55 味処 千両 ~厳原の夜2
 
 さて、夕刻5時に近くなり、この日はめいっぱいドライヴしたのでこのへんで切り上げることにして、宿へと帰還。本日7時までのレンタカーは、宿のフロントのほうで返却してくれるというので、喜んでお任せし、ちょっと早いけど飲みに行くことに。

 計画としては、まずは飲んで、その後にちゃんぽんを食べて、9時前後ぐらいには部屋に戻って佳境に入ったロンドンオリンピックのテレビ中継を見る。
 で、本日の飲みどころは「味処千両」と決めている。
 こだわってしまっているちゃんぽんについては、土地勘がないのでフロントのおばさんに尋ね、ちゃんぽんだったら「すずらん食堂」、ラーメンだったら「あなぐらぁ」がいい、との情報を得た。これら3店はいずれもホテルのすぐ近く。では、出発。

 まずは「味処千両」。
 魚介・海鮮料理店だが、和食はもちろん、洋食、イタリアンまでそろっているというメニュー豊富な居酒屋らしい。おもしろそうではないか。
 入店するとカウンターに通され、生ビールをぐびぐび。付きだしはいりますか?と訊かれたのでYESと返答して供されたのは烏賊の肝の小鉢。これがまた美味! イカの卵巣? 
 このほか地物のあなごの天ぷらとさしみ5点盛りをアテに、生ビール2杯、対馬美津島町鶏知の河内酒造の焼酎「やまねこ」をロックでやり、しめて3,490円。
 ほかにカウンターにいたのは民宿の宿泊者が夕飯に来たような方で、ちゃっちゃと食べて帰っていくので、昨晩の「けい」のような話し相手がいず、残念。

 あぁ、飲んだ。では、次はちゃんぽん♪
 ところが、ホテルで聞いた店は、8時を過ぎているというのに両店とも開かず。おい、金曜の夜だぞ。
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56 カップめんの長崎ちゃんぽん ~厳原の夜3

 まったくもう。そうとわかっていれば、「千両」のメニューにもちゃんぽんがあったので、それを食べてくるんだった。
 かといって、再度千両に行くのも気が引ける。
 じゃあ、しょうがないから、そこのコンビニでなにかつまみになるものでも買って帰ろうか。

 と思って入ったコンビニ。邪念を振り払って無我の境地に達すると、・・・あるのですな、ちゃんぽんが。(笑)
 「味のマルタイの長崎ちゃんぽん」。カップめんだけど、しょうがない、これに決定!
 買って帰って、部屋でオリンピックを見ながら食べました。
 思ってもいない展開となりましたが、いちおう目標は達成したかな。

 このカップめん、なかなか美味しかったですよ。“モチモチめんにコク旨スープ”のキャッチは伊達ではありませんでした。
 販売元は、昭和22年創業、福岡証券取引所上場の、めん類・調味料・菓子製造の「マルタイ」。この商品は昭和51年に発売を開始したカップちゃんぽんのパイオニア商品なのだそうです。

 あ~あ、8月3日も夜が更けていく・・・。


57 修善寺 ~旧厳原町・厳原

 8月4日、今日も晴れ。旅も3日目で、この日は対馬とお別れして壱岐へと向かう。
 本日午前までとなる対馬の最終日は、朝から厳原の町内のスポットを歩いて見てまわります。

 ビーサンをぺったらぺったらいわせながら、朝日のまぶしい飲み屋街の一角を通り過ぎて、まずは港の東側の山裾にある修善寺へ。

 少し道に迷いつつ寺のあるほうに向かっていると、前方に、場にそぐわない数名の団体が。これが韓国の団体さんで、やはりというか修善寺に向かう一行だった。
 結局彼らとほぼ同時刻に修善寺に着き、一緒に見学するも、いやはや・・・。やはり傍若無人なのだ。朝のすがすがしい山門の前でぺちゃくちゃやりながら写真撮影、庭に入ればガイドが大声で、しかも長々と韓国語で説明、散開してそれを聴いている人々のため狭い道は塞がって先には進めず・・・。
 いかりや長介ではないが、「ダメだこりゃっ!」である。かろやかな朝のいい気分が少しへこむ。
 わかったことは、これまで見てきた寺が曹洞宗だったのに対して、ここは浄土宗だということぐらい。「陶山訥庵の墓」が見どころなのだが、なんだかもういいや。早々に退散することに。

 なお、陶山訥庵(すやま とつあん)について事前学習しておいたことを記しておきます。
 陶山訥庵(1657~1732)は、島の自立を願った対馬聖人。雨森芳洲(あめのもりほうしゅう、後述)と同じ木下順庵の門下生で、主に農政方面で活躍した儒学者。島内ではイノシシ退治の偉業で有名。
 当時、対馬藩の朝鮮貿易は斜陽の時期を迎え、藩財政が破綻しかけていたことから、訥庵は、貿易によらずに農業によって対馬を自立させることを計画。そのためにはまず、農作物を食い荒らし、農民の生産意欲を削いでいたイノシシを根絶する必要があり、生類哀れみの令が発せられていた時代にありながらも、訥庵は持ち前の粘りによって農民たちを説得によって根絶を達成した。
 対馬を九つの区画に区切り、柵を作り、農民に銃の扱い方を教え、冬場の農閑期を利用してイノシシを一区画ずつ殲滅していく方法により、9年後には対馬からイノシシが姿を消した。狩られたイノシシは8万頭、動員された農民はのべ23万人にのぼる。
 さらに訥庵は、農民による島土防衛構想を持っていた。泰平の世に生きる島内の武士だけでこの広い島を守ることは不可能であるため、島内で銃を生産し、訓練された農民が対馬の深い山を利用してゲリラ作戦を行うしかない、と訥庵は考えていた。軍事訓練だけ行うと、謀反の疑いをかけられ、藩が取り潰されるおそれがあるため、イノシシ退治を隠れみのとして利用したのだという。
 死後しばらくは評価の定まらなかった訥庵だが、次第に島人の尊崇を集めるようになり、対馬聖人として称えられるようになった。


58 長寿院 ~旧厳原町・厳原

 厳原の町の東側のへりを武家屋敷の石壁や街並みを見ながら北側に進んで、次は雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の墓がある長寿院へ。

 「街道をゆく」には、次のようなくだりがあります。

 せっかく朝食を9時半に予約して朝寝をしようと思っていたのに、無意味なほどに早く目がさめてしまった。
 やむなく町を散歩した。家老級の武家屋敷の塀のつらなる一角を歩いていると、カメラマンのように機能的な扮装(いでたち)の李進熙(リ・ジンヒ)氏が、土塀に沿ってやってきた。
「どうしたんですか」
 ときくと、江戸中期の対馬藩の儒学者雨森芳洲の墓へ詣ってきたという。
 李進熙とはこういうひとかと思った。雨森芳洲など対馬のいかなる郷土史にも出ていないし、いまの対馬の人一般の記憶にはないのではないか。

 「街道をゆく」ではこのほかに、雨森芳洲についてわざわざ一節を設け、12ページにわたって論評しています。

 自分もこれを読んで、行ってみました。
 今では観光ガイドなどにも記載されるポイントとなっており、現地の案内看板などもあって、初めてでも行けないことはありません。しかし、長寿院の裏山をかなり上まで登っていく必要があり、この暑さの中ではかなり難儀。何度、途中で断念しようと思ったことか。(笑)
 たどり着いた墓所は、ご覧のとおり手入れが行き届いていました。

 さて、その雨森芳洲。
 雨森芳洲(1668~1755)は、「元禄の国際人」。
 現滋賀県伊香郡高月町雨森で誕生。医者であった父の跡を継いで医者を志すが、やがて儒学に転じ、木下順庵の門下生として頭角を現し、新井白石・室鳩巣らと共に木門五先生の一人に数えられるようになった。
 22歳の時、順庵の推薦により日朝外交の窓口であった対馬藩に仕官し、26歳で対馬に赴任。35歳の時に朝鮮に渡って朝鮮の地理・歴史・言語を学び、朝鮮側の日本語辞書の編集に携わり、自らも朝鮮語の入門書を作成した。
 徳川家宣と徳川吉宗の就任祝いの朝鮮通信使に随行して対馬~江戸を往復し、日朝の外交交渉に尽力。また、藩内での人材育成の必要性を説き、通訳養成制度の確立に貢献し、私塾を開いて多くの子弟を育てた。
 晩年は、教育に情熱を捧げる一方、和歌1万首を作成するなど、政治・外交・教育・学問・芸術など多方面にわたって活躍。享年88歳、厳原町長寿院に眠る。

 芳洲は、朝鮮に渡って諸事を学んだ経験から、互いの習慣や文化について学び尊重することが善隣外交を維持する道だとして、「誠心交隣(互いに欺かず争わず、真実を以ての交わり)」を外交の基本思想とした。
 筆談が主な交渉手段だった時代に音(会話)を学ぶ新進性と柔軟性をもつ一方、外交政策に関して同門の新井白石と激しい論争を繰り広げるなど、剛毅で実直な面もあわせ持っていた。
 また芳洲は、文献実証を尊重し、「記録さえ確かならば幾百年ともなき長生きしたる人を左右に置けると同じかるべし」として藩政の記録を重要視したことから、対馬藩の膨大な量の日記類・記録類が貴重な史料となって現在も保存されている。

 1990年、韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領が来日した際の国会演説で、江戸時代の儒学者・雨森芳洲を話題に取りあげ、日本でも忘れられていた芳洲が脚光を浴び、「篤実の儒学者」としての先進的な国際感覚とその外交思想や姿勢に注目が集まることになった。


59 大歳神社 ~旧厳原町・厳原

 長寿院からこれより西側にあるサバニ国道方面へと歩を進め、厳原本川に架かる荒神橋を渡った角にあった小さな神社。その名を大歳神社ということが、「けい」の女将からもらった冊子の地図に載っていました。
 観光ポイントなどではない、町角にたたずむ小さな神社ですが、由緒もありそうだし、こういう神社こそ現代の庶民を護る大切なお社なのではないか。

 写真にも写っている由緒書きを移記しておきます。

祭神
 大歳神(オオトシノカミ)、興津彦神(オキツヒコノカミ)、興津姫神(オキツヒメノカミ)
由緒
 祭神の大歳神は須佐之男命と、山の神の娘・神大市比売(カムオオイチヒメ)との間に生まれられた神で、16柱もの多くの御子神をつくられた神で、「子宝の神」であり、「穀物の神」で、五穀豊穣、商売繁盛の神であります。
 興津彦神、興津姫神はこの大歳神の御子で、興津彦神は「火の守護神」であり、興津姫神は「竈の神」で火から私共を守って下さる神として古くから府中(厳原)の人々が厚く信仰した神々であります。
 初めは桟原(さじきはら)にあり、後、宮谷の西丘に遷座され、その後貞享3(1687)年にこの笠淵で火災があり、それを機に防火の神、火の守護神として現在地に遷座された神社であります。
大祭
 毎年旧暦9月28日。

 へえ~、子宝の神であり、五穀豊穣・商売繁盛の神で、さらには防火の神ということであれば、身近な神として申し分のないお力。強い御加護が期待できますね。
 なお、桟原とは、昨日訪れた藩校日新館門付近。厳原北部に位置し、かつては府城があったところ。
 町域の拡大に伴って、武家屋敷が立ち並んでいた中村地区と呼ばれるこの地に遷座されたのですね。

 地元では「荒神様」と言われているようで、大祭時は社に幟を立て、道路には提灯をともし、社前のミニ公園でなおらいが行われるとのこと。こうして毎年、地域の人たちが協力して祭りを盛り上げているのですね。


60 対馬藩家老屋敷跡 ~旧厳原町・厳原

 次は、馬場筋であるサバニ国道を少し北へと進み、かつて対馬藩の家老屋敷があったところに建つ門を見に行きました。
 国道沿いに建つ門の前は何度かクルマで通っているので、あれだな、という感じではありますが、ビーサンでゆるやかに歩いて見る、ということもまた別の味わいがあるのでね。

 17世紀後半に建てられた、「長屋門」という氏江家の屋敷の門。
 ここ、現在は県の対馬振興局の敷地になっているようで、門の内側には振興局の庁舎や保健所があったりします。

 長崎県対馬振興局が立てた説明版によると、ここは対馬藩家老・氏江家の屋敷跡。
 『旧藩時代、李氏朝鮮との外交、貿易の窓口として栄えた対馬藩宗家の家老・氏江家が屋敷を構えていた。氏江家は藩主宗家一門の家柄で、石高は900石。
 かつては、馬場筋と称する大通り(現在の国道382号)に沿って宗家の家臣達の屋敷が建ち並び、人の背丈よりも高い石垣塀が続いていた。
 明治以降この氏江家の屋敷は、厳原支庁、対馬支庁、その後大正15年からは長崎県対馬支庁の庁舎として使われている。今日も残る周囲の石垣、長屋門、庁舎裏の庭園等に昔の武家屋敷の面影を偲ぶことが出来る。
 なお、氏江の名称は今でもこの敷地北側の通り「氏江小路」に残されている。』

 驚くのは、この門の一角、写真の左側の裏側が、今も生協の売店として使われていること。
 この日は土曜日だったので営業は休みでしたが、「月~金、8:45~17:45、昼休も営業」との看板が掲げられていました。


61 武家屋敷群と陰陽石の魔除け石 ~旧厳原町・厳原

 厳原は、古代には国府、中世から近世にかけて対馬藩主・宗家の居館が置かれた対馬の政治、経済、文化の中心として栄えた城下町だったので、今でも街中に背丈より高い石塀が多く残り、往時をしのぶことができます。

 対馬振興局のある宮谷地区もその代表格で、振興局の西側周辺の武家屋敷町には石塀が並んでいます。でもまあ、この辺りの石塀は、役所の敷地周辺は近年特にリキ入れて整備しましたぁといった印象があり、なんだかきれいすぎる感じも。
 住家のないところに長~い石垣。その上に白壁、そして瓦。その内側は、ところによっては空き地のままの公有地。どうですかねぇ、これ・・・。

 この対馬の石塀は、石面の広い石を適当な間隔に配置し、その間に小口部分を布積みにして詰めるという手法をとっており、これを「鏡積み」と言い、対馬でしか見られない技法なのだそう。なんでも陰陽に基づく配置を石垣全体に展開しているということらしいです。

 そしてその途中には、石塀がクランクになった部分が坪庭状になっているところがあって、「陰陽石の魔除け石」と看板が掲げられていました。
 その説明によると、
 『北東隅部の石垣を張り出し、外部に大小の石を衝立状「陰陽石の魔除け石」に築いた場所である。
 また、外敵や賊から守るため外壁に武者を隠した由来から「武者隠し」とも言われる。』とのこと。

tsushima65.jpg

 ついでだから、ちょっと「陰陽」について調べてみようか。
 「陰陽」とは、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のあらゆる事物をさまざまな観点から陰と陽の2カテゴリに分類する思想で、陰・陽は互いに対立する属性を持つ2つの「気」であり、万物の生成消滅といった変化はこの2つの気によって起こるとするもの。――とのこと。

 で、陰陽石というのは、性信仰に基づいて、信仰や俗信の対象になっている男女の性器をかたどった石。それと見える自然石の場合と、人工を加えたものの場合とがある。陰陽を併置したものもあるが、陽石だけのものも多い。
 道祖神の神体になったもの、金勢(こんせ)大明神、子種石、子孕み石などの名称をもつものなどがある。畑の中に祀って豊作を祈願するものもあるが、村境や峠に祀るものが多く、全国各地に広く分布している。――とのこと。

 上記の意味合いからすると、この遺構はどちらかというと「武者隠し」の意味合いが強いのかもね。

 その後も石塀が張り巡らされた路地を歩く。
 民宿しまもと荘の前にパトカーが停まって男性を事情聴取中。なにかあったの?
 馬場筋を進み中村地区に舞い戻って、対馬南警察署の前庭に「文化8(1811)年度 朝鮮通信使幕府接遇の地」の碑を発見。ここが・・・と思うも、厳原の町内にはこれと同じ碑がいくつかあるんだって。
 長崎地方裁判所の前だったかに、剥げて見えなくなりつつある看板が。「宗家館跡地」とあり、『当地は、応仁2(1468)年、宗家10代当主貞国が現在の峰町佐賀から府を現在の厳原へ移した際、館を構えた場所である。以後、大永6(1526)年、池の館(現在の池神社一帯)に移るまでの59年間当主の居館であった。』と。


62 半井桃水館 ~旧厳原町・厳原

 警察署や裁判所が立ち並ぶ馬場筋通りと厳原本川に囲まれた半円形の区域の中村地区も、古くは武家屋敷が立ち並んでいたところ。そして中村には、樋口一葉の小説の指導者であり、恋人でもあった半井桃水(なからい とうすい)の生家跡があり、そこには「半井桃水館」が建っています。

 歩いていると、朝であってもハンパなく暑い。なので、「聖ヨハネ教会」を見たあたりでややタハタハ状態になり、開館時間から間もない半井桃水館の庭で小休止。親切にもここには灰皿が置かれたテーブルと椅子がある。中には入らず。(笑)

 半井桃水は、明治期の新聞記者・小説家。対馬出身で、日露戦争時には従軍記者として活躍したのだそうです。
 建物のあるこの地厳原町中村地区は、桃水の出身地であり、現在も城下町の風情が残っています。

 中庭に設置された看板「半井桃水」を移記。
 『半井桃水は万延元(1860)年12月2日、半井湛四郎の長子として対馬の府中(厳原)に生まれた。
 本名は冽(きよし)、幼名を泉太郎、菊阿弥、桃水痴史などと号した。家は藩の典医で宗家に仕えた。
 泉太郎は、父の任地釜山の倭館で働いたのちに帰国し、明治8(1875)年、16歳のときに上京し英学塾「共立学舎」に学んだ。
 桃水は、明治15(1882)年、ソウルで起こった京城事件(兵士の反乱)の現地報道を送ったことが契機となって、明治21(1888)年、東京朝日新聞社に入社した。桃水はこの前後より小説を書き始め、翌明治22年同紙に「唖聾子(おしつんぼ)」を発表、以後、時代物から現代ものまで流麗な才筆で読者を魅了した。
 樋口一葉(1872~96)が、小説家志望の意思を伝え指導を仰ぐため桃水のもとを訪ねたのは、ちょうど東京朝日新聞に「胡砂吹く風」が掲載されていた明治24(1891)年、一葉20歳、桃水32歳の初春4月15日のことであった。一葉の桃水に寄せる思いが 、25年という短い生涯を通して消えることがなかったことは、死後発表された「日記」によって明らかなところである。
 大正15(1926)年11月21日没。享年67歳。墓は東京都文京区駒込の養昌寺にある。戒名は観清院謡光冽音居士。』

 またまた「半井」という姓について、かつてNHKに出ていたお天気キャスター半井小絵(なからい さえ)を連想。
 調べてみると、半井小絵は兵庫県伊丹の出身。「半井」の全国世帯数は188戸で、その人口は全国第9,877位なんだって。ウェブってすごいね、なんでも調べられる。
 和気清麻呂の子、和気広世は医学に長け、日本の宮廷医、和気家、半井家の始祖となった、という記述もありました。


63 対馬市役所 ~旧厳原町・厳原

 歩き始めて1時間半ほどしか経っていないのだけど、なんだか歩き疲れてきたぞ。
 その理由は大きく3つ。ひとつは、まず暑いこと。2つめは、ビーサンの底がすり減っていて地面の硬さが直接伝わってくること、そして3つめは、雨森芳洲の墓を見るための長寿院の山登りだ。

 この後今度は西側の山手にある万松院を見るのだが、足が進まないのだけど。
 それに、近くの金石城付近はたくさんの韓国団体客でやたらとにぎにぎしく、近づくにはかなりの勇気がいる。(笑)
 ということで、登り道の始まるところにある対馬市役所を眺めるふりをして少し休憩し、タイムラグを設ける。土曜日なので役所は休みだし、ちょうどいいということもある。

 対馬市は、2004(平成16)年3月、対馬島内の厳原町・美津島町・豊玉町・峰町・上県町・上対馬町が合併してできた市。しかし、自分が参考にしている「日本の島ガイド SHIMADAS」が、2007年発行であるものの、1998年の初版をベースとしているため、旧市町村単位の整理のまま。なので、このブログも旧市町村に区分してタグをつけています。
 合併協議会での妥協により、市役所は旧厳原町、市議会は旧豊玉町、市教育委員会は旧上対馬町に分かれて置かれているんだって。
 また、対馬市の人口は、合併当時は約4万1,000人だったものが、8年後の現在は3万5,000千人を割っており、人口減少、過疎は深刻なようです。
 市木は、ひとつばたご。市花は、玄海つつじ。市鳥は、高麗きじ。
64 万松院 ~旧厳原町・厳原

 少し痛くなってきた足の裏のことはなるたけ考えないようにして、また、団体客のワーキャーの横を気づかないふりをして通り抜け、厳原市内最大の観光ポイントと目される万松院へ。そうそう、対馬なんて見るものはそうないと考えている居酒屋「けい」の女将も、ここにだけはぜひ行っておけと言っていたな。

 だらだらとした一本道を登りつめると正面に山門がドーン。(画像)



 この存在地及び正面の門構えからして、すでに威風堂々。嬉しいことに(失礼!)、韓国人はこのような名刹には興味がないようで、少人数の日本人客がチラホラといったところ。

 ここ万松院は、2代目藩主・宗義成(そう よしなり)が、父・義智(そう よしとし)の冥福を祈って1615年に建立したもので、宗家の菩提寺として特別の崇敬を受けてきた寺院です。
 桃山様式の山門、徳川歴代将軍の位牌、朝鮮国王から贈られた三具足(みつぐそく)などが公開されています。

 まずは正面に構えた山門は、両袖が朱に塗られて立派。
 その山門はくぐらず、その左側にある料金所?で拝観料300円を支払い、本堂へ。本堂では、後水尾天皇というから17世紀の前半頃に皇室から賜ったという「万松精舎の額」や、ただの置物であるかのように無造作に置かれたの「三具足」を拝見。それぞれ価値はあるのでしょうが、本堂を案内する録音テープがいかれてループするところがあり、その語り口には苦笑せざるを得ません。

 次に、本堂を出て裏手の墓地へ。眼前に現れた長く続く「百雁木(ひゃくがんぎ)」という132段の石段のたたずまいは見事!(画像)

tsushima69.jpg

 まっすぐで緩やかな勾配をもち、両脇には昔のままの石灯籠がずいーっと。一歩一歩進んでいくにつれて心の中が洗われるようです。幸いかしましい連中は一人としていないし。(笑)
 百雁木を登っていくと、歴代藩主やその妻・側室などの墓があちこちにずら~り。国境に浮かぶ辺境の島にこれほどのものがあるとはと、ちょっとしたオドロキの光景でした。
 墓石のうち宗義成・宗善真のものは最大で、以降、墓石の規模は徐々に小さくなっていくのがわかります。そのことは、朝鮮貿易の盛衰による対馬藩の財政力の変動をそのまま反映しているかのようです。

 墓所から戻り、出ようとすると、そこには「諫鼓(かんこ)」というものが。鉄製の柱の上にでんでん太鼓のようなのものがくっついている、という妙な形をしています。これ、領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓、なのだそう。
 「諫鼓苔蒸す」は、諫鼓を用いぬことの久しい意、「諫鼓鳥」は、諫鼓の上に鳥が遊ぶ。諫鼓を用いる必要がない意で、共に領主が善政を施すのを言うのだとの解説書が脇に。
 う~む。まことしやかではあるが、「かんこどり」って、「閑古鳥」じゃないのか?

 もともと臨済宗だった宗旨を、1635年に天台宗に改めて現在に至っているとのことでした。

 山門の脇に記されていた「万松院(対馬藩主宗家墓所)」の説明書きを移記しておきましょう。
 『元和元(1615)年、宗家20代義成(よしなり)は、朝鮮出兵、関ヶ原の戦、対朝鮮和平外交と苦難を重ねた先代義智(よしとし)公供養のため、金石屋形の西の峰に松音寺を創建した。
 元和8(1622)年、義智の法号に因み、寺号は万松院と改められた。山号は鐘碧山。
 正保4(1647)年、現在地に移り、宗家累代の菩薩寺となった。
 百雁木と称する石段をのぼると御霊屋(おたまや)がある。上御霊屋に第19代義智公から第32代義和(よしなり)公までの歴代藩主と正夫人の墓、中御霊屋には最上段に第10代貞国公の墓があり、他に側室と幼児の墓がある。下御霊屋には一族などの墓がある。
 上御霊屋の格別大きな墓石は義成公と義真(よしざね)公の墓で、好況な朝鮮貿易が藩財政を潤した頃の藩主である。
 堂宇は元禄と享保の大火のため幾度か改建された。山門だけは焼失をまぬがれ、現存する対馬最古の建物で、桃山様式を伝える建築物として貴重である。 厳原町教育委員会』
 「壱岐・対馬旅行記」を一時中断して、10月8日に開催された琉球フェスティバル2012大阪のインプレッションを数回にわたって緊急掲載します。



○はじめに
 毎年連続の18回目となる琉フェス大阪に、今年は3年ぶりに参加しました。
 参加は数えて7回目。2004~09年は続けて参加していたのですが、一昨年、昨年と一身上の都合で参加できずに悔しい思いをしました。

 「歌い継がれるもの~Special Tribute 知名定男」とサブテーマが付いた今回の琉フェス、会場は、尼崎市のあましんアルカイックホールです。
 尼崎といえば昔からウチナーンチュが多く住む土地柄であり、かの知名定繁や定男も住んでいたことがあり、また、あの登川誠仁が生を受けた場所でもあります。琉フェスを開催するにある意味ふさわしい場所といえるのではないでしょうか。

 また今年は、大阪城野外音楽堂から一転してホール形式での開催です。飲んで騒いでがお目当ての方々はさぞがっかりしたことでしょうが、自分のように1年に数回、じっくりと沖縄や奄美の民謡を聴きたいと考える者にとっては、久々に落ち着いた雰囲気で鑑賞できることもちょっとうれしくもあり、そう違和感はありません。

 せっかく関西に来たので、この機会にとばかりに三宮や長田、最後は明石まで足を伸ばし、尼崎に戻って会場入りしたのは開演20分前の16時10分ごろ。気候はまだ温かく、歩いているうちは風が当たっていいのですが、ホール内の席に着くと大汗が出て困りました。

 ホールは2階席まであり、全部で2千席ぐらいはあるでしょうか(後に調べたところ、1,820席)。器としてはでかいほうですが、やはり野外と比較すると手狭という感じはどうしても残ります。
 しかし、2階席には空席も。これが満員にならないとは、沖縄音楽のブームも随分遠くになりにけりといった感じですね。

 ともあれ、今年の大阪はどんな展開になるのだろうかと、すでに興味津々です。
○オープニング

 開演となり、まずは幕開けは、玉城琉玉扇会の前田雅子琉舞道場による「四ツ竹」の演舞から。
 山吹色の紅型の琉装の女性8人が、大きな花笠をかぶって、「踊りこはでさ節」に合わせて四ツ竹を打ち鳴らし鳴らしながら舞います。
 ♪ 打ち鳴らし鳴らし 四ツ竹ゆ鳴らち 今日や御座出じて 遊ぶ嬉しゃ ・・・
 唄三線は残念ながらオケだけど、本島の一流どころと比較してもそう遜色のない舞いで優雅そのもの。会場は一気に沖縄モードになりました。

 終わって、スポットライトを浴びて袖に登場したのは、ガレッジセール、ではなく、津波信一や藤木勇人、でもなく、FM大阪の谷口キヨコ、でもなく、珠久美穂子(しゅく みほこ)というFM大阪のアナウンサー。初出場です。
 小柄でキュートな女性で、スリムパンツが良く似合うカワイイ人。やさしく静かなしゃべり方で、今回のホール開催にはこういうのも合っていたかも。



○よなは徹

 さて、いよいよ始まります。
 皮切りは、よなは徹。赤いシャツに黒のパンツ、短髪にサングラスといった出で立ちで、いつものようにロック調のバックミュージックに乗って登場です。

 しばしチンダミをした後、1曲目はお得意の「北谷ナークニー」から散らしに「山原汀間当」を添えて。
 ホールにはよなはの奏でる三線がピンピンと響き、なかなかいい感じです。残響の残るこの音響って、野外ではむずかしいかも。してみると、彼のような三線一本に島太鼓といったステージスタイルならば、やはりホールで聴くのがいいのかもなあ。
 島うたは、基本的にはモーアシビや花街の余興などでうたわれるのが正しいあり方だと思っており、芸としての唄というのはホントではないかもしれないけど、皆に聴かせるということであれば、ホールのほうがずっとよく聴こえます。

 2曲目は「北谷舞方(メーカタ)」。だんだん三線のペースが速く、激しくなっていきます。チラシに「アッチャメー小」を持ってきてさらに激しく。
 島太鼓を叩いているのは、いつものサンデーではなく、しゃかりのかんなりこと上地一成です。

 ここで一服、的に、照屋林助が得意としていた「職業口説」を。
 ♪ 我んどぅ 小児科の先生やいびーしが 朝から晩までぃ ・・・
 合い間に早口の漫談を挿入して、まさにテルリンを髣髴とさせる感があります。しかし、おかしいはずのその話がネイティヴのウチナー口なので、会場の皆さんにはイマイチ伝わらず、思うように笑いが取れなかったようでした。
 ま、彼はカッコイイので、愛嬌たっぷりのテルリンのようにはいくまいな、というところかな。

 続いては、再びモーアシビの頭(かしら)然としたよなはに戻って、これまたお得意の「天川(アマカー)」を。いやはや、弾きが早スゴい。
 場内いよいよ盛り上がって、踊りだす客数名。ただしそれは座席の間にある狭い通路だけでのこと。このあたり、やはり野外のほうがよいかもしれないな。

 そして最後は「唐船ドーイ」。もうすっかり身に染み付いてほぼ自動的に演奏しているように完璧にうたい上げ、着けていたサングラスを客席に高々と放り投げて終了でした。


○ネーネーズ

 次に登場したのは、早くもネーネーズです。司会がネーネーズをコールすると、観客からは歓声が上がりました。よっ、関西でも人気なんだね、ネーネーズ。

 ステージの構成は那覇のライブハウス島唄と全く同じと言っていいようで、おなじみの「トゥネー(唱え)」の前奏が会場に流れ、4人の琉装のシルエットを映し出すところからスタート。く~っ!

 ぱっとライトが灯って、これまたいつもどおり1曲目は「あけもどろ」。なのだけと、いつ何回聴いても劇的だよね、この曲は。
 ♪ 空晴れ 風やみ かりゆしの海は凪ぎ ・・・
 というソロの部分を真優子が無難にこなしたあたりでふと気づいたのですが、今回は、というか今回も、バックバンドはなく、音楽は全てオケを使用しているよう。だからライブハウス島唄でやるのと同じに聴こえるのだな。
 大阪ドームでやっていたときのような観客動員もないので予算も少ないのでしょうが、オケはちょっとなぁ・・・。

 2曲目は、にぎやかに「贈りもの」を。
 ♪ ヘイヨー ハイヨー 太陽 燦々 ・・・
 彼女たちの最新アルバムのタイトル曲で、楽しくていい曲。このうたを琉フェスで敢えてチョイスしたあたり、初代ネーネーズからの脱皮を意識しているようで好感が持てます。
 そうそう、上原渚に代わって新加入した本村理恵は、今回初めて見ました。笑顔もステキだし、なかなかかわいいじゃん。ウチナーカンプーを結った姿はほかの3人よりもよく似合っており、年齢も上に見えたりしますが、実はネーネーズの最年少なんですよ~。

 3曲目は、名曲「面影(ウムカジ)」。この歌、大好きなんだよなぁ。ネーネーズの曲の中ではマイベストスリーには常に入るな。この曲の作詞・作曲者でもある知名定男自身のマイフェイバリットでもあるようです。
 でも、正直言って、初代のうたう「面影」が好き。あのアンバランスな中に潜む摩訶不思議な完成度は、今の若いネーネーズにはそうやすやすとは到達できまい。

 歌声はなんと言っても比嘉真優子のそれがインパクトが強いです。大きな笑顔で自信たっぷりのステージ。MCも彼女が取っていました。今のネーネーズは彼女がしっかりとリードしているんだなぁという印象です。
 さらに仲本真紀の甲高い声がところどころに入ってきますが、同じ高音でも比屋根幸乃のそれは出色だったなぁと、古い人間は思ったり。
 保良光美は一見地味ですが、カンプーをほどくといちばん美人なのはきっと彼女だろうと、密かに思っています。

 最後は、この曲がネーネーズをメジャーにしたといって過言ではない「黄金の花」をゆっくりと、しみじみとうたってステージをあとにしました。
 ここまでホームグラウンドでうたい慣れた曲ばかりを選べば、新人の本村理恵ちゃんだって安心して臨むことができたでしょう。
○知名定人

 次は、あの知名定繁・定男の血を引くサラブレッドとの紹介で登場した、知名定人。敢えて付け加えるなら、前ネーネーズの比嘉綾乃のパートナーです。
 知名定男の次男で、10年ほど前、知名定男芸能生活45周年記念リサイタルではモギリをやっていた彼を見たことはありますが、ステージで堂々と、しかもソロでうたうところは初めて見ます。



 黒紋付に縞の袴という、デビューCD「島唄半学」のジャケットと同じ出で立ちで登場し、1曲目はそのCDにも収録されている「仲座兄」を。
 ♪ 音にうっちゃる長浜小 ゆう持ちゅる カンダやるはじど ・・・
 曲調は、ジュリグヮー調というか、嘉手苅林昌や登川誠仁、松田弘一あたりにうたわせたらぴったりとハマるような、とぼけた感じのファンキーなもの。それをこの3世は淡々とうたいこなします。血は争えないといったところでしょうか。

 うたい終え、サラブレッドなどとたいそうな紹介をされてと笑いを取り、サラブレッドというより熊だと自嘲してみせます。
 また、定繁の離婚した旧妻で、尼崎で琉球舞踊の道場を主宰していた松島澄子のことに触れ、さらに定繁の思い出をひとくさり語ってくれました。MCはなかなかいけるではないの。(笑)

 定繁のうたを録画で見る機会があり、そのときにうたっていたものを、ということで、次はその曲「下千鳥」を披露。スローな曲。
 実はこの曲、90年代の初期の琉フェス東京の日比谷野音で嘉手苅林昌がやり、あまり受けなかったことをうっすらと記憶しています。

 その後は、うたえなくなった父だがここに来ているので伴奏させてやろうか、と語ってまた笑いを取り、知名定男が観客に敬礼しながら登場。白地に黒い模様をあしらったアロハにスラックス、足元はビーサンという、まったくフツーの格好です。
 すると会場から定男に花束の差し入れがあり、受け取った定男は、倅の伴奏のために出てきたが復活せんといかんかな?と発言し、まんざらではない様子。一方の定人は、おれのステージなんだけどなぁとぼやく。親子していい雰囲気です。

 そして二人で、3曲目は「ヤッチャー小」を。定人の三線はボツボツ・・・というような印象がありましたが、定男の三線はキレがあり、曲全体がピリリとした感じ。さすが、定男の三線はスバラシイ。

 聴いていて、高音時に発する定人の声は定男によく似ているなと思いました。
 また、定男もちょっぴりうたいましたが、喉の調子の悪さは感じませんでした。しゃべっているときはまったく違和感がないし、まだまだいけるのではないかと正直思ったところです。
 散らしに「シューラ節」を添えて、定人のステージは終了。親子並んでの退場も味わいがあってよかったです。
○上間綾乃

 いったん退いた知名定男が司会に呼ばれて再び登場。尼崎は自分のふるさとで、小学校の5年生までこの地で暮らし、今でも当時の住所を言えると、実際に「長洲大門43番地」と語ります。その表情はより横幅を増してきたようで、なんだか写真で見る父定繁に似てきたような気がしました。
 司会者が言うには、この会場のホールでは泡盛やオリオンビール、沖縄の食べ物なども販売されているのは、琉フェスに深い理解のあるこの会場ならではだとのこと。また、この日の会場には現、前の尼崎市長も来ているとのこと。もう琉フェスは市を挙げてのイベントになっているのですね。

 さて、次に登場したのは上間綾乃。
 定男は沖縄音楽シーンの次代を担っていくであろう上間にエールを送ります。
 このことについて上間は自己のブログで、『民謡界の大御所珍獣・・・間違った、重鎮、知名定男さんのMCで上間を紹介してもらい、「綾乃、頼んだぞ! 頑張れよ!」という言葉に胸がいっぱいになった。技術だけじゃなく、ちゃんと魂も受け継いで行くんだと、改めて強く思った。歴史を繋いできた先輩方を誇りに思う。』と書いていました。
 魂こそがデージということを、若いのによくわかっているじゃないですか。いいぞ、綾乃。

 スレンダーな髪にエキゾチックな表情、さらに八頭身といってもいいような小顔に痩身の抜群なスタイルで、このたびメジャーデビューを果たしたとのこと。
 メジャーデビューは喜ばしいことなのですが、元ちとせや中孝介、遡ればむちゃ加那の名手中野律紀などに見られるような、いわば一時的スターになって使い捨てられていく状況もあり、一概に喜べないこともある。上間綾乃はどうなるのかが少し心配ではあります。



 アコギの伊集タツヤとパーカッションの田代浩一を従えて、1曲目は「遠音(とおね)」という曲。
 ♪ あふれる託された想い 三味の音奏でるこの手に
   遠音 聴けよ声を 受け継ぎし守護のうた
   七つの海越え 光のもとへ ・・・
 三線を主旋律ではなくギターの伴奏のようにリズミカルに弾く上間に漂う雰囲気は、なんだか新良幸人のよう。かといって弾く手の指には三線用の爪がしっかりと装着されており、この新進と伝統の混在が摩訶不思議です。

 2曲目は、アコギをフィーチャーして「声なき命」という曲を。
 ♪ 声なき命 あなたにささやく どこにゆけばいいの
   声なき命 切なる願い 聴いて この声を
 壊されていく珊瑚礁や自然は声を発して何かを伝えることはできない。でも自然にも命があり、伝えたいことがある。聴いて欲しい、声には出せない命。――という沖縄の自然を歌うメッセージ・ソングでした。

 うたいかたを見ると、両手を振りながら、心から魂を搾り出すようなもので、これはなにも上間でなければこうはいかないというものではなく、最近の女性ボーカリストの多くがやっているもの。メジャーでやっていくためには全体の中で埋没しないオリジナリティがなによりも必要であり、上間にはぜひそのようなものを見つけてほしいと思います。使い捨てられないように。

 ここまでの彼女のステージは、なぜこれらが琉フェスでうたう曲なのか、疑問に感じていたところ。
 かつて太陽風オーケストラのキーボーディスト松元靖が、「琉球フェスティバルは三線がないと出られないという不文律があるんですよ」と語っていたのを思い出し、それに対して「そんなことよりも沖縄のソウルのようなものが最も大切なのではないか。(だから太陽風も参加すべきでしょう)」と反論した自分を思い出していました。

 しかし、最後となる「ハリクヤマク」に至っては、その疑問が解消。あのカチャーシーソングをロック調にアレンジしてうたって見せたのには少々唖然としてしまいました。
 すっかり沖縄民謡とは異なるものに仕上がっていたとはいえ、それこそソウルは沖縄でしたねぇ。

 これら3曲はいずれも、この5月に発売されたメジャーデビューアルバム「唄者」からのものでした。
 上間にひとつだけお願い。メジャーになっても、沖縄の魂だけは忘れることなく曲をつくってね。知名定男が訴えた「綾乃、頼んだぞ!」を胸に秘めて。


○大島保克

 次は、琉フェス最多出場の大島保克です。
 初出場したのは彼が28歳のとき。それが今回は何度目になるのか、年齢は43歳になるのだそうです。若かった彼もそういう年齢になってしまったかと感慨深いものがあります。
 この4月に、ソロアルバムとしては7年ぶりに6枚目の「島渡る~Across the Islands」をリリースして、上げ潮ムードの大島です。

 いつものように椅子にどっかと腰掛けて、うたうは、なんといううただっけ? よく聴くことがあるような気がしますが、曲名をど忘れ。
 ♪ 月の夜や さやか照る ・・・
 ハイトーンのビブラートボイスは他の追随を許さない、大島のオリジナル。三線を爪弾きながらうたえば、脳内に浮かび上がってくるのは八重山の島々です。
 うたはこうでなければなりませんよね。何の解説もなく、聴いているだけでうたの生まれ故郷がイメージできれば、もう何もいらないではないか。

 2曲目はおなじみ「赤ゆら」。軽快な太鼓でリズムを刻みつつ掛け声を入れるのは、よなは徹。これまた、何も足さない、何も引かない形で、ただちに八重山へと想いがいきます。

 3曲目は、作詞・知名定繁、作曲・照屋林助の「ジントヨーワルツ」。ギターは近藤研二
 どうやら定男が、大島にこのうたをうたうようリクエストした模様です。
 このうたはしみじみ調でうたうとサイコーなのでかなり期待したものの、正直言ってデキはいまひとつ。ちょっとテンポがこの曲にしては早かったのが災いしたかもしれません。

 今回の大島のステージはなんとここまで。お家芸の「イラヨイ月夜浜」や、しまうたとしては珍しい三拍子の(あ、「ジントヨーワルツ」も当然ながら三拍子!)「流星」などはうたわず。
 もう1曲ぐらいあってよかったのになぁ。時間が押しているのか?

 ここで小休止。
 再び玉城琉玉扇会前田雅子琉舞道場のお二人が舞台に登場して、雑踊りの「谷茶前」を披露。
 これを司会者は「ちゃんためー」と誤って紹介して失笑を買います。もしかして、この司会者は麻雀好きなのか? あとで丁重に謝罪しておりましたが。
 あとで知名定男が登場し、谷茶という地名は恩納村と本部町にあり双方で「谷茶前」の本家争いをしているが、自分は恩納に行けば恩納、本部に行けば本部だろうと無責任なことを言っているとかいう話をしてフォローしていました。

 さらに、尼崎の琉鼓会には舞踊部というのがあるそうで、そこに所属する美童たちによる創作舞踊「永良部百合の花」が、同名の民謡に乗せて踊られました。手に手に大きなテッポウユリを持ち、お揃いのクリーム色の着物をまとっての踊りでした。


○武下和平&武下かおり

 次は、奄美のウタシャ武下和平(たけしたかずひら)です。
 ずっと待ちわびていて、ようやく初出場。奄美百年に一人と言われたウタシャで、一度は生で聴いてみたいと思っていましたが、尼崎在住のためなかなか聴く機会がなく、ようやく実現です。

 しかし今では79歳。衰えは隠しきれないのだろうなと恐れていました。
 ところが! この人、凄い!! まったくと言っていいほどに衰えは感じませんでした。
 三線などは無我の境地で、両手の動くままにしていれば自在、というような風情だし、歌声には張りがあり、ヒギャウタ独特の抑揚や高音の裏返りかたもともに申し分ありません。
 ホントに79歳なのか? 登川誠仁とは大ちが・・・もとい、とにかく絶品でした。はるばる遠くから参加した甲斐があったなぁと、この日いちばんの満足感をいただきました。

 1曲目は、幕開けにふさわしく「一切朝花節」から。
 ♪ ヨイサヨイヨイ ヨーイサヨイヨイ ・・・
   イチヤヌカラン ナマヌカランヨー ・・・
 まぁ、敢えて言うなら、声量がやや落ち着いたのと、抑揚や節回しにややくどさが出てきた、と言っていいでしょうか。
 でも、うたう表情はにこやかだし、あれだけ声を出してケロッとしているかと思うとすぐに次の曲に臨むあたりはオドロキです。

 娘のかおりさんがそれぞれの曲について短いコメントをつける形で、2曲目は「むちゃ加那節」、3曲目は「嘉徳なべ加那節」、さらに「徳之島節」とうたい続けました。
 先ほどの大島保克と同様、彼のうたを聴けば、あの田中一村が描いたような豊饒の奄美の風景が心に浮かびます。うむ、これぞシマウタ。

 そして最後に、「今日は琉球弧のおまつりなので」みたいなことをかおりさんが話し、琉球との関係が深い「諸鈍長浜節」をうたって終了。

 いやはや、そのかくしゃくとした姿とうたに、ただただ敬服しましたです。


○琉鼓会

 ここでまた休憩ということで、ステージ上には琉鼓会の大太鼓メンバー8人がずらりと並び、エイサー演舞が始まりました。
 地方(じかた)はよなは徹が一人で歌い続けます。これが毎年の琉フェス大阪における彼の一番の仕事なのだろうとお察しします。

 まずは「ヒヤルガヘイ」からスタートし、曲に合わせて大太鼓の後ろに、チョンダラー一人を先頭にパーランクー隊がパーランクーを叩きながら入場。さすがに長尺の旗頭は持ってきていないようです。
 その後は続けざまに「仲順流り」「久高マンジュー主」「トゥータンカーニー」「テンヨー節」「スーリー東」「固み節」「いちゅび小」「唐船ドーイ」を演舞。
 最後はよなはが「唐船ドーイ」を長々と引っ張り、女性を含む演舞隊もスタミナが切れてきてヘロヘロに。

 琉鼓会は本土から初めて、本島の全島エイサーまつりに招待されて舞ったという輝かしい経歴を持っており、その実力も本土ではピカ一なのではないでしょうか。
 そんな演舞の大音響で、ホール内の雰囲気はさらにエスカレートした感がありました。

 その後は、恒例、ミスOKINAWAによる本島・石垣島への航空券が当たる抽選会があって、次のステージの準備が完了です。


○ディアマンテス

 次はディアマンテス。
 ディアマンテスは今年の7月、琉フェス東京で観て以来。結成してから20年になるそうです。
 今回ものっけからの大声援のなか、「ガンバッテヤンド」からのスタートです。
 ♪ ガーンバーッテヤンド  ガーンバーッテヤンド ・・・
 いいなぁ、ラテンの曲は明るくて。だけどその中にふと覗く心の屈折のようなものが感じられて。

 アルベルト城間は短躯ではあるものの、あの声量はどこから来るのでしょうか。誰にも真似のできないうたがここにも。
 白いパンツに、赤と白の混じった長袖シャツ。踊りながらうたうさまはただただカッコいい。
 メンバーは、今年7月の東京開催と同様7人編成で、ボーカルの城間のほか、ブラスセッション2、ベース1、ドラム1、パーカッション1、キーボード1。
 東京開催では酔いつぶれたゴリに代わって司会に出てきたパーカッションのchicoさんも元気にコンガを叩いたりタンバリンを鳴らしたりとアクティブ感豊かでした。
 ですがどうも、ベーシストはホントに弾いているのか? キミのパートもまたオケではないだろうね。せめてノリノリのふりぐらいやってよ。

 2曲目は、「悲しみをコンドルに乗せて」。今回はずいぶんと“回帰”に振れたステージじゃないの?
 トランペッターが、アンデスを思わせるかのようにフルートを吹き、またトランペットに持ち替えてと大活躍。前も書いたけど、音楽にはブラスが入るとこうも音が厚くなるものなのですね。
 まぁ、三線は使っていないし、これのどこが琉フェスなんだという先ほどの疑問に戻ったりしますが、いいのだ、ディアマンテスは・・・と言いたい。

 3曲目は、東京でも聴いた「セバダ」。はい、大麦のことですね、前回書きましたね。
 4曲目は「琉神マブヤー」。はい、これも東京インプレで書きましたね。

 最後は「勝利のうた」。
 ♪ 勝利の歌をうたおうよ 生きてる喜び感じようよ ・・・
 やはり“回帰”?
 でも、ディアマンテスのいちばんよかった時代はあの頃だったということについては、大方の人が認めるところではないでしょうか。90年代の琉フェスではディアマンテスの旗が打ち振られ、会場全体がディアマンテス一色になって鳥肌が立ったものだったよなぁ。
 あの当時、心を熱くしてともにうたったあの歌々が時空を超えてここに蘇った感じがして、嬉しかったねぇ。