首里寒川町にあるカレーショップです。
 首里の、かつて綾門大道(あやじょううふみち)と呼ばれていた道を歩いていて、その昔中山門が建っていたあたりにあったこの店を発見し、首里高校の学生なんかがよく利用するのであろうココでカレーを食べるというのも悪くないなと思ったことがあります。

 メニューは豊富で比較的安価。たとえば、ですが・・・



pocket+samma.jpg

 上は、コロッケカレー。
 下は、さんまフライカレーだって。

 カレーの味などについては沖縄本島に広く膾炙しているわけですから期待は持てます。
 課題となるのはライスでしょう。東北の人間はいつもおいしいごはんをいただいているので、けっこう米にはシビアなものなのです。さて、どうでしょうか?

 400円からカレーライスが食べられて、ドリンクサラダセットがプラス150円。
 11:00~21:00(土曜日は17:00まで)、日曜・第4月曜定休。

 こんどの旅では、わざわざこの店に行くために首里へと赴いてみようかな。
スポンサーサイト
 前回、沖縄に赴いたのは、1年近く前の2011年1月。国際通りを歩いていて、モノレール牧志駅周辺の大規模再開発が行われていました。
 現場は高いフェンスで囲まれていてよく見えませんでしたが、新しくできるマンションの分譲やホテルの宣伝などが盛んに行われていたようでした。

 その再開発が完了し、「さいおんスクエア」のまちびらき式典が7月8日に催されたとのこと。
 あの安里川の周辺がどう変貌したのかを、良きにつけ悪しきにつけ見ておく必要があると考えてオリマス。



saion2.jpg

 しかし、国際通りを初めて歩いたのは1993年のことだったけれど、その後の期間だけでもかなりの変化があるぞ。あのときは軍用品払い下げの店でレーション(戦時食)を買ってみたものだったが、そんな店はとうの昔になくなってしまった。
 OPAはなくなったし、桜坂界隈は激変したし、第二公設市場もなくなった。
 平和通りや沖映通りが、ガーブ川にふたをしてできている道だということを知っている観光客は、いったいどのくらいいるのだろうか・・・。


 八重瀬町大頓にある沖縄そば屋さん。
 先の大戦で幸いにも焼け残ったという大きな古民家が文化財になっていて、それを改修したというそば屋さんなのだ。なんだかそれだけでも行ってみる価値アリだろ。

 写真のアーサーそばセットは980円。もちろんそばの単品も、ラフテーなどの料理やジューシーなどもあるようです。
 営業時間は11:30~16:00。毎週火曜が定休日です。

yagiya2.jpg
 「佐賀と沖縄との関係 -明治期・沖縄で活躍した佐賀県人-」というHPを読んで、今は無人島となっている硫黄鳥島から久米島へと移住してきた人々がいたことを知りました。
 そして、現在「鳥島」という地名になっている久米島の集落は、それまでの久米島にはなかった近代的なもので、集落内の道路は殆どが3間(約5.4メートル)と、現在でも決して狭くない道路幅。また、区画はほぼ当時のまま現存しているのだそうです。

 ちょっと興味が湧いたので調べてみると、その集落の西端には硫黄鳥島から移した7つの御嶽を祀る七嶽(ななうたき)神社があり、境内には弁慶石、海の神がおかれている、とのこと。
 久米島町のHPによれば、次のとおり。



 七嶽神社(町指定史跡) 久米島町字鳥島354
 昭和49年4月26日、旧具志川町指定
 明治36年(1903)4月、徳之島に近い硫黄鳥島の硫黄坑ば爆発し、政府は軍艦を派遣して多方面から調査、協議を行った。その後、沖縄県からの勧めにより久米島移住について話し合いを持たれ、住民の多くの賛成が得られたため、硫黄採掘要員を除き、久米島具志川間切大田村字仲泊(旧具志川村字仲泊、現久米島町)に明治36年12月、37年2月の2回に分けて移住を行った。
 硫黄鳥島には、七つの御嶽があって遠く祖先の代から作物の豊作、住民の無病息災、作業の安全を祈願していたので、移住に際し、この七つの御嶽の砂を取って壺に納め、それをご神体として移住地に移し、まとめて祈願所としたのが七嶽神社である。
 なお、境内には「鳥島移住記念之碑」が建てられ、移住に至るまでの経緯が記されている。

 鳥島の硫黄採掘が佐賀県人・斎藤用之助らによって始められたという歴史やその過酷な日々をイメージしながら彼の地を歩いてみたら、おもしろかろうなぁと考えながら読ませていただきました。

nanautaki-map.gif
 5泊6日の沖縄旅から、今日帰ってきました。

 いやはや、観るも観たり、演劇、音楽など7つのライブ。このぐらい観てしまうと、ひとつひとつのありがたみが薄れるものだ、ということがワカッタ。

 そして、よく歩きました。
 金城~繁多川~識名あたり、南風原の黄金森周辺、そしてナーファ(那覇)のスージ(小道)のあちこち。

 しかし、沖縄に行くと身体の調子がとてもいい。日常を忘れるために行くのであるから、まぁ当然といえばそうなのだが、それにしても、快食、快便、快眠なのだな。ゼッコーチョー!! 横浜の新監督が現役だった頃のようだな。(笑)
 あと、適当に湿度があるので肌もカサカサにならないんだねぇ。

 なんてったって、暖かいのだ。
 最高気温が18度程度なので、あちらの人たちにとっては寒いのだろうが、北国から行った人間にとっては天国。夜中でもトレーナーを着ていればへっちゃらなんだもんなぁ。

 こちらに戻って、雪がこんもり積もっていたり、日暮れが早かったりするのを見て、ああ、びっくり!
 ま、ほんのひとときだったけれど、いい夢を見させてもらいました。

 旅の様子は、写真とともにおいおいブログに書いていくことにしますので、お楽しみに。


 糸満市の大度海岸といえば、19世紀、ジョン万次郎がハワイからの帰りに上陸した地として知られていますが、ここには先に紹介した佐賀県人・斎藤用之助が島尻郡長を担っていたときにつくったという「用之助港」というのがあるのだそうです。

 以下、2010年7月の佐賀新聞の記事からご紹介。

・佐賀県人が手がけた沖縄の港 選奨土木遺産に
 明治時代、佐賀から沖縄へ渡り社会基盤整備や地域振興に尽くした斎藤用之助(1859~1933)が建造を手掛けた沖縄県糸満市の「大度の用之助港」が、社団法人土木学会の選奨土木遺産に認定された。サンゴ礁の岩礁を切り開く難工事を果たした点が評価され、斎藤の子孫は「佐賀と沖縄の結び付きを再認識する足掛かりにしたい」と期待を込める。

 斎藤は佐賀市出身。肥前鹿島藩主だった鍋島直彬が初代沖縄県令に就任した1879年、警察官として赴任。島尻郡長などを歴任し、35年以上にわたり沖縄本島南部と周辺諸島の公共事業や人材育成などに尽力した。

 数多くの業績の一つが、1904年に島尻郡を襲った大干ばつを受けた港の建設計画。政府の救助金で農業者を雇用しつつ、漁業との両立を図る一石二鳥の振興策を手掛けた。工事も干潮時だけの制約のなかで3年半以上の歳月と苦労をかけてサンゴ礁を切り開き完成させた。住民はその功績をたたえ港に「用之助」と名付けた。

 港の完成で船が出入りできるようになり、砂糖の積み出しなどに利用された。現在は活用されていないが、開削部分は残る。サンゴ礁に囲まれた港口が沖縄ならではの土木遺産であり、災害を機に公共事業で雇用を生み出した点も評価された。

 最近では斎藤家に残る資料の展示会や講演会が佐賀県内で初めて開かれ、斎藤を見直す動きが出ている。ひ孫の斎藤用之助さん(63)=佐賀市=は「用之助に限らず佐賀の多くの人が沖縄で活躍し、現地では今なお語り継がれている。歴史に眠る佐賀と沖縄のきずなを掘り起こし、次世代へと受け継ぎたい」と話す。

  saitouyounosuke.jpg

 写真左 「大度の用之助港」の遺構の開削部分(奥)。3年7カ月の工事で沖のサンゴ礁を切り開いた=沖縄県糸満市の大度海岸
 写真右 斎藤用之助

 HP「佐賀と沖縄との関係 -明治期・沖縄で活躍した佐賀県人-」には、島尻郡長時代の用之助の功績として、上記のほか次のようなことが掲載されています。

1、道路の整備、軽便鉄道の施設、農業用水源の開発など、産業の発展に寄与。
2、人材の育成を重視し、貸費留学制度を設け、本土の職業専門学校へ送り出し、技術を習得させ、卒業後は郡役所に指導者として迎え入れた。特に機織、染色には力を入れ、これらの産業は島尻各地で盛んになった。
3、夜間学校を開き、社会人教育を行った。また、退職時には、奨学資金の寄贈を申し入れ、郡民の要望で体育奨励基金として当時の金で2,000円余りの多額を寄付した。
4、製糖工場を創設。サトウキビの圧搾を牛馬に頼る小規模なものであったのを、台湾から工場設備の機械を導入した。
5、その他、農業試験場の設置や、農業の近代化にも尽力した。

 気骨のある立派な人が、その時代にもいたのですね。
 行ち欲さやぁ・・・。