ドライブマップではありません。
 右か左か、すべての軍事力に反対か、それとも戦争がしたいのか、「おまえはどっちの立場なんだ」ということを問われずに、自由に自分の意見を言い、議論し合って、お互いが学び合える――そんな沖縄になってほしい。
 そんなことを願いつつ書かれた沖縄論、というよりも、ものの考え方の指南書のような趣きのある新書です。

 議論は何のためにするのか? それは相手を打ち負かすためではなく、自分の考えの欠点や浅さを指摘してもらい、より緻密でレベルの高い思考へともっていくための手段であると、著者は言います。
 それはわかります。でも、書いてあることは、沖縄のマスコミの偏重性とか、沖縄の排他性は日本の各地でも見受けられることだとか、必ずしもニュートラルなポジションで論じられてはいないような印象があり、首をかしげることも。
 そして、読者からそのような批判がなされても大丈夫なようにと、自由な物言いや議論は大事だとか、事前に無用な予防線を張っているような匂いがして、自分としてはすんなりと受け入れることができない部分がありました。

 そう感じてしまうのは、多少角度を変えこそすれ、この誌上で似たような論理展開を何度も繰り返して述べ過ぎているからなのではないでしょうか。
 それは、これまで書いてきたそう多くない論考を単純に1冊の本にして安易に出版してしまったからだ、と思うのですが、どうでしょう。

 内容は、雑誌でボツになった原稿とか、沖縄の新聞に投稿して「ただの感想文ですよね」と言われたものとか、自分の日記からの抜粋したものなどで構成されています。著者自らが「おわりに」でそう書いています。
 ですが、そういうものたちを著者の都合でオムニバスのようにして出版したところで、読者は納得しないのです。
 本は、著者の都合ではなく、読者にどう受け入れられるかが最重要な判断材料となって出版されるべきものだと思います。

 内容及び構成に難あり。
 厳しいかもしれませんが、これがこの本に対する自分の読後感です。
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9 少弐公園1 少弐公園からの眺め ~旧芦辺町・瀬戸浦

 男岳神社から15分ほどで到着した少弐(しょうに)公園。竜神崎という岬の先端部にあり、正式には「竜神崎園地」と言うようです。
 ここには元寇史跡や当時の壱岐守護代少弐資時(しょうにすけとき)の墓のほか、遊歩道やキャンプ場、そして少弐資時を祀っている壱岐神社などがあります。

 入口から進んでいくと、海の見渡せる広場に出ました。ああ、これまたいい眺め。
 この高台は古戦場。壱岐は国境の島として再三にわたり異敵の来襲を受け、最大の受難である元寇(文永・弘安の役)では、特に1281(弘安4)年、ここ瀬戸浦で激戦が繰り広げられ、善戦むなしく壱岐の守備隊は全滅したといいます。

 以下、現地に立っていた説明版を引用します。

・長崎県指定史跡 弘安の役瀬戸浦古戦場  昭和50年1月7日指定
 所在地:長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触(瀬戸浦一帯)
 弘安4(1281)年の、2回目の元寇の時、対馬・壱岐を侵して6月初旬に博多湾に来襲した元軍(東路軍)は、鎌倉幕府の守備軍との間で激戦を展開し、一時は水城(みずき、現福岡県太宰府市)にまで迫る勢いであった。しかし東路軍は幕府の予想以上の反撃に遭い、江南軍の到着が遅れたこともあってか、6月中旬になって肥前鷹島まで退いた。
 当時の壱岐島は元軍の博多攻略の根拠地となっていた。そのため鎮西奉行・少弐経資(しょうにつねすけ)は自ら陣頭に立ち、博多方面の警護をしていた薩摩・筑前・肥前・肥後の御家人達を率いて壱岐の瀬戸浦に攻めよせ、6月29日から7月2日にかけて元軍と激突することとなった。戦闘は主に港の内外を中心とする海上はもちろんのこと、瀬戸浦の両岸やその周辺の陸地でも激しく繰り広げられたという。
 瀬戸浦は2キロメートルに及ぶ狭隘な入り江を有し、西側には少弐氏の居館船匿城(ふなかくしじょう)があり、水軍の基地としては絶好の条件を備えていた。また壱岐から博多までの最短の地に当たることから元軍も拠点としていたものと考えられる。
 当時の壱岐の守護としては、今日わずかに文永10(1273)年11月16日の記録(「松浦文書」)にみられる武藤(のちの少弐)資能(すけよし)が確認できるだけである。
 瀬戸浦一帯が少弐氏の私領であったことから、その攻防戦は激しいものがあったと想像される。(この戦いについては「龍造寺文書」弘安5年9月9日肥前守護北条時定書状に、「去年異賊来襲時、七月二日、於壱岐島瀬戸浦令合戦由事、申状并證人起請文令披見畢」(去年(弘安4・1281年)、元寇が来襲した時、7月2日に壱岐の瀬戸浦で合戦に及んだという事、貴方からの上申書(恩賞を願い出た文書)並びに天地神明に誓った起請文で拝見した。)と記されている。)
 また、ここに築かれている積石塚は、少弐経資の三男、資時(すけとき)の墳墓であるとされる。 資時は当時19歳で一軍の将として勇敢に戦い、ついに倒れた。 資時は、壱岐守護代であったとも伝えられるが詳細については確認できていない。


10 少弐公園2 資時の墓 ~旧芦辺町・瀬戸浦

 少弐公園には、元寇当時の壱岐守護代少弐資時(しょうにすけとき)の墓がありました。
 その隣には資時公の記念碑も。

 1281年、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲った弘安の役では、芦辺町の瀬戸浦付近を中心に元軍とのせめぎあいが続いたということですが、この時、壱岐を守るため、元軍を迎え撃った中心人物が、壱岐の守護代少弐資時です。
 資時は、北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ち、船匿城(ふなかくしじょう)で戦死しています。その時、弱冠19才。永い間地元では「ショウニイ様」と呼ばれていた石積みの塚が資時の墓であると分かったのは、つい最近の明治31年のことだったそうです。

 日が傾き始めてきて時刻は16時30分。ゆっくりしていたいが先を急がなければ。
 ということであわただしく壱岐神社のほうへ。
 公園のすこし海のほうに行けば、碇石(いかりいし)という左京鼻沖で発見された元寇当時の船の碇と思われるモニュメントや、烽火(すすみ)や煙台(のろしだい)も見られ、展望台もあったようですが、時間を気にしてスルーしてしまったのは残念でした。


11 壱岐神社 ~旧芦辺町・瀬戸浦

 少弐公園に隣接して建つ壱岐神社へ。少弐資時(しょうにすけとき)と、亀山天皇、後宇多天皇を祀って昭和19年に本殿が造営された神社です。1500年の歴史をもつ壱岐の神社の中では最も新しい神社とのこと。
 「ショウニイ様」と呼ばれる石積み塚を600年以上も語り継いてきた地元の人々の信仰心がやっと形になったということなのでしょう。

 以下、極めて難解な壱岐神社の公式サイトを口語的に要約。

 祭神である亀山天皇、後宇多天皇は、元寇の役時の天皇で、伊勢神宮をはじめとした天神地祗を仰遊され、深き御神助のもとで元軍を西海の藻屑と消え失せしめ給うた。
 また、祭神少小弐資時公以下の将士と、戍申の役以来の護国の英霊等が、尊い命を捧げられた事蹟は、我々が永く敬仰して止まぬところである。
 壱岐島民は、昭和3年以来、当神社の創建事業を進め、戦時下の物資困難な時節にも各方面の援助を得て昭和19年、本殿の建設を見たが、昭和23年11月3日、祭神三柱の大神等の鎮座祭を執行し、また同27年には壱岐護国神社の鎮座祭を執行して護国の英霊を安鎮鎭し、同28年には宮内庁掌典長より祭祀幣帛料が大前に奉尊された。
 同29年には神宮局長が来社し、境内外の視察計画を樹立され、同30年には靖国神社より奉幣あり、同31年秋11月8日に靖国神社御分霊を奉遷し、同時に社名併稱の事となった。
 同年3月26日、遺族崇敬者を以て献饌講を結成するに当り、伊勢神宮より御稻種を下賜せられた。
 また、昨春(平成2年?)4月、祭神である両天皇の御尊影である宮内庁御原図の謹写を許され、本春4月21日、例祭に当って本殿の神座に奉安した。
 このように、皇室を始め遺族崇敬者、国民一般の厚い信仰の業蹟はただただ感激のほかありません。

 くーっ。これでもかなりわかりやすくしたつもり。
 もっと平たく書いてよ、こっちは平民で浅学菲才なんだからさ。


12 猿岩 ~旧郷ノ浦町・新田触

 旧芦辺町は、明日乗るジェットフォイルが芦辺港発なので明日また来るとして、次は島を東から西へと真横に横断して、名勝・猿岩へと向かいました。

 途中、1日40万リットルの湧出量を誇る湯ノ本温泉郷を通過。神功皇后が三韓出兵の帰路、ここに自噴している温泉を見つけ、応神天皇の産湯をつかわれたとの伝説がある、「子宝の湯」。しかし温泉一つとってもその由緒はすごいです。

 玄海灘から対馬海峡へと横断するので時間がかかるかと思ったら、所要時間20分余りで猿岩到着。
 駐車場の入り口の先に見えてきた猿岩には思わず笑ってしまいました。だってこれ、まったく猿の後ろ姿そのものなんだもの。誰が見たって猿。(笑)
 頭部の角度なんか、哀愁すら感じられて最高。しかも大きくて存在感がすごい。立派!
 湯本湾の西に突き出した黒崎半島の突端にある海蝕崖の玄武岩で、高さ約50m! 猿が左を向いた形で、頭と背中の部分に芝生が生えているのですが、それがまた本物らしさを演出しています。

 ただの岩なのですが、ここが壱岐一番の観光スポットになっているというのも大きくうなずけます。まさに、百聞は一見に如かず。サイコーでした。
 惜しむらくはここは、光の加減からいえば、西日のきつい夕方ではなく、東からの順光となる午前中に来るべきであった。そうしたならもっといい写真が撮れただろうになあ。

 なお、壱岐島誕生の神話によると、「壱岐の国は“生き”島で、神様が海中でこの島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと8本の柱を立てて繋いだ。その柱は折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれている」とあります。
 そして猿岩は、その8本の柱のひとつなのだそうです。


13 黒崎砲台跡 ~旧郷ノ浦町・新田触

 猿岩の駐車場からすぐのところに、東洋一の砲台跡といわれる黒崎砲台跡がありました。
 対馬海峡を航行する敵の艦船を攻撃するために、1928~31年までの間に建設されたものとのこと。

 口径41cmのカノン砲2門の砲台で、砲身の長さ約19m! 巨大な地下要塞として普通は海からは見えないようになっていたそうで、1tの弾丸を35kmも飛ばす威力があり、玄界灘をすべて射程内にしていたとのことですからすごい。
 しかし結局は、太平洋戦争時も含め、一発も実弾を発射することがないまま役割を終えたということです。

 現在は、カノン砲は撤去され、山に掘られた地下要塞の跡が残っています。
 入口に掲げられた図を見れば、地上に出ている砲身体、いわば戦車の砲身部分のようなところだけで150tあったといい、これを動かす動力室や弾薬室がその下にあり、写真の入り口はさらにその下にあるものだったようです。当時はさぞかしすごい基地だったのだろうと想像できます。

 写真右側に写る2つの砲弾は、右の大きいのが戦艦大和の主砲砲弾で、左側のものが黒崎砲台の砲弾。日本最大のものと大差はありませんね。
  oki-genshikou.gif  oki-senryoka.gif

 今年8月以降、これまでに買った沖縄本は、次の8冊。

 八月十五夜の茶屋         ヴァーン・スナイダー  彩流社         2310
 琉球王権の源流           谷川健一・折口信夫  榕樹書林         945
 虹の鳥                目取真俊         影書房         1890
 沖縄占領下を生き抜く       川平成雄         吉川弘文館      1785
 沖縄幻視行             波田野直樹       連合出版        2310
 琉球検事               七尾和晃         東洋経済新報社   1575
 世界の沖縄学            ヨゼフ・クライナー    芙蓉書房出版     1890
 私はフーイー 沖縄怪談短篇集  恒川光太郎       メディアファクトリー  1575

 これらには中古本は含んでいません。
 今年に入ってから買った沖縄本の数を数えてみると、古書も含めて53冊ぐらい。
 今年の読破数はだいたい50冊超となる見込みなので、この1年、数だけをみれば、読む量と買う量のバランスが概ねとれていたということになります。
 しかし、未読本のストックの山はますます高くなっているような気がする。
 なので、よく眺めてみると、確かにボリュームのある本が多いんだな。むしろ、薄い本が少ないと言おうか。

 近時を振り返ってみると、ずっと欠かすことのなかった就寝前の読書が、睡魔のために遂行できない日が多くなった。それも、このところはほぼ連日だ。
 寝床でメガネをはずせば字が霞むし、重い本は腕が疲れるし、眠気のために重い本が顔に落ちてきたら危ないし・・・。
 あ、そうか。だからボリュームのある本が未読になって残るのか。・・・ナルホドなぁ。

 なんて、ツマラヌことに感心してどうする。

 最近買った本のリストを眺めていて思うのは、お固い本が多いということ。沖縄関係の出版物のこのごろの傾向として、基地とか沖縄戦とか沖縄特有の政治問題を扱ったものが多い。かつては癒しや沖縄の緩いイメージ、ユニークな文化・風俗などを取り上げたものが多かったものなのだけれど。
 なので、リスト中の「虹の鳥」「私はフーイー」などの文学、ミステリーなどにどうしても興味がいってしまい、分厚くて固いものは残っていってしまうということなのだろうな。


 2004年に発行されたものを古書店から入手。
 当時は沖縄おばぁ本が流行っており、そんなおばぁ本なんて何冊も買うまでもないだろうと考えてスルーしていたのですが、当時から10年近く経ってみるとそんな時代のことも懐かしくなってくるもので。

 何よりも、執筆陣がいいです。沖縄の「今」に関する自由記述をさせるならこの連中がベストと思わせる人々は、統率者である下川裕治、仲村清司の二人のほか、嘉手川学、飯塚未登利、桑原花子、おりべえりあ、島袋直子、嶺井直美、中嶋栄子、長嶺哲成ら。
 ら、と言っても、彼らの大部分については詳しくは知らないのだけど、双葉社やボーダーインクなどが発行する沖縄脱力系おもしろ本にはよく登場する面々なので、名前とその文章にだけは頻繁にお目にかかっているのです。

 さてこの本。沖縄では、おばぁの言うことには口答えできないという「おばぁ本位制」が敷かれ、いまやおばぁは身勝手の権化ともいわれる神の領域にまで昇り詰めつつあるといいます。そんなおばぁがいる36店に恐れつつも入店し、頼んだ注文をおばぁの都合で変えられてもつい「うまい!」といって食べてくるようなことを繰り返したつくりになっています。

 登場する名店は、牧志第一公設市場周辺の肉屋、食品店などから始まって、謝花きっぱん店、金城天ぷら屋、山城まんじゅう、石垣島離島桟橋脇のおみやげの店瀬戸など。
 大衆食堂・そば屋のジャンルでは、噂に名高い名店がわさわさで、コザ食堂、金壷食堂、ゲート通りの南京食堂、イラブー料理のカナ、宮古島のよしこ食堂、石垣島の来夏世、名護のブラジル食堂、やかんそばつゆの名護の八重食堂など。中にはすでに閉店してしまった店も出てきていますね。
 その後も、店側と客の双方が年金生活者で成り立っていると噂のおばぁスナックや、マイペースのおばぁ民宿の紹介が続きます。

 読後感はゆるゆるで脱力感が漂いますが、ある意味、人間が長い間生きていくというのはこういうことなのかもしれず、そういう人生を周りの人たちが尊敬の念を抱きつつやさしく見守るというのが古来、日本人としての流儀だったのではないかと思い当たります。
 沖縄にはそういう、本土の人々が失いつつある生活の流儀がまだまだ色濃く残っている、とも言えるのでしょう。

 基地問題とか政治とか、沖縄をめぐっては近年小難しい出版が多くなっていますが、おもしろい沖縄をアピールするこの類の本はもっと多く世に出されればきっと受けるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 今年一年、お世話になりました。
 一足早いですが、感謝の気持ちを込めて、年賀状をお送りします。
 では皆様、よいお年をお迎えください。