v0910.jpg

 例によってあちこちと眺め、立ち止まり、迷い、休みつつ「ホーおじさん記念館」へ。この派手な建物ですから、遠くからでも目的地はあれかな?と推測できてしまいます。
 しかし、市街と、記念館のある対岸との間にある橋が工事中のため、仮設道路の位置が手持ちの地図とは大きく違うので、近くなってからウロウロ状態に。

 すると遠くから、日本語で言えば「お~い!」というような掛け声が2回。
 まさかおれを呼んでいるのではないだろうと思いつつも一応振り返ってみると、道路脇に座り込んでいた工事の日雇い風のおっちゃんがおれに向かって“あっちあっち”というジェスチャーを。
 彼は、このあたりで道に迷っている観光客風情はほぼ間違いなくホーおじさん記念館を目指しているはずであると確信し、
「チッ、また迷ってやがるゼ。あぁあぁ、そっちじゃ方向が違うよ。見ちゃいられないよ。しょうがあるめい、面倒だが教えてやるか」
とでも一人ごち、声をかけてくれたのだろう。
 うふふ・・・おじさん、ありがとうね。

 ということで、閉館時間が迫る館内へと突入。
 基本的にベトナム語での説明なので、それぞれの展示物の価値などはよく理解できなかったものの、ホーチミンの写真がとにかく豊富。当時彼は人民の絶大なる人気と信頼に支えられていたのだなということがよ~くわかりました。

v0920.jpg

 そしてこんなブースも。はい。ホーおじさんです。
 ホーおじさんは、1911年、記念館のあるこの地から船に乗ってフランスへと渡ったのだそうです。いわばベトナム近代史の始まりの場所がココなのだそう。へぇ~。
 サイゴン川に面した庭園も美しいし、園路沿いには市内各地の今昔を写真で比較する看板が設置されていて、全体としてなかなか見応えがありました。
スポンサーサイト
 さて、日も傾きかけてきたし、ドンコイ通りへと戻ろうか。
 おれはその際、出口にバイクタクシーがいたならそれで帰ろうと思っていた。そして、これまで会ってきた何人かの兄ィたちの話を総合すれば、ここから中心部までなら1ドルもあれば十分だろうと踏んでいた。
 で、記念館を出ると・・・。いたいた、1人。で、さっそく手を挙げて合図を送ってくるではないか。
 おれは彼のほうに歩み寄って行き、交渉を始める。

v0930.jpg

「ドンコイ通りに行きたい。いくらだ?」
「4ドルだ」
「1ドルなら乗りたい」
「そりゃあ無理だ。しょうがない、3ドルなら」
「そうか。じゃあこの2本の足で歩くとしよう。ありがとうな」 と、歩きかけると・・・。
「待ってくれ、わかった、1ドルで行こう」 となった。
 このあたりはあまりにも読みどおりなので可笑しくなってしまう。と同時に、なにもそこまでケチケチすることもなかったかという温情も。だが、ボラれたくはないという気持ちのほうが勝る。
「いいな、1ドルだ。それ以上は何があっても払わないからな」 と念を押す。
「あぁ、オーケーオーケー、さあ乗って、レッツゴー!」
 ――彼はこんなノリ。おれが後席にまたがるとゆるゆると発進したのだった。

 ノーヘルでバイクに乗るのは実に爽快。もわりとした風が体全体に押し寄せてくる。金額云々では語れないステキな解放感。おれはやっぱりバイクが好きだったのだなぁと改めて認識する。と同時に、日本法規におけるヘルメット義務付けや原付二人乗り禁止のナンセンスを糾弾したいような気分になっていた。

 バイクの洪水をバイク側から見ると、それはまた違って見える。川を遡上する魚の群れの1尾になったような感じ、といえばわかってもらえないだろうか。同じ方向に進むバイクたちはひとつの群れなのであって、その中での激しい接触などはありえないし、この群れに別の群れが大挙して突っ込んでくるようなこともない、というようなことなのですナ。
 また、スピードは緩やかで、急ブレーキ、急発進などはまったくなし。日本でありがちな“自分が正しければぶつかってきたほうが悪い”というような手前勝手な発想はないようだ。

「Marriage?」 またいつもの質問がなされた。
「Yes,I’m married.」 おれはいつものようにそう答えて、ふと今の、身体に羽根の生えたような心境を前を向いて運転している彼に伝えてみたくなり、「But,in Vietnam,I’m not married.」 と付け足してみた。
 この雰囲気の中で彼はこの冗談を勘違いすることなく見事に理解できたらしく、「Ah,In Vietnam?」と言いながら笑ってくれたのだった。
 合わせて、今夜ベトナムを去るが、十分に楽しませてもらったと言うと、それはよかったというようなことも言ってくれた。言葉というものは、感慨をこめて話せば案外伝わるものなのだなぁ。

 一方通行の多い中心部を時には逆行したりしながら、ドンコイ通りの市民劇場前で下車。
 彼はその際、「2ドルだ」と言う。
 乗せてもらっていたわずかの時間にしてはずいぶんと親しくなれたつもりだったのに、それでもやはりオマエはそう言うのかとちょっとがっかりし、「だ~め、オンリーワンダラー」と告げる。
 すると彼は、少し恥ずかしそうに“やっぱりそうだよナ”という顔をして、最後は写真の通りピースサインをして去って行ったのだった。
 おれにしてみれば軽く10ドル以上の価値は十分にあっただろうに。物価というものは合理的なようでいてけっこうな不合理を内在しているのだね。

v0940.jpg

 あれ? 市民劇場の前では軍隊が出動して何か催し物の準備が…。
 そうだった。この9月2日はベトナム独立61周年の記念日なのだ。
 ホテル集合は夜8時。あと3時間ほどの余裕があるので、コンチネンタルホテルのカフェで休憩を。
 さすが高級ホテルだけあって、椅子、テーブルは籐製。高い天井。その下には大きな液晶モニターが架けられ、世界のサッカーのダイジェストが放映されていました。う~む、なんか、ヨーロッパのどこかにでもいるような感じだ。
 でも、時折ふわりと姿を見せては消えていくウエイトレスはアオザイ姿。その立ち居振る舞いはホテルウーマンとして見事に洗練されていて、美しい。

v0950.jpg

 客の少ないそんな雰囲気の中で、これまでに体験してきたベトナムの旅の余韻を味わうのも悪くない。
 この斜めから差し込む夕刻の陽差しこそが、旅の終焉を象徴しているのではないか。
 通りの側の明るさと混沌がベトナムそのもので、おれのいる側、陰影深く、ものが豊富で世界の情報が降り注ぐこの室内が、これから戻らなければならない日本なのではないか――。
 そんなことを考えながら、ゆっくりとメンソールのタバコをくゆらしつつ、セブンナップで喉を潤し、耳でサッカーの歓声を聴きながら、通りを動く人たちの様子を観察する。

 道売りのおばぁの声掛けによっておよそ何パーセントの人が物を買うのかがわかり、通りを歩く人たちに占める観光客のおよその比率がつかめ、通りを何度も往復している人間が数人いることがわかったあたりで、ホテルへと戻ることにしたのだった。
 ホテルに戻ると、MITSU氏はふくらはぎに濡れタオルを当ててやや憤慨気味。
 彼もまたバイクタクシーに乗ったそうなのだが、降りるときに足がバイクの熱いマフラーに触れ、火傷をしてしまったとのこと。それ以外にもベトナムでなければ体験できないいくつかの事情があって――ということらしい。
 まぁ、そう怒りなさんな。時間が経てばそれらもきっといい思い出になると思うよ。

 おれはというと、ホテルのレストルームを拝借し、足を洗い、全身を拭き、身につけていたものすべてを着替えて気分さっぱり。

v0960.jpg

 で、夕食を早めにとっておこうということで、2日前に朝食をとったカフェに行ってサンドイッチを食す。
 疲れていることもあり軽く食べようと思って選んだのに、この量。十分すぎますナ。

 このカフェ、市民広場に面した角にあるため、店内からは、夕刻に準備をしていた記念式典が手に取るように眺められました。
 食事を終えて店を一歩出ると、いつもに増してパワーアップした人、人、人・・・。

v0970.jpg

 デジカメを両手で高く掲げて遠方だけを撮ったので写真には写っていませんが、この手前からむこうまでは全部、人。メシも多かったし、なんか気持ちわる…。(笑)
 ってことで、サイゴンはサイゴンまで(笑ってね)、一人ひとりの集合体としての巨大なカタマリのスゴさとパワーを見せつけてくれたのでした。

 この後は予定どおり8時に小さなバスがお迎え。そして、いくつかのホテルを回って十数名の日本人が集められ、車内に日本語が広がったときに、おれは「あぁ、ベトナムの旅はこれで終わったのだな」と思ってしまったのだった。

 まぁ、あまり言いたくはないけど、彼女ら(若い女性がほとんどだったので…)のしゃべることを聞くともなく聞いていると、ガクゼンとするようなことばかりなのだな、これが。
 ○○を買ったとか、○○はイケメンだったとか・・・。結局のところコイツら(失礼)はベトナムに来てまで日本の(というより自分の独善的な)価値観を振りかざし、そのおメガネにかなわなかったものには興味を抱くことすらせず、すべての物事は帰った日本においてどう使うか、どう評価されるか――という視点で捉えている、ように見えるんだな。

 ごめんね。おじさんはね、旅は“サプライズ”なんだと思うよ。旅先にいるときぐらい日本のことは、つまり、地位や肩書きや経済的な環境などは忘れて、一人の人間として真っ白なところで戦ってみてはどうかと思うよ。ついでに言うと、そのまとわりつくようなしゃべり方は人間的に自立できない不具的な成人を思わせ、たいへんに気持ち悪いですよ。スンマセンねぇ、グチが長くなって。

 う~~む、最後はグチグチおじさんに逆戻りしてしまい、なんの結論もなくこの旅行記は終わっていくのですねぇ…。

 でも、最後に忘れずに言いたいのは、今回の旅は相棒があってこそ満喫できたということ。
 いつもは一人旅が多いおれだけど、それは自分なりの目的があって旅をする場合のこと。今回のように初めての地、しかも外国に旅する場合、一応「観光」はしたい。ここで言う観光とは、Sightseeing の観光。で、これって、一人でやっても絶対に無味乾燥だと思うのね。たとえばクチのトンネルを一人で通ったり、ディナークルーズを一人でやってみたところでなにも面白くないではないか。
 そういう意味で、MITSU氏には深く感謝。単独行動のわがままも何も言わずに聞いてもらい、ありがたかったです。


 えー、読んでいただいた皆さん、たいへん長らくの間お読みいただいた「ベトナム旅行記」も、これにて終了です。
 旅を終えてからの1ヶ月間というもの、このドキュメント作業を楽しみながら行うことができましたのも、皆様のおかげです。
 どうもありがとうございました。
 ベトナム旅行のドキュメントがようやく終わり、新たに目下の最大の関心事となったのが、10月9日に開催される「琉球フェスティバル2006in大阪京セラドーム」である。
 6月中にチケットを手に入れてスタンバイ。これで3年連続の大阪となる。

 8日に仙台を発ち、午後からなんばグランド花月で吉本新喜劇を観て、9日は琉フェスを6時間ぶっ通しで堪能、10日戻りのスケジュール。航空券は往復旅割確保で格安に。

 もうワクワクだなぁ。個人的にこんなに盛り上がった日々が続いていいのだろうか。(笑)



◇この記事が良かったと思う方はここをクリックしてね◇
 琉フェスから帰ってきました。
 今回は知名定男がよかったですね~! 感情こもってました。
 というのも、開催日の10月9日はあの風狂の唄者嘉手苅林昌の命日だったのです。司会の玉城満がそう言うのを聞いて、あぁ、そうだったんだなぁと。

 ここでミナサマに、ワタシのアーカイヴズから(なんちゃって)、嘉手苅おとうが亡くなったときの新聞記事をご紹介しましょう。沖縄タイムスさん、堪忍してね。

**** 以下、引用 ***************************
<1999年10月10日> 朝刊 1版 総合1面(日曜日)カラー
[訃報]/嘉手苅林昌氏が死去/沖縄民謡界、草分けの人物

 沖縄を代表する民謡歌手の嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)さんが9日午前5時4分、肺炎のため沖縄市内の病院で死去。79歳。嘉手納町出身。自宅は沖縄市室川1-○-○○○。告別式は10日午後3時から、具志川市具志川1508の具志川葬斎場で。喪主は妻の秋子(あきこ)さん。(23面に関連)
 沖縄民謡界の草分け的存在。独特な節回し、即興の歌、各地を歌い歩く自由奔放な行動で知られ、県内外に幅広いファンを持つ。民謡好きの母親の影響を受け、幼いころから三線を弾き始め、十代で村芝居やエイサーの地謡を務める。本土やサイパンでの生活から終戦後帰郷。沖縄芝居の地謡を皮切りに、舞台公演やラジオ、テレビ出演で、長年にわたり人気を博した。
 独創的な歌い方は評価が高く、"風狂の唄者(うたしゃ)"、"島うたの神"といわれたことも。海外ミュージシャンとの共演も多い。代表作品に「時代の流れ」「白雲節」など多数。シングルレコードは100枚以上、アルバムも30枚を超える。
 地域文化の発展に尽くした功績が認められ、1994年に県文化功労賞、95年沖縄タイムス賞文化賞、97年に国から地域文化功労表彰を受けた。
***********************************************

 どうですか。ためになりましたか? はい

 琉フェスの様子はおいおいご紹介していくことにしますので、今はしばしの間、嘉手苅林昌のことを思い出してみてください。
 目をつぶればあの悠々とした「白雲節」が流れてきませんか?

 嘉手苅林昌っていったい??という方は、「唯我独尊的島唄解説。嘉手苅林昌」をご覧くださいね。

otou3.jpg
 琉フェス帰りでこれから週末までのわずか3日の勤務すらもうざったくなっているワタシですが(笑)、帰ってきたらちょっといいメールが届いていたので、ご紹介します。

 中学校時代からの友人で、お堅い本職にもかかわらずその合い間をぬってわりと頻繁に外国へ旅しているM氏が、ホームページをつくったので――と知らせてくれました。
 旅のインプレを写真とともに掲載していてなかなかウツクシイ!
 して、そのインプレも、中途半端なものではない読み応えのありそうな仕上がり!
 おれもこれからじっくりと読ませてもらうつもりです。

 そのページは、「茫洋の彼方まで」

 私からもよろしくです。
 ぱっと見てみたところメールボックスがなくコンタクトのしようがないようなので、ご感想、ご意見等がありましたら私にお知らせいただくか、ここにコメントを書いてください。伝えますので。
 先の「嘉手苅林昌没後満7年・・・」で、“23面に関連”という部分が割愛されていました。
 「もう、それが知りたいっ!」とか「なんで載せねぇんだ、このやろー!」とかいろいろあるといけないので、少し長くなりますが、載せてみます。またまた沖縄タイムスさん、堪忍してね。

otou4.jpg

    (上:2001年11月の追悼公演のポスター)
**** 以下、引用 ********************************
<1999年10月10日> 朝刊 1版 社会23面(日曜日)
嘉手苅林昌さん死去/唐の世から大和の世、大和の世からアメリカ世/庶民の思い歌に紡ぐ

 風狂の唄者と呼ばれ、独特の節回しで幅広い人気を得た沖縄民謡界の大御所、嘉手苅林昌さんが9日、亡くなった。79歳だった。即興の歌詞、そして自由奔放な生き方は数多くの「伝説」を残してきた。「唐の世(ゆー)から大和の世/大和の世からアメリカ世/みじらさ変わたるこのウチナー」(『時代の流れ』)。庶民の思い、激しく揺れた沖縄の戦後を、ひょうひょうと歌って駆け抜けた嘉手苅さん。沖縄民謡の一つの時代が終わりを告げた。(1面参照)
 1920年に旧越来村に生まれ、民謡好きの母親の歌に合わせて幼いころから三線を弾き始めた。十代で村芝居やエイサーの地謡を務め、夜は当時の唯一の娯楽であった毛(もー)あしびに参加した。その中で歌い込み、三線の技を磨き、多くの歌を覚えた。
 レコーディングに携わったキャンパスレコードの備瀬善勝社長は、嘉手苅さんの記憶力や臨機応変な即興の歌に驚いた。「どんな歌でもよく覚えていたし、即興で延々と歌い続けた。毛あしびで鳴らした、島唄本来の自由さを体現した歌い手だった」と死を惜しんだ。
 若い時から旅好きで、出稼ぎ地の大阪や、第二次大戦中はサイパンなどの南太平洋諸島で生活。三線を持っての旅だった。
 琉球民謡協会の登川誠仁名誉会長は「歌い方や節回しを教えてもらった。独特の発声法で決してきれいとは言えなかったが、味があった。あんな唄者は後にも先にもこの人だけ」。
 民謡歌手として頭角を現したのは戦後。県内外でのステージ活動も頻繁に行い、テレビ、ラジオの出演も数多くこなした。シングルレコードは100枚を、アルバムも30枚以上に上る。今年もインドの民族楽器奏者とセッション、映画にも出演するなど活躍していた。
 有名になっても気負わず、どこへでも出掛け歌った。父親のように慕っていたというラジオパーソナリティーの上原直彦さんは「理屈も言わない、執着もない、自由奔放、まるで風のような人だった。逸話も多いだけに、みんなでうわさ供養をしてあげたい」としのんだ。

自由奔放に生きた人・家族
【沖縄】 沖縄市の室川市営住宅の嘉手苅林昌さんの自宅には、9日朝から訃報を知った民謡関係者など弔問客が次々と駆け付けた。妻の秋子さんは林昌さんのひつぎに寄り添うように座り、弔問に訪れた人たちに気丈に対応していた。
 家族の話によると林昌さんは先月7日に再入院してからは、病室にカセットを持ち込み若いころの自分の曲を聴くこともあった。意識はずっとしっかりしていて「家に帰りたい」と話していた。2日間、こん睡状態が続き「眠るようなやさしい表情で亡くなった」(三女の知花末美さん)。家族に見守られての最期だった。
 二男の林次さんは「気難しそうに見えたかもしれないが子や孫にはやさしい人だった」。芸についても「普段は言わず、行き詰まるといつも一言、適切なアドバイスをくれた。音楽と人が好きで自由に人生を生きた人だった」と語った。
************************************************
 さて、本日より、熱い思いで鑑賞してきた「琉球フェスティバル2006in大阪」の鑑賞記を少しずつですが掲載していきます。よろしくです~♪



 今回はのっけから失敗してしまった。
 琉球フェスティバルの開催される10月9日、朝のホテルの窓から見た見事な秋の青空につられ、午前中は少し離れた万博記念公園へと足を運んで散策と博物館めぐりと洒落こんだのだった。そして国立民族学博物館。膨大な映像アーカイブをはじめとしていやはや見応えたっぷりでやんの。

 結局そこで多くの時間を費やしてしまい、大慌てでモノレールや地下鉄を乗り継いでほうほうの体で大阪ドーム前にたどり着いたのは、開演時刻の3時をチト過ぎた時間になってしまったというワケ。琉フェスを観るためにわざわざ大阪までやってきたというのに、おれはいったい何をしているのか。

 で、小走りに勝手知ったるドーム内へと突入し(なにせ3年連続だからね)、係員に案内されて、すでに琉鼓会のエイサーで盛り上がっている場内のスタンド席の前から2列目の自席へと向かう。そんなワケで、今年は公式プログラムも泡盛ロックも何もなし。

 あとで琉フェス関連のブログなどを読んで知ったところによると、オープニングに嘉手苅林昌の「時代の流れ」が流れたり、よなは徹がド派手な衣装で琉鼓会の地謡を務めたりしたらしい。チショー、見られなかったのは残念至極。もっと早く来るはずだったのにぃ。

 などと思っていると、あれ?…おれの席、誰か座っているではないか。う~む、さて、どうするか。

 スタンド席を見回すと、バックネットから両翼にかけての一部が客席として使われているらしく、その先の両翼は無人。加えてバックネットの真後ろは、そのすぐ前に組み立てられた照明のやぐらが障害物となっているためか、ここも席の指定がないようだ。
 しめしめ、それならばと、おれはバックネット裏の角の最前列に陣取ってみた。“自己指定席”というわけだ。ここからならやぐらもまったく邪魔にならないし、周りは誰もいないので長い(?)脚も伸ばし放題~♪ 

 しかし、予想はしていたことだけど、今回は客の入りがよくない。一昨年は1万8千人と聞いたが、その時と体感的なものを比較すると、これでは1万人も入っていないのではないか。こんなにゆったりと姿勢を崩して観ることができるというのもまぁ贅沢な話ではあるが、満員の中で感じるはずのあの盛り上がりが得られないというのも少しもの足りなかったりして。ふふ、ないものねだりだよね、おれ。


 いよいよ唄者登場。トップバッターはディアマンテスだ。
 おなじみ「勝利の歌」でスタート。
 ♪ 生きてる喜び感じ~よ~うよ~ フムフム。

 最初からショボい話になってしまうが、ディアマンテスが絶好調だった2000年、東京で観た琉フェスでは、ディアマンテスの応援団によって色とりどりの旗が打ち振られ、観客が大爆発したものだったが、今回はそれよりもずっと地味。かなり地味。ナンデダ?

 ――ははぁ、そうなんだ。今年からアリーナ席は椅子席に。マス席状態だった去年までとは違い、これでは最初からスタンディングでというわけにはいかないのだろう。
 後ろのスタンド席から見ていてもアリーナの観客はお行儀よく整然としているものなぁ。アリーナに陣取っているあの渾然一体のフィーリングが大好きな方々はきっとがっかりしていることでしょう。

 2曲目は、ニューアルバム「太陽の祭り」の1曲目に収録されている「この愛を届けよう」。ラテンのノリのうただけど、女性のボーカリストが手をヒラヒラさせて踊りだせば会場全体がオキナワになる、といった風な、ディアマンテスならではのうた。

 アルベルト城間が「踊ってもらえます?」とアピールして、3曲目は「オキナワ・ラティーナ」。城間の張りのある声はやっぱり魅力的だなぁ。
 ♪ ケ面白い、ケ面白い・・・ 体の前で両腕をくるくるっとやるあの振り付けも、つい一緒にやってしまいたくなるよね。

 その後城間が、ディアマンテスを結成して15周年を向かえることやオキナワの心をメッセージにしてうたい続けていきたいといったようなことを語り、最後は女性ボーカリストのen-Rayを迎えて「片手に三線を」を。かりゆし会のエイサー太鼓も入り、フェーシを(囃子)を入れて雄大に。あぁ、いいなぁ。バッチリ決まりました。


 お次は神谷千尋。
 白っぽいひらひらのスカートにブーツ、頭には鳥打帽という一風変わった出で立ち、そしていつものヘアースタイルと違うブラウンのショートボブで登場です。

 ♪ ツンダーサー! というソロパートが場内に響き渡って、出世作「美童しまうた」でスタート。自ら三線を弾きながらうたうという“唄三線”の王道スタイルは好感がもてる。駆け出しの若い唄者の一人と思っていた神谷千尋もいまや立派な、堂々とした唄者になった感がありますねぇ。

 2曲目は、アコースティックMの知名勝がアコースティックギターでサポートして「ティンジャーラ」を。これ、名曲。しかし、この曲の特徴である宇宙的な広がり感が観客にうまく伝わりきったかは、やや疑問。ストリングス系の装飾音が足りなかったからなのかなぁ。

 うたい終えて、「琉フェス、すごく来たかったです!」と。そうだよね、3年ぶりの出場だものね。あの時は、誤解を恐れずに言えば、小娘が才能だけでつっぱってうたっていたような印象があったけど、今や唄者として確かな存在感がある、と思う。

 3曲目は、この夏発売の「やさしさのカケラ」を。自作の詩に上地一成が曲を。キーボードの新垣雄(かつし)も加わって。音づくりの面でもクリエイティブな面でも、優れたアーチストたちがしっかりサポートしてくれていることが彼女の強みなのだなとつくづく思う。
 最後は「わらび時分」でフィニッシュでした。

yonaha.jpg

 3番手はよなは徹。
 はじめは無伴奏で「御知行(うちじょう)」を。これ、今年のGWに北谷のライブハウスで聴いたときもやっていたな。民俗芸能の泡瀬の京太郎(ちょんだらー)で祝福芸の際にうたわれる伝統的なもの。
 ひたすらよなはの声だけが響き渡る時間が流れ、観客は唖然というか、オドロキというか――といった風情。琉フェスの大舞台でまさかコレでスタートするとはおれも思わなんだ。

 三線を十分にチンダミ(調弦)しながら彼もまた「3年ぶりに帰ってきました」と発言し、次は「最近習った唄を」ということで「北谷ナークニー」を。いや~、三線の響きが冴え冴えとして、いいですねぇ!
 4台の巨大スクリーンに大写しになった彼は、黒のジャケットに黒皮のロングパンツ。いつもより顎鬚が濃くてなかなか精悍な印象です。

 アップテンポに転調した散らしでやや盛り上がりましたが、それで終わり。たった2曲かぁ…。う~む、こういう本格的な民謡を聴きたいおれとしては、かなり物足りないぞ。
 それと、できれば「三重城(みーぐしく)」とか「栄口節」とかのお得意のミーウタも聴きたかったなぁ。それとそれと、次回は仲間の松田一利クンも同行いただいてはいかがだろうか。
futenma.jpg

 玉城満から、小さい頃からのど自慢荒らしをやり今回が初出場との紹介があって登場したのは、キジムナーを思わせる真っ赤な衣装を着た普天間かおり。
 「はいた~い! 普天間かおり やいび~ん!」とあいさつし、よなは徹が三線でサポート。

 これまでほとんど聴いたことがないアーチストだったので注目してみていたのだけど、正直言って、Ummm・・・。
 「芭蕉布」「童神(わらびがみ)」とメジャーどころを彼女風のうたい方でうたってくれました。声の出し方はストレートな感じがして悪くないのですが、あのぺったりとした感じの平板なうたい方については、童謡でも聴いているような気になってしまってしっくり来ず、個人的にはイマイチだったかなぁ。

 蛇足だけど、おれ、1対1や親しい友人同士ならいざ知らず、周囲の全員に向かってぺたぺたと甘えたような声でしゃべる女性って、信用できないというか、生理的に合わないというか・・・。あ。また始まったかって? お呼びでない?? あっそ。

 最後は、平和への思いをこめて――ということで、NHKのみんなのうたでも放映されたという「祈り」という曲をうたって終了。

 もっとオリジナルをうたえばいいのになぁ。ほかならまだしも、琉フェスという場で「童神」をうたえる唄者は限定されると思う。おれは「童神」の間じゅう、夏川りみや古謝美佐子の姿を想起してしまっていたゾ。


 次は、内田勘太郎とBEGINの島袋優のギターマンコンビによるTwo Tonesの登場です。

 二人が声を合わせて「ぼくたち、Two Tonesで~す!」と言いながら始めたのは、
♪ Two Tones Two Tones 野を越え 山越えて~
という感じのグループのテーマソング。「Two Tones In Your Town」という曲かな?

 たたみこむように2曲目は、「てぃんさぐぬ花」をアコギのみ、うたなしで。
 二人のギターテクはすごい! 特に内田のスライドギターは、まさにギターが泣いているって感じ。聴かせてくれますねぇ…。

shimabukuro.jpg

 3曲目は、内田が沖縄に移り住んで最初につくった曲との紹介で「美らフクギの林から」。受けた印象はというと、“高校生フォークシンガーの初作曲か、コレハ!?”でした。(笑)
 よしだたくろうが女の子を好きになって初めてつくったという「準ちゃん」を聴いたときの感動と似ていましたデスネ。その経験から言うと、きっと2~3回聴けばその味がじんわりとにじみ出てくるのでしょう。

 最後は、パーカッショニストの斎藤ノブを招き入れて「適当にセッションしてみようか…」と。ロックンロール調のノリ。これで本当に適当なの? “一流”って、やっぱりスゴイんですね。


 で、そのメンバーがそっくりステージに残って、下地勇が登場。
 下地はいつもどおり、ギターをストロークしながら声を振り絞ってうたうという、フォーク黄金時代をホーフツとさせるステージング。それは、たくろうやかぐや姫がこの秋つま恋で31年ぶりにコンサートを開いたりしているので、なおさら印象深い。

 これまたいつもどおりなのだけど、圧倒的なミャークフツ(宮古方言)にボーゼン。…う~~む、ワカラナイ。(笑)
 1曲目はおばぁの話、2曲目はマイナーコードの悲しげな曲――という程度の理解度です。
 戻ってからいろいろ調べてみると、この9月に発売されたばかりのアルバム「ATARAKA」に収録の「商店(マッチャ)のおばぁ」と「黄金の言葉」という曲だったようです。

 実はおれ、下地のCDはファーストの「天(tin)」しか聴いていない。彼はその後5枚目の「ATARAKA」まで、うたの多くを難解かつ超高速のミャークフツでうたっているのだろう。
 でも、ゴメン。彼のうたにかける情熱や思いは聴いていて十分に理解できるけど、うたそれぞれの違いについてはあまりワカランというのが正直なところです。

 あ、でも、最後にうたった「開拓者」はすぐにそれだとわかりましたよ。

 その後は琉ゆう会のエイサーの演舞が繰り広げられました。
 アリーナの観客は大喜びで一緒に舞い踊ります。盛り上がりだけを見れば、プロの唄者たちのパフォーマンスを凌駕してしまっている感じ。(笑)
 最後の「唐船ドーイ」なんて、もう大騒ぎ。終わった後の拍手もすごかったな~。
parsha.jpg

 エイサーの興奮冷めやらぬ中、次はパーシャクラブ!
 いつもの“ッヘイ! ッヘイ!・・・”と掛け声の入るスカ調の音に乗って登場です。

 毎度おなじみ、赤のシャツに黒のパンツの出で立ちの新良幸人が、
♪ 月のぉ~ かいしゃぁ~ とぅかぁ~み~ぃかぁ~
と「月ぬかいしゃ」のはじめの小節をがなり、いきなりお得意の「固み節」へと突入。
♪ さても めでたや この御世に サァ 祝いぬ 限りねらん・・・
 盛り上げ方がうまいねぇ。

 終わって、「ヤッホー! 昨日は東京(の琉フェス)で(今日の)大阪のリハーサルをやってきました!」と発言。そして、パーシャクラブらしくないが新曲を紹介しますとのこと。ほほー、これは本当にらしくない。(笑)
 曲名は定かでないけれど、オリオンビールの今年のCMソングらしい。これを一緒にやるために神谷千尋が再登場。「仲順流り」のうたい出しで始まるエイサー・オリエンティッドな感じの曲でした。

 そうそう、コレをやる前に幸人と千尋が琉フェス史に残るのではないかと思われる会話をしていたので紹介しましょう。
  幸人 いま楽屋で話題になってたんだけどぉ、千尋のソレは自毛なの?
  千尋 これは、(ズバリ)ヅラです!
  幸人 あぁ、ヅラなんだ。
  千尋 使いまわし出来ますよぉ。
  幸人 じゃ、あとで貸してよ。
  千尋 (幸人の薄い頭部を見て)幸人さんもヅラですか?
  幸人 うん、これはヅラなんです!
 いやはや、大笑い。

 この後は「五穀豊穣」、「海の彼方」(うたい出しのみ)、「じんじん」と、いつもの黄金のラインナップで場を盛り上げてくれました。
 7月にWBA世界スーパーフライ級のチャンピオンになった名城信男(父が沖縄県本部町出身、奈良在住とのこと)本人が壇上に現われ、その紹介とインタビューがあって、お次は奄美大島。

 坪山豊と中村瑞希がそろって登場。坪山は8年ぶり、中村は初めての出場です。スタートは、二人で奄美のお約束の「あさばな節」を。おぉ、奄美の三線の音色がグ~ッド♪

tsubo.jpg

 2曲目は坪山が「綾蝶(あやはぶら)」を。ぱりっとした明るい紫色の着物姿は、奄美のシマ唄の正統を思わせるものがありますねぇ。しかし、かつてよりやや声量が落ちたような印象が・・・。シマ唄の真髄である裏声のキレにもやや精彩がないと感じたけど、どうなのだろう?

mizuki.jpg

 3曲目は、こんどは中村が「やちゃ坊節」を。中村はこの曲で今年4月、日本民謡フェスティバルのグランプリに輝いている。すらりとした体型を包む黒のロングドレス。両肩に流したロングヘアーの間からのぞく表情は、遠めにはではあるが、長谷川京子に似ていると言ったら褒めすぎになるだろうか。

 声のハリや伸びは坪山をはるかに上回り、脇役が主役を喰うといった状況のよう。
 27才。5年前、彼女のCD「うたの果実」を聴いたときにもその完成度の高さに驚いたものだが、当時よりさらに大きく成長していることは間違いのないところだ。

 最後は、普天間かおり、鳩間可奈子、神谷千尋、そして太鼓のサンデーも加わって、奄美も沖縄もわけへだてのない「ワイド節」をにぎにぎしく。奄美の「ワイド節」もすっかりメジャーとして定着しましたね。
(下:日本民謡協会のHPから)
mizuki2.jpg


 玉城による指笛教室を挟んで、次は大島保克。
 12回中11回の最多出場です。昨年は初めての欠場だったけど、やっぱり彼がいないとなにかが足りないような思いをしたものだ。

 ギターに近藤研二、太鼓にサンデーを配して、名曲「イラヨイ月夜浜」と明るい八重山サウンドの「赤ゆら」を続けざまに。
 まん中で三線を抱え、股をかっぱり開いて椅子に座った大島がうたい出せば、この広い会場全体が彼特有の叙情的な雰囲気に一変するのだから不思議だ。

 うたい終わって「マイド、大島です!」とあいさつ。この日は大先輩である嘉手苅林昌の命日であること、そして、曲がつくれなくて悩んでいたその時期に嘉手苅林昌を題材につくらせてもらったのがこの曲であることなどを彼らしい口調で説明して、3曲目は「流星」を。

 これも名曲。でも、彼以外の人がうたったら凡百の曲の仲間入りをしてしまうものなのかもしれない。要は、うたう者がどのような気持ちを込めてうたうか、そしてそれを聴く者がどのような感慨をもって聴くか、ということが大事なのだろうな。

 4曲目は、CD「島めぐり~Island Journey~」に収録されていない島唄をやろうということで、鳩間可奈子を呼び入れてこれまた八重山民謡の「高那節(ザンザブロー)」を。
 よく聴いているとコレ、歌詞といい曲調といい、「固み節」とよく似ている。きっとルーツは同じうたのはず。

 また、可奈子の“返し”の声がスゴ~。真似のできないハイトーン。だんだん母親の鳩間千代子の声と似てきたな。なんか彼女、少しオバサンくさくなったんじゃないかい?(笑)


 玉城の今度はカチャーシー教室があって、彼は今、ジンタというジャンルの音楽に凝っている――との紹介で、大工哲弘が登場。
オレンジ色の柄のアロハシャツに白のチノパン、頭には紫色のサージをきりりと結んだいつものスタイルだ。

♪ サァー あ~さぁ~どやぁ~のぉ~ クぅ~ヤぁ~マぁ~にぃ~よぉ~・・・
と、「安里屋ユンタ」のうたい出しを自慢の大声量でがなる。まるで、ここからは大工がうたうんだゾと主張しているかのようだ。

 そしてお得意の「川良山節」を。ふむふむ。ジンタもいいけど、やっぱり大工には八重山民謡がいちばんよく似合うよねぇ。笛が入ってなおさら八重山らしい。お! 笛を吹いているのはコーニーズのメンバーでもある屋嘉部充ではないか。彼はホントは笛が本業だからね。

 一息ついて大工は、「美しい国ニッポンをつくるためにも琉フェスは不滅でありたい」などと、就任直後の安倍晋三首相を意識した発言を。
 このおじさん、そのようなことを真顔で言うものだから、どこからが冗談なのかはっきりしないのね。ま、それもひとつの持ち味なのだろうけれどね。(笑)
 さらに、「30年務めた那覇市役所をやめ、今年はプロ1年生です。よろしくお願いします」と謙虚な発言。

 そして「マミドーマ」へと進みます。ミンサー模様の絣を着たツンダラーズも絶好調。二人が鎌や鋤を振り振り足踏みしながら踊りだせば、見ているこちらの身体も自然と動き出します。

 うたい終えて大工は、おもむろにポケットからハンカチを出して顔の汗を拭い始めました。これ、甲子園で活躍した早稲田実業のピッチャーの仕草を意識したものらしく、客席からは失笑が…。
それでもめげない大工は「東京では受けなかったのですが、さすがに大阪はちがう。私はハンカチ王子ならぬハンカチおじぃです」と口走り、揶揄ともとれないこともない拍手を受けていました。

 で、最後は「くいちゃ踊り」。おぉ~、いいぞいいぞ!
♪ ディディガマ ササガマ ウーイラッシ カーイラッシ・・・ と合いの手が入るアレね。
 ドーム内の観客が一体となって、八重山の五穀豊穣を祝い、サッサイ、ア、サッサイ・・・と踊ったのでした。


 ミス沖縄スカイブルーさんから沖縄観光のPRがあり、次は特別出演の白百合クラブ。
 白百合クラブとは、1946年、石垣島白保の若者が集まって結成された楽団で、当時のメンバーが今でも活躍しながら極楽人生を送っている――というすごい楽団。おそらく日本一の長寿バンドなのではないか。この日は16人のメンバー中13人が結集。83才から70才までの平均年齢75才とか言っていたナ。

 男性7人がそれぞれ楽器を手に登場。アコーディオン2、三線2、それにバイオリン、ギター、笛といった構成。リーダーとおぼしきおじぃがにこやかな表情かつ手馴れた語り口で、賞味期限切れが間近いがよろしくお願いしたい旨あいさつを。

 1発目はお得意らしい「サンフランシスコのチャイナタウン」。音楽に合わせて4人のおばぁがチャイナドレス姿で登場し、中国風の大きな扇子のようなものをひらひらさせながら踊ります。
 ほほー、これはあっぱれ。これまでの琉フェスでは見られなかった光景ですな。普通なら目をそむけたくなってもおかしくないところだが、音楽も踊りもその年齢としては考えられないほどの卓越感があるため、つい見とれてしまう。
 それは自分だけではなかったようで、やんやの大拍手。これまで一番の拍手じゃないかな。(笑)

 2曲目の「さよなら港」では、航海士を思わせる真っ白な服を着たおばぁが脚をまっすぐに高々と上げて踊り、またまた場内は「オォ~!!」のどよめき。踊り手さんの準備が整わず、始まるまでにかなり時間がかかってしまったのはご愛嬌。

 最後の「南の島」も ♪ マクブ、タマンの大漁唄~ というようなうたと踊りを披露してくれました。

hatoma.jpg

 かりゆし会のエイサーがあって、次は鳩間可奈子。
 1曲目は「月ぬかいしゃ」をハイトーンでうたい、まずは観客のどぎもを抜いておいて――というスタート。水色のカジュアルなシャツと白のスラックスに着替えたようで、さっきの“おばさんくさい”云々の発言は直ちに取り消しです。

 「コンバンハー!」とあいさつ。鳩間可奈子といえばやはり1999年の琉フェス。“可奈子がすべてを持っていった”と言われた琉フェスから7年。23才になった彼女は自分のうたう場所、位置を確立できたのだろうか。

 ここからチナサダオ楽団が加わって、アルバム「ヨーンの道」から「トゥバリャー」と「風が吹く」を。
 「トゥバリャー」は、八重山民謡の「トゥバラーマ」を現代風にアレンジしたもの、「風が吹く」は60年代青春歌謡風。いずれもデキはイマイチですかね。

 やはり鳩間可奈子はミンサー模様の絣の着物に三線を持ち、八重山民謡を民謡としてうたうほうが似合うと思う。次回に期待ですかね。


 このあたりまでくると、登場していない唄者は限られてくる。それらの顔ぶれを思い浮かべながら、トリをとるのは? まぁ順当なところは知名? 津波? いや、ひょっとすると、ネーネーズ?! ま、まさか・・・などと思っていたら、シンセサイザーの音色がやさしく響き渡り、ネーネーズが出てきました。(笑)

 チナサダオ楽団をバックに、4人が琉装に金色の扇子を持って「シャーマン」を。
 左から与那覇歩がピンク、比嘉綾乃が黄色、上原渚が赤、金城泉が青の琉装。
 琉フェスが知名定男のプロデュースだけに、知名の愛弟子のネーネーズのステージはいつも人とお金がたっぷりつぎ込まれているので、見ていて充実感がある。

 2曲目は「テーゲー」。
♪ ものごと ちゃっさ 思いつめたって ないる事どぅ ないるむん・・・
 パーランクーを打ち鳴らしながらそのようにふんわりとうたわれたりすると、ホント、人生なんてテーゲーでいいんだよなと思ってしまう。
 このゆるゆる感こそがオキナワの持ち味であり、毎年琉フェスを鑑賞しに来る理由でもあるのだ。

 3曲目は「キジムナーブルース」。
♪ キジムナー ほろほろ ・・・ってヤツね。
 楽団も大ハッスル。彼らがいなければこのような大きい器でのネーネーズのステージは成立しないのだろうな。

 4曲目は「オキナワ」。
   島唄に出逢い  愛を見つけた  大切な記憶がよみがえる
   それは沖縄  私の沖縄  あなたの沖縄
 初代ネーネーズがこれをうたって卒業していったという、知名作詞・作曲による名曲なのだが、今それを3代目の彼女たちがうたっても、あの時のような深い感動はなかなか得られなくなっしまった。そんなことに気づき、少しだけど一人愕然。ステージングは悪くないのだが…。

 考えてみれば、沖縄民謡やオキナワンポップが華やかだった時代は着実に遠ざかっている。嘉手苅林昌や照屋林助が逝き、登川誠仁や大城美佐子、山里勇吉、国吉源次、坪山豊らが老い、りんけんバンドやチャンプルーズ、ディアマンテスらが思うようにアルバムを世に問えなくなってしまった今となっては、いったい誰があの盛り上がりを受け継ぎ、中興していくのだろうか。

 ここでひとつだけはっきりしたことは、残念ながらネーネーズにそれを受け持たせるには荷が重過ぎる、ということだった。いや、彼女たちはむしろすごくがんばっている。おれはそれに強い好感を持っている。大好きである。
 しかし、“退潮”という大きなトレンドに彼女たち4人で立ち向かえというのは、あまりにも酷だ、ということなのだ。