日清戦争の時に誕生し、沖縄初の外交官となった田場盛義。彼には、静、鶴、英という三人の妹がいました。三姉妹は、兄・盛義を愛し、兄の志を支えながら、沖縄に吹きつづけた苦難、国難という逆風に果敢に立ち向かって生き抜きました。
 そんな沖縄の一家族の日々を、その時代の様子とともに聞き書きしてまとめたのがこの紀行文芸ノンフィクションです。

 1928年当時、那覇の大門前電車通りにあったという国吉医院。この院主の娘たちが主人公です。
 著者がこの娘の一人と出会ったのは2003年秋、中国の東北部を走る汽車の中でした。
 著者はロシア語の専攻で、「中国東北部の旅」ツアーに参加して偶然、子供の頃、家族と満州で暮したことがありその思い出を手繰ろうと同じツアーに参加していた国吉鶴と出会ったのです。
 これがもとで、鶴が口ずさんだ歌を心に刻み、かれらの生い立ちと時代の記憶をたどる著者の長い旅が始まったのです。

 沖縄にはおなり神信仰が今でも色濃く残っています。
 おなり神とは、妹(おなり)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰で、兄(男性)の守護者としての妹(男性の血族の女性)を神格化して呼称するものです。民俗学上、伊波普猷が発表し、柳田國男、折口信夫らが日本に紹介しました。

 とりたてて著名でもなく、特別な人生を歩んだわけでもない市井の人々に着目して、その人生に深く入り込んでみる、という類のルポルタージュが大好きで、こういうものは一も二もなく読みたい。
 この場合、主人公を取り巻く人々や時代環境などに知識がなかったりする場合が多いので、そのあたりをまず的確に読み解いていくことが肝要だったりします。
 この本の場合も同様で、多数登場する人間関係の綾を読み解くまでは大変でしたが、それをクリアすれば非常に興味深く読み進めることができました。

 あなたから見たあの高齢者は、ただのくたびれた、死が迎えに来るのがもう間近のような人かもしれません。
 でも、その人には、いや、その人にも、何十年と積み重ねてきたその人の人生という、何にも代えがたいものがあるはずです。
 若いあなたですが、そういうことにも少しでいいですから想像力を働かせてみてはいかがでしょう。
 そうすることによって、いままで見えなかったものが見えてくるかもしれませんし、人に対する接し方も変わってくるのではないでしょうか。
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 オキナワフリークの心をぐにゃぐにゃにしてしまうような空、海、花・・・。そんなたまらない写真が満載のグラフィック誌です。
 このところいろいろとあって沖縄から遠ざかっている身としては、1ページ1ページに動揺することしきり。なぜおれはこんなところで手をこまねいて写真集などを眺めているのか。ここは一刻も早く沖縄に向かう算段をし、すべてを投げ打って沖縄に旅立つべきではないか。――などと、考えはあらぬ方向に向かってしまいます。

 著者は沖縄について、次のように話しています。
 沖縄ブームは過熱する一方で、沖縄にとりつかれてしまった人々は多いが、一方で、そんな愛情への拒否を沖縄から感じるときがある。それはどうやら、一方的な知識の欠如に由来するようで、沖縄を語る際には、欠かせない知識や礼節が必要なのではないか。そして、沖縄の特異な歴史や価値観、習俗などに想いを致さない「愛情の告白」は、片道通行の論理に過ぎず、ウチナーンチュの耳には空疎に聞こえるだけなのかもしれない、――と。

 そのとおりだと思う。沖縄に受け入れられたいのならば、好きだ好きだ、だけではなくもっと理解を深めなければ、それはただの軽薄と言わざるを得ないのかもしれません。

 この本は、沖縄への一途な愛情を、ウチナーンチュに快く受け取ってもらうために、ナイチャーとして知っておきたい沖縄のいくつかの物語をソフィスティケートして紹介したものです。
 取り上げられている主なものは、沖縄の世界遺産、紅型・琉球ガラス・漆器・織物などの伝統工芸、琉球料理、アメリカ世の歴史や名残り、台湾との交流にかかわりが深い場所・人など。
 なんてったって写真が秀逸ですから、それらにうっとりしながら、私たちの理想郷との相思相愛を深めて行こうではありませんか、みなさん。

 ・・・最後が鳩山由紀夫の演説風というのがクサイですが、そーゆーことです。


 NHKの番組「テンペスト」にも登場していた琉球王国最後の国王は、尚泰王。その四男である尚順(男爵)は明治時代きっての粋人として有名でしたが、尚順の家が松山御殿です。
 尚順は、書画骨董、園芸、食文化などに造詣が深く、晩年は建築家の伊東忠太、画家の藤田嗣治、民芸家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎などの大和からの珍客のもてなしを楽しんだといいます。

 著者の知名茂子はその尚順の子で、首里桃原町にあった松山御殿で16人兄弟の9番目として生まれ、秘書や農夫、乳母など大勢の人たちとともに暮らしていたそうです。
 1917年生まれといいますからすでに90歳超。しかしながら、第3章「琉球料理への誘い」に収められた2009年4月のパネルディスカッションでは、パネリストの一人として若々しい表情を見せています。

 また、当書の監修を手がけた尚弘子は、尚順の15番目の子・尚詮の妻で、琉球大学名誉教授。ガリオア留学を経験しており、この人の名は「ガリオア留学生の足跡」という本で目にしています。

 戦前の御殿での食卓や日々の暮らしのできごとを、娘である著者が綴った一冊。
 とはいうものの、5章構成のうち3つが琉球料理を中心とした内容のもので、御殿での年中行事や思い出の料理、「松山御殿の食卓」レシピの再現などとなっており、「御殿の日々」がうまくつかみとれるかというと、そこまでのものにはなっていないような気がします。

 「松山御殿の日々」、「松山御殿の食卓」、「琉球料理への誘い~尚順男爵の時代」、「松山御殿の語彙ノート(小高恭)」、「松山御殿の料理レシピ(西大八重子)」の5章。

 松山御殿の日々をもっと詳しく知るには「松山御殿物語 明治・大正・昭和の松山御殿の記録」(2002年「松山御殿物語」刊行会編 ボーダーインク刊 3,150円)があるようですが、自分にとってはちょっと高いです。


 沖縄、奄美にルーツを持つ東京生まれの二人の少女が主人公。ふとしたことから互いの島への侮辱が始まり、これがもとで絶交状態に陥ります。しかし、高3の夏、超パンクな島の民謡をきっかけに、二人の間に大きな変化が生まれます。

 島袋麻利は沖縄二世。もう一人の主人公である奈保子の影響で、ビジュアル系バンドLUNA SEAのファン。軽音楽部のマネージャーで、元部長であり元彼の先輩から嫌がらせを受けています。
 一方の昇奈保子は、沖縄出身の祖父から奄美のシマウタを習う奄美三世。民謡コンクールで入賞するほどの腕前ですが、その一方でコスプレ趣味のビジュアル系。熱愛するビジュアル系ギタリストが奄美のウタシャ朝崎郁恵の民謡CD制作に参加したことで、嬉しさを隠し切れません。

 いやはや、沖縄・奄美ファンとして嬉しいのは、沖縄・奄美双方の民謡が出てくるわ出てくるわ。この作品の底流で、沖縄・奄美のこころを静かに表現しているような感じ。
 のっけから朝崎郁恵のCD「うたあしぃび」が登場し、その中の「塩道長浜」に例のギタリストがクレジットしている――ということから始まって、「かんつめ節」、てるりんの「道具ぬ美らさ」、「六調」、「白雲節」、「行きゅんにゃ加那」などが登場します。

 ビジュアル系のロックとシマウタという似ても似つかないジャンル同士の融合が新鮮であり、その背景にある本土でのマイノリティとしての沖縄・奄美の人々の苦悩があり、若さゆえの残酷さなどもいい具合にミックスされて、独特の読み応えになっています。

 ほかに「ボリビアのオキナワ生まれ」。
 ウェーヴィーで非常に魅力的な表紙装画は、菅野裕美(かんのひろみ)という方の手によるもの。表紙画の秀逸さはちょっと他から抜け出ていると思う。
 全145ページのハードカバーで、カギカッコの会話が多いということもあって簡単に読了。いずれの作品も予想以上に楽しめました。


 基地問題から食品偽装、北朝鮮のミサイル問題まで、日々のニュースに「まーちゃん流」の視点で鋭く突っ込む琉球新報の人気連載を単行本化したもの。
 世知辛い世の中を笑い飛ばす前代未聞の一冊――とのことです。

 小波津正光は、沖縄出身のお笑い芸人。比嘉崇と漫才コンビ「ぽってかすー」を結成し、沖縄県内で活動した後、東京へ活動拠点を移し、2005年、企画・脚本・演出を自ら担当した舞台「お笑い米軍基地」で注目を浴びました。2006年からは単身沖縄に戻り、テレビ、ラジオ、舞台で活躍中です。

 2007年4月から琉球新報の第2・第4水曜日の「りゅうちゃんクラブ」で「お笑いニュース道場」を執筆。2010年9月までに84本を書き、その中から40本を選んで掲載したというものです。

 しかし、新聞という天下の公器でここまでやるのか? ダイジョウブなのか?? というほどのノリ。それはたとえば、こんな感じです。

 2010年5月、普天間基地問題で来沖した鳩山首相に関連して――。
 普天間第二小学校で対話集会なんて開かずに、せっかくのゴールデンウィークだったんだから、鳩山さん自身がサンエーなんかの琉神マブヤーショーに登場したほうがよっぽどウチナンチュは喜んだと思うさ。“ハブデービル”ならぬ“ハトデービル”として。「クルックゥ! 私は国民の期待をいとも簡単に裏切るハトデービル様だぁ! クルッククゥ!」なんてね。・・・そしてマブヤーショーの後には、鳩山さんがお母さんからもらった数億円が抽選で当たる大抽選会、その名も“ハト6(ハトシックス)”をやるわけさ! こりゃ盛り上がるわ~。・・・
――てな具合。

 ほかに、「祖先もビックリ!シーミー代行」、「沖縄版・流行語大賞は?」、「中継!格闘技風書初め大会」、「投票率アップの特効薬は?」、「エイサー全国区への道」、「これならいける?相撲改革」、「政治も外国から助っ人を」などなど。

 書くほうも書くほうですが、それを紙上に掲載し、そのうえ本にまでしてしまう琉球新報のド根性ほうにむしろびっくりです。あっぱれ!琉球新報社。
 2011年1月に訪問して以来、しばらくお邪魔していない沖縄。
 だいぶ前のことになってしまいましたが、そのときに撮った写真をネタに、沖縄に関する雑談を、そこはかとなく書き綴ってみたいと思います。

 その初回は、七つ墓。
 七つ墓は、那覇のゆいレール美栄橋近くにある小山にあります。
 宿泊した東横イン那覇美栄橋駅の部屋から撮影してみました。

nanatsubaka 201101

 かつて、七つ墓のある一帯は十貫瀬(じっかんじ)といわれ、現在の久茂地川は海で、ちょうど美栄橋駅あたりには長虹堤(ちょうこうてい)が架けられていたはずです。
 おそらくは、今の沖映通りはガーブ川の流れが河口に向かっていた場所だったのではないでしょうか。

 「おきなわの怪談」(徳元英隆著、沖縄文化社刊、2010)に「十貫瀬の七つ墓」という怪談がありましたので、長くなりますが引用します。

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 十貫瀬の七つ墓にまつわる幽霊話は有名ですが、七つ墓がゆいレール美栄橋駅近くの丘にあることはあまり知られていません。また十貫瀬の地名は、十貫の銭を岩に置き忘れた人が何年かしてもどってみると、そのままのこっていたという伝説に由来します。
 むかし、久茂地川にかかる美栄橋のたもとに、老婆がほそぼそと営むマチヤ小(雑貨店)がありました。
 ある夏の夕方のこと。ひとりの若い女がマチヤ小にやってきて、店の前で立ちつくしていました。このあたりでは見かけない顔の女でした。
「なにか買うのかねー」
 店の奥から老婆が声をかけると、女はそうっと入ってきてうつむいたままで答えました。
「おばあさん、マチバ小をください」
 マチバ小とは、小麦粉を練り、松葉状にして油で揚げた駄菓子ことです。老婆がそのお菓子をつつむと、女はまん中に穴の開いた一厘銭をわたして店を出ていきました。
 やがて日が沈むと、老婆は店をしめて、いつものようにその日の売り上げを数えました。すると、お金入れた箱から黄土色の丸い紙が出てきたのです。
 それは、旧盆などで燃やされるあの世のお金、「ウチカビ(打ち紙)」に打ちつけられた銭型を切りぬいたものでした。
「子どものいたずらかな?」
 そう思った老婆は、ウチカビのお金を取りのぞきながら、近所のわんばく妨主たちの顔を思い浮かべました。
 ところが、あの若い女があらわれると、その日にかぎってウチカビのお金が出てくるのです。ふしぎに思った老婆は、あの女が何者なのかたしかめることにしました。
 ある日、いつものようにやってきた女は、よく見ると血の気のない青白い顔をしており、マチバ小をうけとる手も透き通るような白い色をしていました。
 老婆は女のあとをつけることにしました。
 マチヤ小を出た女は、なぜか十貫瀬の七つ墓へと向かい、墓口の開いた墓にすがたを消しました。老婆が耳をすますと、木の葉のそよぐ音にまじって、墓の中から赤ん坊の泣き声がとぎれとぎれに聞こえてきました。
 老婆は声も出せずに腰をぬかし、へたへたとその場にすわりこんでしまいました。おそろしさのあまり、どうやって家に帰ったのかさえ思い出せませんでした。
 夜が明けると、老婆は近所の若者たちをよび集めて、夕ベのできごとをくわしく話して聞かせました。
「まさか、とても信じられない」
「悪い夢でも見たのでは?」
 若者たちは顔を見あわせながら、そんなばかなことがあってたまるかと思いました。
 けれど、とにかく墓の中を調べておくれという老婆のたのみに、こわいもの見たさもあって、七つ墓まで出かけることにしました。
 七つ墓は、昼なお暗い草木の生い茂った崖下にありました。
 おそるおそる墓の中をのぞくと、なんとあの女の死体が横たわり、生まれて間もない赤ん坊が抱かれたまま死んでいました。そして二人のまわりにはマチバ小が散らばっていたのです。
「アイエーナー(ああ、なんてこと)」
 老婆はあまりのむごさにさけび声をあげ、思わず手を合わせていました。
 若者たちが女の身元を調べると、身ごもりながら病で亡くなった一人の女が浮かびあがりました。女の夫は、いろいろと手をつくして看病したようですが、病は悪くなるいっぽうだったそうです。
 ある日、女は意識不明の重体となり、それからずっと寝たきりになってしまいました。看病に疲れた夫は、どうせ助からない命だとして墓の中に置き去りにし、そのまま行方をくらましたのでした。
 ところが息を吹き返した女は、命ののこり火を燃やして子どもを生み落としました。けれど墓の中ではどうしようもなく、二人ともすぐに死んでしまったのでした。
 老婆が聞いた泣き声は、赤ん坊がまだ生きていたからで、母親よりも少しは長く生きのびていたのでしょう。
 女の幽霊は、墓場で生まれた赤ん坊をなんとか育てようとして、夜な夜なマチバ小を買いにきていたのです。
 ことのなりゆきを知った老婆たちは、女と赤ん坊の供養をおこない、心をこめて成仏を祈願しました。それからは、女の幽霊が二度とあらわれることはなかったそうです。

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 当時は“昼なお暗い草木の生い茂った崖下”だった七つ墓ですが、それもいまは見る影もなくあちこち削り取られています。
 那覇の地形は埋め立てや先の戦禍によって大きく様変わりしているのですね。
asatohachiman 201101

 又吉通り(崇元寺通り)の北側の小高いところにある安里八幡宮にも行ってきました。
 ここを訪れるのは2回目。1回目はバイクで那覇市内を走り回っているうちに迷い込んだのですが、そのときはこのお宮様の由来などを知らなかったので、ほほう、こんなところにもお宮が・・・などと素通りしたものでした。
 しかし、いろいろと那覇の歴史を渉猟するうちにその由来を知り、歩いて行けることもあって、再訪したのでした。

 「玄松子の記憶」というホームページには、安里八幡宮について以下のことが記載されています。

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 沖縄県那覇市にある。モノレール安里(あさと)駅の北500mほど。西隣が保育園、というより保育園の敷地内にあるような感じ。
 狭い道路の曲がり角に階段があり、階段上に南向きの鳥居。正面に沖縄独特の瓦をのせた社殿がある。社殿の前には、平成八年の復元記念碑。
 琉球八社の一つ。
 琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮のこと。
 当社は八社の中で唯一の八幡宮。他の七社は熊野権現が祀られている。
 社伝によると、天正年中第六代国王尚徳王の時代に、鬼界島征討に際し、出現した老人の言葉に従い、弓矢を射て鳥を落とし、犬を先兵として出陣した。
 海上に小鐘が浮かんでいたので神霊として、弓を射た場所に祀ったのが当社の始めだという。

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 また、「沖縄拝所巡り300」(比嘉朝進著、那覇出版社刊、2005)に安里八幡宮のことが載っていますので、引用してみます。

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 この宮の縁起は、喜界島が朝貢しないので、尚徳王は遠征に向かうべく安里村を通りかかったとき、鳥が飛んでいて、王は「わが兵に利あらば、この鳥を射落とせしめよ」と念じて矢を放ったところ、鳥は射落とされた。
 やがて喜界島を平定したので、鳥を射落とした地に八幡宮を建て、隣接して寺を構え神徳(しんとく)寺と名づけた。
 八幡大菩薩とは、日本で古くから信仰されてきた八幡信仰に、神仏混交として783年、大菩薩の号が付けられた。平安初期に祭神の応神天皇・玉依(たまより)姫・神功皇后が定められたといわれる。八幡大菩薩は護国・武の神である。
 安里八幡宮には、本地仏(本体となる仏)として阿弥陀・釈迦・勝軍地蔵像(あるいは仏画)が安置されていたと思われるが、置県後の神仏分離策で取り払われたのだろうか。宮は荒れはて、昭和初期には雨漏りのするまま放置されていた。平成8年に再建、例祭は旧暦9月9日。

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 写真の左脇が幼稚園になっていて、園児たちの声がにぎやか。
 八幡様もほほえましく見守っていることでしょう。
minoya 201101

 安里八幡宮から徒歩で丘越えをして、おもろまちへ。
 で、天久りうぼう楽市にテナントとして入っている「みの家」にふらりと入って、野菜そば580円を。
 紅しょうがの赤が鮮やかで、いい見た目でしょ。
 沖縄そばはうまいのだけど、フツーのそばだと、日頃ギトギトラーメンなんかを食べている人間にとってはやや淡白に感じてしまう。なので野菜そばをたのんでみました。
 たっぷりの野菜炒めに鮮やかな紅生姜。いいですねぇ。
 うめぇうめぇといただきました。
 手打ちをうたっていますが、ホント?
 嘉手苅林昌の唄三線なんかが流れていて、あぁ、沖縄に来たんだなぁと・・・。
nenes 201101

 その後、おもろまちの大規模店舗にある店々をジャストルッキングして、那覇新都心メディアビルにあるNHKを覘く。
 この日はNHKでネーネーズの公開生中継があると聞いたものですから。
 でもなんだか気恥ずかしくなったので、ホテルにバック。

 いや、恥ずかしいとかそーゆーことではなく、この日19時30分からNHK沖縄放送局が制作している「沖縄きんくる」という番組で「照屋林助と八重山古謡~息子・林賢が足跡を辿る~」というのをやるというので、それを観るために戻った次第。(言い訳だろ)

 いやいや、それだけではなく、その直後の20時から、同じNHKで「沖縄の歌と踊り」というのがあって、それにネーネーズが生出演するのだな。
 おれって今、沖縄にいるわけだから、なにも公開の場にいなくても、テレビをつければ沖縄オンリーで中継されるネーネーズを見ることができるのだな。(支離滅裂)

 はい、テレビでは左側からてるみ、なーぎー、まゆこー、まきちゃんの4人が元気にうたっていましたねー。
   sukitoutta.gif   nahaonna.gif

 ある本を読んでいて、その参考文献として載っていた「なはをんな一代記」がどうしても読みたくなったので、ウェブ古書店で検索。
 すると、あるではないですか! 古書店めぐりをせずとも容易にほしい古書が入手できるなんて、しかもこんなに安い料金で買えるなんて、シアワセだよなぁ。

 で、ついでとばかりにいろいろ検索してみると、おぉ、たくさんあるぅ~!!

 ということで、買い漁った古書は次のとおり。

 沖縄言葉(ウチナーグチ)ちょっといい話    藤木勇人    双葉社         1365(496)
 沖縄の怒り―コザ事件・米兵少女暴行事件  伊佐千尋    文春文庫         480(251)
 オキナワの少年                   東 峰夫    文春文庫         360(550)
 なはをんな一代記                  金城芳子    ほるぷ          不明(338)
 沖縄の夜飲み夜めし                及川真由美   編集工房 東洋企画 1000(251)
 沖縄おばぁに会える店       下川裕治、仲村清司ほか  ゼネラル・プレス   1365(370)
 透きとおった魚“沖縄南帰行”           大竹昭子    文藝春秋社      1500(251)
  ※ 数字は発売当時の価格。( )内は送料込みの今回購入価格です。

 「なはをんな一代記」を綴った金城芳子は、伊波普猷らの感化を受け、大正デモクラシーの思潮の中で、近代女性としての自我に目覚め、沖縄女性の地位向上ため献身。戦後は「東京ひめゆり同窓会」や「東京沖縄県人会」の活動などをとおして、沖縄の若者たちの育成につとめてきた人です。
 「オキナワの少年」は、大城立裕の「カクテルパーティー」とともに読みたかった芥川賞受賞作品。「カクテルパーティー」は未入手です。
 また、「透きとおった魚」は、発売当時の1992年、買おうかどうか悩んだ一冊。沖縄本コレクターになった今となっては当然購入です。

 新刊書とともにこんなに買って、果たして読めるのか?!というのが課題。
 なんのために買ったのか。飾っておくためでもないし、買うことが目的化しているわけでもない。だったら読むしかないでしょ。
 未読のストックは50冊近くあるけど・・・。
syurikannondo 201101

 翌日は、那覇の街から首里へと歩いて行ってみようという企画を実行。昔でいう「首里上り」というヤツを自分なりに再現してみようと思ったワケですな。

 美栄橋、沖映通りから牧志御嶽の丘を越えて蔡温橋に出て、安里の三叉路から西へ。
 松川あたりからの登りを、このへんは馬車ムチャーは大変だったろうなぁなどと思いながら進み、観音堂入口からかつての綾門大道(あやじょうふうみち)のほうへ。首里観音堂で一休みです。

 首里観音堂は、首里拝み(すいうがみ)に欠かせない祈願所で、かつては国王はじめ聞得大君らが旧暦1、5、9月の吉日にこの観音堂や弁財天堂、弁ガ嶽、末吉宮、識名宮などを参詣し、国家安泰を願ったということです。

 正式の寺号は慈眼院(じげんいん)。万歳嶺とよぶ丘にあって、視界が開け、海が望めます。
 渡航無事を祈願する寺として、「上り口説」に
  ♪ 旅ぬ出立(いじたち) 観音堂 千手観音 伏し拝でぃ ・・・
と謡われています。

 観音堂にあった「万歳嶺跡」の説明によれば、次のとおり。

 万歳嶺(俗称「上ナチジナームイ」)は首里台地の西端に位置する丘のことで、かつては松が生い茂り、頂上から美しい眺望が開けていたため、「万歳嶺夕照(せきしょう)」と詠われた首里八景の一つであった。
 時の国王尚真がこの地に遊覧した際、王の治世、国の繁栄を祝う万歳の声がわきおこったことから、1497年、丘の頂上に「万歳嶺記」の碑を建立し、この丘を「万歳嶺」と称した。
 1617年、後の国王となる尚豊が国質(人質)として薩摩に赴いた際、父尚久は息子の無事な帰国を祈願。同年尚豊が無事帰国したので、翌1618年、尚久は万歳嶺の南斜面に千手観音像を奉じ、観音堂と慈眼院を建立した。
 その後、観音堂は旅の航海安全を祈る場所として人々の信仰を集めていたが、1945年の沖縄戦で消失、「万歳嶺記」の碑も破壊された。戦後万歳嶺の頂上付近を削り、観音堂が新たに建てられ、「万歳嶺記」の碑も、残った一部を台座に組み込み、復元されている。
 なお、万歳嶺に対し、その西方に連なる小高い丘は「官松嶺(かんしょうれい)」(俗称「下ナチジナームイ」)と呼ばれていた。

 うむ。由緒――というものを知れば知るほど、街歩きはおもしろい。
 さらに進んで、今は寒川通りというらしい旧綾門大道(あやじょううふみち)を歩いてみました。
 今となっては何の変哲もない閑静な一本道ですが、かつてはここが、首里城に向かうメインストリートだったのです。
 薩摩の侍が、ペリーが、処分官の松田道之が、この道を通って首里城へと赴いたことに思いを馳せれば、それなりに感慨深いものがあります。

 かつては守礼の門の手前には中山門という門があったはずで、それはおそらくこのあたり、というところから守礼の門方向を撮影したのがこの写真です。ね、何の変哲もないでしょ。(笑)
 今でいうと、伝統工芸館首里琉染やカレーショップの銘店ポケットマーニーがあるあたり。

chuzanmon 201101

 左手の生垣あたりからは首里高校の敷地となりますが、ここはかつては中城御殿があった場所。
 案内標識には中城御殿について次のような記載がありました。

 旧中城御殿跡
 琉球王国世子の旧殿宅跡。尚豊王代(1621~40年)に創建され、二百数十年、世子殿の役割を担った。1875年に世子殿が龍潭の北側(前県立博物館敷地)に移転すると、跡地は「下の薬園」となった。1879年の廃藩置県後、1891年に沖縄尋常中学校(後の県立第一中学校)が置かれ、沖縄戦後、首里高校の校地となった。

 その向かい側は、御客屋(うちゃくや)跡。
 薩摩藩の在藩奉行などが首里城に登城する際の控所。創建年代は不詳。敷地は451坪余あったという。在藩奉行一行等は、ここで城からの案内を待って登城した。
 1879年の廃藩置県後は首里警察署が置かれた。1890年に首里尋常小学校となり、校舎が建てられたが、1912年首里城内に首里尋常高等小学校として移転したため、後に民間の電気会社に払い下げられた。

 その東並び(右手奥)は安国寺跡。

 安国寺跡の道路を挟んで向かいは、大美御殿跡。
 もとは尚清王の世子時代の別邸。1547年に増築し、首里城内の女性の休養・産所、また冠婚葬祭など礼式を行う場所となった。
 1853年5月に来琉したアメリカのペリー提督一行が6月に首里城を訪問した際、大美御殿を摂政邸と称して、宴会が催された。
 1879年の廃藩置県後、建物の一部に首里役所が置かれたが、明治後期に敷地・建物ともに払い下げられ、1925年に県立第一中学校の運動場となった。沖縄戦後は首里高校の校地として引き継がれている。

 すげぇ歴史。
 首里高校ってすごいところに建っているんですねぇ。