日蓮聖人佐渡銅像を見終えて14時半過ぎ。フェリーの発時間は16時5分なので、旅はここまでだな。
 佐渡汽船のフェリー発着所へと戻り、ターミナルでソフトクリームを食べて一休み。クルマを乗船の列に停め、30分前までには車内に戻っているようにと言われて、もう一度湊地区を散策。

 それにしても、佐渡島は大きかった。粟島や飛島とは比較にならない「大陸」だった。なんといってもそれらの島々とは船の便数が違う。やはり島にとっては船便が何本あるか、定期性は確保されているか、移動時間は多くを要しないか、などが何よりも重要なことなのではないか。
 飛島なんて、平日は1日1便だし、欠航率が高くて冬などは頻繁に孤立化する。そんな悲哀に晒される島民の心情はいかばかりだろうか。
 為政者は、そういうところにしっかりと目配り、気配りをしてほしいし、するべきだと思う。島民不在の島になってもいいと考えていないのであれば。

 フェリーでの2時間半は、疲れが出てかぐっすり。新潟港に着いて船底から車を出せば、夏とはいってもあたりは暗くなっていました。
 この夜は新潟の繁華街に泊まってひとり打ち上げだ。島の静かな佇まいを思い出しながら、一方で島にはない喧噪の中に身を置きながら、似ても似つかないこのふたつの状況の狭間を行き来できる幸せをかみしめようではないか。



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 というわけで、サービス画像は新潟市古町界隈にある「笑美寿亭」の、10数種類の日替わり300円メニューからチョイスした「四川麻婆豆腐(ハーフ)」と、グリーンカレー担々麺。グリーンカレーのラーメンなんて初めてだよなあ。

 思いのほかヨカッタな、佐渡旅。
 島というのは、本州ではすでに失われてしまったものが赴くたびに再発見できる、不思議な場所です。

 2016年8月に書き始めたドキュメントでしたが、2017年1月にようやく全編を書き上げることができました。
 これにて終了で~す♪
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 これにて予定していた佐渡島でのチェックポイントはすべて終了。ああ、見た見た。
 でも、予定のフネの出航までまだ少し時間があるな。それでは、2日目に行って探し出せなかった「日蓮聖人佐渡銅像」をもう一度アタックしてみることにしよう。高さが26メートルもある巨大な銅像なわけだから、見つからないわけがない。手元の資料がよくないだけなのだ。

 その資料によれば「日蓮聖人佐渡銅像」は、佐渡市加茂歌代字百成にあって、両津港より県立両津高校方面へタクシー5分。
 日蓮宗750年を記念し、佐渡ヶ島が日蓮大聖人の聖地であることを広く知ってもらうため、全国の日蓮宗僧侶有志が委員会を設立し銅像を建てたと。そして、その高さ26m、重さ25tは世界一。
 日蓮大聖人50~52歳のとき、佐渡島で「南無妙法蓮華経」の袈裟文字を図顕真筆され、「開目抄」、「観心本尊抄」を著して、日蓮宗を確立したというのです。
 ヒントは、所在地名が「加茂歌代字百成」であることと、県立両津高校の近くらしいこと、の2点。

 新潟県立「両津高等学校」は「佐渡中等教育学校」に改称しており、それについてはさほど悩まず、まずはその前へ。この近くで巨大像が立つのであれば、そこよりもやや山手なのだろうなと考えてきょろきょろ。うーむ、見えない。
 では実際に、集落を離れて農地しかないようなもう少し山手方面へと進んでいくと・・・。おおっ、発見! とうとう見つけました。読みどおりだな。
 それにしてもおれ、別に日蓮宗信者でもないのだけど、発見したヨロコビは大きい。しかし、どうしてここまでして銅像を見なければならないのかとの疑問は募る。

 その金色の雄姿は、一点の曇りもない青空に映えて見事。誰もいないところで目をかっ!と開いて建っている姿はかなり漫画チックです。
 向かって右手前にあった「建立辞義」の石碑(これすらかなり立派)には設置の経過などが克明に記されていました。
 こうやって巡り合えたのも何かの縁でしょうから、以下に全文を移記しておくことにしましょう。

 この銅像は、全国3千名を超える僧侶・檀信徒のご協力によって建立されました。
 全国日蓮宗青年会が、布教事業として平成10年に佐渡伝道を挙行したおりに、当地の方々から「広宣流布のため、日蓮大聖人のために活用していただきたい」と土地寄進の申し出がありました。
 時を同じくして、勧学院長の浅井円道師が講演にて「佐渡の地は立教開宗以来培われた日蓮聖人の大いなる思いが溢れだした聖地であり、その魂魄が留まっている」と力説されたのを拝聴しました。
 それらの因果を心の支えとして、島内寺院根本寺の竹中智英師、北海道妙心寺の若松宏泉師、そして旗石に刻された23名の法友と共に、日蓮聖人銅像をここ佐渡に企画建立する運びになりました。
 勿論、これは単に無意味な巨大建築をしようとしたのではありません。建立の柱となった事柄は「一般にいう記念碑や宝塔では日蓮聖人を祖師とし頌徳することは不可能である」 「あくまでもそのお姿を聖地佐渡に顕現すべきである」という本懐があったからです。
 更に、お銅像建立という一つの目的に向かうことで全国の日蓮宗信徒が心を一つにすることを生み出し、立教開宗の意味の啓蒙と、慶讃年と位置づけた平成14年という節目が何であったかを後世に残したかったのです。
 ここに参拝された方々が、何故日蓮聖人が両津に今お立ちになられたのかを再考していただくことによって忘れることの出来ない慶讃年が蘇り、その目的の経緯を750年前まで遡って考えて頂くという要素も含め、大銅像様はお立ちになられているのです。
 また、その芯にある祖師を心から敬う姿勢を社会に示すことによって、世論として先輩や先師あるいは先祖を敬う気持ちが大切であると申し上げたかったのです。
 平成15年5月13日、当日蓮聖人大銅像は除幕致しました。大勢の檀信徒に見守られ、また佐渡島内の方々にも拝されての落慶でした。そこには宗派などを越えた大きな喜びがありました。
 そして両津市長を元とする役所の方々のご協力によって盛大さを増した式典は、御仏のご加護を体感する大法要となったのです。
 ここに厚く御礼申し上げ、銅像様への参拝案内のご挨拶とさせて頂きます。 合 掌
 平成15年6月吉日
  福岡県本佛寺第九世法燈 佐野前延

 はい、よくわかりました。
 建てられてもう10年以上が経過しているようですが、その年月が嘘のような美しさ、新しさが感じられました。


 で、その八幡若宮神社の境内には、佐渡出身の思想家北一輝と、その弟であり政治家でもあった北昤吉の碑がありました。

 碑は、ご覧のとおりくたびれが目立ってきた感じ。ブロンズでできた顔かたちも変わり果ててなんだか怖い感じがしないでもありません。
 碑の裏には2枚の説明板。カタカナを平仮名に、旧字体漢字を現代記載に、それぞれ変えて移記しておきます。

 北一輝先生は、明治の当地が生んだ偉大な鬼才である。由来佐渡は国家と信仰とのために戦った幾多の革命的人物流謫の地であるが、特に順徳上皇と日蓮上人の英魂が先生の心霊に深甚な化を及ぼした感が深い。
 先生に於いて順逆に門無く大道一源に通じた。その一源は天皇と法華経であり、大地震裂し無量の菩薩摩訶薩湧出する革命を期して殺身供養したと称することが出来る。
 昭和11年8月19日 時に年55
 昭和44秊(ねん)5月吉日 安岡正篤 撰書

 雄渾なる佐渡の天地は一代の哲学者北昤吉先生を産む。
 先生学博く、識高く、達文雄弁、能く一世を指導す。半生を政界に投じ、その理想とする昭和維新の実現に渾身の情熱を傾く。
 偶々大東亜戦争勃発戦とするや所信に従い敢然これを阻止せんとして成らず、遂に祖国の大敗を見る。満腹の経綸空しく一場の夢と化し蕭條としてその晩年を了れり。然れども此の偉大なる先覚の心述はまた以て不朽と謂うべし。
 予先生の門下に在って其の薫陶を受くること多年、茲に無量の感慨を以て此記を作る。
 昭和44年5月 高杉晋一 撰并書

 とまあ、なにやら難しいのだけど、つまりはこういうことらしい。
 二・二六事件の理論的指導者として有名な北一輝は、1883年、湊町で酒造業を営む北家に生まれた。父は初代の両津町長となった北慶太郎である。また、2歳下の弟吟吉は、後に衆議院議員となった。
 夷の若林朔汀に漢学を習った一輝は、佐渡中学校(現佐渡高校)で飛び進級するほどの秀才だった。しかし、眼病や読書へ熱中のため、3年後に退学。その後上京し、社会主義思想に傾倒して中国に渡る。1916年、「日本改造法案大綱」を著し、帰国後は陸軍青年将校に信奉された。1936年の二・二六事件には直接関係していなかった一輝だったが、思想的な指導者と見なされて逮捕され、翌年死刑となった。

 北一輝って佐渡島の出身だったとは知りませんでした。
 ちなみに、安岡正篤(やすおかまさひろ、1898~1983)は、陽明学者・思想家。また、高杉晋一(たかすぎしんいち、1892~1978は、三菱電機の社長・会長などを歴任した実業家です。

 ついでに書いておくと、「北一輝・北昤吉碑」の側にはひとつの「五輪の塔」が。
 NPO法人みなと昭和館が立てた説明板によれば、この五輪の塔は、荘勝人という蒋介石の片腕だった人物が日本に亡命した際、北一輝らが匿った縁で、荘が北家に贈ったもの。
 塔は時代を経て北家から丹波哲郎家へ移されていたが、佐渡へ帰したほうがよいとなって、2011年に東京から運ばれてきたものだとのことでした。


 両津での3箇所めは、市内八幡若宮神社。この一角にあるという「北一輝・北昤吉碑」を見に来ました。両津らんかん橋からさらに南の湊地区、フェリーの発着所からも至近にあります。
 事前情報としては、両津湊の人々に“若宮さん”として親しまれており、毎年5月5日には例大祭「湊まつり」が開かれますが、それは若宮通り沿道に大漁旗がはためき、勇壮な練り神輿が出る港町らしい熱気があふれる祭りなのだそうです。境内には「本殿」のほか、「天満天神社」「出雲大社」「大渡海神社」の合祀殿があります。

 立派な神社。神社の鳥居手前にある説明書き(写真右手前)には次のような記載がありました。

両津湊鎮守 八幡若宮社
 鎮座地 佐渡市両津湊213番地3
 御祭神 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、仁徳天皇)
由緒
 創建年は不詳であるが、元禄5年(1692)の記録から江戸時代初期には既に鎮座されていたと推定される。当初の社殿は時宗の円阿弥寺(円阿弥堂として現存)に隣接しており同寺とは深い関係にあった。
 江戸時代には佐渡奉行の尊崇篤く、享保16年(1731)建立の本殿棟札には佐渡奉行松平兵蔵が大檀那として記されている。
 現在の社殿は昭和57年(1982)に改築された。境内地は、湊本町通りから社殿の並ぶ加茂湖岸に及び、昭和23年(1948)から29年(1954)までの道路拡張で若宮通りが整備され参道が二分されたため、二の鳥居が建造された。
 創建以来、氏子をはじめ島民から多く末社が勧請され、3棟の社殿が境内に並んでいたが、平成12年(2000)に三社として1棟にまとめられた。
 5月5日の例祭には、漁師町の象徴としての大漁旗が神社周辺を巡幸し、鬼太鼓、下り羽、芸山車、獅子など練り歩き、町内は賑わいを見せる。祭の夜には湊木遣が奉納されるなか、若衆による勇壮な練り神輿が祭りの最後を飾る。

例祭 5月5日
 かつては5月11日に湊町漁師が主体で行われていたが、昭和52年に青年有志が「若松会」を結成し、翌53年から例祭日を5月5日に変更して全町民で祭を盛り上げている。
秋祭
 9月27日には秋祭(乙祭・善宝寺祭)として海上安全、大漁満足、商売繁盛等の祈願を行う。
末社
 渡海神社(松玉神社、琴平神社、大鰭神社、秋葉神社、善宝寺龍神社を合祀)
 出雲斜(別名 大社)
 北野神社(別名 天満宮)

平成28年1月吉日  八幡若宮社


 ははあ、これはつくったばかりの看板なのですね。こういう説明がないとワカランよね。
 区画整理で鳥居がつくり直されたこと、漁師の祭りが待ちの祭りに進化していったこと、さまざまな神様がごちゃ混ぜになって祀られていることなどがわかります。
 この地域の人々の信仰の中心になっているのでしょうね。


 両津でのもうひとつは、「村雨の松」からすぐ南に架けられた橋です。
 「両津らんかん橋」。何度か架け替えられてはいますが、古くからある橋だというので見ておこうと思ったものです。
 橋を渡った南側の袂にある建物の壁に、次のように記された案内板が打ち付けられていました。

両津らんかん橋の由来
 夷、湊の両町をつなぎ、両津らんかん橋の名で親しまれてきたこの橋は、昔から境橋(さかいばし)とも呼ばれてきました。橋下には、境川と称して両町を分ち、湖水が僅かに海へ注ぐ所の川があったからです。
 島の東部に位置し、相川道や前浜方面に通ずる交通の起点として、この橋が最初に架けられるのは、町がスケト・鱈の延縄漁を生業とし、また島内の重要港として口屋(後の番所)が置かれ、港町として始まりをもつ江戸初期のことです。
 御普請橋として、佐渡奉行所によって架けられたこの橋は、江戸時代を通じ幾度も架け替えが行われていますが、その規模長さを17間、横1丈はかわることなく、昭和4年の架け替えまでは木橋(板橋)でした。
 現在の橋は、昭和56年6月竣工されたもので、長さ34.4メートル、幅13メートルあります。

  両津欄干橋や 真中から折りようと 船で通うても やめりゃせぬ
  私とお前は 御番所の松よ 枯れて落ちても 二葉連れ


 なるほどね、「両津」というのは「夷」と「湊」の集落を合わせた呼び名なのですね。
 なお、「らんかん橋」というと自分の場合、奄美のシマウタでうたわれる同名の橋を思い浮かべますが、らんかん橋といわれる橋は日本全国にあり、往時各地方の道路元標ともされていて、他町村よりは欄干橋まで何里何町と表示されていたのだそうです。


 佐渡旅も最終盤。両津に戻り、両津郵便局でCD機を使って車を停めさせてもらい、町の中を歩いてみます。
 ひとつめの目的地は「村雨の松」。郵便局のすぐ隣にある佐渡海上保安署の庭に立っています。ここは史跡「夷港税関跡」になっていて、次のように記された石碑がありました。

 明治政府は、明治元年(1868)夷港(両津港)を開港し、翌明治2年、当時沿海貿易のため設けられていた番所の跡に税関業務を行う新潟運上所夷港出張所を設置しました。
 同運上所は翌明治3年から夷港税関と称するようになりました。
 その後たびたび名前が変わりましたが、昭和42年東京税関の両津監視署を最後に廃止されるまでの長い間人々から夷港税関として親しまれてきました。
  平成元年5月  東京税関

 両津番所~夷港税関~佐渡海上保安署と続く歴史的な場所だ、ということなのですね。
 で、村雨の松。これもスチール製の説明板があり、次のとおりの記載がありました。

新潟県指定天然記念物 村雨のマツ  指定年月日 昭和31年3月23日
 「村雨のマツ」はクロマツの大木で、近年の実測によると幹周りは最大部分で約6メートルあり、樹高は約19メートルにおよぶ。枝張りは東西約14メートルに広がっている。
 江戸時代、ここに御番所があったことから「御番所の松」と呼ばれていたが、明治に佐渡を訪れた尾崎紅葉が、このマツを見て「村雨の松」と命名した。
 また、「松になりたや 御番所の松に 枯れて落ちても 離れやせね」と両津甚句にも唄われている。
  新潟県教育委員会
  佐渡市教育委員会

 尾崎紅葉の命名ですか。
 立派な木で、全容がフレームに入り切れませんね。


 さあ、昼メシだ。
 昼食は軽くいきたいと考えて、いったん両津を通り過ぎ、加茂湖の西側の秋津にある「手打ちうどんおけさ」でうどんを食べることにしました。

 13時入店で客は自分のほかに2人組のみ。店内はガラガラなのに、店主は一人客と見るや条件反射的にカウンター席にお願いしますと。座敷で寛ぎたいし、窓際の明るいところでいい写真を撮りたいのだけど、こうも杓子定規なのはどうかと思うぞ。

 ぶっかけ820円。
 たのんですぐにサーヴ。ということはこのうどん、茹で上げじゃないよね。
 口に運んでみれば、なにこれ、冷たくないじゃん。ああもう、揚げ玉は湿気っているし。タレも瓶詰のそばつゆの濃いのがそのままじゃん。

 佐渡島ではここまでおいしいものをたんと食べていい思いをしてきただけに、少しがっかりです。
 値段のわりに見た目のグレード感も乏しく、量もほどほど。
 佐渡旅の道中「殺したい蕎麦屋」という本を読んでいたのだけど、著者のシーナマコトは4~5箸しか分量がない蕎麦を1,200円で供し、店内にビバルディを流す蕎麦屋を殺したいと評していましたが、自分もなんか似たような気分になってシマッタ。

 こういう店は夜の居酒屋で生き残るかさもなければ淘汰されるのだろうな。少なくとも麺類王国の山形では続けてやっていけない店でしょう。
 残念でした。


 牛尾神社から県道65号を両津方面へと進み、道の駅にもなっているという「佐渡能楽の里」に寄ってみました。ここでは、ハイテクロボットによる演能が本格的舞台で常時上演され、人間そっくりの精巧な動きを見せてくれる――というので寄ったのですが、広い駐車場だけど車はなし。やっているのかな、ココ。
 まあいいやと諦め、むしろその向かいにある長い白壁が気になったのでそちらのほうに行くと。

 そこは、「佐渡本間家能舞台」なのでした。
 事前チェックはなし。あとで確認すると、使っていた地図のコピーが一部印刷不明瞭になっていて、ちょうどそこに字がつぶれた形で「佐渡本間家能舞台」とかろうじて記載されていたのでした。おおっ、大事な場所を見逃すところだったじゃないか。

 ふつうの民家のような佇まいで、入っていくのが「侵入」のようで気が引けます。
 入り口にあった説明板を移記。

佐渡本間家能舞台
 明治18年(1885)に再建された能舞台で、江戸時代より代々能太夫を受け継ぐ本間家が所有しています。
 舞台は寄棟造桟瓦葺(よせむねづくりさんかわらぶき)で、本舞台と後座からなり、鏡板には松の絵、天井には演目「道成寺」で使用する鐘穴があります。また、舞台床下には音を反響させる甕が据えてあり、計算された舞台の配置ともあいまって音響効果を高めています。さらに地謡座、鏡の間(住居内)も常設され、橋掛りは複式で裏通路が附属しています。
 本間能太夫を家元とする佐渡宝生流が本拠としてきた本格能舞台であり、毎年7月下旬には定例能が上演されます。

 古い門の前には「賜天覧 能舞台跡」の標柱が立ち、その脇には以下のような説明書きも。

天覧能演能跡
 天皇陛下(昭和天皇)は、昭和39年佐渡行幸をされ、佐渡能楽倶楽部一門は、当所に於いて能「鶴亀」の天覧を賜った。

 ふーん、そういうことなんだ。
 で、門をくぐってすすめば、左手に「宝生流佐渡能楽倶楽部」の看板がかかる建物があり、その右奥に能舞台がドン。残念ながら舞台は閉ざされていて見えません。そしてさらにその右手前には「御能見所」の小さな建物。
 御能見所の入口には次のような説明板がありました。

新潟県指定有形民俗文化財 佐渡本間家能舞台
 本間家は戦国時代当地にあった城主の家柄とも伝えられ、戦乱の難を逃れた本間家の末裔秀信は寛永18年(1641)奈良で能楽を修めて帰着。慶安年中には佐渡奉行所より能太夫を委嘱され、爾来今日まで佐渡における宝生流能楽の中心となっている。
 能舞台は明治18年に再建されたと言われ、舞台建築には禅宗の影響を受けた唐様建築の扇垂木手法が用いられ、床下には音響効果を高めるため瀬戸産の甕が一対埋められていることなどもこの舞台の大きな特色であろう。
 明治維新により幕府の庇護を失った能楽界の余波はこの舞台の建築にも及び、鏡板などの材質が極度に落ちていることなどからも当時の能楽界のありようがうかがえる。
 昭和46年に両津市文化財、平成9年には新潟県有形民俗文化財の指定を受けた。
  新潟県教育委員会・佐渡市教育委員会

 おーし、見た見た。佐渡ではいくつの能舞台を見たのだろうか。
 にわか能楽ファンにはわからないことだらけだったけど、能楽が佐渡の地にいかに根付いているかを感じ取ることができました。


 赤泊から1時間近くドライブして次に寄ったのは、牛尾神社。
 事前勉強で得たものは次のとおり。

 792年に出雲大社より勧請創建した神社で、元は八王子大明神と言い、牛頭天王を併せ祀っていた。
 地元では天王さんと呼ばれ親しまれている。
 三方唐破風造という高度な建築様式で、くり彫り梁は現在では再現できない見事なものである。
 牛尾神社の名は近江日古神社21社のうち、八王子社の鎮まる山を牛尾山と称しているところから来たものと思われ、日吉神社との開係がうかがえる。
 牛尾神社に伝わる大般若経には松雲寺の名がある。聖徳太子像や十二神将を伴った薬像などが宝物として保管してある。
 静かな境内には樹齢400年の安産杉がそびえ立っており、子授けや安産に霊験あらたかで、今も民間信仰を集めている。
 県指定文化財でもある能舞台は、島内の独立能舞台のなかでも本格的なもので、毎年6月12日に薪能が奉納される。

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 自分がアプローチしたのは裏参道だったようで、拝殿正面から入る正式ルートはその反対側にあったようです。
 進んでいくと、神社の境内は広く、芝が施されていて美しいし、社殿が大きい。正面向かって左手にある能舞台もすごく立派です。
 まず圧倒されるのは、拝殿の彫刻です。そのすごさは正式ルート側の大鳥居からも様子がわかるほどです。鯉、竜、その他動植物、物語等が刻まれているとのこと。
 現地にあった佐渡市教育委員会が建てた説明板によれば、次のとおり。

拝殿の彫刻  佐渡市指定文化財
 社殿は、明治34年(1901)に再建されたもので、拝殿正面、側面、後面に施されている彫刻群は、明治35年から5年間かけて彫られたものである。
 くり彫りによる立体的で、芸術性に富み豪華な彫刻群である。

 能舞台もとても立派。佐渡には独立の能舞台が30棟ほどあるということですが、牛尾神社の能舞台はその中でも本格的能舞台といわれる3棟のうち内の1つで、また、能楽の中心となった国仲四ヶ所御能場の1つでもあるのだそうです。
 同説明板によれば、次のとおり。

能舞台  新潟県指定文化財
 能舞台は、明治34年(1901)に再建されたもので、屋根は瓦葺正面入母屋造り、柱8寸、かぶら懸魚の妻飾り、背面は寄棟造り、二タ軒本繁垂木(ふたのきほんしげたるき)の工法をとっている。毎年6月12日に例祭宵宮薪能が演じられている。

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 うーん、ここはいい。寄った甲斐あり。
 牛尾神社にはこのほかにも、参拝をすると子宝に恵まれ安産がかなえられるという樹齢約1千年の御神木「安産杉」(佐渡市指定文化財)があったし、見てはこなかったけれども一名「春日の面」「雨乞いの面」といわれる能面翁2面(新潟県指定文化財)もあるという。
 小高い山ひとつが全部神社の敷地のようになっていました。


 もうひとつ、赤泊でのご紹介。
 話が前後するのですが、赤泊で駐車をしたのは、先のメイン交差点からフネの発着所のほうに少し行ったところにある「佐渡市赤泊行政サービスセンター」の前。そこには大きな帆掛船がありました。
 車に戻ってきて、まずはセンターの公衆トイレで用を足して、改めてそのモニュメントを見てみたところです。ちょっとハリボテっぽいつくりですけどね。(笑)
 礎石には「佐渡奉行渡海の御座船」とあり、右脇の説明板には次のように記されていました。

 佐渡金山隆盛時の正徳4年(1714)、幕府の天領であった佐渡の奉行が二人制となり、渡海の出港地も出雲崎から寺泊に変わった。
 以後幕末まで奉行が佐渡へ赴任する時は、寺泊から赤泊に渡るコースがとられた。
 奉行の乗った船には4畳の仕切があり、葵の御紋がついた帆を張って、朝五ツ(午前8時)頃寺泊港を出港し、七ツ(午後4時)頃赤泊港へ着いた。
 我先にと引船役をかって出迎える漁師衆や歓迎の村人らで港は賑わった。
 その晩奉行は、赤泊に泊まり、翌朝相川へ向かったという。

 ふーん。寺泊~赤泊コースなのですね。8時間かかったってか!
 赤泊って重要な港だったのだろうな。
 ちなみに、右下に写っているのはわが愛車です。

 時計は11時半を回った。さてと。赤泊地区や佐渡島内に伝承されてきた情緒あふれる素朴な芸能が紹介されているという「赤泊郷土資料館」にも寄りたかったけど、やむなく省略だな。島の東南海岸沿いに40数キロをドライブして、両津方面へと向かうことにしようか。


 「みなと史跡公園」は、説明書きによれば次のとおり。
 江戸時代のはじめ、佐渡金山の隆盛につれて諸国から物や人の流入が盛んになると、越佐間の最短距離にある赤泊港は、佐渡奉行の上陸港とされたり、出入りの船を改める御番所が設けられるなど、大いに賑わいました。
 また小木港とともに、北海道や日本海沿岸各地との交易をする北前船の寄港地として栄えた由緒ある港町です。
 平成元年に運輸省が全国8港に指定した「歴史的港湾」に選ばれこの公園が造られました。
 いにしえの港に思いをはせながら、ゆっくりとおくつろぎください。
  事業名  歴史的港湾環境創造事業
  実施年度 平成元年度~平成3年度
  公園面積 2,000㎡
  平成4年3月

 で、その復元された「赤泊御番所」が写真。白壁のこんな立派な御番所なんてありえねーと思ってしまいましたが、まあ、復元なので。
 写真に写っている時代劇でよく見かけるような御触書様の看板(左手)には、次のように書かれていました。

赤泊御番所
 江戸時代の初め、相川金山の隆昌につれて諸国から人や物資の流入が盛んになると、佐渡奉行は相川、小木、赤泊などの港に番所を置いて船の出入りを改めさせた。
 積み下ろす貨物に税を課し、旅人を監視するなどが主な役目で、番所役人のほか地元の問屋衆五人問屋が交代でこの補佐にあたった。
 今の税関のようなもので、土地の人々はこれを御番所と呼んだ。
 当時の御番所は、ここから50メートル、現在の外内商店のあたりにあったといわれている。

 ほほう。外内商店って、コーラを買って飲んだところ?
 あとで調べてみるとそうではなく、道路を挟んでその西向かいにあるかなり古い木造の建物のことでした。
 これが外内商店。(googleから 2012年9月現在) これって現役の商店なのだろうか?

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 復元された番所の手前には「田辺九郎平と港の改修」についての説明板があったので、それも以下に移記しておきます。

田辺九郎平と港の改修
 天保2年(1831)赤泊の小農の家に生まれた田辺九郎平は、19歳のとき北海道江差の商家に奉公し、永年の刻苦勉励の末、ニシン漁への投資などで巨額の富を築いた。
 50歳のとき帰郷し、北海道や対岸地域との交易交流のため、港湾の改修こそ郷土発展の根幹との信念から、私財を投じて赤泊港の修築を行うことを決断した。
 明治20年6月に着工した長さ100mの石積の防波堤は、3年後の23年に完成した。
 この経費6千円(平成4年現在の約5千万円)はすべて翁の私費で賄われたが、これにより船舶の出入りも増し、村民は多くの恩恵をうけた。
 現在の赤泊港の発展の基礎は実に田辺翁の力によって築かれたのである。

 スバラシイ!


 続いては、佐渡一周道路(県道45号)の南岸沿いをの~んびりとドライブして、ここもまた歴史的に隆盛を極めていたことのある赤泊(あかどまり)集落を訪ねました。
 ここもまた、港近くに車を停めて街歩き。幹線のすぐ西側を走る旧道に足を踏み入れて歩いてみます。非常に狭い道の両側は、小木同様に風情のある建物が並んでいますが、小木よりもずっと静かで住宅が中心。そこをよそ者が堂々と歩くことに違和感すら覚えます。
 ではまあ、この集落のメインの交差点に戻ろう。

 信号すらない交差点だけど、そのコーナーには復元された「赤泊御番所」を擁する「みなと史跡公園」があり、ここを曲がれば佐渡汽船の乗り場につながるという間違いなく集落いちばんの場所。
 そこにあった「赤泊観光センター」という名前のわりにはフツーの商店でコーラを買って飲み、ひと心地。
 では史跡公園を一巡りしようか。


 ところで、「たらい舟」というのは、そもそも漁に使うものだったのを観光体験できるようにしたもの。
 もともとは、狭く入り組んだ岩礁が多い小木海岸でワカメやアワビ、サザエなどを獲るために、小廻りがきき自由に操作できるように考案されたものが「たらい舟」だったようです。

 信じられないような話だけれど、なんと洗濯桶を改良して、現在のようなたらい舟になったのだそうです。洗濯桶を漁に使おうなんて、最初は誰が考えたのだろう。見ているといかにも危なげで、あれに乗ろうなんて思えないものですが、意外と安定感がいいのだそうですよ、これが。

 頭に佐渡おけさでおなじみの「すげ笠」をかぶり、かすりの上着を着た女船頭が漕いでくれる――というのがウリのようですが、私が見た経島・矢島の船頭さんは齢60ぐらいとお見受けしました。実際のところどうなのでしょう。

 写真は、小さくてよく見えないかもしれませんが、小木港の南埠頭でやっていた観光たらい舟体験の様子。
 力屋観光汽船の場合、湾内を軽く1周する5分ほどの乗船で500円? 貴重な体験になるとは思うけど、自分の場合乗ってみようとまでは・・・。


 小木の集落に戻ってきました。わりと大きな集落なので、少し街歩きをしてみることにしました。
 よく整備された広々とした港の一角に車を停めて、まずは佐渡汽船の乗り場や力屋観光汽船の発着所付近をチェック。よく晴れているけれども港周辺は風があります。発着所近くの湾内にも7~8漕のたらい舟が出ています。コンクリート岸壁近くで乗るのはどうなのだろうな、楽しいのかな。

 そこから国道350号線を経て宿根木へと続く県道45号線に入るとそこは、古い「街道」を彷彿とさせる、両脇にずらりと個人商店や家屋などが軒を連ねたいい道になっています。本音を言うと、ここを歩きたくて車を下りたようなものです。
 お休み処、手打ち生蕎麦屋、時計店、電気店、洋品店、バイク屋、理容店、惣菜屋、事務機器販売、竹細工屋、旅籠、お茶屋、履物屋、呉服屋、花屋・・・。くたびれた建物が多いけれども、ここに来れば一通りそろいますといったいい佇まいです。古い中にも何か、風格のようなものが感じ取れます。自分が育った町でも、昭和中期の商店街ってたしかこういう感じだったよなあ。

 小木は、佐渡金山の積み出し港として、またその後には北前船の寄港地として栄えた港町で、江戸初期から明治にかけては佐渡の「表玄関」として賑わった土地柄です。
 廻船問屋を中心に多くの商家が建ち並ぶ商売の地として、また、船乗りたちの遊興の地として栄え、町人文化を形成してきたといいます。
 そういうものがどこかに滲み出てくるものなのかもしれません。

 街道を歩きながらあちこちにカメラをかざしていると、とある店から出てきたおばあちゃんが「アレマ!」という顔をして、「何か面白いものでもあったかね」と話しかけてきました。「ここの雰囲気、とてもいいものですから」とか何とか返答したところ、なーにが珍しいのという表情のままではあるけれども、それとは何の脈絡もなくおばあちゃんが今思っていることを話し始めました。(笑)
 そうなあ、5分ぐらいは聴いていたかな。どうせこちらも先を急ぐ旅でもないし、人間の「想い」というものは人それぞれが持っていて、それらはどれをとっても重くて意味深いものだと思っているので、歩みを止めてじっくりと聴かせてもらったところです。


 さて、経島にあった「お光の碑」ですが、これは小木の伝説の「佐渡情話」にゆかりのあるもののようです。
 伝説の内容は、概略次のとおり。

 小木の漁師の娘であるお光は、佐渡に来ていた柏崎の船大工・吾作に恋をする。
 しかし、吾作は佐渡での仕事が終わり、帰ってしまう。
 お光は考えた末、毎夜たらい舟に乗って柏崎まで通う。
 はじめは楽しかった吾作だったが、実は妻子持ちだった。そこで、毎夜来るお光が恐ろしく感じるようになった。
 ある日五作は、お光が来る時間帯に、目印の常夜灯(灯台)を消す。
 目印を失ったお光は、やがて海にのまれ、死んでしまった。
 朝になって、お光の亡骸を見つけ、後悔する吾作。後を追い、吾作も海に身を投げ、死んでしまう。

 ――うーむ、情話ですねぇ。沖縄の「伊江島ハンドー小」や「恥うすい坂」の筋書きとも相通じるものがあります。
 同じ内容のものが、寿々木米若の浪曲「佐渡情話」で全国に紹介され、「お弁と藤吉の物語」と、登場人物の名を変えて語り継がれています。
 柏崎の番神岬、諏訪神社の境内には「お光・吾作の碑」があり、その隣りには与謝野晶子の「たらい舟 荒波もこゆうたがはず 番神堂の灯かげ頼めば」の歌碑があるとのことです。


 9月下旬まで書き続けていた夏の佐渡旅のドキュメントがしばらくの間滞っていました。旅から4か月が経った12月、続きを書き始めます。かなり記憶が薄れてきていますが、書き上げるまでがんばります。

 宿根木から小木方面に戻る途中、幹線道路から標識に従って右手の海岸方面に折れ、小木海岸の名勝、矢島・経島を見に行きました。
 道を下っていくと海沿いの小さな集落に入り、車同士がすれ違うのがやっとというような狭い道になります。これ以上進んでいいものかと思い始めた頃にようやく小さな入り江に到着。駐車スペースもそう広くない、矢島体験交流館という施設があり、たらい舟に興じている観光客が何組か。

 まずは小木海岸について。
 小木地区の城山から同地区の白木まで、約7kmにわたる小木半島南縁の海岸線一帯の総称で、国の天然記念物及び名勝にも指定されている景勝地です。
 地盤の隆起と沈降によって形成された段丘や溺れ谷を主体とした断層海岸特有の景観が見られ、大小数十の海食洞や波食痕、風食痕のほか、屏風岩、鉾岩などの奇岩があり、各所に枕状溶岩が存在するなど、景観美に加えて学術上も貴重なのだとか。
 その景観美の代表的なスポットのひとつが、元小木にあるこの矢島・経島なのだということです。

 幸いにも駐車スペースが数台分空いていたのでそこに車を停めれば、眼前には矢島・経島の景観が。ほほう、なかなかいい眺めではないか。ではさっそく両島を歩いてみることにします。

 岩の間に造られた石畳を進み、たらい船の遊覧者を見ながら太鼓橋を渡って、まずは経島へ。
 文永11年(1274)、日蓮上人の赦免状を持って佐渡に渡ろうとした弟子の日朗が途中で嵐に遭い、ここに漂着し、読経をして一夜を明かしたことからこの名前がつけられたのだそう。
 太鼓橋の手前には「お光の碑」。これは何? これは別項目を起こしてまとめることにしましょう。
 島の岩の頂上にはその日朗の石像が安置され、碑が建っているということですが、これは確認しないで来てしまいました。

 続いて矢島。体験交流館の前にあった「小木半島ジオサイト」の案内板によれば、経島と矢島は陸続きのように描かれていますが、どうなのでしょう。
 矢島は良質の矢竹を生み出したところで、島の山頂部には節の長さ、太さも同じ珍しい双生竹が自生していたそう。源頼政が紫震殿の怪物「ぬえ」を退治した時の矢は、ここの竹製だったと伝えられています。

 ぬえ退治の逸話そのものを知らなかったので調べてみました。それは「平家物語」にあります。
 近衛天皇の御世(1151~54)、天皇が毎晩何かに怯えるようになった。
 そのため、武士を警護につけることになり、源氏一門で武勇の誉れ高い頼政が選ばれた。
 ある深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、北東の方角より黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇の「鵺(ぬえ)」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留める。
 その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流したという。
 この鵺退治の功により朝廷より頼政に、名刀「獅子王」が下賜された。

 矢島の入口には木製で枯れた感じのする門があり、その先には庵のような建物がありましたが、あれは何だったのだろう。

 矢島からは対岸に「めがね橋」が架けられていて、それを渡って散策道を歩けば、見てきた経島・矢島とその内海が形づくる箱庭のような風景を眺めることができました。
 写真を見るにつけ、旅はやはり天候のいいことが何よりですね。

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 宿根木の集落をひととおりそぞろ歩いて、たらい船観光をしているくだんの入り江へと出てきました。そうだよな、ここに車を停めればよかったんだよな。知らなかったんだもんね、ここが集落入口だったって。
 でまあ、「宿根木海岸」の標識を、たらい船に興じている観光客を背景にして撮影。いい天気だよね。
 しかし、たらい船って、こんな静かな湾内でちゃぷちゃぷやる程度で、乗って面白いのかな。

 さあ、宿根木郵便局に戻ろう。もう集落のこちゃこちゃしたところへは戻らず、車の走る県道45号をぐいぐいと登って行くルートをとりました。こんなところを歩く観光客って、そうはいないぞ。
 歩けばかなり急な上り坂を息を上げて登って行くと、左手下方に今しがた見てきた宿根木集落の屋根屋根が見えてきました。ほほう、こういう景色も悪くないではないか。犬も歩けば棒に当たる、観光客も変なところを歩いていると思わぬいい場所に巡り合える、ということですな。

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 でもって、誰もこんなところを歩かないので誰も読まないだろうと思われる案内板を発見。それには昭和中期と思われる頃にこの場所から撮影されたと思われる宿根木の屋根屋根の白黒写真とともに、次のようなことが書かれていました。

 三崎の谷の中にこのような美しい村があろうとは、誰が想像出来ただろうか。
 旅人も児童生徒も、写真に収め、写生の対象にした。杉の丸太を薄く割り。屋根に敷き詰めた上に押さえの石を並べるという、何とも簡素な屋根であるゆえに美しい。
 佐渡に限らず海辺の屋根はこのようなものが多い。それは日本の漁村の原風景に溶け込み、自己主張している。
 宿根木では屋根に乗せる木羽(こば)を2~3年で差し替える。この役目はほとんど婦人の仕事であった。男は船に乗り、また船を造ることに命をかける。家庭を守る婦人も屋根に上り男まさりの仕事をしたのである。
 昭和30年代に婦人方の発案で瓦葺き屋根が普及した。このような時代の流れはあるが、美しく清潔な村は今も受け継がれている。

 うふふ、やったなあ。佐渡島観光客多しといえども、この光景に感動した観光客はその何百、何千分の一だろうな。
 で、戻ってきた宿根木郵便局。これも宿根木の建物を模してつくられていますね。

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 ところで、宿根木の成り立ち等について、もう少し整理しておきましょう。
 以下、よくまとめている「宿根木を愛する会」のHPから引用。

宿根木とは
 佐渡の文化は、俗に「国仲の公家文化」、「相川の武家文化」、「小木の町人文化」に大別される。
 国仲のそれは、中世の頃から配流の島となり、順徳天皇、日蓮、日野資朝、世阿弥など中央からの流人の影響で形成されたものである。
 相川と小木は、戦国時代から近世初頭にかけて、金山と廻船による商品経済への移行が佐渡を大きく変えて、金山直轄地の「相川」と廻船港「小木」を成立させた。



 宿根木は、「小木の町人文化」形成に先駆けて、中世の頃より廻船業を営む者が居住し、宿根木浦は、佐渡の富の三分の一を集めたと言われるほど栄えた。
 やがて小木港が江戸幕府によって整備され、商業の中心が小木港へ移行すると、宿根木の者は、船主が先頭となり十数人の船乗りと共に、全国各地へ乗り出して商いを続けた。村には船大工をはじめ造船技術者が居住し、一村が千石船産業の基地として整備され繁栄した。
 その時代の集落形態が今日見られる宿根木の町並みである。
 村を流れる称光寺川と平行し、数本の小路が海へ向かい、それに面して家屋が肩を寄せ合い建っている。約1haの土地に110棟の建造物を配置する高密度である。建物の外壁に船板や船釘を使ったものもあり、千石船の面影をしのべる。宿根木集落の特徴は、家屋の密集性にある。

 主屋のみならず、納屋、土蔵が林立する様は、廻船による栄光とその衰退、出稼ぎと農林漁業への転換という歴史を映し、建物の利用の変化を見せてくれる。
 質素で静かなたたずまいを保つ宿根木の町並みも、一歩家の中へ入ると目をみはるものがある。
 公開施設となっている「清九郎」家のごとく、くぐり戸を入った土間は、広くゆったりし、それに続く「おまえ」(居間)は、イロリを中心に広々している。また、赤黒く輝く溜塗りの柱、板戸、天井など、単に贅をつくしたとは言えない文化の積み重ねと生活の工夫のあとがうかがえる。
 宿根木の村へ入り、そこに身を置いた時、忘れかけていた集落の機能、捨てようとしても捨てきれない文化の重み、いつまでも持ち続けたい家と家族の絆。そんなことがゆっくりと、そして静かに語りかけてくる。

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建物の特徴
 宿根木の建物は、古くは平屋だったものを、階高を上げ総二階とすることで、接客空間を増やし、人が集まれる座敷を造ることを意識して体裁を整えていった。船持ちのような実力者がひとつの間取りを完成させ、次第に村内で取り入れられ流行していったと考えられる。
 これには、屋敷地の狭さといった立地条件や、海とともに暮らす生活条件などさまざまな要素が関連している。
 宿根木は、1haほどの狭い谷あいに家屋が密集しているため、ほとんどの建物が総二階建てとなっている。外観は日本海から吹き付ける潮風から建物を守るため包み板と呼ばれる縦板張りとなっている。簡素な外観とは対照的に、内部は漆をふんだんに使うなど豪華な造りとなっている。

 主に道具蔵として使用される土蔵は集落に26棟が現存し、一部に三階建ての土蔵も見られる。漆喰塗りの土蔵も全てサヤと呼ばれる杉板で覆われており、その多くが千石船で繁栄した幕末から明治にかけて建てられている。
 屋根は、かつては石置き木羽葺きであったが、江戸時代に石見瓦が、昭和30年代に能登瓦が廻船で運ばれた。現在、主屋や納屋の屋根約40棟が石置き屋根に復原されており、特徴的な景観のひとつとなっている。

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宿根木のあゆみ
 宿根木は海に向かって開かれた集落である。西廻り航路の寄港地であった小木港から南西約4kmに位置する宿根木は、江戸時代中頃から明治にかけて、日本海を舞台とする廻船業の基地として栄えた。
 当時の廻船業は、越後の米を西廻りで大阪へ運び、大阪で塩や雑貨を仕入れて北海道で売るといった速さではなく、多くの港に立ち寄りながら品物の価格差で商いを行う買積船であった。
 この頃の宿根木には120戸500人ほどが集住し、10人余りの船主のほか船乗りや船大工らが居住した。そのほか、四十物屋、桶屋、紺屋、鍛冶屋、石屋といった様々な職種が集まり、廻船業に加え造船基地として発展し、今に続く町並みの基礎を形づくっていった。
 家屋が密集する宿根木には、海に面した浜と谷奥に2つの広場を設けている。ほとんどの家屋は敷地いっぱいに建ち、小路と呼ばれる路地と接している。小路の大半は海に向かっており、大浜と呼ばれる広場に出るようになっている。
 これは、大浜がかつて千石船の荷揚げ場、造船場であり、長きに渡って遠く北海道や大阪へ通じる玄関口であったからである。
 もう一つの広場は、集落を流れる称光寺川の上流、現在宿根木公会堂が建つところにある。この場所は、明治初めまで称光寺の末寺4か寺を含む境内地であり、のちに旧岬村役場や小学校が開かれた村の中心地である。今も集落の拠り所として人々が集う憩いの場所である。
 この2つの広場を含む谷内と台地の高山、やや離れて東側の高台にある宿根木新田の3つの地区が千石船の航海を支える集落として形成されていった。以来、海に接する港近くが第一の土地として重んじられ、谷内、高山、新田と順に土地の優位性が生まれていった。
 時代は下り明治末年、蒸気船や鉄道が現れ電信の発達とともに、宿根木の廻船は次第に姿を消していった。多くの者は海を捨て、横井戸を掘り、高台に田地を開いていった。船大工は仕事を求めて集落を離れ、宿根木は出稼ぎの村となった。今は60戸180人ほどが静かに暮らす半農半漁の集落となったが、かつての賑わいは今も集落の至る所にひっそりと息づいている。


 ――というわけで、引用文の合い間に宿根木の風情が出ている写真を3枚入れておきました。
 よく残したなあと思う一方で、ここまで徹底してやることを私権の制限と感じている住民はいないのだろうかと心配になったり。だって、これらの建物の多くは人が住んでいるのですから。
 いずれにしても、第三者には見る価値は十分に伝わってきました。
 そして宿根木(しゅくねぎ)。重要伝統的建造物群保存地区となっており、事前情報としては、
 『江戸時代後期から明治時代初期にかけて廻船村として栄えたという。この時代に現在の宿根木の町並みが形成され、狭い路地には工夫を凝らした総二階の家屋が密集して建っている。
 千石船によって尾道から運ばれた舟つなぎ石や石鳥居などの集落内の文化財をはじめ、公開民家の清九郎家と金子家、その他にも集落の隅々に廻船業によって栄え形づくられた歴史と文化が色濃く残されている。』
――ということで、その街並みはぜひとも見なければならないなと思っていたのでした。



 たらい船観光している湾の前浜が宿根木集落の入口であることを知らず、一度その場を通り過ぎ、行き過ぎだと思ってまた戻り過ぎ、結局道沿いにある宿根木郵便局に車を停めさせてもらって、そこから歩いて巡ることにしました。
 郵便局の前の道路を挟んだ山手側に、集落へと下りていく「十王坂」があったので、そこをビーサン履きでぺったらぺったらと下りていきます。
 300メートルぐらいかな、下っていくと宿根木の集落に到着。

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 まず目についたのは、「宿根木公会堂」と「白山神社」。
 公会堂は、昭和モダンといった印象でこんな感じ。昭和33年建築の芝居小屋形式の集会施設で、大正期に建てられた旧公会堂と位置・規模など、ほぼ同じに建てたのだそうです。
 一方の神社は、ここも白山神社かといった感じ。集落の最も奥まったところに鎮座しており、風水にもかなった場所なのかもしれません。備え付けの看板によれば、嘉元2年(1304)の創建、海中から上がった仏菩薩を産土神(うぶすながみ)として祀っており、今に残る本殿棟札には寛文元年(1661)建立とあり、大工は若狭小浜の牛田治兵衛と記されているとのこと。また、1961年の大雨で倒壊し、翌年に建て替えられたものの、本殿の厨子は幸いにも無傷だったとのことです。


 宿根木に向かう途中、「佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館」に寄ってみました。
 1920年に建てられた旧宿根木小学校の木造校舎をそのまま残して活用した博物館で、館内には民俗資料を中心に3万点余を展示。そのうち南佐渡の漁撈用具1,293点、船大工道具1,034点は国の重要有形民俗資料に指定されているのだそうです。

 民俗資料もさることながら、ここいちばんのウリは復元された千石船でしょう。約150年前に活躍した千石船「白山丸(はくさんまる)」を実物大に復元し、公開しているのです。千石船の実物復元船は国内初だそうです。
 その千石船は、ご覧のとおり大きな屋根付きの室内に保存されていて、その内部も見られるようになっているようです。ウェブなどでは外で帆を張っている白山丸の写真を見受けますが、これは毎年7月に開かれる「白山丸まつり」のときのことで、屋内展示が常態です。
 で、入場料を払わない人が見られるのは、写真を撮ったこの場まで。写真の手前にはロープが張られて、これ以上進んではいけませんからね、ちゃんと入場券を買って入ってねと。
 まあ、船の中にまで入ってみたいという気はあまりなく、その姿が見られればそれでいい。また、数々の古物を愛でる趣味もない。そして、ゆっくり眺める時間も持ち合わせない。ということで、500円をケチって入場せずに終わりました。

 それよりも興味が行ったのは、手前駐車スペースの中ほどにあった木立の脇の碑。これには「千石船白山丸建造之碑」と刻されており、次のように記されていました。

千石船白山丸建造之碑
 千石船の復原を発起したのは、宿根木がかつて廻船業と船大工の村として隆盛をきわめたからである。
 幸いにも佐渡國小木民俗博物館に沢山の資料があり、日本海事史学会会長 石井謙治先生の指導を得て歴史的に忠実な復原方針が決まった。
 事業主体は小木町である。調査考証設計監理はTEM研究所、施工は気仙船匠会はじめ町の船大工や諸職人の皆さんである。村人も微力ながら帆布や索具造り、帆柱や仕上げ材の提供、炊き出し等お手伝いさせて頂いた。こうして日本で始めて実物大の千石船ができた。
 思い起こせばこの運動が進んだのは之も偏に皆々様の多大なご支援とご寄付があってのこと、伏して謝意を表す次第である。併せて先人の労苦を偲びつつ、今後の村造りの進展と交流の大ならんことを祈念し、碑を建立する。
  平成10年12月吉日  宿根木千石船復原建造推進協議会

 復元に至った経過の大要がつかめました。