沖縄を訪れたときに食する沖縄そばの名店について少し深く知りたいと思い、古書店から購入した1999年刊の本です。

 沖縄そば店に関しては、新しい店が雨後の筍のように出店される一方で、ぱっとしない店はどんどん淘汰されていく状況なので、時々しか沖縄に行けない自分としてはある程度歴史があり、人気が長続きしている店を選んで訪問したいという思いがありました。なので、発刊後10余年を経過してなお現存する店あたりがちょうどいいのです。

 登場するのは63店舗。このうち自分が実際に訪問したことのある店は、わずか15店前後。全部のうちすでにいくつかは閉店しているとはいえ、まだ見ぬ強豪としての沖縄そば店の数はあまりにも多い!というのが実感です。

 それにしてもこの本、各店を1ページのスペースで紹介しているのですが、そのつくりは実際に食べ歩いた人のインプレッションが中心で、ほかには手書きの地図と店の住所、電話、営業時間、定休日、それに主なメニューのみ。
 ふつうならそばの写真ぐらいは載っていそうなものですが、そーゆーものはほとんどありません。
 ですが、その淡々としたテキストだけという表現手法がむしろ潔くも感じられて、こういうのはなかなかいいと思う。

 ジャンル別に整理されており、それらは、懐かしの食堂系、不動の人気系、こだわりの手打ち系、チャレンジャー系、郊外大型系、まちの名店系、フラッと系、外で食べる系、居酒屋系の9系統。そういう分類もまた独特で楽しい。

 巻末の読み物「沖縄そば屋考察1999」は、伝説の首里の名店「さくら屋」や戦後の「ウシンマーそば」などについて書かれており、圧巻でした。
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 日々の暮らしは、つらかった。けれどもそこには、家族の強い絆があり、屈託のない子どもたちの笑顔があり、明日こそは必ずよくなるという希望があった。
 そんな時代の沖縄の“素”の表情や風景を切り取ったのがこの写真集です。

 「まえがき」が著者の心情をよく表しているように思えたので、引用してみましょう。

『人は誰でも原体験・原風景をもっている。
 その原点に戻るとき、人は自分と出会い、自分を再確認する。そこに懐かしさを感じるのであろう。人が過去にこだわるのはそのせいではあるまいか。
 日々の暮らしの中でわたしたちは「昨日」が「今日」の自分の気持ちや言動とつながっていることを意識はしない。
 ましてや十年前、五十年前の遠い過去になると記憶は忘却の彼方へかすんでしまう。
 とはいっても、わたしたちの生活は、自分や周りの人々との過去の積み重ねの上に、連綿として繋がっていることは否定できない。
 古い写真を見て過去の記憶が、ふっと甦る時、わたしたちはそのことに気付く。
 更に、長い時間の経過と人生経験を重ねた目で見ると、過ぎ去った日々のできごとや、消えてしまった風景が新しい意味をもって立ち現れてくる。平々凡々と生きていたおじいさんやおばあさんたちが、実は性根を据えて悠揚として生きる人生の達人であったことに気付く、といった具合にである。
 写真の記録性が持つこのような喚起力に、改めて感嘆する。
 この写真集は、そのような私の個人的な思いを、フォト・エッセイの形で綴ってみたものである。――』

 琉球新報に2005年1月以降100回以上にわたって連載された記事をまとめたもの。
 安謝トンネルの前で楽しそうに遊ぶ子どもたち。その後ろには劇団翁長座の公演ポスターが貼られています。
 コンクリート防波堤のない津堅島の白い砂浜。漁を終えて帰った漁師が浜で遊んでいる小さな子どもにスイジガイをプレゼント。そんなやりとりを見守るお姉ちゃんや漁師たち。
 赤瓦の家が立ち並ぶ与那原交差点。アスファルトをうっただけの道路をさっそうとバスが走る。
 那覇のマチグヮー。師走のつめたい雨の中を、商品を頭上に載せた注連縄売りの女性が歩いていく。

 そんな日々のなにげない表情を切り取っています。
 写真というものは、何枚かまとめて眺めると、それを撮った人のものの考え方や立ち居地、その時々の心情などといったものが手にとるように見えてくるから、不思議です。
     kaminoigon.gif    i am joker

 この3月まで同じ職場で働いていた同僚が、2冊の本を自費出版しました。
 それは、所 健保(ところたけやす。もちろんペンネーム)著の「神の遺言」と「アイアムジョーカー」。
 本人に連絡を取りさっそくゲット! ソフトカバーながら重厚なつくりで、それぞれ500ページ弱の3,000円+税と、400ページ弱の2,477円+税。
 本人が言うには、売上金はすべて東日本大震災の被災者に寄付するそうです。なかなか太っ腹であり、時宜にかなった対応ですねぇ。賞賛せずにはいられません。

 また、立て続けに2冊とは、恐れ入るではないですか。
 思い出すとその職員は、3月ごろはな~んかそわそわしていました。
 聞けば、その頃はちょうど推敲のし直しや校正で忙しかったのだそう。ナルホドね、今になってそわそわしていた理由がよくわかりました。(笑)

 これから読んでみるので内容については今のところコメントのしようがありませんが、江戸川乱歩賞応募作品とのことであり、彼のこれまでの作品から推してしっかりした内容になっているものと、今から楽しみです。

 いずれ大成するはずですので、興味のある方は今のうちから読んでおいたほうがよさそうですよ。
 もし手に入りづらいようでしたら、私に申し付けていただけば手配できると思います。 


 知念ウシという古風な名前をもつ論調過激な女性論客が沖縄にいる、ということは知っていましたが、その主義主張にじっくりと触れたことがなかったので、この本が出たことを知った段階でただちに購入しました。

 2002年から09年まで沖縄タイムスに掲載された文章を中心に、むぬかちゃー(物書き、ライター)・ウシの思索と行動の軌跡をたどったエッセー集です。

 「普天間基地移設問題」の奥深くに潜む根源的な問題点は“日本人の植民地主義”であるといい、その核心部にメスを加え、鋭い舌鋒で実態を暴いていくその裡には、琉球女(ウチナーイナグ)が受け継いできたふるさとへの深い愛を感じ取ることができる――というつくりになっています。

 まぁ、過激ですね、読んでいて。
 ものごとを賛成か反対か、多数派か少数派かといったような二元対立の構図に置き換えて論評しているところが多くあり、ある意味わかりやすいのですが、正直言って、そうではないのになぁ、個人やグループ、地縁組織、国家などの各段階ではそれぞれ内面に抱えるアンビバレンスというものがあるのになぁ、と思いながら読んでいました。

 たとえば、著者とその友人たちで組織する勉強会で、どうして沖縄にばかり基地が多いのですか、もしよかったらあなたの住んでいるところで基地をもらってくれませんか、などと大和の人々に問いかける場面が出てきます。
 一種の精神論として、そういうことを問いかければ本土の人間も自らの植民地主義に気付いてくれるだろうというものの例えとして言っているのでしょうが、基地は単なるモノじゃあないのだから、この例え話は失敗だと思います。この例えにはアメリカの意思はまったく考慮されていませんから。

 戦闘的な論陣を張ることには抵抗はありませんが、そのなかに屈折した女性の依怙地さのようなものが嗅ぎとれてしまい、やや興醒めなところがありました。
 人間は一つの面だけで生きているのではなく、別の面、隠し面、とっておきの面などさまざまあるはず。強さと弱さは紙一重なのではないでしょうか。
 できればそういう全人格でもって世相をぶった切ってもらいたいものだと思ってしまいました。

 全5章。「沖縄を見つめる」、「植民地・沖縄を考える」、「精神の植民地化を脱するには」、「植民地主義に協力しないために」、「オキナワン・イエロー、意味は希望」。
 う~む・・・。ヤマトって、沖縄に対してそんなに植民地主義的なのだろうか。自覚が足りないのかなぁ。


 このところウェブで、那覇、首里あたりのむかしの庶民生活やまちづくりの状況などについて読み漁っています。
 那覇の埋め立てされる前の海岸線に存在したランドマークや地名とか、辻原墓地にあったバクチャヤーと呼ばれていたガマの状況とか、泊・前島あたりの兼久といわれる汀線の開発経過とか、首里と那覇を結んでいた真嘉比道という古道を現在の地図上に照らしてみるとか、現在の美栄橋駅のすぐそばに位置する七つ墓にまつわる伝承を探るとか――。
 ・・・う~む、おれはいったい何をしようとしているのだろうか。(笑)

 そんなときに、つい先ごろに買ったこの本はなかなかに役立ちました。
 漢字にはすべてふりがなが付されているという万人向けの本なので、記載内容がおおざっぱすぎるきらいがないわけではありませんが、その分肝心な部分をきちんとつかめるという利点があったので重宝しました。

 紹介されているのは、「我如古の化け猫」、「伊江島ハンドー小」、「歌うしゃれこうべ」、「久嘉喜鮫殿とキジムナー」、「無鼻の断崖」、「真嘉比道の逆立ち幽霊」、「大和の幽霊船」、「十貫瀬の七つ墓」、「牡馬のたたり」、「美女に化けた豚」、「耳切り坊主」、「識名坂の遺念火」、「龕(がん)の精」、「真玉橋の人柱」、「宿屋の猫」、「鬼嫁のはなし」、「宮古島のガマク婆」、「妻の霊魂」、「石垣島の崎枝鬼」の全19話。
 何度か耳にしているものがいくつかありますが、中には初めて聞く話もチラホラ。ほほう、ってな感じです。

 ウトゥルサムンヌ、ミーブサムン。
 怖いものほど好奇心をそそられてかえって見たくなってしまうという、人としての心情を表したウチナーグチです。
 つい数十年前までは、人々は自然を畏怖し、神を信じ、行いが悪ければ祖先や神たちの怒りを買うものと考え、神たちへの信仰を心中で唱えながら誠実に生きてきました。
 そういうものが失われていく中で、今の世の中というものは幽霊や妖怪たちにとってはさぞ住みづらいものなってしまっているのでしょうね。


 スタンフォード大学でのシンポジウムで忘れられない涙がある。
 私はそこで在沖米軍基地の県外移設について問題提起し、聴衆に賛成か反対かを聞いた。最も印象的で意義深い返答が、被差別部落民として部落差別問題に取り組む岸本眞奈美さんからのものだった。
 岸本さんは、お嬢さんが修学旅行で沖縄を訪れた際の感想から語り始めた。
 「観光バスの中から軍事基地と隣り合わせの沖縄の様子を見ていると、同級生たちが、『ひどいところだね。よくこんなところで生きていけるね。(沖縄の人は)どうして、引っ越さないのだろう』と言っているのが聞こえ、傷ついた。部落の子として、『どうして、部落から引っ越して、出身を隠して生きていかないのだろう』といわれているようにも聞こえ、二重に傷ついた。部落にとって沖縄は人ごとではない。でも、『沖縄』(=基地のこと?-筆者)が自分の側に来るのは……いやだ。怖い。娘に正直にそう話すことから始めたい」
 そして岸本さんは声をつまらせ、泣いた。
 私はその涙の意味をこんなふうに感じた。沖縄の状況に関心を持ち、県外移設の論理も背景も気持ちもよく理解できる。しかし、自分たち、特に自分の子どもが被害にあうことは耐えられない。だから、基地が側に来るのはいやだ。しかし、率直にそのように口にすれば、それはまさに沖縄に基地を押しつける論理であり、そしてそれを自分自身が行使、実践していることに直面させられる。そのショック。一方、そういう自分の声が、
 「部落が側に来るのはいや」
と自分に向ける差別者の声に聞こえ、さらに傷つく。
 しかし、私も同時に傷ついたのだ。県外移設を拒否されたのだし、
 「『沖縄』が側に来るのはいや」
といわれたのだから。さらに、私の前で泣かれたため、私の涙と痛みは凍りつく。
 私はふと、傷を抱える私たち二人の間だけでいやなものを押しつけ合い、それによって、さらにそれぞれの苦しみを孤立したまま深めているような、変な気分になっていることに気がついた。そして、ああ、これが少数者同士が対立させられる構図なのだと実感した。
 もしかしたら、岸本さんはそれを承知の上で、あえて、そのような少数派の姿をさらし、自らの思いを正直に突きつめて語ることで、会場の人々、特に多数派に属する人々に、
 「あなたたちは、どれほど真摯に誠実にこの間題提起に答えているか、この少数派同士の矛盾、分断対立の責任をどう取るつもりなのか」
と問うていたのではないだろうか。
 シンポジウムには、在日朝鮮人三世で人材育成コンサルタントの辛淑玉(しんすご)さんも来ていた。辛さんは一貫して私を支えてくれた。例えば講演後、日系白人でスタンフォード大学のスティーブン・重松教授が私に、
 「あなたの英語力の問題なのかもしれないが、あなたは日本人と沖縄人とを分けているように聞こえる。沖縄人は日本人に含まれるのではないか」
といったとき、私が答える前にすっくと立ち上がり叫んだ。
 「その質問をウシにするのは間違っている。それは日本人にするべきだ。日本人が『日本人は』という時、そこに沖縄とアイヌは入っているのか。ウシはそのことをいっているのだ」
 また、辛さんはシンポジウムが終わると私の肩をがしっとつかみいった。
 「おまえって特攻隊みたいなヤツだな。捨て身で勝負するんだな」
 さらにその後の出来事のなかで私が失敗したりすると、
 「まだまだ修行が足りないぞ」
と私にけんかの作法を手取り足取り教えてくれる。こんな辛さんでも、県外移設に賛成だとは明言しない。しかし、反対だとも決していわない。
 つまり、県外移設となると、移設先は、日本の少数派、被差別部落や在日朝鮮人が多く住む地域になるのではないか、自分たちが次にさらに犠牲にされるのではないか、という恐怖を少数派は持つのだ。多数派はそれを被害妄想と呼ぶのだろうか。そうであるなら、それが妄想だと証明してほしい。つまり、率先して多数派のところに移設してほしい。
 とてもよかったのは、少数派としての互いのこのような懸念、恐怖、複雑な感情、気持ち、想い、傷を、隠さず、深く長く話し合う機会をその後持てたことだ。そこで確認したのは、基地を押しつけるのは他ならぬ多数派日本人であること。私たち少数派を分断しないように、基地問題も含めて、多数派日本人がちゃんと責任をとるように問題提起を続けること。今後とも交流を続け、互いのさまざまな感情、想い、考えを忌憚なく語り合い、それぞれの経験や知恵から学び合う必要性と重要性である。

(「ウシがゆく」(沖縄タイムス社刊)から)


 1986年というから、りんけんバンドやネーネーズなどの沖縄ポップが隆盛を極める数年前に発行された、沖縄音楽についてたくさんの逸話や薀蓄をもっている上原直彦による島うたエッセー。
1983~84年に沖縄タイムスの土曜日の夕刊に連載されたものをまったく加筆修正せずに(!)まとめられたものです。

 中古本市場から入手したのですが、本の奥付にはナオヒコー氏直筆のサインがあって、「○○様 柳はみどり 花はくれない 人はただ情 梅は匂い」という7・7・8・6の変則仲風のような句が添えられています。その日付は1998年3月22日。
 どうやらこの日、札幌で著者の講演会があったようで、その日に購入した人が古書店に売りに出したものが私に回ってきたようです。

 ネット古書店を渉猟してやっと手に入れたものなので丁寧に読ませていただきましたが、沖縄にある歌うたを1曲ずつとりあげて洒脱に解説していくその手法や表現は、沖縄のラジオ業界にあって沖縄民謡界の重鎮たちと深くかかわりあいどっぷりと民謡の今むかしを見つめてきた著者でなければできないものではないでしょうか。
 それぞれのうたのもつ意味や解釈、うたにかかわるエピソード、諸先輩から聞いた話などが記されており、うたによっては目から鱗が落ちるようなこともあちこちにありました。

 取り上げられている歌うたは、汗水節、二見情話、白浜節、谷茶前、ラッパ節、ばんがむり、門たんかー、赤田首里殿内、デンサー節、うんじゅが情どぅ頼まりる、天川などなどで、全100話。
 100曲の解説をこの表現体で味わえるって、すごくシアワセだと思うなぁ。
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 は、次の7冊です。

1 沖縄苗字のヒミツ            武智方寛          ボーダーインク    1050
2 沖縄血戦記録              「丸」編集部        光人社NF文庫     890
3 カベルナリア吉田の沖縄バカ一代  カベルナリア吉田    林檎プロモーション 1365
4 トロイメライ 唄う都は雨のち晴れ  池上永一          角川書店        1575
5 奄美、もっと知りたい増補版      神谷裕司          南方新社       1890
6 うたいつぐ記憶 与那国島・石垣島のくらし  安渓貴子    ボーダーインク    1050
7 沖縄と「戦世」の記憶     明治大学人文科学研究所編   風間書房        800

 未読のストックがまだかなりあるので、この2ヶ月は多少厳選しての購入です。
 少数にとどまったのにはもうひとつ理由があります。いずれもネットショップからの購入ですが、このごろは「沖縄」とか「奄美」とかのキーワードでヒットする新刊本が少なくなったような気がするのです。なんだかちょっと気がかり。
 かつては沖縄をもっとディープに知るための本や沖縄音楽・文化などを扱ったものが百花繚乱の様相を呈していたものですが、このごろはそういうものがめっきり少なくなって、沖縄戦関連のものが目につくほかは、あまり芳しくない出版状況が続いているようです。
 幸い、小説系のものがいくつか出ていて、全体の少なさを幾分かカバーしているのがうれしいのですが。

 1は、自分としては最も興味のあるところをついたテーマ。
 すっかり愛読の域に入った感のあるカベルナリア吉田の著書である3や、もうシリーズ2巻目かというスピード発刊の、幕末の沖縄をファンタジックに描いた4も、期待大。
 奄美を知るならこの1冊だという、とあるウェブページの記述を読んで購入した5は、1997年初刊の名著。
 6は、ときどきメールをくださる安渓遊地さんの奥様による聞き書き。

 いずれも読むのが今から楽しみです。
 読書時間を多めにとってどんどん読み進めていかなきゃなぁ。


 主人公の金城健司は、小さい頃から海と珊瑚を愛する心優しい朴訥とした男。夢のように海のことばかり考えているために、仕事にもつかず、家庭でもダメ人間扱いされるような種類の人間でした。
 そんな健司の妻となったのは、幼馴染みの由莉。健司の「美しかった珊瑚の海を取り戻したい」というまっすぐで純粋な願いをあたたかく見守り、二人で“お店がまるごと海”のような飲食店を開店します。
 そしてそのことを皮切りに、さまざまな成功と失敗を繰り返しながら、珊瑚の養殖事業やその海への養殖などに挑戦していきます。

 そのような映画のようなストーリーがあまり詳しく語られないままに、少ないページ数の中で次々と場面転換していくさまはなかなかにめまぐるしく、なんだか走馬灯のシルエットを動体視力で追いかけているような、倒錯的な心境に陥ってしまいそうでした。
 事業ってそんなにうまくいくものなのかよ、そんなににわかにことが進んじゃうのかよ、どうしてこの男にみんなのマドンナが嫁にいくワケよ、などといったツッコミを入れつつ、あっという間に読み終えてしまいました。

 奥付にある「本書のプロフィール」には、「本書は、映画「てぃだかんかん ―海とサンゴと小さな軌跡―」の脚本(鈴木聡・林民夫)をもとにして、著者が執筆した書き下ろしノベライズ作品です」とありました。
 ははぁ、やっぱり。どうりで。
 しかし、小説が映画になるということはよくありますが、映画が小説になる、ということも、今の時代にはあるのですねぇ。
 ま、読みやすいかもしれないけれど、映画のシーンが無理に文章化されているように感じられるところもあったりして。
 映画を観たあとに、それを思い出しながら文字でなぞってみる――というのが、こういう本の正しい利用方法なのかもしれません。