大城貞俊の作品を読むのは「椎の川」以来2作目。読んだのは1999年だから、14年ぶりにこの作者と再び巡り会ったことになります。

 『具志川市文学賞「椎の川」で、読者を感動の渦に巻き込んだ作者大城貞俊が再び生きることの尊さを問い掛ける。戦後、米軍基地の兵士とウチナー娘との間に生まれた双子の兄弟、マークとジョージ……。二人のウマーク(悪童)ぶりを描いた少年期から、物語は「世界のウチナーンチュ大会」へのクライマックスに向かって突き進んでいく……。沖縄の戦後半世紀余を小説で描いた作者渾身の意欲作』 ――とのこと。(コシマキから引用)

 琉球新報夕刊に、2006年11月から07年11月にかけて連載されたものを一部改稿して単行化。
 終戦から1990年代まで、時代を反映するさまざまな話題をも織り込みながら、3部構成で展開されます。
 400ページ超の長編で読み応えがありますが、プロットにやや甘さがあるような感じがしたのと、先に読んだ馳星周の「弥勒世」とモチーフがよく似ていると感じました。

 沖縄を題材にした小説は、どうしても沖縄戦や米軍支配下の沖縄などを扱ったものが多く、そこにはハーフの子、米軍兵士の横暴、それに抵抗する純粋なウチナーニーセー、麻薬やロック、性犯罪などがよく登場しますが、この作品もその例に漏れません。

 しかし幸いなるかな、いろいろと辛いことはあったけど最後はハッピーエンドというのが救われます。
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 中古市場で購入した1981年発行の本。副題に“沖縄ジァンジァンの五日間”とあったので、これも一種の沖縄本かなということで。

 沖縄ジァンジァンは、かつて那覇の国際通りにあった、沖縄のアングラ文化の発信地。調べてみると1993年の閉館だったようなので、それからもう20年になるのですね。
 その小さな劇場で1980年、毎回100人ほどの聴衆を集めて「冗談ばっかり」しゃべった講演の記録。

 取り立てて沖縄のことを話したものではなく、話題は「離島独立論」、国際障害者年にちなんだ「ボランティア論」、「マスコミ公害論」、独断と偏見を交えた「天皇制論」、「女の文化論」など。
 沖縄編愛者の自分にとっては、正直言って期待通りとはいかない内容ではありました。そして、その語り口についても、自分にとってはどちらかというと退屈なものだったかなぁ。

 30年以上も前の語りなので、時代的には明らかに古いし、当時はそういう内容でも聴衆は満足していたのだろうかという疑問まで浮かんできます。
 でもまあ、流行というものはそういうものかもしれず、時が経ってから振り返るといささか陳腐に見えるということはままある。見方を変えれば、進化か後退かはさておき、時代は着実に変化している、ということなのかもしれません。

 ちなみに、永六輔は1933年生まれ。なので、今年は80歳になるのかな。現在も前立腺癌及びパーキンソン病と闘病しながら活動を継続しているとのことです。
 やはり時間は、好むと好まざるとにかかわらず、否応なく前に進んでいるのですね。


 1970年に同友館という出版社から刊行された「私の日本地図8 沖縄」を原本に、2012年に再発売されたもの。今、宮本常一はブームを迎えているようで、宮本の著作はけっこうあちこちで発売されているような気がします。

 宮本が初めて沖縄の地を踏んだのは1969年のことで、わずか6日間の旅程だったようです。その6日間に本島、久米島、津堅島、浜比嘉島、伊江島などを巡っており、そのときのことを雑感や写真でまとめたのがこの本です。

 その記録の、特に写真で感じるのは、アメリカ世にあったあの時代の沖縄から、今に通じるものもたくさんあるとはいうものの、いかに多くのものが失われてしまったか、ということ。
 それらは、車道と歩道の機能分化が進んでいない道路に沿って建つ赤瓦の家々だったり、先の戦で緑が失われまばらな建物の中で360度見通しのきく大地、琉球政府の入ったモダンな建物、琉球大学の構内にひっそりと建つ守礼門、港内に繋がれたたくさんのサバニ、豊年祭でセーラー服のまま太鼓を叩く女子高生、境界のない久米島空港、頭上にバーキを載せて歩く女性、横文字オンリーの看板が並ぶゲート通り、などなど。

 記録の中で宮本は、「単に沖縄の本土化をはかるだけが沖縄復帰の意義ではない。沖縄人のための沖縄をいかにして築いてゆくか」であると述べています。
 沖縄を語るうえで、現在に至っても最も重要な問題であると思いますが、宮本がそのように記録してから40余年が経過して、それが現実のものになっているかというと、いまだに果されていない課題であると言わざるを得ないのではないでしょうか。

 1970年当時の付録地図付き。那覇、那覇から摩文仁まで、糸満、保栄茂(びん)、慶良間・粟国、久米島をまわる、基地付近の町、津堅島、浜比嘉島、伊江島へ、琉球博物館、沖縄雑感――の全12章。
 伝わってくるものが多い良書でした。


 海の彼方、水平線のむこう。
 本州「大陸」から遠く離れた場所に、その島は浮かんでいる。
 四方を海で囲まれ、海によって隔てられた、逃げ場のない閉じた世界。
 そこには「大陸」に住む者には想像もつかない、
 もうひとつの日本があるかもしれない――そう考えて、旅に出た。
 日本をもっと見てみたい。もっと日本を知りたい。
 だから、もっと遠くへ。水平線の先へ。
 遥かなる海を渡り、その先に浮かぶ、絶海の孤島へ――。

 というプロローグで始まる、カベルナリア吉田の真骨頂が伺える旅本。
 取り上げられている孤島は、青ヶ島(東京)、飛島(山形)、舳倉島(石川)、鵜来島(高知)、見島(山口)、悪石島・臥蛇島(鹿児島)、硫黄島(鹿児島)、南大東島(沖縄)、北大東島(沖縄)、父島・母島(東京)。くくっ、すげぇすげぇ。

 このうち我が「琉球弧探訪」としての守備範囲は、悪石島・臥蛇島、硫黄島、南大東島、北大東島。
 いずれも著者が実際に行って、歩いて、泊まって、飲み食べるという趣向の旅日記ですが、たとえば南大東島では、飲み屋が並ぶ在所と呼ばれる島の中心部の街並みや、自分も泊まり、食べたことのある「ホテルよしざと」やその向かいの「伊佐食堂」の大東そばバイキングの情景、飲みに入った居酒屋で不意に誘われて参加した島のグランドゴルフ大会の様子などが、おもしろおかしく書かれています。

 島旅好きにはたまらない一冊。やはり孤島旅の極みは、青ヶ島と小笠原、そしてトカラかなぁと思いながら読みましたが、これらの島々には往復に時間がかかりすぎるし、フネの欠航なども考えられるし、やはり仕事をリタイアしてからででもなければ行けないのだろうな。
 はたしてそうなったときに行く気力を持ち続けていられるかということも、一方で問題になるのだろうけれど。

 カラー写真も満載なので、行かなくても多少は行った気になれると思います。


 沖縄民謡の現代の御大、登川誠仁が、3月19日、死去した。
 この何年か入退院をしていたようだが、昨年の琉球フェスティバルでは元気な姿というか、人一倍張り切ってのステージングを見せていたものだったのに。

 竹中労が沖縄民謡をヤマトに紹介するべく琉球フェスティバルを開催したのは1974年。当時の沖縄民謡界は今となってはきら星のような唄者たちが勢ぞろいしていたものだが、誠グヮーはその少なくなった生き残りの一人だった。
 当時の琉フェスは、嘉手苅林昌、照屋林助、大城美佐子、国吉源次、山里勇吉らとともに誠グヮーも中心人物だった。知名定男や大工哲弘らは新進気鋭の範疇だったし、もちろん喜納昌吉やりんけんバンドなどが活躍するにはあと15年ほどの歳月がかかるという時代だった。

 愛すべきショーリー(shorty)。
 知名は昨年うたうことをやめたし、これからの沖縄民謡界は誰がイメージリーダーとなっていくのだろうか。

 以下、誠小の訃報記事をいくつか抜粋しておきます。


毎日新聞(3月20日) <訃報>登川誠仁さん80歳=沖縄民謡の最高峰歌手
 映画「ナビィの恋」などの出演で全国的人気を呼んだ沖縄民謡の最高峰歌手、登川誠仁さんが19日、肝不全のため死去した。80歳。葬儀は23日午後3時、沖縄市松本のサンレー中部紫雲閣。喪主は長男仁(ひとし)さん。
 兵庫県に生まれ、沖縄で育つ。地元劇団で歌と三線を習得し、20代半ばでソロの民謡歌手として注目を集める。ウチナーグチ(沖縄方言)にこだわった自作曲、ロックばりの三線早弾きも評判を呼びつつ、三線譜と声楽譜を合わせた初の楽譜集を編集するなど沖縄民謡の発展と継承に大きく寄与した。明朗快活でありながら哀感と滋味があふれる歌は沖縄音楽の神髄を表している。琉球民謡協会名誉会長。琉球民謡名人位。沖縄県指定無形文化財技能保持者。
 99年、中江裕司監督の「ナビィの恋」で準主役を演じ、02年にも同監督の「ホテル・ハイビスカス」に出演。全国的な知名度を得た。主なCD作品に「酔虎自在」「歌ぬ泉」、弟子の知名定男さんと共演した「登川誠仁&知名定男」など。

沖縄タイムス(3月20日) 登川誠仁さんが死去 戦後沖縄を代表する民謡歌手
 戦後沖縄を代表する民謡歌手で「セイ小(ぐゎー)」の愛称で親しまれた登川誠仁さんが19日午後11時37分、肝不全のため、入院先の沖縄市内の病院で死去した。80歳。兵庫県生まれ。告別式は未定。
 ここ数年は体調を崩すことが多く、入退院を繰り返していた。
 登川さんは、父親の影響で幼いころから三線に親しみ、沖縄諮詢会が設立した「松」劇団に1948年ごろ入団。その後も、珊瑚座などの劇団で古典音楽や民謡などを幅広く習得。「早弾きの天才」として脚光を浴びた。
 62年設立の琉球民謡協会の評議員に就任し、同会師範としても民謡ブームのけん引役を担った。伝統組踊保存会初代会長の故真境名由康さんにも巧みな演奏やレパートリーの広さを見込まれ、創作舞踊の地謡を務めるなど、民謡以外のジャンルでも力を発揮した。
 70年には民謡では初めてという声楽譜付き工工四(くんくんしー)を発刊。「歌の心」「豊節」など自作の歌も多く、レコードやカセットテープ、CDなどは100点以上に上る。
 泡盛が好きで、ユーモアにあふれ人なつっこい言動からファンも多く、沖縄発の映画として全国ヒットした「ナビィの恋」(1999年)で、平良トミさんの夫役としても存在感を示した。知名定男さんや徳原清文さんら多くの弟子も育てた。
 89年県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者、98年琉球民謡協会名誉会長。2002年沖縄タイムス賞文化賞、沖縄タイムス出版文化賞、12年県功労者表彰。

朝日新聞デジタル(3月20日) 沖縄民謡の第一人者、登川誠仁さん死去
 沖縄を代表する民謡歌手で、映画「ナビィの恋」にも出演した登川誠仁(本名登川盛仁〈のぼりかわ・せいじん〉)さんが19日午後11時37分、肝不全のため沖縄県沖縄市の病院で死去した。80歳だった。葬儀は23日午後3時から同市松本7の5の3のサンレー中部紫雲閣で。喪主は長男仁(ひとし)さん。
 兵庫県生まれ。沖縄県の東恩納(現うるま市)で育つ。7歳で沖縄の楽器・三線を手にし、16歳で芝居の地方(じかた)の弟子として修業を積む。1950年代半ばから伝統歌謡の代表的歌手の一人に。「セイ小(セイグヮー)」の愛称で親しまれ、古典から民謡、即興の琉歌までこなし、三線の速弾きの名手で知られた。知名定男さんら多くの弟子も育てた。琉球民謡協会の発展に貢献し、名誉会長などを務めた。89年には、沖縄県指定無形文化財保持者に認定された。
 琉球民謡の正調を広く伝えようと、県内外の野外音楽フェスティバルなどにも意欲的に出演し、「モンゴル800」など沖縄出身の若いアーティストとの共演を楽しんだ。2012年秋には、ともに沖縄の民謡界を盛り上げてきた大城美佐子さんと初共演したアルバムを発表し注目された。
 99年公開の映画「ナビィの恋」では、平良とみさん演じる主人公ナビィの夫・恵達役で出演し、ひょうひょうとしたキャラクターが人気を集めた。


 琉フェス東京の主催者であるM&Iカンパニーからお知らせが届きました。
 今年の琉フェスは、7月14日(日)と、秋から初夏へと開催時期が早まっています。場所は、いつものとおり日比谷野外大音楽堂での開催です。
 開場15:15、開演16:00で、当然、雨天決行!

 さて、気になる出演者ですが、3月8日に届いたメールによれば・・・
 メインイペンターは、喜納昌吉&チャンプルーズ。
 このほか、大工哲弘、パーシャクラブ、よなは徹などの常連組に加え、池田卓、サンサナー、きいやま商店。
 司会は、これも恒例、ガレッジセールです。

 前売6,800円、当日7,300円、全席指定です。

 フム、チャンプルーズがメインとは、ひょっとして2000年頃の琉フェス以来? 喜納昌吉も国会議員を経て還暦を過ぎたはず。あの情熱的な歌いぶりは健在なのだろうか。
 してまた、パーシャクラブは少しはいつもと違ったラインナップを聴かせてくれるのだろうか。(笑)
 三線のサポートはよなはの独壇場なのだろうか。
 きっと池田卓はまたもや泣かせてくれるのだろうなぁ。
 ・・・などなど、妄想は膨らみます。

 すると、3月21日になって再びメールがあり、「夏川りみの追加出演が決定!!」と。
 おぉ~♪ すげすげ。
 彼女が加わって、出演者の厚みはぐっと増した感じ。
 チケットについては、現在特別先行予約受付中で、一般発売は4月5日とのこと。
 自分は、こういうイベントは前で観るよりも、後方で会場全体を俯瞰するのが好き。なのでチケットの入手はあわてずにゆっくり取りかかることにします。


 「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」でメインシナリオライターを務めたウチナーンチュ、金城哲夫の生涯を、高校で一期先輩だった著者が書いたノンフィクションです。

 1992年に朝日新聞社から「ウルトラマン昇天-M78星雲は沖縄の彼方-」として刊行されたものを改題し、文庫として97年に発行されたのがこれ。
 そもそもこれを中古市場で買おうと思ったのは、「森口豁の沖縄日記」というブログを読んでのこと。
 沖縄に関わる諸問題を追求し続けている森口は、玉川学園高等部在学中に一学年後輩の金城哲夫と知り合い、それ以降、本土との間にある政治的・精神的分断に衝撃を受け、沖縄問題に深く関わっていくことになります。
 本書ではそのあたりの状況についても一定のページを割いて記述されています。

 金城哲夫は、1938年生まれの南風原町出身。那覇高校の受験に失敗して上京し、玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科を卒業。玉川時代に恩師・上原輝男の影響を受けて脚本に興味を持ち始め、一度帰郷した際には映画『吉屋チルー物語』を製作しています。
 1963年に円谷プロダクションへ入社、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛けました。
 順風満帆かと思われましたが、その後の『マイティジャック』、『怪奇大作戦』が低迷し、69年に円谷プロを退社。
 沖縄県に帰郷してからは、ラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍しましたが、円谷プロ時代のような才能の輝きを見せるまでには至らず、アルコール中毒に。
 そして76年2月、泥酔した状態で自宅2階から転落、治療の甲斐なく、脳挫傷のため37歳の若さで死去しています。

 ウルトラセブンにはチブル星人なんていう頭でっかちの異星人が登場していましたが、名前の由来は沖縄の方言のチブル(頭)。こういうのも金城ならではのネーミングだったのですね。
 また、2012年末の沖縄ツアーの際に、国立劇場おきなわで観る予定にしていた琉球史劇「虎!北へ走る」は、金城が1974年に書いた芝居だったのですね。

 日本の高度成長期を光速のように走り抜けていった男。当時の状況を踏まえれば、彼はウチナーンチュという、本土では一種の異星人であったかもしれません。しかし、そうであったればこそ、本土の人間が成しえないさまざまなものの考え方や経験、行動様式などが、彼には備わっていたのではないでしょうか。
 そして、その彼を支えるよき理解者たちがいた、ということも大きかったでしょう。
 それにつけても、祖国復帰後に開催された沖縄海洋博という化け物は、沖縄の人間一人一人にも甚大な影響を及ぼしたものだったのですね。その功罪は十分に検証しておく必要があるのではないかと思います。


 上原直彦は、1998年まで琉球放送で活躍。民謡番組の司会などが得意で、沖縄民謡の御大だった嘉手苅林昌とは互いに理解しあえる盟友として、さまざまな場面でステージを共にしていました。
 現在、ラジオでは「民謡で今日拝なびら」を担当し続けており、毎年3月4日の「ゆかる日まさる日・さんしんの日」の提唱者。島うたの作詞や郷土劇の脚本も手掛け、楽しみの一つとして北村三郎・芝居塾「ばん」の学長などにも就任しています。

 その上原は、今では好々爺。琉歌、琉球舞踊などにも造詣が深く、彼の書くエスプリの効いたエッセーはその中に沖縄音楽の歴史や琉歌のもつ言葉のふくらみなどに満ちていて、沖縄好きにはたまらないものとなっています。
 その片鱗は、ウェブページ「旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」で味わうことができますので、一度覗いてみてくださいね。

 このエッセーの構成は大きく5つ。
 まず「ウチナーグチのある風景」では、カラビサ(素足・裸足)、フィジ(髭)、ニービチ(根引き、結婚)など、沖縄の生活臭が沁みこんだやさしい言葉たちを紹介。
 「ウチナー乗り物記聞」では、沖縄自動車道を走っていると見かける市町村のイメージパネルから連想することを記しています。視点は上原らしく、「京太郎、獅子舞と鍾乳洞」、「牛オーラシェー」、「打花鼓と中村家」、「内間御殿と羽衣」、「飛び安里」など。いいですなぁ。
 「レトロ風おきなわ」では、たとえば「ユーフルヤー」の項では、沖縄に風呂屋が登場した年代や、現那覇西町の真教寺門前から北側一帯がユーヤーヌメー(湯屋の前)と呼ばれていたこと、明治期のユーフルヤーの状況、戦後のドラム缶風呂の様子などを紹介し、締めとして、ウーマク連中の銭湯におけるいわゆるスーミ(覗き見)の思い出を披露しています。
 第4章は「人生は旅の如く」。「早春賦」や「八十八夜」など、季節の折々の歌などをまじえて心の赴くままに筆先は進みます。
 最後の「出逢い 縁深きもの」は、上原が交流してきた多くの人々について1ページの文量で論評するもので、特に興味深いものがありました。登場するのは崎間麗進から始まって、北村三郎、大宜見小太郎、森口豁、古謝美佐子、山内昌徳(山内ナークニーの元祖)、宮里千里、高良勉、徳原清文、山里勇吉、伊良波さゆき、高見知佳、備瀬善勝などなど。

 ぱらぱらとページを繰っていて思ったのは、装丁や語り調子などはやさしいけれど、内容に関しては、沖縄の文物に詳しくなければついていくのは案外大変かも、ということでした。
 さらりと読めはするけれど、それなりに含蓄が深いのですな。


 著者は、1964年、横浜生まれのルポライター、フォトグラファー。東京で放送作家として活躍後、2002年に沖縄に移住。現在は、石垣島出身の書家・書浪人善隆氏と小学生の娘一人とともに北谷町に住まわれているとのことです。
 ということは、38歳で移住。夫君の両親は石垣島に住んでおり、石垣島の家族ごはんも勉強中ということなのでしょう。

 文庫257ページの630円。カラー写真は最初の4ページのみで、あとはモノクロの写真があちこちに入るという簡易なつくりですが、写真から伝わってくるものは多く、けっしてカラー写真でなければならないということはありません。

 全4章。
 第1章の「沖縄本島の島ごはん」では、ポーク入り味噌汁、どんぶりサイズの汁物、思い出のにんじんしりしりー、離乳食になるゆし豆腐、栄養バランス抜群のジューシー、紅豚がおいしい!などのほか、やんばるの年越しヤマシシそば、カラギ茶とカラギ酒などの国頭村与那のごちそうについても言及されています。
 「八重山の実家ごはん」では、島味噌でつくるアンダンスー、ミミジャー(ヒメフエダイ)のバター蒸し、甘酢漬けと黒糖梅泡盛、お祝い事と重箱料理など。
 「がちまやーの食めぐり」では、生麺の沖縄そば、茹でたての田芋、カーサムーチーと月桃、きっぱんと冬瓜漬、ちんすこうと花ぼうる、伝統行事食のあまがし、紅芋、ぶくぶく茶、海ぶどう、パパイヤなどを取り上げています。
 最後の「伝統とまちぐゎー探訪」では、食べものばかりでなくその周辺事情も。台所の火ぬ神、琉球料理店「美榮」の東道盆(とぅんだーぶん)、糸満市公設市場、紅型、かんぜーくの指輪、喜如嘉の芭蕉布、ジュリ馬行列、民謡酒場の夜、那覇の農連市場などが紹介されています。

 また食べものの本かぁと言わずに、読んでみるべし。本土出身の女性が、好奇心を持って、そしてそれなりに苦労もして、一人のヤマト嫁として沖縄に定着していく様子も読み取れて、なかなかおもしろかったですよ。
2013.03.27 ジュリ馬行列


☆「沖縄暮らしの家族ごはん」(伊藤麻由子著、双葉文庫)から

 旧暦1月20日に行われる琉球350年の伝統を持つ行事、「二十日正月ジュリ馬行列」。二十日正月は「はちかそーがち」と呼ぶ。辻には琉球時代に女の里があり、女性たちはジュリと呼ばれた。ジュリたちが年に一度、踊りなどを披露しながら祈願して歩いたのがこのジュリ馬行列の由来である。
 かの柳宗悦は、「全国広しといえども、沖縄の『二十日正月』ほど女の哀感と心優しさが胸打つ祭りを私は知らない」と表現している。現在では数百名の女性の踊り手が参加する那覇三大祭りのひとつだ(ちなみに、三大祭りの後のふたつは、那覇ハーリーと那覇大綱挽)。
 拝み回るのは辻の一帯の中で5カ所。火ぬ神の拝所で奉納演舞も行われる。女性たちが「ユイユイユイ」の掛け声で舞う時につけている首から上だけの木製の馬は、かつて離れ離れになった肉親を高い所からからひと目でも見ようと馬に乗った姿を思わせる名残りである。

 三年前、ようやくこのジュリ馬行列を見る機会がめぐってきた。辻一帯を拝み歩く姿をたくさんの報道関係者や見物客に混ざり、しっかりと見届けることができたのだ。
 旧暦1月20日の午後2時。『料亭那覇』近くの辻新思会からドラの音が鳴り響くと、白装束を身にまとった女性二人を先頭にして、重箱を持った黒子など一行が辻の街中を歩き始めた。ドラにはかつての地名が書かれてあった。辻の村の北を上村渠、南を前村渠といった。
 一行はどこまで歩くのだろうと思ってついて行くと、すじぐゎー(筋道)に入っていった。さらに見ているとこじんまりした一軒の家の中にぞろぞろと上がっていくではないか。これは遠慮していたら中の様子がわからないと思い、すすめられるがままにブーツを脱いで上がらせてもらった。
 6畳間ぐらいであろうか。こんなにたくさんの人が詰めかけたら床が抜けるのではないかと余計な心配をしたくなるくらいの佇まいの中に、壁一面の仏壇があった。掛かっている額には「花の代」と「海蔵院」の文字。私にはその言葉の意味がわからなかった。普通の民家なのにどうしてこのようなものがあるのだろう。
 屋敷の主は幸さんというおばぁだった。ここでの神事が終わると、関係者のおじぃが「今年もご協力をありがとうございました」とおばぁに深々と頭を下げた。その瞬間、幸さんの目から涙がこぼれた。
 その後の会話はほとんど方言になってしまったので詳しい事情はわからなかったが、今年もお役目を果たせてよかったといった雰囲気に感じられた。
 私は一行が次の場所に向かうのを見送ってから幸さんに話しかけた。幸さんは背筋のピンと伸びたそしてきりっとした中にふんわりとした優しさが伝わる、そんな印象のおばぁだった。彼女に教えてもらったのはこんな話だった。
 この場所は外見は民家のようだが(実際、幸さんは暮らしている)、かつてはお寺で「海蔵院」という名前であった。「カガンヌウテラ」とも呼ばれる。名前の由来は仏壇に置かれている鏡で、鏡のある寺(カガミのテラ)というところからカガンヌウテラになったという。なんと350年も前に造られたとかで、波上宮よりも古いとか。
 かつてこの海蔵院に手を合わせてから仕事に出かけるジュリたちもいたそうである。額にあった「花の代」は「はなので」と読む。いわゆるお花代のことである。仏壇には辻を代表する4人のジュリの名前が刻まれていた。
「でも……」と、幸さんは悲しそうな顔をして言った。
「戦火で辻は焼けてしまったでしょ。だから、実はここにもお墓にも彼女たちの骨はないんです」
 庭先にはジュリのことを書いた碑が置かれている。だが、それも戦火で焼けて文字は何も読めない。
 どうしてこの場所を幸さんが守っているのか、緑を訊ねた。
 そもそも幸さんのご主人の父方の伯母さんがこの寺に嫁入りしたのだが、その後、守る人がいなくなってしまった。戦火であたり一面焼け野原になった跡を義理の母と一緒に見に来た時、この寺があったあたりに勝手に杭を打ち測量している人たちの姿を見た。
「あんたらに住める場所じゃない」
 ジュリたちの思いの残るこの場所は守らなくてはならない。神事を大事にしてきた幸さんはよけいにその思いを強めた。ご主人とは一度離れたそうだが、この場所から離れることはできないと、長男が8歳の時に戻ってきたという。
 辻に所縁のあった人が年に幾人かここを訪ねてきて、拝みをしてしばらくするとすっきりしたと帰っていく。そんな人たちのためにも、帰る場所は失くしてはならない。幸ざんはここを守ることが自分の役目だと思っているという。
 涙の理由を言葉にして語ることはなかったが、幸さんが守ってきたものは何にも代えがたい。ジュリたちの思い、沖縄の歴史、心の拠り所……。
 毎年、辻の二十日正月を滞りなく終えることができて一番安堵しているのは、幸さんなのかもしれない。いつの目か、寺がきちんと復興することを切に願う。


 沖縄にはたくさんの伝統芸能や伝承技があり、その内容は武道や踊りなど全身を激しく動かすものから、コンマ数ミリの世界を極める微細な手仕事まで、さまざまです。また、同じ名称の伝承ごとでも、集落や地域によって作法が細かく異なることも。
 このようにして生じる膨大な数の伝承技を、ただ傍観して取材するだけではその根底にある「沖縄の心」までは理解できないと考えて立ち上がったのが、カベルナリア吉田。JTA機内誌「Coral Way」の編集部に体よくのせられた形の吉田氏は、「さすらいの伝承マン」となって23種の伝承技に体当たり取材を敢行しました。その間、足掛け4年。

 さぞかし大変だったことでしょう。しかし、本人が言うように、これは「沖縄の心」を知るにはうってつけ。読者は結果的には“傍観”になってしまいますが、その汗と涙の行方は十分に共同体験ができたと思います。

 その内容。
 沖縄角力、クイチャー、南風ぬ島カンター棒、空手(小林(しょうりん)流)、世冨慶エイサー、苧麻績み(ブーンミ)、石巻落とし漁法、伝統民具作り、サトウキビ刈り、ワラビ細工、ムンツァン捕り、三板、民謡酒場のステージに立つ、伝統行事料理、ムーチー作り、豆腐作り、沖縄そば打ち、琉球料理(中身の吸い物、クーブイリチー)を作る、スツウプナカのカマボコ作り、八重山凧作り、漆喰シーサー作り、金細工の指輪作り、琉球玩具「イーリムン」を作る。

 吉田氏はあとがきで、とにかく4年間、大変な取材であり、これは蛇足ですが時には取材後の飲み会のほうが大変だったと書いています。
 そして、沖縄は、何度通っても発見があり、教わることが無限にあり、一言でいえば“深い”と。
 さらには、本書をきっかけに、青い海と空に感動するだけではない「受け継ぎ学ぶ旅」を沖縄で体感してもらえれば幸いであるとも述べています。
 旅のテイストは、「知る」ことによってより深まるもの。取材費やスタッフのない我々は、せめてもっと行先のことを知ってから旅に出るようにしたいものです。


 著者は、フルート奏者で沖縄県立芸術大学の教授。沖縄とアムステルダムの2か所を拠点として活動しているそうです。
 その音楽家が書くエッセーがどういうものなのか、とても興味のあるところですが、これがなかなかにいいのですよ。

 語り口が本格的というか、ただの文章ではなく、体言止めを使って文章にリズムをつけたり、短い文章の中にもプロット的なものがあったりで、エスプリも効いていてなかなかに読ませます。
 技術的な面だけでなく、まさに音楽でいうアンダンテのような身体に馴染むスピードをもって語り進められている点が評価できるところ。
 また、文章の合い間には、外国を一人で渡り歩いてきた女性としての特有の気丈さのようなものが見え隠れすることがあり、そのようなところが文章全体にスパイスを効かせているようで、オリジナリティが高いなぁと思わせます。

 そんな、沖縄とは縁のなかった女性が、沖縄をどうとらえたかの一端を、「おわりに」の一文で知ることができます。
 「住み始めてしばらくすると、百聞は一見にしかず。沖縄の諸問題には、まったくの部外者になれず、沖縄の将来はとても気になります。」
 「土地の人々との接点(特に会話)はそれがどんなにささやかであっても、この土地柄を理解するための最高の情報源であると思います。耳をすまし、目を凝らしていると、少しずつ分かってきた。この島はどうやら確たる人(島)格を持ち、その磁力は、エキゾチックというような言葉で簡単に片付けてしまえるものではない、ということ。そして、わたしがそんな場所に居るという事実が、重量感を持って意識されます。」
 「時代の移り変わりはあるにしろ、この島は人と大地、海、空をひっくるめて大家族という印象も受けました。多くの心豊かな人々との交流だけでなく、どこにでも不協和音的な体験はあります。しかし、ここからも何かを学びます。」

 「龍譚池の鯵」、「ヤモリとあんぱん」、「占いおばさん」、「沖縄に大型レジャー施設を?」、「タンカーユーウェー」、「ヒージャー汁で宴」、「島人たちの強さ」、「ここは神の国だから」など27編。
 表紙の緑色の色調がステキだと思う。