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 ラジオ沖縄「前田すえこのいいことありそうウィークエンド」に寄せられた、ウチナーグチに関するテーマにまつわるFAXを集めたもの。その「3(みーち、と読む)」冊目です。

 このシリーズ本はこの「3」で完結しているようで、仕掛け人でありこの番組に出演もしていたボーダーインク編集者の新城和博は、「僕が沖縄の出版に携わってやりたかったことのひとつは、ラジオの本を出すことだった。その昔、TBSラジオの深夜番組「パック・イン・ミュージック」でリスナーからの手紙をまとめた本「もうひとつの別の広場」というシリーズがあって、コツコツ買いそろえていた学生時代を過ごした僕にとって、そのスタイルのラジオ本はあこがれであった。」と語っています。
 自分も「1(てぃーち)」については1999年に新刊で、「2(たーち)」については2017年に古書で購入して、それぞれ読んでいます。

 「リスナーの人生の断片をスーミーしつつ、あらためてうちなーぐちニュアンスのおもしろさ、沖縄の奥深さを感じてみましょう。はっきりいってデージ面白いです。」――とのふれこみ。
 1997年4月から2000年3月までの間に寄せられたFAXについてまとめられていて、目次からあまり聞くことのないいくつかを例示すると次のとおり。
 うたとーん(疲れた)、いーたん(もらった)、にんららん(眠れない)、なーら(まだまだ)、ぬするーびさ(忍び足)、ちじ(比較して悪い)、くさぶっくゎー(生意気な人)、あたらさー(大事にする)、まんどーん(いっぱいある)、てぃがねー(ちょっとしたお手伝い)、ぐー(仲間を組む)、ねーびー(真似をする)、かめーたん(手に入れた)、いらんけーしむたるむん(言わなければよかった)、でーだかー(値のはるもの)、してぃほーりー(放りぱなし)、やーにんかからんぬー(家にいない人)、ばっぺー(ミステイク)、えーかんちゃー(親戚)・・・。
 ウチナーグチはおもしろいです。

 なお参考までに付すと、これも新城が発行に携わった、多喜ひろみ・FM沖縄編の投稿本「ハッピーアイランドの本」(ボーダーインク刊)というのもあり、1991年に編集が始まり、2008年8月にはその8冊目が発売されています。そこまで続くなんてすごい。
 その「8」も買い込んでストックしており、近いうちに読む予定です。

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 税込みで7千円もする本はそう易々とは買えません。しかし、古書市場で送料込み2千円ちょっとで出ていたので、これは買うべきだろうと躊躇せずゲット。
 とは言え、全24巻のうち沖縄をメインに扱ったものは4冊あり、これらをまとめて買って合計11,709円はちょっと痛い。
 まあ、ぶ厚い本で読むのにたっぷり時間がかかるはずですから、きちんと読めば惜しくはないと自分に言い聞かせることにしましょう。

 著者谷川健一について、「著者紹介」から改めて概括すると、次のとおり。
 1921年、熊本県水俣市生まれ。東京大学文学部卒業。「風土記日本」「日本残酷物語」、雑誌「太陽」の初代編集長を経て、文筆活動に入る。「南島文学発生論」で芸術選奨文部大臣賞・第2回南方熊楠賞受賞。「海霊・水の女」で短歌研究賞受賞。1981年以来、日本地名研究所所長。文化功労者。2013年逝去。

 「沖縄1」のこの第5巻は、谷川の沖縄研究の魁となった、1991年発表の「南島文学発生論」を所収。
 青く輝く海に囲まれた琉球の島々。ここでの鉄器の使用は、本土より遅れること優に1000年をこえる。鉄器も文字暦もなく、仏教の影響を蒙ることもなく、琉球弧の世界では言葉の呪力に対する古来の信仰が近年まで残っていた。祭りの場で女は、神の言葉を伝えるのではなく自らが神になる。呪言と古謡が息づく深い闇の世界に光をあてた画期的な文学発生論。(冨山房インターナショナルのホームページから)

 全25章からなり、それらは、「言問ふ」世界、呪言(クチ)の威力、「畏(かしこ)きもの」への対応、神託の本源、ノロの呪力、現つ神と託女、日光感精神話とユタの呪詞、宇宙詩としての呪詞、叙事詩の説話性、冥府からの召還、挽歌の定型、挽歌から相聞歌へ、村の創世神話、神話と伝説の間、祖神のニーリ、宮古島の「英雄時代」、「まれびと論」の破綻、諺の本縁譚、神意をヨム言葉、海神祭の由来、太陽(テダ)が穴、青の島とあろう島、盞歌(うきうた)と盞結(うきゆい)、アマミキョの南下、鍛冶神の死。

 このうち「海神祭の由来」では、沖縄のシヌグやウンジャミの祭りが、スクという小魚の豊漁祈願と感謝の祭りであることを明らかにしています。
 そのほか、含蓄たっぷりの考察が随所にあり、谷川ワールドの広がりに圧倒されます。



 待望の新シリーズ! バツイチ子持ちの女性弁護士が、沖縄離島の殺人事件を追う!
 沖縄・宮古島の有名なダイビングポイントに、片腕のない男の死体が浮かんだ! 容疑者として逮捕されたのは、被害者の元愛人。犯行現場とされる景勝地で、彼女が切断された片腕を抱きしめ泣く姿を目撃されていたのだ。弁護を引き受けた“ひまわり弁護士”朝川いずみは、事件の背後にある意外な人物の陰謀に気づく―。待望の新シリーズ、ついに始動。
 ――という、2006年発行の文庫書下ろし。

 犯行現場は東平安名崎で、死体が上がったのは通り池。宮古そばや与那国島のダイビングスポットの海底遺跡なども登場します。
 和久峻三作品って、けっこう説明口調なところがあり、それがストーリーの本流から逸れる部分へと拡大したりして、そのあたりがどうも鼻につくのですが、みなさんいかがですか。
 沖縄の三線をシミセンと読み、敏腕女性弁護士にシーサーのニックネームを与えるあたりに違和感もありました。ウチナーンチュは女性をシーサーには例えないでしょ。

 1泊2日の人間ドック中にあっさり読了。480ページ超の文庫本ですが、余裕時間たっぷりなので、これ1冊では到底足りません。



 一人の「音楽監督」が映画の企画を持ち込んだら、脚本まで書くことになってしまった!
 これは、沖縄の離島を舞台にした映画「島々清しゃ」の始めから終わりまでを描いた制作の記録で、映画への、沖縄への愛に溢れたエッセーとなっています。

 著者の磯田は、1962年大阪生まれで、音楽プロデューサー。90年代から沖縄音楽のアルバム制作に携わり、映画「ナビィの恋」や「ホテル・ハイビスカス」の音楽監督を担当した人です。
 嘉手苅林昌と普久原恒勇のCD「The LAST SESSION」(1996)のプロデュースも手掛けています。

 ボーダーインクの新城和博とも懇意のようで、新城とともに普久原恒男のインタビュー本「芭蕉布 普久原恒男が語る沖縄・島の音と光」(ボーダーインク、2009)をつくってもいたようです。この本、読んだな。
 さらには、唄者金城盛長とも仕事をしています。

 文中、映画「ナビィの恋」があらゆる面で彼の人生の転換点となり、撮影終了後に登川誠仁から工工四を贈ってもらったり、夜を明かして飲み歩いたりしたことを打ち明けています。

 新城和博が2017年2月18日付けの沖縄タイムスに寄せた書評がありましたので、ここにも残しておきます。

・「沖縄、シマで音楽映画 『島々清しゃ』ができるまで」 音楽監督が撮った「遺作」
 今年は沖縄映画の当たり年かもしれない。年明けからぞくぞくと封切られている。もちろん何の先入観なしに観た方がいいに決まっているのだが、本書は読むと確実に映画「島々清しゃ」が観たくなるであろう。原作本ではない。〈音楽監督兼脚本家が書いた〉、映画への夢から始まり、沖縄への愛で終わる、私的なエッセーであり、制作の記録である(巻末には出演者・安藤サクラとの対談もある)。
 著者の専門は音楽制作。沖縄との付き合いは長く、沖縄音楽への造詣も深い。映画の音楽監督としてもいくつかの作品に関わっている。例えば「ナビィの恋」。
 その彼が大病を患い「そうだ、遺作をつくろう」と、思い描いたシーンは、沖縄の島で鳴り響く金管楽器群。夢のシーンを撮りたいがために、著者は企画の立ち上げのみならず、初めて脚本まで書いてしまう。
 映画は監督、役者はもちろん、多くのスタッフが関わる表現である。そこには秘められた物語があり、撮影され、封切られるまでの過程そのものがドラマである。ロケ地となる慶留間島との出会い(実は僕の父の出身地の島なのだけど)、現場で実際演奏した音楽を録ることへのこだわりなど、実に細部にわたって記されている。
 音楽監督の仕事の幅の広さは、僕の想像を超えていた。作曲はもとより、選曲に編曲、楽器の手配に、演技する子どもたちへの演奏指導(初めてさわる楽器を本番でちゃんと響かせるための努力たるや!)。さらに天気に左右される島の空気感、波の音、鳥のさえずり、そしてさりげなくシーンの背後に流れる島唄の微かな響き。それら全てが映画の音楽なのだ。
 足かけ6年にわたる映画の日々で、著者は少しでも映画「島々清しゃ」に関わった人の名前を実に細やかに記している。そうか、映画制作というのは、こんなふうに人との出会いの積み重ねかもしれない。本書を読んだ後にふたたび映画を観たのだが、感動がぐっと深まった。



 男の名は、徳田虎雄。1938年生まれ。元自由連合代表。衆院議員を4期務めた医療法人・徳洲会の理事長です。
 「年中無休、24時間オープン」を旗印に、一代にして全国66病院を含む280余の医療施設を擁する病院帝国を築き上げました。しかし2002年春、徳田はALS(筋委縮性側索硬化症)を発病し、文字通りの死闘を続けます。ALSとは身体を動かす神経系が壊れ、全身の筋力が失われていく難病です。
 徳田はそれでも眼球の動きで文字盤を追いながら、「これからがじんせいのしょうぶ」と語ります。
 しかしそんな徳田にも「運命の時」が近づきます。13年に徳洲会グループは、次男・毅氏の衆院選を巡る公選法違反容疑事件で東京地検特捜部の強制捜査を受けることとなります。さらに、徳田氏自身の病も進行し、眼の動きすらままならなくなる「完全なる閉じ込め状態」も、近く訪れるかもしれません。

 窮地の徳田氏の「心奥」と徳洲会騒動の「核心」を、気鋭のジャーナリスト・青木理が描きます。
 青木理は、1966年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、共同通信に入社。東京社会部、ソウル特派員などを経て、06年からフリーになって活動しています。

 目次を見るだけでも興味深いものがあります。ALSとの「死闘」、「基地移設」に揺れた島、「差別」と「極貧」の少年時代、「保徳戦争」の全貌、病院王に群がる政治家たち、日本医師会との「相克」、「徳田イズム」を体現する二人の医師、エピローグ。

 「やはり、これからが勝負ですか。」との問いに、彼はこう答えます。
 「ひとの ために つくさずに なにが じんせいか せかいじゆうに びよういんを つくる それに じんせいは いつまでも すりるが なくちや」

 蛇足ですが、2010年4月に徳之島を訪れました。当時はちょうど鳩山民主党政権が普天間の移設先について「最低でも県外」と発言し、徳之島が有力な候補地として名前が挙がった頃で、島のあちこちには基地移設反対と歓迎の貼り紙が掲げられていたものでした。
 そして、亀徳のなごみの岬公園を訪れると、一番のビューポイントに巨大な墓があり、誰のものかと見てみると、それは徳田の母マツのものなのでした。マツは2006年没だったそうです。
 また、徳田の妻秀子については、「塩一升の女 徳田秀子物語」(出水沢藍子著、あさんてさーな、2011)が詳しいです。



 長野御柱祭の地で生まれ育ったカメラマンの著者が、土着的な要素を感じる「奇祭」に惹かれ、全国を旅します。
 「祭りが好きなのかと問われれば、もちろん嫌いではないが、たぶん私は祭りそのものというより、祭りの時にだけ顔を見せる遠い過去の人の姿や、所作、声、想いといったものを目撃したいのだと思う。それを垣間見る瞬間に実際に遭遇するとゾクゾクする。」――という異色の写真紀行です。

 著者は、旅を振り返って、長く稲作が行われてこなかった地域にはいまでも独特な風習が残っているといいます。
 また、「奇祭」とは、神道が国家的なものとして制度化される以前のもの、つまり古層の姿をより感じさせる独特で素朴なものであると定義できるのではないかとも。
 そしてそれは、山を分け入った先にある集落や、半島、離島といった細部など、結果として中央政権の支配が届かなかった場所に遺っているとしています。

 16の祭りが収録されており、このうち琉球弧関係では、宮古島島尻のパーントゥと奄美大島秋名のショチョガマ・平瀬マンカイが掲載。いずれも機会をみつけてぜひ見てみたいと思っているものなので、興味深く読んだところ。

 参考に他の14の祭りを記しておきます。
 御柱祭/長野県諏訪地方、ケベス祭/大分県国東市、銀鏡神楽/宮崎県西都市、椿山虫送り/高知県仁淀川町、大野の送神祭/埼玉県ときがわ町、テンゴウ祭り/埼玉県秩父市、脚折雨乞/埼玉県鶴ヶ島市、蘇民祭/岩手県奥州市、相馬野馬追/福島県相馬市・南相馬市、木幡の幡祭り/福島県二本松市、和合の念仏踊り/長野県阿南町、道祖神祭り/長野県野沢温泉村、新野の雪祭り/長野県阿南町、御射山祭/長野県富士見町。(登場順)



 2007年、著者が82歳のときに発刊されたもの。
 「沖縄タイムス」夕刊紙上で連載された「縁の風景―私の挿話集」(2006年1月6日~7月15日、45回)とその続編(06年10月6日~07年3月31日、42回)の一部を割愛し、それらに著者による書き下ろしを加えて構成したもの。

 人生80年のうちに五体に貼りついたさまざまな記憶の映像を、グソーまで持っていくのは勿体ない。生きた証と言っては大げさだが、ここらで読者に申し送ってもよいか、と考えてみた。(「あとがき」から)

 おかしな話、若き日の追想、海外での出来事、ウチナーグチをめぐって、折々の思い、私的・沖縄戦越し、創作の余白、忘れ得ぬ人々の8つのテーマに分けて配列されています。ほとんどの挿話は2ページ分の見開き600字で編集されていて、どこからでも読めるようになっています。
 肩の凝らない簡潔かつ面白みのある文章ですが、さすが大城立裕で、随所に見られる含蓄や鋭く温かい人間観察などがあり、読み応えも十分です。

 「忘れ得ぬ人々」では、人間国宝・島袋光史、民俗学者・仲松弥秀、元沖縄県知事・平良幸市、文人・池宮城積宝、音楽家・宮良長包、音楽家・渡久地政一、思想家・新垣弓太郎、役者・間好子、戯曲家・木下順二、芸術家・岡本太郎、作家・中上健次、洋画家・安谷屋正義、作家・石野径一郎、俳優・宇野重吉などが登場します。



 40年近く前の刊行物を、2017年10月に古書店から717円で買ったもの。この著作をこんなに安く買えちゃっていいの? まあ確かに古いけれどもね。
 記紀や風土記、和名抄などの文献や各種伝承を手がかりに、歴史や常民の生活の痕跡として地名を捉えなおそうとする著作です。

 「神は細部に宿る」との格言は、一説にはフランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言とされ、「本当に素晴らしい技術やこだわりとは、一見して分かりにくい」という意味のようです。
 谷川健一は「序説」で、「「神は細部に宿り給う」という言葉は私の好きな成句であって、・・・日本の民俗学にもそのままあてはまると私は考えている。歴史学が人類の主要な道筋を辿る学問であるのに対して、民俗学は枝道や毛細管のように張りめぐらされた小路を知る学問である。したがって歴史学やその他の学問には取るに足りないと思われているものこそ、民俗学にとっては限りなく重要である」と述べています。
 そして、「常民の営為をしたたかに吸い込んだ土地の名前は、一口では語りつくせないものを、私たちに伝えようとしている」とし、その例として、沖縄の干瀬(ひし)と呼ばれる珊瑚礁に取り囲まれた内側の海に多彩な名称が付けられていること、沖縄の村落に必ずある御嶽に関わる「くさて」と「おそい」の関係などについて触れています。

 谷川らしい大胆な洞察や推理によって、地名にこめられた意味や意義を読み解いていく作業は、読んでいて楽しいものがあります。
 内容(目次)は、次のとおり。いたるところに「沖縄」が出てきます。

序説
Ⅰ 地名―土地に刻まれた文化遺産
  地名と日本人
  なぜ地名変更に抗うか
  民俗学より見た常民と海浜のかかわり
  なぎさの民俗学―入浜権運動への期待
  国から「クニ」の意識へ
  日本人の信仰のあり方―「自衛隊の合祀」違憲判決によせて
  神道は国家と癒着しやすい
Ⅱ 沖縄と民俗学
  流されびと
  西から東へ―「古事記」と琉球
  久高島の周辺
  かくれキリシタン紀行―生月・外海
  西南日本の地名
あとがき

 谷川をまとめて読むには「谷川健一全集」がいいですが、「神は細部に宿り給う」はその第14巻に「抄録」として所収されています。



 「ワシら青春、まっただ中!」
 平均年齢70歳、「ロックに生きる」おじいとおばあのコーラス隊に密着した感動ノンフィクション。
 歌詞は度忘れ、踊りもフシギ、でも見ている人が元気になれる。そんなシニア限定のコーラス隊「ONE VOICE」が沖縄で結成、ステージデビューを果たした。
 定年後、初めて夢中になれることを見つけた元銀行員、大阪から沖縄に移住、孤独の中で仲間とうたう喜びを見つけた女性、ねじりハチマキでみんなを引っ張る三線の先生……。彼らは「第二の人生」を「ロックに生きる」ことを教えてくれる、人生の達人だった!
 青春とは、若い世代だけのものではない。結成からデビューまで、仲間とともにひたむきに歌い、人生を謳歌する人びとを描くノンフィクション。

 超高齢化社会が到来し、長い老後をどう過ごすかという課題が多くの人の身にふりかかる時代となってきましたが、そのひとつの答えがここに提示されているようです。
 やり方は人それぞれ。このやり方ではないとダメということはありません。一人ひとりにはそれぞれのやり方があるはず。
 ある意味会社や組織から離れる65歳とは、何の制約もなく生きられるスタート地点と言えるでしょう。永らく言動を縛っていたしがらみや損得勘定から解放され、学歴・社歴、昇進、競争、見栄やメンツも、多くの人にとってはどうでもよくなります。家族からの制約も多少は弱まるでしょう。既定路線や予定調和はなく、すべては自由に考えていいし、道は自分次第で切り拓いていけるのです。
 この本から元気をもらったら、自分の足で一歩を踏み出す覚悟と勇気をもって、自分なりの第二の人生に踏み出そうではありませんか。



 幕末、お家騒動に連座して奄美大島に流された薩摩藩士・名越左源太(なごやさげんた)が、5年間の奄美大島の生活で見聞した島民の生産・民俗・年中行事から動植物までを、300点を超える数の絵図とともに詳細に記録した地誌。

 「大嶹竊覧(だいとうせつらん)」、「大嶹便覧(だいとうびんらん)」、「大嶹漫筆(だいとうまんぴつ)」、「南島雑記」、「南島雑話」の計5冊があり、第1巻は「南島雑話」前篇の前半まで。
 島の石高、稲、麦、甘藷の栽培法、大島紬・芭蕉布の製造法、家屋の構造、建築法、衣食、ソテツ澱粉、蘇鉄味噌、泡盛、黒糖の製造法、島の気候、伝統漁法、漂流民による清国見聞記、島の婚礼習俗などが挿絵とともに記されています。

 カタカナ混じりの旧表記に加えて、絵と文章の掲載位置関係が不明確で、読み取るのに一苦労。したがって、読んでいてそう楽しい感じはしませんでした。
 2分冊の後半はまだ読んでいませんが、ほかに読みたい沖縄本が多くあるので、それを読むのはしばらく先になるだろうな。
 まあ、南島研究には欠かせない貴重本ということで、手元に置いておくだけでも大きな意義があると思っています。



 去年「1」を読み、その続編を見つけたので、ウェブ古書店から購入。
 「エブリスタ」という、小説・コミック読み放題の投稿サイトからのスピンアウト作品です。

 嫌でしょうがなかった沖縄での生活に少しずつ居心地の良さを感じ始めてきた主人公の比嘉篤。ある日、琉球王国時代の「聖地」である斎場御嶽に行くと、岩の精霊であるキミと遭遇します。
 「ニライカナイ(理想郷)って本当にあるの?」とキミに訊く篤。そこに突然、木の葉にすっぽりとくるまれた小さな生き物が現れて、久高島のほうへ飛んでいきます。驚く篤に、キミは「あれはキーヌシー(木霊)だ」と言うのですが・・・。
 ――という、診療所の若きお医者さんと南の島の“神様たち”との交流を描いた、心温まる物語。

 今回は奄美のケンムンや、ハイビスカスの精などというものまで登場し、内容はエスカレート。でも、こういうことがあっても不思議ではないかもしれないと思わせるものが、沖縄にはあります。
 そんなスピリチュアルな沖縄をさらりと表現しているので、深く考えずにさっさか読める文庫本になっています。
 もしかしたらこの続きもあるのかな?



 プリントオンデマンドで発売されていたもの。沖縄の生んだ名優・大宜見小太郎の自伝です。
 大宜見が自身の芸歴50年を振り返って1976年に出版した自叙伝を、復刻したもの。沖縄芝居に携わる俳優たちにとってはバイブル的な書だったらしく、その幻の本が蘇ったというのが、この本の価値あるところです。

 大宜見小太郎について少し詳しく書くと、1919年、那覇市生まれの俳優、脚本家、演出家、舞踊家。沖縄芝居の大御所として知られ、沖縄俳優協会会長も務めた。
 本名・當間朝義(幼名太郎)。やがて沖縄芝居役者の大宜見朝良の養子に入り「大宜見朝義」となった。当時の役者には「太郎」と名乗る者が多かったことから「大宜見小太郎」を芸名にした。7歳で初舞台を踏み、子役として活躍。
 また、南一郎のペンネームで200本以上の脚本を書いている。妻は女優の大宜見静子。
 1940年に大阪に赴き「琉球演劇舞踊団」を結成。大阪在住の沖縄人向けに沖縄芸能を上演した。
 戦後沖縄に戻り、49年に「大伸座」を結成。曾我廼家十吾・渋谷天外らの家庭劇の「丘の一本杉」を沖縄芝居に改作した人情喜劇「丘の一本松」で、頑固者の鍛冶屋の親父を演じて人気を博す。また、歌劇「泊阿嘉」ではアンマー(老女)役を演じた。その芸風は「小太郎芸」として親しまれた。
 94年に他界するまでの68年間、その生涯を沖縄芝居に捧げた。沖縄タイムス芸術選奨大賞、文部省地域文化功労賞、那覇市民功労賞、琉球新報賞を受賞。

 内容は、小太郎自身によるエッセー的な書き物と芝居に用いられた脚本の2部構成。
 「小太郎のうちなぁ芝居おぼゑがき」は、半世紀の演劇修行、初舞台は八重山で、大入袋をお得意先へ、千本以上の脚本を書く、惜しいユシ役者たち、芸に徹した昔の役者、「逆立ち幽霊」の怪、大阪で再び俳優修業、仲井真先生の演劇道場、惜別の想いに耐えて、「大伸座」待望の旗揚げ公演、まさに沖縄芝居は隆盛、演劇史上特筆すべき大合同、テレビ攻勢で劇団は解散へ、「半分うびてー、芝居やならん」の15本。これらは、1973年5月~74年14月に沖縄の郷土月刊誌「青い海」に連載されたものです。
 脚本は、「喜劇・米をつくる家」「歌劇・久米島情話」、以下脚本「哀愁十三年」「廃藩のアヤーメー」「丘の一本松」。これらからは小太郎の魂から生まれてきた独自の舞台の源流を垣間見ることができるというのですが、ウチナーグチがきつく、それをひらがなで著したものを読んでいても、すんなりと入ってこないのが難点でした。
 ほかに「沖縄演劇年表」も。また、「芸道50年おめでとう」と題した当時のままの巻末宣伝広告も見ていて味わい深いものがありました。



 近世琉球で、どのようなモノが、どこで生産され、誰が流通を担い、どのように消費されていたのか。
 大国の狭間で翻弄されつつも、日常的に茶をたしなみ、“ゆたかに”農業型社会を築いていた人びとの暮らしぶりは?
 「庶民の姿」と多様な「地域性」とに焦点を当て、「薩摩の世」時代の沖縄の自立を問う。いわばモノからみた琉球史!

 著者の武井弘一は、1971年、熊本県人吉市生まれの琉球大学法文学部准教授。専門は日本近世史で、特に江戸時代の村社会と自然環境の研究している方のようです。
 2016年、「江戸日本の転換点」で第4回河合隼雄学芸賞受賞。

 著者は「はじめに」で、比嘉春潮の著述を引用しながら近世の沖縄人が非常によく茶を飲んでいたことを示し、「これほどまで沖縄で茶が普及していたことをふまえれば、“茶”をクローズアップしてみると、思いがけずに意外な史実、いや新たな琉球の国のカタチが見えてくるかもしれない」と記しています。
 よく飲んでいた茶というのは、現在沖縄でよく目にする「サンピン茶」ではなく、球磨地方で作られてきた「球磨茶」です。

 序章と第1章で近世琉球の政治や暮らしを概括し、第2章では当時の琉球で飲まれていた球磨茶がどのような道をたどって琉球と結びついたのか、そして第3章ではどのようにして琉球の社会に茶が浸透していったのかを解説しています。
 終章では、近世琉球においては農業を土台とした持続可能な社会が形成されてきており、「琉球農業国家」というのが「茶と琉球人」を追い続けてきたことで見えてきた新たな琉球の国のカタチだったとし、琉球国=交易型社会という先入観をはぎとった琉球・沖縄史を研究していくべきだと結論付けています。



 南国沖縄を訪れた牧薩次と可能キリコ(スーパー&ポテト)のヤング探偵コンビの前に、難事件が続発。
 鍵のかかったホテルの一室で、若い女性が突如奇怪な姿に変身! さらに、大邸宅の庭に見るも無惨な男の轢死体が!
 先の大戦で姿を消した沖縄県営鉄道の謎の大事故を軸に、現代の怪事件を絡ませ、合わせて沖縄案内も目指した。
 ――という内容の異色の長編推理。

 1990年発行の講談社ノベルズ。本体1円なら買っておいてもいいかと2017年に古書市場から買い、2018年に読みました。
 写真も入っていて、スーパーの服装と化粧が当時らしくて微笑ましく、今は営業していない那覇の「都ホテル」や、まだ若かった居酒屋「うりずん」のマスターの顔写真なども。
 ストーリー自体はいかにも大量生産の小説的で、読後7カ月経ってからこれを書いていますが、もはやあまり記憶はありません。つまりは、読んでいるときにはそれなりに楽しめても、我が身に置き換えることができないまま読み終えてしまっているから、こういうことになるのでしょう。

 牧薩次とは、著者辻真先のもうひとつのペンネーム。ちなみに可能キリコとは、中学以来のパートナーで、恋人関係を経て現在は牧夫人という設定です。
 著者は1932年生まれというから、もう書いてはいないのだろうな。・・・と思ったら、2016年までは著作があるようです。作家って、そんな年齢になっても書けるものなのですね。



 インパクトのある表紙。こりゃナンダ?!と読み進めていくと、登場人物の一人で、三線奏者の高良直という人だとわかってきます。

 「アジア16カ国を旅した男が最後にはまったのは、沖縄でした。」
 音楽の素養がまったくない中年カメラマンが、沖縄のソウル楽器「三線」と出合い、修行の日々が始まります。東京と沖縄を行き来し、沖縄民謡界の大御所や地元の芸人、愛すべき酔っ払いたちとの交流を通して、三線奏者として悪戦苦闘、成長していきます。

 著者は、沖縄とアジアを愛したフリーカメラマンの日比野宏。1955年東京生まれ。ポートレート、ファッション撮影などで活躍した後、87年から1年3カ月にわたってアジアを歴訪。以降も写真家・ジャーナリストとしてたびたび海外取材を敢行。
 著書に「アジア亜細亜 無限回廊」「うん、またあした」「アジアン・ハーツ」など。
 アジアと沖縄とジャイアンツを心底愛し、2016年11月、心嚢血腫からの大動脈乖離のため急逝。本書は十数年ぶりの著作で、遺作となってしまいました。

 師範と仰ぐ仲里幸一(仲田まさえの実父。ってことは仲田明美の夫ということなの?)の店「志情」で飲み、入門曲の「安波節」を学び、人の前に立って唄三線をやるようになり、三線を手に先島を放浪、そして那覇の「仲田幸子芸能館」に進出し・・・。

 見出しから拾う内容は、「ゲート通りの夜は更けて」「三線片手に島めぐり」「島酒と白昼夢」「コザ民謡酒場での三線デビュー」「カラオケ大会真剣勝負」「沖縄余興の世界」「仲田幸子芸能館の一夜」「初リサイタル本番」「余命宣告された男の詩」「沖縄のスーパー芸人たち」「出禁の男たち」「女たちの沖縄民謡」「琉球島うた音楽協会」などで、これらからも面白さが滲み出ています。

 60歳近くになってこういう経験ができた著者はさぞかし楽しかったことでしょう。



 尚弘子は、1932年那覇市生まれの農学者。琉球大学名誉教授。
 夫は尚順の六男である尚詮(1926~90)で、琉球国王に連なる家系。
 ガリオア資金を受け、アメリカ合衆国ミシガン州立大学家政学部に留学。56年には同大学大学院で栄養学修士課程修了。帰国してすぐに琉球大学講師として勤務。ガリオア資金留学生の同窓会「金門クラブ」で後に沖縄県知事となる大田昌秀と面識を得る。
 大田昌秀の県知事当選後の91年、日本では2人目となる女性副知事として沖縄県副知事に就任。人選は難航したが、「金門クラブ」のメンバーが尚を推したことで、就任のはこびとなる。夫の尚詮は1年前に亡くなっていた。
 その後、沖縄県公安委員会委員長、NHK経営委員会委員、沖縄協会理事、沖縄観光コンベンションビューロー理事、健康科学財団理事、沖縄国際大学理事などを歴任。2005年より琉球大学名誉教授。06年、瑞宝中綬章を受章。

 その尚弘子がまだ大学講師だった1988年に刊行されたのがこの本。
 糖尿病ラットを用いた実験で黒糖の有効性を明らかにした経過のほか、南の海の海藻類、緑黄色野菜と沖縄に多く存する薬用植物の効用、お茶の栄養学などについて平易に解説しています。

 また本書収録の、石毛直道(国立民族学博物館教授)と奥村彪生(伝承料理研究家)とによる「食の博物誌 長寿県・沖縄の食生活」及び、古波蔵保好(評論家)と千葉功(沖縄ハーバービューホテル調理長とによる)「食のはなし、あれこれ」の2つの鼎談は、それぞれの話がかっきりとかみ合い、読み応えがありました。

 今はなき「有限会社沖縄出版」の発行で、「あとがき」では「本書の出版にたえず陰で叱咤激励をして下さいました沖縄出版の宮城正勝氏・・・に心から感謝します」とあり、今では「ボーダーインク」取締役会長の宮城氏が、当時はこの出版社で発行者となっていたことを知りました。



 琉球諸島(奄美沖縄地域)における伝統的な言語が消滅の危機に瀕し、それらをいかに受け継ぎ、後世に伝えていくかが喫緊の課題となっている。
 沖縄県では2006年に「しまくとぅばの日」が条例化されており、またユネスコが2009年に「奄美語」「国頭語」「沖縄語」「宮古語」「八重山語」「与那国語」を「危機言語」に指定して継承への取組を促すなど、保存継承活動が活発にはなってきているが、実際に効果が上がっているかどうかは不明な部分が多い。
 「しまくとぅば」あるいは「地域語」をめぐる現状と課題について、「言語」の視点のみならず、「芸能」「文学」「教育」「文化交流」といった様々な分野から考察を行う。
 さらに、琉球の地域は勿論のこと、台湾、香港など「地域語」と「中央語」との対立構造がある他の地域における現状も紹介し、琉球における言語復興運動(しまくとぅばルネサンス)に活かしていく方法を模索したい。
 ――という斬新な内容のもの。ウチナーグチ、琉球諸語に興味のある者にとってはなかなか面白そうな本。大学における講義がベースにあるというのも、いいではありませんか。

 内容は次のとおり。
・琉球文とシマ言葉 -言語文化の視点から継承について考える-
・しまくとぅばと学校教育
・ベッテルハイムと『琉英辞書』漢語
・沖縄を描く言葉の探求 -沖縄近代文学と「しまくとぅば」
・崎山多美の文体戦略 -「シマコトバでカチャーシー」を切り口に-
・香港における言語状況 -トライグロシアへの軌跡と課題-
・琉球語の表記について -「沖縄語」を中心に-
・琉球民謡に見るしまくとぅばの表現
・「しまくとぅば」の現状と保存・継承の取り組み-沖縄奥武方言を中心に-
・南琉球におけるしまくとぅばの現状 -多良間島を中心に-
・「うちなーやまとぅぐち」から「しまくとぅばルネッサンス」を考える-言語教育の視点から-
・現代台湾における原住民語復興への取り組み
・なぜ琉球方言を研究するか
 著者陣は、狩俣恵一、田場裕規、兼本敏、村上陽子、黒澤亜里子、李イニッド、仲原穣、西岡敏、中本謙、下地賀代子、大城朋子、石垣直、狩俣繁久。沖縄国際大学の研究者たちです。

 琉球語の消滅危機について有効な手だてや本質的な議論がなかなか見受けられない社会状況の中で、琉球語とは一体何か、これから生まれ来る子どもたちにとって、その価値とは何か、改めて考えさせてくれる元気の出る1冊といえるでしょう。



 大城貞俊の作品を買い集めて読んでいて、今回は2008年の著作を10年後に読んでみたところ。
 あらすじはこんな感じ。

 沖縄戦も終わりに近い頃、米軍は沖縄本島北部のG村に野戦病院を設営した。
 ここには、重傷の患者が集められたが、多くはテントの中で次々と死んでいった…。
 戦後60余年、あの戦争は、どのように人々に刻まれているのだろうか。
 G米軍野戦病院跡辺りを背景に、今なお戦争に翻弄されて生きる島人の姿を描く。

 表題作のほか、「ヌジファ」、「サナカ・カサナ・サカナ」、「K共同墓地死亡者名簿」の4篇を所収。
 著者はあとがきにかえて、沖縄から書くことの意義を記しています。抜粋して次に移記しておきます。

 沖縄の地は、去る大戦で地上戦が行われ、兵士だけでなく、県民の三分の一ほどが犠牲になった。戦後も、米軍政府の統治下に置かれ、様々な辛酸を嘗めてきた。戦争という体験は、土地の精霊をも巻き込み、今日までも、人々の生き方を規制している大きな要因の一つになっている。
 沖縄の現在を考えれば考えるほど、この戦争体験を抜きにすることは出来ない。沖縄の人々の生き方を凝視すればするほど、死者を忘れない土地の特質に出会う。虐げられ、苦しめられ、悲しみの極致にいてもなお、死者との再生とも喩えるべき優しさを有している。私は私が生まれ育ったこの土地に、畏敬の念を感じると同時に大きな魅力を感じている。
 考えてみると、このことは、私が、生き続けることの要因の一つにもなっている。私は団塊の世代と呼ばれ、全共闘世代とも呼ばれ、学園民主化闘争と、政治闘争を、二十歳前後に体験した。さらに沖縄の地であるがゆえに、復帰・反復帰闘争や、反安保闘争のラジカルな洗礼を受け、生きることの意味を鋭く問いつめられた。
 私は、そんな中で、目の前に露見した状況に戸惑うばかりで、詩の表現を免罪符のように獲得して悩んでいた。自らの卑小な存在に、生き続けることさえ疑うようになっていた。「ぼくは二十歳だった。それが人の一生で一番美しい年齢だなどとだれにも言わせない…」と、ポール・ニザンの「アデン・アラビア」の一節を口ずさみながら。……
 私は、沖縄の地で生まれ、沖縄の地で育ったことを、表現者としては僥倖のように思っている。死者をいたわるように優しく葬送する一連の法事や、また沖縄戦をも含めて、死者を忘れない共同体の祭事やユイマール(相互扶助)の精神に守られて、私もまた、生かされているように思う。
 もちろん、それゆえに、抑圧的な権力や戦争に無頓着ではいられない。それは過去だけでなく、現在や未来にまでも繋がっていく視点だ。
 私は今、沖縄の地で生きる時間と空間の偶然性を宿命のように感じている。この地にまつわる矛盾や課題は、それぞれの方法で担う以外にない。この地で生きる人々の苦悩や喜びは、普遍的な苦悩や喜びである。戦争を描くこともまた、人類の普遍的な課題である。  平成二十年 春



 沖縄市で30年もの間翻訳事務所を続け、日米男女の愛のかけ橋ともなっている仲間徹と、客の女性たちの人生ドラマを、直木賞作家佐木隆三が綿密な取材を重ねて鮮烈に描いた、1986年の作品。

 「1971年から73年まで、わたしは沖縄で2年間を過ごした。コザ市仲宗根383番地を住居とし、高等弁務官から在留許可をもらい、那覇の外人税務署に税金を納めた。72年5月の施政権返還で、コザ市に住民登録したが、仲間徹の住居も仲宗根町だから、いわば町内の人である。
 こういう旧知の人を書くには、どうすればよいのか。下手をすれば著者が、中途半端に顔を出して、読者の興を削ぎかねない。そこで三人称の方法を取り、仲間の内面からの描写もした。ノンフィクションとして、妥当かどうかは分からないが、わたしとしては、すべて真実を書いた。」(「あとがき」から)

 琉球朝日放送のHPに、本書に関連するテキストがあったので、以下に引用します。2008年5月15日の日付が入っています。

・Qリポート 女性たちの恋を見守った「恋文屋」
 戦後、基地の街と呼ばれた沖縄市・コザでは、アメリカ軍人と沖縄の女性が出会い、恋に落ちることも少なくありませんでした。その男女が交わす手紙を翻訳し「恋文屋」とも呼ばれた一人の翻訳家が、36年前の沖縄の女性達を見つめていました。
 「よくまあやって来たと思いますよ」
 仲間徹さん74歳。沖縄市で英語の翻訳をする個人事務所を営んでいます。
 仲間さん「(当時の沖縄は)全体として貧乏だった。」「その貧乏ゆえにいろんなことがあったのよ。女性たちにも」
 仲間さんが仕事を始めたのは1957年。軍から流れたタイプライターが仕事道具でした。当時のコザの街は軍人相手の「Aサインバー」が立ち並び、65年のベトナム戦争参戦以降は、明日をも知れぬ若い兵士が連日入り浸り、ベトナム景気に沸きました。
 吉原啓子さん「最高でしたよ、あの時の景気は。あれは、今時ああいう商売がまわってくるかねと思う程ですよ」
 そこでは、国籍を超えた恋も数多く芽生えました。仲間さんは、その男女が交わすラブレターの代筆を請け負い、「恋文屋」とも呼ばれていました。時に仲間さんは、女性達の良き相談相手になり、また、国際結婚に必要な行政手続も肩代わりするなど本来の業務を超えた仕事もしていました。
 仲間さん「いったん関わりを持った以上、来ている若い女性達が本当に上手くいかないと面白くないじゃない。」
 その仲間さんを主人公にした本があります。「恋文三十年」著者は「復讐するは我にあり」で知られるドキュメンタリー作家佐木隆三さんです。
 佐木隆三さん「政治的に一番熱かった時代でしょうね」
 復帰を挟んだ2年間、沖縄に住んでいた佐木さんは、仲間さんと出会います。
 佐木さん「沖縄の事を書くとすれば仲間徹さんがテーマだなと思って」
 「恋文三十年」は、国際結婚や、無国籍児など、仲間翻訳事務所にやってくる女性達が抱える様々な問題を淡々と描き出すことで、時代を浮き彫りにしています。
 佐木さん「沖縄の中でもAサインバーで働いている女性には偏見とか蔑視があったわけですからね。その人たちを仲間さんが守っていた。そういう印象を受けましたね」
 本には、仲間さんの女性達への思いが書かれている箇所があります。
 「僕が事務所で関わっている人たちは、社会の全体から見れば影でしかない。いわば隠れた部分だ。だからこそ、自分の仕事を大切にしたいと思っている」
 そんな女性達の姿は、他の人の目にも焼きついていました。
 我如古盛栄さん「女性としての誇りみたいなもの、アメリカ人と結婚できる。友達になれ誇っているようにさえ見えたな」
 照屋幹夫さん「自分達がイメージとして持っているその人なんか(女性達の姿は)は逞しさというのは未だに印象に残っているんですよね」
 生きるために懸命だった女性達。しかし、愛を交わした男女には悲劇も待っていました。仲間さんには、絶対に忘れられない仕事があります。それは、ベトナム戦争に行った恋人の死を知らせる手紙でした。
 仲間さん「ああいうのは辛いね」「あの頃はねベトナムの頃は届く手紙も中身も封筒もそうだったけど泥のついたものが多かったですよ」
 復帰の1ヶ月前、アメリカ軍は施政権が日本に返還されることを理由に「Aサイン」制度の廃止を発表します。復帰後、コザの街は外国人離れが進み経済は衰退。賑わった「Aサインバー」も廃業に追い込まれ、仲間さんの事務所を訪れる女性も、年々減っていきました。
 仲間さん「やはりあの時復帰して良かったということのほうが大きいと思いますよ」
 吉原さん「コザは変わりましたね一番」「(復帰は)良かったと思ってますよ。だけどコザの街は今当時を振り返ってみると本当に基地の街だったんだなという」
 「恋文三十年」から21年の時が経ちました。仲間さんは今でも現役の翻訳家。事務所は今年で51年目を迎えます。
 仲間さんは私達にあるノートを見せてくれました。30冊を超えるという大学ノートには数百人に上る、依頼に来た女性達の名前が書き込まれていました。
 仲間さん「こういうふうに住所、本籍だけでも留めておけばあとで何か役に立つかもしれないという気持ちだったんですよ」
 色褪せてしまったノートには、時代の中で生き抜いた女性達の歴史が刻まれているようでした。
 仲間さん「力になってあげんといかんという思いのする客は多かったですね」
 今でも仲間さんの事務所には、アメリカから便りを寄せる女性達もいるそうです。しかし、決して幸福な結果だけではないことも事実です。復帰前後時代、コザの街はアメリカが中心にあって経済も、そして人生も翻弄された人たちが多くいたんですね。

 なお、我如古盛栄さんは、沖縄民謡歌手我如古より子の実父です。



 沖縄在住の芥川賞作家・又吉栄喜の初のエッセイ集。

 「昭和50年頃、少年時代、一心不乱に遊んだ「原風景」が現在にもつうじる普遍性を帯びている、人間の問題にも通底すると考えるようになり、エッセイを基に小説を書き始めました。
 小説を書いている途中、登場人物も原風景の中の人物をモデルにしている、と気づきました。」(「前書き」から)
 その原風景とは、家の半径2キロ内にあった、琉球王国発祥のグスク、戦時中の防空壕、沖縄有数の闘牛場、広大な珊瑚礁の海、東洋一の米軍補給基地、Aサインバー街、戦争の痕跡をカムフラージュするために米軍機が種をまいたというギンネムの林、地元の人がカーミジ(亀岩)と呼ぶ海岸に突き出た大きな岩、戦死者の白骨や遺品など。
 「沖縄という固有の精神風土と人々の営みを見つめ、すべてエッセイに込めてきました。いつのまにか膨大な量になり、私の人生の軌跡にもなっています。」(コシマキから)

 琉球新報(2015年4月12日)に掲載されていた詩人・高良勉の書評が的確だったので、以下に引用します。

 作家の又吉栄喜が、40年間も注文を受け書きためてきたエッセーを、初めて単行本に編集して出版した。膨大な作品群から選抜し、「第一章 原風景1」「第二章 原風景2」「第三章 自然1」「第四章 自然2」「第五章 戦争」「第六章 米軍基地」「第七章 祈り1」「第八章 祈り2」と構成してある。
 その一篇一篇が独立した作品であると同時に、全体を通して「作家にとってエッセーとは何か」という問い掛けが貫かれている。数多くの作品が読みやすいが、その中でも「木登りサール」「放射能雨」「想像の浦添」「闘牛賛歌」「沖縄の楽天性」などが特に印象に残っている。
 それにしても、「原風景」の章のエッセー群は又吉文学・芸術の源泉を描き出している。「少年時代の「原風景」が現在にもつうじる普遍性を帯び、人間の問題にも通底すると考えるようになり、エッセーを基に小説を書き始めました」と述べている通りである。
 私は、又吉とほぼ同世代なので少年時代に「放射能雨」などの似たような体験をしている。従って、それらの体験の中から何が「現在にもつうじる普遍性」として選ばれ「小説化」されたかもよく分かる。又吉の体験は、単に「自叙伝的記録」に止まらず、文学・芸術として描き込まれているのである。
 又吉は「田宮虎彦の「足摺岬」とか、太宰治の「津軽」とかのように浦添を想像で形象して、後世に残したいという見果てぬ夢を見ている」(「想像の浦添」59ページ)とも述べている。
 ぜひ挑戦し実現してほしいものだ。浦添の原風景から書き込んでいって「時空超えた沖縄」のかなたに「津軽」のような言語空間の名作が生まれてほしい。
 すでに、作品「沖縄の楽天性」で時空超えた沖縄について書いた又吉には、決して不可能な要望ではないと思う。本エッセイ集はその文学・芸術の豊かな源泉を指し示している。