いや、まったくもって、ひどい年末年始休暇でアッタ。

 12月27日に意気揚々と沖縄から戻ってきて、翌28日は勤務後仲間と1年の垢を落とすべく痛飲。まぁ翌日からは6連休だし、やりたいことに十分な時間を充てよう。・・・などと考えていたのだった。

 しかし現実は、29日の目覚め時からかなり体調が悪い。
 節々が痛み、なんと、フツーに横になっていられないぐらいに腰が悲鳴を上げるのだ。
 これでは眠られたものではない。「ちょっとした風邪は寝て直す」を身上としているおれとしては、いったいどうしたらいいのだ。

 ほかにも、足先でスリッパを履こうとしたりすると、こむら返りがバシバシ起きる。
 咳をするたびに腹筋までが悲鳴を上げる。ために咳自体にその成果が現れにくい。
 眩暈のためフツーに歩けない。まるで後期高齢者の日常みたい。
 涙目がひどく、視覚系のものはなにをするにも億劫。

 というわけで、12月29日以降今日までの6日間は、なんとアルコールの摂取ゼロ(!)、フルーツ以外の食物摂取ほぼゼロ、ついでにタバコもゼロという生活になってしまった。
 沖縄旅で久々に危険水域に達していた体重は、逆に平常時よりも3キロほど減少した。
 たまたま長期の休みとかち合ったのだろうが、休みのないときにこの症状が出たらちょっとヤバかったかもしれないなぁ。

 でもまぁ、明日からの仕事にはなんとか出られそう。
 けっ、おれってつくづく会社人間。

 結局この年末年始休暇はなんにもしないままに終わる。
 沖縄旅や読んだ沖縄本のインプレを書き、優雅に読書を3~4冊程度と考えてはいたのだが。

 旧年中にと考えていた散髪を、まずはやらないと。

スポンサーサイト
2012.01.04 苦言!
 この前の酒飲みのときのこと。
 大阪の被差別部落の話になって、西成区役所あたりの情況を現地踏査したことがあったので、そのことを報告したのだった。
 すると、その話を聞いていた友人Aは、西成区は大阪の北のほうだものな・・・と、よく知ってるよといった風情で言った。

「ちがうよ、西成は天王寺というか、新今宮というか、ミナミのほうだぜ」
 するとAは、
「TOBIちゃんよ、あとで地図をよく調べてほしいのだが、西成は北だ」
と真顔で断言するのだ。
 おれはゼッタイにちがうと思いながらもこんなことでタタカッてもしょうがないので、彼の言うがままにしておいた。

 だがなぁ。断言するのはいいが、どうでもいいことを断言するのではなく、正しいことを断言してほしいのよね。ここで間違ったことを断言して、しかも正しいことを言う者を貶めておいて、いったいどんな意味があるというのだ。

 さらに始末におえないところは、証拠をそろえて示して見せたところで、酔っ払っての話なわけで、「おれ、そんなこと言ったか? まったく覚えていない」などと言われるのがオチになる。それがいつものことだ。

 呑んでからの話は罪のない話題がいいには違いないが、そういうことってあまりにも無責任というものではないか。
 どうせ無責任なら、最初から無責任でいてほしい。そして、いくら酔っていても単なる思い付きでしゃべっているわけではない相手に対して、「あとでよく調べろ」などという筋違いなことは間違っても言うな。

 人間、酔って本性が出る場合があるが、彼はこういうことを重ねることでビミョーに男を下げていると思う。
 自分の言葉にもっと責任を持とうぜ。親愛なるAには猛省を促したい。



 一風変わった経緯があってつくられた本。
 2010年10月に明治大学の公開講座として、「文学と芸術における沖縄戦の記憶」というシンポジウムが開催される計画だったものが、台風による甚大な影響があって中止のやむなきに。
 しかしただでは起きない主催者側。基調講演をインタビュー形式にしたり、シンポジウムに出る予定だった先生方にはそれぞれのテーマで原稿を書いてもらったりしながら、この本の出版にこぎつけたというのです。う~む、スバラシイ執念・・・。

 まずは、写真家比嘉豊光氏に対する、明大教授合田正人氏によるインタビュー。これがまた、大学教授とフリーランスのカメラマンの会話ということで、なかなか噛み合っていないところが笑えます。
 学者さんが簡単なことをさも難しそうにこねくり回して言おうとするものだから、写真家サン、それを揶揄しているような素振り。くくくっ。

 これに続く合田氏による「付記・終わりと始まりの湾狭にて」もまた40ページにもわたって学者らしい自己満足的な言葉遊びやものの例えを展開していますが、このヒトはインタビューであれだけ比嘉氏を鼻白ませておいてなお、高邁というか場違いな持論を繰り広げたいのかという感じ。シアワセなヒトであるなぁ。はい、読み飛ばしぃ~♪

 ほかに、「目取真俊と戦争の記憶」(越川芳明)、「沖縄戦の写真、以前と以後」(倉石信乃)、「ハンセン病回復者の語る戦世――『沖縄ハンセン病証言集』を手掛かりに」(浜口稔)。
 これらのほうはそれぞれしっかりと読ませる内容となっており、読後の果報感がたっぷりと得られました。


 「17才」での鮮烈デビューから40年。その半生と時代背景を追う! 彼女がいちばん大切にしたものは!? 「アイドル」であることに少女はなぜ違和感をもったのか? 南沙織の熱烈ファンである大学教授が、蒐集し続けた資料をもとに徹底分析。異色の大衆文化論。――とのことです。

 大衆文化論が好きだし、南沙織世代なので彼女の活躍や身の振り方はリアルタイムで見ていたし、やはり沖縄に関することでもある、ということで、興味を持って読ませていただきました。

 結論から言うと、一人の熱烈なファンとしてのスタンスを変えず、いつまでの遠くから応援する姿勢で書き続けているため、その熱烈性から一歩も逸脱できていない印象で、よくも悪くもこの一貫性が全体の通奏低音になっています。

 南沙織について、特に神格化するでもなく、従来の見方が変わるような事実を突きつけるでもなく、愛情を込めて訥々と綴っているという感じです。

 序章から第7章まで。「沙織さんの歌声が聞こえる」、「「17才」まで 爆音のなかで」、「デビュー1年目 喚声をあびて」、「20歳まえ 新しい音づくり」、「はたちをすぎて アイドル歌手とニューミュージックのはざま」、「歌声に耳をかたむける」、「それぞれのサオリたちへ 産声とともに」、「国のちから、家族のきずな オキナワの声」
 少し前のことになりますが、2011年12月1日、照屋林賢、知名定男、喜納昌吉がそろって出演した「三線SAMURAI」というイベントがありました。
 これ、歴史的エポックとして語られることが今後何度かあろうかと思いますので、いったん整理しておきます。

 まずは、2011年11月29日の沖縄タイムスから。

○知名定男・喜納昌吉・照屋林賢 歴史的共演
 島唄や沖縄ポップスブームをリードした知名定男、喜納昌吉、照屋林賢の3人が、12月1日午後7時半から、沖縄市民小劇場あしびなーでライブ「三線SAMURAI~島うた40年史」に出演する。
 司会にフォークシンガーの南こうせつ。知名は「3人の共演を一番見たがっているのがこうせつ。演目は何も決まっていないが、中途半端なライブにならないようにしなければ」と語った。
 それぞれ独自の音楽スタイルを構築し、「絶対に交わらない3星(ミーチブシ)」といわれた3人の共演が、南の熱烈な依頼で実現。
 林賢は「お客さんは沖縄近代音楽の歴史的なステージの目撃者になると思う。音楽性はどうなるかまだ分からないが、楽しめるはず」と話した。
 問い合わせはPMエージェンシー、電話098(898)1331。

samurai times 201111
写真:「三線SAMURAI」に出演する(左から)照屋林賢、知名定男、喜納昌吉、南こうせつ


 次に、開催後にその情況を報じる、2011年12月6日の琉球新報から。

○交わった三つ星 三線SAMURAI
 復帰直後から沖縄の民謡界を引っ張ってきた喜納昌吉、知名定男、照屋林賢の3人が初めて同じ舞台に立つライブ「三線SAMURAI 島うた40年史」が1日、沖縄市民小劇場あしびなーであった。
 「絶対に交わらない三つ星(ミーチブシ)」などと言われた3人が、彼らを育んだ街・コザを舞台に歌三線で共演した。間を取り持った南こうせつは司会を務めた。
 幕開けで南に「なぜ仲が悪いのか」と問われた3人は「悪くない」と口をそろえながら、「性格が一致しない」(喜納)、「ウマが合わないだけ」(知名)と述べ、会場を笑いに包む。
 最初にりんけんバンドが登場し、林賢の三線に乗って上原知子の伸びやかな歌が響く。「黄金三星」は知名と共演した。喜納は「ハイサイおじさん」などをパワフルに奏で、知名は「うんじゅが情どぅ頼まりる」などをしっとり歌った。
 知名の求めで司会の南も「神田川」を歌い、客席に駆け付けていた宮沢和史やBEGINらもコーラスで参加した。
 終盤には3人がそろい踏み、知名定繁作詞、照屋林助作曲の「ジントーヨーワルツ」、林助と喜納昌永による「裏座小」など戦後の民謡を切り開いた父親たちの曲を聞かせた。
 演奏後、喜納が「皆男だから問題があるのかも知らん。次生まれる時は誰かが女性になればいい」と口を開くと、すかさず知名が「君が女になれ」と返し、会場は再び笑いに包まれた。
 アンコールに応え会場に戻った3人だが、演目がなかなか一致しない。知名が「コラボというよりバトルだ」と言いながら「時代の流れ」を演奏すると、喜納も同じ曲を激しく歌った。
samurai 201112
 写真:沖縄の民謡を切り開いた父親たちの曲で共演を果たした(前列左から)照屋林賢、喜納昌吉、知名定男=1日、沖縄市民小劇場あしびなー


 ネーネーズの保良光美が12月8日付けで「ネーネーズ便り」に感想を載せていたので、引用しておきます。

○ネーネーズ便り 2011年12月08日
 12月1日に「三線SAMURAI」というイベントがありました。
 知名定男先生、喜納昌吉さん、照屋林賢さん。沖縄民謡界を代表する、また、島唄ブームを創り上げた偉大なメンバーによる初の共演の舞台。
 今までこの3人が共演するということが無かったらしく、注目されていたライブでした。
 私たちはライブのため、見に行く事が出来なかったのですが、後日社長から話を聞くと、「それぞれの親の曲を歌おう!」となったとのこと。
 この3人も凄い才能を持った先生方であるが、その親となる方も沖縄民謡界のTOPで活躍してきた方々。
 知名定繁さん、照屋林助さん、喜納昌永さん。
 私は当時をよく知りませんが、3人それぞれ親も芸能が優れていて、ちゃんと次世代に受け継がれて今に至る。という奇跡のような現実がすごい! かっこいいなぁ~。
 生まれながらにして与えられた沖縄音楽界、サラブレットの御三家の存在。
 使命的ものがあるんだろうな、と考えさせられます。
 そんな師匠の元、歌を学べる環境に幸せ感じつつ、日々進歩を目指して頑張っていこう!!
 もういっちょう。旧ティダカンパニーのFu-miさんのブログ「Forever Young」から。

○Forever Young 2011年11月30日
 いよいよ明日「三線SAMURAI/島うた40年史」と題するライブが開催されます。
 出演は「ハイサイおじさん」「花~すべての人の心に花を~」でお馴染みの喜納昌吉さん、ネーネーズのプロデューサーとしても知られる知名定男さん、りんけんバンドを率いる照屋林賢さん。
 沖縄民謡界を40年近くも引っ張り続け、島うたブームを創り上げた先駆者3氏が初めて同じ舞台に立つという事で注目されておりますが、私も「沖縄の歴史を動かす奇跡の共演」の目撃者となるべく、チケットを手に楽しみにしている一人であります。
 ところで、何故「奇跡の共演なのか?」と言う事について、手元の資料によると…。
 公然の事実として語られているが、3氏は絶対に交わらない3星(ミーチブシ)とか言われ続け、同じ舞台を一緒に踏んだ事が無い。先駆者ゆえの三者三様の生き様がやや誤解を産み、勝手に話が広がり、噂話的な感じも無きにしも非ずのようであるが、実際のところは本人達しか知らない事であろう…と。
 その三氏が共演するライブ実現への大きなきっかけを作ったのが、実は今回のライブで司会を担当する南こうせつさんなんですね。今年の夏、こうせつさんの音頭で那覇のとある居酒屋の奥座敷に集まる事となり、会食はアルコールも入り多少のバトルはあったものの、4氏共に還暦を過ぎて丸みを帯びた事もあってか(?)、終始和やかに進み、お開きとなる前に誰となく「年内に初ライブをやろう。LIVE会場は(3氏が)生まれ育ったコザの地で、小さな会場で良い…」という話に。「それなら、司会進行は私がやります」と、沖縄の移り変わりを外から見てきた南こうせつさんが買って出るという事になったらしいのです。(拍手)
 私と3氏の関わりについて。
 林賢さんとは「りんけんバンド」に歌姫の上原知子さんが加入した頃からですので、知り合って30年近くになります。ユッコと一緒にやり始めた頃にCMソングを歌わせてもらった事があります。更に、僕らの結婚披露宴には「メンバー(りんけんバンド)に誘われて来た」と出席(?)してご挨拶まで頂戴致しました。(笑)
 昌吉さんと初めて会ったのは、コンサートの音響スタッフとして仕事をしている時でしたね。リハを一通り終えて、サウンドチェックを兼ねて遊びで打楽器を叩いたら「おー、ノリがいいね」と昌吉さんがサンシンを弾いてちょっとしたセッションになりました。その後、那覇の「パレット久茂地」のオープニングイベントにご一緒させて頂いた際にご挨拶をしたところ「君は何派か!?」と聞かれて「はー?…派!?」とびっくりした事があります。(笑)
 知名定男さんとは「ネーネーズの拠点」として経営するライブハウスに、一度だけですが出演させて頂きました。その時に、自費出版で出したCDを真っ先に買って頂いて恐縮した思い出と共に「君はなかなか面白い事やりそうだね。頑張れ!!」と激励された事を覚えています。
 南こうせつさんとは「フォークTIDABOX」(RBCiラジオ)へのゲスト出演以来、ここ最近では「ニーニーズ」として東京で頑張っていた頃からの交流がある「かでかるさとし」と共に、沖縄でのコンサートでステージに呼ばれたり、昨年と今年のコンサートでの共演に引き続き、今年4月に開催された「東日本大震災チャリティーイベント」へ急遽出演する事になった際には、こうせつさんから私の携帯へ「フーミはその日は仕事とか大丈夫? 良かったら一緒に盛り上げようよ」との連絡があり「かでかるさとし&ティダカンパニー」として共演させて頂きました。
 ふと思えば、4氏と私もそんなこんなの縁もあったりという事で、明日のライブを楽しみにしている訳です。ちなみに、かでかるさとしは「忘年会の仕事が入っている」とのことでした。


samurai poster2 20111

○Forever Young 2011年12月2日
 これまでに、何度か機会はあったものの同じステージに揃って立った事がないという三人が、司会の南こうせつさんに呼ばれて並んだだけで、会場がざわめく不思議な雰囲気というか空気に包まれるというか。
 でもって、その主役の三人を見ていると、やはりどこかぎこちなかったり、それぞれ三者三様の個性というものがそのまま伝わってくるような。
 こうせつさんの「昌吉さん、怒ってない?」というツッコミに一発目の大爆笑となりましたが、眼光鋭い喜納昌吉さんも笑うと優しい笑顔だったり。(笑)
 こうせつさんとのトークも面白かったですね。お三方の父親がそれぞれ沖縄民謡界の大御所であるという話では、知名さんから「昌吉のお父さんはとても優しい人だった。それなのに何でお前は…」と言われて大爆笑を誘う一方で「私(知名定男)の父もとても穏やかな人で、カメラを向けると直ぐ笑顔を作る人だったけど、私はひねくれ者でクサブックァー(愛嬌のない奴)でしたね…」とも。(笑)
 その中で、照屋林賢さんが父親である林助さんに作詞を依頼した時のエピーソードでは、FAXで届いた最初の詩にダメ出しをすると「お前は人にお願い事をして駄目だというか!?」で喧嘩となり、実は親子での作品も多いけど、その度に喧嘩していたと。
 そしてその話と共に語ったのは「父親が偉かったのは、喧嘩をしてもお願いされた事を投げ出す事はしなかった」と。
 で、2作目の詩が届くのですが、ナントこれまたダメ出しをしての大喧嘩(!?)。ところが、決して投げ出さない父親の3作目が素晴らしい詩となって送られてきたそのFAXの一番下には「人の意見も聞いてみるものだ、お陰で素晴らしい詩ができた」とあったそうです。
 その話を聞いたこうせつさん、「じゃあこの三人も、これからは素直に人の意見も聞けばいいんだよね?」という話にまたまた大爆笑。昌吉さんとのトークでも「国とか国境とか言う、そういう次元の話じゃなくて、宇宙という視点から見れば、人間と地球がダンスするような精神でいかなければ間違いなく破滅に向かう」という話と共に、「大震災から原発問題を考えた時に、何も戦争だけが地球を破滅に向わすものではないという事がわかった。だから、これからはみんなで一緒になって考えていかなくてはならない!!」等々の持論に対して、「だったらこの三人も仲良くしていかなきゃ」というこうせつさんのツッコミにこれまた大爆笑。知名さん曰く「この三人は仲が悪いんじゃなくて、気が合わないと言うか馬が合わないんだよ…」で、最後まで大爆笑の連続といった感じでした。(笑)
 ところで、三人の中で唯一リードボーカルをとらない林賢さんに対して、昨日は知名さんから「お前も歌え!!」と父親の作品を歌わされる場面があったのですが、「僕は歌が下手で、曲を作るのが好きなんです」という言い訳を隣で聞いていた昌吉さんが、「林賢の歌を初めて聞いたね、なかなかいいね、もっと下手かと思っていたから…」と言うとこれまた大爆笑。
 この三人が揃ってのライブというのは、ぎこちない可笑しさが漂う不思議な雰囲気の中で「コラボというよりバトルだから」という感じにもなっていましたね。
 でもって、アンコールの拍手に戻されてステージ上で打ち合わせをするものの、やっぱりなかなか決まらない。知名さんから「一人一曲ずつを短く歌う」という事の流れから最後となった林賢さん曰く「今回は三線SAMURIというタイトルですが、本来は歌・三線なんですね。歌があっての三線なので、最後は上原知子の歌で締めてもらいましょう」と言って迎え入れたものの、「結局貴方は自分の事なのに私ばかり働かせてない!?」という奥様からのツッコミに直立不動となり、最後の最後は歌姫の美しく響き渡る歌声で幕を閉じるという「奇跡の共演」でありました。
 そして、何と言っても南こうせつさんあっての「奇跡のコラボ&バトル」であり、大成功の初ライブとなった事は間違いありません!!(拍手)


 非常に興味深い表題の本にめぐり合うことができました。
 沖縄に存する苗字の形成過程とその特徴、及びそれぞれの意味合いと歴史的背景などについて、詳述されいてたりしたらウレシイのだがなぁ、などと妄想をも込めて読み始めましたが・・・。
 想像に違わず、まあ、そこまで立派な本ではありませんでしたかね。

 「沖縄の苗字」は、沖縄の青い海、赤瓦の伝統的な家、沖縄方言、沖縄料理などと並んで、沖縄の特徴の代表選手である、という観点には賛同。
 しかし、この本のアプローチの手法として、昭和初期に沖縄の苗字が本土風に改められた「改姓・改名運動」を取り上げ、その運動を中心として当時の様々な関係者、文化人等が改姓の是非について議論しているものの内容を整理する、といったつくりになっており、いまいち沖縄の苗字のルーツを明らかにするようなものにはなっていません。

 たとえば、「我那覇」という苗字は、もともとが何で、どの地域に多い苗字で、そのルーツは○○時代の△△親方で、××門中に属し、類似する苗字にはこんなのがある――なんていうのを期待しちゃっていたのでねぇ・・・。

 全5章。「苗字の歴史」、「沖縄苗字の足跡」、「苗字改造計画案」、「さまよえる沖縄苗字」、「「鉄の暴風」が沖縄苗字に残したもの」。

 次回、発行予定があるのでしたら、マクロからミクロへと論理展開を図っていただくというのはどうでしょう?
 魂は、細部にこそ宿る。マクロがマクロとして正しくても、それが個別のミクロのテリトリーでぴったりとくる、ということはそうそうないもの。
 おれたち地を這って生きている者にとっては、高邁な理屈よりも、日々の生活体験などから察してあぁ、そうなんだ、と素直に思えるものこそが、真実に近いし、尊いのである。
2012.01.11 愚痴愚痴
 ものごとを決めるにあたって、いろいろと議論するのはいずこも同じでしょうが、こんな状況ってどうでしょう?

 AかB、もしくはそれ以外の道であるCのいずれかを選択しなければならない場合にこんなことがありました。

ベテラン上司:いずれを選べばよいだろうか?
新人中間管理職:過去の例を調べてみたところ、Aの例が多いです。
べテラン:(そんなことは百も承知の上だが)よく調べたね。では、君自身はどう考えるのかな?
新人:(なんでそんなことを聞かれるのかわからないまま)過去の例から言えば、Aだと思います。
べテラン:(それは“考え”ではなく“状況理解”だろう。)では、なぜAが多かったのだろうね?
新人:(そんなのはおれのせいじゃないとばかりに)それが事実ですからね…。
べテラン:(コイツは何を考えているのだと思いつつ)なぜAがいいのだという君なりの考えはないのか?
新人:(いよいよわけがわからなくなって)これまでは、これがベストということでやってきたわけでしょうから…。
べテラン:(なぜこんなに話が噛み合わないのかと思いつつ)いやね、君がAでやるのがいいと説明するときの考え方が知りたいのだよ。
新人:???? (言われている意味をほとんど飲み込めない)
べテラン:う~む…。では、Bによったこともあったわけだが、その時ってどうしてそうしたのだろうね。
新人:(まったく考えないまま)じゃあ、Bで行ってみますか…。
べテラン:おいおい、どっちでもいいという風情じゃないか。君の考えはどうなのか。なんとなればAやB以外のもっといい道だって考えられないわけではないんだぞ。
新人:客観的に見ての発言をさせていただいています。でも、それだって、部長が、たとえばDで行こうと言えば、我々はそうせざるを得ないわけですからね。事務局はあくまで客観的に結論を出さなければならないと思いますが。

 これは、我が職場で実際にあったもの。地方の役所には客観的の意味すらわかっていない、こういう人種がいまだにいるのだ。
 ベテラン上司というのは、この仕事は通算6年目になる自分のことで、なんとか1年目の中間管理職をものにしたくて指導していたつもりである。
 ところが、この新人、上記によりわかるように、次のような問題点がある。

1 自分の「考え」と過去の例をつないで、「なぜ」Aがいちばん多かったかを考えようとしない。要はそういったトレーニングをしてこなかったのだ。
2 自分の定見がなく、上司等の判断を鵜呑みにしようとする。つまりは、自己責任が生じるような発言は絶対にしない。
3 他人の考えや忠告などを真摯に聴こうとしない。よって、意味もなくしゃべっているだけという印象を周囲に与える。

 結局、選択肢を選択する場合はその理由こそがなによりも大事だと考えるおれは、AならAがいいという理由を明らかにせよと迫り、新人中間管理職はその難しくもない答えを見出すこともできず、これ以上は自分には無理だと、いとも簡単に自分の主業務を放り投げたのであった。(驚)
 はっきり言って、おれはその程度の答えは持っているし、新人の力を借りるまでもなく自分でできる。むしろそのほうがスピーディーぐらいなものだ。

 それにしても、いったい何を考えているのだろうか。
 おれたちの仕事というのは、周囲の人たちがいろいろ言うことに右顧左眄することなのだろうか。
 周囲はいろいろあるだろうが、おれは、オマエは、どう考えるのか。ものごとのスタートは背骨となるそこが肝要だろう。
 誠意を尽くして考える。誰もが納得できる方法を打ち出す。それを説得し、理解を促す。言いたくないことも時には言う。
 おまえには管理職として必要なそのような技量があるか。そこまで自己犠牲を強いる覚悟があるか。

 いったい何十年、この世界でメシを喰ってきたというのだ。
 今からでも遅くはないから、「彼は主事が年を喰っただけ」などと言われることのないよう、誠実な気持ちで改めて学んでみてはどうだろうか。



 ボーダーインクが発行する聞き書き・島の生活誌のシリーズ7冊のうちの5冊目。
 単純に聞き書きしたことを概ねそのまま掲載しているのですが、これがたいへんに味があるのです。一言一言が重いというか、意味が込められているというか。このシリーズを読むのは「田んぼの恵み 八重山のくらし」に続いて2冊目ですが、こういう本って好きだなぁ。なんか、じいちゃんの昔語りを聞いているようで…。

 有人島としては日本最南端にあたる八重山諸島の中でも、与那国島と石垣島が舞台。
 全6章。第1章は、4人の子どもを女手ひとつで育てるなか、当時女性が手にすることがなかったサンシンを周囲の偏見にもめげず習得し、与那国島の歌を記録して楽譜に残した苦労を語ります。
 第2章は、その娘さんが忙しい母を助けて小学生の頃から畑や料理にと活躍した話。
 第3章は、与那国島で在来米を作っていた頃の暮らしが描かれています。
 第4章は、八重山の生物学と民俗学の先駆者である岩崎卓爾とともに働いた正木任(つとむ)氏の後を継いで気象台に勤務したその息子、正木譲さんの経験と思いが語られます。
 第5章は、八重山の人々の生活の最古の資料である「朝鮮王朝実録」にある1477年の済州島漂流民の記録を紹介するとともに、この時の人間的な交流についての記憶が、500年以上の歳月を超えて生き生きと伝承されてきたことを伝えます。
 第6章では、石垣島に舞台を移して、馬が大好きで歌にあふれていた農民のくらしが語られます。

 いつの間にか、調査する者とされる者という壁が取り払われていくようでもあり、物資が乏しい戦後の復興期を、身の回りの自然を最大限活用して、なんでも自分たちでやりながら力強く生きてきたさまざまな知恵が、なんだかとてつもない未来への宝物のように感じられます。
 それは、失われていくものに対する、落日への哀愁である、とも言えるでしょう。しかし、読んでいて、それだけではない口惜しさや喪失感が、ぐいぐいと伝わってきますから、不思議です。
 いったいおれたち現代人は、どこに向かって進もうとしているのでしょうね…。
 ゆいレール延長事業が認可される模様です。
 延長区間は、現在の終点、首里の鳥堀から石嶺本通りを突っ切り、雷のときに唱える「チョーチカ、チョーチカ」の発祥地の経塚を通って、安波茶交差点付近から東方向、浦添警察署付近を通過、あの為朝岩が聳え立つ前田付近までの4.1kmで、早ければ平成25年度にも着手とのことです。
 うれしいことですが、経営、大丈夫ですかね。

 以下、沖縄タイムスのホームページから引用します。


○モノレール延長17日認可 来年度にも着工 2012年1月12日
yui-rail 20120112  画像:沖縄都市モノレール延長ルート

 沖縄都市モノレール社(仲吉良次社長)が2019年の開業を目指す浦添延長事業(延長区間4・1キロ、4駅)で工事着手に向け、国土交通相が特許申請(事業認可手続き)を17日にも認可する見通しであることが11日、分かった。延長事業計画は大きく前進する。
 モノ社は特許を取得後、施工認可の取得と都市計画事業の認可を経て、早ければ13年度にも支柱などインフラ建設工事に着手する予定だ。
 特許申請は昨年8月、軌道法に基づき、提出していた。延長区間(那覇市首里汀良―浦添市前田)の建設費は約350億円(インフラ部約231億円、インフラ外部約119億円)。
 認可の交付式が17日に東京で行われる予定。モノ社は特許取得後、申請時に提示できなかった中長期計画を発表する予定だ。
 特許申請をめぐっては、浦添市が当初、将来のリスク負担の明示を求め、慎重姿勢を示したが、11年8月に県、那覇市、モノ社と負担割合で基本合意。国土交通省運輸審議会が同12月、軌道法上や利害関係面で問題点がなく諮問の必要はないと認定し、延長事業を妥当とする判断を下した。
 モノ社は開業以来8年連続で赤字決算が続いている。10年度決算では累積赤字約115億円、債務超過は約42億円だった。一方、11年11月、沖縄金融公庫、県、那覇市の3者と、今後5年間の年間返済額を、約13億円から約3分の1の4億5千万円に減額するリスケジューリング(返済方法・条件の変更)の4者協定を結ぶなど経営改善の努力を続けている。


 沖縄のことならば、基本的には何でも読んでみたい。ただし、1冊2千円以下ならば。
 ――これが書籍の購入に対する自分の基本ポリシーであり、2千円を超えるなら購入について慎重検討、3千円以上ならほぼ断念、という状況が続いています。
 一方、内容については、最近は政治・基地関係がなんだかクヮッチー気味。音楽とか芸能とか、そういう軽めのテーマについて面白おかしく論述するものとか、沖縄を題材とした創作系文学などが多めに欲しいところでしょうか。

 で、こちらは考古学。しかも島瓦についての。なかなかマニアックですね~♪
 琉球諸島の瓦、いわゆる「島瓦」は、島に住む人々や、島を訪れる人々にとって印象深くなじみのあるものですが、これまで研究対象として取り上げられたことはほとんどなかったのだそうです。
 しかし、屋根から落ち、土に埋もれた古瓦たちは遺跡を発掘する考古学者たちに対して驚くほど雄弁で、また意外な話を聞かせてくれるのだそうです。
 ということでこの本は、考古学的手法を用いて、琉球諸島で作られ、用いられた瓦を中心に話を進め、それぞれの時代ごと、地域ごとの状況を解説してくれます。

 琉球諸島そのものと「瓦」一般に関する考古学の状況を概括した上で、琉球諸島最古の瓦群について、琉球近世瓦の種類と特徴及びその系譜、その後の近代瓦の新展開などについて詳述します。

 視点こそミクロですが、ナルホド的価値は高いです。専門性の高い難しい表現なども、ほとんどないと言ってよく、読みやすく仕上がっています。
 しかし反面、初心者向けの入門書的な性格が感じられ、なにかもう一押し欲しかったかなぁという消化不良感も、ないと言えば嘘になる感じでしょうか。
 ま、自分のような初心者にはちょうどいい、としておかねばなるまいなぁ。


 1998年冬から沖縄県知事を2期8年務めた稲嶺惠一の重厚な回顧録。
 8年間、知事職だけに集中し、それ以外のことは趣味から何から一切絶ち、日程のキャンセルは一度もなかったと、全力疾走した日々を振り返っています。

 全464ページ。厚いなぁというのが第一印象でしたが、字も小さくなく、気負いのない平易な文章だったので、苦もなく読むことができました。
 稲嶺家については、父・一郎氏の業績について若干の下知識がありましたが、それ以外はすべてが新鮮で、惠一氏が慶応大学を卒業後にいすゞ自動車に就職し、その時代に伴侶を得たことなどについてなかなか楽しく読ませてもらいました。
 惠一氏については、若いうちから「りゅうせき」の要職に就けたのも父の七光りなのだろうぐらいに考えていましたが、それもあるでしょうが、飾り気のないなかなかの人物であったがためということも、文章の端々から読み取ることができました。

 全8章。「生い立ちから慶大卒業まで」、「いすゞ自動車時代」、「琉石入り、経済界の内と外で」、「政治の世界へ」、「沖縄サミット」、「知事一期目をひた走る」、「苦悩する沖縄の先頭で」、「沖縄の明日を託して」。
 知事になってからの各章については、その当時の活躍を垣間見ているだけに、あの時はそうだったのか、そういうことを考えていたのか、大変な精神状態だったのだな、など、素直な感想が得られると同時に、県執行部内の人間模様や、政府、外交筋の要職との間にあったさまざまなエピソードを知ることができて、非常に興味深く読むことができました。

 なお、今から琉球新報社にお願いしておきたいと思いますが、仲井真弘多知事が現職を退いた後にも同様の出版物を刊行していただきたいと思いますので、ヨロシク。


 比嘉慂(すすむ)の作品についてはこれまでに「美童物語」のシリーズを読みましたが、彼の描画のタッチがなかなかよく、登場人物の表情に不思議に感じ入らせるものがあって、すっかり魅了されてしまいました。絵自体はそう感心するようなものではないと思うのですが、なぜか。
 そういうことがあって、このたび彼の初期作品を集めた本が刊行されたので、普段は漫画に食指が動くことはあまりないのですが、めずらしくただちにゲット。

 コシマキのキャッチを引用。
 「この戦争もいつかは終わる。次の世の中がどんな世界になるのか見届けたい。」
 太平洋戦争末期、沖縄――悲惨すぎる現実を題材に、抑制された展開でその奥にある真実を捉え、比嘉慂の原点となった“幻のデビュー作品集”、ついに復刊!!

 なるほど。「抑制された展開でその奥にある真実を捉え」る、というところが、自分がすっかり感じ入ってしまった部分なのだな、ということがこの文を読んでわかったぞ。

 引き続き引用。
 (「母について」は)お袋から聞いた話を、お袋が亡くなったときにまとめようと思ったんです。これを描いたとき親父はまだ健在でしたけど、マンガをほとんど読まないんです。本に載ったときに「これ、お袋のことを描いたよ」って渡したら…声を出して読むんですよ。最後まで読んで「アッサヨー」ってホントに感動してね。親父は僕のマンガ、それも声出して読んだのは後にも先にもあれ一度。

 著者は1953年生まれ。その父親の世代というのは、漫画に対する理解というのはきっとそんなものなのだろうな。

 掲載作品は「砂の剣」、「砂の落日」、「母について」、「砂の呼声」、「砂の兵士」、「学舎(まなびや)」、「喜劇 土盗り」の7作。1992~97年の作品です。
 味がありますよ。一読することをオススメします。
2012.01.20 数字関連2題
 その1。
 2011年の1年間に読んだ沖縄関連本は、59冊でした。
 過去最高は2010年の60冊だったので、わずかにそれに及ばなかったものの、まあ善戦したほうかなと思っています。
 しかし、本は量を読めばいいというものではなく、それらからさまざまな知識を得たり、読むことによっていろいろと考えることなどが重要なのであり、けっして定量的に捉えるものではないと思っています。
 そういう意味からすると、なんだか年々読んだ本から得る感動やヨロコビといったものが減退してきているような気がするのですが、これってどういうものなのだろうな。
 このごろは目がしょぼくれてきて、同じようにものを見ているつもりでも、見落としたりキーボードを打ち間違えたり。
 ひょっとして、これと同じ?? あぁ、いやだいやだ…。

 その2。
 2010年7月から管理運営してきた兄弟ブログの「TOBI's置賜・山形パロプンテ」のページビュー件数が、昨日、5万件を超えました。
 日々の食べ物をあーだーこーだと書いているのですが、副業として始めたこのブログ、このごろは本業のこちらのブログへのアクセス件数を凌駕する日が続いています。
 これって、ウレシイ半面、なんだかなぁという感じも…。
 おれも業態転換が必要なのかなぁ…。
 でも、これとてアクセス量が多いことを以って良しとするものではないので、やはり本業は本業として、気分の赴くままにやっていこうと思っています。

 ということで、「59」と「5万」でした。



 「テンペスト」で一躍メジャーになった池上永一が満を持して放つ、8つの島の物語。いやぁ、待望しておりました。そのわりには読むのが発刊されてから約10ヵ月後になってしまったけれど。

 八重山にある竹富島、波照間島、小浜島、新城島、西表島、黒島、与那国島、石垣島の物語を8篇つないだ作品です。
 竹富島から始まって、次の波照間島ではそれとは別のストーリーが展開していたので、単に8篇の連作のようなものかと思いながら読んでいたのですが、いやいや、これらが最後の石垣島の章で劇的に連結される、というプロットがあったのです。これには驚きました。すべてがひとつに織り上げられていくような未体験の感覚がありました。

 タキドゥンは祭りの島。ツカサの導きによって高校生の男女が種子取祭の演目の最重要な演舞者に抜擢されます。
 パティローマでは、伝説のパイパティローマを夢見る少女と、そこに行ったことがあるというオバァの話。
 また、クモーでは、そこに暮らす一人の女性が亡き義父の洗骨に挑戦する話。
 パナリ、イリムティ、フスマ、ドゥナンについても島に特有なエピソードが展開されます。
 わかりますか? タキドゥンは竹富島を表す古語。ほかも同様です。
 そして、これら島々の神たちが、石垣島川平にある群星御嶽(むりぶしおん)に仕えるツカサとサーダカー(霊感の強い人)のその孫娘の拝みによって御嶽に集い、近況を伝え合う――という一種感動的な設定。

 そこには、離島の神々が親島である石垣島に戻り一同に会する、という考えや、海を隔てて離れていても家族の絆は変わらない、という離島人特有の人間性が流れているようです。
 それは孤独な宇宙で星たちが互いに繋がり合う星座のようであり、すばる――プレアデス星団のようです。
 神であっても、人と同様に、寂しいときには夜空に家族の面影を見るのでしょう。
 そして、夜空に群星があれば、東シナ海にも群島があります。その8つの島を、統ばる島と呼ぶのです。

 いやぁ、ヨカッタヨカッタ! 文体もかつてよりも落ち着いてきたようだし、語りのスピード感は健在だし、今後の作品にも大きな期待が持てますね。
 これまで使っていたVAIOのスタートアップが不安定になっていて心配していましたが、とうとう満足に動かなくなりました。
 2005年に我が家にやってきてから6年余、そうとうに手荒い使い方をしてきたのでそろそろ寿命かも。
 ということで、今日、その後継機種を買ってきました。

 NECのVALUESTARの、N VN770/FS6R。
 いやぁ、世の中進んでいますね。これまで使っていたVAIOはメインメモリーを増設して768MB、HDD40GBというものだったのですが、今回のはメモリー8GB、HDD2TBだもんな。しかも地デジが見られてブルーレイ。
 これだけのスペックを有しながら、VAIOを買った時の4分の3以下の値段で買えちゃうというのですからなおさらびっくり。



 ちなみにこれ、自分にとって何代目のパソコンになるんだ?
 初代は、NECの8801。これは1990年代?
 二代目は、1998年ごろに買ったFUJITSU。たしかHDDが2MBだったように記憶しています。ホントかよ??
 三代目は、2002年ごろに買ったNECのVALUESTAR。コイツもだいぶ酷使されて、一度壊れて再インストール。その後長旅から帰ってきたらもう立ち上がることなく、多くのデータが失われてしまった苦い経験がある。
 そして、四代目が先代のVAIO。考えてみるとコイツは長持ちしたほうなのですね。

 今回はそろそろやばいぞということで、各種データだけはしっかりと別の場所に避難させておいたので、実害は多くなし。しかし、今日までのところで分かったことは、たくさんの音源については拡張子が異なりうまく作動せず、長く使っていたスキャナが互換性なしということで買い替えが必要になるなど、しばらく混乱は続くようです。