琉球王国の時代、琉球を訪れた異国船の乗組員などが著わした琉球に関する書物・記述は世に数多くあります。
 著者は、それらを発掘し、日本語に翻訳して紹介しており、その道の第一人者と言っていいでしょう。
 すでに読んだ「琉球と琉球の人々 琉球王国訪問記 1850年10月」(ジョージ・スミス著)や「琉球の島々 1905年」(C.S.レブンウォース著)などは、これまでに読んだ様々な沖縄関連本の中でも印象深いものになっています。

 で、この本は、沖縄サミットの開催を機会に、琉球新報社が著者に依頼して、政府の開催決定後1年余の短期間で出版したものです。
 多くの外国文献を引用して各時代における琉球の状況を概説したものとなっています。

 「南蛮人の琉球見聞録」、「黎明期の琉英関係」、「バジル・ホールの来琉」、「バジル・ホールに続く英船4艘」、「日本への門戸、キリスト教伝道の拠点」、「那覇港沖に黒船の艦隊!!」、「消える琉球王朝」、「古琉球の残映」、「近代琉球学の芽生え」、「大正期の沖縄」。
 これらのテーマについて、まず著者が概説し、その後に当時の外国人たちが記した来琉記を部分抜粋して添えています。

 ヤマトの人々とは異なる、琉球の人々のやさしい振る舞いや性格が、時代時代の外国人たちを驚嘆せしめていることなど、非常に興味深い記述が多いです。
 また、1818年、アルセスト号が琉球を去る際には、それを悲しんで泣きじゃくる真栄平や次良、奥間などの様子があまりにも健気で、深い感動を覚えました。

 しかし、抜粋部分があまり脈絡なく、しかもきわめて部分的に抜粋、列挙されているために、読者の理解が進んでいかないような構造になってしまっているきらいがあります。
 やはり娯楽として読む本というものは、ある程度ストーリーがめまぐるしくなく、はっきりしていないと辛いところがあります。残念なところです。

 ついでながら書きますがこの本、値段はとても手頃なのはいいのですが、版が大きくて厚さもほどほどにあるので、重いです。
 寝床で仰向けになって読書する習慣がある者としては、内容は面白いのに腕が疲れるので読むのをやめてしまうことがしばしばでした。(笑)
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 また出ました、ヒージャーガー。こんどは我如古のヒージャーガーです。

 我如古公民館脇の下りの道をフラフラと降りていくと、湧水のところで人々がウガミをしていました。
 お邪魔にならないよう少し離れて静かに見ていましたが、ウガミを仕切るオジイのウートートーは完璧! 早口でまったく滞ることのない、長い長いウガミでした。

 案内板によると、

    我如古ヒージャーガーは、今から百年ほど前の明治25年(1892)、区出身の新末吉(ミー
   シーシ)と上門(ウィジョー)家の優れた石工二人の指導により、区民総出で半年の月日をか
   けて造られた湧泉と伝えます。
    湧泉から流れる清水は、人々の日々の飲み水や野菜・芋の洗い水、衣類の濯ぎ水などに
   利用されるなど、長く地域の共同生活用水として親しまれてきました。
    湧水はまた、区の伝統行事であるウマチーやウビナディーなどの節々の拝み、新年を迎え
   るときに身を清める「若水」、子供の出生のときの湯浴みに使う大切な水は、湧き水を汲み取っ
   て利用されていました。

とのことです。

 宜野湾市我如古1丁目36番地付近


 次は宜野湾市真志喜の森川公園へ。
 敷地内には、有名な羽衣伝説の舞台となった森の川があります。

   680年ほど前、謝名村に住む奥間という若者が、ある日の夕暮れの帰り、手足を洗おうと思い
  泉に立ち寄ると、この世の人とは思えない美しい女性が沐浴している。奥間は夢心地に忍び寄り、
  木陰から覗いてみると、とてもきれいな羽衣が松の木にかけてあった。慕情にかられた奥間は
  羽衣を隠した。
   昇天できずに泣きくずれる天女をいたわるように誘った奥間は、この天女と夫婦の契りを結び、
  一男一女を産んだ。
   やがて天女は隠してあった羽衣を見つけ昇天したが、残された子供が中山王察度王となって、
  明国皇帝との貿易を始め、先進国の高度な文化と鉄などを取り入れ農工具等を開発し、琉球国
  永年の繁盛をもたらした

――といわれます。

022morikawa2.jpg

 そんな伝説の現場がここなのかと感慨に耽りつつ散策。
 それにしてもこの公園、見どころが結構ありそうで、なおかつ広い。もう少し時間が必要だったようだ。

 朝からいろいろ見てきたけれど、今日のところはこの程度に留めねば。
 というのも、午後は国立劇場おきなわで行われる民俗芸能公演を観ることになっているのですな。
 リストアップしていた「新造佐阿天橋碑」や「小禄墓」などは後の機会にまわすことにしよう。

 宜野湾市真志喜1241
   023sojisaabuu.jpg 掃除さーぶー

 今回の沖縄旅のメインイベントの一つが、国立劇場おきなわで開かれる国立劇場豊年祭。
 旧暦8月10日前後に、五穀豊穣を感謝し、豊年を祈願する行事が沖縄諸島の各地域で行われていますが、この公演ではその「八月遊び」や「豊年祭」の中から各地の特色ある演目が上演されます。
 演目は次のとおり。

 第1部  掃除さーぶー(南城市玉城糸数)
          芸のない主人公が、十五夜遊びの日に掃除を言いつけられてしまい・・・。村遊びの
         初めに演じられる狂言。
       獅子舞(那覇市大嶺)
          悪疫払いと村の繁栄を願って演じられる獅子舞。舞の中で獅子加那志の目が動く
         のが見どころです。迫力満点!
       長者の大主(名護市源河)
          ニライカナイの大主が、長者の大主に種もみを伝授する場面が特徴。村踊りの幕開
         けで演じらるものです。
       蝶千鳥(宜野座村字宜野座)
          男女3組で踊られる打組踊り。1927年頃から踊られており、男が蝶、女が花を踊り
         ます。
       白鳥節(名護市宮里)
          紅型の衣装で四つ竹を手にした打組踊り。この日は初代演舞者の2人のおじいさん
         が50年ぶりに舞う、という趣向。(笑)
 第2部  操り獅子(名護市川上)
          紐で吊るした2頭の子獅子が、舞台の両端から音楽に合わせて踊ります。それを大
         獅子が心配そうに見守ります。
       数久田棒術(名護市数久田)
          舞台の始まりと終わりに演じられる伝統の棒術演武。ケガが絶えないというほどにと
         ても勇壮活発な棒使いが特徴です。
       宜野座の京太郎(宜野座村字宜野座)
          一番のお目当て。スンガー芝居の役者の指導により1900年から演じられていたと
         いうものです。陣羽織を羽織った踊り手と黒い衣装の馬舞者(んまめーさー)が
         ♪サントゥイサーシヌミーサイナー・・・とうたい踊ります。
       作たる米(読谷村字長浜)
          締太鼓と手踊りで豊作を祈念し謡い踊ります。踊りの中に稲を担ぐ仕草や田んぼを
         歩く仕草などが見られます。
       浦島(名護市宮里)
          舞踊を組み合わせて浦島太郎の物語を表す舞踊劇です。登場する者が多く、舞台
         装置がとても華やかでした。

023chikutarumai.jpg  023urashima.jpg
作たる米                          浦島

 ここで、翌日の琉球新報の記事を紹介します。

★“シマの宝”次々と 国立劇場おきなわ公演
 国立劇場おきなわの民俗芸能公演「豊年祭」が16日、浦添市の同劇場で上演された。
 南城市、那覇市、名護市、宜野座村、読谷村の「豊年祭」や「八月遊び」などで行われる特色ある民俗芸能が一堂に会し、地域の独自性を感じさせる芸能の数々が詰め掛けた多くの観客を楽しませた。
 舞台は豊年祭と同じような演目構成で進んだ。
 幕開けは、村遊びの始めに演じられる狂言「掃除さーぶー」(南城市玉城字糸数)。芸のない青年が十五夜遊びの日に遊び庭の掃除を言いつけられるという内容。掃除に励むこっけいな動きが楽しませ、舞台をはらい清めた。
 那覇市大嶺の「獅子舞」は、ワクヤーと獅子の迫力あるやり取りが会場を沸かせた。
 名護市源河の「長者の大主」はニライカナイの大主が登場し、長者に五穀を授けるという珍しい内容。
 男女三組の打組踊り「蝶千鳥」(宜野座村宜野座)と、紅型衣装に四つ竹の打組女踊り「白鳥節」(名護市宮里)では、男女の恋や、めでたさを感じさせる円熟の舞が観客を引きつけた。

 2部は、糸繰りによる獅子舞「操り獅子」(名護市川上)で始まった。糸でつるした子獅子2頭の跳びはねる様が楽しませ、「数久田棒術」(同市数久田)は、棒を突き合う際どい演舞に歓声が上がった。
 宜野座村の「宜野座の京太郎」は、陣羽織の踊り手の舞と、組踊演者のような「馬舞者」の堂々とした唱えと立ち回りに見応えを感じた。
 読谷村長浜の「作たる米」は、農作業を表現する歌や手踊り、締太鼓の演舞を通し、豊年を願う人々の思いを描いた。
 名護市宮里の「浦島」は浦島太郎の物語を描いた舞踊劇。「谷茶前」「遊びしょんがねー」「下出し述懐節」の舞踊や歌三線で、喜びや華やかさ、悲しみを情感たっぷりに表現した。

 各地の民俗芸能を、同じ舞台で鑑賞できるぜいたくな構成だったが、舞台芸術として地域の空気感や臨場感を醸し出す演出に難しさを感じた。
 「獅子舞」の目の動きや「浦島」の乙姫が光をともす演出など、特色ある見どころの幾つかの表現が十分でなかったのが残念だった。


 う~む、なかなか鋭く適切な評論です。
 沖縄に大勝軒があるとは知らなかった。
 大勝軒と言えば、白色にほんのり黄色、コシがある中につるっとした感じの多加水卵中太麺。東京で食べたあの味、食べ応えが思い出されます。

 大勝軒は沖縄には小禄と宜野湾に2軒あるようですが、今回は宜野湾の「大勝軒沖縄店」にトツゲキしてみました。国立劇場から那覇には向かわず、逆方向に進んでわざわざ。(笑)



 ラーメン650円。
 ご覧のとおりなかなか本格的。ぶっとくて、にゅるっとした感じのストレート麺だ。味はばっちり節系。

 沖縄はどうしても博多ラーメン系の店が多く、コシがあってがっつり太いラーメンが少ないように思う。
 そんな中、このようなラーメンが食べられるのはある意味シアワセである。
 こういう店が沖縄のあちこちにあるならば、北日本のおれのような者でも退職後に移住ができようというもの。
 おいしいラーメンが食べられなければ生きていけないもので・・・。

 ニーセーター3人ぐらいで店を切り盛りしていました。
 元祖のほうで言う「もりそば」は、ココでは「つけめん」というのですね。

 沖縄県宜野湾市字真志喜624-1
 営業時間  月~金は11:30~15:00、18:00~21:00
         土・日は11:30~21:00
 定休日    火曜日


 沖縄音楽界の第一人者知名定男が、沖縄民謡の総括として101曲を新たに録音し、6枚組のCD BOXセットを世に問います。スバラシイ! 感激です!!
 嘉手苅林昌の7枚組CD「海・恋・戦 -沖縄島唄の伝説-」(2000 VICG-60284~91)にも匹敵する、島唄愛好者にとっては後世語り草となるような重要なCDとなりそうだ。

 それは、「島唄百景」(KICS-91486~91491)。2009年10月7日発売です。

 嘉手苅林昌が逝去したのは1999年10月8日。あれからちょうど満10年にしてその愛弟子が集大成アルバムを発売するというのも、なにかの因縁なのでしょう。
 値段は15,000円。チト値が張りますが、おれは買うぞ!

 監修は、沖縄芸能の研究者で国立劇場おきなわの大城學氏。氏は、先に観た国立劇場豊年祭でも総指揮をとっていました。
 歌詞、曲目解説、沖縄民謡概説を収録した別冊ブックレットがつくそうです。

 収録曲は次のとおり。いやぁ、分厚いなぁ・・・。

Disc1 祝儀曲・舞踊曲
 1祝い節 2島や唄遊び 3舞方 4城ぬ前 5すんさーみー・永良部すんさみ 6ばちくゎい節
 7あやぐ節 8貫花・南嶽節 9前ん田節・さうえん節・稲しり節 10汀間とぅ小 11取納奉行
 12汀間とぅ 13伊計離れ節・勝連節 14越来よー 15川平節 16金細工
    歌、三線・琉琴・太鼓:知名定男  三線、歌:知名定人  囃子:ネーネーズ
    歌、三板、囃子:吉田康子  囃子:鳩間可奈子  琴:上地律子

Disc2 遊び歌・座興歌(1)
 1やっちゃー小 2かいさーれー 3だんく節 4松ちゃーやっちー 5祖慶漢那節 6遊び県道節
 7畑ぬ打豆 8海ぬちんぼらー 9今帰仁天底節 10ひんすー尾類小 11名護ぬ前
 12なんだりー小 13挽物口説 14廃藩ぬ士 15だいさなじゃー 16はりくやまく 17唐船どーい
 18嘉手久 19なーくにー・はんた原
    歌、三線:知名定男  歌、三線:知名定人  囃子:ネーネーズ  歌、囃子:吉田康子
    囃子:鳩間可奈子  指笛:比嘉綾乃

Disc3 遊び歌・座興歌(2)、教訓・移民(出稼ぎ)・旅愁・戦さ世と平和
 1なーくにー・山原汀間とぅ 2県道節 3十番口説 4なーしび節 5浦波節 6移民小唄
 7南洋小唄 8別れの煙 9南洋浜千鳥 10下千鳥 11国の華 12銃後の妻 13PW哀りな者
 14屋嘉節 15二見情話 16懐かしき故郷
    歌、三線、琉琴:知名定男  歌、囃子:吉田康子  囃子:鳩間可奈子
    琴:上地律子  琉琴:知名定照  囃子:ネーネーズ

Disc4 芝居歌・島誉め歌
 1中城情話 2西武門節 3白浜節 4愛の雨傘 5帽子くまー 6ひじ小節 7桃売あん小
 8きざみ節 9大島ちょっきゃり節 10安波節 11島めぐり 12永良部百合の花 13三村踊り
 14砂持節 15糸満姉小
    歌、三線・琉琴:知名定男  三線:知名定人  琉琴:知名定照  歌、囃子:吉田康子
    歌:鳩間可奈子  歌:我如古より子  歌:饒辺勝子  琴:上地律子

Disc5 恋歌(1)
 1おぼろ月 2紺地小 3里前とよー 4世宝節 5白雲節 6伊佐へいよー 7浜育ち
 8十五日むえー小 9しからーさぬなー 10嘆きの梅 11でんすなー節 12御持奉行・其の万歳節
 13二才小ばーちー 14梅の香り 15久場山越地 16仲島節 17いちゅび小 18よー加那よー
    三線、太鼓、琉琴:知名定男  琉琴:知名定照  三線:知名定人
    歌、囃子:饒辺勝子  歌、囃子:金城恵子  歌:我如古より子  歌:大城美佐子
    囃子:吉田康子  囃子:鳩間可奈子

Disc6 恋歌(2)
 1遊びしょんがねー 2恋ぬ花 3染みなし節 4月と男心 5情念 6恋語れー
 7水むらさん二人が仲 8くらは山田 9めぐり逢い 10やんごー節 11山ぬ端に越地
 12新里前とよー 13じっそー節 14安田越地 15裏座小 16うんじゅが情どぅ頼まりる
 17門たんかー
    三線、琉琴、太鼓:知名定男  琉琴:知名定照  三線:知名定人
    歌:我如古より子  歌:金城恵子  歌:吉田康子

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 一方、これに先駆けて9月9日には、「島唄百景」のエッセンス版として、15曲入りの「唄魂」(うただましい、KICS-1485、2800円)が発売されます。
 13曲は「島唄百景」の収録曲ですが、ボーナストラック2曲(七月えいさー~久高節~すーり東と不志情者)はこちらにのみテイクされます。

 おれは「唄魂」はパスして「島唄百景」のほうに賭けます。
 17日。この日は本島北部方面へのドライブに充てました。
 まず行ったのは、沖縄自動車道の終点集落、名護市許田にある「許田の手水」です。

 1993年に初めて沖縄を訪れたとき、観光バスのガイドさんが「許田の手水」について解説し、そのうたを披露してくれたことが今でも印象に残っていて、許田と言えば「許田の手水」だよな・・・というイメージが自分にはあります。
 なのに今までその場所には行くことがなかったので、16年の時空を超えて行ってみよう、という趣向です。(笑)



 名護市市指定文化財(史跡)として、昭和48年指定。
 案内板によると、

   むかし、許田の村にたいへん美しい娘がいました。ある日、娘が村の後にある「クシヌカー」
  という泉で洗濯をしているとき、首里の殿様が馬に乗ってそこを通りかかり、娘を見て「水を下
  さい」と声をかけました。
   娘がニーブ(ひしゃく)で水を汲むと「あなたの手で水を汲んで下さい」といったので、娘はや
  むなく手で水を汲んで上げました。
   そして、娘の美しさにほれた殿様は、娘を首里に連れ去り、村人をなげかせたという話が伝
  えられています。
   それからその泉を「手水」と呼ぶようになったそうです。
   許田に橋がかかる前は、大きく入りくんだ内海(入江)沿いに道があり、遠く福地原や現在の
  古知屋又を迂回して、ここにたどり着きました。
   その道沿いにこの泉があり、旅人ののどをうるおしたのです。
   古くから、その泉のことは広く知れわたり、次のような琉歌も詠まれ、平敷屋朝敏作の組踊
  「手水の縁」にも引用されました。

    馬よ引き返せ  しばし行ぢ見ぼしゃ  音に聞く名護の  許田の手水   与那原親方良炬
    面影よ残す  許田の玉川に  なさけ手にくだる  水の鏡          玉城親方朝薫
    汲みよ始めたる  誠真実の  流れても絶えぬ  許田の手水        読人知らず

                                      平成7年5月  許田区
                                                名護市教育委員会

――とのことです。

024kyoda2.jpg

 手水の隣には、この地随一の聖地と思われる「後ぬ御嶽」がありました。一直線の急で長い石段を登って参拝。


 ウトゥフィジーいわ、と読みます。
 国道58号線、名護市の仲尾次(なかおし)から源河(げんか)方向へ、北へ北へと行く途中、古宇利島の右脇に小さく見える岩です。
 この岩には、次のような夫婦の愛情と教訓の物語があるのだそうです。

    昔、羽地間切の源河村に、たいへん気の強い女性がいました。女性は、両親が気に入った
   働き者の男をどうしても好きになれませんでしたが、両親の強い薦めで無理矢理に結婚させ
   られてしまいます。
    結婚した二人はとても仲が悪く、いつも口論が絶えず、両親もほとほと手を焼いたそうです。
    「このままでは2人にとってもよくない。二人が仲良くなる手はないか」
    そこで、両親はあれこれ考えて、ある計画を決行したのだそうです。
    それは、若夫婦を舟遊びにかこつけて沖へ連れ出し、沖合の岩に二人を置き去りにするこ
   とでした。
    小舟に両親と夫婦、それに地元の若者たちが乗って、沖へ沖へとこぎだしました。やがて
   大海原の岩肌に舟を着けると、両親は「さあ二人から先に舟を降りて、岩に上がりなさい」と
   促しました。
    そして、二人が岩に上がったとたん、他の人々が乗った舟はさっと引き返したのです。
    驚いたのは岩の二人でした。
    「おーい、いったいどうゆうことだ。舟を戻してくれ」
    しかし、いくら大声を出しても舟は戻らず、源河方向の波間へと消えていきました。
    やがて太陽も沈み、海風も強くなってきました。仲の悪い二人は言葉を交わすでもなく、背
   中を向けあいます。だんだん寒くなり、二人はがたがた震え、これ以上は耐えられない状態
   になりました。
    夫は妻の怯えた姿を見ると、自分の綿入れを脱いで妻にやさしく着せてあげました。妻は
   夫の愛情にいたく感動し、涙を流しながら日ごろのわがままを詫びたということです。
    翌朝、親たちは2人のいる岩に迎えに行きました。すると、岩の上の二人は仲睦まじくして
   いるではありませんか。その様子をみて、親たちはたいへん喜んだといいます。
    源河へ戻った夫婦は、その後、人もうらやむほどのおしどり夫婦になったと伝えられていま
   す。
    それ以来、夫をないがしろにする女を戒めるため、この岩を「夫振岩」と名づけたといわれて
   いるのだそうです。

 沖合に見えるこんな小さな岩にも、そんな逸話が秘められているのですね。
 こういう逸話が随所にある沖縄って、すごいと思う。単に素朴であるというだけではなく、深く豊かな感受性や創造性があるのだなと思います。


 2007年2月に発売された「美童物語」に続くモーニングKCの第2弾。マンガです。
 今回はコミック誌「モーニング」の2008年32、33号に掲載された2編に描き下ろし作品を加えた読み切り4編で構成されています。
 それらは、「糸満売り-姉の章-」、「糸満売り-母の章-」、「ユタ」、「世を捨てよ」。

 「糸満売り」の2編は、前作の主人公、ノロの孫として生まれた少女カマルではなく、やんばるから糸満に売られてきた平良キヨという9歳の少女です。悲しい境遇に負けず、やんばるにおいてきた家族のために健気に年季奉公を続けるその姿には、感動すること請け合い。
 著者もそうとうに気合が入っているようで、カバーの中折れに次のように記しています。

   「イユグヮー コーンチョーラニー (お魚を買いませんか)
    イチマンカラヌ イマイユヤイビンドー (糸満から持ってきた新鮮なお魚ですよ)」
   魚売りのカミアチネー(行商)の掛け声である。
   美童が健気に行商をしている様子を想像する。
   私が描きたい風土がそこにある。
   郷愁でもいい。
   今につながる沖縄の風土の本質を描きたいと思う。

 Ummm・・・・糸満アングヮーたちの行商の声が聞こえるそんな時代に、一瞬でもいいからタイムスリップしてみたいなぁ。

 粗末な芭蕉布の着物に裸足。明け方から床片付け、水汲み、薪運びと、同じ境遇のやさしい先輩ネーネーに恵まれて懸命に働きます。頭上にバーキ(籠)を載せて那覇の街へと魚を売りに列をなして歩く娘たちのシルエットが美しい。
 その一方で次々に出征していく青年たち。はやり病に冒されてはかなく死んでいく乳飲み子。我を忘れて悲嘆に暮れる母。その子の悲しい葬送。
 そんな戦中の様子がさりげなく登場します。

 マンガだからといって侮ってはいけません。表現が深いというか、絵の中の背景や風景、絵と絵の間に潜む心情や間のようなものなどに気づいてしまうと、ひとコマひとコマ考えてしまったりして、けっこう読むのに時間がかかります。なんだかんだで読了まで5日もかかってしまいました。

 そうそう、少女たちの話すウチナーグチ。これも感じが出ていてなかなかいいです。


 昼メシは奥間の「くんじゃんそば」でと決めていました。
 前々日、野菜そばで有名な金武の「ぎんばる食堂」に行ったところ、もう売り切れで店を閉めていたので、今度こそということで。

 ゴッパチを北上して、奥間集落の手前、左手にあるローソンの隣です。
 2007年9月にオープンした沖縄そば専門店で、化学調味料は一切無添加の自家製麺なのだそうです。

 狙っていた野菜そば600円を。
 ぎんばる食堂や那覇の波布食堂の肉そばのようなラードのこってり感はなく、野菜炒めは塩味系のあっさりしたもの。キャベツが多く、ほかにタマネギ、ニンジン、豚肉と、わりとシンプルです。
 それにしても量は多い。最初の数分間野菜炒めをひたすら食べないとそばはなかなか出てきません。

 「中」でもこのありさまなのに、「大」もあります。恐ろしくてたのめません。(笑)
 新しくて開放感のあるウッディな店内には好感。正午前後になると次々に来客があり、ほぼ席が埋まっていました。

 沖縄県国頭村字浜521-1
 営業時間 11:00~18:00  定休日 水曜日


 腹もくちくなって上機嫌で北へ北へと車を走らせていると、謝敷集落にさしかかったあたりで右手のちょっとした空き地に何やら碑が建っている。おぉ、寄ってみよう。

 それは「謝敷節(じゃしちぶし)の碑」でした。
 碑には、謝敷を愛でた琉歌が一首。

   謝敷いたびせに うちやりひく波の
   謝敷みやらべの め笑れはぐき

 謝敷海岸の板干瀬に打ち寄せ砕け散る白波は、まるで謝敷乙女の微笑む白い歯並みように美しい…。
 美しい歌ですね。

 これと似た類いの琉歌はけっこうあって、代表的なものの一つに、

   諸鈍長浜に 打ちゃぎひく波や
   諸鈍女童ぬ 笑い歯ぐち

というのがあります。
 以前奄美大島の南、加計呂麻島を訪れたとき、諸鈍集落の入口にこの琉歌を記した碑があったことを思い出します。

 どうやらこの歌詞でうたわれる「諸鈍長浜節」が本歌のようで、「謝敷節」の歌詞はそのあとにつくられたようです。


 車は一路辺戸岬へ。
 その途中、ゴッパチ本線を外れて確認しておきたいところがあります。それは、「戻る道」。

 辺戸岬はかつて2回訪れており、1994年には一度この旧道を通っているのですが、その時は「すごい切通しがあるものだな」としか思わずにいたのでした。
 ところがココって、けっこうスゴイところだったらしいのですね。

 沖縄総合事務局北部国道事務所のHPによると、

    国頭村宜名真(ぎなま)にある「戻る道」は、1913年に改修されるまで、断崖絶壁を通る
   100メートルほどの坂道として知られていた。人がすれ違うほどの道幅がないことから、中
   間地点に置かれた旗に先にたどり付いた者が優先して通れるという取り決めがあった。先
   に旗までたどりつけなかった者は、今来た道を引き返らざるを得なかったことから、「戻る道」
   とよばれるようになった。
    道路改修を計画したのは、恩納村出身の当山正堅という辺戸小学校の校長で、1912年
   12月に26歳の若さでこの地に就任したばかりだった。
    当時の宜名真集落の人々は、東シナ海と山に挟まれた集落に平坦な土地がないため、
   「戻る道」を通って上方にある土地を耕していたが、急傾斜で険しい道は、雨や風の日には
   通れなくなるなど不便なものだった。未就学や長期欠席児童が多く、その原因が耕作地の
   乏しさにあることを知った赴任早々の当山正堅校長は、「戻る道」の改良と原野の開墾を熱
   心に村や県に働きかけた。そして、毎日4~50人の宜名真部落民の労力と経費提供もあっ
   て、「戻る道」の改良工事は、着工から半年たった同年11月3日に完成したのである。
    (中略) 「戻る道」は、現在も村民の生活道路として大きな役割を果たしているほか、道
   を上り詰めたところにある展望台「茅打ちバンタ」への道として利用されている。

――とのことです。

 岩が削られる以前の昔、この岩のつづれ折りをよじ登っていた人々の姿を想像して、しばらく佇んでみたのでした。

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 その後、「戻る道」の上方にある茅打ちバンタ展望台に登ってみました。ここに来たのは15年ぶり。
 高みから眺められるのは、島の東方180度。左下手には宜名真の集落と漁港が見えました。


 3回目の辺戸岬。辺戸岬でなにかを見ようと思っていたわけではないのですが、ここまで来れば、素通りはないだろうということで。
 空は青空。岬とは思えないほど風もない。過去2回は天気も悪く、波も高く荒れていて、辺戸岬には荒涼としたイメージをもっていたのですが、こういう日もあるのですね。

 岬のいちばん北の端に大きな記念碑があったので行ってみると、それは「祖国復帰闘争碑」でした。
 碑の台座に記されている文は、次のとおりでした。

★全国の、そして世界の友人に贈る。
    吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。打ち寄せる
   波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。
    鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、1952年4月
   28日サンフランシスコ「平和」条約第3条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。
    米国の支配は傲慢で、県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄
   県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。
    しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世
   界の人々に訴えた。
    見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、27度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利
   を誓う大海上大会に発展したのだ。
    今踏まれている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。
    1972年5月15日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和の願いは叶えられず、
   日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
    しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、まして勝利を記念するため
   にあるのでもない。
    闘いを振り返り、大衆を信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそ
   あり。
    人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために
   警鐘を鳴らさんとしてある。


 文中の「沖天の大焚き火の大地」とは、まだ沖縄が日本に復帰し得なかった頃、ウチナーンチュがこの碑のある場所で焚き火をし、日本領である与論島に向けて祖国復帰を呼びかけたことを述べています。
 碑文からは、祖国復帰の喜びではなく、激しい怒りばかりが伝わってきます。改めて沖縄の悲しく辛い歴史を思わざるを得ません。

 石碑の裏に回ってみると、1976年4月に沖縄県祖国復帰協議会により建立されたもので、碑文は、復帰協第3代会長の桃原用行氏がものした文を、復帰協第6代事務局長の仲宗根悟氏が書したことがわかりました。


 辺戸岬をあとにして、さらにゴッパチをその沖縄本島における起点に向けて進みます。
 奥の集落に架かる橋のたもとに国道58号起点の碑を発見! それではいったん停車して写真を撮ろうではないか。

 その碑には次のように刻まれていました。

★一般国道58号について
    一般国道58号は、昭和47年5月15日の本土復帰に伴い国道として指定された。
    一般国道58号は、鹿児島県鹿児島市を起点として、海上を渡り種子島、奄美大島を
   経由して沖縄県那覇市(明治橋)を終点とする路線である。
    一般国道58号が、沖縄県内に初めて上陸する地点が当地(沖縄県国頭郡国頭村字
   奥新田原541番地の1)となっている。

 碑の隣には、「やんばるの奥や 国道の起点 山奥やあらぬ 海も前なち」との琉歌が書かれた白い木看板があり、その向こう側にオレンジ色の起点標が立っていました。

 そのそばのコンクリート橋からは太平洋に繋がる海が見渡され、欄干にはゴッパチにとってかわる県道70号線の起点標識があり、終点の国頭郡東村平良まで49キロあまりの距離があることが記されていました。

 天気もいいし、なんか落ち着いた佇まいが感じられて、本島最果ての集落と思われている奥というところもなかなかいいですね。
 時計は午後2時近くを指している。そろそろ戻らなければ。
 ということで、県道70号線をひたすらに南下。
 海もあまり見えず、ずっと山道のこの道路、ヤンバルクイナやセマルハコガメなどの希少動物に注意しながらタラタラと走っていると、右手になにやら新しい石碑がある。これも見て行こう。



 なかなか目立つつくりだなーと思いながら寄って見てみると、あれぇ、コレ、一昨日できたばかりじゃーないの。

 台座に記されている全文を紹介しましょう。

★伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑
    この地は、沖縄を占領しているアメリカ合衆国が北部訓練場として使用し、更に、実弾
   射撃演習場併設を通告し、強行に演習を実施しようとしたことに対し、地域住民・村民・
   支援団体が必死の決意で実弾射撃演習場設置を阻止した場所である。
    1970年12月22日、国頭村長あてに伊部岳を中心とした北部訓練場内に実弾射撃
   訓練場を設置することを琉球政府(現沖縄県)を通して電話通告してきた。
    26日に国頭村議会は即、抗議決議を採択し演習阻止を明確に宣言した。同日に安田
   区では演習場設置反対評議会を結成し、住民ぐるみの動員体制を整えた。午後には米
   海兵隊員が31日から射撃演習をはじめるとの情報を村に伝え、緊迫する中で30日を迎
   えた。
    国頭村字安田・安波・楚洲の3集落では小中学生も阻止行動に参加した。一方、着弾
   地点には、子供、高齢者を除き最大動員して座り込み、抗議・阻止の旗を掲げ、火を焚き、
   煙の合図で強固な阻止体制が完了したことを告げた。
    31日を迎えた。国頭村長を先頭に村民をはじめ支援団体約600人が発射地点近くで
   実弾射撃阻止大会を開き、着弾地点の北側に70人、南側に200人の行動隊が座り込
   み実力阻止、有刺鉄線を乗り越えて発射地点に突入。大混乱の中で、重軽傷者を出しな
   がら体を張って米軍権力に対抗して阻止実現。「やったぞ!米兵は帰れ!」歓声と怒りの
   声が深い豊かな山にこだました。
    持ち込んだ砲弾はヘリで持ち帰り、米軍は正式に実弾射撃演習の中止を発表した。
    こうした決死の思いで村民、県民の生命、財産をはじめ、豊かな自然、水資源、ヤンバ
   ルクイナやノグチゲラなどの貴重な動植物を守ることができた。
    “森と水とやすらぎの里”といわれる山原の自然を守り育てようとした先人達の偉業を伊
   部岳実弾射撃演習阻止闘争碑の存在を通して、平和、命の大切さを学習し、後世に語り
   継ぐために、この地に伊部岳実弾射撃演習阻止闘争碑を設置した。
                                      2009年8月15日 
                                      国頭村制100周年記念


 また、琉球新報に掲載された「除幕式」の記事は、次のとおりです。

★「伊部岳闘争」後世に 国頭村安田に碑建立  
    1970年に米軍が北部訓練場の伊部岳で強行しようとした実弾射撃訓練を、住民が一
   体となって阻止した闘争の記憶を後世に残そうと、国頭村は現地安田に闘争碑を建立し、
   15日に除幕式が行われた。
     (中略)39年前の行動をたたえようと、村は村制100周年事業の一環として闘争碑の
   建立を計画。背後に伊部岳が望める安田の県道70号沿いに碑を設置。碑は高さ1・5メー
   トルで、台座には碑文と当時の写真が彫刻されている。
    除幕式で宮城馨村長は「先輩たちの体を張った阻止行動をしっかり継承し、これからの
   村づくりに生かしていきたい」と決意を表明。村関係者や安田、安波の小学生らの手によっ
   て除幕された。


 ・・・。しかし、自治体がつくったとは思えないような、過激な内容の碑ですね。(笑)


『沖縄の「軍用地主」には、年間数千万もの地代が転がり込んでくる。祖父と二人で暮らす邦博の周囲にも、あり余る金を巡り、怪しげな人物たちの出入りが耐えなかった。そんな彼の前に、訳ありらしい若い女が東京からふらりとやって来る。彼女が言うままに、邦博はある事業を興そうとするのだったが……。』
――という設定。

 又吉栄喜は96年、「豚の報い」で芥川賞を受賞。それを読んだときも少なからず思ったのですが、純文学としては筋書きが突飛というか、次に起こることの脈絡の必然性が薄いというか。
 印象派の絵画をたくさん見たあと、抽象画を唐突に見せられたような感じがします。

 巻末の解説ではそれを、「人物各自が大マジメに話している会話の滑稽さがある」、「それでも言いっぱなし、聞きっぱなしというものではない会話のズレは登場人物ひとりひとりがもっている時間のズレがにじみ出てくるからである」、「豚とか馬とかハブとか、生き物を描くときの又吉氏の筆致はじつに光彩陸離」などと評しています。
 言い得て妙と思う反面、ものは言いようだなぁとも。(笑)

 年間何千万ももらっている軍用地主なんてほんの一握りしかいないので、主人公のような人は極めて珍しいのでしょう。
 それから、東京からやってきた美佐子のものの考え方は、常人には理解できないようなレベルのものだと思うし、それに唯々諾々とする邦博の行動も、おれには共感できるところがない。

 ということで、理屈の世界に埋没してしまっているツマラナイ常識人には、この本を読むことで精神の安寧や知的好奇心の充足を得ることはやや困難と思われます。
 反面、沖縄のものの考え方のまったり感、不可思議感は十分に得られることと思います。

 その他。
 会話の部分が多いのに、ウチナーグチは出てきません。
 表題の鯨岩は、海の岩ではありません。軍用地の中にある洞窟を伴った岩です。
 黙認耕作地の中にハブ・パークをつくって観光客を誘致し、米軍を困らせてやろうとの発想は、今の日米関係にあっては奇天烈としか言いようがないとオモイマス。
 03年2月単行、05年8月文庫化。
 少し南下して安波(あは)の集落へ。
 県道沿い。集落の北側にその碑は建っていました。



 安波節は、琉球古典音楽の練習曲としてメジャー。それから、うるま市周辺のエイサー団体はたいていこの曲を用いて踊りますよね。

 スローテンポで、ヤマト風の音階に基づく旋律。これって明らかに奄美諸島の「スンガー節」や沖永良部島の「永良部百合の花」などと同系だと思いますが、いかがでしょうか。

   安波ぬ真はんたは  肝すがれ所  宇久の松下や  ねなしどころ

 「安波の真の崖は、心が風にあたって涼むところだ。そして宇久の松下は昼寝するところだ」
 直訳すればそういうことなのでしょうが、毛遊びが盛んだった当時としては、「真ハンタというところは心を通わせ愛し合うところで、宇久の松下は二人が寄り添って横になるところなんだよナ」というようなノリだったのでしょうね、きっと。

 安波の真ハンタとは、太平洋の目前、川が流れ込み、海風があたるところにある断崖で、その上にはかつての毛遊びどころが「マハンタ公園」となって今も残っているのだそう。
 そうだったのか。そこも見ておくべきだったなぁ。

 安波節の歌詞は、上記のほか、

   安波の祝女殿内  黄金灯篭下げて  うりが明かがれば  弥勒世果報

という、赤田首里殿内でおなじみの歌詞や、

   かりゆしの遊び  打ち晴れてからや  夜の明けて太陽の  上がるまでん
   夜の明けて太陽や  上がらわんゆたさ  巳午時までも  お祝さびら

という、多くの毛遊び歌に使われる歌詞でもうたわれます。


 安波あたりを走っていて、ひときわデカい碑があったので、寄ってみました。
 ホント、でかいぞ。立派だし。
 「官の山拓き 甦る大地」と刻銘されています。

 台座の「効能書き」は次のとおり。

    この開発地は、もともと国有林野で、日米両政府間の地位協定によって軍用地として
   提供された地域でありましたが、安波区はもとより耕地面積が少ないことから戦前戦後
   と山依存による生活を余儀なくされたことから、農地を拡大し農業生産を増し、農家経済
   の向上を図るため、農地開発事業を目的に昭和49年、村を始め県、政府関係省庁に対
   し国有林や土地の活用払い下げを要請致したところ、国始め熊本営林局の御配慮と日
   米合同委員会の御高配によって、昭和52年10月15日、131haが返還合意され、同
   日基本計画策定が承認、全体実施設計が着手、昭和53年度から県営のうち開発事業
   として採択、着工、昭和60年度には造成地74haの甦る大地が見事完成されました。
    ところがこの圃場の土質は強酸性赤土色土壌で、保水力に乏しくかんがい施設は急
   務とされておりましたが、農産物の自由化等に対し、生産性の向上、地作物への転換
   の円滑化等農業経営の合理化を図るため、平成2年度に県営緊急畑地帯総合整備事
   業が採択され、畑地かんがい営農用水施設土層改良農道が整備されたことにより、
   74haの耕地に散水可能となり「水無し農業」からの脱却が図られ、今後の農業経営安
   定に大きく寄与するものと期待されている。
    今この地は広大な平地に変貌し、パイン、きび、花卉等の産地として大きく飛躍を遂げ
   ております。
    ここに関係機関に深く感謝の意を表し、強く心に銘じ永く我が字の発展に資することを
   祈念して、この碑を建立する。
                                         安波土地改良区
                                         平成5年3月吉日


 いやはや、迷文ですな。変な言い回しは修正し、数多く読点を足して読みやすくしたつもりです。それでも句点(マル)は全部で4つだけとは、大江健三郎の文章みたいだ・・・。
 国始め・・・って、熊本営林局は国だろ? 昭和60年に完成した農地が平成5年までまともに使えなかったのは、単なる設計ミスではないのか? “強く心に銘じ”たものは何なの?関係機関への感謝の念を心に銘じたわけ??
 う~~~~む・・・よくわからん。

 国頭村って碑を建立するのが好きなのでしょうか。村内の道を通る間中、いろいろな碑で楽しませていただきました。
 未読のストックがたんまりたまっているというのに、次々と本を買っているおれは、結局のところただの浪費家なのだろうか?!
 なにか日々の生活に不満があって、「本を買う」という行為で鬱憤晴らしをしているだけだったりして。

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 その12冊は、次のとおり。

 歩いてみよう!おきなわ軽便鉄道マップ おきなわ散策はんじゃ会 ボーダーインク 1470
 幻想の島沖縄           大久保潤            日本経済新聞出版社 1890
 恋するしまうた恨みのしまうた  仲宗根幸市           ボーダーインク      945
 接近                 古処誠二            新潮文庫          380
 沖縄戦後史             中野好夫・新崎盛暉     岩波新書          777
 ひめゆりの塔            石野径一郎          講談社文庫        440
 〈池間民族〉考           笠原政治            風響社           2625
 沖縄県の歴史           安里進 ほか         山川出版社        1995
 オキナワ大神の声         夫馬基彦            飛鳥新社         2310
 にっぽん全国たのしい船旅(2009~2010)            イカロス出版       1800
 芭蕉布                普久原恒勇・磯田健一郎  ボーダーインク      2100
 ひたすら歩いた沖縄みちばた紀行  カベルナリア吉田   彩流社           2100

 買いたい本はネットショップにて「沖縄」とか「琉球」とかのキーワードで検索して決めるのですが、それらのキーワードではひっかからない秀逸本がごろごろあります。
 そういうものは実際に書店で確認する必要があるのですが、この夏、沖縄に行ったときに「沖縄本」コーナーでチェーック!!
 というわけで、「接近」とか「〈池間民族〉考」とか、検索しづらい本も入手。

 かつては沖縄で大量に買って、荷物に入れて持ち帰ったものですが、ネットのおかげでそんな苦労はなくなりました。
 反面、あとでネットで買えばいいやと思ってスルーした本がネット販売されていず、次に訪沖したときにはすでに棚から消えていた――ということも。
 「琉球王女 百十踏揚」(新星文庫)なんてのもチェックしていたのだけど、ネットでは売っていなかったものナ。


 ここからは名護市です。(笑)
 ぜひ見たい場所、ハジウスイ坂の碑へ。
 名護市源河(げんか)と東村有銘(あるめ)の間の山道、今は県道14号線になっていますが、その中間地点に碑があります。

 山里ユキのCD「山里ユキ特集」(1990)にはこの曲が最後に収録されていて、なにやら悲しげなトゥネーとともに歌いだされるのが印象的。
 調べてみると、そこには悲しい物語があるのでした。

    明治の初め頃のこと、有銘にオトという美しい娘が、源河の久松という若者といつしか恋仲
   になりました。そして、遠い両村を結ぶ山道にある坂で、二人は毎夜逢瀬を重ねていたそう
   です。
    ある夜、約束の時刻が過ぎても久松が現れなかったので、待ちあぐねたオトは、もしや久松
   が心変わりしたのではないかと疑い、源河まで下りて行ってみることにしました。
    すると、男は村の集会所で娘たちと仲睦まじく談笑しているのが見えました。それは男にとっ
   て、村の娘たちとつきあうことで、有銘の彼女とのつきあいをカムフラージュするためだったの
   ですが・・・。
    しかしそれを見たオトは大いに悲しみ、峠に引き返すと、その場で自害しました。
    頃合を見て集会所を抜け出した久松は、彼女が暗い山中で待っているかと思うと気が気で
   はありません。急いで峠へと向かいました。しかし、すべては遅く、オトは変わり果てた姿と
   なっていました。
    悲しみにくれた久松は、やがてオトの後を追って自害しました。
    翌日、亡くなっている二人の亡骸を見た村人が、木の葉で恥ずべきところを覆って葬りまし
   た。
    それから、その場所はハジウスイビラといわれるようになり、二人の霊に惑わされないため
   に、そこを通る人は必ず木の葉を置いて行くようになりました。

――ということです。


 恥うすいの「恥」は、男女のあられもない姿を恥とする考えと、自殺や変死を村の恥と考える立場の二つがあるそうです。
 そして、その二つの「恥」を覆い隠し、この話を他のシマの人々に語らないようにしていたとも言われています。
 木の枝を折って置く風習は、山の神や道の神(さえの神)へのまじない、行き倒れ、変化した場所などへの注意を喚起する意味があり、沖縄県外では「柴うすき」「石うすき」と呼ばれるものなのだそうです。

 碑には、

    野山越る道や  幾里隔みても  闇にただ一人  忍で行ちゅん

――という琉歌が彫られています。昭和61年11月建立。


 なお、山里ユキの「はじうすい坂」の歌詞は次のとおりです。

    源河山脇に あたら花散らしヨ          じんかやまわちに あたらはなちらち
    一道なてぃ結ぶ 二人が情            ちゅみちなてぃむしぶ たいがなさき

    哀り露果てぃてぃ 肌染だる所ヨ         あわりちゆはてぃてぃ はだすだるとぅくる
    道歩む人ぬ 枝小覆つてぃ            みちあゆむひとぅぬ ゐだぐゎうつてぃ

    はじうすい坂に 咲ちゃる二人が花ヨ      はじうすいびらに さちゃるたいがはな
    いちぐいち迄ん 沙汰ゆ残ち           いちぐいちまでぃん さたゆぬくち