部下の進まない仕事のバックアップや、このところの蒸し暑さで疲れてしまい、ブログの更新も進まない状況が続いていますが、みなさん、お元気ですか。
 その鬱憤を晴らすかのように、そしてまた、現実に旅をすることがままならない分、ボクは本を読んであちこちにトリップしています。どちらかと言うと、沖縄本よりもハードボイルドや民俗学系のものが多くなってはいるけれど・・・。

 で、昨晩読んだのがコレ。
 言ってしまえば、一晩で読みきってしまうほどに、薄く、内容のない本だったけれど、ま、久々の沖縄雑学本。

 沖縄渡航80回以上を誇る島田紳助と沖縄好きの仲間たちとが、経験と主観で沖縄のいいところを選んで「こういうふうに沖縄を楽しんでもらいたい」と提案している内容のもので、本人曰く、沖縄を案内する最強ガイド本であり、ここに書いてあることを実践すれば絶対にすべらない旅ができることを保証する――ということのようですが、さて。

 どんな旅がよいのかは人それぞれであり、これこそが最高だ、などという旅はないのである。
 そもそも旅とは、最初から最高なものなのか。ガイドに従えば最高のものが得られるのか。
 そうでないことは、すでにみんなが知っていることであり、恐る恐るガイドブックを頼って何度かすべってしまう体験をして、ようやく自分の旅のスタイルが見につくものであろう、と思う。

 書店に並ぶ何十冊もの旅のガイドブックを「下手なゴルフレッスンのプロみたいなもの」とこきおろしているが、自分の書いていることがそれらと同じ過ちを犯していることに、著者は気づいているのではないか。
 それなのにあえて出版するのは、そこに深い意図があるから。オレが書いたとなれば、みんな買ってくれるだろう、誌上で石垣島に開いた自分の店を紹介すれば、みんな寄ってくれるだろう――という、利益誘導的な拝金主義があるからなのではないか。

 ならばなにも、あっちのガイドブックはダメだからこれを読みなさい、などと言っていないで、堂々と、オレの旅のスタイルはこうだ、文句あっか! と言ってもらったほうが、胃の腑にすとんと落ちるのに・・・。

 世の中、何につけても安易に流れていると思う。
 僕たちは、紳助がそう言うのだから間違いない、などというあいまいな判断基準はアバンダン!と放擲し、どこにでもある平板なガイドブックを自ら読み解いて、あるいはガイドブックなどには頼らずに、自分なりの旅を模索するべきだと思うのだが、どうだろうか。

 ――ということで、日々の気分が冴えないことを背景に語気を荒げて言ってしまうと、こういう拝金主義的な本は、買ってはいけない。
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 「沖縄で1日のうちに起こる色々な出来事」に潜む雑学を、「1日のテレビ番組表」を意識する構成で紹介したもの。
 深夜0時の時報から、沖縄のゆる~い1日の始まり始まりい、ピ、ピ、ピ、ポーン・・・といったノリの楽しい雑学本です。
 かつて玉村豊男の「パリ 旅の雑学ノート」という秀逸な旅本がありましたが、アレを意識してのネーミングのようです。

 沖縄大好きのフリーライターとして沖縄旅を通して多くのエッセーを提供してきたカベルナリア吉田氏ですが、今回は1960年横浜生まれ、琉球大学OBで石垣ケーブルテレビのアナウンサーをしていたというヒヤ小林氏とのタッグで執筆。いい感じ、出てますね~♪

 小林氏が語る80年代の琉大のありさまについては必読でしょう。当時は露骨に「ナイチャーは内地に帰れ!」などと面と向かって言われるような時代だったようです。80年代のウチナーンチュには、ナイチャーに対するたぎるような怒りがあったのでしょうね。

 「昭和のオキナワ」シリーズも秀逸。「瑞泉の思い出」、「高校野球と具志堅用高」、「ナナサンマルその後」、「ウチナーンチュの国際通り」、「首里劇場とジャンジャンと」などの回顧調の記述は、アメリカ世からヤマト世へと移り変わった沖縄の混沌の時代がよく表されていてとても興味深く、この本を単なる沖縄雑学本の域にとどまらないものにしています。

 思えば、多くの沖縄紹介本が氾濫している中で、20数年前の昭和の沖縄を伝える情報は、雑誌でもネット上でも、とても少ないようです。そういう意味からすれば、この本は貴重かも。

 360ページほどの分厚い本ですが、今の沖縄の下地を少しでも知りたい人でしたら、時間を忘れてあっという間に読み終えてしまうであろう充実度。表層的なものを追うことを主眼としない、感性に訴えかける、とてもいい雑学本と言えるでしょう。


 沖縄返還は1972年に実現しましたが、返還に当たっては日米の思惑が交錯し、様々な政治的密約が存在した事実が、近年アメリカの公文書や当事者の証言で明らかになってきました。

 著者は当時、毎日新聞の首相官邸や外務省などの担当記者として取材活動を行い、沖縄の施政権返還にからむ密約の取材をめぐって、返還の年に国家公務員法違反容疑で逮捕、78年に有罪となった――という経歴を持つ人。
 その後著者は、次々と明らかになってきた密約を裏付ける事実を背景に、2005年には先の判決に対する謝罪と損害賠償を求めて提訴するという行動に出ています。

 政治の時代だった昭和40年代、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫といった政治家たちが「返還」実現のためにあの手この手でアメリカと交渉するいわばフットライトの当たるステージ上の状況と、その一方で、隠密裡に活躍するネゴシエーターたちの生々しい苦悩の様子が、リアルに再現されています。
 そして後半では、変質していく日米同盟の状況や、情報操作が情報犯罪にまで増長してきている現在の状況を述べ、それに対する憂いを切々と訴えています。

 沖縄返還という非常に重要なテーマを扱っているものですが、この本を読んで感じたことは、この問題を自分のものとして考えるにはあまりにも関連する知識が乏しすぎるのだなということ。
 言葉を変えれば、当時の政治や国際状況等に相当程度の造詣がないと、著者の論じることの全容を理解するのは困難なのではないか、と思うのです。

 著者自身が敗訴した訴訟事件の当事者なわけですから、どうしても記述内容に力が入ってしまうのはわからないではないのですが、できればもう少し平易に、また、時代は40年近くも前のことなので、当時の背景などをもっと簡潔に解説するなどすれば、さらに理解が深まっただろうと、少々残念です。

(1)かいされー (2)黒島口説 (3)東崎 (4)まへらつぃ~まへらつぃのとーすい (5)小浜節 (6)赤ゆら (7)多良間ションカネ (8)豊年のあやぐ (9)伊良部トーガニ (10)国頭サバクイ (11)ましゅんく節 (12)イチュビ小 (13)イラヨイ月夜浜

 沖縄民謡シーンには欠くことのできない存在となった大島保克ですが、なぜかこれまで大島のCDを持っていなかった。大島は好きなのだけどね。

 で、本作。「東(あーり)ぬ渡」、「我が島のうた」、「島時間~ISLAND TIME~」に続いての4作目。
 (2)から(5)までは出身の八重山のうた、(7)から(9)は宮古、(1)と、(10)から(12)は本島で、(6)と(13)がオリジナルといった構成。たしかにこのCD1枚で琉球弧の島めぐりができてしまう感じがします。

 中でもとりわけ秀逸なのは(1)。かつて毛遊び(もーあしび)の場でよくうたわれたというこの曲、嘉手苅林昌がスローテンポにしてバラード調でしみじみとうたったのが新鮮で印象的でしたが、大島はそれを踏襲して彼らしく、エコーを効かせつつ“泣き”を入れてうたっています。ハナに持ってくるだけある陶酔感。
 多少民謡の本来の趣向から離れてきつつある感がないわけではないものの、それはそれとして、「カイサレー」の新たな一面を出してくれているようにも思えたりします。

 気の合う鳩間可奈子のお囃子とサンデーの島太鼓が絶妙の(2)、与那国島の岬の状況をうたった喜納昌吉の名曲(3)などもしっかり“民謡”していて、実に耳果報。
 八重山民謡については、大島の出身地のうたでもあるので文句のつけようがないのですが、八重山民謡をうたうには大島の声質はやや澄んでいて、ともすればソフト過ぎるのではないかという印象を受けます。
 超スローテンポで朗々とうたい上げられるのが一般的な八重山民謡ですから、どうしても山里勇吉や大工哲弘のような声量たっぷりの野太い声が似合うと感じてしまうのでしょうね。

 続く宮古民謡もかなり秀逸、評価が高い。なにせ選ばれた3曲が宮古の代表曲ですからね。
 宮古民謡は八重山民謡とはかなり趣を異にする世界なのですが、大島は上手にうたっています。
 うたに関しては生真面目な大島のことですから、きっと国吉源次などの宮古の唄者についてしっかり学んだのでしょう。(7)や(9)は聴いていて国吉源次の深みのある顔が連想されるほどにうたい方が師匠と似ているから面白い。

 本島の民謡も、国頭や伊江島、読谷あたりのものをうまく取り入れて、大島の良さがよく出ていると思います。
 ただ、どうしても合点がいかないのが(10)の囃子。木遣り唄なので元気に木を挽く様子を表現しなければならない掛け声のはずなのに、聴こえてくるのはまったく間の抜けた声。UAという女性歌手なのだそうですが、これは明らかにはずしています。デキのいいCDなだけに、これだけは残念至極、画竜点睛を欠くとの印象を強くしたのでした。

 参加アーティストは、既紹介のほかに、ピアノでKiroroの金城綾乃、中国古筝で姜小青、ギター・近藤研二、サックス・坂田明など。
 これこそが大島保克、という名曲(13)が最後に聴けて、シアワセな気分で昇天。充実の1枚と言えましょう。

 沖縄出版界の雄(のひとつだと思う)、那覇出版社から発行された、「伝道人生50年の牧師が語る」と銘打った1冊。

 地元の人向け、しかもかなり一部の人向けに発行されたこういう本を買い求めるおれって、やはりソートーのマニアなのだろうな。
 でも、こういう本までもが楽天ブックスなどのネット通販で売られているのだから、世の中ってスゴイよね。

 で、この本、沖縄におけるキリスト教の不況、じゃなかった布教の状況はいったいどのようになってオルのであろうか?という興味のもとに入手したのですが、内容はと言うと、そのような神々しくもオドロオドロしいものではなく、予想に反してやたらとソフトなものだったのでした。

 どうやら本書の主眼は、「沖縄の生活の中で昔も今日も続けられている風習は、キリスト教から由来したものなのではないか?!」ということのようなのです。
 キリスト教由来であることを説き明かすかのように、「沖縄の祭事にシュロの葉を敷くのは何故か」、「赤ちゃん誕生に性を反対に告げる習慣」、「沖縄にはヘビとの関連の話が多い」、「男子だけに言うソウキ骨たらんの言葉」、「古宇利島にあるアダムとエバの由来」、「血で魔よけするシマクサラシーの原点は何か」、「沖縄の民族と十字架のシンボルのサン」など、興味深いエピソードをいろいろと紹介してくれます。

 比較宗教学や文化人類学などの世界からは果たしてどう見られるのかはわかりませんが、こうして列挙されてみると、ナルホド、沖縄、特に本部半島やその付け根に位置する名護の羽地内海周辺には、西洋に由来すると考えてもおかしくない逸話が結構たくさんあるのですね。なんか、不思議だな。

 後半には、かつて地元紙に掲載された文章を選んで再掲した「私の新聞論壇」や、おもしろくてやめられないという伝道の断片を紹介した「神とともに 伝道の道から」なども掲載して、全5章プラス附録の255ページ。
 大きな字で読みやすく、また、さすが宗教家の語ること、読んでいて心が浄化されていくような気持ちになれる良書でした。とても得をした感じですね。(笑)

 1983年というから、今から25年前、著者が73歳のときに書いた珠玉のエッセイ。
 ぜひとも欲しくて、アマゾンの古書販売で手に入れました。当時の値段で460円の文庫本ですが、購入価格は985円。倍以上の値段ですが、自分の満足度に照らせば十分に納得できたので、文句はありません。

 正月に欠かせないなっと味噌、女たちだけのお重びらき、折り目の日に食べるソーキのお汁、お墓の前の宴会・清明祭、幻の百年酒、祝いの席を彩るアンダーギー汁、白飯での肉親の野辺送り、豚あぶらで炊く冬至雑炊・・・。
 筆者が生まれ育った首里で食されていた四季とりどりの沖縄の味覚と、それらを生み、培ってきたウチナーンチュのむかし人たちの生活の様子と心意気が、しみじみと伝わってきました。

 著者は、文庫版のあとがきで、『この「沖縄料理物語」を書いている間、いつもわたしの脳裏にチラつくのは、母の姿だった』と述べ、単なる料理本を書くつもりではなく、『料理に託して、沖縄の女たちが描く風俗絵図をお見せしたかったのである』と語っています。
 母を語ることでその向こうに垣間見える沖縄の女性たちの姿を紹介しようという意図は、すばりと的中していると言っていいでしょう。
 そして、読んでいてじわりとくるのは、母親に対する著者の深い愛情であり、温かい視線。これが、著作全体を一貫して流れるモチーフになっています。
 こういう心温まるエッセーは、簡単なようでいてなかなか書けないものだと思います。

 また、料理に関して言えば、中には今となっては沖縄でもほとんど見かけなくなってしまったものもあったりして、世相の移り変わりの速さを改めて実感することしきり。
 新たに創造されて人口に膾炙していくものもあれば、その一方で、密やかに人々の習俗の表舞台から姿を消していくものもある――という当たり前のことが、なぜかとても残念で感傷的に思えてしまいます。
 そう感じるのは、失われる習俗とともに、その時代に生きていた人一人ひとりに対する思い出までが一緒に失われてしまうからだということに気づいてしまうからなのでしょう。
 また、沖縄の料理に欠かせず、最も大切なのは、やはり「豚」だったのだな――ということを、本書を通して何度も確認させられます。

 ともかくも、今となってはこの本が、誰にでも手軽に読めるものでなくなってしまっているのは残念至極なこと。いいものはいい、ということからすれば、版元の関係者の方にはぜひ復刻、再販を促したいと思います。

 ほんのわずかですが、次回は名文の一端をご紹介しようと思っています。
 「惣慶漢那(すーきかんなー)」という沖縄民謡に、ヤマモモの産地からモモを売りにくる娘たちのことがうたわれています。

  ♪ 山内諸見里の 桃売アン小やいびしが
    山桃小や買うみそうらに
         汝が山桃小や 青さぬ食まらぬ
         我ん白桃小 買うみそうれ

 山内、諸見里の桃売り娘でございますが、山桃を買いませんか? いやいや、お前の山桃は青くて食べられない。私の白桃を買ってください――といった歌意です。
 今では失われてしまったそんな様子が、古波蔵保好著の「料理沖縄物語」(前出)に載っていましたので、長くなりますが、その風情を味わってみましょう。

-------(以下、引用)----------------------------------------------

 春の町並みに風情を添えるのは、楊梅(やまもも)売りの乙女だった。
 楊梅を、沖縄の人は単にモモという。第二次大戦で沖縄が戦場となるまでは、沖縄島の中部に当る越来(ごえく)の山内(やまち)、諸見里(むるんざとぅ)というところに、楊梅の樹林があって、そこを「モモ山」と呼び、産地として有名だったのである。
 戦後の沖縄島では、昔と変わってないところを見つけるのが至難のことだ。戦後間もなく、東京に住むわたしは、アメリカ軍に統治されている故郷のことを、島からきた人に聞く時、コザというまるで知らない地名がよく現れるので、いったいどこにあるのか、と尋ねたら、「モモ山」のあったあたりと思えばいい、と教えられ、アッケにとられたものである。畑として使えないような原野が左右にひろがる田舎道をいくと、「モモ山」があった。その人家さえきわめて少なかったところが、アメリカ軍基地に近いため、みるみる都市になったのだからオドロキのほかない。
 つまりコザという街が現れて、「モモ山」は跡形もなくなったのである。したがって楊梅も今はなく、モモ売り娘は、芝居にしか現れない伝説的存在となった。

 果実としての楊梅は、必ずしもおいしいといえない。思いだすと陰暦三月に入ったころ、中学生の好奇心から、「モモ山」はどんなところか、となんとなく行ってみたくなり、那覇から嘉手納まで通じているオモチャのような軽便鉄道に乗ったのである。降りたのは大山(うやま)という駅で、そぼ降る雨に濡れながら原野のつづく道を歩いてたどりつくと、小粒の赤い実が葉の間に群がっていた。その様、まことに美しかったといえ、わざわざ見にきているわたし自身が、食べておいしい実だと思っていなかったのである。
 そろそろ暑くなるころに熟してくる楊梅は、大きい実でもパチンコの玉くらい。赤い果肉が浅くタネを包む形になっており、口に入れて果肉を味わうと、タネを吐きださなければならない。
 食べられる果肉のあまりの少なさが、むしろじれったくて、おまけによく熱して赤黒くなっている実には甘さがあるものの、たいていは酸味がまさっていた。

 首里や那覇の街をまわって売り歩くのは、うら若い娘で、彼女たちの姿に風憎があったのである。
「モモ山」のある山内、諸見里の娘たちが売りにくるのかと思っていたら、そうではなくて、彼女たちは、大山、真志喜(ましき)のネエさんたちだったという話だ。
 あのころの農村乙女は、まだ服装を当世風に改めていない。背中に垂らせばヒザ下までの長い髪を、頭のてっペんよりややうしろ下がりに結い、「じいふぁあ」というかんざしをうしろから前へ通す。そういうヘアスタイルに、裾短の芭蕉布を着て、細い帯は前結びである。
 竹編みの大きな籠を持って、彼女たちが家を出るのは、夜の明けきらないうちだった。そしてまず「モモ山」へいって、籠いっぱいの楊梅を仕入れる。籠の内側に芭蕉の葉を敷き、仕入れた楊梅を詰めると、同じ芭蕉の葉をかぶせ、頭にのせて首里・那覇へ急ぐ。
 当時は道といっても、幅がせまくて草がはびこっていた。しかも暗くて足もとが見えにくい。寒い時季はすでに過ぎて、ハブという毒ヘビが動きだしている。ハダシの彼女たちは、足もとにヒヤリとするものを感じただろう。
 だから彼女たちは、細竹でこしらえた長いムチを必ず持っていた。うっかり草むらのハブを踏んだりすると、たいへんである。危なっかしい道筋にさしかかると、細竹で草むらを払うなどの用心が必要であった。

 こうして首里・那覇の街まで、三里余りの道を歩いていくうちに夜が明け、街にたどりつくころには、家々の戸があいている。
 呼び売る声は若々しくて、お腹のあたりはくびれて締まり、腰の線に弾力を感じさせる彼女たちの裾から見える脚にも、アリアリと妙齢であることが現れていた。
 そういうからだにスガスガしい芭蕉布、おまけに髪のツヤツヤとした黒さが加わって、顔形などはどうでもいいと思うほどの魅力があったのである。
 わたしの母も、彼女たちの声を聞くと、門の内に呼び入れて、五合ほどの楊梅を買う。米などをはかる場合の一合枡を彼女たちは使っていて、この枡に楊梅を詰めて軽く盛りあげる手際がいい。なれている女は、盛りあげたと見せて、実は中がスキ間だらけだったりのうまさ。
 だが、なにせ情緒のある売り子なので、ちっとも憎らしくない。呼びこんで楊梅をはかってもらいながら、誘ってみようとする男もいたのではなかろうか。

 さしてうまいと思わない小粒の実だのに、目の前にあれば、食べるわけで、季節がくるごとに、わたしたちはよく口に入れた。
 こういう木の実でも、街の人たちが買って口を満足させたのは、ほかに果物が少ないせいではなかっただろうか、と今にしてわたしは思うのである。



 待っていましたよ、長い間。
 ネーネーズが8月29日にニューアルバム「彩~Sai~」を発売します!

 前作の「愁」から4年近く。ずいぶん待ちました。
 この2月にライブハウス「島唄」にライブを見に行ったとき、彼女たちが「今年はニューアルバムを出します」――てなことを言っていたのを聞いて、首を長くして待っていたのです。

 さて、どんな内容なのか、楽しみ。きっと、一段と成長したネーネーズを聴かせてくれることでしょう。
 発売記念ライブもあるんだろうな、きっと。
 うーん、行きたいけど、・・・行けない。トホホである。


 住民をも巻き込みながら3ヶ月に及んだ沖縄戦の死闘を指揮したのが、沖縄防衛軍司令官で陸軍中将(のち大将)の牛島満。
 精鋭師団を他地に転出させられるという戦力弱体化の中で、決戦か、持久かに揺れる司令官の苦悩と、その素顔を綴る――という趣向の戦記もの。

 牛島満といえば、連合軍の日本本土への襲来を少しでも遅らせるため、沖縄本島をいわば捨て石にして、沖縄諸島およびそこに住む沖縄の人々に筆舌に尽くせない甚大な被害を導き、悲劇を招来した張本人として紹介されることが多く、私もそのように理解していました。
 ところが当書では、牛島は慈愛あふれる温厚な軍人で、牛島の出身地の鹿児島県で言う「ウドサア」(うどの大木のような茫洋とした性格)で、重要事項の決定はすべて長勇参謀長に任せきりだったと書かれており、全体として牛島は悪くないようなトーンで描かれています。

 さらに、大変な戦禍をこうむった沖縄の人たちは牛島を非難する人は少ないとし、軍と行動をともにしたある沖縄女性は「お父さんと学校の先生をごっちゃにしたような温かい人だった」と証言しているというのです。

 正直言って、それって、本当なのかどうか。
 これまで読んできた多くの沖縄戦に関する書籍とはかなり食い違う評価であり、善玉、悪玉というステレオタイプの分類をするのはいかがなものかとは思うものの、司令官として全責任を負う人間を、この人のせいでこうなったのではないとでも言いたげな論調は、にわかに信用することができないなあ、というのが率直な感想です。

 参謀内が、主戦派の長参謀長一派と慎重派の八原作戦参謀一派に分かれていたといい、連合軍上陸後、参謀会議で主戦派が提唱した突撃を実行して敗走。その後長参謀長は意気消沈し、参謀内は八原作戦参謀の持久戦略が支配することとなり、このことが沖縄県民に多くの犠牲を強いた喜屋武半島撤退へとつながっていった――ということのようですが、これもまた別の角度から再考してみる必要がありそうです。

 この本とは別に、八原作戦参謀を中心に書かれた「沖縄悲運の作戦 異端の参謀八原博通」という本も入手しているので、これをもあわせ読んでから、自分なりの歴史観を持つことにしましょう。