以前からずっと読みたいと思っていたこの本を、ネットの古書店でゲット。中古なのにコシマキが痛まずに付いているという極上本でした。
 1992年に発売されたオキナワン・エッセー。
 女性らしい好奇心というか、ギラギラとしたそれではなく、やさしいまなざしとともに驚き、心を動かし、あきれ、笑う――といった感じのもので、沖縄が一大ブームだった当時を髣髴とさせます。

 祖父母の代から東京に住む都会っ子の著者は、都市が好き。さまざまな人間の暮らしぶりが無意識に織りなした都市の模様を求めてニューヨークで執筆活動を行いますが、バリ島を訪れて以来島への興味を持つようになり、その後沖縄へも通うようになります。
 そして、沖縄に行くようになってからは、「島」という空間について考えはじめ、思い入れや憧れではなく、縁のようなものに背中を押され、都市空間だけでは満たされない至福の時を島で過ごすようになります。

 島の行事、出会った人、芸能、霊魂の世界などこの島特有の様々な面を描くことで、人間が生きる根源に触れることができる沖縄という島を浮かび上がらせたいという思いで描いた――とは、あとがきの弁。
 ん。そのとおりに表現できていると思いますよ。

 初出は、1988~91年に「コーラルウェイ」などで書かれたもので、これらは「バスに揺られて」「スクが来た!」「沖縄式結婚式」「豆腐以前」「世乞い」「鬼餅の香り」「お笑いの女王」など27編。
 これらに書き下ろしの「マブイを落とした話」「霊の力」「リキオ」を加えての発刊です。
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2012.11.13 スクが来た!


☆「透きとおった魚 沖縄南帰行」 大竹昭子著から

 沖縄本島の備瀬湾を見下ろす小高い丘の上。木陰のテーブルに座って男たちはさっきからずっと海を見ていた。テーブルの上には双眼鏡がひとつ。見つけたらすぐに出られるように浜にはサバニ(沖縄の釣り舟)が用意してある。連中は一体どこにいってしまったのか……。
 スクは謎の魚である。産卵期になると親魚のアイゴは群れをなしてリーフを出てゆく。そして旧暦6月1日に近い大潮の日に生まれたばかりのスクがもどってくるのだ。そのときスクの群れで海の色が変わるという。どうしてこの日に大挙して帰ってくるのか、理由はだれにもわからない。
 スクがリーフに寄ってくる日、男たちは朝からこうして見晴らしのいい場所で魚の群れを探す。そして魚影が見えるやいなやサバニに乗って海に飛びだす。食事中でも箸を投げてすっ飛んでいくほどだ。スクがリーフに入ると藻を食べて味が苦くなるから、その前に捕獲しなければならない。
 と突然、ざわめきのようなものが上がった。いくぞ! と声がする。席を離れていたわたしはあわてふためいた。男たちが飛ぶように浜に下りていく。ほんとに急な話である。坂をころがるようにしてその後を追った。
 さっきまで木陰にのんびりくつろいでいた男たちは舟の上では別人のようだった。荒々しいウミンチュ(漁師)に変貌している。わたしは揺れる舳先でおろおろするばかりだ。魚群に追い付くと男たちは網をつかんで海に飛び込む。そして群れを追い込むやいなや、一気に引きあげる。
 サバニの中はぴちぴち跳ねるスクで埋まった。小さな透きとおったからだに筆で一刷きしたような銀色の線。うっとりと眺めるほど美しい。
 サバニは群れを追ってなおも進んだ。うずうずしてついにわたしも飛び込み、水にもぐって網の後ろで待った。するとやってきたのである。大群がまっしぐらに突進してきたのだ。オオッ、ウォー! 興奮して自分でもびっくりするような大声を上げてしまった。
 年一度のスク漁は、プロばかりではなく、希望すればだれでもにわかウミンチュになれる絶好のチャンスである。勤めを休む人もいれば、ポケットベルが鳴って仕事場からすっ飛んでくる人もいる。2、3日休暇をとってわざわざ里帰りする人すらいるのだ。それほど男たちを夢中にさせる魅力が、スク漁にはある。
 収穫した魚は竜宮の神様に供えてから漁に出た人たちで分配する。ベテランであろうと初心者であろうと差別はない。海で一日を過ごした者同士が等しく海の恵みを分かちあう心やさしい習慣である。
 夕暮れとともに木陰のテーブルで酒盛りがはじまった。スクといえば公設市場などで売っている塩漬けのスクガラスが有名だが、もっとうまいのは刺身だ、とみんなは言う。魚を酢でしめたものを沖縄では刺身と呼ぶ。
 水洗いしたスクに酢をかけてかきまぜる。こうすると背びれにある毒が中和されるそうだ。それから唐辛子を入れ、すだちに似たシークヮーサーをきゅっと絞る。こりっとした歯ざわり。潮の香り。口の中に沖縄の夏が広がる。

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 読みたいなと思い始めてから長い間手に入らなかった、芥川賞受賞作であるこの作品ですが、このたび復刻されて文庫本として発売されたのを知り、沖縄美栄橋近くのジュンク堂書店で入手。
 1967年に文藝春秋社から発売されて以降、1975年、1982年にも他の出版社から発行された経緯があるそうですが、それから約30年を経過しての再発となります。
 発行部数が少ないこともあるのでしょうが、解説を含めて320ページに満たない文庫なのに税込みで1,092円もする。高いよなぁ。でも、読めるのだからシアワセか。

 沖縄初となった芥川賞受賞作の表題作のほか、「亀甲墓」、「棒兵隊」、「ニライカナイの街」。そして最後には、日本語版未発表の「戯曲 カクテル・パーティー」と、全5編が収録されています。

 このうち「カクテル・パーティー」は、米軍統治下の沖縄で、日本人、沖縄人、中国人、米国人の4人が繰り広げる親善パーティー。そのとき米兵による高校生レイプ事件が起こり、国際親善の欺瞞が暴露されていく――という筋書き。
 米軍属に暴行を受けた娘を持つ主人公が、不利だとわかっている裁判に事件を訴えることを決意するまでの展開を描いた物語になっています。
 1995年に起きた少女暴行事件をはじめとした数々の基地被害を思い出させるだけでなく、依然として基地の重圧が押し付けられている沖縄をめぐる複雑な政治状況をも浮かび上がらせ、この小説がけっして古典になることはなく、同時代的な緊張を読む側に提起する力を持っていることがわかります。

 長く全集や文学選などのアンソロジーでしか読めなかったこの作品が、今では文庫で読める、という意味は非常に大きいと思います。

 沖縄で買って、山形に連れてこられ、読み終えたのは三重県に出かけての帰りの新幹線の中。自分に買われたばかりにずいぶんと旅をさせられた本となりました。
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 1996年10月に上梓されたものを、1999年に文庫化したもの。
 孤高の日本画家・田中一村は、奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた人物。1908年生まれで1977年没。
 1958年というから、50歳のときに新天地の奄美大島に移り、大島紬の職工として働き、いくばくかの生活資金がたまれば画業に専念するというつつましい生活をしながら、「花と鳥」「ダチュラとアカショウビン」「アダンの海辺」「高倉のある春景」「花と蝶」などの作品を世に残しました。

 田中一村についてはこれまでに、「日本のゴーギャン 田中一村伝」(南日本新聞社編、小学館文庫)、と「田中一村 豊饒の奄美」(大矢鞆音著、日本放送出版会)を読んでいて、その人となりや作風、作品に対する一般的な評価などについて一定の理解と自分なりの人物像を持っていたつもりでした。
 しかし、この作品によって、画家・田中一村に対するこれまで感じていたものとは別の人間性を見つけたような気になり、とても興味深く読ませてもらいました。

 「紬工場に通いながら絵を描いている、田中という変わったジイさんがいる。背が高くて痩せていて、いつもランニングシャツにステテコの身なりで、地下足袋かゴム草履を履いている。」
 冒頭にあるこの一節は、田中の普段の身なり、格好を表現していると同時に、彼の実像を知らず、彼を遠巻きに見ているだけの人たちの皮相的な評価でしかありません。そのことは、本を読み進めるにしたがってじわじわと読者に伝わってきます。その意味でこの一文はひとつの「入口の仕掛け」になっているように思います。

 そんな一村と、ちょっとした会話をしたことから親しくなった宮崎鐵太郎・富子夫妻の述懐を中心として物語は進んでいきます。
 華やかな画壇での活躍をあきらめ、自分の求める絵を描くためだけに、周辺の事象をそぎ落としてストイックに生きる姿は時に痛々しくもありますが、道を究めるというのはこういうことであり、道をまっすぐに進むことはただただ美しいのだなという思いを強くしたところ。

 著者は一村を追うにつれ、また別のことを感じたようです。
 あとがきに書いていますが、一村の絵には奄美独自の神観念が随所に満ちているのではないか、と。
 そして、一村が(本土時代の戦時中に)観音像を描いた過程は、奄美の神が一村を遠くから駆り立て、奄美での画業に旅立たせるための「神ダーリ」ではなかったか。結果的に、奄美で神を描き、奄美で没するのは運命だったのだ、と私は思う。「一村を知ることは奄美を知ることであり、奄美を知ることは一村を知ること」と、思うこともある。――と書いています。

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 2008年に単行本が発売されたときに買おうかと思いましたが、近いうちに文庫化されるだろうと考え、ずっと待っていたもの。4年後の文庫化です。
 でも、文庫でも940円。高っ! それなら単行本を中古市場から買ったほうよかったかも。

 時代は、屋良朝苗が主席公選で米軍の思惑を裏切る形で当選を果たした翌年の1969年、施政権返還直前の沖縄。
 主人公は伊波尚友。奄美大島生まれで、施設に預けられて育った経歴を持つ、英字新聞社の若手記者。
 伊波はある日、ホワイトとスミスと名乗る二人のアメリカ兵から、反戦活動に関するスパイ活動を行うよう買収されます。
 離島出身のために幼少の頃から差別を受け、沖縄にも日本本土にも憎悪を募らせていた尚友は、アメリカのグリーンカードの取得を条件にその仕事を受け入れ、基地の街コザに移り住み、反米・反基地活動に身を投じながら情報を集めていきます。

 尚友を彩る交友関係は、施設時代から様々な面で彼の一枚上を行っていた比嘉政信や、同じ施設育ちで黒人兵の強姦によりウチナーンチュとの間に生まれた照屋仁美など。
 コザの猥雑さや荒んだ雰囲気、特飲街からただよう麻薬の匂いや女たちの嬌声、ごついアメリカ兵たちの体臭など、アナーキーなものが行間からぎしぎしと伝わってくるような文体です。

 上巻だけで700ページ以上ある大作ですが、次はどうなるのだろうと興味が持続、増幅していくようなエンターテインメント性があります。

 2012年8月の壱岐・対馬旅行の際に持参。本には当時の飛行機の搭乗券がはさまっています。


 『やまとーんちゅにとっての非日常がうちなーの日常だった。この25年間、うちなーんちゅは戦場で暮らしてきた。土地と権利を奪われ、人格を貶められ、時に命さえ簒奪されてきた。施政権返還後も、その現状は変わらないだろう。この島に米軍基地がある限り、だれが施政権を握ろうが、なにも変わりはしない。
 その基地を攻撃する。愚かなうちなーんちゅが襲撃する。そう考えただけで目眩を覚えた。その目眩は性的興奮すら伴っていた。』――本文より。

 主人公の尚友は、罪の意識に苛まれながらも、施設でともに育った混血の美女、照屋仁美との関係を深め、その関係に日に日に溺れていきます。
 一方で、幼なじみの比嘉政信やヤクザのマルコウと組んで密かに進めていた米軍からの武器調達にも成功し、基地内の核兵器収容施設を襲撃してすべてを木っ端微塵にする計画はいよいよ実行段階に入っていきます。
 そして襲撃のクライマックスは、1970年12月20日のコザ暴動とオーバーラップして・・・。

 返還前夜の沖縄で実際に起こった出来事にフィクションを織り込み、見事なまでに沖縄の過酷な現実に切り込んだバイオレンスノベルに仕上がっています。

 しかし、描かれている状況はけっして過去のものとして見過ごしていいものではなく、現在の沖縄にも当てはまるものがあります。
 つい先ごろ、読谷村の民家に泥酔した米兵が押し入り、3階の自室で寝ていた少年を殴打するという事件が発生しました。
 これだけ長い間沖縄の住民を苦しめてきた理不尽な悪法、日米地位協定ひとつをとってみても、それを変えようとしないアメリカと、見て見ぬふりをしている日本があり、基地内に逃げおおせば住民に何をしてもかまわないという米兵がいます。
 それでもウチナーンチュは我慢していろという現状を打破できないことについて、どうしようもない苛立ちと空しさを感じざるを得ません。
 伊波のような行動は異常かもしれませんが、その気持ちは痛いほどよくわかります。


 現代沖縄・琉球史研究陣の旗手による「琉球史」。
 琉球王国が、内側からの視点のみならず、アジアの海原に位置づけられ、さまざまなまなざしを交叉させることで、ダイナミックなドラマとして綴られています。

 1980年の作品ですが、その後1989年に地元ひるぎ社から新版を出したものの絶版。そしてこのたび(2012年)、ちくま学芸文庫として再刊されたものです。志向のロングテール現象があるといわれるこの時代、いい本はこのように再版されて手に入れることができるのですね。(詠嘆)

 著者は、「沖縄」ではなく「琉球」という表現を用い、「琉球」が内包するダイナミックな世界を復権させたい、今を生きる沖縄県民のために「琉球」を我々の側に取り戻したい――という強い意志を込めて、タイトルを「琉球の時代」としたといいます。
 そして、学術書として書くのではなく、なるべく読み物風にとりまとめてみたいと考えたとのこと。

 その意図は見事に実現されており、琉球という国の全体像がつかめ、そこに生きた人の息づかい、激しい攻防、悲しみや喜びの声、危機に直面したときの苦悩のため息、それに立ち向かうための論議の場面などが、当時の琉球の風景と共に、手に取るように伝わってくるものとなっていました。
 多くの資料をベースに難しいことを簡単に、しかも読者にとって興味深く読めるものにすることというのは、なかなか一般的な学者にとっては至難なことで、蓄積を噛み砕き、自分のものとして提出できる高みにたどりついた高良倉吉のならではの表現力と言っていいのではないでしょうか。

 「マラッカにて」をプロローグとし、「黎明期の王統」「琉球王国への道」「大交易時代」「グスクの世界」「尚真王の登場」「琉球王国の確立」の6章。そしてエピローグに「古琉球と現代」。
 与那原恵による巻末解説もなかなかいいです。

 平易に読める良書。この本の位置取りとしては、1冊目は琉球史の概説(入門)書として、沖縄・琉球に関する「2冊目の入門書」といったところでしょうか。


 石垣島の市街地より西へ約4キロのところに、石垣市唐人墓という観光地があります。
 その墓の紹介文として、「1852年、イギリス船に奴隷として乗せられた中国人が石垣島に逃げ込み、島人にかくまわれたが、イギリス兵が見つけ、128人を殺害してしまう。その霊を祀る」――と記されていますが、この記述は年代以外すべて誤りなのだそうです。
 この石垣島唐人墓が誤って紹介されている現状をなんとか改めたい、また、江戸の末期、琉球国の南の島を舞台に起った、ほとんどの日本人が知らない国際的な事件を広く伝えたい、との思いで書かれたのがこの本です。

 「琉球王国評定所文書」を中心に、それで欠けた部分を「島津斉彬文書」で補いながら、それらを日誌風に現代文に書き直して時系列的にまとめたもの、との体裁になっています。
 その意図は悪くないと思いますが、それらを解説する部分が少ないからか、読んでいるうちに著者が何を言わんとしていたのかを見失ってしまいそうになるといううらみがあり、一般人にとってはもう少しわかりやすい構成にしたほうがいいかなと思いながら読みました。

 当時、琉球国の光の部分はもっぱら首里を中心にありましたが、薩摩を恐れ、中国に遠慮し、その間を巧みに渡り歩いていく上で、役人たちは卑屈になることに馴らされ、やがて自分たちの卑屈さにさえ気づけなくなってしまいます。
 そしてそのしわ寄せは、首里から遠く離れた八重山の島民に次第に重い負担としてのしかかっていったわけですが、その様子が随所に読み取ることができます。

 章立ては、「サンビャクトゥヌピトゥヌパカ(三百唐人墓)」、「事件の発端」、「事件の急展開」、「唐人護送へ」、「事件の新展開」、「苦悩の始まり」、「唐のお指図」、「帰国の途へ」、「石垣市唐人墓―虚像の背景」。

 「唐ご都合向き」を最優先させた琉球政府。白い米を食べ、薬を与えられ、医者に診てもらう唐人のかたわらに、人頭税と飢餓と疫病に苦しむ自国の民である島人がいる、という異様な風景。
 琉球国の陰の部分を照射すると、卑屈な首里王府の役人と哀れな島民の姿が見えてくるという、虚しくも悲しい後味が残る作品でした。
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 うちな~噺家・藤木勇人のウチナーグチをテーマにした2009年発行の本を、中古本市場で496円でゲット。
 著者は、地球温暖化で日本本土の亜熱帯化が進めば、ヤマトンチュも沖縄流のものの考え方やあり方を心のどこかに携えることは意義のあることであると。そして、生きにくい世の中ではあるが、この本で紹介する古今の沖縄言葉に親しみ、糧とすることで、少しでも心豊かな生活を送ってほしいと、「はじめに」で述べています。

 内容はまったくそのとおりのデキで、楽しい一人漫談をリラックスして聴いているような気持ちになれます。またその時間はあっという間に経過します。楽しいからね。
 これが496円で味わえるって、すごくステキなことなのではないか。
 本こそもっとも金のかからない趣味だと再認識したところ。

 「ある日、知り合いのオバァがショウブを持ってきまして。シンジムンにして飲めば、蓄膿症に効くというんですね。これが恐ろしく苦いんですよ。騙されたと思って飲んでいたら・・・、治ったんですよ、コレが!! バカにできないよぉ、薬草。」(「シンジムン」より)――といった調子。

 登場するウチナーグチは、そのシンジムンのほか、ミジラシムン、チョッチュネー、エンダー、トゥビアーマー、ヌチヌグスージ、チョーギナー、ミチジュネー、チムグクル、チブル星人など、全部で62項目。
 でもこれらはウチナーグチの解説にとどまってはいず、むしろその言葉をキーワードにした藤木の自由律になっており、ジャンルとしては彼のエッセーの範疇になるのでしょう。


 「砂の剣」に続いて2010年10月5日に発行された、比嘉 慂(すすむ)のアンソロジー。
 1995年から2000年にかけて執筆され、ビッグコミック増刊号、ビッグゴールド、アックス76に掲載されたもので、単行本としては未収録だった作品を集めたものとなっています。
 コシマキのキャッチコピーは、「沖縄を舞台に物語を紡ぎ続ける比嘉慂が、現代を題材に描いた未収録異色作を一挙収録。基地をめぐる人々の“寓話”集」となっています。

 作品は全部で7つ。「軍用地主」、「黙認耕作地」、「島の駐在さん」、「帰郷」、「軍雇用員」、「ジム・トーマスの旅」、「マブイ」。
 これらには安里さんというオバァのユタが登場して、人を診てその人の問題を読み取ったり、基地の中にある古い御嶽で拝みをしたり、マブイグミをしたりします。
 それとともに、おそらく1960~70年代だろうと思われる沖縄の風景や人々の様子が描かれており、そのけっして美的ではないもののなにかやさしげで独特の絵のタッチが、そこに住んだことのない読者にも不思議と懐かしさを訴えてきます。

 マンガもなかなかあなどれませんね。心にずしりとくるものがありますから。
 現代の沖縄学の権威だった外間守善氏が逝去したそうです。
 法政大学沖縄文化研究所の所長であるほかに、沖縄戦での前田高地での壮絶な白兵戦に参加した経験をもとにした著書などもあって、氏の著書を多く読ませてもらっていたので、なんだか他人事とは思えません。

 読んだ本は、今思い当たるものとしては次のとおり。
 ・「死と再生の原郷信仰~海を渡る神々」  角川選書 1999年
 ・「沖縄学への道」  岩波現代文庫 2002年
 ・「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」  角川書店 2006年
 ・「回想80年 沖縄学への道」  沖縄タイムス社 2007年

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hokama 2008 外間守善氏(2008年時)

 以下に、沖縄タイムスと琉球新報のウェブ記事を掲載しておきます。

◆沖縄タイムス 外間守善氏が死去 「おもろさうし」研究  2012年11月21日
 「おもろさうし」研究の第一人者で法政大学名誉教授の外間守善(ほかま・しゅぜん)氏が20日午前7時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳。那覇市出身。自宅は東京都杉並区。告別式は25日正午から午後1時、東京都杉並区南荻窪3の31の23、願泉寺で。喪主は妻菊枝(きくえ)さん。
 外間氏は1924年那覇市生まれ。「おもろさうし」をはじめ、沖縄の言語や文学、文化を研究。琉球大学助教授などを経て法政大学教授、同大沖縄文化研究所所長などを務め、後進を育てた。2003年福岡アジア文化賞大賞受賞。著書に「校本おもろさうし」(角川書店)、「伊波普猷論」(沖縄タイムス社)、「沖縄の歴史と文化」(中央公論社)、「沖縄学への道」(岩波書店)など。

◆琉球新報 外間守善氏が死去 沖縄学の第一人者  2012年11月21日
 「おもろさうし」の研究など沖縄学の第一人者、外間守善(ほかま・しゅぜん)氏が20日午前7時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳。那覇市出身。告別式は25日午後0時から1時、東京都杉並区南荻窪3の31の23、願泉寺で。喪主は妻菊枝(きくえ)さん。
 外間氏は1924年那覇市生まれ。戦後、金田一京助、服部四郎らに師事。「おもろさうし」研究などをはじめ、沖縄の言語や文学、文化を研究。著書に『おもろさうし』『南島文学論』『沖縄の歴史と文化』や、自らの沖縄戦の体験をつづった『私の沖縄戦記―前田高地・60年目の証言』など多数。法政大学名誉教授、沖縄学研究所元所長。88年、第6回東恩納寛惇賞を受賞。2003年福岡アジア文化賞大賞受賞。


 金城芳子の名を知ったのはウェブ上のとあるページ。そこには、伊波普猷(いはふゆう)が比嘉静観らと沖縄組合教会を設立したのが1916年で、この教会には県立高女を卒業した一群の若い女性たちが集まり、その中の5人が、のちに沖縄の「新しい女」として知られるようになった――として、富原初子(1888~1974)、真栄田冬子(1897~1975)、玉城オト(1897~1993)、新垣美登子(1901~1996)とともに、金城芳子(1901~1991)が載っていたのでした。
 そこで、その名をもとに書籍を検索したところ、この本がヒット。

 金城芳子は、沖縄県出身の昭和時代の社会事業家。沖縄高女在学中から伊波普猷に思想的影響を受け、1925年に上京し方言学者の金城朝永と結婚、東京都養育院の保母長などを務め、「東京おきなわふるさとの家」を主宰するとともに、沖縄協会評議員、「沖縄青少年相談相手」として、本土で働く沖縄青少年のよき相談相手役を努めるなど精力的に活動した人物。旧姓は知念。
 生前の意志により、その遺族によって1992年に「金城芳子基金」が創設され、沖縄女性の地位向上のために活用されているそうです。

 1980年発行の古い本で、小さいポイント数の462ページ。活字の字体そのものも最近見かけなくなった旧タイプで、その活字の印刷にかなりの濃淡があり、そのためにけっこう読みづらい。(笑)

 当時沖縄タイムスの記者をしていた由井晶子に乞われ、1976年3月から9月にかけて174回にわたって新聞に連載したものを再編集したもの。
 また、単行本化するに当たり、それに加えて由井が当時の社会事情等を克明に付記しており、本文とこれの2つが相まって、当時の一女性がとってきた生活行動のひつとひとつに深みや必然性が感じられるようなつくりになっています。

 著者が75歳のときに書きしたためたものですが、その記憶はとても鮮明であり、内容も若く生き生きとしており、ちょっと信じられないくらい。
 項目としては、生い立ちの記、辻の遊女たち、那覇の習俗、初恋の頃、波上祭と大綱引、組合協会のこと、伊波先生の名講演、婚約解消、大震災で帰郷、蜜月のころ、戦時下の養育院、里親制度のこと、四十年ぶりの沖縄、主席公選と私など。

 読み終えて、いい本に巡り会えた喜びがありました。


 中古本市場で入手した、小林照幸の初期作品。

 主人公は医師・沢井芳男。昭和30年代、奄美大島や沖縄ではハブによる咬症被害が続出していました。
 現地を訪れて被害の深刻さを目の当たりにした沢井は、その半生を血清の改良や予防ワクチンの開発に捧げます。やがて沢井は台湾、そして世界へとその活動の場を広げていきます。
 被害撲滅の情熱に燃えた男の軌跡を追った、医学史発掘ノンフィクションです。

 著者は、1992年、本書の原型となった「ある咬症伝」で第1回開高健賞の奨励賞を受賞。
 もともと医学の道を志していた著者でしたが、進学を考える頃にふとしたことから群馬県新田郡にある「日本蛇族学術研究所」に出かけ、そこで少年時代に触れた沢井芳男の名に再会し、毒蛇に咬まれて苦しんでいる人々を救いたいと考えて明治薬科大学に進んだのだそうです。
 そして直接沢井に会い、沢井の毒蛇咬症調査に同行するまでになりました。それが彼の奄美・沖縄との出会いの端緒となっており、その後田中一村や闘牛などを題材とした一連のノンフィクションが生まれていくきっかけともなっています。

 読んでいて、よくぞここまで微に入り細に入って、そしてこれほどまで専門的に・・・と思いましたが、専門家だったのですね、著者は。

 本書は、「ある咬症伝」が「毒蛇」と改題されて単行本化されたものに、受賞第一作として1993年に書き下ろされた「続 毒蛇」をあわせて、完本化された文庫本です。
 第1部の「奄美大島」「奄美から沖縄へ」「ハブトキソイドへの道」が「毒蛇」から、第2部の「毒牙の列」「中医への挑戦」が「続 毒蛇」から、それぞれ収録。
 専門家が書いているだけに、だんだんツボにはまってくるようなところがあるので、奄美・沖縄フリークは第1部だけを読めば十分かもしれません。(笑)


 ♪ ゆっくりでいい 急がなくていい ・・・
 BS日テレで放送されている番組「ありんくりん沖縄」。時々観ていますが、その番組が本になった!という体裁のもの。
 番組で取材したウチナーンチュとっておきのスポットや店、そして今回本を発行えするにあたって新たに取材したものを加えて、地元民によるセレクトならではの深い情報が満載です。

 自分はこの4月からのナビゲーターとなったナツコは知っていましたが、この人とともにそれ以前に活躍していた初代ナビの唐真久乃、泡盛ルポライターの富永麻子、沖縄そばの伝道師山城智二などが登場して、世界遺産のグスクめぐりやカフェの紹介、さらには沖縄そばの名店、泡盛の飲める店、ディープエリア、沖縄ならではのお土産などについて突撃取材しています。

 すでに沖縄フリークにはよく知られている店はもちろん、最近話題の店も取り上げられており、新たな発見があちこちに。
 これは確かに使えると思う。

 全編カラーの128ページ。写真もきれいだし、登場人物のキャラのよく、これから沖縄に観光に行くぞ~!という人や、フツーの観光ガイドブックでは物足りないという人などにオススメです。
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 最近買った沖縄関係古書は、次の9冊です。

1 りゅうきゅうねしあ―沖縄・こころの旅      1973 辰濃和男  朝日新聞社   650 (480)
2 冗談ばっかり―沖縄ジァン・ジァンの五日間  1981 永 六輔    講談社     890 (157)
3 ミーニシ吹く島から―極私的沖縄論       1980 森口 豁    アディン書房 1500 (354)
4 沖縄のハルモニ―大日本売春史        1979 山谷哲夫   晩聲社     1545 (422)
5 沖縄映画論              2008 四方田犬彦・大嶺沙和 作品社     3360 (1720)
6 ヤマト嫌い―沖縄言論人・池宮城秀意の反骨 1995 森口豁    講談社     1800 (186)
7 オキナワ、イメージの縁(エッジ)         2007 仲里効    未来社     2310 (1430)
8 ウルトラマンを創った男―金城哲夫の生涯   1997 山田輝子  朝日文庫    618 (390)
9 海と島の思想―琉球弧45島フィールドノート  2007 野本三吉  現代書館   3990 (3265)

 書名の右は発行年、発行元の右の数字は発行時の価格で、( )内はこのたびの購入価格です。

 主に、ウェブ上の「森口豁の沖縄日記」を読んでいてこれはおもしろそうだなぁと思ったものをチョイスしています。
 これらの中には発行時にはチト高くて手の出なかったものなども含まれています。「沖縄映画論」や「海と島の思想―」などがそれで、特に「海と島―」のほうは600ページを超える大作。
 これらについても森口はいい書物だったと評価しているので、そうかそうか、それならばと購入することに。
 しかし、中古本で3,000円超はきついよね。

 それでも最近は、読まねばナラヌと決めたら買ってしまう。それでいいのだろうかとも思うが、売り切れてなくなったら読めなくなるという焦りのほうが大きい。このように心は行きつ戻りつ、逡巡を繰り返すことになる。
 自分にとって本とは、買わないと当たらない宝くじみたいなものなのかも。だから、買う。

 このような経過があるからこそ、いい本に当たったときのヨロコビは大きいものがあるわけで。
 探せばいい本はあるものだ。
 誠に本は人生に潤いを与えてくれる。人生は楽しい。

☆沖縄タイムス 「沖縄・人ばなし」(2012年9月2日掲載)から。

 「ヒコ・・・。貧乏の哀れはなんとか切り抜けられたが、病の哀れはどうにもならないなぁ・・・」
 彼と交わした最後の会話。沖縄口で切れ切れに語った。沖縄市内の病院のベッドに横たわってのことだ。内臓がすっかりガンに侵されていた。それから10日ほどして彼は逝った。
 彼、嘉手苅林昌。昭和、平成を三線一丁で駆け抜けた風狂の歌者である。
 「沖縄の島うたは、単に声を発するだけのものではない。語りかけなのだ。歌い込まれた言葉が聞く人の心に届いてはじめて“うた”になる」。
 このことを信条に歌い続けた人物。

 大正9(1920)7月4日。沖縄市が越来村だったころ、いまの米軍嘉手納飛行場の東端にあった仲原に生まれた。
 「生りジマがそうなら、軍用地料も大枚入りますネ」
 そう持ちかけると、
 「それならいいが、ウチは代々貧農でネ。11、2歳のころから村の富農に頼み込んで農耕させてもらったり、アカラー牛小(乳離れした子)を預かって成牛にしては、手間賃を得て家計を助けていた。歌は、歌好きだったアンマー(母親)のそれをフチュクル(ふところ)にいたころから聞き覚えた。三線は、近くにいたひとつ年上の小浜守栄兄(歌者。故人)に手解きを受けた。学校? 尋常小学校3年までは行った。4年生に上がるというとき、アンマーが言ったんだ。『ジルー(童名。愛称)、お前は学力優秀につき、勉強は3年まででよしと、校長先生が言っていた』。アンマーの言葉に偽りはあるまいと、素直に聞き入れて自発的に卒業した。以来、三線片手の山学校さ。独学だね」
 彼の話はさらにづづく。
 「キミたちが出た学校は六三三制。大学も4年生で都合16年だ。ワシが通った山学校はサンパチルク(八八八六の琉歌体)の30年制だから、学歴はキミよりもワシが上だッ」
 ぽつぽつと、しかも中頭訛りの沖縄口で話すのだが、話題の組み立てが絶妙この上もなく、相手を飽かせない。
 『沖縄モンのくせに“嘉手苅林昌”なぞと、読みにくい名前を名乗るなッ』
 甲種合格で兵役にはついたものの、南方戦線行く先々で『名前がむつかしい』と、上官に精神棒で殴られた。彼は予知した。『この戦争は日本の負けだッ! 敵国人ではなく、味方の部下を殴るようでは戦には勝てない』。
 その通りになった。

 復員後は、これという定職には就かず、小金の入る仕事は何でもした。そのほうが三線三昧で暮らせる自由があった。おかげで芝居の地謡、ラジオ出演、蓄音器盤、レコード。そしてCD、DVD。CM、テレビ、映画に出るようになり、歌者嘉手苅林昌の名は定着。さらに本土各地でのライブをこなすにいたって不動となる。日本復帰後の本土の週刊誌なぞは、彼を『沖縄・島うたのカリスマ』と紹介した。
 「カリスマって何だ?」
 「あなたは、沖縄の歌の神様だそうです」と説明すると、
 「新興宗教じゃあるまいし、生きていて“神様”にされてたまるかッ」ときた。
 名人上手には、こうした逸話がついてまわる。島うたに心魅かされる者が4、5人揃うと、いつの間にか嘉手苅ばなしになり、それが延々と続く。彼の歌唱表現の影響を受けた現役の歌者は数知れず。皆『嘉手苅林昌のことなら、自分が一番知っている』と公言してはばからないから、彼の奇行、名言、謎言は2、3冊の本になる。が、すべてが“沖縄口の妙”で成されたもので、共通語で記述するのはむつかしい。

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 歌三線は、すでに骨肉の一部であった。三線を手にしない合間には、酒を愛し煙草を手放さず、こよなくパチンコに親しむ日々だった。
 ある日「ワシは煙草をやめるッ」と、突然の宣言をした。理由を問えば「吸いすぎると胃の腑がおかしくなる」と言う。それでいて酒は盛んに飲んでいる。思えば、そのころから胃や肺に違和感があったのだろう。事実、胃の半分を切り取る手術を受けた。それでいてポケットには百円ライターを携帯していて、逢う愛煙者からの“もらい煙草”を欠かさない。
 「ワシの禁煙は、買ってまでは吸わないということだ」
 理屈のつけ方も、あくまで嘉手苅流。私なぞも世間に恥じないヘビースモーカー。彼にも喜んで“もらい煙草”を提供していたものだが、彼が席を立ったあと、私の煙草が箱ごと彼のポケットに納まったことに気付いたこと再三。つまり、都合のいい“お持ち帰り”だったわけだ。それにも嫌気ひとつ感じなかったのは、彼の人徳?に惚れ、毒されていたのかも知れない。
 四季折々に吹く風のごとく、ごく自然体に吹き抜けて逝った嘉手苅林昌が、ある意味で羨ましいのは何故だろう・・・。

 酒を飲み合った画家・陶芸家の故・與那覇朝大は「彼から三線を取り上げたら、ただのオヤジ以下」と、親愛の情をもって評し、また、彼の最大の理解者、故・照屋林助は「友人知人にはしたいが、兄弟にはなりたくない」と言い切った。
 2012年10月9日。十三年忌を迎える嘉手苅林昌。これで名実とともに“カリスマ”になり、あの世で得意の遊び歌を歌っているにちがいない。