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 守礼の門の手前から左(北)に折れ、龍潭通りを横断してこんどは首里大中町、首里当蔵町あたりの、その昔王国の武家屋敷だったところをふらふらと歩く。

 そのときに見つけたのがこの首里劇場。
 どうです、趣きのある建物でしょ。

 なんとこの首里劇場はホームページを持っていて、その歴史や現在を知ることができます。
 それによると、アメリカ世まっただ中の昭和25年、当時の首里市に初めて建築されたのがこの首里劇場で、うちな~芝居(沖縄芝居)や時代劇に始まり邦画から洋画まで映画も上映されていた、ということです。
 映画が斜陽になった70年代後半頃から次第に成人映画専門館へと移り変わり、今では「女曼陀羅 七人の絶頂」とか「義父(禁)願望 肉欲のとりこ」とかのエッチなおじさん向けの映画を上映していいますが、未だ現役でフィルムを回し続けている沖縄最古の映画館です。

 でも、通りかかったときは人っ子一人いなかったけどなぁ。
 なに、木曜休館?
 Mmmm・・・。あれは1月8日の土曜日だったのだけど。正月休み??
 あぁそうか、上映は午後1時からなのか。(ホームページで今確認。)
 なんか、廃屋寸前と見たのですが、現役なんですねぇ、これが。
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 首里劇場から、こんどは近くにある安谷川御嶽(アダニガーウタキ)を目指します。
 狭い路地や、民地ではないかと思われるようなところを歩いて、玉那覇味噌醤油工場という看板のある、石垣に囲まれた立派な敷地の前に出ました。

 南に向かって登り道となるこの通りは狭い道ですが、首里城から浦添に続く西海道(さいかいどう)ルートの一部だったところ。当時は石畳だったのでしょう、スージ小からカンプーを結ったサムレーなんぞがひょっこりと現れてもおかしくないような雰囲気です。

 さもありなん。玉那覇味噌醤油工場は実は琉球王国時代の士族・仲田家の屋敷跡なのだそう。
 18世紀につくられた「首里古地図」には「仲田親雲上(ペーチン)」と記されているそうです。
 屋敷を囲む大きな石垣や格調高い玄関の石門、踊り場の石畳などが健在で、往時の雰囲気を感じることができます。

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 さて、その通りに安谷川嶽はありました。那覇市指定の文化財です。

 この御嶽は、一般に「アダニガーウタキ」と呼ばれ、「琉球国由来記」(1713年)によると、首里大阿母志良礼(しゅりのおおあむしられ 王府時代の高級女神官の一人)の司る御嶽の一つとなっていますが、神名は記されていません。宝珠をのせたアーチ門が拝殿の役目をし、左右に連なる石垣によって境内を内と外に分けています。内側には神聖な岩と木を中心にした石囲いがあり、その背後にまわると洞穴があります。アーチ門の前には石の香炉があり、外側の庭は石畳になっており、左右に石碑があります。アーチ門に向かって右側の石碑には、1814年に当蔵村の有志によって大修理が加えられ、それを機に当時の村にとっての大金「青銅二千びき」の基金をつくり、その利息を維持管理に当てることにしたと記しています。また、左側の石碑は、戦後修理したときに建てられたもので、御嶽の名前が記してあります。

 ――とのことです。
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 その後、虎瀬公園で景色を眺めながら一休みし、昼メシを食べに虎瀬公園の入口にあった「てぃしらじそば」へと向かいました。

 てぃしらじそば・もずく酢付き+いなり2個=550+100円。
 これほどに澄んだスープというのはめずらしい。
 紅しょうがではなく、着色のないきざみ生姜を使っているあたり、マニアの心をくすぐりますねぇ。
 なかなかあっさり。それを分厚い三枚肉がコクをつけ、バランスを取っている感じ。

 麺は、ぶっとくて、縮れていて、手打ちで・・・なんだかこれ、山形のケンちゃんラーメンの麺とそっくりでやんの。(笑)

 いなりはデカいっ! こういうものと知っていたなら1個しかたのまなかったものを。
 うどんのチェーン店なんかでは、これより小さいものを1個120円で売っているぞ。

 というわけで、満腹。
 このあと那覇に戻って映画「浦添ようどれ」と上里隆史の歴史講座というのに参加したのだけれど、映画のほうは睡魔がきつくて苦労しました。
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 その後、沖縄市民小劇場あしびなーで開催される喜劇の歌舞劇「真夏の夜の夢」を観るため、バスでコザへ。
 薄着をしてきたせいか、めっぽう寒い。いったい何度なんだ?! 沖縄のバスには強力な冷房システムは完備されているが、運転手さんはヒーターを使うということには考えが及んでいないようなのだな。

 というわけで、ふるえながらたどり着いたのは、BCストリート、もとい中央パークアベニューのチャーリー多幸寿。タコスの銘店として知られてオリマスね。
 振り返ってみると、おれ、この店に入るの、過去何十回の沖縄通いの中で初めてのことなのだった。
 1回食べたことはあるが、その時は妻のテイキアウト(沖縄風ハチオン)によるものだったものなぁ。

 で、なにも知らずに適当な席にどっかと腰を据えて注文を取りに来るのを待っていると、注文はカウンターにてお願いしますとのこと。おぉ、そうなのか、知らなんだ。

 で、タコス2ピース+フライドポテト+ソフトドリンクのセット780円のソフトドリンクをプラス200円で生ビールに変えてもらって。
 タコスはビーフ、チキン、トゥーナ(ツナですな)から選べるとのことで、ビーフとチキンをチョイス。
 でもなぁ、金武あたりのタコスとちがって具が少ないと思う。そのために食べやすい、というメリット?もあるけれども。
 特にポテトがけっこうなボリューム。寒さで体調まで悪くなってしまいそうなこともあって、全部食べられなかった。(悔)

 どうも本当に具合が悪かったようで、その後の歌舞劇の内容も今となってはよく覚えていまへん。
 急いで那覇にとって返し、熱いシャワーを浴びて急いでベッドにもぐりこんだ記憶があります。
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 那覇界隈に泊まった際には必ず行く大衆食堂の銘店。首里久場川町にあります。
 この日は朝からレンタカーをゲットしていましたが、いつもはモノレールで行かなければなりません。だけどそんなことは苦にならないくらいのインパクトあり。
 だって、美味いんだもの。
 こう美味くて、品数もめっぽう豊富。それでいて安い、たっぷり、楽しいとなればねぇ。

 定番の味噌汁定食570円を。
 味噌汁、具だくさんでスゴイんですよ~♪
 ここしばらく値上げもしていないし、元気に働くオバサンの厨房に向かって言う「味噌定~♪」の声も軽やか。
 安い定食屋というと、デキもいい加減で小汚いような印象がある人もいるかと思いますが、ここは清潔でテーブルもべとべとせず、出てくる品々も出来立て新鮮でとても小奇麗です。

 なんだかおれは、ここでこれを食べるために沖縄に足しげく通っているような気がしないでもない。
 これまで体験してきた数々の食堂の中では1、2を争う総合力があります。

 この日はこの後、国立劇場おきなわで「新春琉舞名人選~新春を寿ぐ」というのを観ましたが、古謝弘子がよかったなぁぐらいで、これまた印象が薄い。具合が悪かったのです。
 なので、その後は早々にホテルで休養。あ~あ、もったいない。
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 翌日は島尻へ。こんどは東御廻い(あがりうまーい)の経路を若干でもたどってみようという考え。

 まずは与那原町にある拝み所、御殿山(うどぅんやま)へと赴きました。
 町立図書館の裏手にさびしく存在しておりましたですな。

 国王や聞得王君の久高島参拝の発着地。聞得王君の御新下りの際には仮御殿が造営されたそうです。
 古くはここが海辺であったことから、別名「浜の御殿」とも呼ばれているとのこと。
 また、「琉球国由来記」によれば、ここ御殿山の神名は「アマオレツカサ」で、天女が天から降り立った場所と記されています。

 看板には次のように記されていました。

御殿山
 名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置場に指定されたことによる。オモロでは「よなははま きこゑ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又 あきりくち とよむ大きみ やちよ」とうたわれている。
 「球陽・遣老説伝」に「漂流の大君加那志」として由来がのっており、戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれる。
 聞得王君の御新下りの際には最初の休憩地となり御仮屋が設けられた場所である。現在も町の行司や東御廻いのコースにもなっている。
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 次は、市街地の中心にある親川(うぇーがー)へと赴きました。
 看板によれば次のとおりです。

 天地開闢の昔、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産場を召したとの神話に発し、琉球王朝時代には国王の久高参詣(旧八月の神拝)の東廻や聞得王君の御新下りの際、「お水撫で(うびなでぃ)」の儀式を行うなど、首里出発後、最初の拝所として、休憩の御用水を献じた所と伝えられている。
 「琉球国由来記」によると「聞得王君の御新下り」の際の与那原の儀礼は親川の「お水撫で」が主役であることがわかる。「お水撫で」とは親川から汲んだ(お水ーウビー)を盛った器に中指を浸し、額を撫でる呪法で「孵で水=スディミジ(脱皮・再生の聖水の儀)」の儀式である。すなわち、天女やその子が浴びた親川で儀礼的に聖なる水を浴びることによって、天女の霊力を獲得(御新下り)する儀礼としての意味があった。
 琉歌にも「与那原の親川に あまくらがいちゃうん あまくらやあらん 思姉おすじ」と歌われた。澄みきって、冷たい水がこんこんと湧きでるこの石泉は人々の崇拝をあつめた霊所である。


 ここは王府と密着した聖地である一方、与那原の人々にとっては昔から貴重な飲料水や生活用水、また、正月の若水、子どもの産水を提供する湧水だったようです。
 与那原の代表的な行事である大綱引きも、ここから始まり、ここで終わるのだそうです。
 ここでちょっと一休みがてら、与那原の街並みを散策。
 お! 親川の近くには琉球建築風のモダンな住宅が。赤瓦を配してなかなかいいじゃないですか。
 わりと新しい、デカい個人住宅? 市街地の中央にこれだけの住宅を建てられるということは、これを建てた人はきっと富裕層に属する人なのだろうな。

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 と思えば、このような年季の入った建物も。1階はあれこれ手を入れて商店風ですが、2階は戦後のアメリカ世の風情を残しているようです。

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 与那原の住宅地は、このような交通の要衝にあって、よくもまぁ古い建物が残ったものだと感じるほどに、多くのヘリティッジ風の建物があります。表通りを一本外れた商店街にはそのような建物が多いです。
 赤瓦の民家風を改造したもの、ホントに営業しているのかと思わせるもの、台風で店先の庇がぶっ飛んでいるものなど、さまざまあって、見ているだけで不思議な味がある商店街ですね。

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 東御廻いの聖地めぐりで次に訪れたのは、場天御嶽です。

 琉球三山統一を果たした尚巴志の祖父・佐銘川大主が伊平屋島を逃れて移り住んだ場所を御嶽としたもの。
 ところが、ココは移転した場所のようで、もともとは新里公民館近くにあったのですが、1959年に襲来したシャーロット台風というので地滑りが発生し、埋没してしまったそうなのです。・・・なんだよ。

 あるウェブページによれば、以前は上場天御嶽と下場天御嶽の2つの拝所であったもので、上場天御嶽は神名「サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ」。佐銘川大主はここに小屋を建てて、漁をして暮らしていたといいます。
 一方、下場天御嶽は神名「コハツカサノ御イベ」。佐銘川大主の息子・苗代大比屋(なーしるうふや)、すなわち後の尚巴志の父・尚思紹(しょうししょう)が生まれた場所だといわれています。

 イビ御嶽ほか6つの拝所が点在しており、東御廻りでこの地を拝するのは、王国と深く結びついた聖地としてはもちろん、先祖が使った御水に感謝するためとも語られているそうです。

 なんだか悪寒がする。まったく、身体の調子は一向に改善する兆しなし。
 次、まいりましょうかね。

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 東御廻いの聖地めぐり、次なるは、かつて訪れたことのある佐敷上グスク、テダ御川、斎場御嶽、知念グスク、知念大川、受水・走水、ヤハラヅカサ、浜川御嶽は今回はすべてパスして、ミントングスクを目指す。
 も、どうもゴルフ場敷地の中らしく、どこから入ればいいのかよくワカラナイ。どこから入るんだーっ!
 何回か近くをうろうろしましたが到達せず。あとで持っていった資料をよく読めば、「個人の私有地内にある」と書いてある。くっそー、気づけよ、おれ。

 で、傷心を抱きつつ、最後の巡礼地、玉城グスクへと向かいました。
 広い前庭のようなところを過ぎて上り道を歩んでいくと、おー、ここか。写真で何回か見たことのあるアーチ状の遺稿がありました。



 別名「アマツヅグスク」とも呼ばれる、アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつで、アーチ状の本丸門はニライカナイに通じると伝えられているのだそう。
 琉球創世神・アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつで、琉球国由来記によると、神名は「アガル御イベツレル御イベ」。
 城内にはかつては琉球国王も参拝したといわれる天つぎあまつぎの御嶽があり、とくに干ばつの際は国王自ら雨乞いの儀式を行ったと記されています。
 城は主郭・二の郭・三の郭で構成されていたそうですが、現在は根石を一部残すのみ。あちこち修復途上のよう。
 久高島や本島中南部が見渡せる高台にあるため、城門へと上る道の途中はかなり険しく、高齢者が近寄るのはちょっとしんどそう。
 岩盤をくりぬいて作られた本丸門は、あがるい(東北東)に向けて口を開いており、冬至と夏至の日には太陽の光がまっすぐと差し込み、息をのむほど幻想的な光景が広がるのだそうです。

 その本丸門の内側からゴルフ場を望む。下方に見える遊歩道、部分的にヤバイです。

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 計画では夕刻から糸満の首里天楼別邸というところに行って劇団隆清群による新春特別公演「愛の雨傘」を観ることにしていましたが、体調不良によりこれまたパス。
 夜遊びをほとんどしないことになってしまった今回の旅は極めて異例。むしろ夜こそが楽しみで沖縄にやってくるおれなのに・・・。
 首里金城町の石畳道をくだると欄干にシーサーをのせた金城橋が見えてきます。この橋からの急なのぼり坂が識名坂で、方言では「シチナンダビラ」とよばれています。
 かつての識名坂は、首里からの古風な石畳道がつづき、夏には松並木が心地よい風を運んでいました。
 むかし、坂の上の識名村に仲のよい夫婦が住んでいました。嫁は村いちばんの美人ではたらきもの。夫の畑しごとを手伝いながらも豆腐をつくり、首里の市場で売り歩いていました。
 さて、金城橋の近くには、この美しい嫁に横恋慕する男が住んでいました。男はどうしようもない放蕩息子で、酒びたりの毎日を送っていました。
 ある日、豆腐が売れのこり、帰りがおそくなった夕暮れどきのことでした。識名坂で嫁のぞうりの鼻緒がぷっつり切れてしまいました。
「ああ、どうしよう」
 嫁がぞうりを手にしてこまっていると、そこへ放蕩息子がやってきました。
「さぞおこまりでしょう」
 男は酒のにおいをプンプンさせながら、ぞうりの鼻緒を直してあげました。
「ご親切にありがとうございます」
 嫁は腰をかがめて礼をいい、家路を急ぎました。
 ところが、すぐに男が追いかけてきて嫁をよびとめました。
 男は、今日こそは声をかけようと待ちぶせしていたのです。
「実は、前からあなたとお話しができればと思い……」
 嫁は男のことばにおどろき、
「わたしには夫がおります」
 といって、男の話をさえぎりました。



 あたりは暗くなり、いつのまにか人影が消えていました。嫁は急にこわくなり、豆腐の入ったタライを小脇にかかえて小走りにかけ出しました。
 そのようすにカッとなった男は、すぐに嫁に追いつくと、松の木の後ろに引きずりこんで手込めにしたのでした。ことを終えると、男はなにもいわずにその場を立ち去りました。
 売れのこった豆腐がくだけ散っていました。嫁は泣きながら乱れた着物を直し、しばらくはぼんやりとたたずんでいました。が、そのうち坂下へと歩き出し、涙にぬれた顔で金城橋から身を投げたのでした。
 なにも知らない夫は、いつまでたっても嫁が帰ってこないので、松明を灯して識名坂までむかえに行きました。金城橋までやってきた夫は、そろえて置いてある嫁のぞうりを見つけ不安な気持ちにおそわれました。
「ああ、どうしてこんなことに」
 夫は、川に浮かぶ嫁のすがたに落胆し、自分も松の木で首をつって死んでしまいました。
 それからというもの、夜になると、識名坂と金城橋の両方から青白い遺念火が出るようになりました。二つの通念火は、ゆらゆらと近づきひとつになったり離れたりしながら、坂の途中でいっしょになって消えていくのでした。
 そんなある晩のこと、酒に酔ったあの男が、夜風に吹かれながら気持ちよさそうに金城橋をわたっていました。
 すると、とつぜん遺念火があらわれ、嫁の幽霊が橋のまん中にぼうっと浮かびあがりました。おどろいた男は欄干によりかかろうとしてよろけ、まっさかさまに川に落ちておぼれ死んでしまいました。
「おなじ場所で三人も命を落とすとは……⊥
 立てつづけに起きた災難に、ふしぎなこともあるものだといって世間の人々は首をかしげたそうです。
 識名坂の遺念火は、戦前までよく見られたといいます。古老の話によると、この青い火の玉は死者の霊魂であり、非業の死をとげた男女が一組の火となって宙をただようのだそうです。

(文・絵とも「おきなわの怪談」(沖縄文化社刊)から引用させていただきました。)


 さて、先に沖縄の怪談「識名坂の遺念火」を紹介したのは、実際に自分も識名坂に行ってみたからなのです。

 今では識名坂周辺もすっかり住宅地となり、遺念火など現れようもありませんが、王府時代は南に抜ける主要な街道だったという風情は残していました。

 まず、上り口にある金城橋。その手前にちょっとしたスペースがあって、由来を示す石柱があったので、引用してみます。

 『金城橋は、琉球王国時代、首里・識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋である。橋の創建年は不明。1677年に木橋から石橋に建て替えられた(「金城橋碑文」建立)が、1809年の洪水により損壊。翌年元の位置から少し下流に移し再建され、橋の南側に「重修金城橋碑文」の碑が建立された。1945年の沖縄戦により橋も破壊されたが、現在残っている碑の残欠は、1985年橋の改修の際に、橋の北側に移設されたものである。
 識名平は金城橋から識名に至る坂のことで、呼称は方言の「シチナノヒラ」が転訛して「シチナンダ」となり、さらに坂の意味を加え「シチナンダビラ」ともいう。かつては松並木の続く石畳の坂道で、王室の別邸「識名園」に通じ、また、首里から島尻方面に至る幹線道路の一部でもあった。
 その他、この付近は、かつて金城川を遡って船の往来があった頃、宮古の人々が、海上安全を祈願して川岸の洞くつに魚の形を刻んだという伝承から「魚崎原(イユサチバル)」という地名や、川に身を投げた夫婦の怨念が人魂となって、坂の上から川岸まで漂うという「識名平の遺念火」の伝承が残っている。』

 道は、狭くてかなりの急坂。馬車や荷車で荷物を運んだ時代ならばさぞかし難所であったことでしょう。
 また、その狭さと急坂のために現代のタクシー運転手ですら通るのを嫌う人がいるという話を聞いたことがあります。
 息を荒くして上って行くと繁多川公園という公園があったので、そこで一休み。

 首里城から金城石畳道を下りてきて寒川通りに出たところに金城橋があり、そのまま南方向にまっすぐ進む道が識名坂です。
 マニアックな方はどうぞ行ってみてください。

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 識名坂の途中にあったチョンチョンガーをご紹介。

 このあたりは繁多川という地区ですが、その自治会は地区に存する文化財の保護・活用に熱心なようで、あちこちに繁多川自治会名の繁多川「字指定」文化財の看板が見られます。これはいいですねぇ。

 その看板によると、チョンチョンガーは次のとおり。

 『山側の土手からちょんちょんとしたたり落ちる水が溜まってできた井泉であることから、この名が付いたようである。シチナンダビラ(識名坂)の途中にあって、真珠道を往来した人々の喉を潤した井泉であった。チョンチョンガーは「球陽」には「真川」と記載されている。戦後の宅地造成により井泉は消失した。』

 古きものが軽んじられ、失われていったことへの悔恨がにじみ出ていますね。

 ちなみに「真珠道(まだまみち)」についても繁多川自治会の看板がありましたので、引用しておきます。

 『 繁多川字指定文化財 真珠道(まだまみち)
 首里城守礼門東南脇の石門(いしじょう)を起点として金城町、シチナンダビラ(識名坂)、メーミチー(前道)、ムラグヮー(村小)、シードゥビラ(勢頭坂)、識名を経て、真珠湊(国場川河口、那覇港)にいたる約4キロの石畳道である。この真珠道の建設は、今から487年前尚真王代(1477~1526)の重要な土木事業であった。 平成21年11月17日 繁多川自治会』
 沖縄旅も最終盤。
 今回は元気が出ず、終始不活発なまま旅を終えるようですが、搭乗便までやや時間がある。
 なのでまず、小禄のジャスコに寄ってみます。
 この日は1月11日、旧暦の12月20日にあたり、沖縄のムーチー(鬼餅)なので、ここで紅いもムーチー(598円)をお土産に購入。

 その後、レンタカーの返却場所が豊見城市豊崎なので、まずは豊崎海浜公園に行って、日光浴がてらの~んびりと散策。ここはまだ新しいためか、人がほとんどいないのがいいです。

 そして、近くにできたTOMITON(2007年8月開業)というショッピングモールにもお立ち寄り♪
 すごい人、人・・・。沖縄ってやっぱり子どもが多いというか、平均年齢が他の地域よりも低いのだなということが、こういうところで実感できます。

 そのとみとんには「沖縄そば博」というフードコートがあるので、旅のフィニッシュはそこで沖縄そばを食べて帰ろうと考えていたのですが、若い家族などで激混みでしたのであっさり断念。たくさんの人を見るとビビるタイプなのだ。

 で、結局は、その脇にあって比較的余裕のある大戸屋豊崎店で、今回の沖縄最後のメシ、ということになってしまいました。




 真鱈と野菜の甘酢あん定食790円+ほうれん草のおひたし160円。
 季節メニューとはいえ、大戸屋なのでどこでも食べられるメニューです、はい。
 蓮根、ジャガイモ、ごぼうなどが主たるパーツ。ほうれん草はシラスが載って付加価値感高し。

 以上をもって、2011年1月に敢行した沖縄旅のお土産話は、おしまいです~。めでたしめでたし~♪


 2009年5月2日、徳之島文化会館で開催された薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年記念事業の、講演とシンポジウム「未来への道しるべ」の一部始終を記録したもの。

 平成21年は、1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻して400年の節目の年。以降琉球は王国の形を残したまま薩摩藩の支配下に組み込まれ、奄美諸島は琉球王国から切り離されて薩摩藩の直轄領となりました。この侵攻過程では大島各地や徳之島でも激しい戦いがあり、大勢の島人が亡くなっているのだそうです。
 そこでこの記念事業は、当時の時代背景と薩摩藩奄美琉球侵攻、その後の薩摩と奄美・琉球、そこから発生した様々な功罪などを、歴史を紐解きながら明らかにし、振り返り、見つめ直すことで、徳之島を深く理解し、その個性を生かして魅力あふれる島を創っていくための未来への道しるべとしたいとの趣旨で計画されました。

 基調講演は、奄美郷土研究会の弓削政己氏。
 その後のシンポジウムは、徳之島高校教諭の吉満庄司氏のコーディネートにより、弓削政己氏、鹿児島大学教授の原口泉氏、琉球大学名誉教授の金城正篤氏、琉球大学教授の高良倉吉氏、徳之島郷土研究会の幸多勝弘氏の面々によって行われました。

 ほぼ全編が語り口調で記録されており、これは会場で聴いたならさぞ興味深いものだっただろうなと思わせるものです。
 薩摩藩の琉球侵攻の経路とか、「秋徳の戦い」をはじめとした古戦場の位置関係などについてはとても詳しく、新鮮味のある話でしたし、それぞれの研究立場からのアプローチがよくわかり、参考になりました。

 当日配布されたレジュメもついて、こういう意義ある記念事業を追体験できる冊子を出版した沖縄大学はエライと思う。
 そういう試みが集積されていくことで、地域文化はより厚みを増すのですから。


 『沖縄の終戦は、1945年8月の、天皇の玉音放送よりも早い。3月、米軍の沖縄上陸と各地への進攻とともに、本土に先んじて沖縄での日本軍は敗北する。それを目の当たりにした沖縄の住民は、もはや玉音放送を待たずして、言葉なくしてその結末を悟っていた。
 上陸後の米軍は、その沖縄で、住民を隔離・保護するために、収容地点を構築したのだった。それが、日本軍の捕虜とは別の、「民間人収容所」と呼ばれるものだった。沖縄では期間の長短はあれ、終戦前後の一時期、ほぼすべての住民が我が家、我が村を離れ、この鉄条網で隔離された場所で暮らした。沖縄北部の名護市、羽地・田井等地区は、米軍上陸後、もっとも早い段階でその収容所が設置された場所として伝えられていた。
 その地区の小学校の校長をして「収容所のことを覚えている者がいない」と言わしめる不可解さは、のちに私自身が身を持って体験することになる。それもむべなるかな、本土からきた「やまとんちゅ」と呼ばれるよそ者でなかろうとも、近くて遠い話になりつつあったのは間違いなかったのだから。』 ――「プロローグ」から。

 戦後の沖縄は収容所から始まったわけですが、そう言われてみるとたしかに、当時の収容所の様子をつまびらかにした書物は少ないような気がします。
 そのあたりを著者は、さまざまな人たちからの聞き書きや、時にはアメリカの図書館等の資料の物色までして、ジグソーパズルを組み立てるようにして、当時の片鱗を見出そうとしています。

 収容所というと沖縄本島のそればかりを連想していましたが、遠くはサイパン、テニアン、現在のフィリピン領の島々まで収容所の痕跡を探しに行ったりしていて、その行動力に感服されられました。

 全5章で、「太平洋の収容所」、「カンパンの村」、「もうひとつの特殊部隊」、「それぞれのバックナー日記」、「涙の道」。

 『「収容所」をまたぎ、人々が何を見、何を得、そして何を感じたのか。意外にもその現実の記憶は、そのほとんどが我が子我が孫にさえ語られざるまま、果てしない時間の彼方に霧消し続けている。』
 ――と著者は「エピローグ」で嘆いています。

 そして最後の「謝辞」では、我が子に対して語る部分が意味深。
 『残念ですが、父さんはもう駄目です。どうやら、すべてが限界のようです。・・・父さんはこれを以って新しい人生を歩みます。』と。
 このようにすばらしいルポルタージュをものするまだ30代の気鋭に、いったい何があったというのでしょうか。・・・心配です。


 酒は大好きで飲むのですが、酒に関する本というのはあまり読みません。ということでこの本を読んで知ったのですが、山同敦子という方はこの道の第一人者のようです。
 2002年発行の単行本「旨い! 本格焼酎~匠たちの心と技にふれる旅」を加筆修正し、その6年後の2008年に同じ蔵元を再訪した記事を加えて編集されたもの、ということのようです。

 登場する蔵元は、鹿児島県が中心で、我が守備範囲である琉球弧に関しては、喜界島の朝日酒造の喜禎浩之さんと、那覇市小禄の宮里酒造所の宮里徹さんの二人だけ。
 なんだよぉ、表題に泡盛って書いてあるじゃない、なので期待しちゃったんだけどなぁ・・・。

 そういうわけでちょっと期待はずれでしたが、この機会に焼酎についていい勉強をさせていただきましたかね。
 かつては臭い酒の代名詞だった芋焼酎も今では洗練されて、いいものがたくさん出ているようです。読んでいるうちにだんだん呑みたくなってきて、ひとり舌なめずりをしたり生唾を飲んだりしてしまいました。

 えーと、泡盛やその製造元などについて詳述した最近の本って、あるんですかね。じつは、そーゆーのが読みたかったのデアル。
 このごろどうも、物忘れが激しい。齢はとりたくないものデアル。
 それでデスネ、ああそうだ、こんどヒマができたらあすこに行きたいなぁ、アレを見てみたいなぁ、コレをやってみたいなぁと思うときがあるのだが、実際ヒマになってみるとその、やりたかった、見たかったことども自体を忘れてしまって、あれれ、何をしようと思っていたんだっけ??ということになるのですな。
 そーゆーことってないですか? ・・・ないデスカ。そうですか。まぁね、チミはまだ若いのだろうからねぇ・・・。人間、齢を重ねていくうちに、いずれそーゆーことでコマッタということになるかもしれないから、ココロしておくといいと思いますですよ。

 ということで、このブログを雑記帳代わりにして、アレを見たい、そこに行きたい、というものを思いついたときにすぐさまメモっておこうというのがこの新カテゴリー。
 それでいつか、それらを束ねて、実際に体験しちゃろーじゃねーのという魂胆なのです。

 「いちぶさむんみいぶさむん」は、沖縄地域語。行き欲さむん、見い欲さむん――行きたいところ、見たいもの、ですな。