「弥勒世」でアメリカ軍政下の沖縄の過酷な現実に切り込んでみせた馳星周が、今度は慟哭の沖縄戦を描きました。
 2011年6月から翌年10月まで集英社のweb版に掲載されたのが初出で、それを文庫版で発刊したものです。
 東日本大震災発生から3日後に石巻に入った老人・真栄原幸甚が、その惨状を目の当たりにして、60数年前の戦時下の状況を思い出す――という形で物語は進んでいきますが、現代を描く部分は最初の4ページと最後の10ページほどのみで、あとはすべて沖縄戦で埋め尽くされています。
 1945年、14歳の鉄血勤皇隊員・幸甚は、本島南部に撤退を余儀なくされた日本軍の道案内を命じられ、地獄という地獄を体験します。撤退する中で起こったさまざまな悲惨な出来事が描かれますが、そればかりではなく、ぎりぎりの日々の中で織りなされる人間模様にうっすらと漂うヒューマニズムが背景に流れており、それがこの物語のコアを形づくっています。
 著者には血と暴力の物語を得意とするイメージがありますが、今作は毛色が違います。池上冬樹が解説で語る「この小説に流れているのは人を失う悲しさであり、死んだ者を悼む感情である。ここには濁りのない悲しみを描くリアリストの真摯な眼差しがある」は、極めて的を射ているものと思います。
 戦後生まれで沖縄との関係性はない著者ですが、多くの文献を参考にして当時の史実を的確にトレースしているのは立派だと思う。
 2013年5月のハノイ旅行の際に、西湖を眺められるホテルの部屋で読了しました。
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 「辻の華」を著した上原栄子がモデルとなってできたアメリカ文学「八月十五夜の茶屋」が復刊されたとの情報を得て、喜び勇んで購入した本。
 ・・・でしたが、正直言うと期待外れで、読むのにかなりの時間を費やしてしまいました。
 そうなった理由はいくつか考えられますが、主なものを挙げれば、
 1 コメディタッチの作品で、沖縄らしい情緒が伝わってこないこと、
 2 翻訳ものなので、登場する米軍関係者の冗談やウイットがうまく理解できないこと、
 3 翻訳ものなので、日本語本来が持つ豊かな表現がまったく出てこないこと、
 4 文学的にみれば、自分にとっては三流作品に思えたこと などでしょうか。
 そして、
 5 沖縄の戦後の実態とは程遠い内容だということも一因しているでしょう。

 この作品の意義はただ一点、
 「君は、ティーハウスを建築中だというけれど、いまアメリカでは、米軍の沖縄行政を主題にした「八月十五夜の茶屋」という本がベストセラーになっている。君も知っているだろうが、軍政府に働いていたミスター・スナイダーが、長い間軍政府の中で暴れ回っていたお前をモデルに書いたのだと僕(政府高官)も聞いたが、この名を料亭につけたらどうだ」(「辻の華」から引用)――ということで、那覇・辻町の再建を夢見た上原が、焼け野原の一角に建てた料亭を「松乃下 ティーハウス・オーガスト・ムーン」と名付けたことでしょう。
 その松乃下も1996年に閉館し解体、2010年にはその場に有料老人ホームが建ったということです。悲しいかな、時代は移ろうのですね。


 「ひたすら歩いた沖縄みちばた紀行」が刊行されたのは2009年8月でしたが、さらに!ということで2013年2月に発売されたのがコレ。
 吉田さん、相変わらず精力的に沖縄を歩いていますねぇ。今回の中身は、那覇はもちろん、浦添のパイプラインや屋冨祖、中部ではコザ、砂辺、泡瀬、山里、屋宜原、ライカム、赤道、平良川、安慶名、栄野比など、南部は東風平、北部はやんばるの小集落、さらには宮古、八重山にも足を伸ばしています。
 こういう地べたを這いずり回るような旅は自分も大好きなので、とてもおもしろく読ませてもらった上になかなか参考になります。やはり旅は、自分の足で、歩くスピードで体験するのがいいと思うな。

 今回読んでいて思うのは、沖縄は変わったなぁということ。著者もなんだかつまらなそうに歩いているなと感じられるところがチラホラ。
 沖縄こそが日本の中で最もオリジナリティに富む風貌を持っている地域だったのですが、とうとう沖縄も本土人の顔のようなのっぺりした表情を持つようになってしまったようで。
 そのこともあるのか、吉田氏は街歩きよりも夜の店めぐりのほうに興味の矛先が行ってしまっているようです。(笑) 町の風情よりもどちらかというと、夜の店での人との出会いのほうがおもしろいです。
 自分の好きだった沖縄は、どこに行こうとしているのだろうな。少なくとも、本土となんら変わらない沖縄になんて、なってほしくないよなあ。
 本土の真似なんか、するなよ。地域のアイデンティティを失ってしまいつつある土地に住んでいると、沖縄は、沖縄であるべきだと、強く思う。


 星一つない暗い夜であった。その日午後から、島をたたくように降りつづけた強い雨はやんでいた。だれもが息をこらしてその“とき”のくるのを待っていた。1972年5月14日午後11時59分――。私が沖縄にかかわるようになってから16年目にやってきたその瞬間なのだが、不思議と、この長い十数年、そのときを私が沖縄のどこで迎えるか、迎えるべきかといったことは一度も考えたことはなかった。
 ただ、結果としてその“とき”、やっぱり〈コザ〉だったか、と思った。私は〈沖縄復帰〉のその“とき”をコザで迎えたのである。別に大きな意味はない。今夜午前零時を期して、コザ市に画した米軍基地のゲートを学生集団が襲撃する、との情報が私の耳にはいったので、それを現認取材しようとしたまでのことである。時計の針はいともかんたんに午前零時をさした。市役所のサイレンが鳴りひびき、車のラジオからは船の汽笛が流れただけであった。なんにもなかった。
 10分後、27年にわたってこの島と民衆を統治しつづけた米国国務長官代理・琉球列島米高等弁務官が専用機でコザの町の上を飛び、島を去った。ジェット機の爆音が暗い夜空にひびいていた。ゴロゴロとうなるエンジンは明らかに噴射を強め、遠くへ遠くへと加速度をあげているようである。もうこの島には〈王様〉はいない――そんな実感が私の体をゆさぶった。不思議なほどの快感であった。
 午前2時、コザ市内のレストランで五目ソバをたべた。水っぽくてたいそうまずかった。70セント、これがドルで喰う最後のメシかな、などと思いながらたべた。3時、また強い雨が降りだした。那覇に帰ると、新聞社の輪転機がうなりをあげて〈復帰後第一号〉の新聞を刷っていた。大きな見出しに「変わらぬ基地、つづく苦悩」とある。一面トップぶちぬきの見出しである。支局の中でイスを3つつないで仮眠――。
 午前4時、取材機のパイロットに電話。この雨では日の出もないのですぐには飛ばぬという。雨がこぶりになったすきを見はからって午前8時半、那覇から約百キロ西方の久米島へ向けて飛ぶ。空から見る那覇の町も島々も低い暗雲をうけてよどんでいる。たとえ晴れていたとしてもこの島々には晴れやかな祝賀ムードはあるはずがない。写真一枚撮る気になれぬ5月15日の初飛行である。
 午前10時35分、手ぶらで那覇にもどり支局に帰る。テレビは東京と那覇で平行して催されている復帰記念式典を、カラー中継で放映している。佐藤総理大臣とアグニュー米副大統領が固く手をにぎり合っていることが空々しく迫ってくるが感動なし。
 午後2時、沖縄県発足式典。戦没者と戦後27年の問に死んだみたまにたいして、〈復帰〉を報告し追悼する1分間の黙とう。目を閉じると、私の周囲に在って亡くなっていた友、知人、親戚の人、そして早くして生命を断った私の弟の顔、さまざまな顔がつぎつぎと襲う。すべてから遠ざかり〈復帰〉の日まで、と沖縄のみに身を寄せた自分の不義理をわびる。同時に、まったくむなしいばかりの不完全な〈復帰〉になってしまったことをわびる。1分間の時間が10秒か20秒ほどにしか思えぬほど短い。
 午後3時。雨はますます強く、やむことを知らぬ。復帰協主催の〈沖縄処分抗議大集会〉。会場はどろんこ。参加者はずぶぬれ。みんなが〈真の復帰を!〉と叫ぶ。
 これよりさき、午前6時、チャーター船で本土から600人の機動隊が那覇に到着。復帰後本土から一番乗りの〈客〉。7時、米陸軍司令部などに星条旗とならんで日の丸の旗があがる。金アミの中に――。過去27年、民衆を圧迫しつづけた金アミの内側に日の丸が――。
 嘉手納基地からはジェット機が西の空へ向って次々と飛び立つ。去っていくのではなく出かけていき、また還ってくるのだ。アメリカの放送施設VOAは中国大陸や「北」朝鮮に向けてきのうと同じように声を張りあげる。なにもかもきのうとは変わらない。
 時計の針が14日から15日を指す、ただそれだけで27年も待った〈復帰〉が実現するのなら、なぜもっと早くこの日はこなかったのか、とそのとき思う。だが〈沖縄〉は、きのうときょうというだけで、なにも変わることもない。無感動な私の〈5・15〉。

(「ミーニシ吹く島から 極私的沖縄論」(アディン書房刊)から)
2013.06.23 コンナロッ!
forester 201306

 今日、沖縄では68回目の慰霊の日。NHKテレビでやっていた戦没者追悼式を観る。
 戦争の記憶を持った人々が着実に減っていき、あと10年もすれば、自ら語れる人もほとんどいなくなってしまう。日本国民はこれから戦争の惨禍をどうやって共有し続けることができるのだろうかと、心配になる。
 現実の世界情勢にばかり目を向けて、過去の教訓を見てみないふりをする人間が、特に指導者といわれる人の中に増えてきているような気がするのが気がかりである。

 さて、今日は、新車フォレスターのチェックを兼ねてドライヴしてくる。
 新車はいいものだ。静かだし、新車の香りもしてきれい。そしてエンジン出力やタイヤの接地フィールがリニアだ。五感を満足させてくれる、という感じ。

 これまで乗ってきたマイカーをおさらいすると、
 1台目は、SUZUKIのバイク、GS400Eで「多摩 む 7302」。
 2台目は、前車より楽チンにということで、SUZUKIジェンマ50。ナンバーは失念。
 3台目は、就職してすぐに買った中古のトヨタコロナ1600GLで、「山形 55 ら? 8392」。
 4台目は、前車がどうしてもなじめず、トヨタコロナハードトップGT。1600ccのツインカム16で、これは乗っていて楽しかった。「山形 56 ほ 5496」。
 この時期、ホンダのVT250を並行して所有していたが、ほとんど乗らなかった。
 5台目は、その発展形ということで、トヨタマークⅡ2.5ツアラーS。FRで6気筒エンジン縦置きのツインカム24。走りはシルキーだったが、ATのため楽しさ半減だった。「山形 300 す 9637」。
 6台目は、ついこの前まで乗っていたマツダのアテンザスポーツワゴン2.3S。MTに復活し、初めてのトヨタ以外、ワゴンタイプのクルマで燃費も良く、これもまた楽しかった。「山形 300 た 9603」。
 そして今回購入した7台目のスバルフォレスター2.0VTアイサイトは「山形 300 ○ 5776」。
 自動車関係にはずいぶん投資をしているのだな。

 このほか我が家では、連れ合いが車に乗っていて、彼女が乗ったのは、
 1台目は、新古車のダイハツリーザのターボ。コイツはヒステリー持ちの女性のような車で、いったんターボが効きだすとじゃじゃ馬のような走りをし、軽自動車とは思えない低燃費を記録したものだ。ナンバーは失念。
 2台目は、ほとほとリーザに手を焼いたため、中古の黒いマーチに乗り換えた。「山形 56 ほ 5776」。
 3台目は、モデルチェンジした新車のマーチ。「8315」だったはず。
 4台目は、マツダデミオ。ナンバー憶えていず。
 そして5台目は、現在のプリウスで、「8823」。

 さらに、長男が日産のノートを、また、次男がSUZUKIの原付を、それぞれ自分の1台目として所有している。

 ずらずらと書いてきたが、何を言いたかったかというと、今回購入したフォレスターのナンバーが、かつて所有していたマーチと同じものだったのだ。この番号にしてくれと希望したわけではないのに。
 こういうことって、ちょっと珍しいんじゃない?

 また、自分のクルマは直近過去の3台は連続して「96」がついていた。自分は一生クルマの「苦労」からは逃れられないのだろうかという思いがあり、そうなのであれば今回は希望番号を金を出して買い、せめて苦労の「4」台目にならないよう「9605」なんていう番号を希望しようかと考えたくらいだった。
 しかし、番号に金を出すということにどうも納得がいかず、ディーラーの担当からは「今だと4千番台になりますがよろしいですか」などと脅されつつ、ままよと取得した番号がこれだったのだ。

 いわば、「96(苦労)」も「4(死)」もない番号になったわけで、まあ、よかったのではないか。
 この「5776」、ごろ合わせ的に言えば「コンナロッ!」てなところだろうか。(笑)