3日前から今日までの4日間、ずっとやっていたのは、もっている沖縄音楽のCDをすべてパソコンに取り込むことでした。
 ぜ~んぶ取り込んで毎日ランダムに音楽を聴いて楽しもうという考えなのだな。

 これがたいへんだった。1枚につきなんだかんだで5分ぐらいかかる。それが、何回やったんだ? およそ170~180枚??

 取り込みを終えた段階で曲数を数えてみたら、1986曲だった。容量にして14.8GB!!
 これをすべて聴くとなると、1曲あたりだいたい4分として、7,944分。ってことは、およそ130時間。一睡もせずにぶっ続けで聴き続けても丸5日以上かかるということなのか。
 よくぞこれだけ買ったものだよな、沖縄音楽のCD。

 でも、ランダムで聴いてみると、なんだかとても新鮮。あれ、この曲、なんのアルバムに入っていたんだっけ?みたいなものがあったり、あぁ、これを聴くのは何年ぶりだろうというのがあったり。
 やはり嘉手苅林昌や知名定男の唄声が多いな。彼らはいろんなアルバムに参加しているので、おもわぬところでその唄声に出会えたりするんです。

 これらを聴くことでしばらくは楽しめそうです。

スポンサーサイト


 沖縄に関する本を読んでいると、歴史的な背景を解説する場面などでよく海軍少将漢那憲和の名が出てくるので、この人について詳しく知りたいと思っていたところに発刊されたのがこの本。

 大正10年、皇太子だった昭和天皇が、皇室史上初めて欧州を訪ねたときに、その御召艦「香取」の艦長として大役を果たしたのが漢那憲和でした。

 少年時代の彼は、学業優秀で抜群、沖縄尋常中学で学友会の会長となり、生徒たちのリーダーとして信望が非常に厚かったようです。
 その彼が、ワンマン校長を排斥するために、同級生の伊波普猷らとともにストライキを指導した話は痛快で、当時の文部大臣に建白書を送りつけたり、そのことが逆に当時の県知事、奈良原繁をして彼の保証人にしてしまったりします。

 退役後の晩年は、民政党から立候補して衆議院議員。軍人からの転進でしたが、シビリアン・コントロールを提唱して賛軍派とことごとく対立します。
 そんな漢那を昭和天皇は深い心で支援し、彼は衆議院議長に登りつめます。

 そして、このような立派な人間が世に出て活躍する陰には、廃藩置県の激動の中、女手ひとつで憲和らを育て上げた母・オトのひとかたならぬ努力があった、というのが、大まかな筋書きです。

 当書のオリジナルは、昭和60年というから昭和天皇が崩御する3年ほど前に、著者が自費出版したもの。
 これを昭和天皇が愛読していたということを平成19年にある月刊誌で紹介されたのがきっかけで、平成21年に改めてこの本が出版されたという経緯があるそうです。

 どういう経緯にしろ、ひとりの人間に焦点を当てた歴史ドキュメントというのは、いいですね。人間の生き様があぶり出されて、多少のデフォルメはあるにしろ、その時代が生き生きとして甦ってきます。それを追体験できる仕合せよ。


 沖縄や那覇を愛し探求する者にとって、この題名はとても衝撃感のあるものではないか。
 題名だけで一般読者の興味をそそりきれる(という言い方はアリなのか?)本というのはけっして多くはないと思いますが、これはそれに成功しています。
 また、表紙の老婆の陰影深い手や頭部もインパクト大。
 芥川賞受賞作家の初期作品集なので、大きな期待を持って読み始めました。

 収録作品は、「魚群紀」「雛」「蜘蛛」「平和通りと名付けられた街を歩いて」「マーの見た空」の5編。
 メランコリックで屈折した若き日の心象描写が秀逸。これに沖縄の自然や風景、そのときどきの社会的な事象、ウチナーグチなどがないまぜになって、沖縄の人間にしか表現できないような独特の世界を形づくっています。

 著者が子供の頃に体験したのであろう心象風景がところどろに出てきます。
 それは、パイン工場に出稼ぎに来ていた台湾女(いなぐ)のことだったり、その工場から排出される温水に群がる大量のテラピアたちのうごめきだったり、少年によっていたぶられつくした3本足の蜘蛛だったり。

 表題作の舞台は、まだ市民会館の向かいに琉大付属病院があったころの与儀公園あたり。かつては市場で活躍し、一家を支えてきた“おばー”ですが、今ではボケが入ってしまい、市場で商品に汚物をなすりつけるなどの振舞いをするために、すっかり迷惑者となってしまっています。そのおばーの行動を決然としてかばい、守る家族たち。そんな重い課題がモチーフになっています。

 「母ちゃん、またあの男来てたね」
 「何も心配する必要はないさ。あの男が来たからといって」
 「おばーをつれに来たんじゃないの?」
 「何でそんなこと心配するね、カジュ。誰もおばーを連れていかないさ」

 イントネーションまで伝わってきそうなウチナーヤマトグチの会話がよかったです。


 明治維新は従来、人物や事件を中心に語られてきましたが、大事がなされるときにはカネが必要なのはいつの世も同じであり、幕末・明治維新を語るときには財政面がどうだったかということにも思いを馳せる必要があります。
 それを追求したのがこの本で、琉球王朝の末裔の著者がそのことを解明、解説していく――というのが本書の趣向。

 明治維新を推進した薩摩藩は、奄美の民から歴史上稀有なほどの収奪を行い、そのことを歴史から隠蔽してきたのだ、というのが結論ですが、それをさまざまな観点から周到に腑分けして提示していきます。

 奄美の砂糖でうるおった薩摩藩ですが、もし薩摩藩が窮乏したままで欧米列強に対して抵抗できなかったら、日本はどうなっていたのだろうかと考えると、ちょっとオソロシイ。
 もしかしたら英国あたりの植民地になって、今の発展はなかったか、少なくとも大幅に遅れていたに違いありません。

 ところで、本書の中では薩英戦争のきっかけとなった生麦事件のことが書かれています。
 神奈川の生麦村で、薩摩藩主・島津久光の行列に乱入した観光中の騎馬の英国人が薩摩藩士に殺される事件ですが、殺害したのは奈良原喜左衛門という当番供頭でした。
 ふ~んと思って読んでいたのですが、その後いろいろ調べてみると、なんとこの人物は、後の第8代沖縄県知事・奈良原繁の兄であり、奈良原繁は自顕流の達人で、自身もこの行列にいて、イギリス人を斬った者のひとりだったというのです。

 歴史は奇。時代はくだって、この男が沖縄県知事となり、沖縄出身者初の海軍提督、漢那憲和の保証人となるというのですからねぇ・・・。


 表題がそそるじゃないですか。
 で、内容紹介を読むと、「重度の沖縄病患者でもある著者が、沖縄病の末期病棟から、沖縄病のその先にある真実を時には哲学的に、時には物理的に多様な視点からあばきだす。」――とあるじゃないですか。
 沖縄にぞっこんの身としては大いに期待するわけですよ。
 ところが・・・。
 期待が大きかっただけに失望は甚大なので、今回ははっきりいわせていただきやす。

 なんじゃこりゃ的な内容なのですな、これが。開いた口が塞がらないというか。
 この本のどこが沖縄なのだ? いったいなんなのだ、この表題とのミスマッチは。
 こんなものを読まされて、間違って買ってしまった沖縄フリークは喜ぶとでも思っているのだろうか。

 忠告。沖縄病のヒトは、表題にだまされてこんな本を買ってはいけません。
 精神病理学だか理論物理学だか芸術論だか知らないけれど、これほど欺瞞的かつ支離滅裂な文章を読んだのは、私としては初めてのことです。

 論調はもってまわった書き方だし、さんざ持論を読まされた挙句まともな結論はないし、そしてなにより、暗いし。
 ときどきいますよね、話しているとこっちが滅入ってしまう人って。こんな人とはあまり付き合いたくないなって人が。
 この書き手は自分にとって、まさにそういうタイプです。

 本筋から遠い話が多すぎるんだよ。沖縄を語るのに、「心筋は内蔵で唯一骨格筋と同じ横紋筋でできているが不随意筋で、それがカルシウムイオンの反応により動いている」なんてことが必要なわけないだろって。こういうところ、やたらと多いんですよぉ。(泣)

 ああ、読んで損した感じ。屈折している著者の自己満足に付き合ってしまったという後悔。
 ええぃ、こんな本、アバンダン!! カネ返せっ!!!(暴)
 「現代人なら誰しもがかかえる心の問題に真摯に向き合い、様々な形の「沖縄病」に苦しむ方々に贈る療養の指針。」なんて、ウソ八百でぇ~す。


 そのCDは「贈りもの」。2010年11月7日発売で、前作が20008年8月発売ですから、約2年ぶり。このごろはCDづくりも容易になったとみえて、間隔が短くなってきていますね。
 上原渚以外の比嘉真優子、仲本真紀、保良光美の3人にとってはネーネーズとしては初のレコーディングです。

 これまでのイメージとは少し違うつくりになっていることについては事前情報として聞いていましたが、予想を上回る意欲作のようで、いきなりジャジーな曲から入って、オキナワンロック調のシャウトがあったり、民謡であってもほどよいアレンジが入っていたりと、けっこう楽しめる内容になっています。
 まぁ、それがネーネーズらしいものになっているかというと、もう少し聴きこんでみなければ軽率には判断できませんが、斬新、ということについては間違いありません。
 これらのうたを「島唄」のステージで、琉装でうたっている姿がまだ明確にイメージできないなぁということです。
 1990年代、初代のネーネーズが発進したときは、知名定男のアレンジによってレゲエが取り込まれていて、そのことには驚きと衝撃を受けたものですが、今回もそんな感覚に近いものがある、と言っておきましょう。

 「風の道」では新良幸人のものとすぐにわかる三線が聴けたり、吉田康子の透明感あふれる琉歌のツラネが聴けたりと、参加ミュージシャンも豊富。
 ほかにも下地勇、鳩間可奈子、玉栄正昭、よなは徹、サンデーなどもところどころで顔を覗かせます。
 こういうところがメイドインオキナワの楽しさでしょう。

 ジャジーな雰囲気を醸成しているのは、沖縄のジャズシーンでは有名な仲本政國ジャズオーケストラの面々。仲本政國は仲本真紀のお父さんなのだそう。
 ロック系のアレンジはSKPという、私の知らない4人組。8曲目の「コザ!」なんて、もろにロック。ネーネーズがシャウト!(笑)

 スペシャルサンクスには吉田康子のダンナさんの吉田安男、元りんけんバンドのみーちゅう、知名定人と結ばれた元ネーネーズの比嘉綾乃、改め知名綾乃などの名前もクレジットされています。

 「アイラブ・ソング・キング」は、ジャズオーケストラのブラスセッションが入って、
 ♪ 悲しい涙も 楽しい笑いもくれた ソングキング
    人々を愛してた お酒も好きだった 御万人の知る アイラブ ソングキング
とうたいつづる、嘉手苅林昌に捧げられたうた。
 「SAKISHIMAのテーマ」は、SAKISHIMAミーティングで共演した新良幸人作詩、下地勇作曲の島唄チックなスローバラード。 ♪ Ah- 先島 幾世までぃん ・・・
 「白雲ぬ如に」は、嘉手苅林昌の十八番「白雲節」の歌詞をそのまま使って、別の曲にアレンジされています。
 知名定男が好んでやまない自作の「山河、今は遠く」。今回はネーネーズがしみじみと、スローにやさしくうたいます。間奏ではギターが泣き、いちばん心を動かされた曲でした。


 島旅紀行のスペシャリストによる屋久島・トカラ・奄美・加計呂麻島の旅エッセー。

 屋久島で「もののけ姫」と語り、へミシングしながら島一周ドライブ。
 トカラでは、旧知の島人たちと焼酎を酌み交わし、ボゼの行く末に思いを馳せます。
 奄美では、ハブが棲む森で真夜中に危機一髪のサバイバルツアーを敢行し、湯湾岳で神がかり的な不可解体験をし、清冽な気の流れる限界集落青久の海辺で秘境体験。
 そして、加計呂麻島では神の気配が濃厚に漂う無人島へと足を向けます。

 旅というのは、同行者の如何によってその質を大きく変えるし、また、旅先でどういう人とかかわったかも大きなファクターとなります。
 彼の旅はいつもは単独行ですが、今回は同行者がいて、へミシングという瞑想のジャンルで活躍している旧知の男性と、その若い仲間の男女たちといっしょ。
 思うに、どうもそれがいつもの心理的な面を重視した一人旅をスポイルさせてしまったようで、最近はやりのオソロシドコロの探索とか、気と景色のいい場所での瞑想とか、なんかズッコケてしまいそうな方向にシフトしてしまっているようです。

 まぁ、これは好みの問題だったり、同一の読者でもその時の気持ちとかで捉え方が違ったりするので、いちがいにどうこうとは言えませんが、少なくとも新書で発表している既刊とは趣が異なることは、読む前に念頭においていたほうがいいでしょう。

 表紙や、文中のカラー写真がステキ。カラーでこのボリュームなのに1,300円+税というのは、安いのではないかな。
 いずれにしても、トカラや加計呂麻に関する旅行記が少ない中にあって、それらを題材にした当書は貴重。ありがたく読ませていただきました。

 なお、ページ配分は、全288ページ中156ページまでが屋久島とトカラに関する部分で過半になっているため、「琉球関連書籍総覧」では「トカラ・種子・屋久」に分類することにします。


 大阪生まれのウチナーンチュ二世、沖縄に移住して十数年、沖縄をさまざまな切り口から軽妙な語り口で快刀乱麻の仲村清司。おれ、好きなんだよなあ、彼の著作。

 「僕は沖縄料理で人間になりました」というまえがきを、彼も幼い頃はいろいろあったんだなあと思いながら読み、本論、そして、「人生はチマグーだ!」と題した月桃庵店主玉城良子との対談、あとがきと読み進めて最後のページを見ると・・・。
 ありゃりゃ、これ「沖縄の人だけが食べている」の加筆・改題モノだったのかぁ!(嘆)

 「沖縄の人だけが・・・」は2003年7月に発売されたもので、自分はその年の12月にすでに読んでいる。でも、まったく改題モノとは気づかずに最後まで読めた。というか、初めてのものとして楽しめてしまいました。
 で、その本そのものは押入れの奥に行ってしまっているので、ホームページに載せた自分の読後インプレを改めて読んでみると、どうやら今回は、本論部分には重複がありますが、かなり大幅に加筆修正している模様。

 ま、同じものとは気づかずに読めたのだから、金と時間のムダとは言えないのでしょう。楽しめたわけだから。
 県庁職員のおれは現在、長年勤務した本庁を離れ、出先機関で働いている。
 ある日、酒席があったため、その夜は勤務先のある地方都市のホテルに泊まった。(ここまではホントの話)

 ここからは夢のなかの話である。
 翌朝、起きて何を思ったか、大慌てで着替えを済ませ、向かった先は、出先機関ではなく本庁なのであった。長年勤務すると、もはや習慣として、そういうこともあるのかもしれない。しかし、行き先違いであることを本庁に到着するまで気づかなかったあたりは、やはり浅はかな夢なのであろう。

 本庁に着いてみると、建物の概観やエントランス、建物周辺の庭園のつくりなどが、自分が通勤していた頃のものとは異なっている。
 しかし、その建物の中に吸い込まれていく人々はいかにも公務員然とした人ばかりだし、中には知った顔も見受ける。ここが本庁である。
 出勤先間違いではあるが、まあ、せっかく来たのだから、関係の課などに顔を出して、業務調整などをしてしまうことにした。

 そこでまたまた気づいたのは、自分の服装がメチャメチャであったことだ。
 上半身はいちおう白のワイシャツを着用していたが、その上には濃緑の丸首トレーナー、ネクタイはなんと首にダイレクトに結ばれている。下半身は何を着けていたのだろうか。
 まあいいや、どうだって・・・。半ばあきらめながら歩を進めたのだった。

 すると、正面玄関に向かうプロムナードの途中で、おっさんが一人、両手で抱えなければならないほどの大きな石を使って、重機も用いずに土留め作業をしていた。たしかここは県政史緑地といわれている都市公園で、安易に現状変更をしてはいけないはずなのだが・・・。
 ランニングシャツ姿で作業をしているそのおじさんをよく見てみると、なんと、そのヒトはかつて、県幹部のナンバー2の地位にあったカ○モリさんであった。
 すれ違うときに目が合ってしまい、あっ、まずっ、と思ったが、彼は「おう、久しぶり、元気か」と、現役時代そのままに、なんの気負いも、また衒いもなく、私に声をかけるのであった。

 あのヒトもボランティア方面に行ってしまったのかと感慨を抱きながらあたりを見渡すと、その一帯はちょっとしたカ○モリ公園のような様相を呈していて、土留めはその境界線のようだった。
 誰も知らないだろうが、その公園のありさまは、かつて小白川にあった山形一中の「真陽の庭」のたたずまいにそっくりであった。

 玄関から建物の内部に入ると、いよいよ本来の本庁舎とは異なる景色が顕著になってきた。
 エレベーターが1箇所にまとめられていたホールがなくなって、広い吹き抜けのエントランスになっている。そして、そこかしこに観葉植物、というか、亜熱帯系の植物が配され、先のほうまで見通しが利かなくなっている。
 この景気は見覚えがある。東京浜松町にあるアジュール竹芝のレストランのつくりと同じだった。そこに行ったのはかれこれ15年ほど前のことだから、今の状況とは合わないかもしれない。

 エレベーターが分散配置されているので、そのうちのどれに乗ればどこに着くのかがよくわからない。
 そのうち、頭上のちょっと上あたりに迫ってきている植物の横に伸びている枝が気になり出した。
 おれはかつて、走り高跳びを得意としていた。中学時代、「背面跳び」の優雅なフォルムを校内に持ち込んだのも、おれたちの世代だ。砂場にウレタンマットを二重敷きにして、よく仲間とともに跳んでいたものだ。
 で、当時を思い出し唐突に、ある横枝をめがけ、背広集団を割って大きく弧を描くように走り出し、濃緑トレーナー、生首ネクタイの変質者が空を飛ぶことになる。

 あっけにとられる背広軍団。「あっ、あいつ、なにをやってんだ、バカ!」というような目で見つめる知人。
 そのときのおれは、結局のところこの背広集団にはとけこめず、いずれ近いうちに爪弾きにあうのだろうな、かっこよく言えば独り群せずというのだろうな、などと疎外感を味わっていた、と思う。
 しかし、ハイジャンプの結果はというとなんとも悲しいもので、踏み切るべきその足にはいつも沖縄の旅でつっかけているビーチサンダルが引っ掛けられていただけだったために、かつてのように優雅に跳ぶことなどは不可能なのであった。

 そのことに気づいたおれは、高くジャンプするその瞬間、軸足に急ブレーキをかけた。
 すると、アラ不思議、軸足はそのまま前のほうにツツーっと滑っていく。どうやら大理石調の床が濡れていたようで、どういう力加減か、ベクトルが真横に伸びていったらしい。
 あちょー、ならばここはかっこよくビーサンにはないエッジを利かせて、スキーでやるような瞬間停止をするべし。そして、何事もなかったような平然たる立ち姿に戻ろう。

 その急停止はかっこよく決まった。満足のいくデキであった。
 しかし、止まり終えたその場所というのが、オドロキであった。
 ストイシズムを感じながら目線を前に戻すと、目の前にいたのはなぜか女子中学生で、そのヒトは自分のファーストキスの相手だったのだ。
 「あっ、あっ・・・」などと思っているうちに彼女は、何十年前にも見せた恥ずかしそうなそぶりそのままに、顔を赤らめながら走り去っていったのだった。
 あぁ、さよならだけが人生さ。いつもおれはこうだ。

 自己嫌悪に陥りながらエレベーターを降り、とあるフロアの廊下を歩く。ここも観葉植物が多い。沖縄やんばるの森にでも迷い込んだような状況だ。
 すると、木陰から声をかけられた。同期入庁のアラキだった。
 はて、アラキも今は出先機関に出向中の身のはずだが、なぜ彼はここにいるのだろう?
 そして彼はなぜか、おれに対して、我々の母校の高校から今年は東大に10人以上が合格したという話をし始める。
 はぁ? おい、アラキ、そんなことは俺たちには無縁な話じゃないのか? 久しぶりに会ったというのに、なんでそんな話をするのだ?

 思い起こせば、こいつとは高校、予備校、職場と一緒に生活してきた。それなのに、いまだに話がかみ合わないことが多い。なにかお互いに食ってかかるようなところがあるからなのかもしれない。
 それにしてもその話はない。と、苛つき始めている自分に気づく。
 そこで、つい口走ってしまった。
 「おい、アラキよ、第一、俺たちは・・・」
 あぁ、二人の間でまたいつもと同じことが繰り返されている・・・。

 ――というところで目が覚めた。
 ホテルの部屋が暑い。酔ったまま眠りに落ちたようで、エアコンの温度設定が26度になっていた。喉がカラカラで、唇がひりひりする。

 外はまだ暗い。
 また、平凡な一日が始まる。
 職場に行かないと。出先機関のほうに。



 島袋全発は、琉球処分以降、沖縄戦、米軍占領期までの過酷な時代を生き抜いた郷土史家で、伊波普猷や東恩納寛惇らと交流し、帝国主義やナショナリズムと戦いながら、沖縄の近代思想をリードした人物です。

 沖縄学の系譜を探ると、近代沖縄初期の太田朝敷、謝花昇に続いて伊波や東恩納、真境名安興らが登場し、これらを沖縄学の第一世代とすれば、その影響を受けて第二世代として研究に当たったのが、比嘉春潮、金城朝永や、島袋全発たちだったということです。
 第二世代のなかでの島袋の位置取りは、比嘉や金城が伊波や柳田国男の圧倒的な影響のもと東京で研究に当たったのとは対照的に、沖縄の中で生活しながら、沖縄で起こる現実に対処しながら研究した郷土研究者だった、というところにあるのだそう。

 本書ではそんな全発の軌跡を追い、彼の業績や思想の変遷を明らかにしますが、特筆すべきなのは、彼を追いながらも、当時の状況やそれに伴う沖縄社会全体の思想的な揺れ動き、彼の周辺の沖縄思想研究者の動向などまでもが随所に記述されており、それが内容を深く興味深いものにしていることです。

 全発は、時代の波にもまれつつ、大学卒業後に沖縄毎日新聞記者、那覇区総務課長、那覇市立高等女学校校長、伊波、真境名に継ぐ第3代沖縄県立図書館長を歴任。
 方言論争の余波をこうむり図書館長を辞任した後は、私立開南中学校教諭、那覇市会議員、終戦後の収容所生活を経て沖縄民生府官房長、琉球新報編集局長、琉球文化財保護会長などに就き、1953年に死去。

 また、全発は、西幸夫の名で文芸面でも活躍した人物であり、当書のなかでも全発自作の短歌がそこここで引用されており、彼の多彩さがしのばれるとともに、論考書としての一種の堅苦しさも和らげられています。

 人を追えば、その時代がにじみ出てくるものだ――という考えのもとに本を読んでいる我が身からすれば、こんなおもしろい本にはなかなか出会えるものではないので、しめしめヨカッタと一人ほくそ笑んでいるところです。