1 壱岐のレンタカー

 対馬をジェットフォイルで発ち、次なる目的地は壱岐の島。
 対馬から来て壱岐で降りる人は予想以上に多く、数十人いたでしょうか。列の最後のほうからジェットフォイルのタラップを降りると、ぬゎんと、目の前に予約を入れていた玄海レンタカーのおばさんが看板を持って立っていた。これはもう、迷うなどということは絶対ないな。
 沖縄の離島なんかだと、民宿の迎えが来ていないとか、もたもたしているうちにもうマイクロバスが行ってしまったとか、何かかにかあるものなので、こうも完璧にマークされてしまうとなんだか気恥ずかしさも感じたりして。
 それに、たまたまなのかどうか、対馬からのこの便でここからレンタカーというのは自分くらいのもののようだ。

 どうぞどうぞと一人だけワゴンに乗せてもらい、港の様子を見るいとまもなく営業所に向けて出発。
 さっそくやさしそうなおばちゃんに壱岐についていろいろ訊いてみる。
 御多分に漏れず人口が減ってきていることや、対馬とは違って韓国人観光客はほとんどいないこと、大きくない島なのでおおかたの観光地はたやすく見て回れること、高齢者が多く道が狭いのでゆっくり運転を心掛けたほうがよいことなど。

 郷ノ浦の市街をほぼ突っ切ったところにある営業所で手続を済ませ、24時間ちょうど1万円でスバルのステラをゲット。
 車の調子はなかなかよく、対馬のレンタカーより程度は上。エアコンの効きもこちらのほうがよさそうだ。

 さっそく発進して島のメインストリートに出ると、ここもまた対馬と同じサバニ国道!(笑)
 片側一車線の、とは言っても対馬よりもずっと平坦かつ幅の広い道路を、まずは一路、北の拠点勝本を目指します。
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2 城山公園1 ~旧勝本町・勝本

 対馬の広大さから比べれば壱岐はぐっと小ぶりで、南の郷ノ浦から北の端の勝本まで走っても、ものの数十分で着いてしまう。このぐらいの大きさのほうが、「島」らしくていいよなあ。

 勝本の集落の手前にある城山公園へと行ってみます。
 ここは勝本城の城跡。勝本城は、1591年、豊臣秀吉が朝鮮出兵に備えて平戸藩主の松浦鎮信(しげのぶ)らに命じて海抜80メートルほどの山頂部に築城させたもので、国指定の史跡。文禄・慶長の役時には、兵士の食糧や武器などの補給や修理をする軍事基地の役割を果たしていたのでしょう。
 一の門と二の門の間にあった枡形と、その左右の石垣が残っており、蕉門十哲のひとりである河合曽良(かわい そら)の墓や句碑があるとのこと。

 城跡からは勝本の港を一望することができるというので、サバニ国道沿いにある広い駐車場に車を停めて、またまた山登り。この日はずいぶんヒーコラ山に登るよな。

 で、登って行った先にあったのがこの唐突な柱状物。ナンダコレハ?
 近くに立っていた説明版を読むと・・・。

《曽良翁終焉の地に諏訪の御柱を贈る》
 この巨木は、平成16年の式年造営御柱大祭に諏訪大社上社本宮に建てられた御柱で、境内地に鎮座した御神木である。
 平成22年庚寅年の大祭をもってその役目を終えたのを期に、諏訪に生まれ壱岐に客死した蕉門十哲の一人曽良翁の終焉の地である姉妹都市壱岐市に御柱を建立することを企画し、諏訪大社に請うて、諏訪市がこの御柱を譲り受けた。
 長野県無形民俗文化財「諏訪大社の御柱祭り」のシンボルである御柱を、壱岐市との末永い友好親善を願って、ここ勝本町城山の地に贈る。
 平成22年11月6日 長野県諏訪市

 ほほう、曽良つながりであったか。・・・でも、唐突だよな。


3 城山公園2 ~旧勝本町・勝本

 どうやら御柱が立っている場所は、公園に至る途中のよう。さらにずずいっと進んでいくと「城山公園入口」の看板があり、また石段を登って鳥居をくぐると、石垣が見えてきました。このあたりが城跡部分なのでしょうか。

 そうしてたどり着いた山頂部分と思しき所にあったのが、「城山稲荷神社」

 神社の前にあった由緒書きを移記。
「天正19(1591)年、豊臣秀吉は風本(かざもと)城を築きました。
 文禄の役がはじまるとともに、壱岐の各地で秀吉率いる軍の海上安全と戦勝の祈願が行われ、天正20年にこの稲荷神社もまつられました。
 戦役の終了後は、勝本浦の人々のあつい信仰の場となり、現在まで長い間まもられてきました。
 毎年、旧暦2月の初午の日に一支国(いきこく)の大神楽が行われ、海上安全・大漁満足・家内安全・商売繁盛祈願のお祭が行われています。 城山稲荷神社講中」

 赤く塗られた鳥居が連なっており、なかなかチャーミング。
 それにしても、こんなちいさな社殿のものが軽く400年以上の歴史を刻んでいるということにオドロク。

 ここから、来た道と反対方向に、下りの道があり、この先に「河合會良の墓」があるというので進んでみましたが、どうもあまり使われていない道のようで、結局発見することができずに反対方向の下道まで来てしまいました。ちぇっ。

 なお、河合曽良とは、1649年、現長野県諏訪市に生まれ、35歳の時に松尾芭蕉に入門。1710年に、巡見使一行の随員として壱岐勝本に来たものの、旅の疲れからか病床に臥し、当時海産物商を営んでいた中藤家で62歳の生涯を終える。
 曽良の墓は勝本城跡中腹の能満寺上の中藤家の墓地にあるのだそうです。

 う~む。山越えまでしていっぱい歩いたわりには、収穫は少なかったかな。


4 勝本港 ~旧勝本町・勝本

 そして、壱岐の北端、勝本の中心へ。
 けっこう活力のある町のようで、港には漁船がずらり。ずいぶん多いぞ。烏賊釣り船かな。
 新鮮な魚介類を供するのであろう民宿が多く、地元民や観光客をあちこちに見かけます。
 海岸線に沿う道路には大きくて新しい建物が並んでいます。また、採れたての海の幸、山の幸が並ぶ朝市は、地元の人や観光客でにぎわうのだそうです。

 調べてみたところ、対馬海峡に面する勝本港は、古代から北の玄関口として大陸交通の要衝として栄え、江戸時代は捕鯨基地として栄えた港町。ナルホド、捕鯨か。
 そして近年は、壱岐周辺の好漁場を生かしイカ、ブリ、タイなどの漁業を中心とした約700隻の漁船を有する西日本有数の漁業基地となっている、と。

 また、「勝本」の地名の由来は、神功皇后が三韓征伐の折、ここで風待ちのために滞在し、ちょうど良い風で出発することができたので、この地を風本(かざもと)と呼ぶようになり、その後三韓征伐で勝利したので、帰国する途中に再度寄った際に「勝本」と呼ぶようになった、とのことです。


5 壱岐のバス

 壱岐ではけっこうあちこちでバスが走っています。壱岐交通という会社が運行しているようで、車体には「IKI BUS」のロゴが入り、水色と赤のペイントが施されています。

 比較的年式の新しいバスが多いと感じました。バス会社の経営はいずこも厳しいと思いますが、その中にあってここは比較的経営状態は悪くないのではないか。

 調べてみると、交通のほか自動車関連、生活関連、物流、情報・金融、教育・福祉事業などを幅広く手掛ける「昭和グループ」というところが経営権を持っていて、グループ全体の従業員約5千人、年商は1,600億円以上あるらしい。やっぱりね。

 写真に写っているバスは、15時26分に勝本を出発し、芦辺、印通寺を経由して、17時前に郷ノ浦に到着する便。これだけ経由すれば1時間半はかかるよな。

 千円で買える「一日フリー乗車券」というのがあるそうで、のんびり周るならこれを使うという手もありそうです。


6 勝浦聖母宮 ~旧勝本町・勝本

 手持ちの地図に「聖母宮の茶つぼ」と書かれているポイントがあったので、「ソレハナニカ?」と狭い道に入り込んでみたところ、到達したのが聖母宮(しょうもぐう)でした。

 勝本浦の北の端に位置し、ここもまた神功皇后ゆかりの地のようで、創建は養老年間というから西暦700年代前半の古社です。
 1770年頃には、鴻池家、三井家と共に日本三大富豪とも言われ、また日本の鯨王ともいわれていた土肥家がこの勝本にあり、その土肥家が厚く信仰した神社であるとのこと。

 以下、聖母宮の境内にある案内板から移記。
『旧号  香椎大明神 聖母大菩薩
 鎮座地 壱岐郡勝本町勝本浦正村
 祭神  息長足姫尊(神宮皇后) 足仲彦尊(仲哀天皇) 誉田別尊(応神天皇) 住吉大神
 配祀  天照大神
 由緒
 「壱岐名勝図誌」によると、仲哀天皇の9年神宮皇后は、肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向けて3,270艘の軍船を出発させた。
 この時、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ、東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。
 壱岐すなわち風早の島についた皇后は、風まちをして対馬の鰐津に向けて出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ、出兵の勝利を祝い勝本と改められたという。
 皇后は、出兵の往来にさいし行宮(あんぐう)を勝本に建てられたが、御殿はその後放置されてしまった。
 しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので、里人は鏡を御殿に納めて神功皇后を神としてまつったのがこの神社であると伝う。
 また、一説には異敵の首101,500を持ち帰った皇后は、風本の浜に穴に掘って埋められ、9町8反の石の築地を一夜で築き、その上に宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとある。』

 ふむふむ。対馬の鰐津は、前に書いた鰐浦のことで、その地名は、日本に漢文と学術を伝えた王仁(わに)が九州に渡るときの経由地だったことから生まれたものでしたよね。
 「仲哀天皇の9年」とは、西暦200年の頃の話なので、史実というよりも伝承。なので、最後の異敵の首云々の話も伝説なのでしょう。

 案内板は続きます。
『文化財
 昭和47年に長崎県指定有形文化財とされた茶壺が有名。壺の銅部に「進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちやいれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗靏沙門(花押) 天正廿年 敬白」の銘がある。
 その他に数多くの文化財が伝えられているが、神社の西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進されたと伝えている。
 この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという馬蹄石がある。』

 はぁ、長い文章の看板だな。
 これにて「聖母宮の茶つぼ」の謎は解ける。

 ちなみに「西門」は、1592年に肥後熊本城主・加藤清正が朝鮮出兵の際に寄進したものですが、1768年に勝本の鯨組土肥家4代・土肥一兵衛により脚部が取り替えられ、またこの時、蟇股が加藤家の「蛇の目」紋から土肥家の「中陰の蔦」紋に替えられています。栄枯盛衰、諸行無常、金権にはかなわじ。
 また、「南門」(脇門)は、1592年に肥前佐賀城主・鍋島直茂が寄進。蟇股には加藤家の「蛇の目」と鍋島家の「抱茗似」紋が陽刻されています。しかし、鍋島家寄進の門に加藤家の家紋があるはずがなく、もしかすると、1768年に西門から取り去られた加藤家の紋章入りの蟇股が組み込まれたのかもしれない、といわれているそうです。

 境内にあった手水鉢はなんと南洋産の大きなシャコ貝でできています。驚いたのでシャッターを押してみました。

 なお、「香椎大明神 聖母大菩薩」とあるので福岡の香椎宮のHPを見てみたところ、「神功皇后は安産の神としても崇敬され、聖母大明神ともよばれた。」というくだりがあったので、付記しておきます。

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7 男岳神社 ~旧芦辺町・箱崎

 勝本港を離れ、その東側にあるイルカパークの入り口まで行ってUターンし、男岳神社(おんたけじんじゃ)の石猿群を見に行きました。
 神社の拝殿横の石段には200体を超す石猿が並んでいる――というので、これはおもしろそうと、けっこう期待して臨みます。
 山がちな道をぐりぐりと登り進めて、男岳山の頂近くにある傾斜のついた駐車場に20分ほどで到着。おそらくここは、今でこそ車で来られますが、地形から察して山全体が御神体で、人が入ることを拒む禁足地だったのでしょう。

 社殿へと続く急な石段を登っていくと、おお、いるいる、たくさんの猿。
 なんでも最初は、牛の健康や繁殖を祈願して石の「牛」を奉納していたらしいのですが、最近は家内安全、合格祈願、子宝祈願、交通安全などなど、なんでも祈願し、成就したら石猿を奉納するようになったのだそうです。それはこの神社の祭神が猿田彦命(さるたひこのみこと)だから?

 古いものから新しいものまでやはり猿が多く、親子の猿や、「見ザル聞かザル言わザル」の3点セットなども。一方で、牛もけっこうあります。
 ひとつひとつには亡羊としたものから愛嬌たっぷりのものまで各様の表情があり、観ていておもしろい。でも、夜だったなら怖いかも。

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8 男岳神社からの眺め ~旧芦辺町・箱崎

 神社入り口の鳥居の右側には、その場にふさわしくないような大掛かりな展望台がありました。
 壱岐で2番目に高い「男岳展望所」というもので、ここからはそう大きくない壱岐の島の全島が見渡せます。
 眼下には男女岳ダムなどが見え、遠くには芦辺の町と港も。
 こんな山の中の神社にまで足を運ぶ観光客はそう多くはなく、というか、この時間帯には自分しかいず、このパノラマを独り占め。ある意味とても贅沢といえるのかもしれません。

 次は、今展望所から眺めている芦辺の町へと向かいます。


 以前からずっと読みたいと思っていたこの本を、ネットの古書店でゲット。中古なのにコシマキが痛まずに付いているという極上本でした。
 1992年に発売されたオキナワン・エッセー。
 女性らしい好奇心というか、ギラギラとしたそれではなく、やさしいまなざしとともに驚き、心を動かし、あきれ、笑う――といった感じのもので、沖縄が一大ブームだった当時を髣髴とさせます。

 祖父母の代から東京に住む都会っ子の著者は、都市が好き。さまざまな人間の暮らしぶりが無意識に織りなした都市の模様を求めてニューヨークで執筆活動を行いますが、バリ島を訪れて以来島への興味を持つようになり、その後沖縄へも通うようになります。
 そして、沖縄に行くようになってからは、「島」という空間について考えはじめ、思い入れや憧れではなく、縁のようなものに背中を押され、都市空間だけでは満たされない至福の時を島で過ごすようになります。

 島の行事、出会った人、芸能、霊魂の世界などこの島特有の様々な面を描くことで、人間が生きる根源に触れることができる沖縄という島を浮かび上がらせたいという思いで描いた――とは、あとがきの弁。
 ん。そのとおりに表現できていると思いますよ。

 初出は、1988~91年に「コーラルウェイ」などで書かれたもので、これらは「バスに揺られて」「スクが来た!」「沖縄式結婚式」「豆腐以前」「世乞い」「鬼餅の香り」「お笑いの女王」など27編。
 これらに書き下ろしの「マブイを落とした話」「霊の力」「リキオ」を加えての発刊です。
2012.11.13 スクが来た!


☆「透きとおった魚 沖縄南帰行」 大竹昭子著から

 沖縄本島の備瀬湾を見下ろす小高い丘の上。木陰のテーブルに座って男たちはさっきからずっと海を見ていた。テーブルの上には双眼鏡がひとつ。見つけたらすぐに出られるように浜にはサバニ(沖縄の釣り舟)が用意してある。連中は一体どこにいってしまったのか……。
 スクは謎の魚である。産卵期になると親魚のアイゴは群れをなしてリーフを出てゆく。そして旧暦6月1日に近い大潮の日に生まれたばかりのスクがもどってくるのだ。そのときスクの群れで海の色が変わるという。どうしてこの日に大挙して帰ってくるのか、理由はだれにもわからない。
 スクがリーフに寄ってくる日、男たちは朝からこうして見晴らしのいい場所で魚の群れを探す。そして魚影が見えるやいなやサバニに乗って海に飛びだす。食事中でも箸を投げてすっ飛んでいくほどだ。スクがリーフに入ると藻を食べて味が苦くなるから、その前に捕獲しなければならない。
 と突然、ざわめきのようなものが上がった。いくぞ! と声がする。席を離れていたわたしはあわてふためいた。男たちが飛ぶように浜に下りていく。ほんとに急な話である。坂をころがるようにしてその後を追った。
 さっきまで木陰にのんびりくつろいでいた男たちは舟の上では別人のようだった。荒々しいウミンチュ(漁師)に変貌している。わたしは揺れる舳先でおろおろするばかりだ。魚群に追い付くと男たちは網をつかんで海に飛び込む。そして群れを追い込むやいなや、一気に引きあげる。
 サバニの中はぴちぴち跳ねるスクで埋まった。小さな透きとおったからだに筆で一刷きしたような銀色の線。うっとりと眺めるほど美しい。
 サバニは群れを追ってなおも進んだ。うずうずしてついにわたしも飛び込み、水にもぐって網の後ろで待った。するとやってきたのである。大群がまっしぐらに突進してきたのだ。オオッ、ウォー! 興奮して自分でもびっくりするような大声を上げてしまった。
 年一度のスク漁は、プロばかりではなく、希望すればだれでもにわかウミンチュになれる絶好のチャンスである。勤めを休む人もいれば、ポケットベルが鳴って仕事場からすっ飛んでくる人もいる。2、3日休暇をとってわざわざ里帰りする人すらいるのだ。それほど男たちを夢中にさせる魅力が、スク漁にはある。
 収穫した魚は竜宮の神様に供えてから漁に出た人たちで分配する。ベテランであろうと初心者であろうと差別はない。海で一日を過ごした者同士が等しく海の恵みを分かちあう心やさしい習慣である。
 夕暮れとともに木陰のテーブルで酒盛りがはじまった。スクといえば公設市場などで売っている塩漬けのスクガラスが有名だが、もっとうまいのは刺身だ、とみんなは言う。魚を酢でしめたものを沖縄では刺身と呼ぶ。
 水洗いしたスクに酢をかけてかきまぜる。こうすると背びれにある毒が中和されるそうだ。それから唐辛子を入れ、すだちに似たシークヮーサーをきゅっと絞る。こりっとした歯ざわり。潮の香り。口の中に沖縄の夏が広がる。

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 読みたいなと思い始めてから長い間手に入らなかった、芥川賞受賞作であるこの作品ですが、このたび復刻されて文庫本として発売されたのを知り、沖縄美栄橋近くのジュンク堂書店で入手。
 1967年に文藝春秋社から発売されて以降、1975年、1982年にも他の出版社から発行された経緯があるそうですが、それから約30年を経過しての再発となります。
 発行部数が少ないこともあるのでしょうが、解説を含めて320ページに満たない文庫なのに税込みで1,092円もする。高いよなぁ。でも、読めるのだからシアワセか。

 沖縄初となった芥川賞受賞作の表題作のほか、「亀甲墓」、「棒兵隊」、「ニライカナイの街」。そして最後には、日本語版未発表の「戯曲 カクテル・パーティー」と、全5編が収録されています。

 このうち「カクテル・パーティー」は、米軍統治下の沖縄で、日本人、沖縄人、中国人、米国人の4人が繰り広げる親善パーティー。そのとき米兵による高校生レイプ事件が起こり、国際親善の欺瞞が暴露されていく――という筋書き。
 米軍属に暴行を受けた娘を持つ主人公が、不利だとわかっている裁判に事件を訴えることを決意するまでの展開を描いた物語になっています。
 1995年に起きた少女暴行事件をはじめとした数々の基地被害を思い出させるだけでなく、依然として基地の重圧が押し付けられている沖縄をめぐる複雑な政治状況をも浮かび上がらせ、この小説がけっして古典になることはなく、同時代的な緊張を読む側に提起する力を持っていることがわかります。

 長く全集や文学選などのアンソロジーでしか読めなかったこの作品が、今では文庫で読める、という意味は非常に大きいと思います。

 沖縄で買って、山形に連れてこられ、読み終えたのは三重県に出かけての帰りの新幹線の中。自分に買われたばかりにずいぶんと旅をさせられた本となりました。
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 1996年10月に上梓されたものを、1999年に文庫化したもの。
 孤高の日本画家・田中一村は、奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた人物。1908年生まれで1977年没。
 1958年というから、50歳のときに新天地の奄美大島に移り、大島紬の職工として働き、いくばくかの生活資金がたまれば画業に専念するというつつましい生活をしながら、「花と鳥」「ダチュラとアカショウビン」「アダンの海辺」「高倉のある春景」「花と蝶」などの作品を世に残しました。

 田中一村についてはこれまでに、「日本のゴーギャン 田中一村伝」(南日本新聞社編、小学館文庫)、と「田中一村 豊饒の奄美」(大矢鞆音著、日本放送出版会)を読んでいて、その人となりや作風、作品に対する一般的な評価などについて一定の理解と自分なりの人物像を持っていたつもりでした。
 しかし、この作品によって、画家・田中一村に対するこれまで感じていたものとは別の人間性を見つけたような気になり、とても興味深く読ませてもらいました。

 「紬工場に通いながら絵を描いている、田中という変わったジイさんがいる。背が高くて痩せていて、いつもランニングシャツにステテコの身なりで、地下足袋かゴム草履を履いている。」
 冒頭にあるこの一節は、田中の普段の身なり、格好を表現していると同時に、彼の実像を知らず、彼を遠巻きに見ているだけの人たちの皮相的な評価でしかありません。そのことは、本を読み進めるにしたがってじわじわと読者に伝わってきます。その意味でこの一文はひとつの「入口の仕掛け」になっているように思います。

 そんな一村と、ちょっとした会話をしたことから親しくなった宮崎鐵太郎・富子夫妻の述懐を中心として物語は進んでいきます。
 華やかな画壇での活躍をあきらめ、自分の求める絵を描くためだけに、周辺の事象をそぎ落としてストイックに生きる姿は時に痛々しくもありますが、道を究めるというのはこういうことであり、道をまっすぐに進むことはただただ美しいのだなという思いを強くしたところ。

 著者は一村を追うにつれ、また別のことを感じたようです。
 あとがきに書いていますが、一村の絵には奄美独自の神観念が随所に満ちているのではないか、と。
 そして、一村が(本土時代の戦時中に)観音像を描いた過程は、奄美の神が一村を遠くから駆り立て、奄美での画業に旅立たせるための「神ダーリ」ではなかったか。結果的に、奄美で神を描き、奄美で没するのは運命だったのだ、と私は思う。「一村を知ることは奄美を知ることであり、奄美を知ることは一村を知ること」と、思うこともある。――と書いています。

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 2008年に単行本が発売されたときに買おうかと思いましたが、近いうちに文庫化されるだろうと考え、ずっと待っていたもの。4年後の文庫化です。
 でも、文庫でも940円。高っ! それなら単行本を中古市場から買ったほうよかったかも。

 時代は、屋良朝苗が主席公選で米軍の思惑を裏切る形で当選を果たした翌年の1969年、施政権返還直前の沖縄。
 主人公は伊波尚友。奄美大島生まれで、施設に預けられて育った経歴を持つ、英字新聞社の若手記者。
 伊波はある日、ホワイトとスミスと名乗る二人のアメリカ兵から、反戦活動に関するスパイ活動を行うよう買収されます。
 離島出身のために幼少の頃から差別を受け、沖縄にも日本本土にも憎悪を募らせていた尚友は、アメリカのグリーンカードの取得を条件にその仕事を受け入れ、基地の街コザに移り住み、反米・反基地活動に身を投じながら情報を集めていきます。

 尚友を彩る交友関係は、施設時代から様々な面で彼の一枚上を行っていた比嘉政信や、同じ施設育ちで黒人兵の強姦によりウチナーンチュとの間に生まれた照屋仁美など。
 コザの猥雑さや荒んだ雰囲気、特飲街からただよう麻薬の匂いや女たちの嬌声、ごついアメリカ兵たちの体臭など、アナーキーなものが行間からぎしぎしと伝わってくるような文体です。

 上巻だけで700ページ以上ある大作ですが、次はどうなるのだろうと興味が持続、増幅していくようなエンターテインメント性があります。

 2012年8月の壱岐・対馬旅行の際に持参。本には当時の飛行機の搭乗券がはさまっています。


 『やまとーんちゅにとっての非日常がうちなーの日常だった。この25年間、うちなーんちゅは戦場で暮らしてきた。土地と権利を奪われ、人格を貶められ、時に命さえ簒奪されてきた。施政権返還後も、その現状は変わらないだろう。この島に米軍基地がある限り、だれが施政権を握ろうが、なにも変わりはしない。
 その基地を攻撃する。愚かなうちなーんちゅが襲撃する。そう考えただけで目眩を覚えた。その目眩は性的興奮すら伴っていた。』――本文より。

 主人公の尚友は、罪の意識に苛まれながらも、施設でともに育った混血の美女、照屋仁美との関係を深め、その関係に日に日に溺れていきます。
 一方で、幼なじみの比嘉政信やヤクザのマルコウと組んで密かに進めていた米軍からの武器調達にも成功し、基地内の核兵器収容施設を襲撃してすべてを木っ端微塵にする計画はいよいよ実行段階に入っていきます。
 そして襲撃のクライマックスは、1970年12月20日のコザ暴動とオーバーラップして・・・。

 返還前夜の沖縄で実際に起こった出来事にフィクションを織り込み、見事なまでに沖縄の過酷な現実に切り込んだバイオレンスノベルに仕上がっています。

 しかし、描かれている状況はけっして過去のものとして見過ごしていいものではなく、現在の沖縄にも当てはまるものがあります。
 つい先ごろ、読谷村の民家に泥酔した米兵が押し入り、3階の自室で寝ていた少年を殴打するという事件が発生しました。
 これだけ長い間沖縄の住民を苦しめてきた理不尽な悪法、日米地位協定ひとつをとってみても、それを変えようとしないアメリカと、見て見ぬふりをしている日本があり、基地内に逃げおおせば住民に何をしてもかまわないという米兵がいます。
 それでもウチナーンチュは我慢していろという現状を打破できないことについて、どうしようもない苛立ちと空しさを感じざるを得ません。
 伊波のような行動は異常かもしれませんが、その気持ちは痛いほどよくわかります。


 現代沖縄・琉球史研究陣の旗手による「琉球史」。
 琉球王国が、内側からの視点のみならず、アジアの海原に位置づけられ、さまざまなまなざしを交叉させることで、ダイナミックなドラマとして綴られています。

 1980年の作品ですが、その後1989年に地元ひるぎ社から新版を出したものの絶版。そしてこのたび(2012年)、ちくま学芸文庫として再刊されたものです。志向のロングテール現象があるといわれるこの時代、いい本はこのように再版されて手に入れることができるのですね。(詠嘆)

 著者は、「沖縄」ではなく「琉球」という表現を用い、「琉球」が内包するダイナミックな世界を復権させたい、今を生きる沖縄県民のために「琉球」を我々の側に取り戻したい――という強い意志を込めて、タイトルを「琉球の時代」としたといいます。
 そして、学術書として書くのではなく、なるべく読み物風にとりまとめてみたいと考えたとのこと。

 その意図は見事に実現されており、琉球という国の全体像がつかめ、そこに生きた人の息づかい、激しい攻防、悲しみや喜びの声、危機に直面したときの苦悩のため息、それに立ち向かうための論議の場面などが、当時の琉球の風景と共に、手に取るように伝わってくるものとなっていました。
 多くの資料をベースに難しいことを簡単に、しかも読者にとって興味深く読めるものにすることというのは、なかなか一般的な学者にとっては至難なことで、蓄積を噛み砕き、自分のものとして提出できる高みにたどりついた高良倉吉のならではの表現力と言っていいのではないでしょうか。

 「マラッカにて」をプロローグとし、「黎明期の王統」「琉球王国への道」「大交易時代」「グスクの世界」「尚真王の登場」「琉球王国の確立」の6章。そしてエピローグに「古琉球と現代」。
 与那原恵による巻末解説もなかなかいいです。

 平易に読める良書。この本の位置取りとしては、1冊目は琉球史の概説(入門)書として、沖縄・琉球に関する「2冊目の入門書」といったところでしょうか。


 石垣島の市街地より西へ約4キロのところに、石垣市唐人墓という観光地があります。
 その墓の紹介文として、「1852年、イギリス船に奴隷として乗せられた中国人が石垣島に逃げ込み、島人にかくまわれたが、イギリス兵が見つけ、128人を殺害してしまう。その霊を祀る」――と記されていますが、この記述は年代以外すべて誤りなのだそうです。
 この石垣島唐人墓が誤って紹介されている現状をなんとか改めたい、また、江戸の末期、琉球国の南の島を舞台に起った、ほとんどの日本人が知らない国際的な事件を広く伝えたい、との思いで書かれたのがこの本です。

 「琉球王国評定所文書」を中心に、それで欠けた部分を「島津斉彬文書」で補いながら、それらを日誌風に現代文に書き直して時系列的にまとめたもの、との体裁になっています。
 その意図は悪くないと思いますが、それらを解説する部分が少ないからか、読んでいるうちに著者が何を言わんとしていたのかを見失ってしまいそうになるといううらみがあり、一般人にとってはもう少しわかりやすい構成にしたほうがいいかなと思いながら読みました。

 当時、琉球国の光の部分はもっぱら首里を中心にありましたが、薩摩を恐れ、中国に遠慮し、その間を巧みに渡り歩いていく上で、役人たちは卑屈になることに馴らされ、やがて自分たちの卑屈さにさえ気づけなくなってしまいます。
 そしてそのしわ寄せは、首里から遠く離れた八重山の島民に次第に重い負担としてのしかかっていったわけですが、その様子が随所に読み取ることができます。

 章立ては、「サンビャクトゥヌピトゥヌパカ(三百唐人墓)」、「事件の発端」、「事件の急展開」、「唐人護送へ」、「事件の新展開」、「苦悩の始まり」、「唐のお指図」、「帰国の途へ」、「石垣市唐人墓―虚像の背景」。

 「唐ご都合向き」を最優先させた琉球政府。白い米を食べ、薬を与えられ、医者に診てもらう唐人のかたわらに、人頭税と飢餓と疫病に苦しむ自国の民である島人がいる、という異様な風景。
 琉球国の陰の部分を照射すると、卑屈な首里王府の役人と哀れな島民の姿が見えてくるという、虚しくも悲しい後味が残る作品でした。
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 うちな~噺家・藤木勇人のウチナーグチをテーマにした2009年発行の本を、中古本市場で496円でゲット。
 著者は、地球温暖化で日本本土の亜熱帯化が進めば、ヤマトンチュも沖縄流のものの考え方やあり方を心のどこかに携えることは意義のあることであると。そして、生きにくい世の中ではあるが、この本で紹介する古今の沖縄言葉に親しみ、糧とすることで、少しでも心豊かな生活を送ってほしいと、「はじめに」で述べています。

 内容はまったくそのとおりのデキで、楽しい一人漫談をリラックスして聴いているような気持ちになれます。またその時間はあっという間に経過します。楽しいからね。
 これが496円で味わえるって、すごくステキなことなのではないか。
 本こそもっとも金のかからない趣味だと再認識したところ。

 「ある日、知り合いのオバァがショウブを持ってきまして。シンジムンにして飲めば、蓄膿症に効くというんですね。これが恐ろしく苦いんですよ。騙されたと思って飲んでいたら・・・、治ったんですよ、コレが!! バカにできないよぉ、薬草。」(「シンジムン」より)――といった調子。

 登場するウチナーグチは、そのシンジムンのほか、ミジラシムン、チョッチュネー、エンダー、トゥビアーマー、ヌチヌグスージ、チョーギナー、ミチジュネー、チムグクル、チブル星人など、全部で62項目。
 でもこれらはウチナーグチの解説にとどまってはいず、むしろその言葉をキーワードにした藤木の自由律になっており、ジャンルとしては彼のエッセーの範疇になるのでしょう。


 「砂の剣」に続いて2010年10月5日に発行された、比嘉 慂(すすむ)のアンソロジー。
 1995年から2000年にかけて執筆され、ビッグコミック増刊号、ビッグゴールド、アックス76に掲載されたもので、単行本としては未収録だった作品を集めたものとなっています。
 コシマキのキャッチコピーは、「沖縄を舞台に物語を紡ぎ続ける比嘉慂が、現代を題材に描いた未収録異色作を一挙収録。基地をめぐる人々の“寓話”集」となっています。

 作品は全部で7つ。「軍用地主」、「黙認耕作地」、「島の駐在さん」、「帰郷」、「軍雇用員」、「ジム・トーマスの旅」、「マブイ」。
 これらには安里さんというオバァのユタが登場して、人を診てその人の問題を読み取ったり、基地の中にある古い御嶽で拝みをしたり、マブイグミをしたりします。
 それとともに、おそらく1960~70年代だろうと思われる沖縄の風景や人々の様子が描かれており、そのけっして美的ではないもののなにかやさしげで独特の絵のタッチが、そこに住んだことのない読者にも不思議と懐かしさを訴えてきます。

 マンガもなかなかあなどれませんね。心にずしりとくるものがありますから。
 現代の沖縄学の権威だった外間守善氏が逝去したそうです。
 法政大学沖縄文化研究所の所長であるほかに、沖縄戦での前田高地での壮絶な白兵戦に参加した経験をもとにした著書などもあって、氏の著書を多く読ませてもらっていたので、なんだか他人事とは思えません。

 読んだ本は、今思い当たるものとしては次のとおり。
 ・「死と再生の原郷信仰~海を渡る神々」  角川選書 1999年
 ・「沖縄学への道」  岩波現代文庫 2002年
 ・「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」  角川書店 2006年
 ・「回想80年 沖縄学への道」  沖縄タイムス社 2007年

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hokama 2008 外間守善氏(2008年時)

 以下に、沖縄タイムスと琉球新報のウェブ記事を掲載しておきます。

◆沖縄タイムス 外間守善氏が死去 「おもろさうし」研究  2012年11月21日
 「おもろさうし」研究の第一人者で法政大学名誉教授の外間守善(ほかま・しゅぜん)氏が20日午前7時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳。那覇市出身。自宅は東京都杉並区。告別式は25日正午から午後1時、東京都杉並区南荻窪3の31の23、願泉寺で。喪主は妻菊枝(きくえ)さん。
 外間氏は1924年那覇市生まれ。「おもろさうし」をはじめ、沖縄の言語や文学、文化を研究。琉球大学助教授などを経て法政大学教授、同大沖縄文化研究所所長などを務め、後進を育てた。2003年福岡アジア文化賞大賞受賞。著書に「校本おもろさうし」(角川書店)、「伊波普猷論」(沖縄タイムス社)、「沖縄の歴史と文化」(中央公論社)、「沖縄学への道」(岩波書店)など。

◆琉球新報 外間守善氏が死去 沖縄学の第一人者  2012年11月21日
 「おもろさうし」の研究など沖縄学の第一人者、外間守善(ほかま・しゅぜん)氏が20日午前7時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳。那覇市出身。告別式は25日午後0時から1時、東京都杉並区南荻窪3の31の23、願泉寺で。喪主は妻菊枝(きくえ)さん。
 外間氏は1924年那覇市生まれ。戦後、金田一京助、服部四郎らに師事。「おもろさうし」研究などをはじめ、沖縄の言語や文学、文化を研究。著書に『おもろさうし』『南島文学論』『沖縄の歴史と文化』や、自らの沖縄戦の体験をつづった『私の沖縄戦記―前田高地・60年目の証言』など多数。法政大学名誉教授、沖縄学研究所元所長。88年、第6回東恩納寛惇賞を受賞。2003年福岡アジア文化賞大賞受賞。


 金城芳子の名を知ったのはウェブ上のとあるページ。そこには、伊波普猷(いはふゆう)が比嘉静観らと沖縄組合教会を設立したのが1916年で、この教会には県立高女を卒業した一群の若い女性たちが集まり、その中の5人が、のちに沖縄の「新しい女」として知られるようになった――として、富原初子(1888~1974)、真栄田冬子(1897~1975)、玉城オト(1897~1993)、新垣美登子(1901~1996)とともに、金城芳子(1901~1991)が載っていたのでした。
 そこで、その名をもとに書籍を検索したところ、この本がヒット。

 金城芳子は、沖縄県出身の昭和時代の社会事業家。沖縄高女在学中から伊波普猷に思想的影響を受け、1925年に上京し方言学者の金城朝永と結婚、東京都養育院の保母長などを務め、「東京おきなわふるさとの家」を主宰するとともに、沖縄協会評議員、「沖縄青少年相談相手」として、本土で働く沖縄青少年のよき相談相手役を努めるなど精力的に活動した人物。旧姓は知念。
 生前の意志により、その遺族によって1992年に「金城芳子基金」が創設され、沖縄女性の地位向上のために活用されているそうです。

 1980年発行の古い本で、小さいポイント数の462ページ。活字の字体そのものも最近見かけなくなった旧タイプで、その活字の印刷にかなりの濃淡があり、そのためにけっこう読みづらい。(笑)

 当時沖縄タイムスの記者をしていた由井晶子に乞われ、1976年3月から9月にかけて174回にわたって新聞に連載したものを再編集したもの。
 また、単行本化するに当たり、それに加えて由井が当時の社会事情等を克明に付記しており、本文とこれの2つが相まって、当時の一女性がとってきた生活行動のひつとひとつに深みや必然性が感じられるようなつくりになっています。

 著者が75歳のときに書きしたためたものですが、その記憶はとても鮮明であり、内容も若く生き生きとしており、ちょっと信じられないくらい。
 項目としては、生い立ちの記、辻の遊女たち、那覇の習俗、初恋の頃、波上祭と大綱引、組合協会のこと、伊波先生の名講演、婚約解消、大震災で帰郷、蜜月のころ、戦時下の養育院、里親制度のこと、四十年ぶりの沖縄、主席公選と私など。

 読み終えて、いい本に巡り会えた喜びがありました。