったん国道329号沿いにあるマックスバリュでクーラーの恩恵に浴し、78円也のソフトクリームを食べてから、金武地区公園に向かいました。ここで第14回金武町青年エイサーまつりを見ます。やはり沖縄の夏はエイサーを見ないとねぇ。
 17時からの開演で、到着はその15分ぐらい前。こんどは駐車もスムーズです。

 夕刻とはいえまだじりじりとした陽射しが注ぐ芝生に腰を落ち着けて開演を待っていると、予定時刻を5分以上過ぎて始まりました。



 トップバッターは金武区青年会。
 昭和35年頃に喜瀬武原(きせんばる)や金武町伊保原(いーふばる)から伝わった形をペースとし、大太鼓・締太鼓・鐘(キンキン)・手踊りで構成されるスタイル。
 曲目は、仲順流り~スーリー東節~久高節(クーダーカー)~馬山川(石垣島の真謝節)~具志堅小唄~あやぐ節~ケーヒットゥリ節~テンヨー節~唐船ドーイ。
 人数もそれなりにそろっていて、まあまあか。
 このあたりのエイサーは鐘が入るのだな。

 2番手は、伊芸区青年会。19歳から29歳までの会員と高校生の準会員で構成されているとのことですが、金武区よりも人口自体が少ないこともあってか、わりと少人数の編成。
 こちらも鐘が入って、日の丸の扇子を手にした男性の手踊りが8~9人。反面、女性の手踊りが5人と少なく、覇気が感じられません。それはフェーシ(囃子)の声が少ないからで、声を出さずに踊っているから。
 また、女性は髪を束ねず長く垂らしたままというのも本当ではない。そういうところに単なる仲良しクラブ的なものが見えてしまう。エイサーを見る人々の目も年々肥えてきているからね。
 秋の踊りのイントロから入って(このあたり、平敷屋方面のエイサーを連想させます)、継親念仏に近い仲順流り~久高マンジュ主~かなり編曲の入った安里屋ユンタ~イチュビ小~これも編曲たっぷりのスーリ東節~ケーヒットゥリ節~テンヨー節~唐船ドーイ。
 う~ん、もうひとがんばり。

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 3番手に登場するのはこれも地元、中川区青年会。
 もともと銀原(ぎんばる)エイサーと言われる130年の歴史があり、当初は太鼓が3個だけで他はすべて手踊りだったそう。
 男性は黄色のサージが独特で、女性はピンクのウシンチーに赤の帯で華やか。先ほどの団体と異なり、女性はみんな結髪だ。もうそれだけで期待度は高い。
 演奏の特徴は、締太鼓でもパーランク―でもない、デンデン太鼓のようなウスデークを用いていること。これを使っているのは県内団体多しといえどもここだけらしい。
 思ったとおり演舞はかなり統制がとれていてレベルが高い。3団体目に至って初めてドリル演舞が加わり見応えがあった。
 今年は新宿エイサーまつりに参加し、さらには近く開催される全島エイサーまつりに初出場するのだという。相当練習を積んでいると見た。
 演目は、秋の踊り~仲順流り~久高まんじゅう主~今帰仁城節~テンヨー節~いちゅび小~通い舟~スーリ東~あやぐ節~サーミーヨー節~唐船ドーイ。

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 続いては、招待団体の恩納村名嘉真二才中。
 150年以上の歴史を持つ伝統エイサーで、かつては門外不出といわれ、村外に出たのはこれが3回目、前回は7年前でその前は半世紀ほど遡るのだそう。また、エイサーの原点である手踊りエイサーの名護から、最初に太鼓が入ったのが名嘉真エイサーと言われているそうで、これはいいものが見られたという印象。
 大円形に展開し、パーランクーを回転させながら撫でるように打ち鳴らす独特の叩き方がステキ。また、地方(じかた)のリーダーが三線といい声といい非常によく、聴き惚れることしきり。知名定男の声に似ている。今回の旅は知名似によく出会うな。それにしてもこれ、完全に地元団体を喰っているぞ。
 演目も極めて独創的。武富節に始まって、イニ刈節~親の遺言~スーリ上り節~かいされー的曲調の十七八節~伊集のがまくぐわ節~ひじ小節~飛行機節~ハワイ節~夜業節~久高万寿主~伊計離り節~鳩間節~これもかいされー調の六角堂。どうです、フツーとまったく違うでしょ。
 いやはや、演舞時間もたっぷりあってサイコーですな。
 次も招待団体の読谷村楚辺青年会。日が暮れてきたのでこのあたりから写真撮影が厳しくなる。楚辺青年会の演舞は以前どこかで見たことがあり、目新しさはない。なので写真もまあいいかといった感じ。
 男性は白の上下に黒い半纏を羽織り、黄色のサージを腰に巻き、足元は脚絆。女性は白基調に青い模様のある浴衣姿で水色の帯。赤のたすき掛けで頭は手ぬぐいの姉さんかぶり、足元には赤い島ゾーリを引っかけています。
 大太鼓が2個と少なく、締太鼓も4人のみ、あとの多くは手踊りで、いわゆるモーイエイサー。男性は空手の型を取り入れて踊ります。
 演目は、久高マンジュー主~ナムアミダブチャー・・・の言葉が入る念仏~スーリー東~七月ヌ~トゥータンガーニー~イチャビ小節~テンヨー節~今帰仁節(ヒヤルガヘイ)~作田ぬ米~唐船ドーイ。前の団体が長かったせいか、予定された演目を一部カットしていたようです。



 次は地元、屋嘉区青年会。屋嘉区のエイサーは昭和7年頃から始まるとされ、当時屋嘉村に日雇労働をしながら住み着いていた越来出身の大工廻(だくじゃく)ジットゥという人から越来エイサーの指導を受けたと言われているのだそう。
 花笠を被った地方が3人、ここも演舞に鐘が入り、女性の手踊り隊は越来エイサーと同じような紺絣姿に姉さんかぶり。しかしお姉さん方、真面目に踊るのは悪いことではないが、声がほとんど出ず、覇気がない。演目の切れ目にリーダーから「元気出していくぞ~!」の声がかかるのもうなずける。
 楚辺と同様に演目も2曲カットされ、順番を大幅に変更して、仲順節~久高まんじゅう主~スーリ東節~伊集ヌガマク小節~汗水節~根引加那よー節~あやぐ節~トウタンガーニ節~サイヨー節。
 ん~・・・もう一息。
 次は北谷町栄口区青年会。ここは今回の参加団体中いちばんの実力派。大人数による一糸乱れぬ隊形がすばらしく、エイサーに取り組む姿勢が他団体とは違うなぁと思わせます。
 個々の演舞者は、足の上げ方が高々としており、太鼓のバチさばきも後頭部の上から打ち下ろすダイナミックさがあり、躍動感たっぷり。これだけ続けて演舞して身体は大丈夫なのかと思うほどで、運動量にすれば他団体の3倍ぐらいはあるのではないか。
 写真のとおり大太鼓も大勢いますが、締太鼓の数がすごく、音量的にも他を圧倒していました。
 1980年の町制施行時に旧謝苅(じゃーがる)一区から引き継いだエイサーで、徳里隆という当時のリーダーが入場曲としてあのゆったりとした「栄口節」を加えたそう。
 その栄口節から始まって、エイサー節(仲順流り)~久高節~花ぬカジマヤー~スンサーミー~スーリ東~サフエン節~越来ヨー~九年母木節~唐船ドーイ。このラインナップはCD「エイサー DE スリサーサー」(2006 リスペクトレコード)とほぼ同じでした。
 いやあ、ホレボレ。凄い!の一言ですな。



 最後は地元の並里青年会。1913年に誕生したという歴史ある青年会。戦後すぐの頃ヤードゥイ部落だった伊保原(イーフバル)から伝授されたエイサーに、並里独特の振付と曲を加えて現在に至っているそうです。先だっては山形の長井まつりにも参加してくれたのだそう。
 女性手踊り隊のエメラルドグリーンの衣装はインプレッシヴで、えんじのと黄色の2本の帯に赤いたすき、白の姉さんかぶりというふうに彩りを添えて舞います。
 演目は、スローテンポの貫花からスタートして、七月七日(仲順流り)~スーリ東~久高マンジュウ主~馬山川(真謝節)~通い船~いちゅび小~テンヨー節。
 最後に唐船ドーイをやる頃に、一人早めに撤収開始。このあとはみんなでカチャーシーをやって花火がドドン!というのが恒例。もう21時をとっくに過ぎているし、帰宅者たちの渋滞にはまるのもいやなのでということで。

 たっぷり4時間以上、目の前で踊られるエイサーを楽しませてもらいました。
 このあとは自動車道を使ってコザへと戻り、途中部屋飲みの品々を買って、22時過ぎにホテルに帰還。モスクワで開かれている世界陸上をテレビで見ながら遅くまで寛ぎました。

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 旅の3日目となる8月12日。この日は名護泊となるので、デイゴホテルを9時半にチェックアウト。
 コザを去るに当たって見ておきたいところがありました。それは、普久原朝喜の顕彰碑です。
 壮年以上の沖縄県民や沖縄音楽史に詳しいヤマトンチュに普久原朝喜を知らない人はいないでしょうが、一応解説しておくと・・・。
 昭和時代の民謡歌手で、1903年越来村字照屋の生まれ。幼少の頃からジンブナーで働き者。17歳の時にはすでに三線の名手として知られ、馬車持ちゃーをして各地をうたい歩く。1923年に大阪に出稼ぎに出て、紡績工場に勤める。1927年、大阪でマルフクレコードを設立。多くの琉球民謡を吹き込み、「チコンキー(蓄音機)フクバル」の愛称で親しまれた。作詞・作曲も手がけ、代表作に「移民小唄」「軍人節」「懐かしき故郷」など。1981年、77歳で死去。ちなみに「芭蕉布」を作曲した普久原恒勇は、生まれてすぐから朝喜の養子になった人物です。

 この顕彰碑は1993年、普久原朝喜生誕90年を記念して、沖縄市「沖縄こどもの国」に建立されたもの。メインゲート手前に堂々と聳え立っていました。

 前述したものと重なる部分がありますが、碑の裏側に記されていた内容を移記しておきます。

 普久原朝喜氏は1903年越来村(現沖縄市)に生まれ、三絃の弾き手として名声を得、弱冠21歳で大阪に渡りレコードを吹き込む。
 1926年マルフクレコードを創立、琉球音楽、芸能全般に亘り名人上手の芸をレコードに収録、県内外多くの沖縄人の苦難の時代の心の支えになり、人々から「チコンキーふくばる」の尊称で呼ばれました。
 普久原朝喜氏によって琉球民謡の「形」が完成され、沖縄民謡の祖として、その作風は現在の沖縄民謡に受け継がれています。
 この顕彰碑は多くの県民と関西在住「朝喜」「京子」門下諸氏の御協力により建立しました。
 1981年10月20日没 享年79歳
 普久原朝喜代表作
  軍人節、物知り節、移民小唄、懐かしき故郷、無情の唄、ハワイ節、通い船、果報節 他
 1993年10月吉日 建立

 年齢などが微妙に違うのは満か数えかの違いでしょう。
 また、碑の下部には、

  夢に見る沖縄  元姿やすが
  音に訊く沖縄  変わてないらぬ
  行ちぼしゃや  生り島

 という「懐かしき故郷」の一節が刻まれていました。


 次に訪れたのは、知名定繁顕彰碑。
 うるま市川田交差点の北西角地にありました。これまたウチナーンチュなら知らぬ人はないであろう沖縄民謡界の大御所、知名定繁の顕彰碑で、定繁生誕の地に2005年7月に建立されたものです。
 知名定繁は、1916年具志川村大田(現うるま市川田112番地)生まれ。県下有数の毛遊び・歌遊びの地だけに、幼少の頃から歌三絃に長じる。初等学校高等科を卒業し、家業のサトウキビ作りをしながら10代を過ごすが、夜ともなれば近隣の若者たちとともに村はずれの通称「かんとうしー」界隈に集まり、青春を謳歌。
 しかし、昭和10年代に入り日本は戦争へ。定繁は「全国一の貧乏県」と言われた沖縄を離れ、尼崎へ。そこで普久原朝喜と運命的な出会いを果たす。同郷のよしみで知り合った二人は、刺激しあって演奏活動をする傍ら、創作に勤しむ。ここで、定繁の歌三絃の資質は一挙に開花したという。
 知名定男はその息子で、彼もまた川田のワラバーとしてここで育つ。

 情歌「門たんかー」、別名「具志川小唄」の歌詞を刻んだトラバーチン石が左右に配置されて、その真ん中に顔入りの顕彰碑が屹立しています。
 敷地内にはそれとは別の石碑があり、右側に知名定繁氏の経歴などの解説、左側に上原直彦の沖縄民謡への想いが書かれていました。
 入口正面にはシーサーが載った門があり、敷地内にはいくつかのベンチも。ここはかつて、定繁一家の家があったのだろうな。

 まずは右側の知名定繁の碑「門たんかー」を移記。

 「門たんかー」は、知名定繁作品百節を代表する節名である。
 知名定繁は、大正5年、具志川村大田(現うるま市川田112番地)に生まれた。幼少にして歌三絃をよくし、仲喜洲尋常高等小学校高等科を卒業。20歳に関西へ。その間、琉球民謡の重鎮普久原朝喜と共に演奏活動をする傍ら創作に勤しんだ。昭和32年帰郷。
 知名定繁は、琉球筝曲、殊に湛水流工工四編纂に深く関わり、その発刊の序文に、古典音楽家池宮喜輝師(明治19年~昭和42年)は、概要、次のように記している。
 「昭和15年、湛水流師範中村孟順、古典音楽研究者世礼国男共著『声楽譜附工工四』の出現をみたが、今度更に中村孟順、箏研究家知名定繁両氏によって、湛水流筝曲工工四の上梓を見たことは、同流保存発展上、欣快に堪えない。中村・知名両氏は、筝曲工工四の原案が出来上がるや、その調閲を池宮喜輝、幸地亀千代両氏と演奏。最良と判断し発刊に至った。」
 知名定繁氏の作品は、一般に「定繁ぶし」と言われ、弟子筋のみならず、愛好者の定本となっている。また、人をそらさない人柄、語るような歌唱は聞く人の心をとらえてはなさず、代表作「門たんかー」と共に、その名も永遠に人々の心に刻まれるであろう。平成5年7月24日没。享年77才。
  平成17年7月17日
  知名定繁歌碑建立期成会

 次に、左側、上原直彦による文章を移記。

 歌は祈りに始まった。琉球が国の形態を成したころ、まだ、神の力を借りなければならなかった。人々は神との一体感を切望し、歌にすべてを託してきた。したがって、この島の歌は地上の人間と天上の神との間にある唯一の言葉と言えよう。
 神とは天・地。そして、そこにある生きとし生けるものをさし、人々は常に神と対話しながら命を全うしてきた。やがて祈りは、具体的に祭祀音楽となり、諸行事の中心に置かれた。さらに時を経て三絃が定着。それは、ふたつの流れになって、いまに続いている。ひとつは、宮廷に入って「古典音楽」となり、片や庶民の生活に密着「里うた・島うた」となって、人々の喜怒哀楽を写し出してきた。
 琉球は、洋の東西からの絶好の中継地にあり、さまざまな異文化が入ってきた。人々は戸惑いながらも、それらを受け入れてきた。そして、それらを自分たちの実生活に活用できるよう見事に再創造してきたのである。いかなる外的圧力も、表面上は受け入れながらも、根源にある琉球の魂だけは喪失せず、むしろ、前向きに「蘇生」することを忘れなかった。この精神力は、唐ぬ世・大和ぬ世・アメリカ世を経ても色褪せることなく、今日に生きている。
 いかに世の中が複雑化の変遷をしようとも、大自然の神との一体感を願望しつつ、先人たちの遺産「祈りとしての歌」を忘却しない限り、この島の「うた」は永遠である。


 知名定繁顕彰碑を見たあとは、同じうるま市の具志川小学校近くにある「浜千鳥の歌碑」を見に行きました。「浜千鳥節」は琉球舞踊の代表曲として有名です。これって、旧具志川の歌だったのですね。
 金武湾入口から具志川小学校方面に下り、小学校の前を海辺に下りて左折、海岸沿いの道をしばらく進むと右手に浜千鳥節の歌碑が見える――というので行ってみたのですが、なぜか発見できず。近くを何度かウロウロして、結局断念です。
 ではまあ、次の目的地の辺野古に向かおうか。
 ということで、いったん国道329号に戻り、これを一路辺野古へ。

 で、辺野古に着いて正午を回ったので、「まるみつ食堂」という店で昼食タイム。
 飛び入りではありません。入念な事前リサーチの結果選んだ店です。
 比較的新しいような、沖縄にしては小ぎれいな店舗。けっこう繁盛しています。
 身体が汁物を求めていると直感し、「みそ汁」600円をチョイス。
 どうですか、御飯茶碗と比べると味噌汁のどんぶりがデカイでしょ。ポークも豚肉も入ったみそ汁は胃の腑に沁みてとてもおいしかったですよ。
 辺野古にもいい店はあった!ということ。沖縄の大衆食堂はとにかくサービス精神が旺盛で、奥が深い。
 地元の中学生などが寄り道をしていわゆる「冷し物」を買い求め、店の前で一休みしている姿が見られました。


 辺野古を訪れたのは、辺野古のテント村の様子などを見るため。
 漁港の先にある海辺を東側に歩いていくと、ご覧のような鉄柵があり、ここから先はキャンプ・シュワブの敷地となっていて日本人は入れません。
 「ちゅらうみに基地いらん」「オスプレイ NO!」「美しい辺野古をそのままに」「OSPRAY GO HOME」「世界のどこにも基地はいらない」「すべての軍用機を飛ばさないで」などと書かれた幕がたくさん張りめぐらされていました。

 こんなきれいな海岸にこのような無骨な鉄柵が延々と山の中まで続いていること自体が不可思議な光景だと思う。この圧倒的な自然の美しさ中では、人工構造物の持つエゴ、矛盾などが際立って見えてきます。何をやっているのだろうなあ、人間たちは。

 この海岸の少し手前、漁港の奥の道沿いに、海上ヘリ基地建設反対・平和と名護市政民主化を求める協議会(ヘリ基地建設阻止協議会)が設置するテント村がありました。真っ昼間の時間帯だからなのか、テント村には座り込んでいる人はおろか、誰もいない様子でした。
 テント脇の黄色い看板には、次のように書かれていました。

・ヘリ基地建設阻止協議会(命を守る会)
 私たちは、辺野古に新しいへり基地を造らさない
 私たちは、静かで豊かな生活環境の破壊を許しません
 私たちは、ジュゴンの住む豊かな海を守ります
 私たちは、MVオスプレイの沖縄配備を許しません
 私たちは、大切な自然を子や孫に引き継ぎます

 うむ。端的で、なかなか説得力のあるスローガンではないか。

 その後、辺野古の町内を歩いてみるつもりでいましたが、集落の小ささを知ってしまうと、そこまでやろうという気も失せてしまいました。こんな小さな集落が、一時は米兵のまき散らす金で虚飾の栄華を極め、そして衰退していったのだと思うと、ちょっぴり儚い気持ちになります。車でくるりと一回りして次に向かうことにしました。


 2011年3月に開通したという二見バイパスから旧国道へと入り、大浦湾を少し走ったところにある二見区コミュニティセンター・二見公民館敷地内に歌碑はありました。

 「二見情話」は、沖縄戦で沖縄北部に避難していた照屋朝敏氏が、世話になった二見の自然と人情を讃えて作ったとされるもので、悲しげな歌ではあるけれど覚えやすい旋律の名曲です。
 戦後の収容所生活で生まれた「屋嘉節」が新作島唄の第一号だとすれば、この「二見情話」は当時の庶民のハートをがっちりとつかんだ人気ナンバーワンのミーウタといえるもので、今では「二見情話大会」が名護の桜祭りのイベントとして定着しています。

 さてその歌碑、上の石には次のように歌詞が刻まれています。

・二見情話
 一 二見美童や だんじゅ肝清らさ 海山ぬ眺み 他所に勝てヨ
 二 二見村嫁や ないぶさやあしが 辺野古崎枝ぬ 上い下いヨ
 三 待ちかにて居たる 首里上いやしが 出発ちゅる際や 別りぐりさヨ
 四 行かい行じ来よと 交すいくとばや ぬがし肝内に 思い残ちヨ
 五 戦場ぬ哀り 何時か忘りゆら 忘りがたなさや 花ぬ二見ヨ
  昭和20年11月
  作、詩曲 照屋朝敏 直筆

 また、下の台座には、次のような二見情話の背景が書かれています。

 「敗残兵の一斉掃射をするから民間投降者は非難せよ」
 沖縄戦が集結した昭和20年6月20日、米軍の命令により、私は他の投降者と共に摩文仁から与那原に出、海路、大浦崎を経て二見に移動した。村民は心よく迎え入れ、皆、安堵した。
 相互扶助の生活が日々、顕著になった或日、村長事務所で年長者会議があり、席上二見の歌の創作要請を受け2ヶ月後に完成したのが「二見情話」。
 これは、平和祈念と二見の人々への命からなる感謝を込めた御礼のメッセージでもある。
  平成2年7月吉日
  元二見村長 照屋朝敏

 大浦湾のさざ波がやさしくたゆたう、静かで落ち着いた風情のある集落でした。きっと人情も、情話にあるように厚いのだろうな。

 歌碑を見た後に旧道を走ると、集落内の一部道路を使って「二見情話ミュージックライン」というものがつくられていました。車で通ると、路面に刻んだ溝とタイヤの接触音が「二見情話」の旋律となって聴こえる――というもので、非常にユニーク。確かに二見情話が聴こえてきます。2012年11月にできたものだそうです。


 続いては、汀間当(てぃまとう)の歌碑を見るべく汀間(てぃま)へ。
 「汀間当」はモーアシビ歌のひとつで、「ナークニー」のチラシなどでよくうたわれるもの。その故郷がここ汀間なのだ。

 汀間当の歌碑は2つあり、そのひとつは一大リゾートホテル、カヌチャベイ・ホテル&ヴィラズの敷地内にあります。1999年の夏、このホテルに泊まったことがあり、その時に見た記憶がうっすらとあるのですが、今回再チャレンジです。
 たしか正面玄関あたりにあったはずとの記憶は間違っており、駐車場の一角にデンと建っていました。ああ、これこれ。南側にある大浦湾を一望できる最高のロケーションです。

・汀間当
 汀間と安部境の 河下の浜うりて
 汀間の丸目カナと 請人神谷と恋の話し
 (はやし)サーアーフンヌカヤーヒャー マクトカーヤー
  平成4年12月吉日建立

 汀間村と安部村との境にある川の下の浜辺で、汀間の目もとが愛らしい娘の加那と首里から来た請人奉行の神谷が恋を語っているよ。それは本当かい。
 ――というふうに、役人と田舎娘の恋を風刺を込めてうたったモーアシビ歌。ヒロインの丸目加那は愛称で、目のぱっちりした娘の意。請人の神谷は首里鳥堀の出身で、一時汀間に派遣され、貢物の取り立てを担当していたといいます。

 あっ、いけね。カヌチャベイのほうばかりが念頭にあったので、汀間集落のほう、いわば本家の碑を通り過ぎてしまっていた。
 これはいったん戻ってそれを見てくる必要がある。やれ急げ。


 ということで、かなりの道のりを集落方向にとって返します。車だから何とでもなるけど、歩くようだったら戻れない距離だね。

 汀間公民館の隣りにはかつて御願所だったと思しき公園があって、その中に立派な碑がありました。
 碑には次のように刻まれています。

・汀間当
 汀間と安部境の 河下の浜うりて
 汀間の丸目カナと 請人神谷と恋の話し
 (はやし)サーアーフンヌカヤーヒャー マクトカーヤー

 神谷が言葉やぬんで言たが 明てぬ四、五、六月
 呼ばしがちゅんど ちとみて待ちょれ
 (はやし)サーアーデカチャンヤーヒャー 丸目カナー

 月のある間る 思いんすんどさたんすんど
 月の入り下りば 思いんさんどさたんさんど
 (はやし)サーアーユティーカンクーワ ウデマクラ

 1番はカヌチャベイのものと同じですが、こちらは2、3番もあります。
 某サイトに掲載されていた歌にまつわる物語を自分なりに整理して、以下に掲載します。

 軽快なこの歌には振付がなされ、雑踊りとして踊られている。
 汀間村の美人加那と、首里から来た侍の神谷厚詮とは恋仲。島の男には目もくれず町方の役人に憧れるそんな村娘を、村の青年たちが嫉妬、中傷してうたう内容のものとなっている。
 昔、久志間切字汀間の里に丸目カナと呼ばれている目がパッチリした美しい娘がいた。カナは村で有名な豪農の家で小間使いをしていた。ある年、首里から神谷という役人が仕事で汀間村にやってきた。カナは神谷の身の回りの世話を言いつけられ、彼の元に通うようになった。毎日顔を合わす二人の間にいつしか恋が芽生え、その恋は次第に熱くなっていった。
 神谷とカナは、村人に二人の仲を知られてしまうのをおそれ、汀間村と安部村の境にあるカヌチャの浜で密会を重ねるようになった。用心に用心を重ねた二人の密会だったが、いつしか村人の知るところとなった。
 カナに恋心をいだいていた村の青年たちはあの手この手で二人の仲を裂こうと試みるが、なかなかうまくいかない。相手が役人ゆえ力ずくではとても勝ち目がない。ここで青年たちが考え出したのは神谷とカナの恋路を歌にして、はやしたてることであった。
 これにはさすがの役人神谷もいたたまれず、カナに来年の五、六月には必ず迎えに来るからという言葉を残して首里に帰っていった。一人残されたカナは神谷の言葉を信じて迎えに来る日を待ちわびるのであるが、年が明け約束の月になっても神谷は迎えに現れず、カナは一人泣き暮すばかりであった。それを見た村人は、神谷の薄情さと、よその男にうつつを抜かしたカナの軽薄さを嘲笑したのだった。


 汀間公民館前では、盆踊りのための櫓を組む作業が行われていました。里帰りしている人たちも大勢いるのだろうな。


 カヌチャから国道331号をさらに進んで、次は東村を目指す。
 その途中、天仁屋小学校前の三叉路付近で何かの説明書きを発見。せっかくだから停まってみよう。
 ということで見つけたのは「底仁屋の御神松」。その説明書きには次のように記されていました。

・底仁屋の御神松  昭和50年9月3日指定
 この「スーナのウカミマーチ」と呼ばれるリュウキュウマツの大木は、推定樹齢220年~250年。高さは約10m、地上1mでの幹の直径は145cm、幹の周囲は455cmもあります。四方にバランスよく延びた枝は美しい樹冠をつくり、約200坪の土地をおおいます。
 その雄々しい姿に心のよりどころを求めた人々は、この松をいつしか「御神松(ウカミマーチ)」と呼ぶようになり、去った太平洋戦争時には戦地へ出兵する若者の無事を願い、この松の下で見送りました。また、涼しい木陰は稲を脱穀したり薪を割って束ねたりする仕事場でもあり、道行く人々には心地よい涼しさを与えてきました。
  松風は歴史を語る心持して (まつかぜは れきしをかたる ここちして)
  ゆかしき仁を讃え仰ぎつ  (ゆかしきひとを たたえあおぎつ)
 松の下に建つ碑に刻まれた短歌は、昭和37年(1962年)、久志村立天仁屋小中学校に校長として赴任した吉田賀盛さんが、美しい枝を持ち、雄々しく生育している老松の見事さに心を打たれ、その松を植えたゆかしき人を偲んで詠んだ歌です。
 リュウキュウマツは、琉球列島固有樹木でトカラ列島から与那国まで分布し、防風防潮林や風致林などに植えられ、材は薪炭材となります。
  平成10年(1998年)3月  天仁屋区・名護市教育委員会

 名護市指定の文化財(天然記念物)のようです。
 太平洋戦争時には出征兵士をこの松の下で見送った――というのが泣かせます。
 また、「去った」との表現は沖縄らしさが感じられます。

 後で知りましたが、天仁屋小学校は2009年に名護市立久志小学校に統合されていたようです。統合前は7人の在校生がいたようです。
 天仁屋(てにや)って、沖縄らしいステキな地名だよね。


 さて、次にやってきたのは東村村民の森つつじエコパーク。わざわざどうしてここに?
 そうなんだよねぇ、ちょっと計画に無理があったかなぁ。
 やってきた理由は、「宮里松次の歌碑」と「兼島信助漢詩碑」を見るため。しかし、このエコパーク、広いのだ。その中のどこにこの碑があるのかはわからずにやってきたわけで。
 入口にあるサービスステーションに行き、全体の地図があるかと尋ねると、目先のラックを指さしてそこそこと。別の来客を相手にしていて忙しいのだろうが、扱いがぞんざいだ。で、示されたパンフレットの地図を見るも、碑がどこにあるかの記載はない。そして中に入るには芳名帳に名前を書くようにと。
 言われるとおりにして碑の在り処を訊けばたどり着けるのだろうけど、それが遠いところだったりすると、この暑さの中を行き来するのもなんだか億劫だ。そんなことを思うと意欲は急激に減退して、この2案件については省略すべしということで決定!

 その目的物2件は、予習段階ではこんな感じだった。

・宮里松次の歌碑
 元東村村長宮里松次の詠んだ短歌を刻んだ碑。つつじの咲き誇る山々に感動してその喜びを表現している。
  山やまに 咲きほこりおる つつじ花 幾代久しく とどめおかなむ
 琉球政府の立法議員や村長を務め、村の発展のためにも尽くした人なようです。
 調べるとこの人はプロゴルファー宮里藍の祖父の兄弟で、東村村長在職中にこのつつじ園を造ったのをはじめ、パイナップルの導入など東村に多大な貢献をなされた方とのこと。このつつじ園も、在職期間中は助役を置かずその給料分で工事費を捻出し、植えつけも村内の老人会、婦人会、青年会など様々な団体がボランティアで行ったということで、まさに宮里氏と村民の手作りの公園なのだそうだ。
 東村はつつじの名所として知られ、1984年から毎年「つつじ祭り」が開かれている。

・兼島信助漢詩碑
  看東村々民の森躑躅祭
 兼島信助は元与那原村長で、長年空手道連盟の会長も務めた空手の大家としても有名なのだそう。
 沖縄県内にある文学碑の中で唯一の漢詩の碑なのだとのこと。村民の森のつつじのすばらしさを詠んだもの。

 ま、琉歌ではなく短歌と漢詩なので、見なくてもいいことにしようっと。次、いってみよう。