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 え~、毎度おなじみ、沖縄本の大量入手報告です。
 今回は以下の7冊。

 1 汚名―第二十六代沖縄県知事 泉守紀  野里 洋   講談社       1800
 2 西表やまねこ診療所         岡田 豊        扶桑社       1470
 3 ガリオア留学生の足跡     ガリオア・フルブライト沖縄同窓会編・発行 2200
 4 沖縄甘藷ものがたり         金城鉄男        農文協       1260
 5 沖縄幻想                奥野修司        洋泉社        798
 6 セカンドライフ実践だより       平野 宏        鳥影社       1470
 7 奄美自立論               喜山荘一        南方新社      2100

 1は、古書で、1993年に発行されたもの。戦時末期の悪名高い官選沖縄県知事のルポで、どうしても欲しかったものです。発売時の定価よりも高い価格でアマゾンから。
 2~7は楽天ブックスから。
 2は、総合病院を飛び出して島医者になった人の手記。
 3とか4はかなりマニアック。ガリオア留学生なんてねぇ・・・。
 5は、名作「ナツコ 沖縄密貿易の女王」の著者が綴る沖縄評論。
 6は、やんばるでセカンドライフを始めたお医者さんが、人間本来の行き方を探します。
 7は、薩摩の琉球侵略以来400年にわたって阻害されてきた奄美の過去、現実を論説します。

 このほかに「歩いてみよう!おきなわ軽便鉄道マップ」(ボーダーインク)も注文したのですが、在庫切れ。またいずれ、ということで。
 ボーダーインクからは、この7月に仲宗根幸市の書いた「恋するしまうた 恨みのしまうた」という新書が発売されたらしい。これはぜひ買わないとな。

 沖縄関係以外では、先に亡くなった藤原伊織の文庫本「遊戯」、「ダナエ」も入手しました。
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 消費者の衣生活の変化に伴い今ではすっかり斜陽産業化してしまいましたが、大島紬といえば高級着物。力士がテレビに出演するときなどは大島紬が定番で、祖父母がため息をつきながらそれを観ていたという遠い記憶があります。

 著者は、大島紬の図案の研究者で、染色や紡ぎに関する技法の開発に永年にわたって取り組んできた人。文筆家ではありません。
 しかし、文章はなかなか洗練されていて、物語として苦にならずに読めるというか、なかなかいいレベルです。

 また、文中には奄美のシマウタが随所にその歌詞とともに紹介されており、それがうたわれる歌垣の場の様子の詳細な記述があったりするので、大島紬に関してほとんど無知ですがシマウタ好きな自分にはとても楽しんで読むことができました。

 著者によれば、大島紬の締機(しめはた)は永江伊栄温という人が発明したというのが定説になっているのだそうですが、調査を進めていくうちに、締機の開発には義弟の昇庸実(のぼりようざね)と甥の昇治太郎(のぼりじたろう)の存在があり、二人の協力なしではその実用化は成らなかったことがわかってきたそうです。
 そこで、大島紬に携わる者の一人としてどうしても二人のことを書き残しておきたいとの念に駆られ、この物語を書き進めた、ということのようです。
 そのような著者の意図は十分に達せられた感があります。

 ですが、悲しいかな、こちらには紬の作成過程についてなんらの知識もありません。緻密な作業が根気よく続けられている様子は伝わってくるのですが、それがどんな作業で、どのような困難が伴うのか。このあたりがわかっていれば、もっと大きな感動を伴って読むことができたことでしょう。

 また、文章はいいのですが、事実関係をもとにほぼ時系列的に記されているためなんとなくルポルタージュ風なところがあり、一方で物語としてのプロットや叙情表現にやや乏しかったりするために、作品としての性格があいまいになってしまったような印象を受けました。

 ところで、「重村」姓は薩摩系? 北朝鮮拉致問題が専門の重村智計は、中国遼寧省丹東の生まれですが、親は沖永良部島出身です。


 主人公は小学6年生の上原二郎。その父一郎は、身長185センチの堂々たる体躯。働きに行かず、物心ついた頃からたいてい家にいて、いずれは印税で暮らせると、外に聴こえるような大声で豪語しています。
 どうやら一郎は、その昔過激派の分子だったらしく、ブルジョアだのアナーキズムだのとかつてのものの考え方が抜けず、いつも二郎の悩みのタネとなっています。

 二郎は学校でも子どもの世界のいざこざに手を焼いていますが、そんなとき、父の友人だというアキラおじさんが借家に居候をはじめます。
 そして、お寿司を奢ってあげるからという誘いに乗ってアキラおじさんの頼みを聞いてあげたところ・・・。
 事態は急展開し、図らずも警察や児童相談所の世話になることになってしまいます。

 苗字で推測できるとおり、父一郎は沖縄出身。また、アキラおじさんは西表島舟浮(ふなうき)の生まれ。
 そんな縁から東京に居づらくなった上原一家は急遽、西表島へと移住することになります。
 ここまでが、上巻の展開です。

 風変わりな父のほか、元活動家だったというやさしく毅然とした母、幼い子どもから女の子へと変わっていきつつある小学4年の妹桃子、大学を出たばかりの若い女性担任教師の南先生、クラスメートで親友の淳や向井やリンゾウ、女子のサッサやハッセ、同学年のワル黒木、その親分のコワイ中学生カツなど、個性的な面々が登場します。

 いやぁ、小説って面白いなぁ。ハマると時間を忘れますね。
 はてさて、その後の展開やいかに。早く下巻が読みたい!

 ということで、ただちに下巻に突入します。


 上巻で東京中野で大暴走した上原一郎一家が、西表島白浜の廃屋を改造してそこで暮らし始めるところから、下巻はスタート。いよいよ沖縄です。

 一郎一家は、郷里の石垣島の空港に降り立つや、門中をはじめとした多くの関係者から大歓迎を受けます。
 なんでも一郎はオヤケアカハチの子孫だといわれていて、ナルホド風貌もそっくり。一門には過去に八重山のため自己犠牲を発揮して立ち上がった者などもいて、すっかり英雄です。

 ところが、長老の紹介でようやく住み着いた廃屋の建っている土地が、本土資本のリゾート開発会社に買収されていたために、立ち退きを要求されます。
 これに黙っている一郎ではありません。地元民やキャンプ場に住み着いている外人、小学校の生徒などとともに敢然と、本土資本及びそれに汲々とする地元利権と闘うこととなります。

 「八重山は八重山人のためにあるべきで、東京の資本が金儲けのために自然を破壊するのは許せない」
 「内地に搾取される沖縄、という支配構造を打ち破るためには、税金を納めないのがいちばん」
 御嶽が取り壊されることは「沖縄文化の蹂躙であり、信教への重大な侮辱行為」
 「これは現代のアカハチの乱だ!」

 展開はエスカレートし、小説ならばこうでなくっちゃ!というような、ファンタジックな領域にまでいってしまいそうな奇天烈な方向に。

 最後は、一郎と妻のさくらが家族をおいてパイパティローマならぬ波照間島へと向かい、クライマックスを迎えます。

 著者は、2004年に「空中ブランコ」という作品で直木賞を受賞したヒト。知らなかったけど。
 その実力をこの作品でも如何なく発揮しており、エンターテインメント性は高く、文章力も素晴しいものがありました。
 フフフ・・・いよいよ、おれの夏がやってくるぞー!
 新たな勤務地で真面目に仕事をしているふりを装いつつご当地ラーメン探索ナンゾに勤しんだりしているが、これはあくまでも仮の姿である。
 そうなのだ、おれの本懐は沖縄なのですよ、オ・キ・ナ・ワ。

 明日、8月14日から4泊5日の日程で沖縄に行ってきます、ぐははは。
 5月の連休に本島、渡名喜島、南大東島を巡って以来、今年やっと2度目の沖縄です。

 今回は離島は行かず、本島のみ。徒歩、バス、モノレール、レンタカーで勝負です。
 メインは芸能。国立劇場おきなわで民俗芸能公演を観て、夜な夜な神谷千尋とネーネーズのライブを満喫、そして金武青年フェスタとコザのエイサー見物。どうだどうだ。自然と口元が緩むぜ。
 そしてナゼか、伝統空手道世界大会なんてものもブッキング。
 与那原の大綱曳は、民俗芸能公演と重なり、残念ながら今回は見送りだ。

 それから、日程のうち1日はフルでレンタカーでもってあまはいくまはいし、「許田の手水」、「恥うすい坂」、「伊野波の石くびり」など民話や島唄の題材となった場所の探求に充てることにしています。

 さらには、中江裕司監督の新作沖縄映画「さんかく山のマジルー」を現地でいち早くチェ~ック! 舞台は伊是名島だ。

 お楽しみの「食」。沖縄そばは、サンライズ通りの「大東そば花笠」、首里「あやぐ食堂」のそば定食、金武の「ぎんばる食堂」や奥間の「くんじゃんそば」の野菜そば、呑んだ後の一杯は農連市場近くの「丸安そば」あたりを狙ってみようか。
 呑んだ次の日はゆし豆腐も食べたい。山下の「豆腐屋食堂」、ゴッパチ沿いの「いちぎん食堂」や「ハイウェイ食堂」あたりかな。
 せっかくだからA&Wのルートビアやブルーシールアイスクリームも。あとタコスも。
 ああ、きりがないね。(笑)

 せっかくの機会なので、目一杯楽しんで来たいと思っています。
 さて、天気は大丈夫かな?
 じゃあ、行って来ましょーねー・・・。

 2009年8月、14日から18日にかけて沖縄本島を訪問しました。生涯38回目の沖縄です。
 幸いにして連日快晴。那覇の喧騒の中を道ゆらりしたり、音楽と酒を求めて深夜徘徊したり、島内をあまくま走い巡てぃーしたりしてきました。
 その様子の一部を写真とともに書いていきます。

 その1回目は、那覇に着いて夕方、まずは遅い昼メシをと思って向かった「丸安そば」の肉そば550円の紹介です。
 開南交差点から壺屋方面へ少し行ったところに、通りに面してまるで屋台の延長のようにしてその店はありました。厨房を囲んでカウンター席が十数席。夜になると、こんな感じのいい雰囲気になる。

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 肉そばが人気らしいので、券売機で食券を買って着席。上の画像で言えば、右から二人目あたりの席だ。
 しばらくして厨房内から差し出されたそばはご覧のとおり。ラードで炒めたおいしい野菜炒めがたっぷり。これに備え付けの紅ショウガを乗せて。

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 いやぁ美味いなぁ。このラードの効いた甘みとコクのあるスープを啜れば、沖縄に来たんだなあという実感が湧いてきます。
 波布食堂の肉そばのような強めの濃厚さは感じられず、量も適量。わざわざ歩いて食べに来た甲斐がありました。店で働くあんまーたちのてぃーあんだーと心意気に、おのれの身体がだんだん軟化していく・・・。

 年中無休の24時間営業とのこと。呑んだあとなんかもよさそうだ。
 那覇市樋川2-3-6
 初日の夜は、北谷のSALT&PEPPERで行われる神谷千尋のワンマンライブ「ミールサヌー・沖縄」を観に行く。

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 SALT&PEPPER

 19歳でデビューして8年。この日は本人の27歳の誕生日ということで、そう広くない客席は超満員。
 しばらく目立った活動の噂が聞こえてこず、神谷千尋はどうしたのだろうか、できちゃった婚かなんかで活動を休止してしまったのか・・・などと思っていたのですが、さにあらず。
 本人曰く、新境地を開拓するべく、勉強や充電に日々を充てていたのだとのこと。今回のライブは、ワンマンライブとしては8ヶ月ぶりなのだそう。
 で、その成果が、9月30日に発売されるミニアルバム「チェーリング」で、今回はその収録曲などが披露されました。

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 第一部は、1 ティンジャーラ      2 トゥマイ浜
        3 ひいらぎ          4 星のリズム
        5 美童しまうた       6 浜千鳥
        7 いつかの
 3、4、7は新作「チェーリング」から。6は、会場に来ていた父・神谷幸裕との本格民謡の競演。おれとしてはこれが一番聴き応えがあった。
 1も、相変わらずグー。自信満々でうたっているもんな。
 反面、千尋ちゃんには悪いが、新作系はどれも“沖縄テイスト”を感じさせない曲調やアレンジとなっていて、おれにはしっくりこない。うたい方が神谷千尋のものだからなんとかオリジナリティは確保しているけど、ひとつ間違えば元ちとせの焼き直しのように聴こえないでもない、という感じ。

 第二部は、1 ユメノマタユメ       2 日本の人(HISのカバー)
        3 光の島           4 カナーサヨー
        5 空よ海よ花よ太陽よ   6 恋の人
        7 わらび時分
 1、4、6が「チェーリング」から。
 3は、前作「ティンジャーラ」に収録されている、タイトル曲とともに評価の高い隠れた名作。千尋の節回しが絶妙なのだ。そして弾く三線。新良幸人のようにオフビート風に爪弾いて見せました。

 アンコールは「さがり花」、そして最後は、新作のトリに収録の「浮世唄」でした。
 再び幸裕がステージに乱入し、三板を掻き鳴らしながらカチャーシー。よっ、芸人! 娘よりずっと目立っていたぞ。(笑)

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 終演は22時10分。美浜近くを通る那覇方面行きの最終バスが出たあとなので、ただちにタクシーで宜野湾の伊佐バス停まで。1100円。ここからならまだ那覇行きはあるので。
 こんなことまで知悉してしまっているのね、おれって。(嘲笑)


 15日は、奥武山運動公園内の県武道館で開かれている沖縄伝統空手道世界大会を観に行ってみた。
 14、15、16日と開かれるこの大会、世界各国から6,000人の出場者があったと報道されていました。

 沖縄の空手道古武道は、中国や東南アジア諸国の武術と沖縄固有の手(てぃー)が加味されて完成したもので、沖縄を発祥とする武道として海外178の国と地域、およそ5,000万人にのぼる愛好者を有する程、普及、発展しているのだそう。

 ホント、沖縄では空手が盛んで、町を歩いていると「○○空手演武大会」なんていう横断幕をよく見かけたりするし、空手道場もあちこちにある。
 かつては泊手、那覇手など、そして近年では小林流、剛柔流、上地流、松林流など、様々な流派があるというからスゴイ。

 で、会場もご覧のとおり、アリーナも観覧席も人でいっぱい。その中には、涼しいところに涼みに来ただけ、などという人もいたかもしれないが。

 この日はメインイベントの空手道古武道競技大会。おれが見たのは空手道の成年男子の部。1対1で競うのだが、戦うのではなく、それぞれが演武を行い、審判の旗判定で勝った者が勝ちあがるという仕組み。それがアリーナの9箇所で繰り広げられている。

 演武の型も、セーサン、サンセーリュー、クルルンファー、スーパーリンペーなどなど多彩。試合で一度使った型は、それ以降の試合には使えず、別の型で臨むことになる。

 進行のしかたとしては、どうやら9面もあることがネックになっているようで、片方で演武中に別の面のアナウンスを声高にはできないことから、観客はずーっと見ていなければ、今見ている演武が1回戦なのか準決勝なのかわからない。
 おれがマークしていた日本の選手は、残念ながら準決勝で敗れた。

 結構ガイジンさんの参加も多く、モノレールに乗ったりすると、空手のTシャツを着た様々な色の人たちがそれぞれてんでに各国の言葉で話していたものだった。

 しかし、こういう国際大会がこれだけ大規模に開催されるというのも、沖縄ならではなのだろうな。
 あ、新型インフルエンザ。ちょうどこの時期、沖縄での蔓延が全国的に話題になったけど、その原因のひとつはこの大会なのか?!
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 2時間ほど空手演武を見たあとは、奥武山運動公園近くの「豆腐屋食堂」でゆしどうふ定食650円を食べた。
 ココは前々から来てみたかった店。豆腐屋さんが豆腐工場の隣でやっている食堂なので、できたての豆腐料理が味わえるのです。

 この直射日光の下で人通りなどほとんどない道を歩いて店のドアを押すと・・・。なんとまあ、なんでココにこんなにヒトが?と思うほどたくさんの人たちがメシを食べている。うひゃあ、満員だ。人気店なんだねぇ。

 今さら食べずに店を出るわけにもいかず少し待っていると、ほどなく席が空いた。観察していてわかったのは、注文してから品物がサーヴされるまでの時間が短いこと。なかなかいい店ではないか。

 メインのゆしどうふがアツアツ、絶妙な塩加減で最高にうまい。これに厚揚げ、卵焼き、青菜と豆腐の冷たい和え物、太い切干大根と昆布のイリチー、おから。特に厚揚げは、ものすごくウマかったゾ。
 写真右上は、ご自由にドウゾの豆乳です。

 これで650円は安い。繁盛するはずです。
 お昼時を微妙にはずせばもう少しゆったりできたのかもしれません。

 那覇市山下町1‐24‐1F


 ここからはレンタカーで中部・北部めぐりです。今回は民謡や琉歌に登場する歌碑や記念物などをいくつか巡ってみようということで。
 この日は夕方、「金武町青年フェスタ2009」に行くので、その途中にあるものを。

 まずは、中城村伊舎堂の3本ガジュマルです。
 古典音楽で「花の伊舎堂」とうたわれたこの地を実際に見てみたかったので。

 村指定史跡。かつて伊舎堂の集落は、中城城跡の近くにあったのですが、現在の地に集団移住したのだそうです。そのとき、最初に移り住んだ3組の夫婦が、無事移住することができたことを記念して植えたのが、この3本ガジュマルなのだと言われています。

 毛遊び唄の「主ぬ万歳」には次のような歌詞があります。

   伊舎堂前の三本がじまる  どっと珍しむん (主ぬ万歳)
   うりが下居とてよ 遊び出来らさな

   (伊舎堂前の三本のかじゅまる木は非常に珍しいもの
    その下に居て遊びを盛り上げたいものだ)

 ひと目見てここは由緒ある場所なのだろうということはわかります。しかし、注意していなければ見逃してしまうかもしれません。
 ガジュマル自体も、名護のヒンプンガジュマルのように大きくはありません。
 写真左手前に「三本榕」と刻まれた石碑が立っています。

 国道329号線を右に折れて旧街道に沿って伊舎堂集落に入り、伊舎堂駐在所の左隣にあります。現在ある木は三代目なのだそうです。


 中城村伊舎堂近く、国道329号線沿いの駐車帯の一角に歌碑「花の伊舎堂」はあります。
 1959年に琉球政府文化財保護委員会により建立されたもので、歴史家・東恩納寛淳の揮亳というから、価値があります。

   思ゆらば里前 島とめていもり  島や中城 花の伊舎堂

   (わたしのことを思ってくださるなら、私のところまで訪ねて来てください。
    私の故郷は、中城の綿花の咲きほこる伊舎堂という評判高い村です。)

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 この歌詞が出てくるのは「じっそう節」。古典音楽の楽曲の一つです。
 この「じっそう節」は歌劇「中城情話」でうたわれます。

 「中城情話」は、親泊興照の作で、1933年に新天地劇場の『珊瑚座』で初演された、沖縄芝居の名作の一つといわれる悲恋物語です。

 伊舎堂村の乙女たちは、野良仕事の合間に花を摘み、恋を語り、大いに青春を謳歌していました。そこへ首里の若侍・里之子がやって来て、村一番の美人ウサ小に一目惚れし、二人は恋に落ちます。しかし、ウサ小には既に阿兄小という婚約者がいました…。
 阿兄小はなんとかして彼女を自分の手に取り戻そうと懇願しますが、ウサ小の決心は固く、結局ウサ小は許嫁を振りきり、さめざめと泣く阿兄小を残し、里之子と中城の浜からサバニで沖へ姿を消してゆきます。

 伊舍堂は綿花の産地だったことから「花の伊舍堂」と呼ばれていたのだそうです。
 綿花を売りに村々を回り、愛嬌をふりまいていた乙女は、綿花とともに人気者だったことでしょう。
 「私を思うのなら、私の村まで訪ねてきてください」――とは、たいした自信がある闊達な娘だったのでしょうね。


 じっそう節の歌碑のある駐車帯の南側には、駐車帯から伊舎堂の集落へと下っていける小径があり、その石段を下り降りきった右手に井戸「リンクンガー」がありました。

 今は使われていないようで、このように半ば放置されているような状態です。
 伊舎堂公民館の西側に位置し、かつてカーの周辺にレンコンを植え、士族が村周りをしたときに食べさせたといわれているそうです。
 漢字で書けば蓮根井。沖縄方言は発音がa.i.u.e.oがa.i.u.i.uなので、こうなるのですね。
 戦前まではアーチ型をしていたといい、戦後、現在見られるような形になったとのことです。

 荒廃したとはいえこういうものが生活の場のそばでひっそりと残っている沖縄。井戸、という言葉は同じでも、井戸はかつて沖縄の人々にとって、我々ヤマトの人間には計り知れない重要なものだったのだろうと改めて思うのである。
 沖縄の井戸は掘り下げ式ではなく湧水だということもあるのかもしれないな。

 リンクンガーに通じる石段周辺では幾種類もの蝶が舞っていました。
 沖縄では蝶は、彼岸に旅立った人間の魂が宿るものとされています。蝶に囲まれて歩いている間中、たくさんの魂たちとともにいるような、ある種の心安らぎのようなものを感じたものでした。

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 車を走らせ、屋嘉ビーチ前のバス停へ。
 バス停近くには「久高住民強制疎開之記念碑」と「日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑」があります。


 屋嘉ビーチバス停と久高住民強制疎開之記念碑(手前)

 まずはバス停の那覇よりにある久高住民強制疎開之記念碑

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 碑の表側には、
   戦世の故に  生まり島はなり
   屋嘉村ぬ情き 忘してならん
という琉歌が彫られています。並里仙八 詠。

 裏側には、次のようなプレートが埋め込まれていました。
   昭和20年太平洋戦争により久高島の住民は強制立退き命令によって生まれ島を離れ、
   疎開先である屋嘉に移り、当地の皆様に大変お世話になった。
   よってここに感謝の意を表し、久高島住民強制疎開の事実を、戦争というものの実態と共に
   後世に永く語り継ぎ、平和を守る礎と資する力となることを願って記念の碑を建立した。
   2006年9月20日竣工 

 久高島住民の疎開先が屋嘉だったとは知らなかった。
 疎開したのは戦中のことだとすれば、戦後捕虜収容所ができた屋嘉にいた久高島住民は、その後どうしたのだろうか。すぐに島に戻れたわけではないだろう。

 また、寄贈とあるが、誰が寄贈したのだろうか。


 碑の表側に刻まれた碑文は次のようなもの。

    第二次世界大戦中米軍はこの地に捕虜収容所を設け、投降した日本軍将兵約7千人を
   収容して厳しい監視下におかれた。一時捕虜の数が増え約3千人がハワイに移送された。
    その時の将兵等はPWと呼ばれ、敗戦の悲哀の中から郷土出身の一兵士により「屋嘉
   節」が作られた発祥の地でもある。
    この収容所は1946年2月閉鎖となり米軍保養所となって、1979年8月31日全面返還
   されるに及んだ。

 ・・・なんか、文法的におかしい一文です。(笑)

 そして裏側には、わが愛唱する「屋嘉節」の歌詞が1番から7番まで記されています。

 屋嘉の収容所は、1945年7月中旬頃ほぼ完成。もとの屋嘉部落全体を平坦な砂浜に敷きならしてつくられたといいます。
 屋嘉節は、金城守堅という人が「PW無情」という詞を書いて、それに山内盛彬が曲をつけたもの。微妙に違う歌詞もあって、碑にあった歌詞は知名定男がうたうものとは異なるところがありました。

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 屋嘉の捕虜収容所のカバーヤー


 “きんうっかがー”と読むそうです。読めないって。(笑)

 数年前、国道329号に出ていた看板を見て、国道から東側に折れて小道を下って行ってみたのですが、探せなかった経験があります。
 今回再度行ってみて、なぁんだという感じ。ちょっと右側後方を注意して見ていれば簡単に見つかったのに。

 なかなか立派な湧水です。
 並里集落の中央に位置する部落共同井泉。カーヤマという山を背に湧き出る清水は、県下に知られた井泉なのだそう。

 1924年に衛生上の見地から金武、並里両区で経費を負担して改修され、飲料用の水場のほか男女の水浴場、洗濯場、芋洗場、牛馬の水浴せ場なども備えた大規模な施設だったそうです。
 元日の若水汲み、もやしづくり、夏の水浴を楽しむ語らいの場などとして、人々が絶えない場だったことでしょう。

 豊富な水量は1日1000トン超で、枯れたことが無いといわれています。
 この日もこんこんと水が流れており、子供たちや家族連れ、長寿の方など多くの人が周辺でゆくっていました。
 どーれ、そろそろ金武青年フェスタへと進もうか。でもその前に。
 せっかく金武まで来たのだから、本場でタコスを食べよう。青年フェスタの会場では屋台スナックしか期待できないだろうし。



 で、キングタコス、パーラー千里、ゲートワンの中からパーラー千里を選んで店内へ。4ピースのタコス550円とコーラ100円を。

 運ばれてきたブツを見てビックリ! 一人でこんなに食えねえよ的ボリュームです。
 だいたいタコスって、具がトルティーヤの中に挟まれているものなのではないか。なのにこれって、どうやって持てというのかいな。

 眺めながらボーゼンとしていると、やさしいおばさんが忘れたねと言いながらフォークを持ってきてくれた。あなウレシ。

 さて。
 サルサソースを多めにかけて、いちおう手で持って食べてみたけれど、おれの口はコイツを一口でガブリとやれるほど大きくなく、かぶりつくハナからレタスがぼろぼろとこぼれ落ちていく。
 しょうがないなあ、じゃあフォークで少しずつ・・・。

 それにしても、レタスはめっちゃ多いし、その下に隠れるチーズもたっぷりで濃厚だし、さらにその下のミートが多すぎる。味くーたーでうまいが、口も手もテーブルも、べとべとばらばらでんがな。

 量、濃厚さの面から言えば、2個が適量、3個が満腹。
 だが、残すなんてありえない。しっかり全部たいらげさしていただきゃーしたぜ。

 大量で名高い“タコライス”でなければなんとかなるだろうという考えは、甘かったですね。
 でも、とてもお徳だし、また食べに行きたいと思いますよ。

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 金武町ネイチャーみらい館で開かれる金武町青年フェスタ2009。
 金武の市街からずっと金武岬のほうの海辺の駐車スペースへと導かれ、そこから公民館のバスで会場へ。

 着いた頃にはいくつかの前座的だしものが終わって、ちょうどLUCK創作エイサーという団体の演舞が始まるところでした。
 女性が多く、大太鼓のこのお姉さんなんてとても元気がよくてなかなかいい。

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 その後琉球舞踊や県内アーティストのライブを挟んで、金武町金武区、金武町伊芸区、金武町並里区のエイサーが。
 金武のエイサーの特徴は、どこの団体でも中央の青年が持っているような鉦が入ること。この鉦の音が念仏風な趣を加えて、なかなか風情があります。
 また、勝連、与勝などの地域と違い、パーランクーは用いず締太鼓が使われます。

 しかし、沖縄市あたりの団体と比較するとまだまだの感があります。特に女性。踊りに気合が感じられず、髪も普段のままの踊り手も散見されます。束ねるとか、姉さんかぶりにするとかしたほうがいいと思うよ。

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 そして次に登場したのは北谷町謝苅青年会(招待エイサー)。
 これが凄かった。演舞を終えた団体が固唾をのんで見守る中、一糸乱れぬフォーメーションとまったくばらつきのない太鼓の響き。演舞後の拍手と歓声はむしろ驚きによるもののようでした。
 拍手の量は、次に登場した沖縄市園田青年会(招待エイサー)をも凌いでいたようです。

 引き続き金武町屋嘉区と金武町中川区のエイサーがあり最後は大カチャーシー大会となるのですが、時間は21時を大きく回ってしまったので、ここで帰ることに。
 公民館バスが来るのを長い列をなして30分以上待ち、ようやく車に乗って那覇の宿にたどり着いたのは24時でした。
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 16日。朝はゆっくり起きて、車で10時ごろ、お気に入りのあやぐ食堂に到着。お~、タクシーがいっぱい停まっている。運転手さん御用達ですな。

 今回はそば定食を食べてみました。
 いっちょまえの沖縄そばにお刺身、チキンカツとサラダ、御新香、そしててんこ盛りのライス。この内容で570円っていうのはどう考えてもスバラシイ。しかも、とてもおいしい。

 これまであやぐ食堂ではBランチ、Cランチ、味噌汁定食、あやぐそばなどを食べてきたが、どれもこれも納得のいく味、量、値段。那覇、いや、沖縄でナンバーワンの大衆食堂だと思うなぁ。


 首里をスタートして宜野湾方面の史跡を見に行こうと思う。ならば途中、儀保の宝口樋川(たからぐちひーじゃー)を見て行こう。

 ゆいレール儀保駅前を走る県道82号を西に300mほど進み、車を脇道のスペースに停めて川の走る南側の路地へ。すると目の前に宝口樋川を示す看板がありました。こんな私道のようなところに入っていって大丈夫なのかなと思いつつその方向に従い進んでいくと、看板からあまり離れていない場所に、宝口樋川がありました。

 1976年、那覇市市史跡指定。案内板によると、

   宝口樋川は、真嘉比川沿いの急ながけの下にもうけられています。そのため、背後は沖縄
  独特のあいかた積みといわれる石積みで、極めて頑丈につくられています。樋川の前は、石
  畳になっています。現在あるコンクリートの水槽は、飲料用と洗濯用に水をわけたもので、昭
  和初期につくられました。
   もとは入口にあった「宝樋」碑によると、1807年、この樋川を開いたのは当蔵村の平民たち
  で、その功績によって位階を賜り、その後1842年に大修理を加えた赤田村の平民宮城は、
  士分に取り立てられました。
   かつては、ジブガーフィージャーと呼ばれ、昔から豊な水に恵まれ、干ばつにもかれることの
  ない重宝な樋川でした。近年は樋川の背後が開発され、一時期より水量が落ちていますが、
  市内でも指折りの湧水量を誇っていることに変わりありません。

とのことです。

 また、「宝樋」碑は、沖縄戦によって失われたままとなっていましたが、1986年に真嘉比川の改修を行った際に大部分が河床の中から発見され、それを復元したものが脇に立っています。

 那覇市首里儀保町4‐80


 儀保から経塚通りを通って経塚の塔へ。この道を通るのは初めてだな。

 1981年浦添市史跡指定。説明書きによると、

   昔、このあたりは松が生い茂る人里はなれたさみしい場所で、ここに巣くう妖怪が道ゆく人々
  をたぶらかしていました。今から470年余り前、高野山で修行した日秀上人が、お経(金剛経)
  を書いた小石を埋め、その上に「金剛嶺」と刻んだ石碑をたて、妖怪を退治したと伝えられてい
  ます。そのご、経塚は地震やカミナリにも効き目があり「チョーチカ、チョーチカ」と言うとおさま
  ると信じられるようになりました。
   経塚は東北から沖縄までの日本各地にあります。もともとは経典を埋めたものですが、この
  経塚のように、小石にお経を書いて埋めたものは「一石経」とよばれています。

とのことです。

 石碑が立つ場所は、お経を埋めた毛(森)の意味から、地元で「ウチョウモー(お経毛)」とよばれているそうです。小さな子どもたちが野球をしていました。

 この場所は、首里から経塚を経て牧港に続く浦添街道が近くを通る、中北部と首里・那覇を結ぶ交通の要所でした。1597年に石畳道となりましたが、起伏の多い山道で、両側にリュウキュウマツが生い茂るさびしい場所だったようです。