近頃は沖縄に関する活動が減退気味で、あまり沖縄民謡を聴いていないし、沖縄への旅も今年の1月以来行っていない。
 やっていることといえば関連本を読むことで、8月には8冊ほど沖縄本を読んだ。これはふだんよりも多いほう。
 それから、このところ買い集めている沖縄映画のDVDを何本か観ているな。でもまあ、その程度。

 今後については、地中のマグマが少しだけ活発化したかのように、欲求の片鱗が地表に現れてきています。
 そのひとつは、10月1日に東京で開催される「琉球フェスティバル2017」。東京の居酒屋めぐりを兼ねて行くことにし、9月30日から10月2日にかけての日程を確保し、宿を押さえました。チケットは、毎度のことながら当日券でと考えています。
 今回の出演者は、古謝美佐子、我如古より子、パーシャクラブ、よなは徹バンド、桑江知子、THE SAKISHIMA meeting(新良幸人×下地イサム)、琉球オールスターズ(徳原清文・よなは徹・仲宗根創・大湾三瑠・浜川恵子)。
 あまり変わりばえのしないメンバーだけど、大阪開催がなくなった今となっては年に一度のお祭りでもあるし、見ておかないとね。古典の側から参加する徳原清文をどこまでフィーチャーしてくれるかといったあたりが個人的には見どころでしょうか。

 もうひとつは、沖縄旅。
 ANAの旅割の来年3月までの分が発売になったので少し調べてみると、祭日を含む3連休時の超格安分はあらかた売り切れていましたが、来年2月の建国記念日を含む3連休のチケットが取れるようでした。しかも片道9,800円!
 沖縄が、自分を呼んでいる! これは行くべきでしょう。
 ということで、2月9~12日のフライトチケットを確保しました。
 沖縄は1年1ヶ月ぶりとなります。ずいぶん先のことなので、宿、レンタカー、スケジュール設定などはこれから楽しみながら進めていきたいと思っています。

 こういうことが、自分にとっては日々を生きるうえでの張りになっています。


スポンサーサイト
       nabinokoi_201707022326083fc.gif

 沖縄ブームを巻き起こした一因ともなった映画「ナビィの恋」が上映されたのは1999年。
 振り返ってみると、この映画、そしてNHKの朝ドラ「ちゅらさん」が放映された2000年あたりが、沖縄ブームのピークだったのですね。

 当時何回か見た「ナビィの恋」ですが、その中でアブジャーマー男に扮する八重山民謡の雄・山里勇吉が歌った「ロンドンデリーの歌」がぜひとも聴きたくなって、アマゾンでDVDとCDを物色。だいたい沖縄マニアの自分が「ナピィの恋」のソフトを持っていないのはまずいでしょ。
 おお、あるじゃないか、格安のものが。
 というわけで、DVDを1,600円、CDを750円で、それぞれ中古のものをゲットしました。(いずれも送料込み)
 画像左がDVD、右がCDです。

 さっそくDVDを見れば、いやぁ、懐かしいなあ。
 嘉手苅林昌や登川誠仁、平良とみらが大活躍。撮影時から18年しか経っていないのに、彼らはもうこの世にいないのだ。
 すでに病に侵されていたであろうと思わせる痩せ細った嘉手苅林昌。(直後の1999年10月に逝去)
 渋い演技で三線のちゅら弾きも披露していた登川誠仁は2013年3月の逝去でした。
 平良とみはついこの前、2015年12月に死去。

 山里のロンドンデリー(というよりも「ダニーボーイ」)も聴けたし、何よりもここに来てようやくこの映画の神髄がわかったような気になれたのがよかった。そういう意味ではブームのピークを過ぎてからの10数年の年月もまあ、無駄ではなかったのかもしれない。そう思いたい。

 CDは未聴ですが、おいおい聴きこむことにしましょう。

ohta 201706

 沖縄県知事、参院議員など歴任した大田昌秀氏が死去したとの報道。
 琉球新報によれば、次のとおり。

 鉄血勤皇隊として苛烈な沖縄戦を体験し、沖縄県知事や参院議員などを歴任し、基地問題の解決や平和行政の推進、県経済の発展などに取り組んだ大田昌秀氏が(6月)12日午前11時50分、呼吸不全・肺炎のため那覇市内の病院で死去した。92歳。久米島町出身。

 大田氏は1925年生まれ。45年、県師範学校在学中に鉄血勤皇隊に動員され、九死に一生を得た。早稲田大学を卒業後、米国に留学し、後に金門クラブの会員にもなった。68年に琉球大教授に就任し、メディア社会学を専攻し、新聞研究・報道研究などに従事した。
 1990年に革新統一候補として県知事選に出馬し、現職だった故・西銘順治氏を破り、12年ぶりに県政を革新に奪還した。歴代知事が問われる沖縄の心について「平和を愛する共生の心」と表現したことで知られる。

 任期中の95年には平和の礎や県公文書館を建設し、平和祈念資料館の移転、改築にも着手した。96年には、基地のない沖縄の将来像を描き、沖縄の自立的発展を目指した「国際都市形成構想」を策定した。
 さらに、段階的に米軍基地を全面返還させるとした「基地返還アクションプログラム」をまとめ、国に提案した。国際都市形成構想の理念は現在の沖縄振興計画「沖縄21世紀ビジョン計画」に引き継がれている。

 基地問題を巡っては、歴代知事では最多の計7回訪米し、基地の整理縮小などを直接訴えた。95年には、米兵による少女乱暴事件が発生。地主が契約を拒んだ軍用地について、地主に変わって土地調書に署名押印する代理署名を拒否し、国に提訴された。

 98年の知事選で稲嶺恵一氏に敗れたが、2001年の参院選に社民党から出馬し、当選した。07年の参院選には出馬せず政界を引退した。

 研究者としての顔も知られ、とりわけ沖縄戦や高等弁務官の調査研究に力を注ぎ、住民視点から沖縄戦とその後の米軍統治下時代の実相を広く世に伝えた。
 著書は「沖縄―戦争と平和」「醜い日本人」「沖縄のこころ―沖縄戦と私」「沖縄 平和の礎」「これが沖縄戦だ」「総史沖縄戦」「沖縄の民衆意識」など70冊を超える。
 1998年には、沖縄研究で顕著な業績を挙げたとして東恩納寛惇賞を受けたほか、2009年には琉球新報賞を受賞した。2017年には、ノーベル平和賞候補にノミネートされた。


 ―― 沖縄の巨匠がまた一人、世を去ってしまいました。
 98年の10月、沖縄知事選真っ最中の騒然とした那覇を見ていますが、あの選挙は沖縄にとって極めて大きなターニングポイントだったのだなと、今になってよくわかります。


 2003年の映画「八月のかりゆし」をDVDで鑑賞しました。

 主人公のテル(松田龍平)は、普通の男子高校生。他の人と違うのは、ユタを母親に持ち、民俗学者で遊び人の父親が幼い頃に行方不明になったこと。
 ある日、母が他界。親戚の謝花家を頼って足を踏み入れた沖縄で、テルは従妹のマレニ(末永遥)に出会う。マレニは14歳。チルおばあの指導のもと、ユタになるために修行中だが、この世のものでないものが見えてしまうため、本当はユタになりたくない。
 家の側にはガジュマルの樹があり、そこにキジムナーがいる。ある日マレニはテルとともに、御獄でひどく悲しそうな少女の霊と遭遇する。マレニはなぜかその少女のことが頭から離れない。少女はマレビトに違いない。
 そう思い始めた矢先、マレニから贈られたカンカラ三線で不思議な曲を弾き始めるテル。「それって「マレビトの唄」?」。そう問い掛けるマレニに、「子どもの頃に聞いたことがあるんだ」と答えるテル。
 次の瞬間、どこからともなくキジムナーが現れ、マレニに向かって手招きをする。ふらふらと後をついて行くマレニ。それを見たおばあのチルは止めるどころか、そのことを知っていたかのように、「あんたも一緒に行きなさい」と着替えの入ったバッグをテルに渡す。
 訳がわからないまま、マレニを追いかけるテル。二人は途中で立ち寄ったライブハウスで、ビデオカメラで執拗に撮影を続ける不思議な女アキに出会い、3人の旅が始まる。聞くとアキも、マレビトに興味を持っているという。
 不思議なことが次から次へと巻き起こり、そして立ち寄った海岸で、何者かがテルに舞い降りる。乗り移られたテルは、もがき苦しみ、泣きながら誰かに向かって叫びつづける。
 テルに乗り移ったのは終戦直後のある日本兵の霊だった。当時、マレビトの里で助けてくれた娘を猜疑心から殺してしまい、成仏できずにいたのだった。そして3人の前に、娘の霊がゆっくりと現れる……。

 ファーストシーンで、主人公テルの母親役として仲田正江が登場。彼女が出るのはそのシーンだけなので、見逃さないようにしなければなりません。
 撮影個所は、本部町が中心で、国頭村「奥」行きのバスやコザのライブハウスなども登場します。

 チルおばあ役は、沖縄芝居役者で、県指定無形文化財(琉球歌劇)保持者の兼城道子(かねしろ・みちこ)。これは2003年の映画なので元気で演じていますが、その後2009年に79歳で他界しています。
 戦後の沖縄芸能界で女性だけで構成された沖縄芝居の劇団「乙姫劇団」で活躍し、2002年の閉団まで副団長。04年10月に乙姫劇団の中心メンバーらと「劇団うない」を旗揚げし、その代表として自ら舞台に立ちながら、後進の指導にも力を注いだ方です。

 マレニの母親役は、きゃんひとみという、沖縄出身で千葉県のベイエフエムで活動しているラジオパーソナリティー・フリーアナウンサーで、彼女の話すウチナーヤマトグチが素敵です。
 コザのライブハウスのシーンでパーシャクラブも登場。新良幸人は例によって赤シャツ、黒パン姿で「Katsuren Catsle」や「海の彼方」を披露。
 元首相の村山富市まで元兵士役として登場。嘉手苅林昌が存命ならこの老爺役は、「ナピィの恋」で東金城本家の当主役を演じた彼が適任だったかもしれません。

 映像はけっして上出来とは言えないし、役者のセリフは台本をただ読んでいるようなところがあったりしたものの、筋書きには沖縄なりの深いものがあったと感じたところ。
 いずれにしても、スピリチュアルなものに下駄を預けるようなところがあり、それが偶然過ぎる出会いの緩衝材となっているなどいい面もあるものの、やはりこれでごまかしが効いている部分が随所にあるなあと思ったところです。
 去る2月末に、沖縄関係映画の中古DVDを、Amazonでまとめ買いしました。
 それらは発売順に次の6本です。

1 白百合クラブ 東京へ行く  200401 古650
2 八月のかりゆし  200402 古351
3 深呼吸の必要  200501 古795
4 サウスバウンド  200803 古850
5 南の島のフリムン  201002 古1100
6 ぱいかじ南海作戦  201301 古1250

 8gatsuno.gif shinkokyuno.gif

south-b.gif minami-furimun.gif paikaji_20170402082934cb4.gif

 ジャケットが全体として青い。それが沖縄のイメージなのだろうな。
 これだけ買って5千円ほど。借りるのもいいけれど、あれは返却期限があるので気ばかり焦っていけない。買ってしまえばいつでも見られるし、また何度だって見られる。
 事実、買ってからすでに1か月以上経っているというのに、このうち視聴したのは「白百合クラブ 東京へ行く」のみ。
 年度末、人事異動で居住地が変わるなどして何かと慌ただしかったからなのだけど、いつでも見られると思うとすぐには見ないものだとも言える。

 書棚には、買ってから聴いていないCDや読んでいない本もたくさんある。
 本は着実に読み進めていくしかないが、CDについては聴く環境が整っていない。自宅の自室にあったミニコンポは母に譲ってしまったし、アパートで使っていたミニコンポはまだ梱包を解いていない。
 音楽はパソコンのたいしたことのないオーディオ機能やヘッドフォンの空気を伝わってこないシャカ音で聴くものではないと考えているので、「音」のほうはまずコンポを梱包から(シャレではない)出すことから始めなければならないな。
0720_20170322064255ef3.jpg

 銀天街を抜けた先は、アーケードこそなくなるものの、街路樹が植えられた商店街風の道が蛇行しながらなだらかな上りになって続いています。どうやらここが、かつて「照屋黒人街」といわれたところのよう。

 ベトナム戦争時、米軍の白人たちは胡屋のBCストリートやそこから近い(「コリンザ」から北へ数分)八重島などを根城にしていたのに対し、黒人たちはこの照屋地区で毎夜出征の憂さを晴らしていたのだそうです。
 持参した地図を付しておきますが、太線部分が銀天街で、その先、線で囲った部分あたりが旧黒人街です。そのような地名があるわけでもないので、なかなか場所が特定できなかったものですから、ご参考にどうぞ。



 「沖縄 オトナの社会見学 R18」(前出)によれば、照屋黒人街は、
 「付近の路地を分け入っていくと、以前バーだった建物や、米兵向けに性風俗業をやっていた建物が残っています。当時の照屋について書かれた本を読むと、照屋にまぎれこんできた白人が黒人兵士にリンチされているシーンが必ず出てきます。馳星周氏の小説「弥勒世」(註:角川文庫。これも読んだな)も、照屋の乱闘シーンからはじまります。
 もともとは白人もいたのですが、当時の人種差別が原因で対立が激化して、白人が城前や八重島のほうへ移動していくかっこうになります。これが自然発生的にそうなったのか、問題発生を避けたい軍の「政策」によってのものなのかについてはUSCAR(琉球列島米国政府)の文書資料を調べている研究者の間でも議論があるようです。」――とのこと。

 なお、「城前」とは、R330を挟んで反対側、車を停めた銀行のあるあたりをいうようです。

0730_201703220642566b3.jpg

 街並みは、一言で言って「古色蒼然」。くたびれたコンクリートが、皺を幾重にもたたえた古老の皮膚のように思えます。それらの一部はご覧のとおり。
 中には「OREGON」などと書かれていた跡も。かつてはこの建物の中でドル札が舞い、黒人の大声とハーニーたちの嬌声が夜な夜な聞こえていたのでしょうか。

0740_20170323065142e14.jpg

0750_20170323065143550.jpg

0760_20170323065145915.jpg


 次に向かったのは、沖縄市のコザ十字路近くにある「銀天街」。
 かつて栄えたアーケードの付いた商店街で、沖縄訪問時には頻繁に利用するサンサン通り(国道330号)を走っていていつもアーケードの入口が目にとまるのですが、まだ歩いたことはなかったので、今回寄ってみたところ。

 R330を挟んで向かいにある沖縄海邦銀行の開放駐車場に停めさせてもらい、コザ十字路の信号を渡ります。
 コザ十字路はすっかり開発が進んで、かつての猥雑感はほぼ失われています。初めてここを訪れてから17~8年ぐらいしか経っていないのに、こんなに変わってしまうものなのかな。
 神谷幸市が主宰し、玉城一美もホームグラウンドとしている「民謡スナック花ぬ島」がまだ存在し、営業を続けていることが一筋の光明といえるでしょうか。

 で、銀天街。
 先に読んだ「沖縄 オトナの社会見学 R18」(仲村清司・藤井誠二・普久原朝充、亜紀書房、2016)によれば、
 「コザは、米軍基地によって人工的につくられた街で、この十字路に市が建ち並び、それが銀天街に統合されていったという経緯があり、それはそれは賑わっていた。1960年代には映画館も何軒もあり、華やかな街だったそうです。
 ・・・銀天街は、1951年4月、軍道24号線(現:国道330号線)と軍道13号線(現:国道329号線)の交差点にバラック小屋を建てて商売をはじめたことから市場に発展したそうです。その後、コザ十字路市場組合と隣にできた本町通り会が1976年に合併して銀天街と名付けていますね。しかし、例によっていまは寂れきっています。県道の拡幅工事もあり、銀天街自体も縮小されてしまった。」――とのこと。

0690_20170309070441a63.jpg

 コザ十字路から銀天街の入口までの数十メートルほどは、通りに面した古い建物が今風のアートなイラストでデコレートされており、巨大壁画のよう。これも活性化のための取り組みでしょう。
 テーマは琉球絵巻だそうで、琉球王朝時代から沖縄戦、アメリカ統治時代から復帰後の暮らしまで、時代を象徴するモチーフが明るいタッチで描かれています。

 その下の歩道が広くなったところに、イラストとともに次のような記載を含む説明板があったので、以下に引用しておきましょう。

1960年~70年代 コザの庶民文化の発展~そして未来へ~
地元に愛されるコザの台所
 黒人街だった照屋の地域は、同時にこの地域に住む庶民の台所としても、大きく発展していきます。銀天街商店街の前身である、十字路市場(1977年創立)と本町通り(1980年創立)が合併し、1978年にアーケードが整備されると、銀天街は最盛期を迎え、当時125軒の商店が軒を連ねていました。
 黒人街を近隣に据える銀天街は、外国人向けの飲食店や衣料品店が多く立ち並び、ペイデイ(給料日)ともなると、外国人の買い物客で夜中まで賑わっていたそうです。
 また、地元の台所としても発展していったこの街は、食材や日用品を買いに地元住民も多く往来し、特に旧暦のシチビ(節目・旧暦行事の日)にもなると、松風~まちかじ~、カタハランブーなどのご馳走を買い求めて全島から人が集まり、今でもその名残りがあります。

 昭和55年前後が最盛期だったのですね。
 今も「コザ十字路通り会」が機能しているようで、秋には「コザ十字路まつり」が開かれているということです。

0700_20170322064249961.jpg

 で、そのアーケードの下を歩いてみると、ご覧のとおり。自分はこれを見て、ネーネーズのCD「明けもどろ~うない」(1997)のジャケットを思い出してしまう。(そちらのアーケードはここのものではありませんが)
  アーケードはあれども、商店がないのだな。空き店舗はNPOの事務所になっていたりしています。これってある意味、見事というしかありません。
 むしろ人が寄ってきそうなのは、この通りからさらに路地を入っていった迷路のようなところ。そこにある飲食店に何人かの人がいて、飲んだり話したりしている様子が伺えました。

0705.jpg

 銀天街の南側のアーケードが切れるところはこんな感じでした。

0710_201703220642524cb.jpg


 奥武山運動公園内で思いのほかいろいろな碑を見ることができ、つい多めに時間を費やしてしまいました。
 次は、糸満方面へと進んで、行政区としては豊見城市になる瀬長島へと渡り(とは言っても道路がつながっているので車で行けるのだけど)、2015年8月オープンした「瀬長島ウミカジテラス」を見に行きました。

 那覇空港からすぐそばの瀬長島にあるリゾート型商業エリアで、ゆるやかな西斜面に並ぶ白壁の建物群はエーゲ海の島々の佇まいに通じるようなエキゾチックな雰囲気があります。夕陽が沈む時間帯はさぞかし美しいのだろうな。

 「瀬長島ウミカジテラス」については、開発会社の代表取締役の近藤康生が著した「25億の借金をしても沖縄・瀬長島につくりたかったもの」(ダイヤモンド社、2015)を読んでいたので、ここも完成した姿は見届けておきたいと思ったので、寄ったところ。

 多少雲が多かったので、地中海のような眩しさは残念ながらありませんでしたが、夏に来たならさぞかし華やかなのでしょう。沖縄ならではの飲食店や沖縄県産のジュエリーショップなど約30の建物がずらりと並んでいるのですが、真冬のこの時期では賑わいが出るまでにはいっていないようで、若干の空き店舗があるのが気になりました。

 ここまで来たのだからと、その上にある「瀬長島ホテル」にも入ってみることにして、長い上り坂を歩いて行きます。いやあ、風が強いなあ、煽られるぜっ。おおっ、那覇空港に着陸しようとするでっかい旅客機が真上を通過! ちょっとした迫力ですよ、これは。

 たどり着いたホテルのエントランスはあまり広いとは言えず、チェックアウトの人たちなのかどうか、そこに多くの人が滞留しています。さりげなく様子を窺うと、これらの人の大部分がアジア系を中心とした外国人のようです。うーむ、これまた及びでないかと退散。

 エントランスの近くに「瀬長島龍宮社」というのが祀られていました。その説明書きを移記しておきます。

瀬長島龍宮社
 瀬長島は古来より神の島と呼ばれ、龍神をはじめ神々が宿る聖地として尊崇されてきました。
 瀬長島ホテル開設にあたり、沖縄の平和と繁栄を祈念して、阿含宗開祖桐山靖雄大僧正猊下より大龍神を勧請賜り、ゆかりの神々とともに、ここ瀬長島龍宮社に奉安させていただきました。
  平成24年12月19日  WBFリゾート沖縄株式会社

0590_20170304071634cd4.jpg

 それにしても瀬長島は変わりました。もともとは神の島だったのが米軍の占領するところとなって島民が移転を強いられ、近年はウチナーンチュのデートスポットとして知られ、浜で釣り糸を垂れるオジサンや飛行機を見に来た家族連れなどで賑わい、捨て猫が多くいたりしたものですが、今ではそれがリゾート地になっちゃったのかぁと、ちょっとオドロキです。


 護国神社を離れて、隣接する「沖宮(おきのぐう)」に寄ってみました。名前はよく聞きますが、お参りするのは初めてのことになります。ずっと「おきぐう」と読むのだろうと思っていましたが、違っていました。

 道案内の立て看板に従って園内道路から左手にそれるスロープ状の道を進んで沖宮へ。こちらの道は裏参道にあたっていたようです。
 沖宮本殿はそう大きなものではなく、木造、琉球瓦葺の建物で、この時期だからなのかどうか、その手前の広場には野外ステージの雨除けのようなものが設えられていて、著しく景観を阻害しています。酉年生まれの人の厄払い祈願などが行われているようです。
 説明板によれば、沖宮は次のとおり。

沖宮御祭神
 天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ、天照大御神)
 天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)
 天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)
 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
 速玉男尊(はやたまおのみこと)
 事解男尊(ことさかおのみこと) 熊野三神

 末社(境内地内)住吉神社・弁財天宮・八坂神社・権現堂・祖霊舎

 琉球八社の一つ・沖宮の創立は詳らかでないが、源為朝公時代と琉球史料書にある。
 国家安穏・五穀豊穣・陸海交通安全の神船玉神として歴代琉球王を始め諸民に尊崇された。
 明治41年、那覇港築港の為、字安里に遷座。昭和10年、国宝に指定されるも、第二次大戦で焼失。戦後、沖宮創始の御祭神即ち霊水の根は奥武山天燈山御嶽と神示を受け、御神慮により昭和36年に通堂町に仮遷座、昭和50年8月現在地に御遷座。

 たくさんの神様が祀られている、いわば何でもアリのお宮様のよう。
 つまり沖宮は、創建当時は那覇港にあり、明治41年に琉球八社の一つ安里八幡宮の境内地隣域に遷座し、大戦で焼失したあとは通堂町へ仮遷座、昭和50年に奥武山公園内へ遷座し現在に至るということで、なんだか転勤族のような神様です。(笑)
 安里時代の古式ゆかしい本殿は伊東忠太の推挙により国宝に指定された経過があり、旅の無事を祈る琉球舞踊「上り口説」の歌詞の一節「沖ヌ側マディ 親兄弟 連リティ別ユル…」とある「沖」は沖宮のことなのだそうです。
 3日目の1月9日は、新年でもあるし、まずは奥武山にある護国神社を参拝し、その後南の糸満、豊見城、東の西原を経由して、中部の沖縄市、宜野湾市をドライブして回ります。
 R58、国場川に架かる明治橋を渡って山下の交差点を左に折れ、山下町大通りに面し、沖縄セルラースタジアム那覇のバックスクリーンが見える奥武山公園の駐車場に車をすべりこませて、公園内を歩きます。「沖縄県護国神社」の文字看板のある横にでかい本殿建物を見ながら、その左手にある公園をしばらく進むと、護国神社の入口に。
 護国神社は20年前ぐらいに一度訪れていますが、その時は公園の西側、神社の大鳥居のあるところからアプローチしたことは覚えているのですが、神社自体の記憶はほとんどなく、初めてやって来たような気になりました。



 入口は20数段ほどの石段になっており、正月だからなのかその両側には白い提灯がずらり。
 階段の手前左手に、神社の由緒を示す以下のような説明板がありました。

沖縄県護国神社の由緒
 当神社は、昭和11年に招魂社として創建され、昭和14年に護国神社と改称され、昭和15年7月に内務大臣指定護国神社となり、県社相当の社格を与えられました。日清日露戦争以降、先の大戦までの国難に殉せられた沖縄県出身の軍人、軍属をはじめ、沖縄戦にて散華された一般住民並びに本土出身の御英霊を祀る神社です。
 昭和15年、那覇市による皇紀2600年を祝う筆頭事業として護国神社の社殿・施設の拡充が計画され、昭和16年9月本殿改修工事が終了し、同時に拝殿、神饌所等も建立されました。
 しかし、昭和20年の沖縄戦により神社も戦災を被り、戦後は本殿ほか一部の施設のみを残す状態でした。その後境内地は学校用地として一時供用されましたが、沖縄戦での戦没者をお祀りしようとの声が県内各地から起こり、県市町村会の支援のもとに募金活動が行われ、昭和34年4月に仮社殿を建立し、戦後第1回春季例大祭を斎行しました。同年11月に靖国神社より沖縄戦にて散華された全国の御英霊の御霊代を奉移し、同神社権宮司池田良八氏を斎主に第1回秋季例大祭を斎行しました。
 昭和40年10月、社団法人沖縄県護国神社復興期成会(会長具志堅宗精氏)の尽力により、現在の本殿、拝殿が竣功し、11月に天皇陛下から幣帛を賜り、遷座祭並びに奉祝祭を斎行しました。
 昭和47年5月の沖縄本土復帰を機に県へ宗教法人認証申請の結果、昭和48年12月18日宗教法人沖縄県護国神社として認証されました。
 その後県民の神社として崇敬を集め、多方面からの奉賛を戴き念願であった祈願控室、大中会議室等を擁する新社務所を平成22年12月に完功しました。
 主な祭典として、春季(4月23日)、秋季(10月23日)例大祭の他、6月23日の沖縄全戦没者慰霊祭、8月15日のみたま祭りをはじめ、毎月1日、23日の月次を斎行しています。


 戦前の皇紀2600年(昭和15年)前後に、本土並みの国粋主義的風潮の中で殷賑を極め、戦後は市町村会の募金活動などにより、戦時に破壊された社殿等が再建されている、ということのよう。

 文中に登場する「具志堅宗精」は、1896年那覇生まれ。大阪の造船所で働き、その後沖縄に戻り警察官となり、沖縄戦までに県内の警察署長を歴任。戦後は宮古民政府知事などを経て、退職後は実業界に入り、1950年に具志堅醤油合名会社(現在の株式会社赤マルソウ)を設立し、1954年には沖縄ビール株式会社(現在のオリオンビール株式会社)を創業。社会福祉事業にも貢献し、沖縄社会福祉協議会の会長を1958年から20年間在任した。――という人物です。

 那覇の通りの多くは“縦走”しているのだけど、なぜか浮島通りはまだだったので、ちんたら歩いてみることにしました。一方通行の道を車の流れとは逆方向に進みます。
 「浮島通り」は、戦後すぐから営んできた古い商店に加えて、流行に敏感な新しいショップが仲間入りして、新旧入り交じったチャンプルーな通りになっていました。
 かつての浮島通りは、ここに来ればどんな用事も済ませられるような地元民の生活を支える通りだったといいます。また、刃物店、塗料店、金物店などもあって、大工御用達の道具がそろう通りとしても有名だったのだそう。
 以前あった「浮島ホテル」が通りの名称の由来。平成になり「平成通り」に名称変更しようという機運もありましたが、馴染んだ通り名は変えられることはなかったそうです。それはよかったよねえ。

 ところで、浮島通りにはインプレッシヴな建物がいっぱい。そのうちの2つの写真を載せておきましょう。



0060_201701221153121cb.jpg

 その後は壺屋やちむん通りを流し、開南の旧仏壇通りが区画整理でほぼ絶滅したのを見届け、人気のなくなった農連市場をうろつき、市場本通りを通って牧志公設市場前を経由して、国際通りへ。
 あとは牧志からゆいレールに乗っておもろまちへと帰着しました。

 このぐらい歩けば、旅の初日としてはまあまあでしょう。結局のところこのまちまーいで歩いたことが靴擦れとなって後に禍根を残すことになるのだけれど。
 那覇の1泊目はおもろまち。いつも利用する美栄橋駅至近のホテルが取れなかったための次善策です。
 那覇空港駅では沖縄県初の交通系ICカードとして登場した「OKICA(オキカ)」を3千円で手に入れて、ゆいレールでおもろまちへと直行し、ホテルにチェックイン。そしてただちに外出です。
 16時を過ぎているけど、さすが沖縄、真冬のこの時間でもまだまだ陽の光りは残っています。そして暖かい。もちろん外套はホテルに置いてきたけど、着ていたトレーナーは即脱ぎ。そして長袖シャツは肘上までまくりますが、それでも暑いぐらいです。那覇空港の気温は24度だと機内放送していたから、東北地方とは20度ほどの温度差があるわけです。

 まずは歩いて、那覇を体感しようという考え。
 おもろまち駅の東側に渡って、かつて「ハーフムーン」と呼ばれた戦略上の高地があったところを歩きます。丘はすっかり削られて、立派な車道ができています。那覇中環状線というらしい。その北側にはかつてハーフムーンがあったことを証する切通しがあり、その切通しに付けられた階段を上っていくと古くからの住宅地がありました。つまりは、階段の長さの分だけ掘り下げて、平らな道路を造成したことがわかります。
 ずいぶんと掘ったものだよな。でも、那覇ってこういうところがいっぱい。沖映通りの南面にあるナイクブ古墓群(というらしい)だって、いずれ削られてしまいそうな勢いだものな。


(沖縄ホテルの入口の門)

 その後は、松川の田崎病院前を通り、守礼の門のような門がある「沖縄ホテル」、坂下琉生病院、メディカルプラザ大道中央(旧大道中央病院)を過ぎて、沖縄そばの「真昼御麺」が健在であることを確認し、まだ夕方なのに飲んでいる人が大勢いる栄町市場内をうろついて、ゆいレール安里駅前からダイワロイネットホテルのある安里川親水庭園へ。
 そこから国際通りをドンキホーテ国際通り店前まで歩き、その裏に広がるスージグヮーへと迷い込みます。このあたりは初めて来たところ。「にぎわい広場」と名のつくちょっとした遊び場様のところがあったりして、そこからは「浮島通り」に出ました。

0040_20170122115309c86.jpg
(安里川親水公園。大開発済みの場所です。)


 2017年1月7日から3泊4日で那覇に行ってきました。
 琉球弧への旅はこれが通算49回目。このところ1年に1回しか行けない状況が続いていて、沖縄は2015年5月に伊平屋島などを巡って以来(2016年は奄美大島・加計呂麻島に赴いた)と、少し間が空きました。したがって、変貌していく那覇の街を確かめることも、今回の楽しみのひとつとなりました。

 事前日程としては、宿泊は3泊とも那覇。中の2日はレンタカーで本島を巡り、主として碑や像を見て回ります。
 初日は、夕方は那覇のおもろまち~安里~牧志~桜坂~壺屋~農連市場~開南本通り~浮島通りあたりを歩いてみようかと。

 2日目は、高速で許田まで進み、ヒヤミカチ節歌碑(今帰仁村謝名)、豊年口説歌碑(今帰仁村今泊)、具志堅小唄歌碑(本部町具志堅)、我部平松之址の碑(名護市我部)、奥間東鍛冶屋跡・国頭間切番所跡(国頭村奥間)、大兼久節歌碑(名護市大中)、赤犬子宮(読谷村楚辺)、道の駅喜名番所(読谷村喜名)、天川の池の碑・野國總管像・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)顕彰碑(嘉手納町嘉手納)、野國總管の像(米軍施設カデナマリーナ入口と道の駅嘉手納の2所)、インディアン・オーク号漂着記念モニュメント(ハンビー公園)を見て回り、夜は美栄橋あたりの居酒屋で南国の酒に浸る考えです。


(今帰仁村謝名)

 3日目は、天皇皇后両陛下の歌碑(那覇市沖縄県護国神社)、瀬長島ウミカジテラス(豊見城市)、「サワフジの詩」歌碑(西原町与那城)、てぃんさぐぬ花歌碑(沖縄市比屋根)、山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑(沖縄市胡屋)、銀天街と照屋黒人街(沖縄市コザ)、真栄原新町(宜野湾市)などをレンタカーで駆け抜け、体力が続けば夜は再び沖縄のうまいもので酒を。

0020_20170122115306491.jpg
(沖縄市照屋)

 4日目は、いにしえの那覇に思いを馳せながら「旧那覇散策」をしてみようか。それらは、那覇四町といわれたあたりの薩摩藩在番奉行所跡、親見世跡、天使館跡、伊波普猷生家跡、東恩納寛惇生家跡、那覇市跡、円山号跡、仲毛芝居跡、松田橋跡など。
 最後に、久々に波ノ上宮に詣でて、その後ろの公園にある各種の石碑をまとめ見するのもいいかもしれない。

 食事も楽しむぞ。昼食で狙っているのは、本部きしもと食堂の沖縄そば、豊見城市海洋食堂の豆腐ンブサー、首里あやぐ食堂のたくさんのメニューからのチョイス。
 夜の飲みも、いくつかリストアップしていて、その日の気分によって決めようかと考えています。

 どうです、かなりマニアックでしょ。これだけ何度も行っていると、巨視的だった観光目線がだんだんと地を這う蟻の日常目線に変わってくるものなのですよ。
 さて、日程はカンペキだ。

 1月7日(土)、冬の天気と、突発的な仕事が心配だったけど、それぞれ問題はなく、庄内から仙台空港まで2時間半のロングドライブをし、予定どおり那覇行きの直行便に乗り込んだのでした。
 それでは、旅の顛末についてドキュメントしていきます。
 1月7日から3泊4日で那覇に行ってきますが、そのスケジュールが概ね固まりました。
 琉球弧への旅はこれが通算49回目。このところ1年に1回しか行けない状況が続いており、沖縄は2015年5月に伊平屋島などを巡って以来(2016年は奄美・加計呂麻に赴いた)と、少し間が開きました。したがって、変貌していく那覇の街を確かめることも、今回の楽しみのひとつです。

 宿泊は3泊とも那覇。中の2日はレンタカーで本島を巡ります。
 初日は、おもろまちとその周辺。
 2日目は、高速で許田まで進み、ヒヤミカチ節歌碑(今帰仁村謝名)、豊年口説歌碑(今帰仁村今泊)、具志堅小唄歌碑(本部町具志堅)、我部平松之址の碑(名護市我部)、奥間東鍛冶屋跡・国頭間切番所跡(国頭村奥間)、大兼久節歌碑(名護市大中)、赤犬子宮(読谷村楚辺)、道の駅喜名番所(読谷村喜名)、天川の池の碑・野國總管像・喜屋武朝徳(チャンミーグヮー)顕彰碑(嘉手納町嘉手納)、野國總管の像(米軍施設カデナマリーナ入口と道の駅嘉手納の2所)、インディアン・オーク号漂着記念モニュメント(ハンビー公園)を見て回る考え。
 3日目は、天皇皇后両陛下の歌碑(那覇市沖縄県護国神社)、瀬長島ウミカジテラス(豊見城市)、「サワフジの詩」歌碑(西原町与那城)、てぃんさぐぬ花歌碑(沖縄市比屋根)、山内盛彬生誕120年記念「ひやみかち節」歌碑(沖縄市胡屋)、銀天街と照屋黒人街(沖縄市コザ)、真栄原新町(宜野湾市)などをレンタカーで駆け抜け、夕方は那覇のおもろまち~安里~牧志~桜坂~壺屋~農連市場~開南本通り~浮島通りあたりを歩いてみようかと。
 4日目は、いにしえの那覇に思いを馳せながら「旧那覇散策」。それらは、那覇四町といわれたあたりの薩摩藩在番奉行所跡、親見世跡、天使館跡、伊波普猷生家跡、東恩納寛惇生家跡、那覇市跡、円山号跡、仲毛芝居跡、松田橋跡など。

 食事も楽しむぞ。昼食で狙っているのは、本部きしもと食堂の沖縄そば、豊見城市海洋食堂の豆腐ンブサー、首里あやぐ食堂のたくさんのメニューからのチョイス。
 夜の飲みも、いくつかリストアップしていて、その日の気分によって決めようかと考えています。

 うーむ、日程はカンペキだ。
 心配なのは天気。寒波で飛行機が飛ばないなんてことはないよな。
 あとは仕事。旅に行けなくなるような突発事件や事故が起こらないことを祈るばかりです。

umikaji 201701
(瀬長島ウミカジテラス)
taira 20151206

 平良とみが亡くなったという。以下、12月6日の沖縄タイムスを引用。

 沖縄芝居役者の平良とみさん(87)が6日午前4時27分、那覇市内の病院で死去した。
 平良さんは1928年那覇市生まれ。「ときわ座」などを経て、82年に夫の平良進さんと劇団綾船を結成した。沖縄芝居の舞台などで幅広く活躍する一方、2001年に出演したNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」で演じた「おばぁ」役などで全国的な人気を得た。

 また、デイリースポーツは次のように報じています。

 NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」のおばぁ役として知られる俳優の平良とみ(本名トミ子)さんが6日午前4時27分、敗血症による呼吸不全のため那覇市の病院で死去した。87歳だった。
 那覇市出身。葬儀・告別式は8日午後2時から那覇市銘苅3の22、サンレー那覇北紫雲閣で。喪主は夫進氏。
 13歳で沖縄芝居の世界に入り、ゆっくりと話す様子や小柄な容姿、親しみやすい笑顔で人気を博した。「ちゅらさん」ではヒロイン古波蔵恵里の祖母で、「おばぁ」と呼ばれる沖縄のおばあさんを演じ、全国的な知名度となった。そのほか、映画「マリリンに逢いたい」、「ナビィの恋」など多数出演した。2014年に旭日双光章を受章した。


 また一人、沖縄ブームを牽引した大御所が逝ってしまった。沖縄のおばぁは元気なので、100歳ぐらいまでは平気で生きるのだろうと思っていたので、87歳とはいえまだまだ早い逝去だ。
 琉球新報に載った2014年4月に撮影された写真を見ると、活躍していた頃のふくよかさは影を潜めて、ただでさえ小柄な身体が横幅まで小さくなってしまっていたようだ。

 「ちゅらさん」のヒロイン古波蔵恵里を演じた国仲涼子もショックに思っている事だろう。母役の田中好子に続いて祖母役の平良が逝ってしまったのだから。
 夫の平良進は元気でいるのだろうか。元気ならばもっとショックは大きいだろう。

 「命どぅ宝」を身をもって表現していた役者だっただけに、その命が失われたことは、残された我々には極めて重い事実だと思う。
 おばぁ、お疲れさまでした。そして、ありがとう。「ナビィの恋」、名演でしたよ。御冥福をお祈りします。

tairatomi 201512


 これにて今回の沖縄旅は終わりです。
 レンタカーを那覇空港近くの営業所に返却し、送迎車で空港へ。
 今回はお土産のアップルパイが立派な1個の荷物になっているので、キャリーバッグは預けてしまおうと手荷物チェックの列に並びます。しかし、列が長くて一向に進む気配がないので、思い直して機内持ち込みにして、早めに出発ロビーに入って本を読んで時間をつぶしました。

 那覇空港発14時15分のフライトで仙台空港着16時50分。あとは車で、山形の自宅には寄らずにまっすぐ庄内へ。鶴岡で食事をしてアパートに着いたのは20時前でした。

 そっとそっとと持ってきたアップルパイは、アパートの鍵を開ける段階で落としてしまい、ここまで来てぐしゃり! くっそー、なんてこったい。ちっ、まあいいけどな、味は変わらないのだから。

 というわけで、画像は自分のために買ってきたお土産を撮影したもの。
 なつのやのアップルパイ。
 それと、キャンベルのスープはクラムチャウダーとチキンクリームスープです。

 アップルパイは、型崩れしたところをスープの缶で隠しています。
 格別大きいものではないので、何回かに分けて一人で食べきりました。

 スープは、重い思いをして持ってきたのですが、その後地元のスーパーで売っていたのを発見してちょっとがっかり。多少割高だけど、こちらでも買えるんだなあ。(で、こちらでも買った。(笑))
 味のほうは、クラムチャウダーは牛乳を同量加えて倍の量にしていただくもので、固形の貝が入っていておいしい。若干缶の匂いがありますが、粉末のスープよりも上でしょう。

 ああ、でも、こうしてインプレを書きながら旅を反芻してみると、今回もなかなかに楽しかったなあ。楽しいことをしていると6泊7日なんてあっという間だよね。
 でも、それを「書く」となると、中身が濃い旅だっただけに、けっこう大変でした。
 これまで何回か、旅のインプレを途中でやめてしまっていましたが、今回の旅はこうして最後まで書けたぞ。2か月以上かかったけど、よくがんばった。自分を褒めよう。

 また、最後まで目を通してくださった方がいらっしゃいましたら、そんなあなたにも大きな感謝を伝えたいです。

 また行きたいな、沖縄。
 次に行くのはいつになるのかな。

 (「沖縄旅2015年GW」 完)


 旅の最終日の5月7日。
 この日は朝から雨模様。最後にやられた感じですが、降りかたは強くないし、今日はずっと車で移動なので、大きな問題ではありません。

 朝食はパスして8時半にはホテルをチェックアウトし、車で胡屋のセンター公園付近を偵察します。しかし、駐車できるスペースがなく、雨だし、あまり手入れされていない様子でもあるので降りることなく通過。

 その後は、ライカム交差点付近に新しくできた「イオンモール沖縄ライカム店」を見に行きました。
 4月25日にグランドオープンしたばかりで、5月10日までは9時開店となっています。ものすごく渋滞し、混雑するというので、9時過ぎに行ってみたところです。

 さすがに9時の開店直後だと、まだ混雑していず、歩くにも余裕があります。
 それにしてもデカい。今住んでいるアパートの近くにはイオン三川店、自宅の近くにイオンモール山形南店がありますが、それらもけっこう大きいと思っていたけれど、こちらライカム店は体感的には売り場面積でそれらの5~6倍ぐらいはありそうな感じです。
 売り場が1階から4階まであり、たくさん店が入ったフードコートが3階と4階にありました。とりわけ3階のそれにはタイ料理、韓国料理、カリフォルニア寿司バー、オリエンタルスイーツ、フレンチフライなどなど、多彩さもあって面白そう。

 各フロアをひと通り歩いただけなのに1時間もかかってしまいました。
 いやはや、イオンができてライカムあたりもすっかり変わりましたね。近くのプラザハウスの経営にはどう影響するのだろうか。

 さあて、そろそろ那覇へと戻ろう。
 そうだ、ここからならアップルパイの「なつのや」は遠くない。お土産に買って帰れたらいいな。
 ということで、高原のなつのやへ。
 実はこれまで何回も行っていたのだけど、売り切れや臨時休業などでお目当ての品を買えたことがありませんでした。しかし今回はタイミングがバッチリ。膝の上に乗せると熱さが伝わってくるほど熱々のものを買うことができました。
 なつのやのアップルパイ、このボリュームで650円。
 やったねっ。4度目(?)の正直かな。


 ああ、美味かった~♪
 店から出て2階の北東向きのバルコニーに立てば、写真のような形で名護十字路が一望できます。
 この交差点に来たのは何度目だろうか。写真の右奥にあった名護十字路バス停でバス待ちをしながらオバァと話し込んだこともあったし、右手前、ヒンプンガジュマルへと続く道から入ったところにあった宿に泊まり、新山食堂で名護そばを啜ったこともあった。
 そして、この市場の建物が立つ前は、ちょうど下に見える樹木のあるあたりにケーキとパンを売る店があって、アルバイトのかわいいお嬢さんから朝食代わりのパンを買うのが楽しみだったこともあった。
 かつてのような猥雑感はすっかり失せて、人通りもかなり少なくなってしまい、佇まいはずいぶんと変わってしまったものだ。

 国道58号名護バイパスが全線開通したのは1986年のことで、それ以降、名護十字路を通過していた車の大半はバイパスに移ったため、交通量が激減してしまったのだそうです。

 腹の虫も収まったし、これから今日の宿泊地のコザまではのんびりドライブといこう。
 許田からは高速は使わず、東海岸に出てクルージング。
 宿に入る前に胡屋のサンエーでキャンベルスープを2缶、お土産代わりに購入しました。


 次は「島尻区神社」。
 再び集落に入って山手のほうへと進み、なんなく見つけます。
 石鳥居の奥には赤い社があり、鳥居の左脇には次のような説明書きが。
 なんだかこの説明書きばかりがやたらと立派ではないか。

島尻区神社
 明治の初 平屋葺
 昭和15年旧8月19日建設 建築面積21.2㎡
 昭和56年 葺替え
 平成11年11月 葺替
  葺替工事 太名嘉組
  代表取締役 名嘉 謙
 平成11年12月吉日
  記念

 これもまたとりとめのない記述で、前例同様売名行為でしょうか。

 売店前の地図に載っていたので来てみたけれど、ここはイマイチだったかな。事前情報なかったし、帰ってからのウェブ情報もほとんどないので、書くこともない。でもせっかくだから、写真ぐらいはここに載せておきましょうね。

 さあ、そろそろ島尻集落を離れてフェリーターミナルのほうへと向かおうか。


 野甫島を一周する一本道のいちばん西側に差し掛かったあたりで、「大天納(Ufuamanna)」と記された案内標識を発見。緑色の標識なのでこれも観光スポットなのでしょう。
 ということで、舗装された道を外れて砂利道を海側に進んでいくと、これがとんでもない悪路。バイクだからなんとかかんとか進めるものの、轍は雨に削られて深々としているし、勾配はすごく急だし、車だったら脱出不能になっていたことでしょう。

 で、その先に現れたのは、めちゃくちゃきれいで静かな浜でした。
 ここのロケーションは最高でした。白い砂浜に黒い岩。岩には緑の木々が王冠のように載っており、沖にある島との間の浅瀬では涼やかな波が海流をなして緩やかに流れています。
 天気もバッチリだし、もう何も文句はないなあ。こんなところにまで来れたおれは天下広しといえども三国一の幸せ者だ。

 ずっとここに佇んでいたい気持ちになりましたが、今日は間もなく伊平屋・野甫から離れなければならないわけで。
 浜の小さな赤と白の貝殻を2個だけ拾って旅の土産にすることにして、再び悪路をモトクロス的に登り、島一周を終えて野甫の集落へと戻ります。
 あ、ところで、「大天納」って何を指していたのだろう。謎だな。

 さあ、伊平屋島に戻ろう。
 本土~沖縄島~伊平屋島~野甫島という具合に、云わば「離島の離島の離島」へやってきたわけですが、これから「離島の離島」である伊平屋島に取って返します。