○パーシャクラブ
 さて、残すところあと2グループ。ということは、次は・・・。
 おや、合間のMCに、ついにゴリが出てこなくなりました。川田とともに出てきたのは、髪もじゃの小さな女性。
 彼女はディアマンテスでパーカッションを担当していたChicoというヒトで(前出画像の右端の女性)、「ゴリで~す」と。(笑) ゴリの代役として急遽駆り出されたようです。
 まあ、素人なわけで、しゃべっていても聞き役に回るだけで、どうかなぁと思っていたところ、ふらふらとゴリが登場。ステージで9:1の泡盛を飲まされ、楽屋では誠グヮーからウイスキーを飲まされということで、さすがに辛そうです。
 同じ話をステージで2度してしまうのには大笑いしましたが、これはもはや芸ではなく、単なるヨッパライそのものでやんの。(笑)

 そんなこんなでパーシャクラブのテーマソングが流れ出し、いよいよいつもの官能の世界へと突き進むのかとゾクゾクしながら見ていると・・・あれ、バックはそろったものの、幸人がいないじゃないか。
 なんかの手違いが起きたのか? それとも、幸人はすでに泥酔してステージに出て来れないのかも。
 「・・・」みたいな不思議な“???”の間があって、出てきたのは、赤シャツ黒パンツにサングラスの幸人、ではなく、なんとボブヘアにネコ耳、尻尾のついたフリフリのショートパンツに灰色ブチのブーツ、上はもろ肌露出の女性下着風のスタイルの性別不明人間! いったい誰よ、この人・・・誰???
 一瞬状況理解が不能に。でもソイツがマイクの前に立ってうたい始めるや、人々はコイツが幸人であることを瞬時に理解し、場内は騒然となりました。

 一発目はおなじみ「五穀豊穣」。サイケデリックな異様な盛り上がりの中で、観客からの“イーヤーサーサー!!”のフェーシはいつもよりも数段上の大音響。なんだかすげぇな、この雰囲気。
 1曲終わって幸人は、大歓声の中、琉フェスファンの皆さんゴメンナサイ、これがホントのパーシャクラブなんです、的な発言をして笑わせます。この日は幸人の親が観に来ているのだそうで、その境遇でここまでやるかという感じですかね。(笑)

 続いては、まさに化け猫衣装(!)にぴったりの「与那国の猫小」を。合間にうみゃ~~~ん!!と発情猫のような鳴き声をいれたり、ステージにしなだれて媚態をつくったりと、幸人は大忙し。

 ここでよなは徹と與儀朋恵を招き入れて、「七月節」を。
 ♪ テーク固みてぃ 西東 イービフィーフィー 吹ち鳴らち ・・・
 この一体感! このあたりが最高潮でしたでしょうか。パーシャのステージが始まってから聴衆はずっとスタンディング状態でしたが、エイサーのグルーヴ感が加わってすっかり陶酔。いっしょになって大声でうたっていたので詳しい状況は不明ですが、日比谷野音は狂乱、極限状態に達したと言っていいでしょう。

 その後「東バンタ」と「じんじん」。スカっぽい「じんじん」の前奏なんて、こういう場面にはサイコーだと思います。


(画像は某ページからの拝借です。許せ。)
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○登川誠仁

 あっきさみよ。ああ、盛り上がった。満足した。
 あ、もう一組?
 次はトリですな、登川誠仁。弟子の仲宗根創を従えてのステージです。太鼓はよなは徹。

 誠グヮーのステージは、全体的に言って、ミュージック・パフォーマンスというよりも、どちらかというとコメディでしたかね。音楽が始まる前のガレッジセールの二人との掛け合いのほうが中心だったような印象。
 掛け合いの後は一人ウチナーグチで何か話していましたが、観客の反応が薄かったことから察すると、その内容はうまく伝わっていなかったのではないでしょうか?



 で、うたのほうは、仲宗根が誠グヮーのインプロビゼーショナルな演奏とうたに一所懸命に合わせていくという成り立ちのようで、当然と言えば当然ですが、かつて美ら弾きと崇められた超高速の早弾きはまったくなく、スローテンポの曲ばかり。
 そしてまた、あの誠グヮー独特のこねくり回すような節回しは健在なものだから、音程が聴き取りづらく、なんだかだんだん退屈になってくるのです。
 あ、ほらほら、泡盛を飲んでいた前のお客さん、眠ってないで起きなさいよ、御大の登川誠仁ですよ。だから言わんこっちゃない。

 でもって、パーシャの後とあっては、観客たちはやや退屈に。
 退屈が昂じて、左隣のオヤジが二人、酔っぱらった勢いで大声で放談を開始。お前ら、うるさいって。みんなあなたたちを白い目で見ていることに気づいてないだろ、もう。でも気の小さい自分は注意もできず。

 演奏曲は、「ナークニー」に始まって、次もナークニー系のナントカナークニー(聴いたことのないもの、曲名聞き取れず)を何だったかのチラシ付きで。あぁ、酔客たちが騒々しい。集中力が切れそう。

 そして3曲目はこれまたスローテンポの「トゥバラーマ」ときた。これまた退屈だねぇ。

 その後は大城美佐子と堀内加奈子を呼んで、4人で夫婦の掛け合いのようなうたをうたい、最後は「ヤッチャー小」で締めました。「ヤッチャー小」のチラシも4人がバラバラで、なんだかさえなかったぞ。
○フィナーレ
 自分はよく知らないのだが、ガレッジセールが「第二の具志堅用高」と評価する、サーターアンダギーというユニットの山田親太朗と、同じユニットの森公平クンという人がステージに乱入。
 なんだかよくわからないうちにフィナーレへと突入です。

 参加者全員がステージに出てきて・・・ということなのだけれど、その足取りは遅く、皆さんがなかなか出てこないというのも、琉フェスらしいかも。
 その理由は、小雨がそぼ降っているからではなく、いみじくもゴリが言っていたように、参加者の多くが酒を飲んでいるからなのではないだろうか。(笑)

 ようやく出てきた誠グヮーにゴリが話しかけますが、うまく会話が成立せず、センセイはマイクに向かって「したたか、ニフェーデービル!」の一言。すっとぼけているよなぁ。
 その誠グヮー、さあ、みんなでうたいましょう!の掛け声に、おもむろに赤い鉢巻を額に巻き付けて張り切ります。



 はじめは「白保節」から。おぉ、選曲からして今や琉フェスは完全に八重山軍団に制圧されたかのようです。赤シャツ黒パンに着替えた新良幸人と大島保克がうたいます。
 ♪ ゆらてぃく ゆらてぃく 踊てぃ遊ば ・・・

 次は本島、モーアシビソングの「アッチャメー小」です。よなはがノリノリでうたい始め、誠グヮーが前に出てきて踊り出します。くくくっ。この曲は誠グヮー美ら弾きの十八番で、若い当時の誠グヮーだったら、本人が誰にもマイクを渡さずに独演したことでしょう。

 最後となる3曲目はやはりこれ、「唐船ドーイ」。よなはと仲宗根創がリードしていました。
 ♪ イヤッ サー サー サー サー ・・・ の合いの手はもう会場全体が反応。自分も含めて周辺の人々ももう我慢していなかったでしょう。
 はぁ、すごいすごい。

 足元のおぼつかないゴリが手短に「おわりです!!」と宣言。
 すると幸人がステージ縁まで歩み出て、ちっこいクラッカーを会場に向けて2発、パーンと発射。観衆からは、あははは・・・としょぼい笑い声が上がります。
 この間、酔った川田は自分の職務を忘れたのか、すっかり観客化して袖のほうで一緒に笑っている始末。自分としてはこっちのほうが笑えたり。

 終わりと言われたって簡単に納得するような聴衆ではありません。「もっとやれ!!」などと凶暴な声であちこちからアピールがあります。
 どうやらアンコールのことを誰も真面目に考えていなかった様子で、じゃあどうする??みたいに酔いながらうろたえるゴリが愛しい。

 何をするか決めるためのわずかのインターバルがあって、これでいこう!と始めたのは「安里屋ユンタ」でした。正調から観光民謡調までの歌詞によって、大島~幸人~仲宗根とリレーして最後は全員でマイクを回してうたい終え、19時35分、終了と相なったのでした。

 ハコモノでやるのとちがって幕が下りないので、この“終わり方”というのがなかなか難しいのかもしれません。この点、玉城満なんかは上手だったよなあと、過去の琉フェスを思い出しました。
○おわりに

 ふう。
 今回の琉フェス、振り返ってみると、一時代前のそれとはずいぶん様変わりしました。登川誠仁や大城美佐子ががんばっているとは言っても、彼、彼女のステージは弟子の伴奏なくしては成り立ちません。
 その一方でこのところ大活躍しているのがよなは徹や新良幸人でしょう。

 よなはの場合、自分の持ち分だけでなく他の出演者を多くサポートしており、今回を含む最近の傾向として、彼がいなければステージング自体成立するのだろうかと考えさせられる主演者がいたりする場面が散見されます。
 また、幸人は、観客のみならず楽屋でも出演者たちをリードしている様子がうかがえ、出演者の精神的支柱としての役割をも担っているのかもしれません。

 そして、1995年からスタートした第2次琉フェス時代の初期の立役者たちの多くは、今回の琉フェスには参加していません。それらは、彼岸へと行ってしまった嘉手苅林昌、照屋林助、喜納昌永らであり、年老いてしまった山里勇吉、国吉源次、宮良康正、山里ゆきらであり、唄者活動を引退した知名定男であり、活動が全国区ではなくなったりんけんバンド、チャンプルーズ、ネーネーズなどであり、ほかにも大工哲弘などがいます。
 いつまでもあの時代をなつかしがっていてはいけないことはわかっているつもりですが、なにか一抹の寂しさのようなものが感じられてならないのです。

 それから、今回特に残念だったのは、奄美のウタシャの参加がなかったことが挙げられます。
 毎回、琉フェスが琉球弧としてのうたのお祭りであることを証明し、華を添えてくれた奄美からの参加者がいないことは、言うなればこのイベントの存在意義の主軸のひとつがない、片肺飛行のようなものなのではないでしょうか。
 主催する側の事情もあるのでしょうが、そういうことにも意を用いてほしいものだと、1ファンは思うのです。

 ともあれ、このイベントが、幾多の困難を乗り越えて、再開以来毎年、18回の長きにわたって開催されていることには、ただただ感服、感謝するところであり、形はどうあれ、今後も末永く続けていってほしいと願うものです。



(おわり)
   kamigami.gif   sasurai.gif

 6月後半から7月に買った沖縄本は、次の11冊です。

1 沖縄暮らしの家族ごはん    伊藤麻由子         双葉文庫            630
2 古代の琉球弧と東アジア    山里純一          吉川弘文館         1785
3 ありんくりん沖縄公式ブック   BS日テレ          TOKIMEKIパブリッシング 1470
4 名瀬のまちいまむかし      弓削政己 他        南方新社           2100
5 琉球王朝のすべて        上里隆史・喜納大作    河出書房新社        1470
6 沖縄とヤマト 「縁の糸」をつなぎ直すために  小森陽一編著  かもがわ出版     1890
7 絶海の孤島            カベルナリア吉田   イカロス出版           1680
8 沖縄現代史家新崎盛暉が説く構造的沖縄差別   新崎盛暉  高文研         1365
9 さすらいの沖縄伝承男      カベルナリア吉田     林檎プロモーション     1470
10 随筆・巷ばなし うちなぁ筆先三昧   上原直彦     ボーダーインク        1680
11 神々の食             池澤夏樹          文春文庫            700

 こんなに買って大丈夫なのかな・・・。
 食べ物系が1、11。歴史・民俗系が2、5。雑学系が3、9。奄美系が4。政治・基地系が6、8。旅系が7。エッセー系が10。
 ・・・といったところでしょうか。今回はなかなかバランスがとれているな。
 でもまあ、もっとくだけていて、読んで楽になれるようなものがもう少し欲しいところかな。

 ストックが豊富になったので、一安心。
 実は、これらのほかに古書もいくつか買っているのだ、くふふ。
1 はじめに
 2012年8月2日から6日まで、レンタカーで対馬・壱岐を駆け巡ってきました。
 国内の島というと南西諸島しか知りませんが、宮本常一や司馬遼太郎の本を読んで、いつかは壱岐・対馬にも訪れてみたいと考えていました。
 今回、そのチャンスに恵まれて、初めての訪問となります。

 自分の旅は、赴く前に彼の地を十分研究し、実際に目の当たりにして体感し、帰ってきてもう一度行った先を吟味するという、1回で3度楽しむことを旨としています。
 行ってみなければわからないことがあり、また、行っただけではわからないことがあるのですから。

 ということで、初の対馬・壱岐は、短い期間ではありましたが、ひたすらその場に「行ってみる」ことに終始しました。
 そしてこの記録は、主に帰ってきてからのスタディ、確認が中心となります。

 天気は台風一過でバッチリ。その後新たな台風が再度沖縄地方を席巻しており、もしこの時に、当初訪問先として考えていた八重山に行っていたとしたら、旅はおそらく台風のせいでめちゃくちゃになっていたことでしょう。

 では、いくつの項目を記載できるかわかりませんが、さっそくスタートします。



2 網代の漣痕と洗濯岩 ~旧上対馬町・網代

 8月2日午前、飛行機を乗り継いで対馬へ。
 対馬空港からレンタカーを駆って、島の北端にある比田勝を目指す。
 途中、司馬遼太郎も寄ったという旧上県の佐須奈の「かっぽれ」で司馬定食を食べようと行ってみたものの、危惧したとおり閉店中。ここから対馬の食事処はケチのつきっぱなしとなる。
 まぁ、メシを食べるためにわざわざ対馬に来たわけではないし、一食ぐらい食べなくたって、なんてことはない。

 それよりも、対馬ってデカい。島の首邑厳原から比田勝までは90キロ以上、時間にして2時間は優にかかるのですね。こうなると、いろいろ見てまわる必要上、悠長にメシなぞ食べている場合ではなくなるのだ。

 まずは、網代の漣痕と洗濯岩。
 旧上対馬町指定の天然記念物。
 対馬の地質は、主に約3,000万年前に堆積した黒灰色をした泥岩と左岸の互層からなり、網代を代表として島内の各地でも、砂岩の上面に漣痕が、また、下面には流痕が生じるのだそう。
 別名「さざなみ」の化石といわれ、景勝地として島民に親しまれている、とのことです。

 正直言って、こんなもんか?という感じですが、まあ、来た、見た、勝った! ということで。


《参考》 「街道をゆく13 壱岐・対馬の道」(司馬遼太郎 著)は、司馬が佐須奈の食堂「かっぽれ」でトンカツを注文し、店主の老婦人と会話する場面で終わります。そのくだりを引用。
 「佐須奈には対朝鮮の遺跡は何もなかったが、この人をながめていると、佐須奈まできた甲斐があったような気もした。」


3 殿崎公園の「日本海々海戦記念碑」と「恩海義嶠の碑」 ~旧上対馬町・殿崎

 次は、殿崎公園。海を見下ろす広々とした丘陵一帯が公園になっているというすばらしいロケーションです。
 ここには日本海海戦がらみの記念碑がいろいろあります。
 まずは、写真右奥にある、「日本海々戦記念碑」。
 建立年次は1911年。1905年5月27~28日、対馬沖で繰り広げられた日本海海戦を記念して、地区住民により建立されたものです。
 海戦の際、撃沈されたバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名が4隻のボートに分乗してこの地に上陸。島の農婦はこの水兵たちを泉へと案内し、夜は西泊の民家に分宿させるなどして手厚くもてなしたそうです。

 そのことは左手前の「恩海義嶠(めぐみのうみ、ぎはたかし)の碑」に詳しく書かれています。
 この話を聞き心を動かされた東郷平八郎連合艦隊司令官が、金色の部分の「恩海義嶠」を揮毫しています。

 『日露海戦(日本海海戦)は天下に広く伝えられている。雄将傑士は計略を風雲の間にめぐらし、堅艦巨砲は勝ちを波涛の中に争った。その壮烈なありさまは海をも震えおののかせるかのようであった。実は、対馬の海こそがその戦場だったのである。
 明治三十八年(1905年)五月二十七日、ロシア軍は大敗した。二十八日朝、大破したロシア軍の一艦船(一等巡洋艦ウラジミール・モノマフ)が殿崎の前を漂流していた。その時たまたま我が日本軍の佐渡丸(仮装巡洋艦)が南の方よりやって来て、その場に遭遇し、ロシア側に降伏を勧告した。ロシア艦船はそこでボート数隻を出して兵士を避難させ、まもなくして沈没した。
 その一部終始を、農婦二人が殿崎岡にたたずんで望み見ていた。しばらくしてロシア軍のボート一隻は阿奈珥(あなじ)浜に到着し、ただちに上陸すると、農婦に向かって何かを求める動作をした。農婦が煙草を与えようとしたところ、受けとらなかった。そこで、次ぎに井戸水を指さしたら、ロシア兵は大喜びし、井戸水を思う存分飲んでから立ち去った。
 その後、他のボートと共に西泊湾に入港した。ボートの数は合わせて四隻で、中尉兵曹以下百四十三人を載せていた。村役人が手配して、ロシア兵を民家に分宿させた。
 翌二十九日、軍用船越後丸が竹敷要塞部よりやって来て、ロシア兵を収容所に護送した。
 阿奈珥浜は対馬島豊崎村殿崎東岸にあって、西泊からの距離は半里(約二キロ)、浜から上り坂を三町(三百メートル強)も上がっていくと、殿崎岡に着く。高台の爽やかな場所である殿崎岡には、松の老木の林があり、また、見晴らしが四方に開けて、海と雲とが遠く遙かに見わたされる。
 そもそも日露交戦(日露戦争)は空前の偉業であって、我が日本の大いなる戦果はかつて世界を震撼させたものである。だからこそ、ロシア兵投降の地もまた忘却のままにまかせてはならないのである。
 西泊区民及び有志の者たちが協議して、この記念碑を建立する運びとなった。以上のことをここに記して、後世の者たちに伝える。』


4 殿崎公園地からの景色 ~旧上対馬町・殿崎

 8月2日午後の殿崎公園。
 これ以上ないというようなザマミロ的な好天です。
 自分だけ仕事を休んで、こんなにリフレッシュさせてもらっていいのかなぁ、なんだかスマンなあ。
 この同じ時間、八重山地方では台風が席巻中。八重山を旅先に選ばなかったおれはエラかったなあ。でもって、対馬に来てみてホントによかったなぁ。
 ・・・という具合に、すっかり“なぁなぁ”的な気分になって、陽射しの中でぼんやりとしてしまった。

 結局この好天は旅の最後まで続きました。
 自分はけっして晴れ男ではないはずなのだけどねぇ。


5 対馬のレンタカー

 レンタカージャパンから借りたレンタカーは、ダイハツムーヴ。
 1泊2日で7,600円でした。
 アップダウンが激しく、道幅が狭い、というのが対馬の道路事情。車線のない狭い道は軽自動車の機動力が活きる!のだ。非力ではあるものの、かっ飛ばすわけではないし、急坂の登坂はエアコンをカットして。

 ちなみに大動脈は国道382号。略してサバニ国道。(笑)
 この大動脈ですら車線なしのところがあちこちにありました。
 大きな島なので、2日走りまくって、ガスタンクの3分の2以上は消費したかな。

 翌日の夕方に厳原で給油しましたが、自分が日ごろ入れている格安スタンドはリッター129円。これは安いにしても、島とはいえガソリン172円って、高くないか?
 でもまぁ、空港で借り、返しは厳原のホテルに取りに来てくれるので、とても便利でした。
6 殿崎公園内の「日露友好の丘」 ~旧上対馬町・殿崎

 殿崎公園には「日露友好の丘」があり、そこには威容といえるほどの特大のレリーフがあります。
 2005年、日本海海戦100周年を記念して設置されたもので、海戦で負傷して捕虜となったバルチック艦隊司令長官・ロジェストウェンスキーを見舞う連合艦隊司令長官・東郷平八郎が描かれています。

 レリーフの下部には長めの口上が刻されていますので、以下に抜粋してみます。



 《対馬から世界を変えよう》

 明治38年5月27日、世界史上に多大なる影響を与えた100年前の日露戦争もこの位置から一望に見渡せる対馬沖が日本の命運をかけた日本海対馬沖海戦(TSUSHIMA WAR)の激戦地であり、司馬遼太郎原作「坂の上の雲」最終章の海域である。この地の人はこれを「こないだの戦争」と言う。
 私達、対馬歴史顕彰事業推進委員会は、国家観をもつ平和教育と地域の活性化などに役立てる為、先人達が遺した日本人としての誇りと礼節と壮気をもって「真の世界平和と友好」を祈念し、「この対馬から日本を更には世界を変えたい」との思いで、この事業を推進してまいりました。
 この碑が建立されたこの地は、TSUSHIMA WARの激戦後、バルチック艦隊モノマフ号の傷兵143名が漂着し、空腹で飢え、水を欲し、寒さに震えた傷兵達を地元西泊区の人々は民家に分宿させ、炊き込みをし、風呂を沸かし、衣服を与え、医者の手当てを受けさせたりと、誰しもが彼らを手厚く看護したのです。全員の体調が整ってから対馬を離れる時、介護した農漁民も、元気になったロシア兵士達も涙してその別れを惜しんだのでした。
 現(いま)を生きる私達は、これからの日本国を担う青少年にこの100年目という節目を確認させておく為にも真の日本人だけが持つ「品性」が資本であるという教えを世に問う良い機会になればと思うのです。
 ここに建立されたこの「日本一の巨大レリーフ」(古島松之助 画)のシーンは、バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー提督が対馬沖にて重傷を負い、佐世保の海軍病院に入院中の明治38年6月3日午後3時、日本連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督は鄭重にこれを見舞ったのです。敵将の思いがけぬ暖かい情けに感激したロジェストウェンスキー提督は重傷の身を起こして、深く深く感謝の意を述べられたのです。
 胸いっぱいの感慨を込めて、握る手と手、見合す顔と顔、誠に息詰まるようなこの「感動と友好」の場面をここに記念建立をするに当り、100年前「地元住民とロシア兵士との友情」が芽生えた歴史的背景からして、この現地、殿崎が地球上のいずこよりも人間愛を語る上で、一番ふさわしい選択の地だったのです。
 そこで次なる100周年に向けて、「対馬から世界の平和と友好を祈念する」情報発信地としてこの地を今後、「日露友好の丘」と命名する。

 共催 対馬市 市長 松村吉行   対馬・歴史顕彰事業推進委員会
 2005年 5月27日


 日露戦争100周年か。
 ずいぶん美談になっているような気もするけど、「対馬から世界の平和と友好を」との気概やよし、ですね。


7 豊の那祖師神社 ~旧上対馬町・豊

 対馬の最北東端をさらに北上して、豊(とよ)という鄙びた集落へ。
 那祖師(なそし)神社。
 こんな小さな集落にも古式ゆかしい立派な神社が鎮座ましましていることには舌を巻きます。
 豊の漁港前の道路に面したところに大きな鳥居。右側が広場になっていて、やや左側に社殿があります。

 日本書紀の異伝によれば、高天原を追放されたスサノオは、まず新羅のソシモリに降臨しますが、その地が気に入らず、出雲へと向かいます。
 その途中、この地にもスサノオが立ち寄ったとのいわれのようで、このような伝承は対馬の北部に多く残っているのだそうです。

 那祖師神社は、島大国魂(しまおおくにたま)神社と若宮神社が合祀されており、拝殿の扁額には3社の名が併記されています。創建年は定かではなく、半島系の祖神を祀った古社であろうと推測されています。

 島大国魂神社は、もともとは不通浜(とうらずがはま)の後方にある白水山に祀られていた神社です。
 「津島紀略」には、島大国魂神を「上県郡の最高峰で第一の霊山とされる御嶽の神」と書かれているそうで、とても偉い神様だったようです。
 不通浜とは、ここから東に位置する岬のほうにある浜で、文字どおり、この海岸を通ってはならないことになっているそうです。この海岸を通れば船が遭難するとか、強い腹痛に悩まされると言われており、今も地元の人はけっして通らないそうです。

 若宮神社のほうも、もともとは不通浜の東の方向に約1キロ行った海岸そばにあった神社で、今は行く道もないそうです。


8 百済国王仁博士顕彰碑 ~旧上対馬町・鰐浦

 韓国展望所に行こうとウロウロしていたところ、鰐浦漁港の入り口にあったこの碑を見つけ、いちおうチェック。
 写真左に写っている説明書きには、次のようなことが書いてあります。

 古事記及び日本書紀によると、日本の招請で、百済の王仁(わに)博士が千字文一巻と論語十巻をたずさえて漢文と学術を日本に伝えた。
 王仁は和爾また和珥とも呼ばれ、大阪各地に王仁聖堂址、王仁神社、王仁池、和珥下神社、和珥池、王仁博士墓所等多くの史跡がある。九州の佐賀県神埼町の鰐大明神社と王仁天満宮は博士が大阪に行くときに経由した史跡である。
 鰐浦は九州に渡るときの経由地であることが、ここの自然と地名によって証明される。韓国南海域潮流は対馬の北西部に向かっており王仁博士一行はこの津に到着した。
 このような由縁で和珥(王仁)津という浦名が生まれたことを国内外の学者が考証している。すなわち鰐浦は和珥津と呼ばれた大陸航路の重要な拠点であり、学問の祖である王仁博士が日本で最初に漢文を伝えた学問初伝の地である。
 国際社会が形成された今日、両国文化交流史上最初の歴史的現場に記念碑を建立し、王仁博士の偉大な功績を永遠に顕彰するものである。

 ははぁ、そうなんですか。「鰐浦」ねぇ。
 この文章の左にはハングルでも刻されており、韓国からの観光客にも強く訴えるものになっています。その後もそういう案内板が多かったな。

 観光ガイドには載っていませんでしたが、こういう説明をよく読めば、対馬に来た感慨が深まるというもの。若い時分にはぜったいにやらなかったこういうことをやるような年齢に、おれもなった、ということなのだろうな。
tsushima09.jpg

9 朝鮮國訳官使殉難の碑 ~旧上対馬町・鰐浦

 次は、対馬随一の観光スポットの一つ、韓国展望所にやってきました。
 正面に見える展望所に目がいきますが、ふとその右側を見ると、何かの碑が。おぉ、これが「朝鮮國訳官使殉難の碑」か。
 1703年、朝鮮の訳官使108人を乗せて釜山港を出港した船は、対馬を目前に遭難。このことについて哀悼の意を込めて1991年に完成したもの、と、ガイドブックには書いてある。
 う~む、しかしこれだけではよくわからないな。碑文を読まねば。
 以下、碑文を意訳。

 1703年の旧暦2月5日、快晴の朝に釜山港を出帆した韓天錫同知以下108名の朝鮮訳官使一行は、同日夕刻、鰐浦入港直前に急変した嵐に襲われ、対馬藩をあげての救難活動にもかかわらず、全員が痛ましい死を遂げた。
 漢陽(ソウル)をはじめ各地から選任されたこの使節は、正副両使と上官28名、中官54名、下官24名。卒去した第3代対馬藩主・宗義真(そう よしざね)を弔い、新藩主の第5代・宗義方(そう よしみち)の襲封を祝賀するための国際外交使節団であった。
 江戸時代の厳格な鎖国体制の下、日本が唯一正式な国交として維持したのが朝鮮との外交であった。それは幾多の障壁を越えながら、両国間の信に支えられ、善隣外交の形で堅持された。
 この外交にあたり、絢爛として朝鮮から江戸まで往復した通信使と異なり、対馬の府中(厳原)まで往復した一行百名ほどの国家使節、これが訳官使であった。幕府から日朝外交における日本側の裁量権が対馬藩に委ねられていたことを考えると、真の善隣外交の輪を回したのはこの使節であったとも言える。
 訳官の対馬来島は、江戸時代、李朝の史料に記されただけでも51回に達している。
 猛り狂う風と波に消えたこの訳官使船には、4名の対馬藩士も乗船、やはり非情過酷な天運を共にした。
 今高まりゆく日韓交流の新しい潮流の鳴動の時にあたり、両国間に未来永劫に横たわる「誠信之交隣」の理念に殉じた一行の魂への思いを新たにし、ここに112個の霊石をもって碑を建立し、永く顕彰するものである。

 ――そうか。重ね合わせたような台座の石はそういうことだったか。

 1991年当時、殉難者112名の名簿が不明のまま建立されたものですが、その後「宗家文庫史料」より「渡海訳官並従者姓名」という墨書小冊子が発見され、殉難300周年に新たに殉難者の「霊位」を刻して追悼しているようです。


10 韓国展望所 ~旧上対馬町・鰐浦

 韓国の古代建築様式を取り入れたもので、空気が澄んだ日には約50キロ離れた韓国が望めるのだそうです。
 この日は、水平線付近は霞んで見えませんでしたが、上方の山並みがうっすらと見えました。
 この日の夜に居酒屋で飲んだ人の話によると、なかなか見えるときがなく、見えたのはラッキーとのこと。反面、よく見えるときは釜山あたりのビルまで見えるのだそうです。

 ここは韓国人団体観光客が必ず立ち寄る場所のようで、バス用駐車場もしっかり完備されています。この景色の中でしばし佇んでいたいところですが、バスが来ると静けさが一転するので、来たな、と思ったところで早々に退散。

 韓国だけでなく台湾、中国などもそうだけど、どうして外国に来て、ああも大きな声でしゃべり合わなければならないのでしょうね。いい齢した連中が仲間うちで話すような声ではないぞ、あれは。
 ひょっとしてアレって、国威の発揚? それとも、単に嬉しくてはしゃいでいるだけなのか?
 いずれにしても幼稚に過ぎると思うのだが、どうだろうか。


11 海粟島 ~旧上対馬町・鰐浦沖

 韓国展望所で佇んでいると、沖合の空から自衛隊らしきヘリコプターが物資または救助器具のようなものを宙づりにしてパタパタと登場。すわ、遭難事件か何かか!?と色めき立ちましたが、なんのことはなく、沖にある島のヘリポートのようなところでホバリング。
 ああそうか、あの島には自衛隊の施設か何かがあるのだったな。

 この島、「うにじま」と読みます。特産のウニがたくさん採れるのだろうな、きっと。
 航空自衛隊のレーダー基地があり、隊員が勤務しているのだそう。1903年に旧陸軍の無線基地が設置されて以来、その後の年月のほとんどは民間人の立ち入りが禁止されているとのことです。


12 豊砲台跡 ~旧上対馬町・豊(とよ)

 対馬海峡の西水道を封鎖する目的で、1929年起工、1934年に竣工した鉄筋コンクリート製二階建ての砲台の跡です。
 長さ18.5メートルの40センチカノン砲が2門装備され、コンクリート壁の厚みは2メートル以上もあったということです。
 砲座、砲動力機室、砲具庫、電気室、巻揚機室、倉庫などの内部構造が残っていて、中を観察できる施設になっています。

 しかし、2、3歩入ってみると、中は真っ暗。さらに進もうとすると、ビーサンの足元はどっぷりと水溜りに浸かってしまい、ややヒルんで退去。どうも洞窟とかトンネルとか、地下に潜っていく行為は苦手なのだ。

 あとで調べると、照明スイッチがあったようです。注意力散漫。そうとわかっていたならなぁ。


13 異国の見える丘(韓国展望) ~旧上県町・湊

 コンセプト的には、先ほど見てきた島の最北にある韓国展望所と変わるところはありません。
 千俵蒔山(せんびょうまきやま)と対馬海峡の海という、陸と海が闘う崖地に沿って走る道路、これを「あじさいロード」というのだそうですが、その脇にせり出す形で設けられている展望台です。
 展望台の西側は真っ青な海。北側は山肌にくねくねとしつらえられたガードレール付きの急坂。南側は逆光のきついぎらぎらした海。
 そんな光景はなかなかに見事です。

 佇んでいたしばらくの間に通過した車は、軽トラック1台のみ。のどかなものですね。


14 天神多久頭魂神社 ~旧上県町・湊

 佐護(さご)の集落を過ぎて、その先の海沿いの湊(みなと)という入り江に面したところにある、「あめのたくずだま」と読む神社。

 神社の建築様式は、仏教建築に対抗する形でうまれたものと考えられています。本来の神社は、社殿や鳥居などはなく、単に磐境(いわさか、石積み)で結界をつくり、野外の磐座(いわくら)の前で祭祀を執り行っていたものだったのでしょう。
 この神社はまさしくそれのようで、社殿がなく、沖縄における御嶽(うたき)のような厳粛さや霊気が感じられるものでした。
 四角錐の形状をした高い石積みがいくつかあり、これは独特です。

 司馬遼太郎はこの神社について、「街道をゆく」に、「「延喜式」以来、国家に登録された神社でありながら、古代の様式のままである」と記しています。
 日本の正史のひとつ「日本三代実録」に授位の記載がある古いもので、阿連(あれ)の雷命神社や小船越の阿麻氐留(あまてる)神社などと並んで、天道信仰のひとつの中心地であったといいます。
 そして、厳原町の豆酘(つつ)地区には多久頭魂神社があり、対馬の北端と南端でこの2社がペアになっているようです。

 佐護湊の海の青を前にして、飾らず、あるがままに。まさに、“何もないことの重み”が感じられたいい神社でした。


15 天神多久頭魂神社の植物

 天神多久頭魂神社の前は、芝生があり陽当たりのよいちょっとした広場になっており、目の前の海と相まってとても居心地がよい。
 そこから鳥居をくぐって進んでいくと、そこからはさまざまな植物が繁茂していますが、さすが南国、これはソテツでしょうか? 南国好きとしてはがまんできずに思わずシャッターを押してしまいました。(笑)

 この後も対馬のあちこちの寺社仏閣を見て歩きましたが、このほかにもバショウやヤシなども所々で見ることができました。