25 厳原の街角

 8時過ぎに車に乗り、まずは島の南西端の豆酘(つつ)集落を目指します。

 厳原から豆酘までは、この三叉路を左に曲がって29キロとの標識が。29キロっていったって、とんでもない山道だろうから、ノンストップでも1時間ぐらいはかかるのだろうな。
 まずは天気もいいし、気分もバッチリ。今日一日長丁場になるが、張り切って見てまわることにしましょう。
 では、レッツゴー!
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26 お船江跡 ~旧厳原町・久田

 まずは、お船江跡。
 厳原・久田(くた)に築造された対馬藩の御用船を繋留した船溜まりで、「お船屋」とも称します。

 宗義真(そう よしざね)による町割りの再構築とともに、藩用の交通整備のため築造され、江戸上りなどの公用に用いられたのだそうです。
 宗義真の治世は対馬の黄金時代であり、朝鮮貿易によって生み出された莫大な利益をもとに、大船越瀬戸の堀切、阿須川の掘削などの公共事業とともに行われたのが、このお船江の築造です。

 現在の遺構は1633年の造成のもので、築堤の石積みは当時のままになっています。
 藩船が各地へ渡航する間の期間にここで公用船を整備したということで、陸上には造船所があり、船大工や水夫たちの納屋があったそう。
 遺跡は、突堤が4つ、船渠が5つあり、突堤は鏡石を配した石積みで造られ、その原型は良好にとどめられています。

 昭和44年、長崎県天然記念物・史跡に指定。
 探し当てるのにちょっぴり苦労しましたが、朝からいいものを見せてもらいました。

 蛇足ですが、久田で起きた「河童騒動」について。
 1985年8月、久田で、ある人が河童らしき生き物と遭遇。お船江跡の路上には長さ20センチ、幅10センチほどの三角形の足跡が残されており、さらに翌日にも新たな足跡が発見され、大変な騒ぎになったそうです。
 警察によって足跡から分泌物が採取されたものの、その後分析されることなく廃棄処分となってしまったとのことです。


27 下島の集落1 ~旧厳原町・久和

 さて、ここからは山岳道路の県道24号を南方面に進んでいきます。
 はじめのうちは厳原へと通勤するのであろう対向車が何台かありましたが、アップダウンのくねくね道を進んでいくにつれて、車とはごく稀にしかすれ違わないようになりました。10分に1台ぐらいの割合?
 途中には、「洞門」と言えば言葉が過ぎるにしても、「隧道」と呼ぶにふさわしいような狭くて比較的長いトンネルもいくつか。

 朝鮮半島から中国大陸北部で繁殖するアカハラダカという鳥類を見ることができるという500メートル級の高山地帯を通過して、急な下り坂を一気に駆け下りようとすると、途中で写真のような風景が見られました。
 久和(くわ)という集落のよう。
 おそらく一昔前は、集落の外に行くにはこんなものすごい山越えなんて無理なので、船で海を行ったことでしょう。
 おれは、日本の西の離島の、こんなところまでやって来たのだなあ・・・。
 青と緑のコントラストがとても美しいので、車を停めてついつい見入ってしまいました。


28 下島の集落2 ~旧厳原町・豆酘内院

 引き続き県道24号を、軽自動車で登りはひぃひい、降りはなかばかっとびながら進んでいくと、高みから先ほどの久和集落よりも若干平地の多い集落が見えてきました。
 これは豆酘内院(つつないいん)という、世帯数約60、人口は200人ほどの小さな集落で、中央の三角に見えるのが内院島というのだそう。

 今走っている県道から左に折れてかなり下って行かないと到達できない様子だったので、集落へは立ち寄りませんでしたが、あとで調べてみると、内院の入口にある巨木「内院塞ノ神のスダジイ」や、女性が上陸すると災害が起こると恐れられているナゾの島「納島」、この井戸の水を飲むと出世すると言われる「黄金の泉(出世の水)伝説」、かつて魚雷の発射基地があった「松無浦」と呼ばれている小さな入り江、険しい道のりの先にある「内院の滝」など、見どころは多かったようです。

 ともあれこの風景、対馬ならではのものなのでしょうが、先ほどの久和もそうだけど、なんだか奄美大島のシマジマのたたずまいによく似ていると思う。


29 レンガ造りの住居 ~旧厳原町・浅藻

 その次に通ったのが、浅藻(あざも)という集落。
 ここぐらいになると、急峻なところを通ってきた県道も海岸線に近くなり、集落へも入りやすくなったので、ふらりと立ち寄ってみました。

 落ち着いた雰囲気の漁港の町。
 浅藻は、明治初年までほとんど人の住まない土地でしたが、明治10年ごろに山口県周防大島町の漁民が住み着いて、対馬の鯛の一本釣りや鰤漁などの漁業を拓いたところなのだそう。
 そして漁民たちは、干潮時に海に潜って海底の岩に縄を結びつけ、満潮時に船の浮力を利用して岩を海底から持ち上げて沖に捨てるという気の遠くなるような方法で港を整備し、30年の歳月をかけて港を整備したとのこと。ハンパないよな。

 そして、周防大島といえば、民俗学者の宮本常一が生まれた島でもある。
 実はその宮本もこの地を訪れたことがあって、「浅藻は家の造りが対馬の村々とは違っている。考えてみればここは山口県久賀町の分村なのだ」と第一印象を述べているのだという。
 へぇ~。「対州名物トンビにカラス、屋根に石」という具合に当時対馬の民家が石屋根の時代、すでにここでは瓦を使っていたそうなのですな。

 今、久賀の分村の面影はあまり残っているとは言えないのだろうけれど、そのひとつであるかもしれないのが、写真の「市丸」の屋号の入ったレンガづくりの倉庫でしょうか。
 この建物、かつて倉庫として造られたものですが、いまは住居として使われており、窓のサッシなども入れ替えて使われていました。
 開拓者たちの汗や苦労などは彼方へと行ってしまった感がありますが、静かな中をそよいでいく夏風や潮の香りを感じながら、カメラを手にしてくったくなく笑う宮本常一の表情を思い出したのでした。


30 下島の集落3 ~旧厳原町・豆酘

 狭い山岳道を対向車がほとんどいないのをいいことにかなりクルマをすっ飛ばして約1時間、ようやく豆酘の集落が見えてきました。空がすごいなぁ。

 豆酘には、昨晩居酒屋でいっしょになった人から行ってみることを強く勧められた景勝地豆酘崎があり、その付近では大型定置網漁業やブリの飼付漁業が行われているとのこと。そして港の北には対馬島民の信仰を集める多久頭魂(たくずだま)神社や豆酘美人の伝説をもつ美女塚があります。
 ってことで、人口2,000人ほどの、このあたりでは小さいながらも中核となる集落ですが、豆酘って、今回の旅のメインスポットのひとつだったのです。

 実は、かつて某テレビ番組で、オソロシドコロとして紹介していたのがこの豆酘地区。
 673年、さきほど通った豆酘郡内院村で超能力者が生まれました。その母は、虚船(うつろぶね)に乗って漂着した高貴な身分の女性で、太陽に感精して子供を産み、その子は、太陽=お天道様であり、天道と名付けられました。ほほう、そのあたり、琉球国の英祖王統のてぃだこ(太陽子)伝説によく似ているではないか。
 天道法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して文武天皇の病を治し、「宝野上人」の菩薩号を賜ったといいます。
 天道信仰の中心人物の墓所が龍良山(たてらやま)南面、浅藻の八丁郭に、また、その母の墓所は北面の裏八丁郭にあり、その2つは特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれているのだそうです。うぅ・・・ちょっと近寄りがたいですよね。

 龍良山全体が天道信仰の聖地であり、内院・浅藻・豆酘などの集落はすべて龍良山の麓に位置しています。
 そして、豆酘の集落内には遥拝所があり、神事を行っていた場所が、これから行く多久頭魂神社だというわけです。

 天道信仰は、天道法師という超能力者の物語を骨格としていますが、赤米を神事に用いるなどの穀霊崇拝や、太陽信仰、山岳崇拝などさまざまな要素が混ざり合っているようです。
 天道信仰は、中世に神仏習合によって形成された対馬固有の修験道の一種と言え、佐護地区とともに豆酘もその中心地だったのでしょう。

 ということで、大いなる期待と少しばかりの畏怖をもって、豆酘を見てまわることにします。


31 金剛院 ~旧厳原町・豆酘

 まずは、集落の西側にある金剛院から。
 高野山を本山とする対馬で唯一の真言宗の寺。1200年前、弘法大師空海が一留学僧として遣唐使船で入唐し、密教を学んで日本に帰国する際に対馬に立ち寄ったといい、金剛院の大師堂は空海の自画像である御尊像を秘仏として祀っているとのこと。
 また、金剛院を囲む裏山には、豆酘四国八十八ヶ所があり、多くの参拝者が大師の徳を偲んで巡拝しているのだそう。ん、ホントか? 自分のほかに参詣者はいなかったけどなぁ。

 軽自動車でやっとこさというような、川沿いにある極めて細い道に無理やり入っていくと、奥に2~3台停められる程度の駐車場があり、そこでクルマを降りて、南向きの門をくぐります。
 いやはや、クマゼミの鳴き声がかしましい。
 寺院の脇の植物が南国らしさを見せています。


32 金剛院の石仏たち  ~旧厳原町・豆酘

 金剛院にはたくさんの石仏があり、どちらかというとそれらが目を引いたので、石仏ちゃんに迫って何枚か写真を撮ってみました。
 木の葉の影を額に映しながら無言でたたずむ仏様。
 またその一方では、ひとつひとつ白い法衣をまとった石仏が向かい合って、参詣者を見るともなくずら~りと居並んでいます。
 小さな石仏群って、いいな。“何もないこと”もいいけれど、こういうのはとても人間的というか、わかりやすいというか、ヤマト的というか。そういうことで、なんだかとても心が和むお寺だなぁという印象でした。
 おかげでハート型の手水鉢とか、キリストに似た表情を持つ石仏とか、肝心なものを見逃してしまったよう。
 でも、まあいいか。
 日向で煙草を一服。ずっと運転のしっぱなしだったので、とりわけうまい!

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33 多久頭魂神社 ~旧厳原町・豆酘

 赤米(古代米)神事や亀卜(きぼく)などの古い習俗が残る豆酘に鎮座する古社。
 豆酘の町中より、神田川沿いにある細い道を龍良山(たてらやま)方向に400メートルほど行ったところにあり、国指定重要文化財の梵鐘や金鼓、県指定有形文化財の大蔵経(だいぞうきょう)などがあり、延喜帳神名帳にも掲載されている由緒ある神社です。
 御神体は、「ウツボ船」に乗って漂着した霊石とされており、境内の高御魂(たかみむすび)神社に祀られています。

 「多久頭魂」といえば、佐護の「天神多久頭魂神社」と同様、天道信仰の社。
 天道信仰は一種の太陽信仰で、天照大神の原型になるような、対馬独自の祭祀から発生したもので、中世以降は天道法師という超人伝説に姿を変えて、現在に伝わっているのだそうです。

 社の入り口にあった2009年立の対馬市教育委員会の看板を移記しておきましょう。
 『「日本書紀」に対馬下県直(しもあがたのあたい)が祭る高皇産霊神(たかみむすびのかみ)に、神田を献上した記事がある。
 この神は日本神話の名神で、当社の起源は悠久の古代に発する。
 多久頭魂神社は承和4(834)年、高御魂神社などとともに従五位下を授けられ官社となった。
 中世、神仏習合により「豆酘御寺」と称し、明治に現社号に復したが、社殿は旧観音堂を使用している』

 入ってすぐの左手には鐘楼があり、そこに懸けられた梵鐘についての看板がありました。
 『神仏習合時代の遺産で、総高98.5cm、火焔宝珠の竜頭に、鐘身は上帯無衣、下帯は唐草文乳を四段四列に配し、池の間に刻銘がある。この銘文により、寛弘5年(1008)年初鋳。仁平3(1153)年改鋳。更に康永3(1344)年改鋳が知られる。また対馬の古族阿比留氏の名が見えるなど、史料として貴重な金石文である。尚、竜頭の造形に肥前鐘の特色が指摘される。』――とのこと。

 梵鐘や社殿も趣があってよかったですが、最も印象に残ったのは、平たい石を積んでできた石壁。
 とりわけ、入口の鳥居から入って左側に続く石壁は立派で、対馬らしさを感じました。

tsushima34.jpg


34 赤米新田 ~旧厳原町・豆酘

 豆酘は、日本への稲作伝来の地ともいわれており、また、古代米の一種である赤米が神事とともに伝承されており、固有の民俗・習俗を伝承する地区です。
 多久頭魂神社の近くに広がる田は、神事などで用いる赤米を栽培する田のようで、大きな標柱が立っていました。

 「豆酘の赤米行事」(国指定無形民俗文化財)について、文化庁によると――。
 『長崎県厳原町豆酘に伝わる行事で、頭仲間と呼ばれる集団によって旧暦1月2日から旧暦12月の末に至るまでの1年間にわたり行われる、赤米を祀り栽培する行事である。
 豆酘は、平安期からその名前がみえ、「和名類聚鈔」には対馬下県四郷の一つとして記載されている。豆酘湾は、北東には天道山(てんどうやま)とも呼ばれる龍良山(たつらやま)をひかえ、東西を神崎(こうざき)、豆酘崎に囲まれて、南西方向に広がっている。
 行事を伝える頭仲間は、明治以前には、宮座、一の窪、仲座、ちょん座の4組があり、豆酘のほとんどの家が加入していたといわれている。その後、頭仲間が減り続け、1970年ころには13戸、1998年までは8戸、2000年には3戸になっている。
 この行事は田植えを除き現在も旧暦で行われている。1年間の主な行事には、1月10日の頭受(とうう)け、1月12日の三日祝い、新暦6月10日の田植え、10月17日のお吊り坐(ま)し、10月18日の初穂米、12月3日の斗瓶酒(とがめざけ)、12月19日の日の酒、12月28日の餅搗き、1月2日の初詣り、1月5日の潮あび、家祓(やばらい)などがある。これらの行事の中でも中心となる行事は、旧暦1月10日の夜から翌朝にかけて行われる頭受けである。
 頭受けは、赤米を祀る当番である頭を次の当番の家に渡す行事で、渡す側はハライトウ、受ける側はウケトウと呼ばれる。
 当日、ウケトウの家では座敷口に塩筒をつけた斎み竹(いみたけ)を立てる。行事の行われる本座と呼ぶ座敷の床の間には、赤米で搗いた臼型の餅三個とトコブシを盛りつけた松竹梅の島台を飾る。天井の赤米を吊す金具にはツリマシナワがかけられ、本座には女性はいっさい入れなくなる。
 ハライトウの家では、赤米の俵を吊していた座敷の床の間に、島台、蓑、笠、ユリの中に入れた赤米の餅、濁り酒、丸大根を飾る。ここで、オテイボウ、モリマシ、トモ、ショウバン、ウタクチなどの各役が揃うと酒宴が始まる。しばらくするとウケトウの家から裃をつけた使いが到着し、この使いに俵を受け渡す時間が告げられる。この後、各役の者は一度家に引き返し、夜中の一時前に再び集まる。酒宴の後、モリマシが赤米の入った俵の下に入り、天井からはずされた俵を背負うと、ハライトウを先頭にトモとともにウケトウに向かい、縁側から本座に入る。
 ウケトウの家では、モリマシがツリマシナワで本座の天井に俵を吊し、塩筒で清める。送ってきた人たちとウケトウ側のオテイボウ、ショウバンが座り、甘酒や12通りの料理などが出され、酒宴が始まる。酒宴の最後にサンガワリと呼ばれる儀礼が行われた後、ウケトウが本座の床の前にハライトウに相対して座り、ウケトリワタシが行われる。
 明け方近くに食膳が出てウケトリワタシが済む。ハライトウたちは縁側から出て、庭の門松を引き抜いて途中まで持ち帰る。外が明るくなりだしたころになるとウケトウはハライトウの家から運ばれてきた赤米の餅と、鍬を持って赤米田に行き、水口に埋めてくる。これで頭受けの行事が終了する。
 頭受けの際のトモ、ツカイなどは、本来頭仲間が務めるものであったが、現在では頭仲間が3戸しかないため、頭の親戚や知り合いなどが務めている。
 こうして天井に吊した赤米は、新暦6月10日の田植えの1か月ほど前に下ろして種籾とする。田植えには頭仲間の家から男女一人ずつが出て、水口にカヤとヨモギを立て酒や赤米などを供え、赤米田に田植えをする。この赤米を収穫すると新しい俵に入れて本座の天井に吊すお吊り坐しの行事をして、翌年の頭受けまで祀る。
 この後も、赤米を氏神に供える初穂米、赤米で作った若酒を氏神へお供えする斗瓶酒、成酒(せいしゅ)を供える日の酒、赤米で臼型の餅を搗く餅搗き、氏神への初詣りなどの行事が行われる。
 この行事は、伝統的な祭祀形態を残すものとして注目されるものである。』

 長い引用でスミマセン。
 今年(2012年)の「豆酘赤米行事」の田植えには、歌手の相川七瀬が駆けつけ、豆酘の子どもたちとともに田植えを手伝ったそうです。


35 首藤家住宅 ~旧厳原町・豆酘

 「首藤」と書いて「すとう」と読む。東北地方ではあまり聞かない苗字。NHKアナウンサーの首藤奈知子サンとは何か関係があるのだろうか。
 と思って調べたところ、彼女は「しゅどう」であり愛媛の出身。どうやら九州などには多い姓らしいです。
 某サイトによると、日本の姓名としては810位で、約24,000人もいるのだそう。
 よくわからないけど、出自は諸説あり、そのひとつには、藤原一派の某人が「首馬首(しゅめのかみ)」という役職に就いたことから、職名の「首」の字を冠して「首藤」と名乗ったのが、首藤姓の元祖であると。
 また、読み方の違いは、単に呼びやすいように、また言い易いように変化しただけであろうと。

 で、その首藤家住宅。
 19世紀中頃に建てられた農家家屋で、土間、だいどころ(居間)、ほんざ(座敷)、なんど(寝室)からなる間取りで、二方に縁を設けた対馬独特の構造を残しているのだそう。
 このような間取りは対馬では一般的なのですが、長崎県下の他の地方では見られず全国的にも特色ある型であることから、国の重要文化財になっているそうです。

 しかし行ってみると、住宅は現在も住居として現役で、洗濯物が干されていたり農機具が出ていたりで生活の匂いがありあり。
 「住人及び周辺の方々の迷惑となりますので無断で敷地内に立ち入らないでください」とのこと。
 まったく見ることができない。わざわざやって来たのに、なんだか消化不良のまま撤退します。


36 美女塚 ~旧厳原町・豆酘

 美しさゆえ哀しい運命をたどった鶴王御前という女性を祀った碑。
 「美女塚山荘・茶屋のホームページ」から引用させていただきます。
 美女塚山荘は、食事も郷土料理が評判で、1人でも快く受け入れてくれるいい宿のようで、宿泊先の候補に挙げていましたが、行程が合わず断念した経緯があります。

 たいそう昔の話です…。
 村の阿比留の家に、鶴という、それは大変美しく、そして賢く親思いの娘がおりました。その評判は村々を越え、ついには、はるか遠くの都まで届きました。それゆえ当時の島役人に命じ、鶴を宮中の采女(女官)として召し出すように、申し付けたのでした。
 鶴の父はすでに亡く、母を残して家を出ることなど思いもしないことであり、鶴は何よりも、生まれ育ったこの村をこよなく愛していました。
 何とか断ってくれるよう母に頼みましたが、母は「不憫なことはわかっているが、お断りすることなど叶うはずもない…。天子様のご命令と同じだからね…。私もどれほどつらいことか…。どうか辛抱して行っておくれ…」と言うしかありませんでした。
 鶴にしてみれば、これほど悲しいことはありませんでしたので、なす術もなく、涙に明け暮れる日々となりました。

 そんな鶴のうわさは、やまわろうとかおーら達にも伝わってきました。
 みんなは、「俺達にとって、鶴さんは特別だった。たいそうお世話になった。何とかご恩返しに何か役には立てないものだろうか」。
 やまわろうのゲンが言う。
「鶴さんは、嵐が続き、山に食べ物が少なくなってしまったとき、こっそり山の入り口の祠まで食べ物を何度も運んでくれたね」。
 かおーらのかんたも続けて、
「…雨が降らずに川が干上がり、食べる物が何も無くなったときに、おいらたちのために、大川の岩の上におにぎりをたくさんつくって、置いてくれた。村も大変だったのに、鶴さんだけは、本当に心の優しい人だったよ…」。

 みんなで思案しているうちに、ついに鶴が村を立つ日が来てしまいました。
 せめて、姿を消すことのできる、村はずれまでお供をさせてもらうことしかない…ということになり、代表して、ゲンとかんたが行くことになりました。
 すでに門の前には迎えの者が待っており、駕籠が用意されていました。奥の座敷では、母と、そして亡き父に別れの挨拶が行われています。
 やがて鶴は、涙ながらに見送る母のもとを離れていきました。
 ゲンとかんたは鶴をはさんで、駕籠の両脇につきました。彼らの姿はお供の者たちには見えません。
 いよいよ村はずれまで来たところで二人は心を合わせ、鶴に言いました…。
「鶴さん!僕らはここまでしか見送りできないけれど、優しい、優しい鶴さんのことは、みんな決して忘れないよ。どうぞ達者でいてください、そして、いつかまた僕らのいる村に帰ってきて下さい!…」と。
 ふたりと、そして皆の思いはしっかりと鶴の胸へ入っていきました…。
 ゲンとかんたは辛くてたまらなくなり、仲間のいる山と川に泣きながら帰っていきました。

 やがて村が見下ろせる山の道にさしかかったとき、鶴はお供の者に言いました。
「お願いがあります! 私の村を最後に一目だけ見せて下さい」……
 駕籠はとめられ、鶴は生まれ育った村、そして山や川をしみじみと見つめていましたが、突然、
「私のような、辛く不幸な思いは、これから決して誰にもさせたくありません! この村からは美人が生まれませんように!」
と叫ぶと同時に舌を噛み、自ら生命を絶ったのでした。

 母の悲しみは言葉には言い表せず、村人、そしてやまわろう、かおーら達も深い悲しみにつつまれました。
 人々も、村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、“鶴王御前”と呼び、美女塚を建て、弔いました。
 このこと以来、村の娘たちは、顔が目立たぬように手ぬぐいで隠し、ハギレを縫い合わせてこさえた、みすぼらしい衣服を身にまとうようになったのです。
 これが、この地域独特の服装である「はぎとうじん」の起こりとなり、また言葉遣いも「濁し」が入る「豆酘方言)」が出来たといわれています。

 しかしながら鶴の哀れな悲しい願いとは別に、今なおここは美女の里として知られていますが、「豆酘美人」のいわれは、この鶴王御前の美女塚伝説が始まりと伝えられています。


 壮絶。
 その場にたたずんでいて思い出したのは、沖縄の名護市源河(げんか)と東村有銘(あるめ)の間の峠にある「恥うすい坂」の碑。純粋だからこそ起きてしまったうら若い娘の悲しい死。
 「命」で贖えるものとは何だったのか、考え込んでしまいます。

 なお、豆酘には美人が多いということがよく言われますが、これには一理あるようです。
 豆酘は倭寇の拠点であり、船団を組んでは、朝鮮半島やロシアの沿岸地域へ乗り込んで略奪を繰り返していたとのこと。その対象は、食糧や財宝はもちろんのこと、美人の女性も含まれ、美女を拉致して豆酘に連れ帰り、自分の妻にしていたという話も。なので、美女の血統が豆酘で代々受け継がれて来たために美人が多い地域になったというのです。
 でも、豆酘の集落を歩いていてもなかなか女性を見掛けることはなかったので、その真偽のほどはなんとも言えないのがちょっと残念。

 美女塚の、道路を挟んで反対側は、芝生の生えそろった「美女塚公園」。景色が良く、小高いところなので風が吹き抜けて心地の良いところでした。


37 久根田舎の石屋根 ~旧厳原町・久根田舎

 豆酘周辺をたっぷり見たあとは、島の西側を北上して、椎根(しいね)の石屋根と、小茂田の元寇の役古戦場を目指します。
 島の南側よりは高低差は幾分減ったものの、あいかわらずのくねくね道。少々運転にも飽きてきたかな。
 そう思っていると、途中、久根田舎(くねいなか)という集落を通過すると、おや?このあたり、道路沿いにも石屋根の家がいくつかあるではないか。
 しかも、遺物としてではなく、現役のよう。
 たとえば写真のこの家などは、おそらく裏手に新築した家屋があるのでしょうが、古いほうも軒高などに歪みはなく、このように布団干しの支えにもなっていました。

 あるウェブページによれば久根田舎は、古名を大調(おおつき)といい、良質の銀を産出し調貢したことから大きな調(つき)の里の意味があったらしい。
 また石屋根は、椎根が有名ですが、久根田舎でも実際に使用されている現役の石屋根の物置が4~5軒あるのだそう。そして、椎根はいかにも観光化されており、どうも馴染めないものを感じるが、ここの石屋根は現役で使用されている石屋根の物置で、なんとも言えない親しみを感じる、とのことでした。

 ははぁ、石屋根なぁ。
 対馬空港にも1棟飾ってあったのを見て、今では機能としてはすっかり失われてしまったものなのだろうと思っていただけに、ちょっとびっくり。
 さて、「観光化された」という椎根のほうはどうだろうか。


38 椎根の石屋根群 ~旧厳原町・椎根

 久根田舎から県道ではなくなった一本道を20分余り走って、椎根に到着。ここの石屋根群とはどんな風情を見せるものかと期待してきたのですが、どうも思っていたものと違いました。
 川と並行して走っている道沿いの一定の区画の中に、あちこちから古い石屋根の家を寄せ集めてきましたぁといったつくり。まあこれこそ「遺物」。

 「椎根の石屋根倉庫」については、次のとおり。
 『石屋根倉庫は、この地方独特のもので椎根川沿いに10軒ばかりの石屋根の建物が残っている。
 対馬でしか見られない珍しい建物。屋根材は大型厚石坂で、島山石と称する砂岩を使用している。これは海風の強いこの地方の生活の知恵で風に飛ばされないようにしたものと思われる。床は高床式で、倉庫内は米・麦・雑穀・衣類等を貯蔵している。』

 石屋根の家は、県の有形文化財に指定。火災から食糧や貴重品を守るため、母屋から離して建てられている高床式の倉庫の屋根を板状の頁岩(けつがん)で葺いたもので、椎根(しいね)のほか上槻(こうつき)、久根浜(くねはま)、久根田舎(くねいなか)など、この近辺でしか見られない珍しい建物です。30年ほど前にはこの地方に200棟以上の石屋根が残っていたようですが、今は50棟程度が残るだけだそうです。


39 小茂田浜神社1 ~旧厳原町・小茂田

 椎根から数キロ走って小茂田(こもだ)の集落へ。標識に従って小茂田浜神社へと赴きました。

 今は海水浴場になっている小茂田浜のそばに小茂田浜神社はあります。蒙古襲来は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)がありましたが、1度目の文永の役で戦死した宗助国(そう すけくに)と部下の将兵を合祀する神社です。
 文永の役では、元と高麗の軍隊3万3千のうち約1,000人が佐須浦(さすうら)に上陸し、これを迎え撃った宗資国以下80余騎が激戦の果てに全滅したといいます。

 当時の小茂田は現在よりも入り江が深くなっており、沖には砂州ができ、天然の良港だったそうです。なので、実際に戦闘が行われたのは、今ではずっと内陸に位置する金田小学校のあるあたりではなかったかと推測されています。そしてこの地方は佐須浦と言われていたようです。

 資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭では、鎧武者たちがときの声をあげ、神主が海に向かって弓を鳴らす鳴弓の儀式が行われるのだそうです。


40 小茂田浜神社2 ~旧厳原町・小茂田

 このあたりの経緯については、現地にあった説明版「元寇の古戦場(佐須浦)」に詳しかったので、引用しておきます。

 『文永11(1274)年、弘安4(1281)年と二回にわたる蒙古襲来(元寇)で対馬・壱岐は酸鼻を極める惨状を呈していたといわれている。
 文永11年10月5日、蒙古元帥忽敦(こつとん)は兵3万、軍船900隻で対馬の西海岸一帯を侵略した。各地で激しい戦いがあり、宗家の一族がそれぞれの任地で討死している。
 守護代宗助国は、自ら親兵80余騎を従えて、府中から佐須に討って出、この地、小茂田の海岸に近い「ひじきだん」に陣を備えたという。
 700年前の佐須浦は現在の地形と異なり、川筋に沿ってかなり浦深い入り江であった。従って、戦場は今の金田小学校付近と想定されるが、諸説ある。
 10月6日寅の刻(午前4時頃)戦いは始まり、助国らは奮戦したが、辰の下刻(午前9時頃)乱軍の中に武将たちは戦没した。宗助国の墓と伝えられる「お首塚」が下原(しもばる)に、「お胴塚」が樫根(かしね)にあり、一軍の首将の墓がバラバラであるのも、その最後の壮絶さを物語っている。助国はこの時、68歳の老将であった。
 この小茂田神社は、宗助国公以下国難に殉じた人々を祀っており、毎年新暦11月12日には慰霊の大祭が行われている。昔をしのぶ「武者行列」のお下り、蒙古軍を迎え撃ったごとくはるかなる海の彼方に弓矢をかまえる「鳴弦(めいげん)の儀」などの行事がある。』

 小茂田浜神社にはこのほか、元寇700周年を記念する「平和之碑」(写真)や日露戦争時のものと思われる砲弾などがありました。


41 小茂田浜海浜公園 ~旧厳原町・小茂田

 小茂田浜神社から堤防を一つ乗り越えると、小茂田浜海浜公園のきれいな砂浜が現れます。
 晴れ渡った青空と相まって、極楽のような素晴らしさ。あぁ、夏だなぁ。なんだか沖縄にいるような錯覚が・・・。

 韓国から流れ着くであろう漂着ゴミはまったくないとてもきれいな浜なのですが、この浜を保全するためには残念ながらテトラポッドは必要な様子。
 この広々とした浜を、小さな子供を連れた家族がたった1組だけ、貸切状態で悠々と遊んでいました。


42 小茂田港 ~旧厳原町・小茂田

 小茂田浜神社を挟んで海浜公園の反対側は、埋め立てによって造成したと思われる小茂田港がありました。
 海から離れ、陸の内側につくられているので、ここならば台風などが来ても波も来ず安心でしょう。
 ほぼ正方形につくられている港内にはたくさんの漁船が繋留されていました。

 時間は間もなく正午になるところ。そろそろ昼休みだからなのか、地元の方々が三々五々歩いて移動する姿も見られました。
 朝食をたっぷりとってきた自分は、昼食には早い。というか、このあたりで昼どきを迎えても、食事ができる場所なんて予想どおりそうそうあるものではない。
 ま、食べるのは後回しにし、このまま行けるところまで突っ走って、見られるものはできるだけ多く見てやろうじゃないの。

 これからどうしようかと、堤防に腰かけて考えてみる。
 豆酘をじっくり見たのが影響して、もう半日が過ぎてしまった。これからさらにスピードアップして、まずは実際に戦闘が行われた場所とされる金田小学校のあたりをながめて、その後はこのまま北に進んで、阿連(あれ)の雷命神社、加志(かし)の太祝詞(ふとのりと)神社を経由し、この際金田城跡(かねたのきあと)は断念して、昨日寄ることができなかった豊玉の和多都美(わだつみ)神社に行こう。和多都美神社ははずせないだろうからね。


43 阿連の海 ~旧厳原町・阿連

 よ~し、本日午後の部、スタート!
 はいはい、またまたくねくね道。(笑)
 20分ぐらい走ってようやく次の集落が見えてきました。
 その手前の高みでクルマをストップ。だってこの眺め、いいんだもん。
 間もなく阿連(あれ)という集落に入ります。

 阿連といえば、このたびは見に行けませんでしたが「阿連の洞門」というのがありますのでご紹介。

 阿連漁港の南端から海沿いの細い道を行った先にある洞門。その場所って、写真を撮ったちょうどこの場所の下あたりになるのでは?
 この洞門のある海岸の小道は、隣の小茂田の集落に行く道でしたが、一部崖が迫っているところがあり、危険で難儀をしていたそうです。それを見かねた阿連の石職人がトンネルを掘ろうと決意し、ノミとツチだけで掘り始めました。
 その後、石職人は完成を見ずに亡くなったのですが、その弟子が遺志を引き継ぎ、洞門を掘りました。がんばっている弟子を見て、阿連地区の人達も協力するようになり、昭和の7~8年頃に完成しました。
 洞門はできた当時は一つのトンネルでしたが、今は中央部が崩落して前後2つのトンネルになっています。ここの崖は脆く、今にも崩れそうで危険です。行くなら十分注意して、自己責任でお願いします。
 ――とのことです。


44 雷命神社 ~旧厳原町・阿連

 阿連の集落に入り、集落内を流れる阿連川沿いに細道を遡っていったところに雷命(らいめい)神社はありました。
 右側が阿連川、左側が山というシチュエーションの中にちょっとした駐車スペースがあって、その前には「伝教大師入唐帰国着船之地」という記念碑があります。
 阿連は、805年に天台宗の開祖・最澄が唐からの帰りにこの地に漂着したと「日本後紀」に記録された古い集落なのだそうです。

 そこを進むと、写真のような比較的新しくてごつい狛犬と、またまた日露戦争のものと思われる砲弾とに迎えられ、その先にはいくつかの鳥居が。
 おのれの歩みはどうしても厳かにならざるを得ません。しかし、なかなかいい感じ。山深い地の幽玄な風情とは異なり、なにかあっけらかんとしたものを感じます。

 祭神は雷命(イカヅチノミコト、水神、男神)。
 雷命はフットワークが軽い神様のようで、毎年旧暦9月の末日には出雲に出かけるのだそう。そしてその間は、川の上流に鎮座しているオヒデリ(太陽神)という女神が里に下りて村を守ると言い伝えられているそうです。
 11月1日に出雲から戻ってきた雷命は、そのままなぜか一週間ほどオヒデリと同居し、9日にオヒデリが山へ帰る際には懐妊するのだそう。
 そのようなことから、毎年旧暦の11月9日には「オヒデリサマの元山送り」のための祭礼が行われ、子どもからお年寄りまで集落全員で、神社の奥の林の中にあるオヒデリサマの祠まで1.5キロほどの道のりを鉦を鳴らし太鼓を打ち、法螺貝を吹き鳴らしながら行進するのだそうです。

 なかなかいい話ではありませぬか。水神と日神の「神婚」によって里に豊饒がもたらされる、という願いと感謝が込められた古い民俗祭祀なのでしょうなぁ。