く~っ! 毎日こうも寒いと、肌もかさかさになって、なんだか暮らしていくのがやんなっちゃう。
 なので、2月8日から久々に、湿潤で温暖な沖縄に行くことにしました。
 昨年12月にも沖縄本島と南大東島の旅を画策したものの、仕事の都合でボツに。なんとか今回はスムーズに行かせてもらいたいものだ。
 ということで、昨年10月以来の沖縄。チケットの手配や宿の予約はカンペキだし、1日だけだけど有給休暇も確保した。あとは冬の嵐が来ないのを祈るだけだ。

 今回は3泊4日の本島のみで考えてみました。
 旅のメインは、国立劇場おきなわで「民俗芸能公演 那覇・浦添民俗芸能歳時記」と「組踊公演 賢母三遷之巻」を観ること。
 そして、セカンダリーは、先に読んだ「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」(外間守善・著)の現場である前田高地周辺を自分の足で探索すること。
 さらには、琉球舞踊の公演を観て、伊波緑のライブを観て、ライブハウス島唄でネーネーズに会って、新・沖縄県立博物館・美術館も初踏査してくる――という計画。
 お楽しみのメシは、店舗移転した高良食堂(若狭)や、おなじみあやぐ食堂(首里)、大盛天丼が話題のボロジノ食堂(泊)、豪華ランチのふくや(浦添)、夜なら小浜司氏の経営するカフェいーやーぐゎー(寄宮)あたりを攻めてみたい。
 気候がよければハーバービュー通りやパイプライン通りあたりをじっくりと歩いてみようか。

 沖縄でやりたいことは、たくさんある。
 毎日深夜まで街を徘徊することになるので、体力が続くかチト心配です。(笑)

 (那覇・浦添民俗芸能歳時記のチラシ)
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 行ってきました、沖縄。
 いやぁ、くたびれた。おもろまちなんかに宿を取ってしまったため、今回はずいぶん歩いたのだ。
 いや、たくさん歩いた原因はそれだけではない。今回はバイクもレンタカーも使わずに徒歩で踏査するのだというスケジュール自体に問題があったのかもしれない。

 そんな日々の行動及びその経路などについてはおいおい紹介していくとして、今回は実際の行動が計画からかなりずれてしまった。
 まず天候。連日雨が降り、9日はこれに加えて風。へなちょこな折り畳み傘がまったく役に立たなかった。
 それから、公演の予約。予約なんかしなくてもこれまでなんとかなってきたものだから、いつもそうなのだろうという慢心が大きな失敗を招いてしまった。
 でも、計画変更はこれらのような悪いことばかりではなく、ひょんなことから限定50名の歌碑めぐりツアーに参加できたという僥倖もあった。

 そんなことで、全体としてはとても満足のいく沖縄本島旅となったように思います。
 趣味を同じくする人たちと交流したり、唄者たちと実際に話してみたりすることが一人旅でもできるのだということに気づき、ある意味「沖縄」への理解を深めるための新たなかたちを見出したような気がします。

 仕事やら何やらで忙しかったり、このところ沖縄民謡界が衰退基調だったりで、自分の沖縄熱が少し下火になっていたような状況だったのですが、今後急激なV字回復が期待できそうです。(笑)

 疲れ果てたので今晩はもう寝ますが、明日以降に旅行記を書いていきたいと考えていますので、乞う、ご期待!
 これより、2月8~11日の沖縄本島旅のインプレを書いていきます。どーぞヨロシク。

 2月8日、空港に到着後、宿を取っているおもろまちへとモノレールで向かい、まずは3日間自分の部屋にて一服。強行軍となる沖縄でのこれからの4日間をイメージする。

 で、夕方になって向かったのは、若狭の「高良食堂」です。おれの沖縄旅はいつも、ボリュームたっぷりの沖縄の大衆食堂での腹ごしらえから始まるのだ。

 この高良食堂、以前はむかし情緒たっぷりの古い一軒家の1階が店舗になっていて、入口を入ってすぐの小さなカウンターに席をとれば、お父さんが目の前で忙しそうに野菜や肉を鍋でジュワジュワやっているのが見える、個人的には大好きな店だった。
 でも今は、その家は取り壊され、そこにはビルが建設中で、食堂は道路を挟んでその向かい側の、かつては居酒屋だったところで営業されている。

 店舗が変わった高良食堂はどうなっているのか――ということをよ~く追求するため、わざわざおもろまちからモノレール&徒歩でここまで来たのですな。え? それはムダで馬鹿馬鹿しいことではないか、とな? …そうだねぇ、そのとおりかもなぁ…。

 店内は、かつてよりずっと広く、カウンターが長くていかにも居酒屋風のつくり。畳敷きのスペースも、「小上がり」などというレベルではなく、ここでちょっとした宴会ができるほどの広さがあります。
 カウンターを前にして、とりわけ量の多い「煮付け」を食べようかとも思いましたが、これから連日の沖縄フードバトルが繰り広げられることを思い、結局胃に優しそうな「野菜おかず」(400円)を注文。安いんだよなぁ、この店。



 そして、味は…。
 注文時、白ごはんとじゅうしいのどちらにするか聞かれ、じゅうしいを選んでみたのですが、正直言うとこれがイマイチ。コメ自体が古いのか、やや饐えたようなにおいが…。
 Ummmmmm……。全体として申し上げると、個人的には評価ダウンは避けられないでしょう。

 上記のことのほか、食べ物に関しては、かつては付いていなかった漬物がヤマトの定食を真似て添えられるようになり、かつてはそばスープだったものがただの味噌汁になってしまった。また、店のコンセプトの面からは、前売りの食券制が導入され、中国人のアルバイトを置いてしまったことなどのために、これまでのてぃーあんだーたっぷりで家内制の手づくりの雰囲気が失われてしまった感じ。これらはいずれも減点の対象となってしまいます。

 ま、古きよき時代の沖縄にばかり想いを馳せているおれが悪いのは重々承知しているけれど、やはりこの喪失感は大きい。

 のっけからナイーブな話になってしまいましたが、お許しください。まったく個人的な思い入れなので。
 2月8日は金曜日。ということは、東町の県立郷土劇場で毎週開催される「かりゆし芸能公演」がある日だ。
 これまでおそらく10回くらいは観ているこの公演ですが、真踊(しんよう)流のそれを観るのは初めて。

 演目は、「花」、「浜千鳥」、「前の浜」、「海のチンポーラー」、「かせかけ」、「揚作田(あぎつぃくてん)」、「四つ竹」、「取納奉行(しゅぬぶじょう)」、「高平良万歳(たかでーらまんざい)」、「うむい」、「半胴鼓(ぱーらんくー)」。スタンダードあり、創作ありで、とても楽しめました。

 このうち最も良かったのは、古典二歳踊りの「高平良万歳」でした。
 親の仇を討つために、①万歳姿で道行きをする場面、②旅芸人の京太郎に扮して獅子頭と馬頭を扱う場面、③猫やねずみをまねて逃げ惑う敵を追い詰め空手風に踊る場面、④敵の高平良御鎖(うざし)を追い討ち目的を見事に果たす場面――を、四段構成で劇的に構成した内容。
 比較的年齢の高い方々が多いと思われる出演者の中にあって、この2人の若手の動きは実にきびきびとしていてすばらしい。片足立ちをしたりする場面など琉球舞踊としてはかなりトリッキーな振付けが施されているにもかかわらず、とても安定した舞踊をみせてくれました。

 (高平良万歳)

 最後は、真踊流の創設者である真境名佳子が昭和33年に創作したという「半胴鼓」を10人ほどで。
 タンタッッタン・・・というリズムのパーランクーの響きが小気味よい。もう少しほぐれたにこやかな表情だったなら、なおよかったのに。

 なお、代表的な祝儀舞踊である「四つ竹」に関しては、体の向きをあちら向きから時計回りにすっとこちら側に向けるときに見せる、一瞬の挑みかかるような視線と所作が、この踊りの勘所だとおれは思っているのですが、そのキレが今ひとつだと感じられました。期待を持ってみていたのですが、これについては少々残念。

 でも、なんだかんだ言っても、たった2千円で、来沖のたびにさまざまな流派の琉球舞踊を見ることができるのですから、これは大変に貴重なこと。他県の芸能公演とは比べ物にならないほど高いレベルだし、観光客もたくさん観に来ていますが、もっと評価され、もっと観に来てもいいはずです。ぜひこれからも定期公演を続けてほしいと思います。
 8時半過ぎには芸能公演が終わり、劇場を出ようとすると、外は小雨。風もある。
 とうとう降ってきたかと舌打ちをしつつ、デイパックからハーフコートを取り出して着込み、折りたたみ傘をさして寄宮の島唄カフェ「いーやーぐゎー」へと向かう。
 夜のハーバービュー通りを初めて一気通貫で歩き、壷屋の十字路をさらに進んで店へ。

 2階にある店に入ってみると、島唄解説人で店のマスターの小浜司氏とママさん以外、客は1人もいない。ほほう、これはある意味、ラッキーかも。
 そう。雨の中ここまではるばる歩いてきたのは、コテコテの島唄をBGMにゆっくりとオリオンビールや泡盛を呑みたいからだけではなく、小浜氏と島唄談義をして、彼から島唄に関するいろいろなことを教えてもらいたかったからなのだ。

 さっそくカウンターに陣取り、民謡を聴きながら呑みたいと思ってやってきた旨を小浜氏に告げると、彼はそうかとばかりに少し相好を崩し、1969年のRBC民謡紅白歌合戦のDVDを取り出して見せてくれた。
 すごーい。沖縄が本土に復帰する前の貴重かつ垂涎の映像。年代を感じさせる多少画質のよくない白黒の映像からは、「動く」糸満ヤカラーズや、初めて見る喜屋武繁雄、まだ頭髪の残る玉城安定、現在のそれからはちょっと想像できない山里ゆきの表情、少年のような大工哲弘を従えてうたう若々しい山里勇吉、逆に今とほとんど変わらないように見える国吉源次など、びっくりするような映像が次から次へと飛び出し、ただただ感動。
 紅白両チームのトリは、嘉手苅林昌と瀬良垣苗子であった。この2人がトリを務める時代はこの後10年以上は続いたはずだ。

 山形では島唄の話ができる相手が身近にいないので、このときとばかりに小浜氏と話す。
 八重山の「弥勒節」と本島の「赤田首里殿内」の関係、本島の「スーリー東」と八重山の「パピル節」の関係、沖縄の女性たちに人気の田場盛信と神谷幸一のそれぞれのキャラクターの違いについての考察など。
 また小浜氏は、今年ビセカツ氏とともに島唄の歴史やエピソードなどについて綴った本を出版する計画であることや、ある専門学校で沖縄民謡に関する講座を持っていること、昨年の琉フェス大阪終了後に行われた「裏琉フェス」と呼ばれる打ち上げの様子などについて気さくに話してくれた。

 そして、明後日に「小浜司と行く歌碑めぐりツアー」という50人限定のバスツアーをやるのだが、1人キャンセルが出たので行かないかと誘ってくれた。これは願ってもない話なので、参加させてもらうことを即決。
 明後日は浦添市内を徒歩で散策し、午後から国立劇場おきなわで組踊公演を観る計画だったが、それはまたの機会にということにする。

 いやはや、山形にいてはとてもできない会話ができ、いろいろな話が聞けて大満足。すっかり泡盛にやられてしまい、タクシーでおもろまちへと戻り、たまたまやっていた屋台でオヤジとバカ話をしながらラーメンをすすり、日が変わった頃に宿へとたどり着いたのでした。

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(左:店の外観 右:店内の様子)


 明けて9日。ゆっくり起き、さしてうまくもないホテルのサービス朝食はあっさりとパスして、モノレールに乗って首里のあやぐ食堂へと向かう。ココは朝9時半から夜遅くまで開いているド根性食堂なのだ。

 このところ、那覇滞在中は必ず1回はこの食堂に寄っている。しかも、わざわざ行く。長年かけていろいろ沖縄の大衆食堂を巡ってみたけど、味、量、値段、種類、雰囲気などを総合的に勘案すれば、ココがダントツのピカ一だと思っているからだ。

 で、今回は、朝食ということもあり、前回訪問時に味をしめた「みそ汁定食」570円を再びチョイス。
 特大みそ汁にまぐろの刺身と目玉焼き、マカロニサラダがついてこの値段ですよ。しかも、そのすべてが美味い! 飯もウマイ! 前日の高良食堂のじゅうしいを思い出し、溜飲が下がる思いですな。

 このところの材料代の値上がりで、一部メニューが30円程度値上げされていましたが、みそ汁、ランチ類、あやぐそば、そば定食などの人気メニューはお値段据え置き、内容も据え置き。えらいねえ。庶民の味方だねえ。
 おれはこれからもあやぐ食堂に通うぞ。
 で、またおもろまちへと戻って、投宿しているホテルのすぐそばにある沖縄県立博物館・美術館へと赴く。あいにく雨が降りそぼっているというのに、何をこんなにウロウロしているのだ、おれは。
 まあそんなことは置いておき、博物館・美術館である。
 2007年11月に開館したばかりの沖縄文化の新拠点。ホテルの自室から撮影した建物はご覧のとおり堂々としたもの。



 首里にあった以前の博物館が数年前に閉館となりしばらくの間博物館不在の日々が続いたが、台風などの悪天候のときにこういうハコモノの展示物をじっくりと眺めて沖縄滞在時間をしのいでいたおれとしては、待ちに待った新博物館なのだ。しかも今度は美術館も併設されているというのだからウレシイではないか。

 まずは美術館を攻めてみる。
 「沖縄文化の軌跡1872―2007」という開館記念特別展を開催中。作品群は、地方の公営美術館にありがちな古臭いイメージはあまりなく、今も活躍しているアーティストの作品群の存在感も大きくて、なかなかよかった。
 ここではひとつの発見があった。大正期、日本の著名洋画家3人が沖縄の画壇に招かれ、一定期間沖縄に滞在して画術を指導する傍ら、自分たちも沖縄を描いた作品を残したという。
 私事になってしまうが、おれの祖父は洋画家だったのだが、その祖父の師匠に当たる画家が、その招聘画家の一人であったことをこのたび初めて知り得たのだった。

 ウームと唸ったりナルホドと感心したりしつつ、充実した展示物を見るのに予想以上の時間を費やしてしまい、博物館のほうは各部門をぐるりと一周回って歩く程度の時間しかとれなくなってしまった。入館からまたたく間に3時間近くが経っている。
 まあいいか。博物館は逃げない。また台風のときにでもやって来て、じっくりと見せてもらうことにしよう。
 さて、次の予定に進むとしようか。
 博物館を出ようとすると、雨は風を伴ってより強くなっていた。あっちゃあ、だめだこりゃ。
 次は、浦添は勢理客(じっちゃく)の国立劇場おきなわに行って、民俗芸能公演「那覇・浦添民俗芸能歳時記」を観る。何と言ってもこれが今回の沖縄訪問のメインイベントだから、多少の雨風などにメゲてはいけないのだ。

 その内容たるや、次のとおり充実の限り。これらを1回の公演でまとめて見られるなんて、すごいことだと思う。
  1 うりずんグェーナ       首里クェーナ保存会
  2 泊地バーリー         泊地バーリー研究会
  3 小湾アギバーリー      小湾アギバーリー保存会
  4 赤田のみるくウンケー    赤田のみるくウンケー実行委員会
  5 国場の念仏エイサー     国場民俗伝統芸能保存会
  6 安里南之島          安里南之島保存会
  7 内間の棒            内間獅子舞・棒保存会
  8 棒ムバター          仲西獅子舞保存会
  9 ウスメ狂言           安謝自治会
  10 アガリユウ          首里クェーナ保存会
  11 辻の廿日正月        財団法人辻新思会



 勢理客までなら歩いていくつもりでいたが、天候的にも時間的にもそれは無理。タクシーに飛び乗って向かう。

 到着後、当日券を求めるためチケットカウンターに向かい「当日券を1枚」と告げると、窓口のオネーサンは「は??」という顔をして、「あいにく満席となっております」とのこと。
 え?・・・
 ぬわぁ~にぃ~~!! と一瞬いきり立つが、次の瞬間さーーっと血が引いていく。
 チケットを入手するには電話予約が必要だったことを思い出したのだ。

 ああ、おれは何をやっているのだ。沖縄に発つ前、フライトやホテルの予約を終えた段階で、国立劇場のこの公演については沖縄へと出発する前後に電話を入れようと考えていたのだった。それなのにおれは大盛りの沖縄メシや民謡談義や泡盛を飲むことに浮かれて、ここに至るまで電話することをすっかり失念していたのだった。

 そのしっぺ返しがこれだ。
 おずおずとながら何とかならないものかと相談してみたものの、オネーサンは実に素っ気ない。
 なかなかあきらめがつかなかったが、どうしようもない。開演5分前、客の多くがホールに入り終えた頃になって万事休し、雨の中さびしく国立劇場をあとにする。

 またタクシーで戻ってしまえば往復のタクシー代がまったくの無駄遣いとなり、ますます自分が惨めになる。なので、自分への戒めとして、あまり役に立たない折り畳み傘1本を頼りに勢理客のバス停まで歩くことにする。
 空いてしまった時間をどうするかを考えないまま、とりあえず那覇へと戻るバカなおれなのでした。
 バスは上之屋から泊高橋を経由して国際通りへと向かう、いわゆる「牧志経由」だった。
 やるべきこともない。それでは、あやぐ食堂で遅い朝食をとったばかりでまだ満腹感は残っているけれども、またメシを食べてしまおうか。
 ということで、民俗芸能歳時記を観終わってからの夕刻に行こうと思っていた泊の「ボロジノ食堂」に行くために、崇元寺バス停で下車する。

 店名からもわかるように、主人が大東島出身で、那覇で大東寿司が食べられる数少ない店のひとつである。それは前から知っていたのだが、最近この食堂では500円で大盛りの天丼が食べられるということを聞いたのだ。しかもそれが、そこいらの天丼チェーン店のそれよりも美味いのだという。ならば、行って食べてみようではないかと考えていたのだ。

 崇元寺通りをバス停から信号ひとつ分、泊高橋方面に戻り、地図を頼りに右側の山手のほうに路地を入って行くと、しめしめ、店を発見。
 さっそく入る。立ち食いそば屋風の、カウンター席中心の小さな店だ。沖縄各地の食堂で鍛えられてしまったおれは、どんなに入りづらそうな入口でも臆することなく入っていけるようになってしまったのだなあと苦笑い。



 待つこと数分で運ばれてきた天丼大盛りは、残念ながら550円に値上げこそされていたが、中身は極めて充実。ほっかほかのご飯に各種天ぷらが山と載せられ、甘めの丼つゆが多めにかけられている。その天ぷらはというと、分厚い衣が特徴の沖縄風のそれではなく、ヤマト風のカリッとしたもの。主人が内地で10年ほど修行をしていたというだけある。
 ああ、美味い! うまいのでハフハフしながら豪快にかっ込む。シアワセである。
 ボリュームは満点。こんなに立て続けに大量メシを食べていいのかと思いつつも、ペロリと平らげてしまった。まあ、大失敗のあとのヤケ食いということもありますな・・・。
 確かにこれで550円なら納得。油っこい食事がしたくなったときにはまた寄ってみようと思う。

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 いやはや、腹が重い。いい年なんだから、いつまでもこういうことを続けていてはいけないね、と少し(だけだけれど)反省。

 さて、まだ雨が降っているので、大通りまで戻らず、一山越える形でショートカットしておもろまちへと戻ろう。

 南側から丘を登りつめて「黄金森公園」に出ると、風がやたらと強くなってきて、NHK放送会館前に来た頃には傘がおちょこになるほどの強風に。ぐへぇ、勘弁してくれ・・・。
 このあたりはちょっとした高台になっていて、どうやら風の通り道になっているらしい。ああもう、まったく今日はダメな一日だ。
 とうとう傘をさすのをあきらめ、全身ずぶ濡れになってホテルへ。時間はまだ3時過ぎだけど、幸いにして連泊にしていたので、部屋には入れた。

 今晩は本当なら再び外に出て、勢理客にあるライブハウス「GROOVE」へと赴いて伊波緑のうたとピアノを聴いてこようと考えていたのだが、夜になっても強風は一向に収まる気配がないので、とりやめに。
 冴えない・・・。
 明日こそいい一日になりますようにと祈りながら、部屋でビールを多めに飲んで、失意のうちに眠りに落ちたのでした。
 旅3日目の2月10日。沖縄で迎える朝にしてはめずらしく早起きをする。今日は歌碑めぐりツアーに参加するため8時30分までにいーやーぐゎー前集合なのだ。幸いにして雨はやんでいる。よしよし。
 ホテルで軽い朝食をとって、タクシーに乗り、運ちゃんに「ひめゆり通りの壷屋の交差点まで」と告げたのに、70をとうに過ぎていると思われるおじいさん運転手は安里の交差点で降ろしてくれた。くっ・・・朝からまた歩きでやんの。

 ほぼ定刻にいーやーぐゎー前に着くと、店の前には大型バスが停まっていて、参加者と思われる何人かの老若男女が元気そうに動き回ったり話したりしている。雰囲気から察するに、常連さんも結構いるようだ。
 今回で第5回を数えるというこのツアーに初めて参加するおれは、皆さんのお邪魔にならないようにとバスの最後列の隅っこの席に着く。参加者は50人。バスは満員だ。

 おれの席の隣には、参加者の中にあっては比較的若い男女が座った。女性のほうは三線ケースを持っている。もしかしてこの女性が本日の民謡歌手かと思って見ると、おお、化粧こそあまりしていないが、新垣小百合ではないか!
 彼女は、一昨年の那覇ハーリーのステージで見てからとても気に入っている唄者。そのときに出ていた何人かの女性唄者の中では一番大人っぽくてしっとりとした風格が感じられたので、記憶に鮮明だ。小さいときからパパの世達氏にみっちり唄三線を仕込まれた実力派。いいんですよ~。那覇ハーリーのときの立ち姿を載せておきましょうね。

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 そして男性のほうは、さゆりぃ(親しみを込めて新垣小百合嬢をこう呼ぼうね)とウチナーグチで話しているのを聴くともなく聴いていると、やたらと沖縄の歴史や故事に詳しい。一見、フツーの沖縄オタク風。しかし、はたと気づく。
 トレードマークの赤瓦を模した笠をかぶっていなかったので気づくのが遅れたが、彼はラジオ沖縄のパーソナリティとしてブレイク中の赤瓦ちょーびん氏なのであった。訊けば、今日はプライベートなのでかぶりものは置いてきたとのこと。
 バスツアーの間中彼の解説や薀蓄を聴くことができてとてもラッキー。また、さゆりぃとも民謡のことなどについて話をしていくことになりました。

 参加者は、後ほどやった自己紹介でわかるのだが、北海道出身で東京在住の人や宮城出身の沖縄移住者、沖縄でも国頭村から来たという人などもいて、実に多彩。20代後半から70代までいただろうか。好きなものが一致すればこういうバス旅行も成立するのだなあと感心したのでした。
 はじめに訪れたのは、国際通りとパラダイス通りに挟まれた丘の上にある瓦屋節の碑。
 パラダイス通りに面した大東そば花笠店のすぐ近くから草むらに分け入り、こんなところにもあったのかというような古い石段を登っていくと小高い丘があり、そこに碑があった。へぇ~、街中にもこんなところが、忘れられたかのようにあるんだねぇ・・・。沖縄を何百回訪れたって、こういう機会でもなければ来ることは絶対になかっただろう。

 その昔、琉球の陶業発展のために中国から招かれた瓦陶匠がいた。王命に従ってその妻となった琉球の女には、夫がいた。
 女はこの丘に登り、夫の住む南の方角に目を凝らすが、山々にさえぎられて夫の住む地は見えなかった――という、沖縄によくあるパターンではあるが、悲しい伝説があるという。当時は地照川原の丘といわれたここには、その瓦陶匠が葬られているという。



  瓦屋つぢのぼて 真南(まふぇ)向かて見りば 島ぬらる見ゆる 里や見らん
という琉歌の刻された碑を背にして、古典民謡の唄者である新垣洋さんが瓦屋節をうたう。
 ポツンポツン・・・という感じで爪弾く三線の音に乗せたさびざびとした唄。Ummm、いいですねえ。右側にたたずんでいるのは、このツアーの主催者で島唄解説人の小浜司氏です。

 このあと鬼ムーチー伝説の残る首里金城町の大赤木を見て、金城石畳道を通って、次の目的地へと向かう。
 バスの中では早くもビールとつまみが配られて楽しい時間が始まりました。おれもさきいかなどのカワキモノをつまみながら午前中から缶ビールをぐびぐびと。会話も弾む。これが楽しいんだよね、バスの旅は。

kahi2.jpg (金城の石畳道)
 次に向かったのは、西原町小那覇にある「梅の香り」の碑。ご存知ですか?「梅の香り」。
 ビールを飲み始めたのに加えてつい話のほうが熱心になっていたので、どこをどう通ってきたのかよくワカラナイが、小那覇公民館前の公園内にその碑はあった。
 この曲の作詞・作曲をした新川嘉徳氏を顕彰した碑はなかなか立派なもので、本人の顔写真まで入っている。さらに碑の脇には、ボタンを押すと何人かの唄者によってうたわれるこの曲が流れ出てくる装置まである。これらから察するに、地元ではなかなかの名士らしい。



 碑によれば氏は、1899年の2月10日生まれ。我々が訪れたこの日は奇しくも彼の生誕109年目となるその日だった。
 14歳でハワイに渡り、蓄音機関連の発明で合衆国政府から特許を得たほか、ルーズベルト大統領の歓迎演奏などで天才音楽家としての名声を馳せたのち、1936年に大阪に渡り、「梅の香り」などの新作をレコード化したという。

 碑を前にして、さゆりぃたちの唄三線で、参加者一同が「梅の香り」をうたう。
  ♪ 春や花盛い 野ん山ん咲ちゅい
      いろいろぬ花ぬ 咲ちゅる美らさ
        咲ちゅる美らさ いろいろぬ花ぬ ・・・
 梅が密やかに咲き誇っているさまを表しているようなウタムチが、実に印象的だ。
 碑の後ろに植えられた何本かの梅の木は、つぼみがわずかながら赤く膨らんでいるような気がする。

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 作者のことはこのときまで知らなかったが、このうたは晩年の嘉手苅林昌も好んでうたっていたので、よく知っている。
 おれも、うつむき加減でうたっていた嘉手苅林昌の表情を思い浮かべながら、うたう。

 ツアー参加者のほぼ全員がしみじみとうたっている様子には、深く感動。
 いっしょにうたい、感じることができるこういう環境の中に身を置けたこと自体が、おれにとっては貴重なことなのだ。
 琉球フェスティバルで「てぃんさぐぬ花」や「バイバイ沖縄」をみんなでうたったときも感動したが、このときの感動はそれよりもずっと大きかった気がした。
 その後も歌碑めぐりは続く。
 次は与那原町の新興埋立地、東浜(あがりはま)マリンタウンにある「兄弟小(ちょーでーぐゎー)節」の碑。
 「兄弟小節」は、出会えば兄弟、分け隔てなどあるものか、という沖縄方言をテーマに、前川朝昭が作詞してうたい1960年代に沖縄で大ヒットした曲。
 その前川朝昭は、1912年与那原生まれ。本土や南洋を転々としたあと戦後になってから活躍し、琉球民謡協会の会長を3期務めた人物で、1990年没。
 こちらの曲は「梅の香り」とは違ってとてもポップな曲。ここでもさゆりぃが唄三線を披露する。

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 冷たい風が吹くマリンタウン内の公園で、沖縄特有のドカ盛り、揚げ物満載の超豪華弁当をビールとともに食す。
 これらもすべて3500円の参加費のうち。いやぁもう、満腹だし、ビールの酔いは回るし、シアワセである。呑み過ぎだなあ。さて、トイレに寄って、と。

 それからは、佐敷城址の月代宮を見て、八重瀬町は具志頭の交差点付近、JA具志頭の裏手の山沿いにある「汗水節」の碑へ。
 「汗水節」は、沖縄歌謡における昭和の始まりを告げた1曲という位置づけのもの。1928年、昭和天皇の即位記念事業の一環として、沖縄県が貯蓄奨励民謡の歌詞を公募したところ、具志頭村仲屋で青年団長をしていた仲本稔のつくった詞が選ばれ、これに宮良長包が曲をつけてできあがったのがこの曲だったのです。
 困窮を極めた当時のウチナーンチュ社会にあってこの歌は、汗水を流して働く喜びを訴え、財を成そうではないかと力強く訴える教訓歌となっている。

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 ここでも参加者一同声を合わせて大合唱。
  ♪ 汗水ゆ流ち 働ちゅる人ぬ
       心嬉しさや 他所ぬ知ゆみ 他所ぬ知ゆみ
          ユイヤサーサー 他所ぬ知ゆみ
             シュラヨーシュラ 働かな
 ・・・いやあ、すごいなあ。これはもう、ファンクの領域に入っているなあ。カラオケでうたうよりノリは格段にいいぞ!
 次に行ったのは、歌碑ではなく、ガマ(洞穴)。糸満市真栄里(まえざと)の「ロンドン杜公園」内にある「ロンドンガマ」というところ。
 このガマ、エイサー唄の「海ヤカラー」で「ドンドンガマ」、「海ヤカラー、ドンドン」とうたわれる由緒ある場所らしいのだが、いやはや、すさまじいところにあった。



 公園の散策路から、普段なら誰も踏み込んでいかないだろうと思われるご覧のような藪をぶっこいて行くこと数分。そして行き着いたガマには人間が築いた遺構があった。こんなトコ、一人じゃ絶対に来れないね。

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 さて、このガマ、今ではとても想像できないが、かつてはなんと海辺にあったそうで、ここに外国人(イギリス人か?)が漂着して生活していたという。そしてその男たちが皆ジェントルでイケメンなので、村の娘達に大人気となり、ガマに忍んで通い始める娘まで出てきた。そんな様子を皮肉まじりに地元の青年たちがはやしたてたうたが「海ヤカラー」なのだそうな。

  ♪ 海ヤカラー ドンドン スーリエイスーリ ・・・

 海ヤカラーとは、海の輩。また、この漂着青年たちが8人だったので、彼らは「エイトマン」と呼ばれ、それが訛って「糸満」という地名が生まれたのだという冗談のような話もあるのだそうだ。

 それにしても、糸満市の行政は、「ロンドン杜公園」のいわれともなっているこのガマを荒れ放題にしておく手はないと思う。また、高年のおじさんおばさんたちをこのような場所まで連れて来ようとした小浜氏もなかなかエライ!
 幸いにして一行全員は無事に現場にたどり着いた。狭くて足場も悪いので、ここでの唄三線は、なし。碑を見るたびに撮ってくれていた集合写真担当の方も、ここではさぞかし撮りづらかったことでしょう。
 バスの車窓から、ここも昔は海辺にあった白銀堂を眺め、そのいわれなどの解説を受け、次に向かったのは、糸満市西崎町にある「海のふるさと公園」。ここには「白浜節」の碑がある。ほう、ここはりんけんバンドの上原知子の実家のすぐ近くだ。
  ♪ 吾んや白浜ぬ 枯松がやゆら
       春風や吹ちん 花や咲かん
          二人やままならん 枯木心 ・・・

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 この唄、詳しくは知らなかったが、碑によれば、人情歌劇「浜に咲く花」の主題歌なのだそう。
 糸満の海岸に捨てられた赤子を漁師が救い自分の子として育てるが、長じてその漁師の息子がその娘に恋をしてしまうというモチーフの、独特の糸満方言による涙と笑いの物語。
 1941年に大阪で初公開された後に沖縄各地で上演され、庶民に沖縄芝居の楽しさと感動を与えた名作なのだそうです。碑は平成12年10月建立。
 ここでもさゆりぃがしっとりと唄三線。彼女にはこんな曲が合っているかもなぁ。

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 終わってバスに乗り込んできたさゆりぃは、最後列の席ですっかり打ち解けていた我々に「お疲れ様でした~」とあいさつ。はい、今日の大役ご苦労様でした。

 いーやーぐゎーに戻りついたのは午後5時前ごろ。たっぷり1日、歌碑、唄、説明、ビール、めし、会話――と多方面にわたって楽しませていただきました。
 今回の沖縄旅では前半いろいろトラブって多少盛り下がってしまったけど、このツアーに参加したことですっかり挽回してしまったようだ。「小浜司と行く歌碑めぐりツアー」は、今回の旅のメインイベントとなった。
 小浜サン、バスの借り上げやら食料の調達やらで、3500円×50人ではやり繰りが大変だったことでしょう。また、民謡歌手のギャラもおそらくほとんどないのではないか。
 主催者もボランティアも、好きでなければできないとてもいいツアーに参加できたおれは、ラッキーだったし、楽しかった。

 さゆりぃ、ちょ~びんさんはじめ、知り合いになった方々と別れのあいさつ。同好の誼で、きっとまたどこかで会うこともあるでしょう。
 バスを降りた人の何人かはそのまま2階の店へと直行して2次会をやる模様。おれも誘われたが、新参者がこれ以上我が物顔でのさばっているのはどうかと思い、ご遠慮申し上げることとした。
 最後に小浜氏にお礼を告げて辞したが、彼の両目はビールと泡盛の酔いで焦点が定まっていなかったのを、おれは見逃さなかったゾ。(笑)
 本当にお世話様でした。


 思いがけず充実した旅の3日目の夜は、我が愛するネーネーズのホームグラウンド、「ライブハウス島唄」で締めよう。
 昨年4月に宜野湾から那覇の国際通りに移転した「島唄」には2回目の訪問となる。
 国際通りでの営業もすっかり定着したようで、8時30分からのセカンドステージ目がけて入店すると、店内はほぼ満席状態。繁盛しているんですね~。

 ステージの近くから大きく分けて近・中・遠と3つのブロックに分かれている客席の、いちばん後ろのブロックのテーブルの一つに案内される。
 ネーネーズをじっくり見たいのならかぶりつきの席がいいのだろうが、ライブの雰囲気を楽しみたいのなら、室内全体を俯瞰できるこういう席も悪くはない。
 さっそくカラカラに入れられた泡盛とヒラヤチー、豆腐チャンプルーをたのみ、長かった一日を振り返りながら寛ぐ。フードにはそう期待していなかったけど、豆腐チャンプルーはなかなか美味かったナ。

 ステージの時間になり、「ハイタ~イ、ネーネーズやいび~ん!」とネーネーズが登場。
 特に上原渚や比嘉綾乃がそうなのだが、連日のステージをこなしているためか、こういう大きい声を出すと、すっかりハスキーになっていて、やや痛々しい。まあ、うたったり、普通に話したりしている分にはいいのだが・・・。週に5日、それぞれ2時間ほどステージに立つわけで、それは結構ハードなことなのではないか。

 セカンドステージのラインナップは、「黒島口説」、「安里屋ユンタ」、「ヒヤミカチ節」、「万国津梁の唄」、「教えてよカメジロー」、「コーヒールンバ」、「黄金の花」。
 1曲目などは振り付けもすっかり板につき、テンポの速い曲なのに乱れがない。5、6曲目はオリジナルアルバム「愁」からのテイクで、過去のネーネーズを引きずってばかりではないところをアピール。

 考えてみれば、日本広しと言えども、ユニゾンのスタイルでここまで活躍しているグループというのはほかにないのではないか。
 そういう意味からも、また、三線あり、三板、太鼓ありで、民謡もきちっとこなすようになったことからも、彼女たちはもっと自信を持ち、胸を張っていいと思う。

 ラストステージは、すごく充実していたと思う。
 お得意の「国頭サバクイ」から始まって、宇崎竜童のオリジナルをリメイクした「沖縄ベイ・ブルース」、知名定男の愛唱する「山河、今は遠く」ときて、初代もうたっていた「ノーウーマン・ノークライ」、「糸綾」、「糸満姉小」が続き、最後はいつもの「豊年音頭」だった。
 なお、アンコールは、観客からの強いリクエストで「黄金の花」が再びうたわれた。

 ラストステージが終わったあとは店仕舞いとなるが、その際にはネーネーズが店の外で客を見送る趣向になっている。
 おかわりをした泡盛をしばらく楽しんでいたために帰る客たちの最後のほうになってしまったおれは、ラッキーにもネーネーズたちと少しの間会話をすることができた。
 色とりどりのウシンチーにきりりとしたステージ用の化粧姿は、近くで見るとより美しさが増す。おれよりずっと小さいその4人が間近にいて、下のほうから、どこから来てくれたのかとか、笑顔でいろいろ尋ねてくる。
 Ummm・・・、チミたち、かわいいねえ――と、おじさんは鼻の下を伸ばす。

 ステージ中に、今年は新CDを出すということを話していたので、いつ頃になるのかを尋ねると、金城泉が言うには「それは予定の予定なんです」とのこと。
 楽しみにしていることを告げ、知名センセイやプロデューサーの嘉手苅聡さんに早くつくろうとせがんでみるようアドバイスする。(笑)
 また、與那覇歩に、彼女がメインボーカルをとる「SUN-KANI」が聴きたかったと言うと(これ、好きなんです)、「今度来たときにはリクエストしてくださいね~」ということでした。ええ、すぐにまた来ましょうね。

 最後に、4人のいつものキメのポーズで記念写真をパチリ。(上の写真。おれもミーハーになったもんだ)
 仕事でやっているのに、仕事であることを感じさせないホスピタリティ。彼女たちはプロなのだなあとつくづく思ったのだった。
 旅の最終日の2月11日。午後2時25分発のフライトまで時間がある。
 この日は朝から雨の心配がないようだ。よーしよーし。では、時間まで目いっぱい歩くか。

 まずは、浦添の、沖縄戦における最大の激戦地の一つである「前田高地」を攻めたい。
 現在では沖縄学の第一人者と言っていい外間守善という人がいる。この人が、若い頃、不幸にもこの高地をめぐる血で血を洗う争奪戦に参加し、最近そのことについて“戦後60年目の証言”として回顧録を出版した。これを読んで、その地が今どうなってオルのか――ということについて、ぜひ自分の目で確かめてみたくなったのだ。

 ゆいレールで終点の首里まで行き、首里汀良(てぃら)町から石嶺入口へと続く北に伸びる一本道を歩き、石嶺入口からさらに宜野湾南風原線(県道241号)を西へと進む。旧名でいうと宜野湾街道。その名称が、件の回顧録に何回も登場していた。この長い道程を、街の風情や地形などを眺めながらタラタラと歩く。これまた楽し、である。こんなこと、歩くことが嫌いなウチナーンチュは絶対にやらないのだろうな。

 山がちだった道をしばらく歩くと、前方の視界が開けてきた。西原入口の十字路だ。そのまましばらく行った所で、前田入口のバス停付近から北西方向、浦添市の当山方面へと進み、鏡が丘養護学校の南面あたりに達すると、おお、前田高地の象徴である為朝岩が見えてきた!
 この岩、当時の米軍の戦略地図では「Needle Rock」と記載されている。奇岩なので一目でわかる。

 しかし、その近くに達するべく歩を進めていくと・・・。
 かつて米軍精鋭がよじ登っては撃退された為朝岩北側の急斜面一帯は、ディベロッパーが大規模な開発を行い、岩のすぐ近くまでほぼ全面が巨大な霊園と化していたのだった。墓の多くがまだ新しいことから察するに、造成されたのはつい最近のことなのではないか。



 正直言って、なんじゃこりゃである。灰色一色となってしまった斜面を見て、しばしボーゼン。
 激戦地だからという理由でその場を保全しておこうというようなデリカシーは、今の世には存在しないのだろう。若しくは、暗い過去など早く忘れたほうがいいということか。
 戦後60年。世の中は着実に変わっていくのだなあ・・・。

 折しも上空では、低高度でたくさんの米軍輸送機がひっきりなしに普天間飛行場へと着陸していく。全部で何十機あっただろうか。
 あの重低音の唸りのような爆音は、戦争を経験した人ならトラウマになっている音だろう。これを連日、何十回も聴かされれば、さぞ精神衛生上よくないのだろうな。

 前田高地を死守しようとした日本側大隊は、山形県、沖縄県、北海道の出身者で構成され、600人の戦死者を出したという。
 この近くのどこかに彼らを祀った「前田高地平和の碑」があるはずなのだが、これについては、今回は発見できずに終わった。いつか訪れて、手を合わせたい場所である。
2008.02.28 浦添市内散策
 ここまで来てしまうと、もう公共交通機関を利用しての移動はちょっとむずかしい。
 歩くと時として足が痺れることもある持病の腰痛は、幸いにして疼いてくることはない。ん。引き続き歩いて行こう。

 次の目的地は、浦添市の史跡「当山の石畳道」だ。
 来た道をそのまま浦添城跡方面へとしばらく進んで行くと、「← 当山石畳道 90m」の標識が。その標識どおり小道を右に折れていくと、それはあった。
 三叉路の右手には、離島でよく見られるような土に雑草が薄く生えた緑色の道が切通しに沿ってある。それはかつての宿道がそのまま手つかずで残っているような印象だ。そして、左手のほうには、牧港川へと下っていく石畳のくねくね道が続いていた。
 おお~、これは見事! 首里金城町の石畳とまではいかないかもしれないが、なかなか風情のある道構えだ。すぐ脇ではおじさんが畑仕事をしていたりして、観光地然としていないたたずまいがまたなかなかいい。



 浦添市の教育委員会が道の入り口に掲げている看板には、次のように書かれていた。
『この道は、首里城から浦添間切番所を通って宜野湾間切番所に至る「普天間街道」で、牧港川の谷間に長さ約200メートルの石畳が残っています。馬が転ぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。この道を通って国王は普天間宮に参詣し、また各間切の年貢が首里城に運ばれました。宜野湾間切が新設された17世紀後半に整備されたと考えられ、橋は大正時代に改築されました。』(一部省略)
 この道のかつての様子を想像してみる。

 その後、浦添大公園沿いを通って伊祖へと出て、そこからパイプライン通りをずい~~っと歩く。占領時代の名称がそのまま残っていて、この道の成り立ちがわかるというのも、なかなかいいではないか。
 これがまたけっこう長い。しかし、ひとつの通りを徒歩にこだわって制覇するというのも、意味がまったくないわけではないだろう。
 その後、少し寄り道して「内間の大赤木」を見てから古島へと出て、ゆいレールに乗っておもろまちへと戻ったのだった。

uchima.jpg  ←内間の大赤木

 朝から歩くこと、3時間半以上。15キロくらいは歩いたのではないか。
 確かに疲れはするが、歩くことによって、バイクや車では見ることのできない何かが見えてくる。それは、歩きながらいろいろと考えるからなのだと思うが、どうだろう。
 いずれにしても、これもまた好きでなければやってられないことなのかもしれないなあ・・・。おれはやっぱり好きなのだろうナ、こうやって意味もなく彷徨うことが。

 所要時間はほぼ予想どおり。フライト時刻にぴったり間に合う勘定だ。沖縄の地図を見れば縮尺がわからずとも大体の所要時間がわかるようになってしまった――ということに気づき、沖縄遍歴の長くなったことに思いをいたす。