2013年8月10日から14日までの5日間、沖縄本島中北部を旅してきました。
 琉球弧への旅は昨年の冬以来通算45回目。一時に比べれば訪沖の頻度はかなり落ちていますが、最低毎年1度は「沖縄」を堪能しています。
 今回は、エイサーを見て、2年に一度の安田のウフシヌグを見て、ほかには夏の全島闘牛大会や民謡酒場のスターが一堂に集う「華ぬ競演」などにも顔を出し、その合い間に中北部の歌碑めぐりをする――という計画で、泊りはコザと名護。
 予報によれば、期間中の沖縄は台風も来ず、基本は晴れ。天気がよければ旅は半分以上うまくいったことになるので、これは大事。

 いつものように仙台空港から、満員のフライトで15時ごろに那覇空港に到着。この8月で10周年を迎えたゆいレールに乗っておもろまちへと向かい、DFSギャラリア内でレンタカーをゲット。
 そしてまず向かうのは沖縄市高原のケーキ店「なつのや」だ。
 ここのアップルパイを以前から狙っていて、今回は2度目の訪問となる。しかし店は閉まっている。まただめだな。予約をしようと仙台空港から何回か電話したのだけど、出なかったものな。もしかしてやめたのか?
 残念だが、ここは縁がなかったと諦めようか。

 時間は16時半近く。それにしても腹が減った。メシにしようか。
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 朝メシを食べてからは機内サービスのジュースしか口に入れていない。これも沖縄で美味いものをたっぷり食べるための準備だ。そこまでやるなんて、アホかいな。

 最寄りの沖縄そば屋で思いつくのが泡瀬にあるアワセそば食堂。よし、そこだ。
 でかい駐車場に広い店内。奥の座敷に陣取って、野菜そば中(平麺)580円を注文。
 平麺と細麺から選べるとのことで、おばちゃんにオススメを訊いたところ「こちらでは平麺からですね~」とのこと。おーし、それそれ。

 お好みに合わせて選べる細麺、平麺のほかには、8時間以上煮込んでつくるだし汁、厳選された小麦粉を使用したツルツル腰のある麺、毎日職人が作る豚肉具材などが自慢のようです。
 テレビでやっている高校野球見ながら待つこし数分。来ました来ました。

 軽く炒めたキャベツの下には大ぶりにカットしたさつま揚げがたくさん入っているなあ・・・と思ったら、それらはすべて豚の三枚肉だった。こんなに入ってんの!?
 やや塩味が強いが、いい味の出汁。カンペキですな。

 おいしいのでもっと食べたいところだが、空腹を治めるのであれば「中」で量は十分でしょう。
 どーれ、それでは宿へと向かおうか。


 再開発中のコザ十字路周辺や、いまや風前の灯となっている銀天街の入り口などを眺めながら、コザの定宿であるデイゴホテルに到着。
 ここはいいホテルなのである。屋根つきの駐車場は無料だし、昔の米軍人向けの宿としての名残りからか部屋はわりと広いし、あの嘉手苅林昌がスパゲッティを食べたレストランはあるし、大浴場だってある。そして何よりも、ほんわりとしたのんびり感が漂っているのがいい。

 1966年創業で、「上質のB級を目標に、お客様を第一に考えたサービスを提供しております」とのこと。上質のB級というのが泣かせるではないか。
 今回はここでは2泊する。

 部屋で一休みして、コザの街へと出動。
 まずは中央パークアヴェニューの照屋楽器店に入って、今日の「第5回民謡酒場 華ぬ競演」の前売り券がないか確認。残念ながらないとのこと。そうだよな、今日の公演だものな。
 で、その「華ぬ競演」を見るべく、その足でコザ・ミュージックタウンに行く。


 18時30からミュージックタウン3階のホール・音市場で行われた「第5回民謡酒場 華ぬ競演」を見ました。
 コザ周辺は民謡酒場が多い土地柄。このイベントは2009年から毎年開かれており、これまでの4回で花ぬ島、姫、いかな思らわん、島情、一番友小、友人、嘉良来亥、なんた浜などの店舗が出演しているのだそう。
 今回は、「島唄ライブとぅぬぎ」(初)、「民謡スナックでいご」(初)、「民謡スナックなんた浜」(2回目)、「民謡スナック花ぬ島」(4回目)。

 前から3列目の席に掛けると、通路を挟んだ隣のおばあから「いぇー、元気だったねぇ」といきなり話しかけられる。え?? おれ、アナタと会うの初めてなんですけど。そのおばあはどこかキレていたようで、開演後真っ先に踊り出すのでした。
 また、会場内では飲食も写真撮影もOK。もう、好きにしていいんですからね。・・・はえ~、このあたりオキナワですね。

 最初のステージは「とぅぬぎ」。島袋辰也が村吉茜、ドラムス、キーボードの3人を従えて登場。まずは1曲テーマソングのようなものをやった後島袋が、開店後1年半が経ったが、客の9.5割が男性客で、茜ちゃんが出る日はそれ以上でちゃーすがひゃーという話を。
 続いて、島袋が饒辺勝子の名曲「想いションガネー」を、村吉が「恋のうたつづり」をうたい、さらに島袋が「やっちゃー小~シューラ節」を。通を唸らせるような上質の歌三線。いいですなあ。
 島袋によれば「とぅぬぎ」とは、「飛び越える」「羽ばたく」といった意味なのだそう。上原直彦の作詞によるずばり「とぅぬぎ」といううたをうたい、最後は「ワイド節」ときた。これは奄美の唄。なんでもいけちゃうのだな。
 それにしても彼は、いい。知名定男や徳原清文あたりをかなり学んでいるのではないだろうか。うたい方などは知名とよく似ていて、声は彼のほうが知名より上といった感じだった。

 続いて登場したのは、普天間の「でいご」。フェーレーの親分として名を馳せた波田間武雄の店だ。前から思っていたが、この人、顔がデカいなぁ!
 アコギと島太鼓を従えて「南洋小唄」でスタートしましたが、なんだか声がしょぼい。加齢によって往年の技や力は衰えたのか?!
 2曲目は、♪敷島煙草が・・・という「きざみ節」、さらには「行逢い欲さぬ」「遊び県道節」と、いずれも2009年11月にリリースされたCD「歩む島唄」に収録されているうたなどをうたう。
 「行逢い欲さぬ」は男の情け唄といった感じのものでよかったが、「遊び県道節」はあの金城睦松がやったような奔放さが感じられず残念であった。最後は「津堅海ヤカラー」をうたうが、これも冴えず。
 どうやら波田間はここ数日鼻の調子が悪かったらしく、1曲歌い終えるたびにどうもすみませんと観客に謝るので、聴いているみんなはハダマがんばれ!と励ます。本土ならば帰れ!などのヤジが飛びそうだが、沖縄はこうなのだ。美しい光景ではないか。
 ステージを終えての司会からのインタビューでは、「今日は最悪でした」と平謝り。
 今度は「でいご」に赴いて本当の実力を味わってみたいと思ってしまう自分はやっぱり変なのだろうか。


 続いては民謡酒場「なんた浜」。今年で創業43年という老舗中の老舗。御大の嘉手苅林昌に寄り添って舞台を踏んだ初々しい娘の饒辺愛子が今ではメインイペンターである。
 その元気な愛ちゃんと、頭が禿げ上がって入道のような風貌になった照屋政雄、ほかに稲福政夫、比嘉マチ子、宮里恵美子が登場して「なんた浜音頭」から。饒辺愛子は何歳になったのだろう、声が若いなぁという印象。

 2曲目は宮里恵美子が情け唄「思み里前」をじっくりと。
 饒辺のMCでは、嘉手苅林昌がなんた浜で20年うたっていたことを披露し、おとうには感謝している、今も天から見守ってくれている気がすると述べる。
 それをうけて3曲目は、おとうと同じ越来生まれの稲福が「廃藩のサムレー」を渋~くうたう。このじいさん、今にも死にそうなくらい痩せて不健康そうだが、とても味がある。
 4曲目は比嘉がうたって、5曲目は着替えてきた愛子が「ホームの母」を深みを持たせてうたう。
 6曲目は照屋がやって、またも着替えてにっこりの愛子が最後に「肝がなさ節」をうたいつつ観客席を闊歩して終了。

 トリは「花ぬ島」。沖縄市宮里で30年余りという、これも老舗。神谷幸一と玉城一美の二枚看板に太鼓・おちゃらけ担当の小柄な年配女性が演奏します。
 神谷が遊女と旦那とのコミカルなやり取りの「茶売節」をうたえば、一美がお得意の「平和の願い」をうたい持ち味を如何なく発揮。さらに小柄バーサンも「三月の海」をうたい、ハリのある声を披露。しょぼくれた年寄りだと外見で判断したワタシが悪うございました。

 続いて、本格的にうたい始めて50年になったと言いつつ幸一がうたったのは「イソーサ島唄」。一美がバイオリンでサポート。
 さらには沖縄喜劇調の「涙の那覇港」を3人で、カイサレー調の曲に乗せて。
 最後は「ナークニー~ハンタ原」。幸一のうたうナークニーはカラリとした印象で、津堅島のモーアシビはかくやと思わせるものがあった。

 フィナーレは、4団体がステージに登場してお約束のカチャーシー。観客は300人前後だったと思うが、20年近く前からの経験からすると、立ち上がって踊り出す人は着実に減少している様子。今回も10人に満たなかったのではないだろうか。
 「嘉手久~アッチャメー小」で締めるあたり、モーアシビっぽくていいですな。この頃の風潮としてはなんでもかんでも「唐船ドーイ」だものな。

 ということで、20時45分終了。
 次は1階で行われているエイサーナイトだ。20時からなので今が佳境を迎えている頃だろう。


 エイサーのまち沖縄市では毎年エイサーナイトを開催しており、今年は6月16日~8月10日までの期間の週末、沖縄市の各地で行われることとなっています。
 8月10日は、20時から、大里、安慶田、室川の各青年会がミュージックタウンの音楽広場で演舞を行うことになっていました。

 3階のホールを出るとすぐさま、ドンドコドンドコと太鼓の音が。これって肝ドンドンだよね~♪
 しかし見てみると、すでに最後の室川青年会が演舞中。残念ながら大里、安慶田は終わったようだ。

 室川の演舞は、見たところからシュンサーミー~越来よう~トゥータンカーニー~豊節~固み節など。

 またたくまにイベントは終了し撤収作業と相成ったので、こちらもとぼとぼと撤退。
 途中、胡屋の「末広」という割烹に入って生ビールを頼むも、ここには居酒屋のようなカジュアルな肴はなく、ビール2杯とマグロの山かけのみで引き揚げ、コンビニで「ウチナー弁当」を買って宿で飲み直し、初日が終わる。
 明日は早朝スタートである。


 8月11日。昨晩はけっこう飲んだのだが、6時半にはきちんと起きて7時半に出発。今日はイベント2つを見ることにしている。

 まずは仲泊にあるシーサイド・ドライブインに行って朝食を。
 ここでの食事は2回目。24時間営業で、アメリカ統治時代の雰囲気が残っている店なのだ。
 前回は2009年、シーサイドサンド450円を食べた。店の雰囲気は、ウエイトレスの年齢がほんのわずか若返ったこと以外は変わったところはない。
 まさしくシーサイドの席をあてがわれて、300円のカツサンドにも心が揺らいだが、ちょっと奮発してモーニングサービスのベーコンエッグ&トースト&アイスコーヒー950円を所望してみた。
 この値段の差は品物に反映されることはなく、ご覧のとおり素朴なものが運ばれてきました。

 隣の席のオジサンが新聞を貸してくれたので、琉球新報を読みながら寛ぐ。しばらくするとオジサンは読み終えた沖縄タイムスを渡し、「記事が違うんだ、こっち(沖タイ)のほうがいい」と。ほう、そういうものなのか。
 オジサンとほぼ同時に席を立ち、互いに笑顔であいさつを交わして店を出る。彼はリタイアしてからの日々をこんなふうにしてゆったりと暮らしているのだろうな。


 今回借りたレンタカーは、OTSレンタカーで、ヒュンダイのi30という車種。この車種限定で5日間、ピーク時にもかかわらず15,200円の格安で借りた。
 赤色というのも気恥ずかしいが、乗ってしまえばそう気にもならない。すでに7万キロ走っているがエンジンの調子はバッチリでレスポンスは悪くない。
 5日で30リッターほど走ったから、計測していなかったが、距離でいえば400キロ前後というところだろうか。
 ワイパーの操作が日本車とは上下逆だったこと以外は、操作に違和感なし。韓国車も立派なものなのだな。
 唯一難点はナビ。電話番号入力ができず、また、何回か目的地を設定するうちに設定自体ができなくなることが何度かあったのにはまいった。いずれも肝心なときに動かなくなるのだ。

 写真はシーサイド・ドライブイン前にて。凪いだ海の光がすごい、ということにも気付いてほしい。


 ここからは歌碑めぐりを始める。事前勉強をたっぷり行い、歌碑にまつわる事情や現地の地理などを詳しく確認してきたつもりだ。
 しかし、一発目からつまずく。

 仲泊からゴッパチをさらに瀬良垣まで北上して、まずは高級リゾートホテルのオリエンタルヒルズ沖縄の敷地内にあるであろう「山原ナークニーの碑」を見に行く。
 ここは以前「恩納ハイツ」が建っていた場所。当時の資料によれば、碑には「あれや本部崎 これや名護浦 近くなて見ゆる 城東江」とあり、この琉歌は陸路や海路から名護に近づく光景をナークニーの節に乗せてうたわれたものだという。
 1982年に本土復帰10周年を記念して建立された、沖縄一大きい歌碑なのだそうだ。

 管理されていず雑草に覆われて見えなくなっているらしいので、ホテルの女性従業員をつかまえて尋ねたところ、彼女はここに恩納ハイツが建っていたことすら知らないようで、少々お待ちをと奥へ消えた。
 そして上司らしき人間を伴って戻ってきて、碑は新ホテル建設時に移転したが、どこに移転されたかは判らない、とのことだった。

 碑とは一度建てたらちょっとやそっとのことではなくならないと思っていたけど、変化の著しい沖縄では事情はそうでもなさそうだ、ということがわかりました。

 残念だがしかたがない。ホテルの様子などをカメラに収めて次へと向かう。


 万座毛の駐車場の入り口付近向かって右手にありました。万座毛は3回目となりますが、碑をよく見るのは初めてのことです。

  波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま

 碑には次のように書かれています。
 「波の音も沈まれ、風の音も静かになれ、今私が首里の王様のごきげんを伺いをしますから(お顔を拝しますから)」という歌意である。
 1726年(享保11年)に琉球王府尚敬王自身を先頭に、具志頭親方蔡温をはじめ、各重臣々下をのこりなく(約200人)率いて北山巡行のおり、恩納「ムラ」の景勝地万座毛に立ち寄った際に、農民百姓が何のおそれもなく、王賀の大行列を拝すことができて、これこそ大御代の恵みで、欣々然としたその歓喜の余り、国王歓迎で詠んだといわれている。
 国王一行を歓迎した雄大なすばらしい風景の「クイシイ毛」で、彼女根取い(音頭取り)の歓迎臼太鼓(ウスデーク)に、国王一行は至極満悦して、尚敬王はこの毛に万人を座せしめることが出来るということで、すぐさま「万座毛」と命名した。若き名君尚敬王のすばらしさである。
 輝かしい琉歌の歴史に沖縄文化政治史を万座毛に残したナビ女を「ムラ」の誇りとし、かつ、後世に伝えるために歌碑を昭和3年11月10日建立する。

 これはけっこう古い歌碑ですね。
 恩納ナビーは18世紀の女流歌人で、恩納村の豊かな自然を背景に多くの奔放で優れた琉歌を詠みました。吉屋チルーと共に琉球王朝時代を代表する女流歌人です。


 ナビーの歌碑を見終えた後は恩納の集落に入り、恩納節の歌碑を探します。その途中、「恩納ナビー誕生の地入口」の石標識があったので、寄ってみました。

 「マッコウヤー」というのがナビーの家の屋号のよう。今では荒れかけた畑地になっているようです。
 1928(昭和3)年11月10日に「恩納ナビ歌碑建立式典」を開いたことをきっかけに、毎年この日にウシデーク(臼太鼓)を開催しているとのこと。
 女性だけで踊る伝統行事「ウシデーク」は、女性たちが五穀豊穣や集落安泰などを願って、歌い踊るもの。一度中断されましたが、1977年に集落が一体となって復活させたそうです。

 近くにはカンジャガーという井戸もあり、このあたりはかつての集落の中心だったと思われます。今でもパラパラと住宅がはりついており、静かな農村の住宅地といった風情でした。


 カンジャガーの脇に立っていたイラストマップによると、ここから国道58号に近い標高の高いいわゆるウィーノモーに向かうと、途中神アサギやノロ殿内、恩納番所跡などがあって、その番所の側の丘に恩納節の碑はあるようだ。
 ということで登り方面に歩を進めていくと、すんなりと恩納節の歌碑が見つかりました。

 恩納松下に 禁止の牌のたちゆし 恋しのぶまでの 禁止やないさめ

 前に立っている石碑の文章を引用。
 「恩納藩所前の松の下に「禁止」の立札を張り出しているが、恋をすることまで禁止する定めは無い筈だ。だからわれわれ若い者は、恋をするのに何も恐れはばかることはないでしょう」という歌の意味である。
 1719年(享保4年)、尚敬王のお冠船(載冠式)に列席された中国の副使節徐葆光が、北部視察に出かけることになった。そのため、宿泊予定地の恩納間切藩所前に「毛遊び」を禁止する王府命令の立札が張り出された。
 この「毛遊び」というのは、青年男女が夜ごと野原に集って歌いかつ舞い踊り、昼間の労働の疲れをいやす素朴な遊びのことであるが、王府では男女の風紀を乱すものであり、中国使節にそんなものを見せてはならないという心配から、立札を出させたのである。
 この歌は恩納ナビー詠作の中でも最も秀逸して、琉球古典音楽の中でも名高い恩納節本歌である。

 碑は、1964年5月5日、当時の恩納村長が代表となって建立したもの。
 18世紀には、今自分が立っている場所でナビーたちがモーアシビーを楽しんでいたのだろうかと思うと、不思議な気持ちを覚えます。やはり何事も、現場に立って考えてみることは大きな意味がありそうだ。


 出発前の段階で旅情報を収集していると、谷茶前の浜の歌碑の近くに沖縄科学技術大学院大学があった。しかもここ、毎日一般の人々の見学を受け入れているらしい。そんじゃまあ、学術、しかも大学院などというところにはまったく縁遠いおれだけど、せっかくだから見学させていただきやしょうか。――ということで日程に入れ込んでおいたのだった。

 沖縄科学技術大学院大学は、国際的に卓越した科学技術に関する教育及び研究を実施することで、沖縄の自立的発展と世界の科学技術の向上に寄与することを目的として、2011年11月に設立されたもので、研究者が200名ほどいるのだそう。200名? 敷地面積は222haという広大な、すんげぇスケールの大学院にたったそれだけ?! センター棟と管理棟の建設費が180億円、年間予算は120億円ほどもかかるというのにか?

 5年一貫制の博士課程を置く大学院大学で、教員と学生の半数以上を外国人とし、先端的な教育研究活動を行っているとのこと。学生には生活費や医療、住居、育児などの研究生活に必要な支援が提供されるそうで、施設内にはきれいな住居群もありました。

 正面玄関受付で「GUEST」の入館証を受け取り、宇宙的な長い回廊を通って研究棟へと進み、2つの建物を繋ぐスカイウォークという空中通路を見る。研究者のいるゾーンには立ち入ることができず、また夏休み中ということもあってか、静かなもの。パブリックゾーンにジュースを買い求めに来た研究者1人と会っただけだった。

 すばらしい環境。だが、国が威信をかけてつくったものとはいえ、なんだかもったいないような気がするぞ。ポイントは世界トップクラスの研究者をどうやって招聘するか、というあたりなのだろうな。

 そうそう、恩納村周辺はゴッバチの新たなバイパスが山側のほうにつくられていて、交通の流れはよくなったがそこはなんだかつまらないフツーの道になっていた。旧道のほうが断然楽しかったのだけどな。


 さてその旧道に戻って、お次は谷茶前の浜歌碑です。
 道路沿いに歌碑の入り口を示す看板があるのを見つけたので、側道に駐車して歩いて向かいます。
 看板から海側へと続くエントランスは夏草が生えていて手入れ不行き届き。万一のハブ攻撃を懸念して慎重に歩を進めていくと、奥の高台にでっかい碑がありました。

 沖縄民謡をかじったことがある人なら誰もが知っている「谷茶前」。雑踊りの名曲です。
 知名定男が語るところによるとその「谷茶前」、谷茶という地名は恩納村と本部町の2か所にあって、どちらも“本家”はこっちだと主張しているのだそう。でも、自分としては恩納のほうが本命だと思うがどうだろう。このように碑もあるわけだし。
 しかし、このコンクリートでてきた無骨な碑の形はいったい何を表しているのだろうな。

 ♪ 谷茶前の浜によー スルル小が寄ててんどーヘイ
   スルル小が寄ててんどーヘイ
   なんちゃむさむさ なんちゃむさむさ・・・

 雑踊り「谷茶前」は、明治20年代、玉城盛重が振り付けをしたものと伝えられ、男がウェーク(櫂)で魚をとり、恩納はバーキ(ざる)に魚を入れ頭にのせて売り歩く様子を表しています。


 沖縄で最も大きい石斧、石器、土器が出土している遺跡だというので、このたび初訪問。
 近くに川があり、上流には森があることから、約3500年前の人々にとって生活しやすい場所だったようなのだ。

 現地の入り口にはご覧のような標柱が立っており、その隣には説明書きがありました。以下、それを引用。

・史跡 仲泊遺跡  昭和50年4月7日指定
 この遺跡は、沖縄貝塚時代前期から後期に属す貝塚と首里王府当時の石畳道路により構成されています。
 貝塚は二地点にあり、うち北方貝塚地点からは赤く焼けた床面をともなう岩陰住居跡が発掘されています。この種の遺構は沖縄における最初の発見として評価できます。
 また、石畳道路は、国頭地方と首里を結ぶ西海岸沿いの主要道路の一部で、石畳は丘陵横断部をとくに堅固にするための施設とみられています。
  昭和53年3月31日 沖縄県教育委員会

 写真中央の坂を登っていくとすぐに仲泊遺跡第三貝塚があります。以下その説明版を引用。

・仲泊遺跡第三貝塚
 岩陰内は沖縄の先史時代後期の住居址で、岩陰前面部は中期の貝塚です。発掘前の岩陰内は風葬墓でありましたが、人骨・石棺・陶器棺などを移動してから発掘した結果、住居址が検出されました。
 住居址は岩陰奥では地山を切り取って土面を平坦にし、中央に炉跡があり、前面部に柱穴が並んでいます。
 このことから、岩陰の前面部に柱を立てて、壁をつくって、炉を中心に生活していたと考えられます。なお、住居址の一部と中期の貝塚の上部は石畳道をつくるときに壊され、その下部は石畳道の下に残っています。
  昭和53年3月31日  恩納村教育委員会

 ナルホド。岩陰には大昔の住居跡があって、その一部が壊されて石畳道になって、残った部分は近年風葬墓として使われていたと。
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 仲泊遺跡の中でもっとも見ておきたかったのが比屋根坂(ひやごんびら)。
 首里王府時代につくられた主要な道の中には今もその佇まいを残しているものがわずかにあり、それらは金城石畳道であったり当山の石畳道だったりするわけですが、ここもまた貴重なその一つなのです。

 さっそく登ってみましたが、ここの石畳は勾配がきつく、ただの山道のよう。説明版によれば今登っているのは東側の部分で、西側の遺構はおそらくこれよりはずっと体裁がいいのではないかと思量しますが、どうでしょうか。

 以下、説明版を引用。

・比屋根坂石畳道
 石畳道は、小字比屋根原の琉球石灰岩丘陵を越えるために敷設された旧道です。石畳道は、丘陵上にはなく、東と西の傾斜地に蛇行して造られています。ここは東側傾斜地の石畳道(約98m)で、西側傾斜地の石畳道(約76.50m)は山田温泉の向いにあります。
 この石畳道は、首里王府時代の北部と中・南部を結ぶ主要道路で、現在残っている真栄田の一里塚と仲泊の一里塚を結ぶ歴史の道です。
 丘陵上は景勝の地でイユミーバンタ(魚群を発見する崖上)もあります。
 なお、丘陵上の石敷道路は環境整備でつくった遊歩道です。
  昭和53年3月31日  恩納村教育委員会

 うむ、そういうことであれば、真栄田側の石畳道もそのうち見ておかねばなるまい。乗りかかった船であるからして。
 なお、比屋根坂は明治末期まで利用されていたのだそうです。

 復習。仲泊遺跡には遺跡が6つあり、それらは第一洞、第二貝塚、第三貝塚、第四貝塚、第五貝塚と比屋根坂石畳道で、これらの遺跡をまとめて仲泊遺跡というのだそうです。


 比屋根坂の石畳道をビーサン履きでヒーコラ登っていくと、ちょっとした高台に出ます。ここがイユミーバンタ。魚(イユ)を見つける(ミー)崖地(バンタ)ですな。

 いやぁ、天気もバッチリでいい眺め。眼前に見える建物はルネッサンス リゾート・オキナワ。ここには家族で泊まったことがあった。当時はまだ次男が小さい頃で、いわば我が家の「家族の時代」であった。1998年の12月だったと記憶しているので、あれから15年近い歳月が流れたわけだ。
 当時5歳だった彼も今は大学に通っている。比屋根坂ほどキツイ道のりではなかったが、自分もゆるやかな上り坂を歩いてきて、まもなく自分の人生のイユミーバンタに到達する頃合いなのかもしれない。あとは安楽な下りの道が待っている。それが急なのか、緩やかなのかは、今はわからない。