さあ、読書だ!
 今のおれには「読む」ことしか、沖縄とのつながりはない。――なんちゃって。
 そのささやかな意気込みにふさわしい1冊に出会ったゾ!

 独自の感性と世界観で直木賞作家となった“異端児”花村萬月が放つ沖縄論。
「我々ヤマトの人間は、文化人を含めて、まったくもっておめでたい。移住だ? 楽園だ? リゾートだ? 心せよ。琉球の拳には恨みが込められている。ヤマトをぶち殺せ! これこそが、沖縄の人々が我々に放つ正当にして、唯一の言葉だ。」 (コシマキより)
 また、
「透きとおった海と珊瑚のことだけ書いておいて、沖縄の美を礼賛しておけば、すべては丸くおさまるのは充分に承知している。けれど沖縄には人が住んでいる。人が住んでいるところには、必ず矛盾がある。苦しみがあり、痛みがあり、悲しみがある。もちろん喜びも。」 ――とも。(本文より)

 日本人であることの加害者性を露悪的なまでに引き受けた眼差しが強烈。
 南の島を過剰に持ち上げて、そこに逃避したりするコノヤロ的日本人と、純朴な仮面を自ら進んで被ろうとするフヌケ沖縄人に対して、等しく冷淡、そしてかなり挑発的です。

 内容は、「ドリフト、ドリドリ、瀬長島」、「飯でも喰うか」、「悲しき人買い」、「宮良康正」、「波之上でアウトドア・ライフ」など。どう?章立てとしてはかなり異質でしょ。

 中でも「悲しき人買い」は圧巻。
 詳細については省略しますが、夜の真栄原社交街での体験談などが書かれており、明るいうちの真栄原にしか行ったことのない自分にとってはかなり衝撃的でした。「いらっしゃいませ~、いかがですか?」と言うのだそうな。

 いささか過激な、しかもあまり触れてほしくないことばかり書かれていて、沖縄県民の、なかでも良識派といわれるような人々はさぞ眉を顰めたことでしょう。しかし、当書はある意味、岡本太郎の「沖縄文化論―忘れられた日本」以来と言ってよい、秀逸な沖縄論ではないかと思ってしまいました。

 うん、これはなかなか奇抜で面白かった。
 “良識派”になれない沖縄県民及び沖縄病患者諸君にとっては必読でしょう。
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 戦後混乱期の沖縄で、幼くして体を売って生きてきた金城ユサ。そのあまりにも壮絶な生き方を嫌い、彼女に背を向けて生きてきた二人の娘たちのもとに、“ユサ自殺”の報が届きます。

 ユサの亡骸を引き取るために久々に沖縄へと戻ってきた二人は、近親者からユサの過去の真実を聞かされて、彼女の一途な愛、性愛、そして別れなどに触れ、娘としての母に対する思いが揺れ動きます。

 そして娘は、深い愛に胸を焦がして生きてきたユサを理解できるようになり、「いつか月の光が私を導くときには、私も愛する人のそばにいたい。」と願うようになって・・・。

 暗い過去を隠しきれず、それが日々ににじみ出てしまう女性の劣情。そしてその劣情を打ち消すかのように全身全霊を傾けて注いできたユサの愛は、男性の裏切りによって否定されます。

 しかし、ユサはその男性への愛情や官能の想い出を打ち消すことはできず、愛されたという矜持は自身を精神の迷路へ追い込んで行きます。

 そんな女性の想い、執念、美意識といったものが、爪を彩る真っ赤なマニキュアの色に象徴化されて、深い感動となって読む者の心に残ります。

 「あなたにも愛する人はいますか」

 一途な愛を貫き通したユサの一生。愛に感謝できる、涙が止まらないストーリー。

 1980年沖縄生まれの気鋭作家のデビュー作。次も期待しましょう。


 戦後の沖縄を代表する政治家で、カメさんと呼ばれて親しまれた瀬長亀次郎の、1954年から56年までの獄中・病床日記です。
 2007年に琉球新報誌上に連載されたものを、新たな資料や書簡、関係者の証言や研究者の解説を加えて編集刊行したもの。

 日記は、立法院議員時代、人民党事件で投獄された54年11月から、脳梗塞で倒れる直前の87年までの33年分、延べ200冊に及ぶ膨大な量だそうで、今回刊行された獄中・病床日記はその全体のわずか5冊分に当たる分量なのだそう。
 当書が「第1部」であるということは、今後何冊か刊行されるのかな。

 カメジローは、単調な獄中生活を“独習と闘病”の場と捉え、家族に多くの本を差し入れてくれるよう手紙でリクエストし、毎日を修行者のように生活します。
 病に冒された十二指腸の痛みをこらえながらの日々は痛々しいですが、それを気骨で克服している様子が伺え、政治家としての逞しさ、信念の深さが感じ取れます。

 これまでに刊行されたカメさん関係書籍としては、「瀬長亀次郎回想録」(1991 新日本出版)が代表的。ぜひこれとあわせて読みましょう。

 さて。知名定男が作詞作曲をした「おしえてよ亀次郎」といううたを、ネーネーズがうたっていますので、紹介しましょう。

 ♪ うんじゅが情きさ 命どぅ宝さ  我した思いゆ 届きてぃたぼり
    それはむかしむかし その昔  えらいえらい 人がいて  島のため人のため つくした
    あなたならどうする 海のむこう  おしえてよ 亀次郎
      それは海が赤く 泣いている  自然をこわす 人がいる  約束は守らず そっぽむく
      あなたならどうする 愛と涙  おしえてよ 亀次郎
        平和を愛する ウチナーと  闘う拠点の 基地がある  手を合わせる 親祖父がいるのに
        あなたならどうする となりあわせを  おしえてよ 亀次郎


「男たるもの、立派な心さえ持っていればナリフリにどはどうでもいい? 否! 身だしなみ整ってこそオトナの男の価値がある。服装は心構えの表われ、心とナリフリは一致するのだ。」
 男の演出に薀蓄を傾けつつ、洒脱で軽妙な筆進みで展開される名エッセイです。

 古波蔵保好氏は沖縄県首里市(現那覇市)出身。沖縄日日新聞記者、毎日新聞の論説員を経て、退社後はエッセイスト、評論家として、沖縄の歴史、文化・世相風俗、食などに関する著書を多数発表しています。
 2001年、91歳で没。

 先に氏の本を古書店から4冊購入したうちの1冊。
 ネクタイ、シャツ、マフラー、ジャンパーなどの男の衣裳箪笥に入っている様々なアイテムについてどうあるべきかを論評し、服装の美学とは、ウェル・ドレッサーへの道とは、といったことを大人の目で示してくれています。

 1973年に著されたものなので、現代の特に若者のファッション・トレンドと食い違う点もありますが、現在のような何でもありの服装と比べてみると、正しさ、たしなみ、礼節、粋などの面からはむしろ35年前がすがすがしく感じられます。

 ビジネスマンが好んで着用するスーツのドブネズミ色は、服装の色やつくりなどで目立たずとも、地味な衣裳の内側にある自分自身の価値で勝負できるのだという意思表示。
 ところが、正義や矜持をすっかり失い、「他人とは違う」あるいは逆に「周囲の者と同じ」というような安易な価値判断で装っている現代の男性はどうだ。
 そのあたりを男たちは、立ち止まって今一度よく考えてみる必要がありそうだ。

 なお、当書で述べられている事象は、「日本」。沖縄のことについては一言も触れられていませんので、念のため。
 蒸し暑くなってきたこの頃。また夏が、やってくるね。
 岩手・宮城内陸地震の発生をはじめとして、仕事面ではこのところ息つく暇が少なく、ゆっくりとシュミに浸る余裕がない。
 ま、こういう時こそ気持ちに余裕が必要。深呼吸をして、慌て、焦りがちな気分を戒めよう。
 さて、琉球のおもろさうしに関する本をご紹介。
 


 「おもろさうし」の時代といわれる古琉球の、歴史・社会・民俗・宗教・言語・文学などがどのようなものだったのか、また、それらがオモロとどう関わっていたのかについて解明しなければ、一首一首のオモロの正確な解釈には到達できない――。

 そのような思いのもとで、沖縄県立芸術大学において「「おもろさうし」を読む」という公開講座が企画され、琉球文学・文化学者の波照間永吉を中心に、安里進(考古学)、高良倉吉(歴史学)、豊見山和行(歴史学)、赤嶺政信(民俗学)、高橋俊三(言語学)が参加して実施されました。その記録を土台にして編まれたのが、この本です。

 「「おもろさうし」への誘い」、「「おもろさうし」から何を読みとるか」、「考古学から「おもろさうし」を読む」、「琉球国における海運と航海守護神信仰」、「久高島の祭祀と歌謡」、「オモロ語要説」、「「おもろさうし」の比喩表現」など全10章。

 「おもろさうし」の記載法を解き、解読して味わうための基礎を提示したうえで(第1章)、それからどんなことが読み取れるのか(第2章)、そして、「おもろさうし」から読み取れる琉球の大交易時代の片鱗を提示(第4章)した前半部は、とてもためになります。

 12世紀から17世紀初頭における、琉球という小さな島国でどのようなことが起こっており、これがオモロにどう反映してきたか、そして、古琉球の人々の生活の息吹はどうだったのか、などが豊かにイメージできるようになっています。

 一方、後半部になってくるとだんだん論点が専門化してきて、これらはむしろ気軽に読むというよりも、一つひとつのオモロを例にとって真剣に読んでいく気構えが必要になってきます。ですから、オモロ通の方にとってもきっと読み応え十分でしょう。